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復刻「文芸研究月報」

現代若者の日本語感覚と話し言葉を小説に使う場合《金田一秀穂》4

040910「有鄰」【吉本ばななの文学/若者の話し言葉的文体の開拓者】《金田一秀穂》
 日本語研究の金田一秀穂・杏林大学外国語学部教授が、現代の小説の文体が話し言葉に一致してきているかどうかを、吉本ばななの文体で検証する論「ばななの日本語」を寄稿。なかで、伝統的な文章作法では、擬音語や擬態語を頻繁に使うことは、文章を安っぽくさせ、品位を落とすと、否定的であった。井伏鱒二の作品には、ほとんど使われていないと指摘。
 しかし、吉本ばななの文体を「キッチン」で見ると、「冷蔵庫のぶーんという音が、私を孤独な思考から守った。」「まず、台所へ続く今にどかんとある巨大なソファーに目がいった。」「濡れて光る小路が虹色に映る中を、ばしゃばしゃ歩いていった。」
など、擬音語をひらがな化して躊躇することなく使用している。
 これは、自己の感覚をそのまま言語音に変換させたもの。分節性、理論性をもたない、意味性を説明しにくい事柄。
 文章家であれば、そのような得たいの知れない感覚を無理やりにでも言語化するのが、技の見せ所であり、それこそが小説言語の成すべきことと考えられていて、擬音語、擬態語でなにかを表すことは、幼稚な方法であるとされてきた。その他、「よく」という話し言葉で使用される言語の文体への多用、縦書きのアラビア数字の使用、同じ言葉を繰り返すこと、文体の突然の変化など、伝統的な文章作法でタブーとされていたものを、気にかけないことで、現代若者の日本語感覚と思考方法の特徴を示しているとする。 ―「文芸研究月報」2004年10月号(通巻46号)より―

文芸情報紙発行からジャーナリストへ(PJNEWS回顧)4

 私が文芸情報を集めだしたのは、たしか何か調べたいことがあって、それに関するひと月前の記事掲載日をN新聞社に問い合わせたことから端を発していると思う。その時に、電話をたらい回しされ、1時間もかかった。
 それに懲りて、気になる新聞記事やTVニュースがあると、その掲載日や放送日をノートにとっておいた。ついでなので、短い概要をメモしてワープロに入れるようになった。当時はNECの「文豪」を使っていたので、それには記事に記号をつけて番号を振っておくと、その記号だけをソートできるツールがあった。ジャンル別に記号を変えて、番号をつけることを思いついた。それを1ヶ月続けると。400字原稿用紙40枚以上になる。
 あくまで自分専用のノートであったが、それを見て「意味不明」とほしがらない人もいたが、自分も欲しいという人も出た。そこで会費をとって欲しい人に配布しはじめた。最初は、既存のメディアの整理であったが、そのうちに情報提供者もあらわれ、自分で取材するようになった。それがいつの間にかジャーナリスト活動に広がっていったのであった。そして企業や経済団体から月報の編集ノウハウや編集そのものをして欲しいという依頼がきはじめた。最初は、文芸関係の情報を集め、分析して作家活動を強化するつもりでいたが、経済記事のほうが、簡単で収入に結びつくと思った。実際、原稿料の単価は悪くなかった。
 そのころライブドアの当時の堀江社長が経済新聞を出すがその前にネット新聞をやるという。たしか8000円の手数料をはらって六本木ヒルズに行った。そこでPJNEWSの記者契約をした。
 当初の記事は次のようなものであった。
事業再生士の認定制度設立へ
 次の記事などもそうであるが、これは現在のPJNRWSサイトが記者名を間違えている。
倒産の“質の変化”を読む=帝国データバンク(上)

