2012年06月07日

死に辿り着かぬものたち

本当に色々ございました、順調に滞っております。
とりあえず働きだしました、これはこれである意味ではご安心いただけますし、ある意味では心配をおかけしますね。 
大丈夫です、たぶん。

とりあえず、こっちには書かぬままコミティア100が過ぎ去りました、色々うれしたのしで大満足でした、ぐったりしたけど。
「ネクロテック・エンジニアリング」、好評をいただきありがとうございます、まだ在庫ありますんで。ええ。
……次に繋がると良いなあと思っていたら予想だにしないとこに繋がりそうになったのですが、まあこれは言えない話。

さてさて、これ用に新規の内容を書く余裕なんてないので コピペる。どっちもある程度滞ってたから、馬鹿正直に三ヵ月分がドンってわけじゃあないけど、けったいな分量です。

注、以下は三月後半に書かれました。

ジャンル不詳の『ポゼッション』をついに観た……カルトホラー扱いされたりもするが……。 
まさか『第9地区』で走り出し『スターシップ・トゥルーパーズ』で助走をつけた先で、『ポゼッション』を観ることになるとは。なんでだろ。何故あのとき『ポゼッション』にしようと思ったのか、自分でももはや分からない。ええ、あの晩です。 
強いて言うなら、三作ともなんか汁気が多いかな……人体とかから出る液体が。 
ちなみに地上波版『第9地区』はみんなの予想通り、倫理的にアレなとこと人体がべしゃっと飛び散るシーンが全般的にカットされておりました、が、何故かオビサンジョのワイヤーぶっ刺し→白目→ボンッは放映されたのでよく分からん。 
分かり切ってたことなので起こったり文句言ったりしてもしょうがありません、エグゾスーツが走って跳んでロケット弾をキャッチする、それで十分です……人体損壊はカットするくせに地下研究所で解体されてるエイリアンは映る辺りが、かえって本作の皮肉を助長していたという意見もありましたしね。 
そのまま何となくWOWWOW付けたら一晩中かけて『スターシップ・トゥルーパーズ』1~3一挙放送してましたが、これわざとなんかな。ちょうど第9地区終わった辺りで1作目が始まったんだけど。 
原稿もあって怠かったので一作目だけ久しぶりに観たけど、記憶よりも展開が物凄い速かった、特に戦地に行ってからは。マイケル・アイアンサイド格好良いなあ、あ、死んだ、という辺りからはもうすぐ終わっちゃったという印象。こんなに巻いてたんですね、まるでテレビドラマのダイジェストみたいだ(直喩)。実際そういうつもりなんだと思います。 
今観ると、むしろ歩兵の装備が古臭く貧相に見えますね……レトロフューチャー入ってない訳ではないんだろうけど、それ以上にあれからの15年で我々がよく目にする歩兵がハイテク化してしまったということなんでしょうか。いや、当時の目で見てももっとちゃんとしろよとは思っただろうけど。 
事実は小説より奇なりというか、皮肉よりも痛いというか、現実がこの映画よりももっとアホなことになってしまったのでちょっとげんなりであるが、それでもやっぱりこの映画はワクワクするんです、さすがヴァーホーヴェン。目視範囲に歩兵が核をパなす映画なんてそうないぜ!(誉めてるんだってば) 
これ確か僕が11歳ぐらいのときに父親がVHS借りてきて観てるんですよね。道を誤った要因の一つかもしれないですね、これと……ガメラ2辺りが。初見の感想が「バグ格好良いなー」だったので。でもそんなヤツ他にも一杯いると思うんだ。 
で、ようやく『ポゼッション』の話です。 
ええと……あまりに胃が痛くなる内容に、途中から脳がイザベル・アジャーニとサム・ニールによる狂気の演技戦として認識しようと努めるも、どうにも僕の防壁はポーランド人には弱いので監督(アンジェイ・ズラウスキ)に最後まで振り回されて深刻なダメージを負った。いや、ニール・ジョーダンの『イン・ドリームス』といい、女優の高い演技力によるガチヒス描写があると本当疲れるんです……。 
聞きわけのない女に対して怒りが湧いてくるならまだマシなんですが、そうじゃない。次は何するのか分からない、今度はいつ暴れ出すの、叫び出すの、という女性に対してある種の“怯え”を味わったことある人間には、この映画は恐ろし過ぎる(怯えの裏面は、離れたくない、あるいは離れられないということでもある。相手が酷いからそれで終いに出来るなら誰も苦労しないだろう、だから第三者、ふたりの関係の外側にいる誰かの助けがなければならない)。 
