2005年10月21日

ブログを引っ越します。

遊びに来てくださってありがとうございます。
このたび、このブログを引っ越すことにしました。

今後は、てぃーだブログにて「心に効く言葉」を更新していきたいと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。


新URL:http://kotoba.ti-da.net/  
Posted by heartwords at 03:09
2005年10月20日

経験に勝る才能なし

経験に勝る才能なし

「3年後の自分のために、今何ができるのだろう?」と考えたことはありませんか。人は夢があり、それを達成したときの「ご褒美」があるとなるとがむしゃらになれます。

「夢」という言葉を使うと実現不可能なニュアンスも含まれるので、最初から諦める人もいますが、「夢」のないところに「可能性」や「ご褒美」はないのです。
それはゴールのないマラソンを強いられるようなもので、どこまで行っても到達しないのです。だから「たら・れば」と言い訳ばかりで諦めてしまう場合が殆どでしょう。

「こんなことを続けていていったい何になるというのだろう?」と夢を忘れて考えることがありますが、自分の心にはいつも「何にでもなる」と念じるようにしています。

実際、何かを経験していると、後になってまったく分野の違う場合でもそれが生かされる場合が必ずあります。
なんでもいいから経験するという考えよりは、どんな経験をしたとしても最終到達点である「夢」に行きつくと考えられれば、それこそが「才能」だと思います。
  
2005年10月19日

徳のある人は立派な言葉を使うが、立派な言葉を使う人が徳のある人とは限らない

徳のある人は立派な言葉を使うが、立派な言葉を使う人が徳のある人とは限らない  論語(憲問篇)

はい、私のことです。 
私は色々な言葉に触発されて自分なりの人生哲学を形成していこうと考えているのですが、どれもこれも実践できていないことばかりです。
故に、私の使う言葉に「重さ」という部分が欠如してしまっているのです。

もし徳のある人が私とまったく同じ言葉を使ったとしたら、人の受け取り方は全然違うと思うのです。お金持ちでない人に「金持ちになる方法」を聞いたとしても、やはり納得できないですよね?

でも、だからといってそれを使ってはいけないとは思えないのです。例えお金持ちでなくても、お金持ちになるためにはこうして行った方がよいという自分なりの哲学が必要だと思うからです。

最近よく「私的には〜じゃないかな?」と「的」を使い疑問符でくくることで責任逃避する傾向があると新聞で読みましたが、それでは成すべきものも「私は」成されないと思うのです。

「徳を積む」という言葉があるように「徳」があるから良い言葉を使ってもいいわけでなく、「徳」を積むために良い言葉を使っていくべきだと考えます。
確かに良い言葉は言うが行動や態度が伴わないことが多々あります。
説教じみたことばかり人に言って自分を省みないことも多々あります。

私はこの投稿を通じて「徳」積み、行動や態度によって言葉に質量を持たせ人を納得させられるよう努めていきます。
  
2005年10月13日

“ありがとう”を言う責任はあるが、言ってもらう権利はない

“ありがとう”を言う責任はあるが、言ってもらう権利はない

世の中は“ギブ・アンド・テイク”だと思います。
しかし、簡単にそんな関係にはなりにくいのも事実です。

何故なら、人は自分の行った行為に対する“妥当な評価”を得たいと思うからです。この“妥当な評価”というものがクセモノで、“妥当”という尺度は人によって違い、大抵は「たったこれだけ?」と不満を募らすことがほとんどだと思います。

私は人に“認めてもらいたい”“感謝されたい”という心を持って行動しています。それは私の喜びであり、自己の成長に繋がると思うからです。

しかし、当然のことながら、それはエゴでもあります。
自己顕示性による「これだけやってあげたのだから感謝されて当然」という高慢な部分をどうしても拭い去ることはできません。

それだけに評価が低かったりすると「感謝が足りない」とひとり腹を立ててつまらない人間に成り下がっていることも事実です。

そんな愚痴を妻や友人にこぼすと、決まって「それなら最初からやらなければよかったじゃないか」と叱られます。確かにそうです。しかし、私は“何もできない奴”と評価されるのも恐かったのです。

もうその時点で動機が不純なのですが、自分の望む評価を与えられる“権利”を持っていると勘違いしていると間違いなく人間関係を壊します。

また、逆に何かをしてもらった時に感謝や評価をしなくても同じく人間関係を壊します。

ではどうすればいいのか?

