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『式年遷宮・伊勢神宮の謎』1

 

●「道鏡皇位事件で、伊勢神宮はなぜ宇佐神宮に神託の栄誉を奪われたのか?」

 

 古代奈良王朝をゆるがした大きな事件のひとつに、私たちは弓削道鏡の皇位神託事件を知っている。道鏡を帝にという神託の正否をめぐって、禁裏のみならず日の本の国を騒がせた政争ともいえよう。


 このとき、道鏡の皇位託宣をくつがえしたのは豊前の宇佐八幡神宮であり、称徳帝の勅使として八幡神の神託を確かめた、和気清麻呂の功績が今日につたわっている。仏教が旺盛に流行っていたこの時期、神託が皇統を決めることで、神道がほんらいの役割をしめした事蹟でもある。

 
 ではなぜ、このとき皇室の祖廟である伊勢神宮は皇統にかかわる神託を依頼されることなく、九州の地方神にすぎない宇佐八幡神宮に名を成さしめたのであろうか。これは、ながらく疑問とされてきた史実である。

 
 それいらい、宇佐八幡神は石清水八幡(京都)、鶴岡八幡(鎌倉)などに勧請され、戦国時代には武士の神社として各地に建立されることになる。つまり伊勢神宮は、道鏡神託事件に何ら積極的に関わらなかったことによって、近世に至るまで八幡神の後塵を拝することになったともいえるのだ。

 
 さらに言えば、平安期には熊野詣として、熊野信仰が朝廷をふくめた貴族階級に流行するも、伊勢神宮はついに帝の参拝も得られなかった。代々の帝は禁裏から伊勢神宮に拝礼するにとどまったのである。


 中世においては、伊勢御師の活躍で経済的な基礎や崇敬は得られていたものの、伊勢参りが時代の前面に出るのは、幕末期を待たなければならなかったのである。

 
 こうした意味で、道鏡事件において伊勢神宮が宇佐神宮に先んじられた史実が、歴史の謎として浮かび上がって来るのだ。なぜ、伊勢神宮は神託を宇佐八幡に先んじられたのか。

 

「道鏡は皇位を望んでいなかった?」

 

 じつは、道鏡はみずから皇位を望んでいなかったというのが、最新の研究なのである。


 当時の政局をたどってみよう。聖武天皇から仏教政策を引き継いだ孝謙女帝のもと、橘諸兄と藤原仲麻呂(恵美押勝)がともに政争に倒れ、体調を崩していた孝謙女帝はいったん退位して静養につとめた。そのとき、女帝を癒したのが弓削道鏡だった。女帝が道鏡を寵愛し、ふたりは男女の関係だったとする推論もあるが、これは定かではない。

 
 その道鏡が、称徳帝として重祚した女帝を喜ばせようと、あるはかりごとを企んだ。当時、人々は飢餓と天変地異におびやかされ、聖武天皇・光明皇后の仏教政策を引き継いだ女帝にとっても、なやましい日々がつづいていた。このようなとき、古代においては自然現象が神々しく迎えられる。

 
 ある日の夕方、女帝は東の空に光彩を放つ雲を目撃する。ちょうど、そのあたりが伊勢神宮の方角であることから、道鏡はさっそく伊勢に遣いの者を出した。七色に変わる珍しい雲が吉兆として現れたらしいので、絵にして報告するように、と。


 さっそく伊勢神宮の神官が吉兆の目撃譚として絵図を奉ったところ、女帝はいたく感激して、元号を神護景雲と改めた。じつはこの時期の道鏡は法王の号を賜わっていたが、女帝の仏教政策をさらに磐石にするために、伊勢神宮の権威を利用したのだ。彼の狙うところは、藤原氏をはじめとする貴族の排除である。


 伊勢神宮の神官たちに位階を授け、皇宗を奉る勢力を味方につけた道鏡は、宇佐八幡神宮をつぎのターゲットにした。この宇佐八幡神宮は銅が産出されるという神託(予言)をもって、聖武天皇の盧舎那大仏(東大寺)の勧進を支援し、中央政界に進出してきた成長株であった。神社内に弥勒寺という神宮寺を持つ神仏習合の草分けでもあることも、法王道鏡にとっては喉から手が出るほどの存在であった。