この映画はズラウスキ自身の体験に根差しているというから、狂気だから怖いというよりも、本当どうにもできないから怖い、悪魔めいた何かが実際にいた方がまだマシだと思う、そういう視座で作られている、という局面もあるのだろう。だから、少なくとも、悪魔の話ではないのだろうとは思った。 
最初から最後まで“アレ”は妻の妄想だったというんでも全然問題ないんですよね、アパートの死体を見たときからついに夫もそれを共有し始めたというだけで。共有して、その帰結が「夫のドッペルゲンガー」な辺りがとても哀しいけど。 
しっかしサム・ニールは良いなあ・・・こっち系が板に付き過ぎてて全編なにひとつ不自然さを感じなかった(それもどうなの)。本当、妻のアパートを見つけて事態を理解した後の「ぐああああああああああ」からの、覚悟を決めてニカっと笑う、あの笑顔の凄まじさ。『イベント・ホライゾン』のウェア博士よりも怖いぞ。 
さらに、人殺しと証拠隠滅がやたら手慣れてる感、笑えるっちゃ笑えるんだけど、あの時代あの場所(たぶん冷戦下ベルリン)の感覚としては結構怖いシーンでもあるんじゃないかな……どことなく東西を巡る工作員っぽい感じが示唆されてましたけど。だけど、面と向かっての喧嘩は弱い(あるいはあの芸術家崩れの変な拳法が強いのか)ので、やっぱり少し笑ってしまうね。 
あの時代あの場所という点で、そういえばタクシーの運転手を脅してパトカーに突っ込めって言うシーンで、運転手が怖がるでも嫌がるでもなく軽く「喜んで」と言って実際突撃するの、あれはあそこでは自然な行為なんだろうか?ベルリンの官憲が嫌われてたとかで。分からん。 
あの分断された街並みを目で見る楽しさ、同時に伝わってくる嫌な雰囲気の充満は、『ミュンヘン』なんか思い出したりもしましたが、あれのエリック・バナは最終的に拠り所があるから、そこまでヒリヒリはしないですよね……この映画はまさに拠り所がやばいという話なので街の湿度がそのまんま毒気みたいな感じがしてつらい。 
そのつらささえ伝わってくるから、とても良い画の連続だったと言える。ただし精神はすり減りまくる。 
学校の先生の方のイザベル・アジャーニと、あと途中ちょっと入るバレエ教室の生徒たちだけは普通に眼福でしたね。特にバレエの少女たちの肩肘の華奢さ!意外と忘れがちな、実体としての細さ、もろそうな印象、を映像が再現していた。これもこの映画の画の良さですね、本当雰囲気ごと撮れてる。 
てか、あれだけの雰囲気切り替えをやってのけるイザベル・アジャーニがとんでもないということで……本当にとんでもない。暗黒舞踏からの、穴という穴からなんか汁が溢れ出てくるシーンに至っては、僕も毛穴という毛穴からストレス物質が噴出して死にそうでした。 
死にそうとかつらいとかばっか言ってるけど、それはつまり映画と格闘戦したということで、勝敗をどう言ったら良いかは分からないけれども、私はこの映画はかなり好きだな……。サム・ニールがああまでしてイザベル・アジャーニを求める様をジョークと受け取っても良いし、あるいはあのふたりをある種の感情移入で「君にはそうするしかなかったって、私には分かる」という風に見つめても良い、映像的にも美しいし、美しさとゲロ汚さが同居してもいる、つまりとても豊かな映画だ。それに加えて、個人的には、あの感情がささくれ立った感じ、嫌なことが頭を離れないときの世界の見え方があまりにも真に迫っていたから。 
でまあ、やっぱり、ホラー映画なのかというと違うよね……『狼の血族』とか『デモンズ’99』に近いものを感じる。寓意映画というか? 
『ポゼッション』を観た後で、誰かを好きになったり嫌いになったりというのは、やっぱり自力じゃどうにもできないことだよなあ、と改めて思ったんですね。それを決めるのは、それこそ宿命と運命、この言い方を避けるなら状況なのであって、「得が無いから」「損だから」といって好き/嫌いをやめられるなら苦労しない。これは、ちょっとした(あるいは重篤な)人間関係に限った話ではなく。 
感情と知悉が高まれば高まるほど、好きと嫌いは混ざり合っていくんじゃないでしょうか、こと人間に関しては(人間なら愛憎というのだろう)。そして、たぶん絵とか映画とか音楽とかも、ある作品が好きであればある程、知り尽くしているが故にいくらでも罵詈雑言が吐けるようになる気がする。 
