それは形容しがたいほどの悪臭だった。鼻と喉がちりちりと痛む。アッコロの触手と赤い水が私を守ってくれていなければ、とうに気を失ってしまっていただろう。

 寒い。寒い寒い。寒いよう――
 悪臭の主は声を上げる。それは泣き声のような哀しい調子を帯びて、頭の中に響いた。

 この臭いゆえ、たいていの獣や人はわたしには寄り付かぬ。しかし昔はどこの川にも仲間がいたものだ。また、集落には時折、我らの声を聴くことができる者がいた。かつては虻田の地にそんな娘がいて、彼女はわたしのために火を焚いてくれた。――だからわたしは彼女の友となり、力を貸してやった。とおいとおい、昔のことだ。

 寒くてたまらない。こんなに日が照り付けているのに、 羽毛と鱗の下は氷のように冷え切っている。どうしてこんなに寒いのだろう。どこの川にも仲間がいたころは、人が私の声に耳を傾けてくれたころには、ここまで寒くはなかったのに。
 湾の主の声を聴く娘よ。なにとぞわたしの声をも聴き、火を焚いてくれ。どうかわたしのために火を焚いてくれ。

 金色に光る眼が、じっとこちらを見据えている。 
 どうする? アッコロが私に訊ねる。こたえは決まっていた。

「家に戻って、マッチかライターを取ってくる」

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 同じような経緯で、それからも幾人か「ともだち」ができた。
 「ともだち」のことはチカや揺杏にも内緒だ。こんな話、信じてもらえるわけがない。それにたとえ信じてくれたとしても――それは必ずしもいい結果を齎さないかもしれない。

 でもアッコロは、変なおっさんに車で連れ去られ、言うことを聞かなかったという理由で海に沈められそうになった私を助けてくれた。そんなアッコロは、果たして「悪い」ものなんだろうか?
 ホヤウは寒い寒いと泣いていた。その声は哀しそうだった。だから私はホヤウとも「ともだち」になった。それは果たして「悪い」ことだろうか?

 小学校四年生のある時期、毎日そんなことばかり考えていた。食欲はなくなり、眠れなくなり、チカの家に行くのが怖くなった。児童館にも行かなくなった。揺杏が何度か家に来てくれたけど、何を話したらいいのかわからなかった。医者は、行方不明になっていた間に怖い目に遭ったせいだと言った。事件や事故に遭遇した子供はときどきそうなるのだ、とも。ちがう。アッコロが助けてくれたから、怖くなんてなかったのに。
 両親の帰りを待つ間、公園や自分の部屋で「ともだち」と一緒にトランプやカード麻雀をした。アッコロは赤が好きで、トランプをすれば赤いカードばかり集めてしまうし、麻雀をすれば山も河も赤く染めてしまう。気のせいか、元々色素の薄かった私の髪も日に日に赤みがかってきているようだった。

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「ちっ、またお前の勝ちかよ」
 私は芝生の上に寝転んだ。アッコロは触手をぬらぬらと動かしながら、頭を使え、頭を、と言った。
「っていったってなあ。ズルいよ」
「爽、わたしが助けてあげてもいい。ちょっとの間なら、アッコロを近づかせないようにできる」
 授業参観のお知らせやテスト用紙が燃える灰皿の横で暖をとっていたホヤウが、そう囁く。
「マジで?」
「ほんとうにちょっとの間だが。助けてほしいときにはわたしの名を呼んで」
「ホヤウには疫病さえ近寄れぬというからなあ。しかしそれだけで果たして儂に太刀打ちできるかの」
「いいぜ。もう一度勝負だ」
 そう言ってカードを手に取ろうとしたとき――私は背後に「ともだち」とは違う誰かの存在を感じた。最近ではこんなふうに公園で過ごしていると、「ともだち」が別の「ともだち」を呼んでくることもある。でも、私の後ろにいるのは、それとは違う種類の、チカや揺杏に近い種類の「もの」だった。

……人間。

 アッコロやホヤウは素質のある者の目にしか見えないらしい。つまり他の人間から見れば私は、学校から貰ったプリントを灰皿で燃やしながら、独り言をべらべら喋りつつカード麻雀をしている「変な奴」だ。まずい。
 恐る恐る、私は振り返った。いったい誰だ、ここで私を見ているのは。