 
 そこで、習宜(すげ)阿曽麻呂という者を宇佐に派遣して、何か吉兆があれば知らせよと伝えさせたところ、宇佐神宮の禰宜と宮司が道鏡の思惑を深読みして、道鏡皇位の神託を下してしまったのである。神託をする女禰宜(大神杜女)が男性の宮司(宇佐池守・大神田麻呂)よりも上位にあるという制度も、道教系の宇佐八幡に固有のものであった。

すなわち、神託と神仏習合。これが伊勢神宮をして八幡神に遅れをとらせた原因なのである。


 いっぽう、皇位推戴の神託におどろいた道教は和気清麻呂を宇佐に派遣し、神託の真偽を確かめさせたが、ご存知のとおり先の神託はくつがえされた。その裏には、藤原氏による道鏡排除の思惑がはたらいたのだが、これはまた別のテーマになるので別稿にゆだねたい。

 

※参考文献:『宇佐神宮の研究』(中野幡能編・国書刊行会)

■横山茂彦:作家。近著に『合戦場の女たち』(情況新書・世界書院刊)、
『大奥御典医』シリーズ(二見文庫)など。
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▼第40号
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                       2013/04/11
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  ノンフィクション・ライター小野登志郎のメールマガジン
    ~牡羊座が見たディープな出来事とスターたち~

Vol.40

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【今週の目次】

1. 【いっこうに盛り上がる気配を見せない「韓流十周年」救うキーワード「廃人」とは?】(阿部泰之)
  韓国現代史を背景に描く、傑作ドラマ『光と影』  
2. 【北米からの手紙】(内藤茗)  
  『ロスト・イン・トランスレーション』な女達
3. 【脱・台湾親日論の彼方へ】(松野幸志)
4. 【逃げるが果報】(横山茂彦)
  戦国三大合戦を生き抜いた一族の興亡史  
5. 【オムニバス小説 あわいの小骨】(伊藤螺子) 
6. 【横山茂彦の「NHK大河ドラマ八重の桜 勝手に論評・出しゃばり解説6】
  「新しい日々へ」4月7日放送分(4月13日再放送)
  愛憎なきドラマの怠慢
7. 【編集後記】

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 今年は「韓流10周年」なんだそうで。2002年にNHK BS2で「冬のソナタ」が放映されてから10年が経過したというのがその理由。3月20日にはヨン様がドラマ主題歌を歌う『アニメ 冬のソナタ メモリアル アルバム』も発売され、アニバーサリー・ムードを無理やり盛り上げようとするが、どうもイマイチ。韓流ブームもノスタルジックに語られつつある。

 申し遅れました。私は韓流の端っこで、文章を書いているライターの阿部です。今回、小野編集長から「韓流と私」的なお題を頂戴したので、小文をお届けする次第です。

●韓流と僕

 僕が韓国を初めて訪れたのは確か86年4月のこと。大韓航空の往復航空券(東京~パリ)を利用した1年間の旅行の帰りで、ストップオーバーを利用した2泊3日のソウル滞在でした。所持金はほとんど使い果たしていたため、ホテル代などあろうはずもなく(成田空港では警察で飛行場から自宅までの交通費を拝借したほど)、宿泊はもちろん野宿。2日目の夜に地下道の踊り場で寝ていると、翌朝、警官に叩き起こされ、そのまま派出所へ連行とあいなり、その後、パトカーで大きな署へと。着けば、「滅共、防諜」の標語が出迎えてくれ、さすがの反共国家でありました。

 その後も韓国の歌に魅せられた僕は、ソウル詣でを重ね、昼はレコード屋、夜はディスコ通い。韓国人男性入場不可の米兵ディスコは安く遊べたので、よく行きましたが、女の子は米兵目当て。めげることなく頑張りました。