そこまでいくと、物凄く好きなもののはずなのにちょっとした気分の表裏で急に最低最悪なものに見え始めたり……どうなんだろ、本当に好きならそういう裏返りはないのか?裏返るのはやっぱり自己愛だからか? 
なんにせよ、振れ幅に付き合い切るしかない。そういう振れ幅に振り回されてる時点で何かが間違ってるのかもしれないが、じゃあ振り回されなきゃ良いのか?絵や映画や音楽なら、「あ、なんか今日は体調が合わねーな」ってなればそれで済むんですが、人間はそうもいかない、なによりも、お互いのことなので(そもそも絵や映画や音楽といった客観的“対象”と同列に語ること自体に違和感はあるんだけど、ここは敢えてそれらと対人関係に相通ずるものを抜き出してしゃべってるんだと思ってください)。 
まあレッドツェッペリンの「The Rain Song」に歌われるように、“This is the mystery of the quotient - Upon us all, upon us all a little rain must fall...It's just a little rain...”というだけのことだとは思うんですね、「少しは雨が降ることもなければ」って。何の波風も起こらないなどということは、所謂Ever Afterの中にしかありませんしね。 
まあ苦しむために生まれてきたとまでは言わないが、苦しむのも我々人間の立派な職務なのだと思ってはいる。ただその見解を共有できないことだけが苦しいのだ。 
あとは瑣末な事柄。 
「たくさんデートしたいけどたくさん寝ていたいからお部屋でたくさん寝るデートしましょう 」というツイートを見かけて、普通に「あ、それいいな」と思ったけど、どうなんだ。かなり狭い範囲しか観測できてないから、もしかしたら一般的には「そんなのありえない」のだろうか?自分周りの観測範囲の反応から言えば、潜在的需要は結構なもんだと思われたので、川端康成じゃないけど添い寝風俗が実際あっても良いよね、と。もうあるのか?あるのだとしたら、そんなものを実際に経営する人間がいて、働く女性がいて、かつそれがやっていけるだけの分かっている顧客がいるということだから、ちょっとはこの世界も捨てたもんじゃねえなと思ってしまいますねそうですね。 
ついに永い後日談のネクロニカをskype経由でプレイ、と言っても参加予定だった人たちの都合が付かなかったんだか何らかのトラブルがあったようで、GM(このゲームの場合ネクロマンサーで略称NC、普通に考えたらNMな気がするがNC)とサシでのプレイでした。 
目覚めたら“母”を自称するネクロマンサーから可愛い子には旅をさせよ理論で切符を渡され、荒廃した世界を動き続けるアンデッド列車に乗せられるという話でした……シャム双生児の如き異形の車掌と、食堂車両で働く調理専用アンデッドたち(しかも良いひと)という愉快なセッティングで、車掌にアンデッド列車の「薪」にされそうになったところを抵抗して返り討ちにし、停止した列車を降りるまでのお話。“母”が案内に遣わしたもうひとりの少女と友達になって、これまでにも何度も何度も送り出されてきた他のドールたちを探しに行こうとしたら……みたいなとこで終了。 
双頭四腕少女の車掌がボスだったわけですが、1ボディーの一体扱いだったのが甘かったのか……マイドールのくされじるが予想以上に強く、こっちに有効打を与える前に3ターン目で全身を溶かされて死亡。こちらは私のキャラ+案内の少女(基本パーツのみ扱い、つまり武器・スキル・追加HPなし)のふたりだったのですが、基本パーツだけでも地味に「うで」(味方の判定値を上げる支援)「あし」(相手の判定値を下げる妨害)「こぶし」(攻撃手段)は揃ってますからね。 
……ゲーム知らないひとにはさっぱり伝わらない内容なってきたからやめよう。 
行動順管理が面倒臭いけど、これキャラ多いともっと楽しそうな戦闘だな、同時に行動順管理の大変さも跳ね上がるんだろうけど。あとやっぱり女の子のキャラは色々難しいですね……そのうえ異形なのに。当初は見た目通りの不気味な人格にしようと思ってたんだけど、サシになった時点で「プレイヤーひとりしかいないのにそれはシナリオ的にサムいんじゃないかな」と思い普通の娘に路線変更してしまったのが、果たして良かったのか悪かったのか分からない。 
地味にプレイしたがってる人がTLに散見されるので、また、今度は自分で募ってみても良いかもしれない。 
 
