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伊藤昭一ジャーナル★運営「文芸同志会」の郵便振替口座=00190−5-14856★「文芸同志会通信」&「詩人回廊」運営。  

文芸と思想

望月「文学フリマ」事務局代表とトーク=影山「クルミド」代表

IMG_1349<「文学フリマとは?文学フリマのこれまでと、これから。」のトークショーでの望月倫彦「文学フリマ」事務局代表(左)と「クルミド」発行人の影山知明氏(右)。3月17日、胡桃堂喫茶店にて)
  文学作品の即売会「文学フリマ」の歴史と発展段階での、さまざまなエピソードを「文学フリマ」事務局代表・望月倫彦と「クルミド出版」発行人の影山知明氏が、語り合うトークイベントが3月17日に、胡桃堂喫茶店 (東京・国分寺)にて行われた。
  テーマは「文学フリマとは?文学フリマのこれまでと、これから。」というもの。望月代表に、2013年より文学フリマに出店しているという「クルミド」の影山氏が、聞き手となって、大塚英志が創設し、望月氏が引き継いだ経緯や、運営者としての出店のジャンル分けの基本的な発想や、会場が変わってきた事情などを聞いた。
  さらに、「文学フリマ」の名称を意匠登録などして、「ブランド」を確立し、べつ目的で単なる人寄せのツールとしないようにしていく方向性を語った。ただし、又吉直樹が文学フリマに来場者としてきて、文芸春秋の編集者出会って、作家になったエピソーどなど、大いに喧伝していく、などを語った。
   このイベントの望月代表の語った数々のエピソードの要素で、共通するのは、大衆社会において、多様な欲望をもつ人々、マルチチュードというべきか、それらの群衆の欲望が文学を通して垣間見える場であるということであった。
 IMG_1354IMG_1355IMG_1356<第2回 胡桃堂書店の「文学フリマフェア」の胡桃堂喫茶店の1階風景。3月17日>
 会場には、「文学フリマ」には出店の経験がないが、興味をもっている人や、出店経験者たちが集まって、胡桃堂喫茶店の2階は盛況状態であった。
  話の内容は、運営者からその折々の、出来事に対応していく工夫などが、明らかにされ、出店の常連であっても、本の制作と販売に関心が片寄るので、全体のストーリーが見える興味深いトークショーとなった。その内容のポイントは、後日取り上げてみたい。
 なお、胡桃堂喫茶店 (東京・国分寺)では、第2回 胡桃堂書店の「文学フリマフェア」を3月9日(金)〜4月4日(水)まで開催している。これは、「文学フリマ」に出品されている数ある作品の中から クルミド出版メンバーが「これぞ!」と思う作品を1人1つ選び、しているもの。《参照:ブログ
■関連情報=「文学フリマ」物語消費(19)新販売ルートの「百都市構想」伊藤昭一

長崎原爆後の斎藤茂吉の「はがき」資料「ら・めーる」75号

IMG_20180118_0001_1<「ら・めえる」75号に掲載の評論・宮川雅一「終戦直後に斎藤茂吉の書いたハガキ」のコピー。>
 ながさき総合文芸誌「ら・めえる」(長崎ペンクラブ)には、歌人の斉藤茂吉が、長崎原爆投下後、敗戦間もなくに長崎在住の知人に便りをしていたことが資料として掲載されている。
 これは、同誌の宮川雅一「終戦直後に斉藤茂吉の書いたハガキ」という評論。それによると、本誌の編集責任者である新名則明氏が、長崎の富豪で芸術愛好家の永見徳太郎(1980〜1950)の業績を研究している関係で、その資料が長崎図書館に所蔵されているのがわかったのだという。新名氏からコピーをもらい、そのハガキの検証を行っている。
 米国によって広島につづき長崎に原爆が投下されたのは8月9日。8月15日に日本が無条件降伏。敗戦となった。それからひと月後の昭和20年の9月に、斉藤茂吉が使った手紙は、罹災によって、昭和20年6月に山形県南村山郡に転居通知の葉書を利用して便りを出していることがわかった。
 評論によると、茂吉は、昭和21年(1946)8月、戦争で遅れていた第三歌集「つゆじも」を岩波書店から刊行したが、敗戦から約1カ月後のこのころすでに、その準備をしていた事実がわかるという。そのほか、茂吉の長崎人との交流による短歌も紹介されている。――今年は茂吉の初来崎百周年だという。長崎と茂吉との強いつながりを多くの人に知って欲しいとある。
 そのほか同誌には、巻頭文の田浦直【ポンペが泣いている】がある。これは、まだ長崎奉行の存在した時代の小島療養所の遺跡が佐古小学校跡から出てきた。これは1857年、オランダからやってきたポンペ ファン メーデルフォールトという軍医が医学校を政府に開設させ、養生所、分析窮理所などをつくり、長崎大学医学部の前身となったものだという。ポンペは医学生の育成のほか、養生所では1万4千人強の患者を治療し、コレラや梅毒の上陸を阻止したという。しかし、その遺跡は土木工事で破壊されており、ポンペに申し訳ないという筆者の心情がのべられている。
 その他、佐藤泰彦【ちょこっと長崎ファースト供曚任蓮⊃邑減少社会での長崎市の将来を憂いている。
 さらに西口公章「長崎県の戦時型機帆船建造史 3」は、戦時中の造船所の機帆船の製造過程と素材など、筆者の取材写真などを入れて、貴重な調査資料となっている。

