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伊藤昭一ジャーナル★運営「文芸同志会」の郵便振替口座=00190−5-14856★「文芸同志会通信」&「詩人回廊」運営。  

カテゴリ: 文芸同志会のひろば

 (承前)しかし、文學が文學以外の目的のために、奉仕するころはその意図からして邪道であるからいい文學ができる筈がなく、同一の目的のために常に同型の主題や人物が描かれるために、一般読者の興味を失い、それに国家の弾圧もあって、今は見る影もなく衰えた。現在では、日本文學は欧州からの新しい刺激もなく、新しい才能のある作家も輩出せず、ただ技巧的に新奇を追っている位で、どちらかと云えば停滞状態にある。
 要するに、日本の現代文學は、欧州の近代文學の圧倒的な影響を受け、それと日本の傳統とが結びついて生まれたものである。
 その中で、日本文學の特色と云うのは、私小説乃至は、身辺小説と云われるものである。
 これは日本の俳句に現れているアキラメに似た静かな気持ちで、非社交的な自己中心の世界に於ける生活を描いた小説である。社会小説とは、凡そ縁遠いもので、自個の日常生活に於ける生き方、心持、もしくは道徳的態度を報告しやとうな小説である。事件は、非常にtrivialである。しかしそこに現れた心持は、可なり深いものである。だから心境小説とも云われている。これは、俳句に現われているような日本人の心持が、近代丈學のRealismの手法や物の見方を借りて、小説に現れたのである。
 こう云う小説では、主入公は、作者の假名に過ぎない。そこには、テーマもなければplotもない、むろん、何のnoveltyもなけれromanceもない。ただ日常生活に起るような事件があるだけである。しかし、その事件を廻って現はされている主人公(すなわち作家)の生き方、心境に深いものがあるのである。現實的な人間の本當の姿が感ぜられるのだ。
 こうした小読は世界申独特なものである。さうして、到底外國の讃者に依つて、その債値が理解されることは、至難であろうと思う。
 しかし、自分は芸術の神様の眼からみれば、相当高く価値されるものだと思っているのである。
 前に、申した通り日本文學は、その要素として、世界のあらゆる文學を受け入れている。フランス文學の傑作は、世界各国のなかで、一番目か二番目には日本へ訳される。英国文學に就いても、ドイツ文學に就いても同じである。
 日本くらい他国の文學を貪食する国民はないのである。しかし、悲しいかな日本の作品は、少しも紹介されていない。それは日本語が至難であるからだ。
 日本には第一人称を現す言葉が、二、三十ある。しかも、その一つ一つが、それを使う人の階級や性格をことになっている。それが一つのI若しくはIchに訳されることは不可能事である。また、雨と云う言葉でも、日本は四季によって、二十いくつの名前がある。そして、その名前の一つ一つがみな文學的伝伝統を持っている。
 春雨はspring rain であるが、しかし「春雨」と云い言葉の中には、日本入は、無限の夢と詩とを感じているのである。
 その言葉そのものが、一つの文學的言葉である。
 あらゆる言葉に就ついて、同じ事を云いえるのである。だから我々は日本文學の翻訳に就いては、絶望している。我々は、この萬里の長城のような日本語を越えて、我々の文學が欧米に理解されるとは思はない。だから、何時が來ても、バーナアド・シヨウは、日本に就いて「圓と武士」としか知らず、我はシヨウの作品を全部読んでいるという悲しい矛盾がつづくものと思っている。(「日本文学案内」、「第三・日本の現代文学概観」を抜粋―)
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★本論は文芸同志会発行の《参照:「文学人生に役立つとき」(伊藤昭一)の目次と解説》の内容を連載するものです。
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伊藤昭一=法政大学経済学部卒。フリーライター。直木賞作家・伊藤桂一氏に師事。文芸評論執筆のほか、2013年、北一郎詩集「有情無情、東京風景」(土曜美術社出版販売)

 菊池寛「日本の現代文學概観」
 日本の文壇は、文芸的な坩堝だと思う。ここには、世界各国の文學が投げ込まれて、新しい文学が作られ、また将来においても作られると信ずる。
 ロシア文學は、トルストイ、ドストエフスキイ、ツルゲェネフ、チェホフをその代表的作家として、日本の読書界を風靡した。
