『たとえば、少しも精神に異常のない男が勤め先がひけて家に帰ると、いきなり妻を射殺したというような事件の生じたとき、新聞はただそれだけの記事を掲げる。
  しかし、正気な男がそんなことをする筈がないということは常識でも判断がつくから、この記事だけみたのではその男の心理に対して一種の疑念の起きるのを抑えることが出来ない。この疑念を抱かせる限り、その報道はたとえその事実を語ったものだということは出来ても、断じて真実を語ったということは出来ない。この話を真実とするつもりならば、書き手は、まず事件をこのような結末に導かざるを得なかった原因のすべてを究明することがなにより大切である。事実が我々にしっくりと合点がゆくまで了解されて、はじめて真実となる』
  この項は、木村毅著「小説研究十二講」という古い本にあったと記憶している。その本の旧さからして、おそらくこの考えは、徳田秋声が活躍していたのと同時代の見識であったろうと推測した。
また、これも記憶によるが、モーパッサンは頼まれて、作家志望者の作品を読んで指導をすることがあったらしい。その時、あまり感心しない浮いた部分があると「これは、さぞかし実際にあったことなので、このように書いたのでしょうな」と皮肉を言ったというエピソードを読んだことがある。
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  文学作品では、たとえそれが事実あった出来事でも、読者が納得して受け取ることがないと、それが良い作品と評価されない。
  もしそれが、裁判であるなら、事件の事実を確認し、争う場合には証拠を示すことで、事実が証明されるのである。裁判の判決で、被告人の証言で、それが非常にくわしく細部まで説明しているので、それは信用できる、と考えたとしたら、それは世俗的な現象であるにすぎない。
  作家は、現実にはありえないことを、ウソであるがゆえに納得させるために、細部までくわしく説明する。作家はウソほど力をいれて仔細に描写するであろう。
  冤罪事件において、多くの事例が、犯人の供述が非常に詳しく説明されているため、かえってその証言の誤りを検証しやすくしているという現象も起きる。
  物事において、起きた現象の『事実』があるとすれば、それは変化しない。しかし、『真実』は時代や環境によって変化する可能性がある。ある人にとって、神や霊魂の存在は「真実」であるかもしれないが、事実かどうかはわからない。ガリレオ以前の地球は宇宙の中心にありそれは皆が納得する『真実』であった。しかし、現在はそれを「真実」とはしていない。
  このことは時間について考えることもできる。何か夢中になっている時の時間は短く感じる。ただ待たされている時は、長く感じる。時計の示す時間は「事実」であり、延びたり縮んだりする気持ちの時間は、事実と異なっても「真実」である。 
  当然のことであるかも知れないが、秋声はここで、この小説によって『事実』より『真実』の姿を描く可能性を示唆している。事件をただ語るのでなく、仮装的存在の人間像を描いて、文学的成果を上げようという意図が見える。(つづく)
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☆本評論は、文芸誌「みなせ」84号に評論「 徳田秋声「仮装人物」が描きだした山田順子の人間性」として一挙掲載したものの分載です。