「文芸研究月報」のはじまりから4

(2004年1月号「文芸研究月報」後書きより)本紙は文芸時事の記録を軸に編集しているので、2003年回顧のある今号が実際の締めくくりです。これから、2004年にむけて出発をします。当初は4頁から出発し、会員読者も4、5人でした。一応、印刷をしているのだから、もう少し読者をつくろうと、昔の高校時代の同級生にまで会員になることを要請したものです。すると「いらないよ。なんで、こんなものが必要だと思ったのか」と反論され、返答に困りました。たしかにそういわれれば、自分の趣味ノートに記録していたものを、ワープロ化しただけです。漠然とあったら便利だろうと思っただけのこと(自分の思い込みにかなり強くとり憑かれていたらしい)。出来上がったのを読み返すと、自分では面白くて意味があるように思えて仕方がありません。とにかく、1年間はやってみる価値がある、と再び思い込みを強めた結果がなんとなく4年目になりました。その間、ガン宣告を受けて2回入院手術をしました。この話をすると、ガンになったらからこんな事を始めたと解釈する人がいます。確かにそうであればもっともらしい理由になるなとは思いますが、そうでないから、説明がしにくい。ただ、入院しても発行を続けられたのが、自信になったことはたしか。そのうちに読者会員が増え、かなり発行に義務感がでてきました。また、ガン細胞はじつは良性の腫瘍かもしれないと要監視状態になりましました。最近は、会費で印刷経費がまかなわれるようになりました。そうなると、自分の趣味を人様に押し付けているのではないかという疑問がないこともないのですが、あまりこだわらずに、お気楽なところが、継続させる要因のひとつかも知れません。

「素直な心」菊池寛の「日本文学案内」(2)4

二、素直な心
 文学がひとり文学者のためにあるとは誰も思うまい。古今東西の傑作は世界の色々な人に読まれ、愛されて、現代まで残っているのである。文学を志して、名を竹帛(ちくはく=歴史の本に名をとどめること)に垂れようと思う人はあるだろうが、そう思い通りに歴史には残らぬのである。では、誰がダンテやシェイクスピアを今日に残したか。それは只時代から時代へ、あらゆる階級を通じて、人々がその作品の魅力につられて、読んだだけのことである。いつになっても読者が絶えぬということが、畢竟作品が後世に残るということである。
 作者は心血を注いで書いているかもしれないが、読者は無責任で、冷酷だ。だが、古今の傑作はこの無責任で冷酷な読者を感嘆させたからこそ現代に残っているのである。独りよがりの小説や、人に感動を与えぬ小説なんか、いくら書いても徒労である。また読者は作家がどんなに苦労をして書いたかとか、どんなに急いで書いたとか、そんなことに同情を持ったり、推量する必要はない。益々気儘で、無責任で、冷酷であれば好い。
唯一番大切なことは素直な心を持たねばならぬことだ。これは文学の鑑賞に当たっても、また文学を創作するに当たっても大事なことだ。
幾ら雑誌や新聞の文芸欄を熟読して、文壇の事情に精通しても、文学は解からぬのである。虚心坦懐に対象にぶつかって行き、物象を眺める境地を養わなければならない。素直になるということは一見平凡なことに見えるかも知れないが、仲々生優しい修業ではない。殊に生活上に色々苦労した人は、世の中の非常な圧力に自己が押しつぶされないように自己を守るか、または自己を押し通すために無理な力を尽くしている。
 それで社会に対する抵抗力は養いえたかも知れぬが、偏見にかたまる怖れは充分ある。自分の意に添わぬ事象には眼を止めなくなる。
 学ぶに足るものに対しては一瞥もくれなくなる。
 斯くして素直な心は失われてしまうのだ。
 ジイドは「人間の理智は誤謬の裡に迷い込むことを何より悦ぶらしい」と例の逆説的な言い方で言っているが、複雑な社会に生きて、色々な環境に育って行くと、素直な心はいつの間にか、誤謬の裡に迷い込み、偏見に捉われてしまうものだ。
 素直な眼を持ってさえいれば、如何に冷酷に芸術作品を鑑賞しようが、それは一向に差障りない。
 寧ろ、冷酷な眼というのも、つまりはものに捉われぬ謂いであって、偏見を抱いている間、芸術のみならず、人生一般何も真に理解することは出来ず、また創造することが出来ない。