 時は流れ、東方神起の先輩、HOTが起こした第一次アイドルブームの波がうねった97年、K-POPで踊るクラブイベントを開催します。当時、新宿にも韓国人向けのヒップホップ風クラブ(現在はホストクラブになっています)がありましたが、お客さんは韓国クラブのお姉さん方とその連れの日本人男性で、僕が求めるクラブではなかったのです。また、K-POPなんて言葉はありませんでしたし、日本で初の試みだったにもかかわらず、ふたを開ければ、100名以上がご来場。そして、回を重ね、2000年には、やっぱりDJだけじゃなくて、LIVE & DJでイベントをやろうと決意。今では韓国ヒップホップ界のトップに君臨するヒップホップ・チームを招いてイベントを開催しました。

 時を同じくし、ワールドカップ共催に向けて日韓のミュージシャンによる合同イベントが増えていくのですが、音楽を介した日韓交流は、ヨン様の波にかき消されていくことに。ヨン様にまったく関心のなかった僕はただ呆然とするしかありませんでした。

 そして、みなさんご存知のK-POブームは圧倒的な情報量を伴ったがゆえ、受け手もオーバーフロー。何がナンだか分からないのに、みんな似たり寄ったりなもんだから、結局、“少女時代とKARAだけで十分”ってなことになったのです。

●2013年の韓流とは?

 こうして既に崩壊してしまった韓流バブル。でも、終わってしまったからこその、見どころもたくさんあります。では、“2013年の韓流”の注目ポイントを挙げていきましょう。

 まず、一つめは「大久保」です。近年、本国では日本を中心とした海外への輸出を前提に無数のアイドルグループが生まれました。韓国では市場が狭いため、ならば、黄金の国、ジパングを目指そうと考えたわけです。それを支えたのが“先物買い”を楽しむファン。そのため、韓国人すら「それ、誰?」っていうアイドルにも一定の集客力がありました。

 また、都内でイベントをやるなら、渋谷や西麻布といったお洒落エリアがいい、というのが一般的な発想。2011年末には適正のビザを持たず大久保でライブをやっていたノービザ・アイドルが逮捕されたこともあり、大久保は敬遠されがちでした。でも、昨年秋からこうした傾向が変化します。トップクラスのアイドルが300人規模の箱で単独公演をやったり、かつては「1,000人規模の会場じゃなきゃ嫌!」と言っていたアイドルがアットホームな場所でやったりと、「えっ」と驚く事態になっているのです。韓国では活動する場所(機会)がないアイドルもこぞって大久保を目指し、留学生やワーキングホリデーの若者で結成され、一世風靡した大久保発のアイドルも、本国から来たアイドルに押され気味。今ではA級からC級まで、さまざまなアイドルが大久保で競ってイベントを行っています。こうした現象もバブル崩壊があってこそ。雑誌やテレビで取り上げられることが少なくなったアイドルにとって、大久保が一つの大きなメディアと化しているのです。

 二つめに挙げるのは「異色アイドル」です。韓国の女性アイドルはデビュー時はキュートさを、そして徐々にセクシーさを打ち出していくのが定番の手法でした。でも、最近、話題のCRAYONPOPはそうしたフォーマットからズレているのが魅力のアイドル。ブルースリーちっくな黄色のジャージを着てみたり、ジャージに学校の制服を重ねてみたり(寒い地方の中学生っぽい)とファッションがユニークで、ダンスもアイドルの定番からズレズレ。少女時代やKARAをAKB48に例えるなら、CRAYONPOPの立ち位置はももクロZ的とも言えるでしょうか? (ちなみに、ももクロZについて尋ねたら、本人たちはその存在を知りませんでした)。しかも、ファンの前で自分たちの契約年数を「5年間」とぶっちゃけるところも◎。イロモノ感たっぷりの男性歌手、PSYが世界的にブレイクしたように、彼女らのような非正統派の異色アイドルが今後の韓流を牽引することでしょう。

■阿部泰之
山形県出身。新宿ゴールデン街にて、K-POPとコーヒー占いの店、Asyl を運営。傍ら、K-POPを中心にライターとしても活動。著書は『K-POP パーフェクトBOOK』(イーストプレス)。
ブログはhttp://asyl.exblog.jp/ にて。

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■「鉄砲と花嫁」3月31日放送分(4月6日再放送)

 

●川崎尚之助という人物

 

