IMG_20180106_0001_1IMG_20180106_0001_2<文芸同人誌「アピ」8号の表紙。絵・宇田三男「光風の筑波」と、田中修氏と同行者がたどった経路の記事。日本橋―二里(7.9キロ)―千住橋一里十九町(6キロ)ー新宿一里三十町(7.2キロ)松戸宿― 一里二八町(7キロ)-小金宿-二里二一町(10キロ)-我孫子宿 一里十八町(59キロ)など……>
 地域を拠点とする文芸誌「アピ」8号(発行=茨城県笠間市平町1884−190、文芸を愛する会)には、田中修「旧水戸街道120キロを歩く」というレポートが掲載されている。
 水戸街道は、東京「日本橋」(東京)を起点として、「水戸」(茨城県)まで120キロ、その間19の宿場があったとある。「江戸時代の水戸藩士は、土浦宿と小金宿(千葉県)に宿泊し、2泊3日で水戸と江戸間を歩いたらしい。水戸の人達は水戸街道を江戸街道と呼んでいた」とある。≪参照:旧水戸街道
 筆者の田中修氏(本誌編集者)とは、かつて文学フリマに参加グループとして知り合った。この旧水戸街道の全行程を自分の足で歩きながら、歴史文学とどのようにかかわっているかを確認したという。
 期間は平成26年5月から28年3月で、何回かに分けて行った。同時に、この企画には同人仲間の飛田氏、途中からは文学教室仲間が加わったという興味深い記録である。
 水戸での正岡子規の足跡、長岡宿の水戸志士の刀跡のある伝統ある木村家が、東日本大震災で建て替えをした話など、行く先々での宿場のエピソードが満載である。
 実は私の母の実家が筑波の高須賀にあり、戦争中には、母と子供たちは、そこに疎開していた。しかし、土浦の施設を狙った米軍機の機影は見えて桑畑の中に隠れたが、空襲は免れたようだ。戦後は、母やと私たちに会いに、父親がリヤカーを引いて水戸街道を通ったそうである。
 戦後も、夏休みになると、わたしは大森から高須賀まで、汽車に乗った。上野から常磐線で汽車、取手から水海道に行き、三妻とかいう駅で降りる。そこから歩いて小貝川を渡る。そこで通行料を払う。もうひとつのルートは、上野から牛久駅まで行く。そこで、バスに延々とあちこちを寄って、筑波山の山を見ながら、高須賀のよろずや前で降りる。
 本誌の紀行文で、記憶の下層に沈んでいたさまざまなことを想い浮かべた。いずれにしても、地域の歴史と現在を味わい確認する作業によって、読者の広がりをはかることも可能であろう。
■関連情報=大友章生「帰れない現実」原発被害者の声!同人誌「アピ」4号
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