師走も大詰めの28日、多くの会社で仕事納と言われる日となりました。県立病院である当センターも神戸赤十字病院も本日が仕事納め、新年は4日が仕事始めです。そんな仕事遅めの本日、本年最後の記事をお届けします。


今日は前回の続きでアジア太平洋災害医学会参加記の第二弾、書いてくれたのは最近の本ブログには最多登場の〇田先生です。切った貼ったの外傷診療を主体とする当センター救急部の中で貴重な内科系救急医の彼は学術活動も積極的で、特に海外での発表では民間病院の当センターでは一番多いです。ここだけの話、年明けにもハワイでの米国集中治療学会での発表を控え、昨日そのスライドの予演もしてました。出不精の僕はまったく脱帽です。


では、そんな○田先生の学会参加記をお送りします。
以下、原文ママ↓


使節団バンコクへ行く
~第13回APCDM見聞録~

                            救急部 〇田 

 

センター長が僕を呼び止め、「災害の国際学会一緒に行くか?」とおっしゃったのは3ヶ月も前のことだ。僕は嬉しかった。そう、センター長が僕を誘ってくれたのだ。当初、何故自分なのか分からなかった。熊本支援に参加したことが影響したのか。聞けばタイのバンコクというテロが気になる地域ではあったが、期待を込めてのお誘いであるならばと意気高揚した。しかしだ、実際は違ったようだ。いや、正確に言うと全然違った。そう、次回2年後のその国際学会を当センターが主催にすることがほぼ確実になるにあたり、事務要員として働かせるべく視察させる意味合いで急遽、僕を組み入れたに過ぎなかったのだ。その事実を知らされて理解するまでにそう時間はかからなかった。そして、参加にはもちろん演題提出も必須であることも知らされたのは論を待たない。ああ、やられた。

 以上、先月号へむくに倣い、村上春樹テイストで誇張も交えてお送りしました。

 かくして、去る115Asia Pacific Conference on Disaster MedicineAPCDM@バンコクへ出発することとなった。センター長、川瀬先生と同じ朝の関空発に乗り、昼のバンコクスワンナプーム国際空港に到着した。乾季だそうだが、すごい湿気だ。到着直後から先月逝去されたプミポン国王の服喪ムード一色で、至る所に肖像画と供養の花束が掲げられ、黒い衣服を着用した人も多い。主催側の手配したミニバンに乗り、学会会場となる30階建てのRadisson Blu Plaza Hotelへ到着。僕はタイのぼったくりタクシーを懸念して、移動が少なくなるようその五つ星ホテルを予約していた。近隣のホテル(僕の3分の1の料金)を押さえていたセンター長、川瀬先生のお二人と別れ、夕食で合流する手筈となったが、再びお会いした際にはお二人ともホテル(正しくはドミトリー)の設備に驚愕し、その後センター長からホテルに関する嫉妬トークが幾度となく重ねられた。


2 ホテル問題の証拠写真


 初日はAdvanced Poisoning LifeSupportという中毒、CBRNEのワークショップを規模、内容の視察も兼ねて受講し、2日目にポスター、口演の発表があった。ポスター発表については、必死で読み原稿と向き合った機内での努力も虚しく、文字通り貼るのみでプレゼンするような形式ではなかった。他にもアナウンスなく講演会場が変更されたり、プログラム冊子自体の情報量が少なかったり、そもそもプログラムがHP上に公開されていなかったり、運営にはいくつか改善できる点があった。その夜、会場のホテル屋上のスカイバーで日本の災害関連の中心の方々とお話しする機会があり、大切な時間になった。

3ちゃんと貼ってます!

DSCN6626 重鎮の皆さま方(前回登場の〇斐先生親子も)


 3日目にはHEMC2018APCDM主催が正式に決定し、最後のセレモニーでセンター長の熱いアピールがなされた。また、最後にタイ王国のプミポン国王の在りし日の映像を見ながら現地の方々が国家斉唱して涙する姿に心を揺さぶられ、学会は静かに閉幕した。


 

HEMCからは鵜飼先生を含めて演題を5つ発表してきたが、これは立川の災害医療センターの次に多い数だった。再来年の主催施設として幾分かはアピールできたかなと思った。いつの間にか自分の頭があれこれと学会を主催する側の思考回路になっており、センター長の術中にはまっていることを薄々気付きながらバンコクを後にした。


 長い期間センターを留守にしつつも、温かく送り出して下さった皆さんに感謝致します。もし再来年までHEMCにいれば、第14APCDMの運営を何らかの形でお手伝いさせて頂きたいと思います。どうもありがとうございました、コップンカー!

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