 北欧の文學は、イプセン、ストリンドベリイ、ビョルンソンなど代表的作家として、日本文壇に紹介された。ストリンドベリイのものなどは、一作として翻訳されないでいるものはないだろう。
 独墺文学も、古きゲーテを初めとして、近代のハウプトマン、シュニッツレル、ホフンスタールなど、悉く読まれてまれている。
 佛文學では、モゥバッサンなどは、露西亜のトルストイと匹敵するほど、日本ではファミリアな名前でモウパツサンに対して(モウ澤山?)と云う洒落が生まれた位、日本では読まれた。フロオベルの「マダム・ボヴァリイ」などは、日本の文學青年は誰でも、その名前を知っている。
 ロマン・ローランの「ジヤン・クリストフ」などに就いても同じことが云える。最近では、アンドレ・ジイドが、日本では流行している。
 先年来朝したバーナァド・ショウは、日本に就いては、「圓と武士(さむらい)」と云う二つのことばしか知らないと豪語していたが、我々はバーナァド・ショウの作品は二十年前から読んでいる。その他、オスカー・ワイルドや、ジヨージ・メレヂスや、ジョン・ゴールズワァジイ、最近ではジエイムス・ジヨイスなどは、日本では、随分読まれている。
 米国に就いても、ボォや最近のドライザーやアブトン。シンクレァなどは、可なり読まれ。このように西洋の多くの作家と作品は、無数に日本の文學的坩堝に投げ込まれた。この坩堝はあらゆるもの
 米国に就いても、ボォや最近のドライザーやアブトン。シンクレァなどは、可なり読まれ。このように西洋の多くの作家と作品は、無数に日本の文學的坩堝に投げ込まれた。この坩堝はあらゆるものを貪り喰った。
 しかし、元来この坩堝は、空しい坩堝ではない。そこには、日本の伝統的文學が、可なりの高熱でたぎつていたのである。だから、当然欧州の文學的要素とこの伝統の文學的要素とが、結合したわけである。日本の文學的伝統には、支那から来たものと佛教に依って印度から来たものとがある。だから、現代日本文学位、世界各国の文學的要素を持っているものはないと、私達は信じている。
 欧州文學は日本文學の伝統が加わっている。そこに、日本独特の新しい文學があると思う。それについては、跡で論ずることにする。
 以上述べた作家を通じて欧州の近代文学が、日本にもたらしたものは、
一、Realism(Naturalism)
一、人類愛の思想。
一、新しい小説殊に短編小説の手法。
 その中、自然主義は、ゾラ、モウパツサン、フロオベルなどの作品に依って、日本に紹介され、日露戦争後明治四十年頃に、自然主義の全盛時代を現出した。
 田山花袋、国木田独歩などが、この自然主義が、人生をあるがままに観て、その暗黒面ばかりを見るのに対して、反抗して立ったのが、白樺派の作家である。貴族学校である学習院の出身者の多い彼等は、トルストイの影響を受け、人道主義的理想を以って、人生を描こうとした。
 この中には、武者小路實篤、有島武郎などがいる。
 このほかに、小説の構成、手法などの点に於いて、自然主義に封抗して立った作家がいる。これが新技巧派と呼ばれ、帝大の出身者が多かつた。自分なども、その一員である。自然主義が、人生をありのままに描くため、プロツトやテエマを排斥することにあきたらずらず、プロツトもあり、テーマもある作品を書こうとしだのである。
 これは、いずれも今から二十年前位の出來ごとで、この二つの派の作家は、今でも活躍している人が多い。
 その後に出たのが、ブロレタリヤ文學である。これは、ロシアの共産主義の影響を受けて、入生を階級闘争的に見て、それを描き出すことに依って、社会革命をもたらすことに協力しようとしたのである。(つづく)
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★本論は文芸同志会発行の《参照:「文学人生に役立つとき」(伊藤昭一)の目次と解説》の内容を連載するものです。

菊池寛【内容的価値】
 芸術作品を構成している要素は実に沢山あって、それを一々数え挙げることは出来ない。若し仮に幾つかが挙げられるとしたら、それを備えているから、この作品は芸術だと矢張り断言出来ぬだろう。芸術は生命の如きもので、解剖によっても、組成要素の組合わせによっても、到底作り得られるものでも、理解せられるものでもない。だから文学学者の芸術論などはどんなに綿密に論理的に出来ていても一向にぴんと来ないのみならず、面白くないのである。
