5-10a 約束・ピエール
イネス(彼が語っているあいだ、じっとそのままにさせていたが、ここで気を取り直し/彼を振り払い):さわらないで。あたし、人にさわられるの大嫌い。あんたのあわれみなんかいらない。ねえ、この部屋にはあんたにだってたくさんの罠があるのよ。あんた用の。自分の心配をしなさい。自分のことに集中した方がいいのよ。(間。)この子とあたしに一切かまってこなければ、あたし、あんたを苦しめないようにするわ。
ギャルサン(エステルを一瞬見て、それから首をすくめる):よし。
エステル(頭を上げながら):助けて、ギャルサン。
ギャルサン:なに?
エステル(立ち上がって彼に近づきながら):あたしをなら、助けてくれることが出来るのよ。
ギャルサン:話はあの人としてくれ。
イネスは近寄り、エステルのすぐ後ろに、触れない程度に寄りそう。次の対話中、イネスはエステルの耳元でほとんど囁くように語る。しかしエステルは、だまって自分を見ているギャルサンの方を向き、まるでギャルサンに問われているもののように、もっぱらギャルサンにのみ答える。
エステル:お願い。約束したでしょ、ギャルサン、約束したでしょ!早く、早く、あたし、ひとりじゃいられない。オルガが彼をダンスホールに連れ出したわ。
イネス:誰を連れ出したの?
エステル:ピエールを。いま二人は一緒に踊ってる。
イネス:だれ、ピエールって?
エステル:うぶな子/小さなおバカさん。あたしを僕の泉/命の水と呼んでた。あたしを愛してたの。彼女が彼をダンスに連れ出しちゃった。
イネス:(あんた)その子が好きなの/愛してるの?
エステル:二人は(また)腰かけた。オルガは息を切らしてる。なんで踊るわけ?デブのくせに。【ここでイネスに答えて】もちろんちがうわ。もちろん愛してなんかいない:あの子は18で、あたしは子供は好きじゃないから。
イネス:じゃ、ほっときなさい。関係ないじゃない?
エステル:あの子はあたしのものだった。
イネス:娑婆じゃ、もう何一つあんたのものなんかないのよ。
エステル:あの子はあたしのものだった。
イネス:そう、「だった」のよ… あの子をつかまえようとしてごらん、さわろうとしてごらん。オルガはあの子にさわれる。でしょ?でしょ?オルガはあの子の手も握れる、膝にもさわれる。
エステル:オルガは巨乳をおしつけて、あの子の顔に息を吹きかけてる。かわいそうにピエール、そんな女けとばして!ああ!あたしがひとにらみすれば、オルガはあんなことできなくなるのに… ほんとにあたしにはもう何もないの?
イネス:もう何にも。そして地上/娑婆には、あんたのものはもう何も残ってない:あんたのものはここにあるだけ。あんた、ペーパーナイフほしい?ブロンズは?青い椅子はあんたのよ。そしてあたし、あたしはずっと/永久にあんたのものよ。
エステル:へえ?あたしのもの?で、あなた達のうち、誰があたしのことを泉/命の水ってよべるの?あなた達はあたしが汚れた女だって知ってるんだもの。ピエール、あたしのことを考えて。あたしのことだけ考えて、あたしを守って;あなたが「ぼくの泉、愛する泉」って考えてくれるかぎりは、あたしは半分しかここにいない、あたしは半分しか罪びとじゃない。あたしは、あなたのそばなら、泉でいられる。
オルガはトマトみたいに真っ赤だ。見て、ありえない:あたしたち一緒に100回も彼女のことを笑ったのに。あの曲はなに?あたしすごく好きだった。ああ!セントルイス・ブルースだ… さあ、踊りなさいよ。ギャルサン、もしあなたに見えたら面白いわよ。オルガはあたしが見てることがけっしてわからない。見てるわよ、見てるわよ、髪を振り乱して、ひどい顔。足を踏んでるじゃない。死ぬほど笑っちゃうわ。