 最新号(4月5日号)の「週刊ポスト」に「大人気大河ドラマ『八重の桜』に山口県人から激怒噴出!」という見出しが踊っています。まことに、ふふふ(さもありなん)という感じですが、長州藩はけっこうカッコよく描かれているのではないかと、私は思っています。

 
 もともと会津が主人公側なのだし、その意味でのヒール役は仕方がないところ。記事中には、あまりにも悪役で、もう観る気がしない、という長州のご老体の談話が載っていますが、まことに惜しいことです。これまでも長州藩は幕末京都の主役でありながら、主人公が龍馬であったり西郷隆盛、あるいは幕府側(勝海舟・徳川慶喜・新選組)という具合に主役を演じることは少なく(村田蔵六の「花神」があるていど)、なかなかその原像が見えてこなかったのです。

 
 この記事では安倍晋三が2006年に会津を訪ねたとき、「先輩がたのしてきたことを詫びたい」というエピソード、萩市が会津若松市と姉妹都市になることを呼びかけたが拒否され、なおかつ公の席で萩市長が握手を拒まれたなど、両者の歴史観のちがいが明らかにされています。いまだに薩長の人間と結婚はあいならんという風土。やはり被害を受けた側は忘れないのですね。

 
 ドラマのほうは、いよいよ八重と川崎尚之助の関係が実る。とはいえ、ここまで大した起伏もなく、八重の言葉を借りれば「兄(あに)さんのように」感じていた相手との縁談であれば、おたがいにちょっと驚いた感じで進められる。ある意味では時代考証がしっかりしている(本人たちの意志はあまり関係ない)と云えるのかもしれませんが、女性が主人公のドラマで、果たしてこれでいいのか?

 
 長州藩を描く重厚さ・緊迫感と比して、いかにも手抜きというか恋愛劇のノウハウを知らないというべきか。ふつうならば、縁談が進められて初めて相手を意識したとしても、いったんそれを忌避してから(つまり破談になりかかる)、突如として自分のなかの恋心に気づいて熱愛! という感じの劇的なインパクトが必要なのに、何となしダラダラと成り行きで。結果オーライ的な結婚。これでは、先に待っている新島譲との出会いや、きわめて意志的なプロテスト結婚(になるはず)も、劇的にはならないのではないだろうか。尚之助との婚儀・離縁があまりにも淡々としているから、なのです。

 
 まことに、京都の政情を扱うシーンの良さにくらべて、会津の八重のシーンはもうNHK朝ドラレベルの感情の起伏もなく、視聴者をひきこむ展開もありません。ちょういとした伏線のつもりのエピソードの連続ばかりで。すみません、愚痴になりました。

 
 そのあたりはもうどうにもならないので、川崎尚之助という人物について、少し解説をしておきましょう。といっても、当方にはほとんど史料がありません。ネット検索で、歴女諸氏の最近の研究からかいつまんでまとめます。

 
 川崎尚之助はどうやら出石藩(播磨)の藩医の息子だったようです。嫡男ではなかったので、江戸で蘭学をまなび、山本覚馬と知り合ったという。覚馬が日新館(会津藩の藩校)で蘭学所を開いたのを知り、これを頼って会津に来たとのこと。教授に就任するも「不肖、人のの師たるに足らず」とて、俸禄を辞退し山本家に食客する。謙虚で実直なイメージは、ドラマそのまま。八重との結婚後は、会津藩の軍制改革にともない蘭学所の砲術科が藩の砲術部門となり、尚之助も藩士として被官の身になる。こういう感じですが、なぜか戊辰戦争の敗北過程で八重と離縁。もとは正之助という名前だったものが、藩祖保科正之の名をはばかって、尚に改名したらしい。

 
 このあたりがどうやら謎ですが、わかっているのは会津藩(松平家)が謹慎ののちに青森の斗南に移封されたのに従って、そこで藩の商取引の役職に就いたらしい。デンマーク人の商人と取り引きのトラブルがあり、責任を背負って裁判になった時期に病没、という生涯だったとのこと。ドラマが進むのに合わせて、また何か解説させていただきます。


■横山茂彦:作家。近著に『合戦場の女たち』(情況新書・世界書院刊)、
『大奥御典医』シリーズ(二見文庫)など。
ブログ:
http://07494.cocolog-nifty.com/blog/