 三月後半に書いたのが以上。

なお、その後もしつこくネクロニカやりたいやりたい言ってたらまた拾っていただけまして、ウマトカゲPさんNCで下部さん、とーますさんと一緒にPLやってました。
こっちはこっちで大変楽しかったです、なによりとーますさんとこのアンジェリカちゃんが絡み易い元気なアホ犬娘(超誉めてる)だったおかげで、みんな良いいちゃいちゃプレイが出来ていたと思います。
なんとか完全に社会人となってからもTRPGをやれたという変な達成感がありました……やっぱり、次の日、大変だったけど。
 

以下は五月。 

 不慣れな暮らしでしんどいけど、すこしづつ本を読んでいる、ひとまずは『都市と都市』と『第六ポンプ』を読み終え、東京に『プランク・ダイヴ』を持って行こうと思う。感想を書く時間が今はないのだけど、とにかくバチガルピの「フルーテッド・ガールズ」は最高だったということは主張しておこう。 
読んだ直後の朝のツイートを引用しておく。 
<quote> 
朝イチでバチガルピの「フルーテッド・ガールズ」なんか読んだからもうビンビンである(出社) 
三浦悦子の人形を終始思い浮かべていた。人体の楽器化といえばメルニボネのコーラス奴隷なんかも思い出すけど、フルート化された双子はふたり一組で絡み合いながら互いを「演奏」するというのが退廃的なだけでなく分かりやすくドエロいので大変に良い 
あくまで双子の対で閉じているのが良い、分かっている。第三者が吹いたら下品だもの 
封建的に回帰しつつもメガコーポで、華奢な骨格・皮膚脱色に芸術的人体改造、パトロンがいてショウがあるとか好きな要素しかない作品である 
地位を確立し再生産側になったかに見える領主自身こそ、自分が「ガール」だったことに呪縛されてる感じが悲しくて良い 
</quote> 
クライマックスの演奏シーンを舐めまわすように3、4度読み返していますから、大当たりであったと言えますね……文章だからこそ二重三重の映像と音と温度と湿度、あらゆる体感、そしてなによりも吹き吹かれる姉妹自身が内側から感じる鳴動を一度に想像しうる、そういう描写になっていましたから。 
それこそ三浦悦子の人形に身体がバイオリンになった人形があるんですけど、それが自分自身を奏でるときに胴体が共鳴で震えるのを感じ、かつ身体の芯からの音を聴くのだろうということに思い至ったんですね。己自身が楽器であるということは実はとてもナルシスティックなんじゃないかということも感じたり。 

以上が五月。

 
何だいつもどおりじゃないかとは仰らないでください、苦しんでいるのです。

そうそう、Barren Earthの「The Devil's Resolve」は極上でありました。


headache_bodee at 23:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0) | 映画

2012年03月03日

屍者の物思い1.0

 そんなわけで今度は映画の感想編。実際長い。


 ええまず、長く家にいるおかげで、ようやくWOWWOWが活用できている感じがする……ジョイ・ディヴィジョンのドキュメンタリーとか(なお、twitterどっぷりの副作用として三点リーダーの打ち方が安定しなくなっている、あっちで…を打つと下線の位置になってしまうので意図的に・・・と打っているのだ)。


 それで、穴を埋めるような形での視聴がうまくいくとなんだか運が良いなって気分になりますね。という訳でなんとなく観てなかった『ポルターガイスト』三作を深夜から早朝にかけてぶっ通しでやってたのを観ました。トータルで言えば、自分のなかでは1>3>2といったところ。 
 1は、怪異と家庭の面白いバランスが成り立っている不思議な映画だったし、なによりもラスト10分のオーバードライヴ感が堪らなかった。中盤の『ヘルハウス』を思い出させる周到な妖しさと胡散臭さからの申し訳程度の過程ドラマ、そしてすべてを吹き飛ばす大崩壊、ひと息ついて、うんざりテレビを部屋の外に出す。何とも痛快である。 

 あんな風に条理に大穴をあけておいての白々しい2には、まあ、ファミリー向けですねとしか言いようがないであります。マッドジョージのクリーチャーのデザインは不思議とクトゥルフ風味でそこは良かった…別に強くないけれど。あのインディアンとトールマンみたいなおじさんの雰囲気自体は良いんですけどね。1の「一端は説明が付いて解決したはずなんだけどやっぱ人智を超えてて駄目でした」から、ああいう個人の狂気に収束しちゃうのは勿体ないなと。 
 いや、あの家族をそのまま主役に据え置く以上はああするしかなかったということなんで、仕方ないんです。やっぱりそこに無理があるよね。 

 そして3、初代のスピリットを欠片も受け継いでない作品にはむしろ評点が甘くなる私なので(ヘルレイザーのときも、3より4が好きとか言ってましたね)、2よりは良かったと思いました。 
 気合いで続けて気合いで終わらせましたって感じなんだろうか……CGとか発達してきたし鏡で遊んでみたよ、的な。でもこの鏡と氷の世界へと「切り替わる」のは、後々のサイレントヒルに通じるものあって面白い演出だった。 
 というか、2が2だったので気負わずに観たのが良かったのか。あんなに大きな建物が舞台なんだからもっと上から下まで阿鼻叫喚にせんかい!なんてとても三作目には言えませんし。 せっかく1、2と「人死にが出ない」という稀な特徴を保持していたのになー、なんかも、そんなに残念な感じがしないな、という。 
 ナンシー・アレンが年取ってたのが一番の衝撃だったとか言わないの。 