◆◆◆あたしあなたが見えるのよ。でもオルガは平気で、あたしのまなざしを通り過ぎて踊ってる。あたしたちの愛するエステルですって!なに、あたしたちの愛するエステル?ああ!なにそれ。あんた、葬式で涙ひとつこぼさなかったじゃない。オルガがピエールに「あたしたちの愛するエステル」なんて言ってる。ピエールにあたしの話するなんて、ずうずうしい。さあ!リズムを気にしなさいよ。しゃべるのと、踊るのと、同時になんて出来ないくせに。なに…
だめ!だめ!ピエールに言わないで!その子あんたにあげるから、連れてって、好きにして、でもそれだけは言わないで… (エステル、踊りをやめる。)そう。じゃ、もう好きにすれば。オルガは全部言っちゃった、ギャルサン:ロジェ、スイス旅行、子供、全部話しちゃった。「あたしたちの愛するエステルは、あなたが思ってるような人じゃなかった…」そう、そう、あたしはそんな人じゃなかった… ピエールは悲しそうに首を振ってる、でも、聞いてショックを受けてる感じじゃない。もうあんたのものよ。その子の長いまつげも、女の子みたいな様子も、もうあんたと争わない。は!ピエールはあたしのことをぼくの泉、ぼくの水晶といってた。で、その水晶、「あたしたちの愛するエステル」はもう粉々よ。
◆◆◆地上/娑婆に帰れるなら何でもあげるわ、そしてちょっとだけ、ほんの一瞬だけ、踊りたい。(踊る、間。)よく聞こえなくなった。タンゴを踊るときみたいに明かりを消しちゃった;なぜ弱く弾くの?もっと強く!なんて遠いの!あたし… もう何にも聞こえない。(踊りをやめる。)もうダメ。地上/娑婆はあたしを切り離した。ギャルサン、あたしを見て、抱きしめて。
イネス、エステルの後ろから、ギャルサンに遠ざかれと合図する。
イネス(命令的に):ギャルサン!
ギャルサン(一歩退き、エステルにイネスを示し):彼女に頼んで。
エステル(彼をつかまえ):行かないで!あなた男?だったらあたしを見て、目をそらさないで:それがつらいこと?あたしは金髪で、男に自殺させたほどの女よ。お願いだから、何か見つめて。あたしでなければ、ブロンズか、テーブルか、椅子か。でもそれなら、あたしを見るほうがいいでしょう。聞いて:あたしは小鳥が巣から落ちるみたいに、あの人たちの心から落ちてしまったの。あたしを拾って、抱き上げて、あなたの胸に、あたし優しくするから。
ギャルサン(努力して押し返し):彼女に頼めと言ってるでしょう。
エステル:あの人に?あの人は関係ないわ:女だもの。
イネス:あたしは関係ない?でも、小鳥ちゃん、ひばりちゃん、あんたはもうずっと前からあたしの胸に避難してるのよ。こわがらないで、あたしはあなたをじっと見ていてあげる、まばたきもしないで。あなたはあたしのまなざしの中に生きていくの、太陽のひとすじの光線の中の、ひとつぶのスパンコールのように。
エステル:太陽のひとすじの光線?ハ!ほっといて。さっきもあなたはあたしにちょっかいを出して、うまくいかないってわかったでしょ。
イネス:エステル!あたしの泉、あたしの水晶。
エステル:あなたの水晶?笑わせるわ。誰をだまそうっての?ねえ、みんな知ってるわ、あたしが子供を窓から放ったこと。水晶は地上で粉々にくだけたけど、もうどうでもいい。あたしにはもうこの役しかない【豹註:peauは、皮膚・役柄・生命の意味】−−−そして、この役はあなたのための役じゃない。
イネス:いらっしゃい!あんたはなりたいものになれるのよ:泉、泥水、あんたはあたしの目の中で、なりたいものになれるのよ。
エステル:放して/ほっといて!あなたには目なんかない!どうしたら放すの?そら!
エステルはイネスの顔につばを吐く。
イネスはすぐに放す。
イネス:ギャルサン!感謝しなさい!
5-10b ゴメス、歴史に残ること
間、ギャルサン、首をすくめて【軽蔑・あきらめ・無関心・皮肉などの意味】エステルのほうに行く。
ギャルサン:で?君は男がほしいの?
