こんにちは!お久しぶりです。
 仕事などが忙しくて最近なかなか更新できなかったのですが、今号のYGに掲載された『咲―Saki―』第132局[恩義]でついに 副将戦開始ということで、いい加減再始動しようと思います。

 私の近況としては仕事をしたりお菓子を食べたり有珠山銘菓わかさいもを食べたり連合艦隊を率いて磯風様を迎えに行ったり(しかも結局お迎えならず)、オヤカタとして身を立てることを試みたり、去る九月二十八日に名古屋で開催されました咲オンリーイベント「あンた、背中が透けてるじぇ!! 名古屋5」に参加したり…って感じですね。オンリーで色々な方とお会いして、その『咲―Saki―』に懸ける情熱のあれこれを目にして、すてきな同人誌を読ませていただいて、私も頑張らねば…と強く思わされたのでありました。
 あときわめて私事で恐縮なのですが実家で犬(ポメラニアン)を飼い始めました。名前はモモ。そんなわけでとりあえず庭に佇むモモに向かって「私は!君が!欲しい!」とユミちん気分で叫んでみたところモモはドン引いて逃げるわ、その様を近所のひとに見られるわで散々でした。「モモ」ってペットの名前としてけっこう使われることが多い気がしますが、犬や猫のモモ相手にユミちんごっこをするときは人目に気を付けてね!

 さて。
 第132局の冒頭、揺杏の手になる改造制服を身に着けたユキは過去を回想し、「恩義のあるなしにかかわらず先輩たちがよろこぶように生きたい」「努力してみよう…」と考え、出陣します。
 注目したいのは、そんな彼女が控室を出てゆくとき、爽がかけた次のようなことば。

「心安かれ 恐るるなかれ 汝死ぬることあらじ」

 これに対してユキは以下のようにこたえます。

「わが祭物(そなえもの)を携えて 之を汝の前に 供えるまで ここを去りたもうなかれ」

 このやりとりはチカ&ナルによれば「順番も意味も違う」が、「励まそうとしてる」ことばである、とのこと。今日はこれについて考えてみたいと思います。


◆出典◆

 これは『旧約聖書』の「士師記」第六章18節、同23節を元にしたやりとりです。「士師記」とは、「士師(しし)」と呼ばれるイスラエルの英雄たちと他民族との戦いの歴史を記したもの。
 爽のセリフの元になっているのは23節の神の使い(を通した、主である神)のことば。そしてユキのセリフの元になっているのは18節、その神の使いに向けたギデオンという人物のことばです。この二つのことばは「士師記」の中で「やりとり」のかたちになっているわけではなく、またユキのセリフの元ネタのほうが先に発されています。また詳しくは後述しますが、爽もユキも、「士師記」とは異なる文脈の中にこれらのことばを置いて、そこに元ネタとは異なる意味づけをしています。それがチカちゃんのいう「順番も意味も違う」ということの意味であります。

 もうちょっと詳しく知りたいというひとは聖書本文を読んでみてください。以下に該当箇所の本文のリンクを貼っておきますね。こちらは口語訳なので作中に引用されたかたちとは少々異なりますが…。

Wikisource―士師記(口語訳) 

 作中に引かれたことばが、どういうエピソードの中で出てくるのかというと。
 イスラエルの民はエジプトを出て長い旅の末に約束の地に導かれましたが、神の前で悪を行い、その報いとして異民族に苦しめられることになります。ゆえに、イスラエルの嘆きは日に日に大きくなる。そのとき神の使いがギデオンという人物に語りかけ、イスラエルを救うべく戦うよう命じます。
 ギデオンは、神の使い(を通して語りかける主なる神)に、次のようにいいます。

「わたしがもしあなたの前に恵みを得ていますならば、どうぞ、わたしと語るのがあなたであるというしるしを見せてください。どうぞ、わたしが供え物を携えてあなたのもとにもどってきて、あなたの前に供えるまで、ここを去らないでください」。

 太字にしたところがユキによって引用された部分です。
 このようなギデオンに対して神は、「わたしはあなたがもどって来るまで待ちましょう」と告げるのでした。ギデオンは肉と種入れぬパン(発酵させていないので平べったい、煎餅やクラッカーめいたパン)、それからあつもの(スープ)を作り、それを持って戻ってきます。神の使いが岩の上にそれらの供え物を置かせ、杖で触れると、岩から火が出て供え物を焼き尽くします。この奇跡を見て、ギデオンは自分が向き合っていた相手がまさしく神の使いであったということを理解し、大いに恐れます。「ああ主なる神よ、どうなることでしょう。わたしは顔をあわせて主の使を見たのですから」と。
 神はそのようなギデオンに、次のように告げます。