第26回「詩と思想」新人賞・佐々木貴子氏の贈呈式

IMG_1021IMG_1019 <第26回詩と思想新人賞を主催の「土曜美術社出版販売」の高木祐子社主より授与された佐々木貴子氏の受賞風景と、「詩と思想」の関係者に感謝の挨拶と、受賞作品対象詩「姥捨」の朗読を行う佐々木さん。撮影:北一郎、2018年1月8日>
 詩誌「詩と思想」(土曜美術社出版販売)の新年会と第26回詩と思想新人賞の贈呈式が1月8日、都内で開催された。
 受賞作「姥捨」を書いた佐々木貴子氏は「詩を書くことは、詩の可能性に生きることだと考えr。ある時期までは、詩を書くために言葉をさがすという傾向にあったが、最近は詩を言葉が詩を生み出すという感じになっている。昨年、この新年会に参加して、多くの詩人の存在を実感し、そのなでより自由な作詞ができる思うようになった」と語った。
IMG_1006<詩を一般人に広めることの必要性を語る中村不二夫編集長。撮影:北一郎、2018年1月8日> 詩誌「詩と思想」は、昨年の編集長一色真理氏が退任。本年より、編集部にいた中村不二夫氏が編集長となった。中村編集長は、一色氏が若い新鋭詩人を多く世に送り出してきた実績があり、詩誌の編集力のある若手を育てた。その路線を拡大に編集力のある若手の力を活かしたい。」とし、また、詩を大衆のなかに広める必要性を語った。続いて来賓として、秋亜綺羅氏、川中子義勝氏があいさつがあった。
 IMG_1016<新人賞受賞の佐々木貴子氏には、詩集の原稿料で暮らせるようになって欲しい、と語る選者の郷原宏氏。撮影:北一郎、1月8日>
  選考委員の郷原宏氏は、最近の若者の読書離れを嘆き、囲碁の井山裕太氏、将棋の羽生善治氏の国民栄誉賞受賞と若手の台頭を念頭に、現代詩の世界の現状の不調語り、今回の新人賞の佐々木貴子氏の登場で、詩の世界が活性化することを望む話をした。
■関連情報=若い世代の未来を拓く「詩と思想」新年会と第25回新人賞贈呈式
現代と未来へ挑む「詩と思想」新年会と第24回新人賞贈呈式
ポエムで時代の扉を開く「詩と思想」新年会と第23回新人賞贈呈式
通俗“ポエム”の時代に「詩と思想」新年会と新人賞の贈呈式

旧水戸街道120kmを歩く=文芸誌「アピ」8号(2017年)