 今更突っ込んでもしょうがないが、最終的に映画内で起きてることはポルターガイストってレベルではないし実際ポルターガイストじゃないよな。 


 そしてその後、『サバイバル・オブ・ザ・デッド 』も観ました。これはキてましたね。 
 尋常じゃない格好良さが徹頭徹尾貫かれていて、西部劇をベースにしているためか、なんかジョンカペがゾンビ映画撮ったらこうなるんじゃね的な雰囲気すら漂っていた。ロメロなのに。もうゾンビ分ががっつり補充されちゃう……やっぱりわたしゾンビ映画というフォーマットそのものを愛しているのだわ! 
 とりあえず言っておくけど、ゾンビに信号弾命中→顔面炎上→その火で煙草に火をつける→海に蹴り落とすの流れは本当クールでした……こういう遊び心の大事さよ。 

 ゾンビを飼い慣らそうとするの前にもやってるけど、でも今回はちょっと構図が違いますよね。暴走した科学的興味ではなくて宗教的妄念からやってて、なおかつそれすらただの対立の言い訳に過ぎないという。少なくともバブには対しては愛情が与えられていましたよね…犬とか玩具に対するようなものとはいえ。 
 『ゾンビ』のときから結局は生前の行動に縛られてるんじゃねーかみたいなところはあったけど、生きた人間たちがあえてそれを強いて鎖に繋ぐってのは本当酷い冗談です(死者と馴れあって生きていく『ショーン』や『ゾンビーノ』なんかもありますけどね、ゾンビーノは馴れ合うとも違う気が……まあ以下でまた別で感想書いてます)。 

 しかしですね、やっぱり、評判が悪い。ダイアリーもだったけど……みんなゾンビ映画を何だと思ってるんだろうというようなレビューが多く、なんとも暗い気持ちになる。個人的にはランド、ダイアリーより上に位置づけられる作品だと思ったんだけどな。 

 滅びた世界を死人がよたよた歩く状況の堪らない虚しさを、痛快な皮肉として楽しむ回路が映画内にあるかないかが、私にとっては大事だ。ゾンビとは「危機」ではなくて、受肉した悲喜劇そのものだ。どうしようもなく馬鹿げていて悲しい、人間を愚弄して笑い飛ばしている……ゾンビを一種のモンスター、生命の危機的状況の手段だと思っている作品は私の好みじゃないんです、死人が歩き回ってるのに生命の危機がシリアスであり続けることなんて出来ませんよ……生者も死者もくだらなさにおいて同等になってしまうのがゾンビという現象のキモではないかと。 

 つまり、生も死も、どっちにしろサイテーだ、そうだとも。 

 そういう意味では間違いなく『デモンズ’95』は最高にゾンビ映画なのだなと、ふと思った。なんかジャンル分けが困難な変な映画だけど。 
 もちろん逆に、死を越えて尚も続くグロテスクな、さらには邪悪な超越的生命もまたゾンビの特色なのだけれども。二つの系統があると私は認識している。 

 この調子でさらに二本、こっちはレンタルで観たゾンビ映画の感想が続きます。


  有象無象馬の骨なオブ・ザ・デッドの大群のなかでも比較的評判が良く、“見られた出来になっている”と言われる『ミート・オブ・ザ・デッド』をようやく観ました。出来はどうあれ、どこでも置いてるのでもっと早くに観ているべきだったかも知れない。 

 確かに、低予算なりに真面目に作られていて、アイルランドのド田舎の荒涼としつつも美しい風景が、ゾンビ状況にひりつくような空気感を与えていたように思う。人間の死体に齧りついてる横を通り抜けても、一瞥して食事に戻るゾンビの野原、という絵だけで結構ええもんやった、という感が……ことの元凶がBSEの牛ってのと上手く響き合ってるシーンだったしね。 
 掃除機で眼球バキューム、ナイスでした。ダイアリーやサバイバルで見られた脳電気ショックで中身沸騰とか消火器で眼球噴出みたいな面白殺し、こういうのにロメロが触発された結果なのかしらね。主人公の「その場にあった適当なもので攻撃する能力」はかなり高かったように思う……ハイヒールが人体に刺さるかよ?ゾンビだから良いんだよ! 

 他にも、小規模なりに死者を玩具にしてみたり、すっごい狭い場所で籠城してみたり、噛まれた腕を切断してみたり(しかしその後何をするでもなく喰われたので、痛い目に遭い損だったねオッサン!)、斬新な要素としてはゾンビが集団で立ったまま寝ていたり、とにかく一通りのことはやった上で、『アンデッド』みたいな変な色気は見せずにやり通してるのにすごく好感を覚える。好きな匙加減。 

 あれほどまでの、次々押し寄せてくるためにいつまで経ってもゾンビ密度が変わらない籠城戦、新ゾンビ以来だけどこっちは銃すらないので、コーチのオッサンと墓掘りは相当強いと思った。真っ暗な中でどこがどこやら分からん画面に文句を言う手合いも理解はできるけど、個人的にはあの、松明の赤い光に浮かび上がる死者の群れ、右を向いても左を向いても右を向いても!感が出ていて良い工夫だと思ったけれども。少なくとも、『バタリアン4』みたいに、広い空間でゲームっぽく向こうからゾンビがわらっと湧いてくるシーンを何度も繰り返したばっかりに一杯いるんだかいないんだかさっぱり分からず興ざめ、というような事態になるよりは遥かにマシだろう。
 