『文学とは何ぞや』菊池寛の「日本文学案内」(1)4

第一 『文学とは何ぞや』
 一、人生案内
 社会が複雑になって行くにつれて、社会文化が微細になり、多岐になってゆく。フォードの自動車製作の過程を見れば、ある職工は終日機械の或る一部分に鋲を打ち込むだけである。またある職工は油をさすだけである。
 自動車は如何にして作られるか知らなくても、職工は勤まるのである。大学で経済学や法律学のむずかしい理論や学歴を教わって、さて社会に出ると、銀行の窓口に座らされて、紙幣を勘定したり、会社の帳簿の記入係にさせられて、折角習った理論も学説も何の役に立たぬ有様である。
 これでは大学を出なくとも、簿記や算盤さえ出来ればつとまるのである。社会が分化(ディフェレンシエート)して、職業が分業的になり、部分的な狭い分野に限られてくると、ますます社会とか人生とかに対する人々の視野は狭められて、認識不足の片輪者が出来てくる。また分化作用が激烈になって、科学主義、機械主義が謳歌されると、機械を作ったり、会社を経営する才能はあるが、人生についての認識なり、理解が零の人間や、人間の心理の動きにはまるで無関心な男が殖えてくる。技術とか技能万能主義になってしまって、世はますます偏向者に満ち溢れる。
 以上のように社会が複雑になり、人間心理、対人関係が層一層複雑になって行くのに、社会に就いて、人生に就いて、人間に就いての知識や認識を得る方法がまた不便且、困難を極めてきた。然るに文芸の世界ではあらゆる人生が描かれている。現代ばかりでなく凡ゆる人生、社会が描かれているから、文芸に依って人生を研究するのが、一番正しく、一番簡単な方法である。
 人々の生活は如上のように非常に狭くなっているが、文芸の世界に一歩踏み出せば、どんな人生でも総てのことが出ているから人生の本当のことが解かる。文芸を研究すれば、自然に自分の生き方がはっきりしていくと思う。所謂文学的な見方、感じ方で人生を見たのでは、本当の人生は解からず、同時に本当の文学も解からぬのである。
<菊池寛「日本文学案内」(「モダン日本社」昭和13年1月16日発行)文芸同志会復刻版「文芸研究月報」連載から>

伊藤整『氾濫』にみる近代小説の到達点は、どこに埋もれたか4

鶴樹「毎年、完成度の高い話題作が登場するたびに、エポックメイキングな意味づけがされていく文芸評論の世界だが、過去においても象徴的な話題作があった。そのひとつに昭和32年(1957年)頃発表された伊藤整の『氾濫』という長編小説がある」
由利「伊藤整といっても、今はあまり彼の本をみかけないねえ」
鶴樹「今は、そうだね。しかし、一昔前の文壇では活躍した作家だ。理論と実践を兼ね備えた研究肌の作家だったらしい。代表作が『氾濫』で、これを最大に評価していたのが、北原武夫(1907年―1973)という人だ」
由利「北原武夫といえば、大森の馬込に住み、作家・宇野千代のご主人で、夫婦で雑誌『スタイル』をヒットさせたという実績がある」
鶴樹「三田文学派とでもいうのか、作家で文芸評論家だった北原氏は、「氾濫」が「新潮」に連載中から、この作品に注目している。

『今までの日本の小説には見られなかった新しい小説造型の一見本を呈出している点で、いろいろな意味でリアリズムという19世紀的手描法からどうしても脱し切れないでいるばかりか、一種の日本人気質から、最近では特に文体というものを蔑視しがちな日本の文壇にとって、それ自体大きな功績ではないかと思う』(講談社「北原武夫文学全集・第5巻」より。以下、引用文は同じ)としている。