 だが、芸術家が自分の芸術論とか、一家言を吐くと、仮令(たとえ)それが片寄った議論でも、論理的に間違って居るところがあっても、生き々としたものが感じられ、面白く傾聴してしまう。
 名匠の作はどんなに未完成なものでも、またどんなに粗削りなものでも、神韻縹渺たるものを覚えるのが常だ。然し日本では余りに名匠気質を重んじ過ぎはしないか。本当に名匠ならば、確かに専門家が見ても立派だろうし、素人が見ても心を打つものがあるだろう。だが封建時代の残骸たる名匠気質だけを担っている人を芸術家として尊敬するのはちと如何かと思う。幾ら上手に書いてあっても一向に読者の胸に迫って来ない作品は矢張り作品としての価値は少ないのではないかと思う。
 文壇有数の名家の作品を読んで、うまいと感心する。が、心は動かない。投書家程度の人の書いたまづい短編を読んで、つい心を打たれることがある。
 こんなことは誰でも経験することだろう。描写がうまいとか、文章が巧みだとか、性格がよく出ているとか以外に、文芸作品にはまた別個な価値が存在するのだ。新聞の記事を読んでいても、感動することがある。事実そのものが人を動かすのだ。この人を動かす力は既に一つの価値だと思う。
 自分の「恩讐の彼方に」という小説、あの筋書きは、ちゃんと耶馬溪案内記に載っているのであるが、案内記を読んでも、既に或る感動に打たれるだろうと思う。文藝作品の題材の中には、作家がその芸術的表現の魔杖を触れない裡に、燦として輝く人生の宝石が沢山あると思う。
また、作者の技巧が稚拙であったり、簡潔を欠いたり、つまり表現が未だ未熟でも、その正直さ、誠実さ、真率さに打たれる場合がある。
 自分はこうした意味から、文藝の作品には芸術的価値以外の価値が厳存することを信ずるのである。その価値の性質はなんであるか。我々を感動させる力、それには色々あるだろうが、私はそれを仮に内容的価値と言って置きたいと思う。
 (これは便宜的な言葉である。我々の生活そのものに、響いて来る力として、生活的価値と言ってもよいと思うし、それを仔細に分かって、道徳的価値、思想的価値というように別けてもいいと思う。)
 芸術の組成要素が挙げられないからと言って、芸術を玄妙神秘なものとして扱うのには自分は不賛成である。名匠の鑿の跡を見て感嘆する通人鑑賞家や、巧みな表現や構成だけに感心する、文学に憑かれた批評家は要するに偏見に陥っている人だと思う。
 文芸作品に接するとき、我々が求めて居るものは何かと云うに決して右に挙げたような芸術的評価だけではない。我々は芸術的評価を下すと共に、道徳的評価を下し、思想的評価を下しているのである。
 ただ、芸術的評価だけを下せ、といったところで、そこに人生の一角が描かれている以上、それに対して社会的、道徳的評価を下さずには居られないのである。何らかの思想が描かれている以上、それに対して思想的な批判を下さずにはいられないのである。戯曲の主人公などが、つまらない思想を、懐抱している以上、その性格描写がどんなに巧くっても、その舞台技巧がどんなに巧みでも、軽蔑せずにはいられないのである。
 十九世紀の佛蘭西の詩人アルフレッド・ドウ・ヴイニイは、世間との交渉を絶って、孤高を保っていた。深く詩を愛するために、絶対の孤独を要求したのである。
 彼は自分の書斎を象牙の塔と称した。彼のように象牙の塔に立てこもる人は、芸術家として尊敬はする。芸術的価値、芸術感銘、それも人生に必要がないとは云わない。それも人生をよりよくする。悪くするとは云わない。
 然しそれだけでは余りにも頼りない。余りにも心細い。殊に今はヴイニイの時代ではない。社会は複雑になり、その複雑な社会の中で、色々の部門が深く結びつき合うようになった今日では、一層そんな一元的な価値だけを振りかざしては居れないのである。
芸術それだけが、人生にとってそれほど大切なものかしら。芸術的感銘、それだけで人は大いに満足し得られるかしら。
 自分は、芸術はもっと、実人生と密接に交渉すべきだと思う。絵画彫刻などは、純芸術であるから、交渉の仕方も限られている。(それだけ、人生に対する価値が少ないと思う。)幸いにして、文芸は題材として、人生を直接に取り扱い得るから、どんなにでも人生と交渉し得ると思う。それが画家などに比して文芸の士の特権である。
 自分は芸術が芸術である所以は、そこに芸術的表現があるかないかに依って定まると思う。が、その定まった芸術が人生に対して、重大な価値があるかどうかは、一にその内容的価値、生活的価値によって定まると思う。
 自分の理想の作品と云えば、内容的価値と芸術的価値とを共有した作品である。語を換えて云えば、我々の芸術的評価に、及第すると共に、我々の内容的価値に及第する作品である。