何かを誰かにしてあげれた自分を自分で評価してあげればいいのです。
何かを誰かにしてもらったことを評価することを忘れなければいいのです。

宗教に入ってさとりを啓くわけでもなければ、自己満足で十分です。
自分が役にたったことを誇りに思い行動できれば、感謝されないはずがないのですから…。


  
2005年10月12日

「欲求」の根底にあるのは“自己を誰かに認めてもらいたい”という感覚だ

「欲求」の根底にあるのは“自己を誰かに認めてもらいたい”という感覚だ  (マズロー)

他人によく思われたいという考えは、人に様々な行動をとらせます。
「私にできることがありましたらいつでも言ってください」「あなたに会えてよかったです」「これからもよろしくお願いします」と笑顔で素直に言っているはずなのに心の裏側では「自分をよくみせたい」ために習慣として身についているものかも知れません。

恋愛関係で勘違いし、「私に気がある」と知らず知らずに恋愛感情を勝手に持ってしまうと「騙された」と後で後悔する場合もあります。

人は良くも悪くも自分という人間を演じて生きています。
ゆえに“本当の私”というものは、実はあるようでないのです。
社会・世間という“鏡”を無視して生きることはかなり大変なことだからです。

まわりがどうであれ私は私だ!と言える人は歴史に名を残しやすく、そしてその道は険しくなります。でもその中でうまくやっていける人たちがいます。それはすでに“権力”“財力”を持っている人です。

私は自己を演じ飾ろうとすることは決して悪いことだとは思いません。
相手に認められるということは、純粋に自分の成長や進歩だからです。

でも、相手を騙そう、自分をごまかそうとするために自分を演じて、自己顕示のためだけに終始して欲求に溺れて“権力”“財力”を自分に飾るのであれば成長はもはや望めないと思うのです。
「自分を少しでもよく見せたい」という欲求をごまかさず素直に表現することが自己の成長に繋がると思います。
  
2005年10月03日

人間は考える“葦(あし)”である

人間は考える“葦(あし)”である  パスカル「瞑想録(パンセ)」

「人間は、自然の中で最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。これを押し潰すのには宇宙全体が武装する必要はない。一つの毒気、一つの水滴も、彼を殺すに十分である。 しかし、宇宙が彼を押し潰すときも、人間は彼を殺すものよりも高貴であろう。なぜならば、人間は自分が死ぬこと、宇宙が力において自分に勝ることを知っているからだ。宇宙はそれを知らない。だから我々の尊厳は考えることにある。」

一番“強い者”ということは“自分の弱さを知っている者”のことを指します。人はそれを考え知ることこそが独立自存の道だ…というのが私の解釈です。

“自己”というものを確立させるためには、まず自分の“弱さ”を知らなければなりません。臆病で卑屈で状況に流されやすい自分を知っているからこそ何者にも頼らない自己を形成することが出来ます。

“弱さ”を知ることで前に進めなくなるという意見もあると思いますが、自分の弱さを知らずまた考えず強がりばかりだと“実”がなく「一つの毒気、一つの水滴」つまり、ちょっとした誘惑や逆境に潰されてしまいます。

ライオンはどれだけ強くとも食べるものがなければ死ぬことを知っています。だから子ウサギ一羽捕らえるにも慎重に全力で臨みます。
人はいつ葦のように折れ倒れるかわからない弱い存在です。その中で自力本願、頼らず智恵をふりしぼり自分の力で生きていくことが“強さ”のようです。

類:弱者の中で一番強い者は、自分の弱さを忘れない者だ  スウェーデンの諺
  
2005年09月30日

世界一でなければ日本一ではない 

世界一でなければ日本一ではない (本田宗一郎)

この言葉を載せるのにかなり躊躇してしまいました。
どうしても、この言葉を発するだけの気概を、私は持てないからです。
はったりでもいいからこの言葉を言えたらいいな…そんな思いで投稿させていただきます。

何かをやりきるためには、大きく出なければなりません。
大きく出るということは、大きく叩かれることでもあります。
でも、人は何かを成さなければいけないと思うのです。
例え、それが達成できなかったとしても、そのために努力しなければならないと思うのです。