由利「北原という作家は、オーソドックスな眼力の持ち主であるらしい。たとえば当時の新進人気作家・石原慎太郎の『亀裂』という作品にたいして『中間小説にも劣る荒っぽさ』『作家精神の幼稚さ』などを指摘している。だいたい石原の作品は好きではなく文学的評価を低くしか見ていない。どちらかというと、坂上弘のような(三田派か?)端正ですっきりとした文体の作風を好むようだね」
鶴樹「いずれもして、その文学的基準がはっきりしているところが、今回の考察に具合が良いのだ。以下、北原氏は『氾濫』の以下の部分を引用し、これが小説造型上の新しい手法だとしている。
           ★                 ★
『妻子を疎開地へやっている間に、幸子とのつながりができた時、彼ははじめて本当に女に触れたことを実感した。幸子が彼に与えた女というものは、孤立した純粋な女であって、妻や主婦としての文子から感じる女とまったく違っていた。その女は、彼の持ち帰る収入で絶えず家計の辻褄を合わせようとする主婦でもなく、子供のオムツを洗い、子供の教育や将来の生活のために貯金を考える母親でもなく、また、私はあなたの子の母親でもある私を死ぬまで安らかに暮らさせる義務があるのですよ、という雰囲気を絶えず彼の目の前に漂わせて鼻先に座っている生涯の伴侶でもなかった。その頃の幸子は、ほっそりした男のような感じのする処女がそのまま教師の型になりかかったような二十八歳の女であり、女性の優しさや柔軟さというものは、むしろ乏しかった。しかしその女は、彼の性によって目覚まされた感覚を、その乳房に、その両脚の間の柔らかな秘密の場所に持っていて、それが故に、離れていても、絶えず彼の存在を意識し、彼を純粋に男性として待ち受けているところの、湿り気のない彼女そのものであった。その意識が彼を幸子に夢中にさせたのだった。・・・・』
      ★                      ★
由利「北原さんは、プレイボーイだったらしいが、さすがに引用箇所も、女性関係のくだりだね。また伊藤整という作家もすごいね。『男性として彼を待ち受けているところの・・・』なんて、関係代名詞そのものだろう。それでも、決まっているのがすごい」
鶴樹「翻訳家だからね。ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』では、猥褻裁判にかけられた。こっちのほうが知られているのかもしれない」
由利「このくだりが、どうだというのだ」
鶴樹「北原氏は、これをこう評している。
『これだけの文体の中でも、一読して明瞭なのは、感覚と意識を一緒くたにして、あるいは打って一丸として、描写していた従来のリアリズム的手法が、きれいサッパリと言っていい位、見事に払拭されていることだ。(中略)全く、悉くが説明だ。「説明」というものを極度に嫌い、あるいは恐れた、いわゆる描写という従来の小説概念からいうと、これほど小説的手法から遠ざかり、これほど小説的手法を無視した手法はあるまい。が、それにもかかわらず、すべて説明から成ったこの文体が従来のリアリズム的手法から成った小説に比べて、読者の頭に、より明快な、より明晰な小説的映像を与えるのは、何故なのだろう。官能描写や感覚描写が少しも用いられていないにも拘わらず、小説として明確な造型感を、読者の頭にはっきりと与えるのは何故なのだろう』『つまり、ある心理が人間のうちに生起する基盤である、日常生活上の根本的なシュチエイションや事態についての、分析的説明なのである。たとえば、今挙げた箇所でいえば、「彼の持ち帰る収入で絶えず家計の辻褄を合わせようとする主婦」とか、「子供のオムツを洗い、子供の教育や将来の生活のために貯金を考える母親」とかいう文子に関する説明的な箇所は、従来のリアリズム手法による作家だったら、「世帯の垢が身につい妻」とか、「すっかり世帯じみてしまった妻」とかというふうに、もっとも簡潔な手法で、簡単に描写し去ったであろう』
 まあ、こんな具合だ。実は私も『氾濫』を読んでいる。たしか新潮文庫でだったと思う。そのときに、新鮮なものを感じたのだけれども、あのように人間を描くことは、なにか人間を卑小なものに捉えてしまうものだな、と思った記憶がある。それを明らかにしたことだけでも、価値があると思ったものだ」

