それから約十年後の昭和十三年。秋声の代表作となる「仮装人物」が刊行された。順子との恋愛体験の全容を描いたこの傑作は「自然主義の極致」と評され、この作品によって第一回菊池寛賞を受賞する。そこにはかつて訪れた本荘の情景も描写されている。「山田順子研究」の著者である高野喜代一さん(七十六歳)=本荘市石脇=はその意義について「順子に対する評価はスキャンダラスなものでしかなかったが、『仮装人物』は彼女が残してくれた貴重な財産だ」と強調する。
 秋声はいわゆる「順子もの」と呼ばれる約二十編の作品群を残している。昭和十年に筆を執った「仮装人物」は「順子もの」の集大成と言われている。秋声の作家人生もまた順子なくして語れないのだ。
 一方、順子は秋声と別れた後、文壇の表舞台から遠ざかっても書き続けた。銀座で小さなバー「ジュンコ」を開いていた時も、仏教に帰依した晩年も、文学への執着心が途切れることはなかった。順子のおいに当たる山田寛さん(七十四歳)=歯科医師、本荘市中堅町=は、順子が終戦間近の昭和二十年に本荘に疎開して来たことを覚えている。「あか抜けた人だった。家では、ほとんど原稿用紙に向かっていた」
 昭和三十一年夏にも前触れもなく本荘に帰省しているが、その際、市役所に同じ古雪出身の佐藤憲一市長(八十三歳)=当時=を訪ねている。佐藤さんは「順子は古里を懐かしがっていた」と述懐する。 昭和三十六年八月、順子の波乱に富んだ人生は六十歳で幕を閉じた。最後まで書くことに執念を燃やし続けたものの、ついに開花することはなかった。晩年は決して恵まれた境涯ではなかったが、「自分の思う通りに生きた人だと思う」と寛さんは言う。
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 前記の経歴からすると、山田順子が経済的に余裕のある家庭に育ったこと、本荘の男友達と同人誌を発行、リーダー的存在であったことがわかる。この時期に村で噂の種になるほどの恋愛ごとをし、自らの美貌の威力とその「価値」を実感する出来事でもあったのであろう。「仮装人物」なかにも、それを示唆する話が折り込まれている。
 彼女の経歴のなかには「前記の病身の父親に孫をみせるという役目」を果たすために結婚したとある。親というのものは、自己を全的に受容する重要な存在であり、その期待に応えようするのは、平凡であると同時に、自然であった。
 ラジオ放送や、週刊雑誌の創刊など、メディアの発達しつつあった当時、美人コンテストで一等を獲得した彼女が、都会の表舞台に出て活躍してみたいと、思うのは自然である。
 それが文学芸術「私小説」と結びついたのは、私小説が純文学として隆盛していた時代であったからだろう。私小説が「私」を語ることであるならば、彼女は材料にこと欠かないと思ったのであろう。まさに美貌の肉体の「価値」は、男に対しては貨幣のように共通の流通性を持つ。男遍歴は、その証明であり、その経過を描くことで、彼女は主体的立場も確保できるのであった。美人はどの地域にも幾人かは存在したはずで彼女だけではない。(つづく)
  ☆本評論は、文芸誌「みなせ」84号に評論「 徳田秋声「仮装人物」が描きだした山田順子の人間性」として一挙掲載したものの分載です。