Heather 落合寿和の字幕翻訳日記

カテゴリ: 旅行

1991年夏。パラオへ行った。ロックアイランド辺りをクルージングというと洒落ている(かな?)。しかし運悪く台風発生。天気がはっきりしている所なので、クルージング中に雨が長時間続いたり、海が荒れる事も少ないという。けれど、雨が長く続き海が荒れた。30人乗りくらいのクルーザーで生まれて初めて船酔いしました。そして日本に帰って数日後、同じ台風が北上してきました。1台風で2度大雨。こういう事って、よくありますよね…。

これはモントリオールに留学中の話なので1988年から1989年についてですが、ケベック州の免許証には写真がありませんでした。それどころかラミネート加工もしていない、ただの紙。名刺サイズで、縦3枚折り。顔写真がないから身分証になるのか不思議な免許でした。今はどうなってるのかな。そういえば、アイダホ州の免許も持っていましたが、こちらは顔写真付きでラミネート加工してあったな。

1980年8月の旅行。三宮の商店街にあるマクドナルドで昼食を食べていたら、「コクーン」の少年のお爺さんみたいなイメージの中年のおじさんが英語で話しかけてきた。(これだと年齢不詳?^^;)それほど混んでいない店内で1人だったので目立ったのか、私に話しかけた理由は今でも分からない。どうやら駅への戻り方が分からない様子。まだ中1で英語はさっぱりなわけで、イエスとノーが言えた程度だったはず。それでも、私が食べ終わった時、彼も一緒に店を出て、駅を目指して歩き出した。駅まで5分くらいの所だった気がする。その商店街はサンモールという名だったような気がするけれど、これも曖昧(すみません)。とにかく商店街の一方の端から反対の端へ行けばいい程度だったので、気軽に「駅なら分かる」みたいな返事をした。私が彼の少し前を歩いていると、なぜか彼は道を曲がろうとする。2回か3回、そうして横道へ逸れようとして、最後は私の手を引っ張るように他の道へ行こうとした。当然不安になった私は、とにかく人目のない所へは行かないように、そのまま商店街をまっすぐ、振り返らずに進んだ。駅に着いて振り返ると、そのおじさんはいなかった。

何か怖い話になり得ちゃった事だったのか、それとも英語力の問題で、何も怖い話じゃなかったのか、今も分かりません。何だったと思います?

1988年9月から1989年5月までの9ヶ月、カナダのケベック州モントリオールに住んでいた時に運転した距離です。乗っていたのはフォードのフェアマウント。運転席も後部座席もベンチシートで、少し窮屈ですが大人が横になって寝られる長さ。日本では絶対運転したくない大きさですが、北米の基準だとミッドサイズの車。「E.T.」の終盤でエリオット達を追うパトカーがフェアマウントです。ティム・バートン監督の「バットマン」のパトカーもフェアマウントでした。

住み始めてすぐに1200ドルで購入し、帰国時に500ドルで売ってきました。幸い故障は一度もなく、かなり経済的でした。この時はモントリオールの大学の映画学科に留学中で、週末が3日休みになると長距離ドライブしていたのでした。

1980年8月。銀河号に乗って大阪へ。梅田、神戸、京都辺りを1週間ほどまわった。電車は周遊券を買う。宿泊先は全てユースホステル。小遣い帳をつける。こんな条件というか、前提で旅行した。ユースホステルは父が教えてくれた。当時、父は利用した事がなかったが、こういう旅館があって、まず会員証を作るといい。とまで教えてくれた。旅行の第一歩はユースホステルの会員証を作ることか…。一番近かったのが三浦半島の先端の城ヶ島ユースホステル。ここに電話して「これから会員証を作りに行きます」と伝えてから行った。中学1年の夏。

会員証を作ると同時に全国(じゃなくて西日本と東日本に分かれていたような気もする…)のユースホステルの案内が乗ったハンドブックを購入。行きたい所。甲子園と東映太秦映画村。それから大阪の街。最初に泊まったのは狭山遊園ユースホステルだった。服部緑地ユースホステルと長居競技場のユースホステルにも泊まった。当時の小遣い帳もスケジュールもどこかに保存してあるけれど、この数日書いている旅行のエントリーは記憶を頼りに書いている。

初めての1人旅。旅行日程を書き、泊まる予定のユースホステルには宿泊申し込み専用の往復はがきがあったので、それを全て出し、出発前に全て返事を受け取っていた。

こうして書いてみると、ネットも携帯も、それどころかコンピュータもなかった時代には、しっかり手紙を書いていた。この旅行は当時の旅行日記(=小遣い帳)を引っ張り出してから追い追い書こう。「家へ電話50円」のレベルまで書いていた事は覚えているし、自分の経験とはいえ、25年も前の話だと他人事のように面白いから。

