IMG_20220620_0001_1<総合文芸誌「ら・めえる」第84号(長崎ペンクラブ発行・令和4年5月15日)。表紙絵「自然との対話」大林純子。本誌に城戸知惠弘氏の評論「県政史上初の『異端』の公共事業『石木ダム』」が掲載されている。>
 異常気象によって洪水やがけ崩れなどの自然災害が起きている。これに対し、国家は公共事業として、治水対策を行ってきた。そこには。国民のための公共事業であることの旗印のもと、官僚の考える利害、地元自治体の対応による利害関係などにより、受益者と同時におおやけ(公)の名による犠牲者が生じる。ここでは、国民が全体権力の抽象化となり、個人を諸国民と表現できる。
 城戸知惠弘氏の評論「県政史上初の『異端』の公共事業『石木ダム』」には、この政策によって、国民の公益と諸国民としての個人の関係の現場の諸問題が、歴史的に論じられている。これは、単なる石木ダムの問題だけでなく、全国の各地の公共事業に共通する歴史につながるものがある。
 そこで、諸国民としての城戸氏の思想に根差した城戸氏の長編評論を、抜粋して紹介してみたい。
 城戸氏の思想は、「序章」によって明確に示されている。
 ーー「国」及び「県」にあって、行政の「継続・断念」と「新しい道の探索」は、政治家自身にとって、時には骨身に堪えられない程の痛を生む。.そこには、社会状況の変化・時勢に合わせての決断と政治を司る政治家の信念と叡知が求められる。言うに易く行うは難しが政治の道である。
 特に長期にわたる住民との関係-政治的意思決定の遅延などを含め、キャンセル出来るような制度設計が求められる.時代変化の激しい状況下では、「タイムスパン」を設けた公共事業の在り方が検討されなければとも思う。ーーと、一度決めた国策は、状況の変化に対応できないことへの欠点を指摘する。そして、半世紀前に起工計画された<石木ダム>は、現在ダム本体に着手された本工事を前に、土地・家屋等の収用にむけて「行政代執行」という知事の有する権限が発動される状況下にある。川原地区13世帯50人の生活権が、奪われようとしている。反対同盟の座り込みを続けている松本マツ(95)さんの言葉を取り上げている。ーー「名前がマツじゃけん、私が最後を見届けんばいかんとかね7・]と笑いながら、こう漏らした。「お金(補償金)はもらえぱ終わりじゃんね。今さら、どこに出て行くね?」(2021(令和.3年12月29日付・取材ノートの原口記者・朝日)は、このように書いていて読む人の胸を刺す。ーー昨年の晩秋の暮れ近く、筆者は現地を訪ね、誰もいない団結小屋の前を行きつ.戻りつつ、反対同盟の苦労を想った。ーーと、個人として無視される諸国民の立場に、心を寄せるののである。そこから、日本の弱小性から抜け出すための国の政策をを語る。
 ーーー欧米諸国の杣民地化の累卵の危機を逃れ、近代国家に衣替えするためには、都市の人口集中に傾斜し、商工業の近代化、それに伴う道路・鉄道・港湾.通信、の他手工業からの脱皮、資本の集中.集積によるエネルギー(電源)、飲料水、工業用水等のため<ダムの建設>が急激に求められた。
 それがためには、ダムの建設は国道・鉄道の整備と共に、日本資本主義の基底とも言うべき国家事業の一環であった。都市住民の「飲み水」と共に「鎮台(師団)・陸軍」「鎮守府・海軍」の水源確保とも併行していくのである。(中略)
ーーこうした国家の歴史に沿った視点が、この優れた評論の堅固な柱をなしている。(つづく)
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《「ら・めえる」第84号のその他の掲載作品=「英里奈の、とあるストーリー」山ぼうし。「音感と予兆」遠藤博明。「アメリカの影」吉田秀夫。「隠れキリシタンの里を離れて」熊高慧。「夢の如くにて御座候(その3)」新名規明。「日本、そして愛に導かれて」津嘉山絵里。「村の記憶」山本正興。「八十路を越えて(7)」田浦直。長崎生まれの富士講の元祖」皆川雅一。「「韓国に残る日本式の城 熊川城と安骨城」草場里見。「天成の芸術家・中村三郎の生涯(その4)」久保美洋子。書評「人新世の『資本論』」(斎藤幸平著)」長島達明。評論「日本は奪わず与え続けてきた」藤澤休。「長崎県の戦時型機帆船の建造史(10)」西口公章ーーーなどが注目される。》
■関連情報=ヤフーニュース・「ここが沈むとは思ってない」 長崎県・石木ダム計画の問い(2018/07/26)