エステル:男じゃない。あなたよ。
ギャルサン:うまいこと言うなよ。誰だってお役はつとまるんだ。僕がたまたまここにいた、だから僕なんだろう。いいよ。(彼女の肩を抱く。)僕は君に好かれるところは何もない、な:僕はうぶな少年でもないし、タンゴも踊らない。
エステル:そのままのあなたでいい。あたしがあなたを変えるかもしれないし。
ギャルサン:どうかな。僕は… 気が散るかもしれない。気になってることがあるから。
エステル:気になってること?
ギャルサン:君には関係ない。
エステル:あたし、あなたの椅子に座るわ。あなたが構ってくれるまで待つわ。
イネス(笑い声が響き渡る):ハ!牝イヌ!追っかけてる/腹ばいだ!腹ばいだ!【相手に平伏している】かっこいい男でもないのに!
エステル(ギャルサンに):こんな人の言うこと聞かないで。目も耳もないの、この人は。関係ないわ。
ギャルサン:僕は君に出来ることはしよう。それはたいしたことじゃない。僕は君を愛しはしない:君を知りすぎてるから。
エステル:あなた、あたしの体がほしい?
ギャルサン:うん。
エステル:それだけで十分。
ギャルサン:じゃ…
彼は彼女にのしかかる。
イネス:エステル!ギャルサン!気が違ったの!ここにいるわよ、あたしが!
ギャルサン:わかってるよ、だから?
イネス:あたしの前で?そんな… そんなこと出来ないでしょ!
エステル:どうして?あたし女中の前で裸になったことあるわよ。
イネス(ギャルサンにしがみつき):放して!放して!男の汚い手で、この子にさわらないで!
ギャルサン(激しく押しやり):よし:俺は紳士じゃない、女をぶつぐらい平気だぞ。
イネス:約束したでしょ、ギャルサン、約束したでしょ!お願い、約束したでしょ!
ギャルサン:君だよ、約束を破ったのは。
イネス、離れて部屋の奥に退く。
イネス:好きにしなさいよ、あんた達の方が強いんだから。でも忘れないでね、あたしはここにいて、ちゃんと見てるから。あたしは目を離さないわよ、ギャルサン;あんた達はあたしのまなざしの中で抱き合うのよ。ああなんて憎らしいんだろう、この二人!どうぞ愛し合いなさい!ここは地獄よ、今にあたしの番が来る。
次の場面の間、彼女は無言で彼らを見ている。
ギャルサン(エステルの方へ戻って肩を抱く):さあ、唇を。
間。彼はエステルにのしかかるが、急に立ち上がる。
エステ(いまいましそうな振りで):ハ!…(間。)あの人なんか気にしないでって言ったじゃない。
ギャルサン:あの女のことじゃない。(間。)ゴメスが新聞社にいるんだ。窓がしまってる;冬だってことだ。六ヶ月。もう六ヶ月経ったんだ… さっき言ったろ、気になってることがあるって?みんなふるえてる;上着を着たままだ… あっちはそんなに寒いのか:僕はこんなに暑いのに。僕についての話がはじまるぞ。
エステル:長くかかるの?(間。)せめて、何言ってるのか教えてよ。
ギャルサン:何でもない。あいつの話なんか意味がない。あいつはカスだ。(ギャルサン、聞き耳をたてる。)ほんとにカスだ。くそっ!(またエステルに近寄る。)二人の話に戻ろう!君は僕が好きか?
エステル(にっこりして):どうでしょう?
ギャルサン:僕を信用するか?
エステル:へんな質問:あなたはずっとあたしの目の前にいるのよ。イネスと浮気できるはずないじゃない。
ギャルサン:もちろんそうだよ。(間。ギャルサン、エステルの肩を放す。)僕はそれとは別の信用を言ってるんだ。(ギャルサン、聞く。)いいよ!いいよ!好きに言え:僕はそこで自分の弁護は出来ないんだ。(エステルに。)エステル、君は僕を信用しなきゃいけない。
エステル:ややこしいのね!でも、あたしの唇も、腕も、からだ全体も、みんなあなたのものなのよ、簡単なことじゃない… あたしの信用?でも、信用するもしないもないわ;あなた、すごくむずかしい人ね。ああ!そんなに信用しろってことは、すごく悪いことしたのね?
ギャルサン:僕は銃殺になった。
エステル:知ってるわ:戦争に行くのを拒否したんでしょう。それで?