「安心せよ、恐れるな。あなたは死ぬことはない」。

  これが爽によって引用された部分であります。



◆引用の方法とふたりのキャラクター◆

 というわけで… さわちゃんの引用箇所は神を直に見、ことばを交わしたことに恐れおののく人間に向けられたもので、「強大な敵を前にして圧倒的に不利な状況にある」とき、後輩を勇気づけるための引用として適当かどうかは微妙なところです。
 こんなズレが生じているのは、彼女が「『士師記』って勇士が悪い奴と戦って勝つ話だよな。だから、まあこのことばは神が勇士(名前失念)を勇気づけるためのものなんじゃない?」というあいまいな記憶に基づいて神の使いのことばを引用したからではないでしょうか。彼女はパウロの名前もきちんと憶えていませんでした。聖書マニアのユキに付き合ったのかそれとも学校の宗教の時間に憶えさせられたためなのか、なんとなく聖書関係のあれこれが頭に入っているものの、それを「きちんと」記憶しているわけではない様子。
 これを聞いた聖書マニアのユキちゃんは、直接呼応はしていないものの、同じ『士師記』の神の使いに向けられたギデオンの言葉を引き、しかも爽に合わせて、あえて意味をズラした引用を行っています。ギデオンのことばを「点数取り返して戻ってきます。あなたの出番を失わせるようなことはしません」という意味で引いている、と考えるのが妥当かな。

 そして、ユキが爽に合わせたことばを導こうと努力している点にも注意しておきたいと思います。聖書の引用を用いたやりとりは、ふたりの性格、立ち位置をも浮かび上がらせる。爽はやりたいことをやりたいようにやっていて、ユキは回想を経て「先輩たちがよろこぶように生きたい」という気持ちを新たにしている。そういうふたりの姿が、この聖書の引用からも見えてくるわけです。




◆ユキが抱えている(かもしれない)問題点と脆さ。◆

 でもさ。
 自己犠牲と利他精神(それは確かにキリスト教において推奨されるものですが)に特化した、ユキの「麻雀を打つ」動機――それは果たして、「打たされるのではなく、自分の麻雀を打つ」「麻雀を楽しむ」ということに繋がるのでしょうか。なんて思ってみたり。
 私はキリスト教の価値観の中で育ち、「隣人を自分のように愛しなさい」「人にしてもらいたいことはなんでも人にしなさい」という聖句を行動の規範とするように教えられてきました。自分よりも他者を思いやって行動するよう言われてきました。
 けれど、ふと思ったんですよね。自己をすべて殺して利他のみに生きる人間に、「隣人を自分のように愛する」ということは可能なんだろうか、と。自分の「してもらいたいこと」がわからなければ、他人の気持ちを忖度して利他を行うことなどできやしないのだから。
 今のユキはとにかく「先輩がよろこぶように」生きたいと思っていますが、抵抗せず、ただひたすら爽たちに追従して生きる、麻雀を打つ、ということは、せっかくインターハイで準決勝まで進みながらも何も楽しめていない状態なのではないでしょうか。どうでしょうか。
 そして、果たして本当に爽たちがそれを望んでいるのか。…難しい問題だと思います。爽たちだって、ユキを笑顔にしたくて、その重荷を取り除いてあげたくて、仲間に引き入れたはずなんだからさ。
 爽たちの「よろこぶように」生きるということは、実はユキ自身が心から楽しむ、ということとイコールであるはずなんですよ。

 これまで『咲―Saki―』という物語は、少女たちの絆が、彼女たちをひとりでいるときよりもさらなる高みへと引き上げる、という展開を描いてきました。しかしユキの場合は爽たちとの「絆」が逆に足枷になって、空に羽ばたけないかもしれないのです。これまで登場した人物たちとは逆の属性を背負わされた存在として描かれているのかもしれない。キズナではなくホダシがユキの全身に絡みつき、彼女を縛り付ける。
 そして、もしユキが思い描いている「先輩たちのよろこぶよう」な生き方が叶わないとしたら―すなわち、実力を発揮することができなかったら、彼女は自分を責め続けてしまいには壊れてしまうかもしれない。
 そして爽たちは、そのことに深く傷つくかもしれない。

 どうでしょう。今後の展開が気になってきましたね!深読み過ぎるって?そうかなあ…
 
 願わくは、この準決勝において(あるいはこれをきっかけにして)、ユキが麻雀を楽しむことができますよう。

 あ、有珠山のスタイルって他校と真逆だなあと思うところが多いので、それについても追い追い記事にしたいんですが、できるかどうかわかりません!可能な限り頑張りますが。




※10月4日、追記

 うーん…ちょっとダークな感じに深読みし過ぎたかもしれません。
 ユキは爽たちと出会い、アナログゲーム部と化していた部を彼女の得意な麻雀によって立て直すなかで、確実に変化しています。これまではただ自分の価値を確認するためにとにかく他人の頼まれごとを引き受けていたけれど、四人と出会って、心から「先輩たち」のために生きたい、という気持ちに変化している。ここにおいて彼女の「利他」は、有珠山麻雀部の四人―すなわち「隣人」を心から「愛する」ことと深く結びついたものとなっているといえましょう。
 そのようなユキはユキなりに満ち足りて、楽しんでいるのかもしれない。(そういや改造制服のスリットを見て「ちょっと楽しそう」とも言ってたっけ)
 ただ登場人物がわりと重いものを背負っている『咲―Saki―』ですから…どうなりますかね。

 さて、そんなユキが、おそらく自分とは真逆の存在であろうのどっちとの戦いにおいて何を思い、どう変化してゆくのか。和からすれば、ユキの生き方は全然合理的ではなく、自分を持っていないように見えると思うんですよね。そのあたりがどう描かれることになるのか、私、気になります。

 関西が誇るふっくらおもち、愛宕妹はそこにどう絡んでくるのか。
 おもち対決に混ざれないメグちゃんの戦いぶりやいかに?そういえば北海道にはカニが入ったラーメンがあるんだぜ!

 ちょー気になるよねー。