 視界に飛び込んできたのは眼鏡をかけた小さな女の子だった。赤いランドセルに埋もれてしまいそうな小柄な身体。大きな本を大事そうに抱えている。アッコロが好きそうな色ででかでかと「超常現象・UFO・未確認生物―世界の不思議!」というタイトルが書かれていた。
 その表情は、予想していたものとはかなり違っていた。奇異のまなざしでこちらを見つめているわけでも、嫌悪を示しているわけでもない。眼鏡のレンズに覆われた大きな目はきらきらと輝いていた。
「えっと、その――」
「かっこいい!」彼女は興奮したように叫んだ。「山も河も真っ赤で、すごくかっこいい!」

 理由は分からない。なんとなくその子には、「ともだち」のことを話してもいいような気がした。その子は愉しそうに私の話を聞き、ときどき「それってとてもかっこいいですね」と言った。
「お前、『かっこいい』の使い方間違ってないか」
「私がかっこいいと思ったからかっこいいって言ってるんです」低学年のくせに生意気な口を利く娘だった。
「アッコロさんはクラーケンの仲間なのかな。ホヤウさんはこの本に載っているスカンク・エイプとか、ジーナ・フォイロに近いかも」
 聞きなれない名前に首をひねると、彼女は本のページを開いて解説を見せてくれた。

 クラーケン。中世から近世にかけて北欧の海に出没したという大きな怪物。巨大なタコやイカのような姿をしているという。
 スカンク・エイプ。アメリカのフロリダで目撃された獣人型の未確認生物。非常な悪臭を放つことから、「スカンクエイプと呼ばれるようになった。
 ジーナ・フォイロ。アフリカのセネガルで目撃された未確認生物。コウモリのような姿で、それに出会った人間は悪臭を感じて体調不良を起こす。

 「ともだち」と出会う前の私だったら、そんなオカルトありえないと一笑に付していたかもしれない。しかしそうした目撃例は、今の私にとってはとてもリアリティのあるものだった。
 そしてふと思った。
 この本に載っているこれらの生き物が、アッコロやホヤウの仲間なのかはわからない。でも世界のどこかには、まだ「ともだち」の仲間が生き残っているのかもしれない。と。素質のある者がたまたまその姿を見て、でも彼らの声を聴くことなしに逃げ出しているのかもしれない。
 会ってみたい。孤独な魂に、決してお前はひとりじゃないということを教えてやりたい。そのために私はここにいて、あいつらの声を聴いているのかもしれない。
「世界を旅して、『ともだち』の仲間を探しに行きたいな」そう呟くと、彼女はきらきらした目でこちらを見て、にっこりと笑った。
「それって、とっても、かっこいいと思います!」
「だろ」私も笑顔で返した。「私はお前が言う通り、とってもかっこいいからな」

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 あの頃の私は、誰に「ともだち」のことを話すこともできず、とても孤独だった。
 誰かに自分の行動を肯定されたい。ただそれだけを願っていた。
 偶然出会ったあの子のおかげで、私はとても、救われたのだ。
 
 部室を掃除していたユキに、「昔、どこかで会わなかったっけ?」と訊いてみた。
「先輩。その方法でナンパに成功する例って一割もないらしいですよ」と、ユキはクールだった。
「いや、そういうことじゃなくてな」
「ではもしかして輪廻転生に興味が」
「そうでもなくて」なんだか長くなりそうなのでこの話題はそこで打ち切ることにした。「まあいいや。過去にユキに会ってたとしても、そうではないとしても、ユキは最高の後輩だよ」
「どうしてその結論に至ったのかはよくわかりませんが――でも、私も同じことを思ってますよ。先輩は最高にかっこいいと思います」
 昔のように余裕で「だろ」と返したかったのだが、なぜかうまくいかなかった。彼女の優しい声、かっこいい、ということばが胸に響いて、頬が熱くなる。
 いつか二人で世界を旅して、「ともだち」の仲間を見つけに行かないか。そう告げられるのは、いったいいつのことになるだろう。今はまだちょっと……その余裕がなさそうだった。
 かっこいい姿ばかりを見せたいところなのに。何なんだろう、この気分は。

・・・・・・おわり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 146局を読んで、こういう話を妄想しました。
 小説ってふだんあまり書かないので、うまくまとめられませんでしたが。