ギャルサン:◆◆◆僕は… 僕は汽車に乗った。そして国境でつかまった。
エステル:どこに行くところだったの?
ギャルサン:メキシコだ。僕はそこで平和主義の新聞を出すつもりだった。(沈黙。)さあ、何とか言ってくれ。
エステル:何を言えばいいの?あなたは戦争したくなかったんだから、いいことしたのよ。(ギャルサンはイライラした身振り。)ああ!ダーリン、あたしどう答えていいかわからない。
イネス:宝石ちゃん、その人には、あなたはライオンみたいに逃げたのねって言ってやればいいのよ。だって、あんたのダーリンは逃げたんだもの。それがその人の悩みなの。
ギャルサン:逃げたとでも、ビビッたとでも;好きに言え。
エステル:あなたは逃げなきゃならなかったのよ。じっとしてたら、つかまるだけなんだもの。
ギャルサン:もちろんそう。(間。)エステル、僕は卑怯者かな?
エステル:わからないわ、ダーリン、あたしはあなたの立場じゃないから。それはあなたが決めることよ。
ギャルサン(ぐったりした身振りで):決められない。
エステル:だって自分で覚えてるでしょう;そういう風にしたのは、それだけの理由があったはずよ。
ギャルサン:うん。
エステル:で、どう?
ギャルサン:それが本当の理由なのかな?
エステル(いまいましげに):あなた、なんて複雑なの。
ギャルサン:僕は意見を公表したかった、つかまったあと僕は… 長い間考え抜いた… それが本当の理由だろうか?
イネス:そう!そこが問題よ。それが本当の理由だろうか?あんたは正統な理由をいろいろ考えた。軽々しく行動したわけじゃない。でも恐れとか、憎しみとか、人が隠したがる汚いことだってみんな、正統な理由なのよ。さあ、考えて、自分の胸に聞きなさい。
ギャルサン:黙れ!君のアドバイスなんか必要ない。僕は独房の中を、昼も夜も歩き回った。窓から入口へ、入口から窓へ。僕は自分の心を徹底的に監視した。ずっと自分を尋問しつづけた。とにかく、ぼくのしたことは動かせない事実だ。僕は… 僕は汽車で逃げた、これは確実だ。でもなぜ?なぜ?結局、僕はこう考えた:僕の死に方が決めてくれる;もし僕が男らしい死に方をすれば、僕が卑怯者でない証拠になるだろうと…
イネス:で、あんたはどんな死に方をしたの、ギャルサン?
ギャルサン:まずかった。撃たれる前に気を失った。(イネス、響き渡るように笑う。)それを恥とは思わない。ただ、すべてが永遠に宙ぶらりんになってしまった。(エステルに。)ここに来て。僕を見て。奴らが地上で僕の噂をしている間、僕は誰かに見つめていて欲しいんだ。
イネス:エステル?あんた卑怯者が好きなの?
エステル:そんなこと、どっちだっていいのよ。卑怯者であろうとなかろうと、抱きしめてもらえたら。
ギャルサン:奴らは葉巻をくゆらしながら首を振っている;退屈なんだ。奴らはギャルサンは卑怯者だと思ってる。無気力に、ぼんやりと思ってる。とりあえず何か考えとく、そのネタなんだ。ギャルサンは卑怯者!そう決定したんだ、奴らが、僕の同僚たちが。半年もしたら、決まり文句になるだろう「ギャルサンみたいに卑怯な」。君たちは運がいいよ;地上では、もう誰も君たちのことを考えてない。僕は、もっとしぶといんだ。僕は歴史に刻まれた。
ギャルサンは乾いた【涙なしの】すすり泣きをして顔を手でこする。エステル、彼にしがみつく。
エステル:ダーリン、ダーリン!あたしを見て、ダーリン!あたしにさわって。(彼の手をとり、自分の胸にあてる。)手をあたしの胸にあてて。(ギャルサン、解放されようという動き。)手をそのままに;そのままにして動かないで。あの人たちは一人ずつ死んでいくわ:あの人たちが何を思おうと関係ない。忘れなさい。あたししかいないのよ。
ギャルサン(手をひきつつ):奴らは俺を忘れない。奴らが死んでも、ほかの連中がやって来て、伝言を引き継ぐんだ:俺は自分の人生を奴らの手にゆだねてしまったんだ。
エステル:ああ!考えすぎよ!