IMG_20180106_0001_1IMG_20180106_0001_2<文芸同人誌「アピ」8号の表紙。絵・宇田三男「光風の筑波」と、田中修氏と同行者がたどった経路の記事。日本橋―二里(7.9キロ)―千住橋一里十九町(6キロ)ー新宿一里三十町(7.2キロ)松戸宿― 一里二八町(7キロ)-小金宿-二里二一町(10キロ)-我孫子宿 一里十八町(59キロ)など……>
 地域を拠点とする文芸誌「アピ」8号(発行=茨城県笠間市平町1884−190、文芸を愛する会)には、田中修「旧水戸街道120キロを歩く」というレポートが掲載されている。
 水戸街道は、東京「日本橋」(東京)を起点として、「水戸」(茨城県)まで120キロ、その間19の宿場があったとある。「江戸時代の水戸藩士は、土浦宿と小金宿(千葉県)に宿泊し、2泊3日で水戸と江戸間を歩いたらしい。水戸の人達は水戸街道を江戸街道と呼んでいた」とある。≪参照:旧水戸街道
 筆者の田中修氏(本誌編集者)とは、かつて文学フリマに参加グループとして知り合った。この旧水戸街道の全行程を自分の足で歩きながら、歴史文学とどのようにかかわっているかを確認したという。
 期間は平成26年5月から28年3月で、何回かに分けて行った。同時に、この企画には同人仲間の飛田氏、途中からは文学教室仲間が加わったという興味深い記録である。
 水戸での正岡子規の足跡、長岡宿の水戸志士の刀跡のある伝統ある木村家が、東日本大震災で建て替えをした話など、行く先々での宿場のエピソードが満載である。
 実は私の母の実家が筑波の高須賀にあり、戦争中には、母と子供たちは、そこに疎開していた。しかし、土浦の施設を狙った米軍機の機影は見えて桑畑の中に隠れたが、空襲は免れたようだ。戦後は、母やと私たちに会いに、父親がリヤカーを引いて水戸街道を通ったそうである。
 戦後も、夏休みになると、わたしは大森から高須賀まで、汽車に乗った。上野から常磐線で汽車、取手から水海道に行き、三妻とかいう駅で降りる。そこから歩いて小貝川を渡る。そこで通行料を払う。もうひとつのルートは、上野から牛久駅まで行く。そこで、バスに延々とあちこちを寄って、筑波山の山を見ながら、高須賀のよろずや前で降りる。
 本誌の紀行文で、記憶の下層に沈んでいたさまざまなことを想い浮かべた。いずれにしても、地域の歴史と現在を味わい確認する作業によって、読者の広がりをはかることも可能であろう。
■関連情報=大友章生「帰れない現実」原発被害者の声!同人誌「アピ」4号
 「文学フリマ」は、創設者の大塚イズムを離れて拡大へ(3)

カズオ・イシグロ講演録「日の名残り」に関する話

 「日の名残り」は、晩年を迎えた英国人の執事が、これまで誤った価値観を守って生きてきたこと、人生の最も大切な年月をナチス支持者の主人に仕えてきたこと、倫理的そして政治的に責任を取らなかったことに気づき、人生を無駄にしたという思いに至る物語です。さらに、この主人公は完全な執事になろうとして、人を愛することと、ひとりの好きな女性に愛されることを、自分に禁じてもいました。
 何度も原稿を読み返し、そこそこには満足していました。しかし、何かが足りないのです。
 ソファに横になってトム・ウェイツの歌を聴いていたのはそんな時でした。「ルビーズ・アームズ」という歌でした。皆さんの中に知っている方がいるかもしれません(ここで私が歌ってみようかとも考えていたのですが、やめました)。これは、愛する女性がベッドで寝ているうちに去って行こうとする兵士の気持ちを歌ったバラードです。早朝、駅まで行って列車に乗る。何も特別なことはありません。それなのに、胸の奥の感情を表すことに不慣れな、いかにも無愛想なアメリカ人の男の声で歌われます。曲の半ばまできて、男が自分の胸が張り裂けそうだと歌います。聴いている方は、ここで耐え難いほどに感情が高ぶります。男の感情そのものと、感情を表に出すまいとしてきた彼の強い抵抗力がぶつかり合って、ついに感情があふれ出る−−という緊張感のためです。トム・ウェイツは、みごとなカタルシスをこめて歌い、男がずっと一生かけて守ってきたタフガイとしての禁欲主義が、あまりにも大きな悲しみのために崩れてしまったのだ−−と聴いている人に感じさせます。
 トム・ウェイツの歌を聴いて、私にはまだやるべき仕事があると気づきました。あまり考えないままに、前から決めていたのは、私が書く英国人執事は、自分の感情を出さないよう自分を防衛し、最後の最後まで、自分からも読者からも感情を隠し切るということでした。でも、その決心を変えなくてはなりません。物語の最後のほんの一瞬、それもどこがよいのか慎重に選んだうえで、執事の心のヨロイにひびを入れ、その下にとてつもなく悲劇的な感情があることを見せなくてはならないと思いました。
 今回に限らず、私は、歌い手たちの声から何度も重要なことを学んできました。歌詞というより、歌っている人の実際の声からです。人間の歌う声は、極めて複雑に混じり合う感情を表現できます。私の書くものはここ何年もの間、いくつもの面で、ボブ・ディラン、ニーナ・シモン、エミルー・ハリス、レイ・チャールズ、ブルース・スプリングスティーン、ジリアン・ウェルチ、そして友人で共同作業者のステイシー・ケントをはじめとするミュージシャンから、影響を受けてきました。歌を聴きながら、「そう、これだ、あの場面はこういうものにしよう、こんな感じに近いものに」と、独り言を言っていました。それはしばしば、私がうまく文章にできないような感情でした。でも、そこに歌があり、歌う声を聞いて、自分が目指すべきものを教えられたのです。
■毎日新聞2017年12月11日付<記念講演全文(2)「帰らなかったことで日本は鮮明で個人的なものに」> -- 英語による講演全文の日本語訳【翻訳・佐藤由紀、鶴谷真】より抜粋。