1990年8月。モルジブ共和国の南マーレ環礁にあるビヤドゥ島へ行った。大学を出てサラリーマンだった半年間の終わりの頃。ネットで調べると今は真水の温水シャワーがあるらしい。当時は雨水を貯めたシャワーだったかな。空港がある島マーレに今は直行便も飛んでいるらしい。空港がある最も大きい島でも椰子の木のてっぺんが一番高い所のような国。サンゴ礁からなる島が1000以上あって1つの国になっているが、全部の島を集めても日本の四国くらいしかないとか。マーレは当時、世界一人口密度が高い首都だった気もする。(よく確認していないので、違ったら教えて下さい…)

で、当時は直行便がないのでエアランカでスリランカのコロンボへ。そこで行きも帰りも1泊するし、マーレからビヤドゥまで小船で1時間くらいの移動もあり、まあまあ遠い所だった。ビヤドゥは1周散歩しても10分くらいの小さな島。ホテル、レストラン、バー、リネンサービスなど全てを1つの経営母体がやっていて、ある意味キャッシュレスの島。満室で100人くらい島に人がいる事になるけれど、たぶん多い日で50人くらいしかいなかった。

この旅は珍しく幼稚園から高校まで一緒だった友達に誘われて行った、男2人のリゾート1週間…。それでも幸い(?)宿泊客に日本人が他に4人いた。2人は学生カップル、残りの2人はOL2人組(!)だったので、何となく皆仲良しになり、ダイビングや船釣りなどを楽しんだ。釣った魚をレストランで刺身にしてもらって我々6人のテーブルだけ豪華な活造りになったり。そんな状態だったので英語しか通じない島で私は他の5人から班長と呼ばれる始末。それにしても海がきれいな所でした。数年に1週間くらい行くと充電できるかな。

1982年3月、中学2年の終わりの春休み。青森、十和田湖、八戸辺りを1週間。小川原湖では釣りをしていた老人と30分ほど話した。厳密に言うと老人の話を聞いたが、訛りのきつさに何の話か分からず相づちをうっていただけだった。というのは余談で、さっそく本題。

十和田湖はシーズン前で観光客は皆無に近い。こう書いていたら、昼はカツ丼を食べた事を思い出した。その日の宿泊先は十和田湖ユースホステル。雪の多い観光地。シーズン前で、この頃はまだコンビニもない。携帯電話どころかテレホンカードを使える電話も珍しかった。宿泊客は大学生のお兄さん1人と2人組の女子大生と自分の4人。夕食はユースホステルの食堂で4人で食べた。メニューはいわゆる鍋。小さな燃料に火をつけて、その上に1人用の鍋がある。食材は白菜、椎茸、ニンジン、長ネギ、肉といったところ。味付けは…。薄い。薄いというか、ない。醤油を入れてみる。でもダシがない。塩を足しても、どうしても味付けにならない。4人で色々試したが、4人ともご飯と味噌汁だけを食べて、食材のほとんどを残した。

建物の中にはユースホステルのオーナーがいるだけで、厨房で食材を準備してくれたのも彼だ。この人が何となく無愛想な感じの人で、大量に残った鍋の食材を見たら怒るのではないかと4人で思った。今思うと他にも方法がある気がするけれど、その時にできる事は1つしかないと、4人の結論は一致した。雪に閉ざされ、夜は外に出られない。半分雪に埋まった食堂の窓。そこに穴を掘って埋める。それから数週間で雪は消えるだろうが、それまでバレる事はないだろうと、空きっ腹の4人でこっそり埋めた。食べ物は粗末にしちゃいけません。すみません。

曽祖父が存命だと聞いたのがこの年。94歳か95歳と高齢で、会えるうちに会ってみたいと思った。高校を1週間、担任には事後報告で休み、日光へ。小学校の修学旅行が日光だったけれど、その時は中耳炎になり行けなかった。それもあって日光を目指した。曽祖父は父の母の父で、大谷石の産地に住んでいた。まず東武線で鹿沼へ行き、ひとまず挨拶。まだ昼過ぎだったので、その日のうちに1人で日光へ。どこでどうなったのか忘れたけれど、その時もヒッチハイクをしていて、今市辺りから日光を目指していた。乗せてくれた車は4トントラック。「神奈川から来たんです。日光見物と、ひい爺ちゃんの顔を見に」と話すと運転手さんは「そうなんだ。ひい爺ちゃんはいくつ?」と聞かれ、年を言うと「どこに住んでるの?」とまた聞かれ。そう話していくうちに、その運転手さんは身内だと判明した。父の母の弟の妻の妹の息子さん。車に乗せてくれた人とは色々話すけれど、この時「小学校の修学旅行で行けなかった日光を見ようと思って」とだけ話していれば、お互い遠縁の親類だと気づく事もなかったはず。世の中は狭いし、旅は面白いもの。

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