ギャルサン:ほかにすることがあるかい?むかし俺は行動した… ああ!一日でいいから奴らの中に戻れたら… 反論するのに!でも俺はのけものだ;奴らは俺にかまわず決算してる。当然だ、俺は死んでるんだから。罠にかかった/ハメられた。(笑う。)俺はパブリック・ドメインになっちまった/俺は卑怯者として歴史に残ってしまった。
間。
5-10c 希望
エステル(優しく):ギャルサン!
ギャルサン:そこにいたの?じゃ、ちょっと僕を助けてくれ。◆◆◆君がその気になって、努力してくれたら、僕たちは本当に愛し合えるかもしれない。
いいかい;奴らは千人がかりで僕を卑怯者だと言ってる。でも千人がなんだ?もし、一人の人が、たった一人でも、力の限り/心の底から、この人は逃げたんじゃない、逃げられるような人じゃない、勇気のある、立派な人だといい切ってくれたら、僕は… 僕は救われるんだ!僕を信じてくれるかい?そうしたら君は僕にとって、僕以上に大事な人になる。
エステル(笑いながら):ばかね!おばかさんね!あたしが卑怯者を好きになると思う?
ギャルサン:でも、さっき君は言ったろ…
エステル:あれは冗談。あたしは男が好きなの、本当の男が、ごつごつした、力強い男。あなたのアゴは卑怯者のアゴじゃない。あなたの口は卑怯者の口じゃない。卑怯者の声じゃない、卑怯者の髪の毛じゃない。そしてあたしは、あなたの口が好き、声が好き、髪の毛が好きなの。
ギャルサン:本当に?本当に本当?
エステル:誓ってほしい?
ギャルサン:じゃあどいつもこいつもかかってこい、向こうのやつもこっちのやつも。エステル、僕たちはこの地獄から抜け出せるぞ。(イネス、響き渡る笑い。ギャルサン、邪魔されて彼女を見る。)なんだい?
イネス(笑いながら):だって、この子は一言も本気で言ってないのよ;あんたどうしてそんなにお人好しなの?「エステル、俺は卑怯者かい?」この子には、そんなことどうでもいいって、わからないの?
エステル:イネス!(ギャルサンに。)この人の言うことを聞いちゃだめ。もしあたしに信用してほしいなら、まずあたしを信用して。
イネス:そうよね、そうよね!うんと信用しなきゃ。この子は男が欲しい、そうでしょ、男の腕で腰を抱いてほしい、男のにおいがほしい、男の目の中に男の欲望がほしい。あとのことは… は!あんたを喜ばせるためなら、あんたを神様というでしょうよ。
ギャルサン:エステル!それは本当か?答えろ;それは本当か?
エステル:あたし、どういったらいいの?そんなこと、全然わからない。(エステル、じだんだを踏む。)ほんとにイライラする!たとえあなたが卑怯者でも、あたしあなたを好きになるわ!それじゃいけないの?
間。
ギャルサン(二人の女に):君たちにはうんざりだ!
ギャルサン:、ドアの方に行く。
5-10d 出口なし
エステル:どうするの?
ギャルサン:僕は行く。
イネス(はやく):遠くへは行けないわ:ドアは閉まってるもの。
ギャルサン:どうしたって開けさせるんだ。
ギャルサン、ベルのボタンを押す。ベルは鳴らない。
エステル:ギャルサン!