バー「風紋」の林聖子氏が森まゆみ氏に父と文壇人を語る(下)

IMG_0509_2<第29回コスモス忌(詩人・秋山清忌)で、文壇バー「風紋」のマダムとして知られる林聖子さん(左)が、父親の林倭衛(画家)の想い出や、大杉栄との親密な関係や、詩人秋山清などとの交流を語る。聞き手は、作家で評論家の森まゆみさん(左)。2017年10月21日、都内にて>
 林聖子氏の父親は、大杉栄と親しくしていた画家の林倭衛(はやし、しずえ)。《参照:(公財)八十二文化財団ギャラリー
IMG_0513_1<第29回コスモス忌の会場に掲げられた詩人・秋山清の写真>
 また、年表によると、1916年にバクーニンを描いた「サンヂカリスト」という作品を二科展に出しているという。その関係から、林聖子氏のバー「風紋」でアナーキズム詩人・秋山清も飲んでいたことがあるという。インタビューでは、林倭衛がパリに行く資金を支援したのは、有島生馬がそうとう応援したらしい、という聖子氏の話であった。

バー「風紋」の林聖子氏が森まゆみ氏に父と文壇人を語る(中)

IMG_0508_1<詩人・秋山清を偲ぶ、「第29回コスモス忌」で、文壇バー「風紋」にきていたことから、マダムの林聖子氏(左)に話を聞く森まゆみ氏。10月21日>
 第29回コスモス忌で、文壇バー「風紋」のマダムである林聖子氏(89)に、「私が出会った人々」の聞き手となった森まゆみ氏が作成した資料によると、アナーキズム詩人の秋山清は、林聖子氏の父親で、画家の林倭衛(はやし・しずえ・1895年〜- 1945年))に関し、「心は国境を越えぬかーー林倭衛を考える」(「思想の科学」1978年7月号)を執筆しているという。林倭衛がパリ時代に大杉栄と交流があり、「出獄の日のO氏」作品(1938年)を展覧会に出品し、主催者から撤回を要求されたということがあったりしたからであろう。
IMG_0522IMG_0519<2017年のコスモス忌でのパーティで懇談するバー「風紋」のマダム林聖子さんと坂井てい氏。10月21日>
 森まゆみ氏のまとめた資料「林倭衛のこと、聖子さんのこと」という詳細な年表には、林倭衛の生まれた時からの履歴が記されている。
  ここでは、それに基づき、林聖子氏の誕生した時点からのものを紹介する。
 父親が母親の富子と別居して、愛人の操と同棲をしたとき、聖子氏は両方の家を行ったり来たりして、いたそうで、操という女性は炊事。洗たくがまったくだめでおおらかな女性であったが、「おばさん」と聖子氏は伯母さんと称し、お母さんとよんだ記憶はないという。

バー「風紋」の林聖子氏が森まゆみ氏に父と文壇人を語る(上)