由利「たしかに、これには当時の小説表現に対して、なんらかの標準となる基準があり、それに対して作家がどれだけ新しい表現技術を開拓したか、が評価されているね」
鶴樹「それが北原氏の基準ではあるが、氏が確信をもって語るということは、その解釈に暗黙の了解が存在したということだ。実際、私もこの解釈を読んで、そうだったのか、と勉強になった気がしたもの。ただ時代の変化はどうしようもないけれど」
                   文芸研究月報2004年1月号(第37号)

同人誌  「砂」94号(東京都)  《読み人・中村治幸》4

 【「秋葉原物語」川口青二】
 主人公の「私」は秋葉原で永く印刷所を経営しており、その立場で仕事と遊びを通して交際してきた人のようすを描いている。今回は母親のことを語っている。父親について、母親が伴侶の浮気について亡くなったあとも、許すことなく厳しい態度をみせていたことなど、哀感をもって語っている。
【「日本海、雪。常磐路はもみじ」矢野俊彦】
鉄道路線の紀行文「ローカル線を乗り継いで」のシリーズである。東北の紅葉を見ようと出かけたが、すでに日本海は雪だった。「三瀬駅を過ぎる頃から瓦屋根が白くなっている」目前に風景が彷彿としてくる。「沿線の森が紅葉につつまれて美しい」常磐線に乗って紅葉に出会えるのだが、海がみえると「テトラポットに辱め」られているとし、日本の今が見える詩的散文になっている。
「砂」発行連絡所=〒134-0091東京都江戸川区船堀1-3-10-107、牧野方。
(「文芸研究月報」2004年8月号)

カフカと中島敦/不安描き没後に評価・双子のような作家人生=池内紀4

 カフカ作品の翻訳をしている池内紀さんの寄稿。カフカ(1883~1924)の作品を日本人で最も早い時期に読んでいたのが中島敦(1909~1942)。作品「狼疾記」のなかで「今彼の読んでいるのは、フランツ・カフカという男の『窖』(あな)という小説である。小説とはいったが、しかし、なんという奇妙な小説であろう」と書いている。これは現在「巣穴」と訳されている。「この作者は何時もこんな奇体な小説ばかり書く。読んで行くうちに、夢の中で正体の分からないもののために脅かされているような気持ちがどうしても付纏ってくる」とも。中島敦は読んだだけでなく、カフカの作品の一部翻訳もしていた。両者はともに生前は誠実なサラリーマンで、病身に苦しみながら、ひとりひっそり書いていた。勤めをやめ、作家として生きようとしたとたんに病に倒れた。一方は虫になった男を書き、一方は虎になった男を書いた。また、存在そのものの根源的な不安を、知的で端正な文で書きつづった。(2004年10月18日・東京新聞夕刊)
「文芸研究月報」2004年11月号(通刊47号)