イネス(エステルに):心配しないで;ベルはこわれてる。
ギャルサン:ぜったい開けさせる。(ドアをドンドンたたく。)もう君たちには我慢できない、もう我慢できない。(エステル駆け寄る、ギャルサン押し戻す。)あっちへ行け!君のほうがあいつよりもっとキライだ。君の目の中にうもれるのはまっぴらだ。君はジメジメしてる!君はふわふわだ/へなへなだ!君はタコだ!君は沼地だ。(ギャルサン、ドアを叩く。)開けないか。
エステル:ギャルサン、後生だから行かないで、もうおしゃべりはしません、あなたをそっとしておくから行かないで。イネスは爪をむき出したわ、あの人と二人きりになりたくない。
ギャルサン:自分でなんとかしなよ。僕が君にここに来いと頼んだわけじゃない。
エステル:卑怯者!卑怯者!ああ!あんたが卑怯者って本当なんだわ。
イネス(エステルに近づきながら):ねえ、ひばりちゃん、これで満足?あんたは、あいつの機嫌をとろうとしてあたしにつばを吐いたわね、そしてあたしたちはあいつのためにケンカしてしまった。でも、あの邪魔者は行ってしまう、女同士にしてくれるのよ。
エステル:そうはいかないわ;あのドアが開いたら、あたしは逃げる。
イネス:どこへ?
エステル:どこでもいい。あんたから出来るだけ遠いところへ。
ギャルサンはドアを叩き続けている。
ギャルサン:開けろ!開けろってば!足かせでも、やっとこでも、鉛の溶けたのでも、パンセット【火ばさみ、火箸】でも、絞首刑用の鉄輪でも、焼くものでも、引き裂くものでも、何でも来い。俺は本当に苦しみたいんだ。百回刺されたほうがマシだ、ムチや、硫酸のほうがマシだ、この頭の中の苦しみよりは。これは苦しみの影なんだ。俺をそっとなでていく、そして決して十分苦しませてくれない。(ギャルサン、ドアのノブをとって激しく揺さぶる。)開けないか。(ドア、突如として開き、ギャルサンはあやうく倒れそうになる。)あっ!
長い沈黙。
イネス:どうしたの、ギャルサン?行けば。
ギャルサン(ゆっくりと):なんで、このドアは開いたんだろう。
イネス:何をぐずぐずしてるの?行って、はやく行って!
ギャルサン:いや、行かない。
イネス:エステル、あんたは?(エステル動かない;イネス、響き渡る笑い。)それで?誰が行くの?三人のうち誰が?道は開いてるのに、なぜ行けないの?ハ!死ぬほど笑っちゃうわ!あたし達は離れられない仲なのね。
エステル、背後からイネスに飛びかかる。
エステル:離れられない?ギャルサン!手を貸して、早く助けて。この人を外へ引きずり出してドアを閉めましょう;ざまあ見ろ。
イネス(もがきつつ):エステル!エステル!後生だから、ここにいさせて。廊下はいや、廊下に放りださないで!
ギャルサン:放してやれ!
エステル:そんなバカな、この人あんたを憎んでるのよ。
ギャルサン:僕が踏みとどまったのは、彼女のためだ。
エステルはイネスを放し、呆然としてギャルサンを見る。
イネス:あたしのため?(間。)いいわ、じゃドアを閉めて。ドアが開いてから十倍も暑くなった。(ギャルサン、ドアのほうへ行き、閉める。)あたしのため?
ギャルサン:そうだ。卑怯者とは何か、君は知ってる。
イネス:ええ、知ってるわ。
GARCIN: Tu sais ce que c’est que le mal, la honte, la peur. Il y a eu des jours où tu t’es vue jusqu’au coeur – et ça te cassait bras et jambes.* Et le lendemain, tu ne savais plus que penser, tu n'arrivais plus à déchiffrer la révélation de la veille. Oui, tu connais le prix du mal. Et si tu dis que je suis un lâche, c’est en connaissance de cause; hein?
ギャルサン:君は悪とは何か、恥/不名誉とは何か、怖れとは何かを知ってる。自分の心の底を見つめた時代があったんだろ−−−それが君の心をぐしゃぐしゃにしたんだ【それが君の手足を打ち砕いた=落胆させた】。そして翌日、君はもう考えることが出来なくなってた、もう昨日ひらめいた考えの意味がわからなくなってた。そう、君は悪の価値を知ってる。だから、君が僕を卑怯者というのは、ちゃんと理由を知ってのことなんだ;そうだろ?
イネス:そうよ。
ギャルサン:僕が説得しなければならないのは君なんだ:君は僕の同類だ。◆◆◆僕は君がいい気になって僕をそんなふうに考えたまま君を残して行くことは出来ない。
イネス:あんた、本当にあたしを説得したいの?