イプセンの近代劇、トルストイの作品が、一代の人心を動かした理由の一つは、あの中に在る思想の力である。その芸術だけの力でない。芸術のみにかくれて、人生に呼びかけない作家、真に人間に感動を齎さぬ作家は、象牙の塔に隠れて、銀の笛でも吹いているようなものだ。それは十九世紀頃の芸術家の風俗に過ぎない。(「日本文学案内」、「第一・文学とは何ぞや」「十二、内容的価値」の項を抜粋―)
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★本論は文芸同志会発行の《参照:「文学人生に役立つとき」(伊藤昭一)の目次と解説》の内容を連載するものです。 

菊池寛文学論【文芸と自然】
 我々を取巻く自然に如何なる人も無関心ではいない。自然というものは人間を離れて存在するが、これを眺める人々の印象なり、感情は千差万別である。
 心理学では視覚型の人間と、聴覚型の人間とか、どの感覚が発達しているかで、人間の型を分類しているが、自然を見て海や山の景色、それから森や川の景色、花や鳥など、自然の美しさが分かるように思って居るかも知れないが、人によって感ずる力が変わって居ると思う。
 同じ自然に対して視覚型の人は聴覚型の人よりも細かく深く観察するだろうし、もっと広く観察が行き渡るだろう。
 また、美感覚が優れている画家などは、普通に人より美の感受量が多いから、「同じ綺麗な花だな」と思っても、感得された印象は異なって来るのである。
殊に文芸とか美術とか、そういう方面にたずさわる者は、自然の観察に熟練して居り、また知識も豊富になっていて、普通の人よりも一層緻密に眺めることが出来、深いところまで理解することが出来るのである。だから古今の名画や傑作文学は一応読んで置く必要がある。そして自分の感覚や感情を洗練させなければならない。
 鋭い感覚を持っている人や、好い感受性を持っている人が、こうした古今の天才達の作物に接して一層啓発され、洗練されたら、鬼に金棒であろう。
 殊に日本では自然描写にかけては、随分古くから発達していて、万葉に現れ、自然観は今我々が読んでもぴったり来るものがあると思う。万葉には山部赤人のように自然と溶け合おうとして自分の姿を自然の懐のなかに没してしまうような自然歌人が多い。尤も自分を中心としてのその周囲に自然が展開するといった個性的な叙情詩人もあるが、万葉の自然観は現代のような個人意識が少ないから、おおらかな、雄勁なところが如何にも時代の精神と合致して居り、自然美にめぐまれた奈良朝の文化がうかがわれる。
 これに反して芭蕉の句に至ると、透徹した自然観、閑寂の境地が粛然とひらけて、もう根強い個人意識が確立されている。
 ボオドレエルは「私は可見の自然界に於いて猶且つ精神的の表象を求むることを好む」(辰野隆氏訳)と言っているが、自然の香よりも人間臭を愛するボオドレエルの自然観は可なり徹底したものだ。ワーズワースが自然をさして“The anchor my rurestthoughts”と言ったのと全く面白い対照を示すものだと思う。
 時代によって所によって、また人によって種々様々な自然観が生まれてくるものだ。全く自然に興味を持たぬ人もあろうし、自然に引かれる人もあろう。しかし日本は風景や季候にめぐまれた国で、俳句などにも季題というものが喧しく言われている位だから、国民は自然とか気候に敏感である筈だ。そして自然観に国民的な伝統が一番よく現れているのではないかと思う。(「日本文学案内」より「第一・文学とは何ぞや」の「十、文芸と自然」の項を抜粋)
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 作家と教養ー下ー
 文学に志して、古今東西の傑作位は一応眼を通して置かなくては作家として心細い限りである。また、絵画、音楽、哲学、科学、歴史といった諸部門の知識をもっていて決して損することはないと思う。
 スタンダアルは常に民法を読んでいたそうだ。それは法律書には不要な閑文学がないので、書く前に読んでいると自然簡潔な文章が書けるのだそうだ。その国の風俗習慣人情の上に立脚して草案された民法位作家志望者が知っていることは望ましいことだ。
 また経済問題、政治問題が現代生活に緊密に結びついているのに、作家は今でも余りに無関心過ぎた。政治経済に無関心でよく小説が書けるとひなんされても抗弁は出来ない位、作家は狭隘な世界に沈湎していた。政党政治が勢力を失って、挙国一致内閣が出現して、国民の政治的関心が募りつつある現在、為政家は国民生活の安定策に私心を滅ぼして尽くしつつある。我々は政治経済の知識と認識を持たずして、国民生活を続けて行くなどとは笑止千万な話である。