 決して雰囲気が似通ってる訳ではないんだけど、『悪魔の墓場』にカテゴリとしては近いものを感じたのは、田舎が舞台なこと、ある種の環境問題が絡んでいること、そしてバッドエンドってあたりの共通の要素のせいか。考えてみりゃバッドエンドもまた『ナイト・オブ』からの伝統っちゃそうなんですが。 
 ひとつ文句をつけるとしたら、序盤のTPS風のカメラかなあ……あれは没入感よりはただゲーム臭いチープさを感じてしまったけど。中途半端に手持ち風に揺れるのがあかんかった。 

 総合的に言えばまさしくB級のなかの、Bクラスという感じで大満足。 


 そして、前からオススメされていた(本当このフットワークの重さはどうにかならんか)『ゾンビーノ』 、これほのぼの風にまとめてるけど結構やばい話じゃないですかね……レトロ・アメリカの郊外風なのも意図的に頽廃的にしてんだろうなと思わされる(レトロ・アメリカの郊外は頽廃的だと勝手に思ってるんだけど)。 

 いや、物語自体は、古いSF風の、こう、友達のいないいじめられっ子のお家にお手伝いロボットがやってきて、色々な出来事を通してそいつが無二の親友になっていくんだけど……みたいなもののロボットのとこにゾンビを代入しました、みたいなそんなにひねりのない、しかし頭のネジが飛んでいる代物で。変な化学反応によって自然に気が狂ってて……キャリー=アン・モスなんでこんな映画に出てるんですか、いやちゃんと嵌ってたけど。 
 しかし、やばいです、原題はFido(ファイドー)で日本語にすればポチ、みたいなよく犬に付ける名前らしいんだけど、それにならってすごい簡略化して物語の概要を言うなら、飼い犬が近所の婆さんを噛み殺しちゃったのでこっそり埋めたらまわりまわって真相を知らないいじめっ子に犯人に「仕立て上げられそうに」なって、でも紆余曲折あって悪餓鬼も始末しました、みたいな。おいおい。さらにひと悶着あるんですが、それはさておき。 

 これはこれで、なんかよくある図式になってしまったランド・オブ・ザ・デッドと違うやりかたでポスト・ゾンビ状況の「命の安さ」が出ていて良かったかなと。むしろひねくれている分よりきつい皮肉とも言える。ランドと違ってゾンビ状況が一端収まった後の人類の暮らしが、ディストピア風とはいえ割りと上手く享楽的に成立しているのが、気持ち良い大法螺になっている。そりゃ、古き良き「夢のある未来」の家事ロボットのとこにゾンビが収まってるんだから当たり前なんだけど。 
 あー、そういう意味ではショーンのその後とも言えるのか?同じゾンビホラーコメディだけど、ショーンとゾンビーノだとゾンビーノのがまだロメロの延長にある感じもするけど。オープニングがどことなくナイトからのパラレル臭さを醸し出しているし、なによりショーンはゾンビコメディ以前にブリティッシュコメディだと思うので……。 

 これも、こう閑静な住宅街で淡々とゾンビに対処する公務員(みたいなもん、町を企業が支配してる設定)、ちょっとしたアウトブレイクがあっても、翌朝には普通の日常が戻っていて相変わらずゾンビは労働力として使われ続けているという絵だけで「いいゾ~これ」って感じです。 
 なんか最近、一箇所ストンとくれば後はどうでもよくなってきてるのかも知れん……。 


 もっとぱぱっと観てぱぱっと書いていくべきなのかもしれませんが、私はながら観ができない性分でして……でも、いや決して非難してる訳ではないのですが、ながら観で月に何十本と観ても何も残らないんじゃないですかね……?

headache_bodee at 00:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)映画 

霧の中の物思い2.0

 なんか色んな人が色んな人なりにそれぞれ大変な生活をなんとかいなしているなか、自分だけがこんなクソみたいな暮らしでのうのうと生きているんだものな、へっへっへという気分が定期的に高まります。 
なお悪いことに、本当にコミティア100に申し込みやがったりしてるので、なんていうかもう。どうなるかは分からないけれども。 
 こんな状況、なんらかの文化を自分の器官のなかを潜らせるか、あるいは作り出すかしないことにはとても正気が保てるとは思えず、ふざけ半分の気鬱がガチモンになりかねないので、まあ他人に迷惑のかからない範囲でね。