ギャルサン:僕にはそれ以外に望みがない。もう地上の奴らの声は聞こえない。僕のことは奴らにはもう終わったんだ。終わりだ:もう既決事項で、僕は地上ではもうゼロだ、卑怯者でさえない。イネス、僕たちは三人きりだ:僕のことを考えるのは君たち二人しかいない。で、あの子は論外だ。でも君は、僕を憎んでいる君こそは、僕を信じてくれたら、僕を救えるんだ。
イネス:簡単じゃないわよ。あたしは頑固だから。
ギャルサン:僕は必要なだけの時間をかける。
イネス:ああ!時間はあるわよね。いくらでもね。
ギャルサン(イネスの肩をつかんで):聞いて、人はめいめい【人生の】目的を持ってる、な?僕は金や恋愛はどうでもよかった。僕は男になりたかったんだ。骨のある男に。一番危険な道を選んだ人間が卑怯者だなんて、そんなことがあるか?たった一つの行為で、人の一生を裁くことが出来るのか?
イネス:別にいいんじゃない?あんたは三十年間、自分は勇敢だという夢を見てたのよ;それで、英雄なら何をしてもいいというリクツで、自分の千個もの欠点を許して来たんでしょ。なんて都合のいい考え方!それでいよいよ危険な時が来て、決断を迫られると… あんたはメキシコ行きの汽車で逃げた。
ギャルサン:英雄を夢見たんじゃない。そうなることを選んだんだ。人間は自分のなりたいものになれるんだ。
イネス:じゃ証拠を見せてよ。それが夢ではなかった証拠を。人間が何を望んだのか、それを決めるのは行為/行動/行いだけよ。
ギャルサン:僕は死ぬのが早すぎた。自分の行為をやりとげる時間がなかったんだ。
イネス:人間はいつでも死ぬのが早すぎるか−−−遅すぎるかなのよ。とにかく一生はもう、けりがついてるの;線は引かれた、決算しなきゃ。あんたは、あんたの一生以外の何ものでもないのよ。
ギャルサン:このマムシ【陰険・毒舌な人】め!何でも答えやがって。
INÈS: Allons! allons! Ne perds pas courage. Il doit t'être facile de me persuader. Cherche des arguments, fais un effort. (Garcin hausse les épaules.) Eh bien, eh bien? Je t'avais dit que tu étais vulnérable. Ah! comme tu vas payer à présnet. Tu es un lâche, Garcin, un lâche parce que je le veux. Je le veux, tu entends, je le veux! Et pourtant, vois comme je suis faible, un souffle; je ne suis rien que le regard qui te voit, que cette pensée incolore qui te pense. (Il marche sue elle, les mains ouvertes.) Ha! elles s'ouvrent, ces grosses mains d'homme. Mais qu'espères-tu? On n'attrape pas les pensées avec les mains. Allons, tu n'as pas le choix: il faut me convaincre. Je te tiens.
イネス:さあ!さあ!気を落とさないで。あたしを説得するぐらい、あんたには何でもないでしょ。何かリクツを考えて、努力しなさい。(ギャルサン、首をすくめる。)どうした、どうした?【直訳:あたし、さっき、あんたは傷つきやすい人だと言ったわね。ああ!これからあんたは支払いをする(?)のよ。これを以下のように→】あんた、さっき言ったわね。「僕は傷つきやすくないからね。」「僕は悪い男だ。」ハ!あたしが教えてあげる。あんたは卑怯者よ、ギャルサン、なぜならあたしがそう思いたいから。あたしはそう思う、聞こえた?あたしはそう思う!でも、あたしはこんなに弱いの、そよ風にすぎない;あたしはただ、あんたを見ているまなざし、あんたについて考えてる色のない考え。(ギャルサンは手を開いてイネスに歩み寄る。)ハ!開いたわね、男の大きな手。でも、どうするつもり?頭の中の考えは手ではつかめない。さあ、あんたには選択の余地はない:あたしを説得しなきゃ。あんたの急所をつかんだわよ。
エステル:ギャルサン!
ギャルサン:なに?
エステル:やり返して。
ギャルサン:どうやって?