 要するに学校教育だけの教養では満足とは云えない。殊に今の教育は専門教育を偏重しているので、大学卒業時生の常識は甚だ低いように思う。しかも、社会に出て直接役に立つような学問は少なく、甚だ無駄な教育をしているように思う。自分に確固たる眼識を備え、自分を教育するためには不断の勉強が必要だ。
 打てば響くような才人は多いが、才気で小説を書こうなどとは余りにも文学をなめ過ぎた話だ。文学をなめるということは人生をなめることだ。昔は戯作者の態度、つまり芸術家が自分を卑しめた態度が流行ったことがあるが、そんな洒落っ気で文学が成就できるものでない。
 今は凡人も才人も一様に出直して勉強する可きだ。自分は教養を持たねばならぬと言ったからと言って、ディレッタントになれということではない。尤もディレッタントが好い意味の鑑賞家のことならいいが、唯村の物知りのように何でもかんでも一寸齧っているのでは困る。真の教養人とは知識を租借して我が血肉とした人である。(菊池寛「日本文学案内」より「第一・文学とは何ぞや」「十一、作家と教養」の項を抜粋)
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★本論は文芸同志会発行の《参照:「文学人生に役立つとき」(伊藤昭一)の目次と解説》の内容を連載するものです。 

菊池寛【作家と教養】ー上ー
 自分は作家になるのに特別な天才を要さぬと思っている。だから作家凡庸主義を昔から唱えてきた。
 唯如何なる人も努力を積まなければ何にもならない。凡庸な人間が、それ相当の努力も払わずに偉くなった試しがない。
 作家を志して、文章を推敲したり、一人前の物の見方が出来るようになっても、それだけでは長い作家生活を続けていくわけにはいかない。
 読者は無責任で浮気なものだ。すぐ飽きられてしまう。新進の花形として文壇に登場しても、五年後、十年後にそんな作家はいたのかと思われるほど、早く没落してしまうものだ。作家の名声などは、足場の悪い土地に建てられた建築のように、いつ何時潰れてしまうか知れたものではない。
 それに社会は目まぐるしい程進歩してゆく。いつまでも自分の持味などに恃んで、怠けていると社会の進歩に取り残されてしまう。
 作家の勉強は小説を書くことだけだと思って、社会の動きにも眼を向けず、思想の変遷にも注意せぬものは、結局不勉強な作家と言われても仕方がない。人生には男女問題だけが重要な問題ではない。また男女問題にしれも情痴事件が男女問題のすべてではない。
 作家は感情が豊かで、情熱家が多いから、兎角小説が感情で支配され勝だが、世界各国は二十世紀ほど理知の問題が重要視されて居る世紀はない。
 十九世紀から著しく発達してきた科学に刺激されたこともその原因の一つだが、科学者も哲学者も、心理学者も芸術家も今までは余りにも自分の専門のことに没頭していて、専門外の諸科学に無関心でありすぎた。然しそれら各部門の間に高く聳えていた垣根が次第に取払われようとしている。また科学と哲学とはその研究の方法こそ異なるが決して両者が無縁なものではないという認識が判然としてきた。
 また芸術も哲学や科学の影響を受けて、感情一方に偏する芸術作品は何処か近代味に乏しく、教養の低い感じがするようになった。
 作家が一般読者と同等の教養しか持っていないようでは大勢の人に興味を持たれることも少なく、人々に啓示を与えることなどは到底出来はしない。また、自分自身も社会の進歩に遅れをとって没落してしまう。
(菊池寛「日本文学案内」より「第一・文学とは何ぞや」「十一、作家と教養」の項を抜粋)
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菊池寛【文芸と自由】
 前々章で明瞭で、且つ個性的な倫理観を持つ必要を説いた。世間の常識とか、強力な権威に何の疑いもなく屈服してしまうのでは個性的とは言えない。果たしてこの常識は正しいかどうか、この権威は尊重すべき価値があるかどうか、自分で調査し、判断してみなくてはならない。この探究と判断の後に尊敬すべきものを尊敬し、軽蔑すべきものを軽蔑するがいい。このような判断があって初めて自由が得られるのだ。
 判断のない自由なんてあり得よう筈がない。物に捕われぬ判断こそ、自由に導く最良の道である。