 
 さて、ご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、最近の怪事件。
 ゲスト原稿なんか描いたりということもあって、ふと魔が差してPNでエゴサーチしたら、2ちゃんのSF板にホラー系のイラスト描くよ、みたいなスレが立ってて、それが検索にヒットした。 
 何でだろうかと疑問に思って開く。1は18歳♀って書いていた。まあそれが本当だったのかどうかは知りようがないし、どうでも良いことであり、「主スペック」などの表現から「ああ、ニコ界隈から流れてきたんだろうな」ということは想定できた。問題はその後だ。 
 なぜか幾つか目のレスで「メグリム・ハルヨたん?」って書きこんだ人がいて、それを見た僕の脳内は大混乱に陥ったのだった。まったく僕の関与していないところで何が起こっているのか? 
問題は、ハルヨを「ホラーなイラストを描く18歳♀」であると、どこまで本気だか分からんが認識する人がいたということですね。その後の「ハルヨたんペロペロ」「クンカクンカ」などと続き酷いにも程があって何が何だか分からんのだけれど、いまだに立てた本人が帰ってこないので分かることはないだろう(流石にちょっと面白かったので継続的に観察しているが動きがない)。 
 なんか知らん人と勝手に勘違いされて逃げちゃったのだとしたら、なんだか私も勝手に申し訳ない気持ちになってしまうというものだ。 
 それにしても、本当に勘違いしているひとがいたのだとして、一体何考えてんだと言わざるを得ないのである。 

 それはともかく、もう一度13歳を生きるなら男になることを拒絶したい感が凄い漂ってる。あ、どうでもいい。 

 ええと、本日は二連更新で。長くなり過ぎるので本の感想と映画の感想分けます。 

 
伊藤潤二『死びとの恋わずらい』、これまで読んでいなかったのが悔やまれるほどの作品だ……もしかしたら、個人的には伊藤潤二の作品内ではベストかも知れん。「長い夢」とこれをもってして楳図かずおと並べても良いとすら思う。 
 いつも、ちょっとペンが跳ねた隙にギャグになってしまいがちな伊藤潤二のホラーですが(それはそれで誉め言葉なんだけど。ギャグと紙一重であるとはそれだけ強度のある異様さを持っているということだ)、今作は一定のシリアスさを保って最後まで走りぬけている……極限でぶん投げた『うずまき』や最初から放物線で放り投げている『地獄星レミナ』とは違い、一歩一歩霧のなかを歩いている。このひと長編でこんなにふざけないでいられるのを初めて知った。そしてふざけなければ、こんなに哀しく描けるんだ、と。グロテスクな亡霊の絵が本当に哀しく見えるという稀な例ですこれは。 
 あ、でもいきなり前言を覆すようですが第二話はギャグ入ってますね……窓から勝手に入ってくるくせにちゃんと「こんばんわ……」って言う辺りは笑いを我慢できなかった。 
 しかし、けっこう露骨に世相を映している感がありますよね……この話。
ちょっとした苛立ちから赤の他人に呪いを吐いたそれが連鎖になっていくとか、悩みを打ち消すためにもっと大きな悩み、もっと苦しい悩みを求めてしまうとか、悪意あるアドバイスとか。洒落にならない、それがまたシリアスに感じられる理由か。 

だけど、読後感はすごく爽やかなんです、最後に描き足されたエピソードの「愛してやってくれ……」の科白が、静かに救いを予感させて物語を閉じていく……とにかく、こんな潤二初めてで感動してしまう。最後まで謎は残ってはいるけど、ちゃんと因果が閉じているんですよね……。 



 そして円城塔。 
 なかなか読む機会に恵まれなかったのだけれど、伊藤計劃の二冊と交換するかたちで貸し借りしたんですね。ええもう、こうしてまた本を一気読みしてしまうだけの精神の薪が自分に残されていたこと、それに見合う価値のある作品がたまたま手元にあったこと、そしてその作品が私の中に結んだ素晴らしき幻像について、主に感謝を捧げねばなりませんという気分に満たされて市民は大変に幸福です。 