05年本屋大賞のはじまり。/作家より読者の声4

「直木賞の選考委員の好みと書店員の好みとのギャップが大きかった。なぜ、意中の作家が選ばれないのかという不満は以前からありました。書店員が声を出したら、その声が読者に届いた、ということです」。全国書店の有志10人がボランティアで運営し、ネット投票で前年に刊行された本から選ぶ「本屋大賞」事務局・杉江由次さん(34)が語る。1年目の04年は242書店(284人)、05年は389書店(456人)の投票があった。04年の小川洋子さん「博士の愛した数式」は、受賞前の10万部が40万部を超え、05年の恩田陸さん「夜のピクニック」は9万部だったのが、受賞後20万部を超えた。「作家の権威に頼るのではなく、書店員が横のつながりで自らベストセラーを生み出す意義は大きい。あと10年は続けたい」。7月に直木賞に恩田さんの作品が早い段階で落ちたことに関し、選考をした北方謙三さんは、そこには信じるところの小説感があって「人気があるからといって、受賞作にしようという気にはならない。今後作家としてやっていけるかどうか」などを判断するという。日大(日本近代文学)紅野謙介教授は、作家のデビューが文学賞によるようになったのは、ここ70年のこと。しかし、その必然性がなくなった。漱石や鴎外は文学賞に関係なく世に出た。文学賞は文壇システムの成立とかかわってきた。文芸は文壇の崩壊と共に、次のステージに移った、とする。(2005年8月5日・毎日新聞夕刊・米本浩二記者)
「文芸研究月報」2005年9月号(通巻56号)

同人誌 「かいだん」第55号(小金井市)    発行日=0607084

【「江華銅鐘」田川肇】
「私」の父は、朝鮮時代に教師として今の韓国に行く。そのときの父親と親しくしていた教師の子供であった柳吉成とは、長い親交がある。その彼が亡くなり「江華銅鐘」という文化財の縮尺模型が送られてくる。そこから、韓国に旅し彼らと交流してきたエピソードが語られる。抑制された筆致で、韓国の風土と、そこに住む人々への愛着が語れる。複雑な感情の行き交う国でありながら、国境を越えて、お互いに今ここに生きる人間として心情が、表現全体に行き届いている。
【「午後の食卓」田村加寿子】
農家をする語りでの法子と実家の姪の織江は乳姉妹らしい。その織江一家の身の上に起こる出来事が語られる。かなり読み進むと人物のそれぞれの状況が理解でき、面白く読める。2頁まで読んでも、誰がどうした話なのかわらないのが特徴。同人誌の小説に詳しい友人の話によると、同人誌では意識的に分かりにくく書いて、含蓄を持たせるのが、純文学の技術と評価されるそうだ。たしかに文体に工夫のあとが見られるので、そうなのかも知れないである。
【「朝倉」芹澤満】
知佳という若い娘のいる一家。素直で性格の良いその知佳の運転する車が、スピード好きの女性に追突され、重体になる。そして、間もなく死んでしまう。事故前の知佳のさりげない生活ぶりを前段に間接的に入れているのが効果的で、一気に感情移入させられる。周囲の人の見舞う様子や、ボーイフレンドの愛惜する姿など、加害者への怒りと悲しみが、情感をもって身に沁みて伝わってくる。上官事故の加害者の態度も、よく見られる風景だが的確で、読者に悲憤の情を呼び起こす。交通事故死は統計上の数字にすると、日常的なことではあるが、それを具体的に個人の運命として描くことは文学の
もつ力の優れた特性であることを教えてくれている。
【「うさぎが跳ぶ日に」石川久仁子】
東京生まれで50歳になる圭二という男が戦後を生き抜いてきた過程を回顧する。青春期を伊豆で過ごした過去から、当時の高校の教師が退任するので、その送別会をするというので真鶴岬に寄ったりしながら、昔の同級生がやくざになって、その姉に秘かな恋心を抱いていたことが語られる。箱根と伊豆の情景とそこで、父母から温泉饅頭を食べさせてもらった思い出など、大切な思い出になっている様子など、その心情を細部がきめ細かく描かれ楽しませる。添別会で地元にいる同窓生から、この教師が大変な俗物で、好きだったやくざの姉を妊娠させて捨て、彼女は自殺したとわかる。この辺からミステリー的な進行になって、圭二はその教師を海辺に誘い殴りつけて終わる。ストーリから考えると無駄な話が多い、その無駄話的なところが、一番身につまされて読める風変わりな物語である。
「文芸研究月報」2006年8月号(通巻68号)

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