IMG_0510_1IMG_0509_1<第29回コスモス忌(詩人・秋山清忌)で、文壇バー「風紋」のマダムとして知られる林聖子さん(左)が、父親の林倭衛(画家)の想い出や、大杉栄との親密な関係や、詩人秋山清などとの交流を語る。聞き手は、作家で評論家の森まゆみさん(左)。10月21日、都内にて>
 アナーキズム詩人・秋山清をしのぶ第29回「コスモス忌」のイベントが10月21日、東京・築地本願寺講堂で開催された(コスモス忌世話人会・坂井てい氏主催)。今回の企画は、文壇バー「風紋」のマダムである林聖子氏(89)に、「私が出会った人々」をテーマに評論家の森まゆみ氏がインタビューをしたものもの。
IMG_0521<林聖子氏はインタビュー後のパーティでも、坂井ていさんたちと歓談>
 林聖子氏は、父親が大杉栄と親しくしていた画家の林倭衛(はやし、しずえ)。《参照:(公財)八十二文化財団ギャラリー
 母親が病弱なせいもあって、新潮社や筑摩書房に勤めてたりするが、水商売の経験を積んで、文壇バー「風紋」のマダムとなって長い。お母さんが太宰治と親しく、聖子さんは太宰の「メリークリスマス」という短編のモデルになっている。次回では、森まゆみ氏が作成した詳細な林家の年代記によって、その概要を紹介しよう。
 秋山清は、詩のなかで「風紋」を題材している。
〜〜〜〜 ☆ 〜〜〜〜
ふっ飛んだ屋根瓦は家主が直しに来ます。
たおれたキャベツはどうしましょう。
根もとは穴がおおきくひろがり
ごろごろごろごろと
かぼそい腰つきで
ひとばんじゅう身もだえ
つかれきって
ぐったりと起きあがれない。
キャベツ畑の彼方を郊外電車がすべる。
チン、チン、チン、チン、チン、踏切がなる。
キヤベツも
キャベツ畑も、息の根をとめたまま。
     ○
おどろきました。わずか五日間です。
キャベツは一せいに起きました。
一個の落伍もなく
葉はいきいきと天を指して
中心の球形はかたく、かたく
一七六五四個が自力更生しました。
明るくさわやかなキャベツ畑です。
彼らははげんでいます。
個はうつくしくいさましく
群はひかって健康でおだやかです。
へっちゃらって顔つきで葉末に朝露を溜めています。
まったく、ぼくらも、自律主義でゆきましょう。
どうです。近いうち「風紋」あたりで一杯。
ーー戯謡 1966
「台風通信」(秋山清『ある孤独』一九六七年)より。
IMG_0510_2<森まゆみ氏プロフィール=1954(昭和29)年東京都生れ。早稲田大学政治経済学部卒業、東京大学新聞研究所修了。出版社勤務を経て、1984年、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」創刊。2009年まで編集人を務める。2014年、『「青鞘」の冒険女が集まって雑誌をつくるということ』で紫式部文学賞を受賞。2017年、『子規の音』(新潮社刊)、『暗い時代の人々』(亜紀書房刊)、『楽しい縮小社会:「小さな日本」でいいじゃないか』(筑摩書房刊、共著)を上梓。
  編著に『吹けよあれよ風よあらしよ一伊藤野枝選集』があるほか、『長生きも芸のうち岡本文弥百歳』、『断髪のモダンガールー42人の大正快女伝』、『海はあなたの道一越境のKOREN/JAPANES』、「鴎外の坂』、『「谷根千」の冒険』、『自主独立農民という仕事一一佐藤忠吉と「木次乳業」をめぐる人々』、『明るい原田病日記:私の体の中で内戦が起こった』、『森のなかのスタジアム新国立競技場暴走を考える』など、著書多数。>

伊藤整「氾濫」モダニズム文学の周辺と北原武夫の評論(4)

 この意識的な手法は、男女間の最もあらわで切迫した場面、即ち閨房の場面などでも、今までの単に感覚的なリアリズム手法によるものよりももっと切実な、異様な効果を上げている。例えば、次のような個所をみ給え。

 「君は美しい、君の身体は美しい」といって、真田佐平は、その脚を、太腿を、尻のふくらみを、それから胴を、肩をやさしく撫でた。彼は性の慾求を果たす機会を得たことよりも、幸子が彼の眼にその全身を露(あら)し、彼女の女の身体を彼にゆだねているその姿に、戦くような感動を味わった。そこに今、彼のための女が美しく、そして確実に実在していた。しかし、その女は、彼がセックスで触れて行き、セックスで責めて、彼女も彼も疲労してしまったあとになっても、なおそこに残っていた。それを滅してしまうことも、消してしまうこともできなかった。彼女はしばらく休むと、また彼の支配し得ない女として、身を起し、身じまいし、彼の手を借りて、下着から順に服を身につけていった。服が身についてゆくに従って幸子は、彼の征服慾や占有慾から逃れて行った。彼女はふたたび独立した、遠々しい、捕捉しがたい他人という女になって、彼から離れてしまった。真田佐平は、幸子に置き去られたように、自分の服を身につけて行った。そして彼はすごすごと退いて、淋しい、頼りない、五十男の自分の姿の中に、再び入って行き、彼女から突き離されてしまったのを感じた。」
 