しかしいつの時代でも束縛のない時代などはない。人間は常に何ものかに縛られている。従って絶対に自由な状態などは考えの上ではあるかも知れないが、実際には存在しない。それでいて束縛から解放されようと藻掻いている。
 ロシアの小説を読むと農奴の悲惨な生活が屡々書かれている。奴隷の売買は欧米の小説では屡々見受けるところだ。また娼妓の生活も奴隷生活と選ぶところがない。然しあの悲惨な奴隷の生活を読むと眼を蔽いたがる人々は一度我が身を振り返ってみれば、自分もまた二重三重の桎梏に喘ぐ奴隷の身であることに気がつくだろう。社会に、制度に、習慣に様々な観念に、縛られているのだ。
 だが解放は確かに望ましいことには違いないが、無理に解放を望めば、そこにはもっと惨憺たる闘争が起こってくる。階級闘争も解放運動の一つの現れだが、人間は流血の惨事を惹起しても、なお自由を要望し、束縛から解放されようと努力する。それだのに世には自分で束縛を作ってそれに拘束されて苦しんでいる人がいる。馬鹿馬鹿しい話だ。
 親の犠牲になって好きでもない男と結婚する娘は未だ随分沢山いることだろう。自分の一生の問題に可なり不注意不忠実な態度である。自由結婚とか自由恋愛とかが、一種流行語になったことがあるが、自由と放縦を履き違えた考え方は困るが、封建的な思想に捕われた家庭では、娘は自由を渇望する余り親に叛逆を企てることがある。こうした家庭悲劇は未だにその跡を絶たぬ。
 これも相方の無理解から起こることだ。封建的な道徳観に捕らわれた親、新しい自由恋愛に捕らわれた娘の対立は仲々深刻な家庭問題だが、凡て捕らわれた思想は決して人を幸福には導かぬものだ。宗教に捕らわれ、新思想に捕らわれ、金銭冥利に捕らわれる。
 何かに捕らわれるのは、それに対する知識が不足しているか、明察に欠けているからである。一度何かに捕らわれると、もうそれから先は判断が鈍るか、捕らわれた判断しか働かなくなる。そして意志力は頑迷固陋に変化してしまう。守銭奴が常に頑固なのはモリエールのアルバゴンやバルザックのグランデを読めば明らかであろう。
 斯く言えば自由というものは如何に重要にして、且つ得るに困難かが分かるだろう。素直な心を持つ修業は結局自由人になる努力である。そして捕らわれざる精神の所有者になることである。どんな立派な思想体系でも、これに捕らわれてしまえば、もう其処から発展はなくなってしまう。科学はいつも懐疑精神によって発達している。どんな真理も疑ってみることは出来る。ニュートンの説が恒久不変の真理だと思ってしまえば、科学はもうそこでおしまいになってしまう。もう一度疑い直すことによって、相対性原理が生じるのである。今は相対性原理に疑いの目を向ける物理学者がまた大勢いることだろう。
 殊に芸術家は他人の借り物の思想で、人生を眺めたり、在り来たりの道徳で、人間を判断してはならない。
 元来、芸術作品は自由主義の所産であり、独創を最も尊ぶものである。そして、独創的なものが生まれるのは最も自由な状態に於いてである。ジイドもあらゆる拘束から開放された境涯が一番幸福な状態だと言っているそうだ。
 古来無法という言葉がある。法に拘泥している間は法に縛られているが、法を完全に理解し、我がものとしてしまえば、最早法はなくなる。この無法人の境涯こそ、自由人の心境に他ならない。
宮本武蔵は剣術で悟った人だが、自分の行いを律する「独行動」という規則を拵えた。その規則の第一は神仏を尊んで頼まずというのだ。神仏を頼むが尊ばずという連中が多い中に、かかる信条をもっていた武蔵は偉い人だと思う。彼も亦自由人に他ならぬからである。
 また、夏目漱石は死ぬ前に、「則天去私」ということを言っていた。天に則って自分を棄てるというのは、自然の成り行きに任すということだ。禅問答のような言葉だが、これも捕らわれぬ境地、自由人の境地を語ったものだ。(「日本文学案内」より「第一・文学とは何ぞや」の「九、文芸と自由」の項のみを抜粋)
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★本論は文芸同志会発行の《参照:「文学人生に役立つとき」(伊藤昭一)の目次と解説》の内容を連載するものです。 

菊池寛【文芸と道徳】
 法律は未成年者の飲酒喫煙を禁じている。これは衛生上から禁じているので、道徳的の意味はない。然し世には飲酒喫煙を悪いことのように言う人がある。確かに酒に酔っている格好はいいものではないが、それが悪いことだとは思わない。昔は「男女七歳にして席を同じふせず」と云われたが、幼稚園でも、小学校でも、この頃は席をおなじふして居る。