 『Self-Reference ENGINE』 はもう一気に読み終えたあと脳内の化学物質が変調をきたしている感覚に襲われた。楽し過ぎて。 
 理解できるできないというよりも、これはまず第一にギャグとして読むものではないのか……?あまりに巨大な与太話故に「へへへっ、へへへっ」と不気味な笑い声を洩らす自分がいた。 
 そしてもちろん、同時に、なんかすごいメタな構造をも持っていることがうっすらと知覚できる。無限と有限(あるいは無)、といったテーマのようななものを基底に置いて、何かがあったりなかったり起こったり起こらなかったりする、結局は物語の物語、というか。いや、全然把握できてないからニュアンスだけでものを言っています。 
 哲学やってたときから、初見で「なんか言ってるっぽいんだけどう~ん?ま、あとでまた読んでみっか」くらいの感じのときのものが、結局再読しなかったのに後々で身になるという経験があって。多分、一読したときになんらかの「形式」が私のなかに残されていて、その後に出会った様々なものがそこに嵌っていってあるとき「ああ、こうか」となるんだと思うんですね。 
 などと考えていたら、直後の『Boy's Surface』でレフラー球なる概念が出てきて「やっぱりじゃねーか!」みたいな、興奮がありまして。もう好きになるしかねえよ。 
なんにせよ、「ジェイムスはこのあたりで一番賢い奴なのだが、そして多分北米大陸で一番賢い奴なんだと僕は信じているけれど、なんと非道いことに二週間前からリタに惚れている。リンゴから熊を引き算できないことくらい僕も知っているけれど、こいつは最低だ」みたいな文章に僕は露骨に弱いということがこれではっきりしたのだ。 


 そしてまた『Boy's Surface』も強烈でしたね……特に表題作は、文そのものよりもメタい構造自体に感動させられる(しかもその構造がよくできてるということに、ではない)斬新な状況に陥った。そしてそれから、アガートが可愛い。なんかもう、色々書こうと思えば書けるけどすべてが見当違いの方向に行きそうだ。脳が追いついてない。 
 表題作を読み終えたとき、脳裏に浮かんだのは「これはもしや、しあわせな『鏖戦』なのか?」ということだ。訳分かんねーことを言ってると自分でも思うけど、つまり「鏖戦」が終わりなき非-個的戦いの輪廻だとしたら、
「Boy's Surface」は二者からなるひとつの個という恋の輪廻だという風に読めたということだ。 

 前者においてはマンデイトを通してプルーフラックスとクリーヴォの恋は輪廻、するはずだったのが結局失敗したのだけれど、後者ではレフラーとフランシーヌの関係は破れたにもかかわらず、レフラー球を通して恋そのものは輪廻し続け、そしてレフラーとフランシーヌの論理が戦い続ける。「不可能な初恋」という可能として存在し続ける。せつないけれども、「鏖戦」の寒々しさと絶望とは対極の情景がここにはあって、それがなんだか泣けてしまう。 


 かくして、私の脳内に出来た「自己参照機関」はこれから私が書き語る諸々に影を落とすだろう。 
これらは後々手元に置いてときどきパラパラと読むのに適している……ひとはそれをボルヘスだとかレムの『虚数』的だというのだろうけど、私にとってのそれはブルーノ・シュルツだったんで、そういう領域を占めるのだろう。 
 時間の条理が混乱している話っぽいという雰囲気をつかんだ時点では、シュルツの「砂時計サナトリウム」みたいな物語になるのかなと思ってたんですよ。実際にはそこをどんどん溢れだして行ったけど、でもやっぱり時間と存在が分裂して並列していく様は、どことなく似ている。 

 どうにも条理の崩壊がある物語は愛してしまうようだ。 
 円城塔は『暗黒整数』とかで必死に食い止めようとしている事態を「これから起こったこと」として書くから、ある種のポストアポカリプスものとしても読めるのもポイントですね……イカれた時代へようこそタフボーイな荒廃世界というのは実際それほどアポカリプティックではないどころか既に現世にいくらでも存在してるじゃんという虐殺器官感覚を持つ私は(実際北斗の拳の世界では徐々に秩序が再建されて、モヒカン的でない悪もまた復活していくわけで)、時空感や存在そのものがぶっ飛んだり生と死の境があやふやになるぐらいでないと、と思ってしまうんだろうか。 
 条理崩壊の一点に置いて、シュルツやフルチと同じ辺りに置いても良いような気もしたが、彼らが「混沌の渦に呑まれながら電波を発している」のに対して、こちらは混沌の記号をためつすがめつ「あー、これは面白いぞお」と言っている感じなので、やはりそこはSFである、ここでの混沌はあくまで混沌のための混沌として準備されている。 


 そしてこの二冊を読んで、まさしくそのメタい性質ゆえに、「私が私の読んだものに則ってあのひとを理解するように、あのひともあのひとが読んだものに則って私を理解する」としたら、みたいな可能性に思い至り、あのひとそのひと、どんな見え方でどんなことを思ったのかを想像し、人間性の端が焦げるような気分になった。


 ところで、いまだにミエヴィル積んでますけど、それは大丈夫なんですかね……バチガルピも買ってないしね……。 
 そう、それはともかく、ちらりと目にした情報で『都市と都市』の謝辞を確認したらブルーノ・シュルツの名が!東欧の奇妙な幻想の舞台には必ず付きまとう名前なのかも知れない。いや、今私は自分の文学的酔歩がちゃんとひとつの星座を結んだことに感動しているんだ、いやはや。ニュー・ウィアードとシュルツがこんなところで出会うとは! 

headache_bodee at 00:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)漫画 | 
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