 この個所は(中略)、文体が、人間の官能や感覚にではなく、すべて人間の判断力に、もっと正確にいえば人間の悟性的認識に、直接訴えるように書かれているからだ。ここでの造型力は、官能や感覚を通さず、人間のもつ悟性的認識に、謂わぽ垂直に結びついているのだ。この小説のもつリアリティの新しさはそこにある。(中略)
 ここに、「散文とは判断の芸術である」というアランの意味するところの、まったく斬新で魅力的な散文芸術の一典型が、ようやく日本の分壇にも生まれたのだと僕は思う。(以下略)−−<北原武夫【昭和32年】「伊藤整『氾濫』をめぐって」(北原文学全集・第五巻収録より)>

伊藤整「氾濫」モダニズム文学の周辺と北原武夫の評論(3)

  北原武夫は、伊藤整が「氾濫」という作品を書くにあたって、次のように考えていたのであろう、と推測している。 
――俺は他の日本の小説家のように、直接感覚や官能に訴える描写は不得手だから、まったく違った方面から読老に造型感を与える別種の方法を案出してやろうという、自己についてのある明晰な自覚から、来ているのだと思う。――
そういう眼でこの小説を読み直すと、この文「氾濫」をめぐって体の構造は誰の眼にも明らかだが、この作者の用いている説明的文体は、単なる心理の説明ではなく、悉くがそういう心理や感清の分析的説明なのだ。
 つまり、ある心理が人間のうちに生起する基盤である、日常生活上の根本的なシチュエイションや事態についての、分析的説明なのである。
 たとえば、今挙げた個所でいえば、「彼の持ち帰る収入で絶えず家計の辻褄を合せようとする主婦」とか、「子供のオムツを洗い、子供の教育や将来の生活のために貯金を考える母親」とかいう文子に関する説明的な個所は、従来のリアリズム手法による作家だったら、「世帯の垢が身についた妻」とか、「すっかり世帯じみてしまった妻」とかというふうに、もっと簡潔な手法で、簡単に描写し去ったであろう。
 が、この作家は、そういう感覚的、あるいは感情的描写はすべて注意深く取り除け、一切を、感情のともなわない、理知的判断による、冷静な分析的説明で行ない、そしてその説明を、
「私はあなたの妻で、あなたはあなたの子の母親でもある私を死ぬまで安らかに暮らさせる義務があるのですよ、という雰囲気を絶えず彼の前に漂わせて鼻先に坐っている生活の伴侶」
というところまで、徹底的に理性的に追究する。
 そして、もう一人の二十八歳の幸子という女の方は、「しかし彼女との問には、世帯臭の臭わない新鮮な肉の歓びがあり、それが彼には魅力だった」と、従来のリアリズム作家なら当然そういう感覚的手法で綜合的に描いてしまうところを、
「しかしその女は、彼の性によって目覚まされた感覚を、その乳房に、その両脚の問の軟かな秘密の場所に持っていて」
という風に、何処までも分析的な説明で解明し、
「それの故に、離れていても、絶えず彼の全存在を意識し、彼を純粋の男性として待ち受けているところの、混り気のない女性そのものであった」従って、「その意識が、彼を幸子に夢中にさせたのだった」と、
 人間の心理や感情が、ある事態の与える意識の積み重ねによって形成される、その意識の一つ一つを追って、細かく解明している。
 つまり、ここには、いわゆる描写というものは、一つもないのである。悉くが、ある心理の起る原因の説明か、あるいは一つの心理の原因である意識の追究であり、それらの分析的説明が重なり合って、ある小説的造型を造り上げているのだ。
 もっと詳しく言えぱ、従来のリアリズム小説が官能や感覚、あるいは感情に直接訴えるのをその描写の目的としたのに反し、ここでは、すべての言葉のつながりが、つまり文体が、悉く、人間の知性や判断力に直接訴えるのを目的としているのだ。
 作中諸人物の姿が、眼に見えるような姿で迫って来ない代り、その諸人物の存在感(妙な言い方だが)が意識の上で明瞭に刻印されるのは、そのためであり、小説上の造型のための努力が、ここでは一切、眼に見えるように描くためにではなく、考えさせるように描くためにのみ、払われているのである。この何処から何処まで意識的な方法こそ、小説造型の方法として、少くとも日本文学にあっては、まったく新しい手法ではないのだろうか。<北原武夫【昭和32年】「伊藤整『氾濫』をめぐって」(北原文学全集・第五巻収録より)>


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