エステル:あたしを抱いて、そしたらあの人わめき立てるわ。
ギャルサン:君は正しい、イネス。君は僕の急所をつかんでる。でも、僕も君の急所をつかんでるぞ。
ギャルサン、エステルにのしかかる。イネスは叫びをあげる。
イネス:ハ!卑怯者!卑怯者!女になぐさめてもらわなきゃね。
エステル:わめけ、わめけ!
イネス:あんたたちお似合いよ!そいつの大きな手が、あんたの背中にぺたりとくっついて、肌も服もしわくちゃにしてる。そいつの手はベタベタよ;汗びっしょりよ。そいつはあんたの服に青いしみをつけるのよ。
エステル:わめけ!わめけ!もっと強く抱きしめて、ギャルサン;あの人パンクするから/張り裂けるから。
イネス:そうそう、もっと強く抱きなさい、抱きなさい!体温をひとつにしなさい。恋愛っていいもんね、ギャルサン?眠りみたいに生暖かくて/ぬくぬくして、深くって、でもあたし眠らせやしないわよ。
ギャルサン、身振り。
エステル:聞かないで。あたしの唇を;あたし全部あなたのものよ。
イネス:何ぐずぐずしてるの?言われた通りすればいいじゃない。卑怯者ギャルサンが、赤ん坊殺しのエステルを抱いてる。【こちらは腕の中に相手を保持しているという意味。】さあお立ち会い。【←原文:「賭けは開かれた。」賭博が始まるときの決まり文句のようだ。】ギャルサンは彼女にキスするでしょうか?【embrasser:キスする、抱きしめるの両方の意味がある。→彼女とセックスできるんでしょうか?の方がいいかも。】見てるわよ、見てるわよ;あたしはたった一人で群衆なのよ、群衆よ、ギャルサン、群衆よ;聞こえた?(つぶやく。)卑怯者!卑怯者!卑怯者!あたしから逃げても無駄、逃がしはしない。あんた、その子の唇に何を求めてるの?何もかも忘れること?でも、あたしはあんたを忘れない。説得しなきゃいけないのはあたしよ。あたしよ。さあ、いらっしゃい!待ってるわ。ほら、エステル、その人、手をゆるめたわよ、その人はイヌみたいに従順なの… あんたはその人をものに出来ない!
ギャルサン:ぜったい暗くならないのかな?
イネス:ぜったい。
ギャルサン:君はずっと見てるのか?
イネス:ずっと。
ギャルサンはエステルを放して室内を数歩歩く。ブロンズに近づく。
ギャルサン:ブロンズだ… (ギャルサン、それをなでる。)さあ、この時だ。ブロンズがあって、僕はそれをながめて、自分が地獄にいるんだと悟る。何もかも予定どおりなんだ。奴らは、僕がこの暖炉の前に立って、このブロンズをなでて、みんなの視線を浴びるとわかってたんだ。僕を食い尽くす、そのまなざし… (急に振り返る。)ハ!二人しかいないのか?あんたらはもっとずっと沢山いるんだと思った。(笑う。)つまり、これが地獄か。まさかこんなとは… 君たちおぼえてるだろ:硫黄のにおい、火あぶり台、焼き網… ああ!笑えるぜ。焼き網なんかいらない:地獄とは他人のことだ。
エステル:ダーリン!
ギャルサン(押しやって):うるさい。あの女がいる。あいつが見ているときに、君を愛することはできない。
エステル:ハ!じゃ、見られないようにするわ。
エステル、テーブルの上のペーパーナイフを取り、イネスに飛びかかって、数回突く。
イネス(もがきながら、笑いながら):何してんの、何してんの、バカじゃないの?あたしが死んでるって知ってるでしょ。
エステル:死んでる?
エステル、ナイフを落とす。間。イネス、ナイフを拾って激しく自分を突く。
イネス:死んでる!死んでる!死んでる!ナイフも、毒も、縄もダメ。もう済んでるのよ。わかった?そして、あたし達はいつまでも一緒にいるのよ。
イネス、笑う。
エステル(響き渡る笑い):いつまでも、まあおかしい!いつまでも!
ギャルサン(二人を見ながら笑う):いつまでも!
三人はめいめいの椅子にくずれて座る。長い沈黙。三人は笑うのをやめて、お互いを見る。ギャルサン、立ち上がる。
ギャルサン:よし、続けよう。
幕。