私がそう思っている時点で、この言葉を言う資格がないというのがわかると思うのですが、この言葉をもし言えるとするならば「不安を乗り越えた希望」を凝視することにあると思います。

氏はただのはったりでこの言葉を使ったわけではなかったと思います。
不安で押し潰されそうになり、それでもその先の希望を捨てなかった「覚悟」が、この言葉を言わせたのだと思うのです。

まだ私は不安の中にどっぷりと浸かって、希望をちゃんと見据えることができていません。いつか、この言葉を胸を張って言えるようになりたいと思います。
  
2005年09月29日

賢者は用心深いが、愚者は疑り深い

賢者は用心深いが、愚者は疑り深い

「用心深い」ことと、「疑り深い」ことの違いはどこにあるのでしょうか?
それは、肯定的未来思考と否定的過去思考との違いだと思います。

肯定的未来思考は、未来に対し肯定的に受け止め、未来の自分を確立させる思考ですが、否定的過去思考は、過去に対し否定的に受け止め、未来の自分を保身させる思考。
余計に難しくなっちゃいましたが、もしこの先に悪い事が起こるかもしれないとした事が起こった場合、賢者は「こうすれば大丈夫」と解決するのに対し愚者は「なにもしない」と解決できないのです。

物事は、その時逃げてもまた大きな問題となってふりかかってくるもの。
それならば、自分の未来を信じ今の自分にできる精一杯のことをして解決に臨むことが必要だと思います。

えてして、賢者は前もって物事を判断し「転ばぬ先の杖」を用意し、悪い事が起こってもちゃんと対処できるので、「悪い事が起こらない運の強い人」のように見えるのです。
できるだけ問題から逃げずに、またこの先のどんな問題でも解決できる気概を持ちたいです。
  
2005年09月21日

貸さなければ友を失い 貸せば敵をつくる

貸さなければ友を失い 貸せば敵をつくる ドイツの諺

これは金銭面だけでなく、色々なことに共通しているように思えます。
金銭に困っている人が人にお金を求めることと、愛情に飢えている人が人に愛情を求めている状態は同じことではないでしょうか?
どちらも与えることなく与えられることしか考えていません。

普通に考えれば得る事が無理だとわかるはずなのですが、要求された方もこの言葉の通り複雑な気分になるはずです。
この“友達だから〜”“恋人だから〜”などという部分がくせもので、理性よりも感情で判断してしまいがちです。
「関係性の原理」とは互いにつりあうものを“交換”することで成立します。つまり社会は“もちつもたれつ”ではあって、“貸し借り”の関係ではうまくいかないのです。

誰かにお金を借りるということはそれと同等なものをその時に与えなければならないということです。良い友達を得るということはその友達にとっても自分が“良い友達“でなければなりません。

与えなければ、与えられることはないのです。
これが平等というものであって、恋愛やどんな関係においても同じことが言えるのではないでしょうか?
  
Posted by heartwords at 23:10Comments(0)TrackBack(0)お金の名言
2005年09月18日

「おお、すまなんだ」 心の消しゴムを使ってもらおう

「おお、すまなんだ」 心の消しゴムを使ってもらおう (本田宗一郎)

「人というものは、それぞれの心の中にうまい消しゴムを持っていてくれててね。自分にとって現在がよけりゃ以前のいやな記憶を消してくれるんです。」

過去の失敗は自分は消したつもりでも他人は消していないことがほとんどです。
また逆も然りでしょう。
だから他人の持っている消しゴムをうまく使ってもらうかどうかが、人間関係の大事なところだと思います。
そのために必要なことは「邪心がない」こと。
純粋に努力してそれでも失敗したものならば、「ごめんなさい」と謝ればわかってもらえるものです。
その時は憎くてたまらない相手でも、ごまかしのない気持ちでケンカしたのなら、仲直り後に今まで以上に仲良くなったりするものです。

もし過去の失敗に悔やみごまかし、相手をいつまでも憎んで・憎まれていたとしたら…消しゴムを使ってくれるどころか、逆に色濃く心の記憶に記されてしまうのではないでしょうか?

人に消しゴムを使ってもらうためには自分がまず心の消しゴムを持ち自分を許し、親しく礼をすることが必要だと思います。
  
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