<小織田信長。肖像画は作者筆>
美濃〔岐阜県)の東濃地方〔多.治見市.土岐市、瑞浪市、可児市}は、古くからやきもの(陶器.磁器)の生産地でありました。
この地方が、わが国の陶器団地として発展をしてまいりましたのは、安土・桃山時代(1537〜1600)当地方をおさめていた、戦国武将・織田信長(1534〜1582)によるものであります。
また、斯かる人材を見出したのが、世に梟雄と伝わる斎藤道三(1494=1558)δでありますから、道三から話すことと致します。
道三は、明応三年(1494)に生まれ峰丸、いっとき寺に入って法蓮坊。永正十一年(15415年)還俗して松波圧五郎を名の.り、.天文十二年(1543.〕には大桑城を攻め、これを落として土岐氏から覇権をうばい、岐阜の金華山(392メートル)に稲葉山城を築いて、美濃をおさめるも、尾張〔愛知県)の織田信秀(1510〜1551)に攻められて苦労する。
道三は城下に「楽市楽座」を設けて、市井の繁栄をもたらす。また、「道三窯」を他国から陶芸の職人を引きぬき、その名も尻毛又丸と仮名させ、やきものの生産をおこなう等、商業経済にも敏腕をふるっていた。と思われます.。
天文一七年(1548)道三は尾張の織田信秀と和睦する。このとき信秀の長子である信長の奔放な性格にほれ、娘の濃姫を嫁がせることとしています。
自らは稲葉山城を斎藤義龍にゆずり引退いたしますが、折り合い悪く。弘治二年(1556)美濃は娘むこ、つまり織田信長にゆずる。という遺言状をのこして、道三と義龍の父子は長良川で合戦。このとき道三は敗死いたします。義龍は美濃一国を領しますが、美濃進攻をはかる織田儒長とたたかい病死いたしました.
一方、織田信長は天文3年(1534)に生まれ、永禄三年(1560)は桶狭間の戦で、今川義元を破り、清洲城にあって尾張をおさめていたとき、永禄六年(1563)当時、やきものが経済産業の上で重要とかんがえて信長は「瀬戸六作」を選びました。
すぐれた陶工(現在の無形文化財保持者)をして、産業の技術振興をはかる。ということであ.ります。
また永禄十年(1567)には、さきの稲葉山城を岐阜城とあらため「天下布武」を、宣言し城下に「楽市楽座」を設けました。(つづく)
<久野治プロフィール=中部ペンクラブ理事。古田織部研究家。1923(大正12)年1月1日岐阜県多治見市で生まれる。1937(昭和12)年4月三菱電機(株)名古屋製作所に入社。1983(昭和58)年定年退職。以後、著述業(ORIBE研究家)として、古里(岐阜県)が生んだ謎の武将茶人・古田織部(1544‐1615)の生涯と、その芸術(オリベ焼)の探求に努める。その結果、1997(平成9)年、ときの岐阜県知事・梶原拓氏の着目されるところとなり、岐阜県として古田織部の改革精神(イノベーション)を「オリベイズム」として採択。同年、国際的視点に立って「織部賞」を制定。古田織部発掘の功績より、第一回「特別功労賞」受賞。>
(注)本論は文芸誌「弦」第110号に掲載された評論を分割編集し連載したものです。<「弦」公式サイト>の第110号で全文が読めます。
評論「美濃焼について」(2)=久野治・ORIBE研究家
評論「美濃焼について」(3)=久野治・ORIBE研究家
美濃〔岐阜県)の東濃地方〔多.治見市.土岐市、瑞浪市、可児市}は、古くからやきもの(陶器.磁器)の生産地でありました。
この地方が、わが国の陶器団地として発展をしてまいりましたのは、安土・桃山時代(1537〜1600)当地方をおさめていた、戦国武将・織田信長(1534〜1582)によるものであります。
また、斯かる人材を見出したのが、世に梟雄と伝わる斎藤道三(1494=1558)δでありますから、道三から話すことと致します。
道三は、明応三年(1494)に生まれ峰丸、いっとき寺に入って法蓮坊。永正十一年(15415年)還俗して松波圧五郎を名の.り、.天文十二年(1543.〕には大桑城を攻め、これを落として土岐氏から覇権をうばい、岐阜の金華山(392メートル)に稲葉山城を築いて、美濃をおさめるも、尾張〔愛知県)の織田信秀(1510〜1551)に攻められて苦労する。
道三は城下に「楽市楽座」を設けて、市井の繁栄をもたらす。また、「道三窯」を他国から陶芸の職人を引きぬき、その名も尻毛又丸と仮名させ、やきものの生産をおこなう等、商業経済にも敏腕をふるっていた。と思われます.。
天文一七年(1548)道三は尾張の織田信秀と和睦する。このとき信秀の長子である信長の奔放な性格にほれ、娘の濃姫を嫁がせることとしています。
自らは稲葉山城を斎藤義龍にゆずり引退いたしますが、折り合い悪く。弘治二年(1556)美濃は娘むこ、つまり織田信長にゆずる。という遺言状をのこして、道三と義龍の父子は長良川で合戦。このとき道三は敗死いたします。義龍は美濃一国を領しますが、美濃進攻をはかる織田儒長とたたかい病死いたしました.
一方、織田信長は天文3年(1534)に生まれ、永禄三年(1560)は桶狭間の戦で、今川義元を破り、清洲城にあって尾張をおさめていたとき、永禄六年(1563)当時、やきものが経済産業の上で重要とかんがえて信長は「瀬戸六作」を選びました。
すぐれた陶工(現在の無形文化財保持者)をして、産業の技術振興をはかる。ということであ.ります。
また永禄十年(1567)には、さきの稲葉山城を岐阜城とあらため「天下布武」を、宣言し城下に「楽市楽座」を設けました。(つづく)
<久野治プロフィール=中部ペンクラブ理事。古田織部研究家。1923(大正12)年1月1日岐阜県多治見市で生まれる。1937(昭和12)年4月三菱電機(株)名古屋製作所に入社。1983(昭和58)年定年退職。以後、著述業(ORIBE研究家)として、古里(岐阜県)が生んだ謎の武将茶人・古田織部(1544‐1615)の生涯と、その芸術(オリベ焼)の探求に努める。その結果、1997(平成9)年、ときの岐阜県知事・梶原拓氏の着目されるところとなり、岐阜県として古田織部の改革精神(イノベーション)を「オリベイズム」として採択。同年、国際的視点に立って「織部賞」を制定。古田織部発掘の功績より、第一回「特別功労賞」受賞。>
(注)本論は文芸誌「弦」第110号に掲載された評論を分割編集し連載したものです。<「弦」公式サイト>の第110号で全文が読めます。
評論「美濃焼について」(2)=久野治・ORIBE研究家
評論「美濃焼について」(3)=久野治・ORIBE研究家
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