 昔の方が厳しくて、今は寛大になったかというとあながちそうとばかりは云えない。親や主人のために身売りする「忠臣蔵」のお軽のみならず、枚挙に遑(いとま)のないほど例がある。自分の妻の貞操を犠牲にして、主家に尽くすのを忠臣とほめ上げた例もある。
然しこうしたことは道徳的でないばかりか、不道徳であると今の人は思うだろう。
 つまり道徳とは或る国では風俗習慣の意味だそうだが、時代によって、所によって道徳の観念が、風俗習慣が異なるように変わってくるのである。だから何時までも因襲に捕われた道徳観念に固執していると精神生活の進歩というものがなくなってしまう。
 如何にして新しい道徳を作り出すか。そして何が一番立派な道徳であるかを考えなければならない。
 因襲に捕われた道学者から見ればトルストイの「アンナ・カレニナ」は姦通という不道徳を犯した女性かもしれない。然し彼女の良心はコンヴェンショナルな道学者よりも余程強く働いているし、自分の性情に対して真実で誠実な女性であることがわかる。
 真の道徳は単純にそれは悪いとか、そんなことをしてはならぬとか即断したり、禁止したりすることではない。普通一般の生活上の規約に服従し、風俗習慣を受納れることが、道徳であることの第一歩であろう。法律でも、公序良俗に反する時は処罰する。
 然し作家は公序良俗を紊(みだ)さぬ程度に道徳的であるだけでは、心細い。もっと積極的に作家の倫理観を持たなければならない。
 積極的な倫理観とは普通一般のコンヴェンショナルな道徳観念に屈服して、自分の良心や判断を曇らせぬ道儀観である。社会の風俗習慣を受納れるにしても、盲目的に受納れては、その人の理性とか、判断とかは鈍ってしまうのみならず、平凡な規則や風俗習慣への阿諛追従となる。個性は束縛されて臆病になる。斯くして道徳的である筈のものが、阿諛とか臆病とかと云った不正不徳を犯す結果になってしまう。
 自分は確固たる人間認識と人生観を持たねばならぬと言ったのは、明瞭で且つ個性的な倫理観を持たねばならぬ謂いである。
 よく国際問題で正義人道に背いたと告発することがあるが、どれほど告発者は正義感を持っていっているのか疑わしい。寧ろ正義人道に背いたと告発することに依って、誰かに告発の承認をして貰いたいのだ。
 文芸の世界では一切の外交辞令は許されない。正義の承認を得ようとすることは不正の第一歩である。プラトンは正義とは内的な調和であり、自己の立派な統治だと考えた。口に正義を唱えるものは正義の承認を要求して居ることで、内的な調和なんて微塵もありはしない。
 何が正義かと自分の理性で、深く判断する人が倫理家(モラリスト)である。従って倫理家は自分の感覚とか感情とかは鋭敏に働かせる必要がある。理知と判断を不断にはたらかせなければならない。そして、感覚、感情、理性の働きに立派な統治が保たれる。この時初めて道徳家は完成するのである。だから道徳家とは叡智に満ちた聡明な人たるを要するのである。(「日本文学案内」「第一・文学とは何ぞや」「八、文芸と道徳」の項を抜粋―)
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★本論は文芸同志会発行の《参照:「文学人生に役立つとき」(伊藤昭一)の目次と解説》の内容を連載するものです。 

菊池寛【人間学としての文芸】
 人生に就いて、生活に就いて確固たる意見を持っても、それが抽象的であったり、観念的であったりし勝ちである。そして人生哲学として相当な議論を吐いても、人間というものに就いて知らぬのではそれは空論に等しい。
 本当に苦労し、人生を知るということの中には、人間を知るということが含まれていなければならない。前に文学は人間学であると言ったのはこの謂いである。逆に文学に依って人間を知るのは重要で且つ懸命な策であろう。何故なら作家は執拗なまでに性格描写に腐心しているからだ。
 例えばシェイクスピアの三十七の戯曲を見るといい、数多い登場人物の性格の一つ一つが、真に生きた人間の形貌を備えている。この生きた人間、血あり肉あり、脈拍と呼吸を持ち、我々の思想、感情、理想、煩悶をもつ人間が無数に且つ微細に描写されている。
 性格描写とは即ち人間の心を覗く窓である。ハムレットから覗くと大概人間の心が分かる。それからデスデモナやクレオパトラから覗くと女性の心が分かる。
