現代文学において、ポストモダン時代における視点の狭隘化という現象が目立つ。読者それぞれの問題意識の在り方によって、テーマ意識が専門家し、細分化しつつある。そこでここでは、心理描写と文体論の面から、 三田派の作家・文芸評論家の北原武夫(1907〜1973)の評論で、伊藤整(1905〜 1969)の小説『氾濫』を論じたものを、ここにピックアップしておきたい。いわゆるプレ・ポストモダン時代のひとつの文学論である。
  北原武夫【昭和32年】「伊藤整『氾濫』をめぐって」(北原文学全集・第五巻収録より)
 (前略)特に僕に興味があるのは、長い間氏の中で分裂していた、批評家としての分析力と作家としての観察力とが、ここで漸く一つの総合点を見出し、今までの日本文学には見られなかった新しい小説造型の一見本を呈出している点で、いろいろな意味でリアリズムという十九世紀的描法からどうしても脱し切れないでいるばかりか、一種の日本人気質から、最近では特に文体というものを蔑視しがちな日本の文壇にとって、それ自体大きな功績ではないかと思う。
 (中略)この小説の面白さの一つは、実をいうと自己の新しい手法に対するこの作者の自信が、回を重ねるごとに深められて来ている点にある点にもある。
 (中略)小説の新しい手法などは、無論はじめから確率されるものではなく、ジイドも言っているように、「作品を書くという行為によって」「書きつつある間に、そして書いたあとで」発見されるものであり、伊藤氏も恐らくこの作品を書き進めている間に、漸次その核心を深めていったに違いない。そのあとが、一号ごとに歴然と見えているのである。
 そこが今言ったように、僕には別の面白さなのだが、ここで大切なことは、この手法そのものに対するこの作者の自信は、この作に着手する時既に、この作者の胸奥にあったに違いないということ。作者はそれを実践した。作品は幸いに成功した。作者の意図したとおりに軌道に乗り、従来の小説には見られなかった新しい小説造型の一典型を創り出した。同じ作家として羨ましい話だが、作者としてはまことに欣快にたえないに違いない。
■関連情報=伊藤整『氾濫』にみる近代小説の到達点は、どこに埋もれたか