IMG_20180118_0001_1<「ら・めえる」75号に掲載の評論・宮川雅一「終戦直後に斎藤茂吉の書いたハガキ」のコピー。>
 ながさき総合文芸誌「ら・めえる」(長崎ペンクラブ)には、歌人の斉藤茂吉が、長崎原爆投下後、敗戦間もなくに長崎在住の知人に便りをしていたことが資料として掲載されている。
 これは、同誌の宮川雅一「終戦直後に斉藤茂吉の書いたハガキ」という評論。それによると、本誌の編集責任者である新名則明氏が、長崎の富豪で芸術愛好家の永見徳太郎(1980〜1950)の業績を研究している関係で、その資料が長崎図書館に所蔵されているのがわかったのだという。新名氏からコピーをもらい、そのハガキの検証を行っている。
 米国によって広島につづき長崎に原爆が投下されたのは8月9日。8月15日に日本が無条件降伏。敗戦となった。それからひと月後の昭和20年の9月に、斉藤茂吉が使った手紙は、罹災によって、昭和20年6月に山形県南村山郡に転居通知の葉書を利用して便りを出していることがわかった。
 評論によると、茂吉は、昭和21年(1946)8月、戦争で遅れていた第三歌集「つゆじも」を岩波書店から刊行したが、敗戦から約1カ月後のこのころすでに、その準備をしていた事実がわかるという。そのほか、茂吉の長崎人との交流による短歌も紹介されている。――今年は茂吉の初来崎百周年だという。長崎と茂吉との強いつながりを多くの人に知って欲しいとある。
 そのほか同誌には、巻頭文の田浦直【ポンペが泣いている】がある。これは、まだ長崎奉行の存在した時代の小島療養所の遺跡が佐古小学校跡から出てきた。これは1857年、オランダからやってきたポンペ ファン メーデルフォールトという軍医が医学校を政府に開設させ、養生所、分析窮理所などをつくり、長崎大学医学部の前身となったものだという。ポンペは医学生の育成のほか、養生所では1万4千人強の患者を治療し、コレラや梅毒の上陸を阻止したという。しかし、その遺跡は土木工事で破壊されており、ポンペに申し訳ないという筆者の心情がのべられている。
 その他、佐藤泰彦【ちょこっと長崎ファースト供曚任蓮⊃邑減少社会での長崎市の将来を憂いている。
 さらに西口公章「長崎県の戦時型機帆船建造史 3」は、戦時中の造船所の機帆船の製造過程と素材など、筆者の取材写真などを入れて、貴重な調査資料となっている。