 クレオパトラを見れば威張った女の心は分かるし、デスデモナを見れば、大抵可愛い女の心は分かる。シェイクスピアのみならず、モリエールにしろ、ラシイヌにしろ、バルザック、トルストイ、ドストイエフスキーの描く人間は、そのまま人間の類型として、夫々独自なものがある。仏蘭西ではモリエールの「守銭奴」の主人公アルバゴンを吝嗇漢の代名詞に使っている。斯く様々な人間のタイプを小説家として裏から見たり、縦から見たり、引繰返して見たり、凡ゆる方面から見て居る。
 凡ゆる方面から見ると真に悪人というものは無くなって来る。昔の劇に出る原田甲斐とかイヤゴーとかいうのは、ただ悪のために悪事をしている。近代文学などになると悪人はいない。トルストイの小説には悪人がいない。それは何故かというと、人間の気持ちを良く呑み込んでやると、大抵に人は悪くない。人殺しでも殺す時にその人の神経が疲労していたとか、食うに困ったとか、その人の親の遺伝があったとか、そういうことを調べてみると、本当の悪人というのは無くなってくる。また、ドストイエフスキーの「罪と罰」で、青年ラスコルニコフが金貸しの老婆を殺す。法律では人を殺したものは、理由の如何を問わず罪にする。
 ラスコルニコスは法律上の罪人であるが、「罪と罰」を読むと誰も彼を目して悪逆無道な奴だと思わないだろう。寧ろ彼の微妙な心理に驚いて、同情と理解を抱くようになってくる。実人生はあれほど深刻でないと思うのは、文学かぶれのした人か、人生を知らぬ人である。
 実際に世には同情されなければならぬ人が悪口を言われたり、ある事件の皮想だけ見て、悪人と判断されたりする場合が非常に多い。
 これは畢竟人間をお互いに理解するという気持ちが缼けているからではないだろうか。そういう意味で悪いことをする人間でも、本当にその人間の気持ちを酌んでやると、可なり同情しなければならない人間が多いように思う。
 数年前のことだが、神楽坂で芸者を殺した大工の棟梁があった。芸者を殺して棟梁は佃川に身を投げたが、沈まないでいたところ、ふと上を見ると十五夜の月が皓々と照っている。それを見ると急に死ぬのが厭になって、岸に這い上がったという話だが、一旦死ぬ気になったが、十五夜の満月を見て、また岸に這い上がったなどいう事は案外人間味があると思う。自分なども又這い上がって来る方だろうが、人殺しをするような人間の心持でも決してこれと別なものではないと思う。
 もう少し、人間の心持ちを理解すると、もっとこの世の中が明るくなるのだ。世には無理解のために、どれほど多くの悲劇が生まれて居るかわからない。(「日本文学案内」「第一・文学とは何ぞや」「七、人間学しての文芸」の項を抜粋―)
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★本論は文芸同志会発行の《参照:「文学人生に役立つとき」(伊藤昭一)の目次と解説》の内容を連載するものです。 

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菊池寛【文芸と人格】
 人間を知り、人生についての認識を持ち、生活に深く根を降ろせば、最早一流作家の資格十分だが、敢えて作家としてばかりでなく、人間としても立派なものだと思う。或る作家の人間的価値は、その作品と価値とかなり正比例している。多くの作家や作家志望者と、交際っている裡に、感じてきたことであるが、人間として取柄のない者の小説は、やっぱり取柄の少ないことを知った。
 無論道徳的の人格者でなければ、いい小説が書けないというのではない。人間として、何処か変わったところがあり、面白い所のある人でないと、どうもいい小説は書けないようである。フワフワしている男や、覚悟の定っていない中途半端の人間には、どうもいい作品は書けないようだ。
 他の学問でも技術でも、或る程度以上に行くと、人格ということが、大きい関係を持つものだが、創作ということが、全人格的な仕事である丈け、その作者如何が最初から大きい問題であるようだ。人間として、サムシングのあるものでないと、小説は書けないようだ。所謂道学的には良でも不良でもいい、兎に角その性質に厚みか鋭さのある人でないと、いい小説は書けない。書はその人を現すという。が、小説はその人自身である。(「日本文学案内」「第一・文学とは何ぞや」「六、文芸と人格」の項より)
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★本論は文芸同志会発行の《参照:「文学人生に役立つとき」(伊藤昭一)の目次と解説》の内容を連載するものです。 

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