 

●安倍政権が力を入れる日越経済交流

 

 いま安倍政権が東南アジア外交で最も力を入れているのがベトナムである。安倍首相が首相主任後の最初の外遊の地にベトナムが選ばれたのはその表れだ。チャイナプラス1と呼ばれる中国からの工場移転で最も注目されているのがベトナムで、既にはトヨタ、ホンダ、パナソニク、ソニー、キャノンなどが続々と現地に工場を建設している。

 

ベトナムと日本は歴史上、深い交流の歴史がある。1960年代から70年代にかけてのべトナム戦争期、日本はアメリカに組みしたこと、ベトナム戦争に解放戦線と北ベトナムが勝利し、ベトナム全土が社会主義政権となったことで、日越関係は冷却した。しかし1980年代に始まったドイモイ政策でベトナムが目覚しい経済発展を遂げると、日越関係は一変。いまや日越関係は親密化の度合いを深めている。

 

ここでは、ベトナムと日本の交流の長い歴史を追うことで、その関係のあり方を考えてみたいと思う。

 

●縄文時代から続く日越の経済交流

 

ベトナムと日本の交流は遠く縄文時代から連綿と続いている。

 

縄文時代の交流はひとまず置くとして、まずは古事記に記された“日越”交流の痕跡を追ってみたい。それは古事記の神代記の海彦山彦に描かれたある船に関することである。

 

山彦は兄の海彦から借りた釣り針を無くしてしまう。山彦は自分の刀を潰して千本の釣り針を作り兄に献上するが兄は許してくれない。途方にくれた山彦は、海岸でとある老人と出会う。その老人は山彦に、釣り針は海の彼方にある竜宮にあることを継げる。そしてその老人は山彦に、竜宮に行くための船を提供する。その船は竹で編んだ籠(かご)の小舟であった。「无間勝間(マナシカタマ)」と呼ばれている。この船に使われた籠もまた日本の古代史と深い関わりを持っている。丹後半島には籠(この)神社という神社はある。古い由緒をもつ神社で元伊勢の名が付けられているように、伊勢神宮とも深い関わりを持つ。祭神は天火明命で、彼が常世に行き来した「籠」にちなんで籠神社と名づけたれたと言われている。この籠もまた「无間勝間」だと思われている。また籠神社は元浦島とも言われ、浦島太郎とも深い関係にある。丹後半島は浦島伝説の地としても知られている。浦島太郎が龍宮へ行くのを助けた亀というのも、この丸い籠船ではないかと考える郷土史家もいる。籠には籠目というものがあるが、それは亀甲とも呼ばれている。そこからも浦島の亀と籠船のつながりが見えてくる。

 

この竹で編んだ小舟が日本とベトナムを繋いでいるということは我々を太古の歴史ロマンに誘ってくれる。

 

●黒潮と籠船が結ぶ南九州の隼人とベトナムの海人族

 

古代、九州南部に住んでいた海人族は、海彦の象徴される部族であったと考えられている。彼らは竹で堅く籠を編み、それに天然のタールなどを塗り水の浸入を防ぐ工夫をして「舟」として用いた。それが「カタマブネ」だ。この「カタマ」とか「カタ」とかいう言葉は、台湾など黒潮に連なる島々で、「舟」とか「筏」とか「籠」をさす言葉だとされている。ミクロネシアで使われる双胴のカヌーがカタマランと呼ばれているのもその一例だといえよう。同様の舟が、台湾・ベトナムを始め、ビルマ・南洋群島・中国奥地の河川でも見られると歴史学者の上野喜一郎氏はその著「船の歴史」(天然社昭和27年刊行)で考察されている。またこの「カタ」という言葉は筏(いかだ)の「カタ」として今日でも使われている。

 

この竹で編んだ籠船を今でも漁に使っている人々が存在する。それがベトナム沿岸で漁を行っているベトナムの漁民なのである。彼らは二人乗りのお椀型をした籠船で漁をしているのである。その籠船は海彦山彦や浦島伝説に登場する「无間勝間(マナシカタマ)」や亀(船)を彷彿とさせる。

 

ベトナム中部のトゥアティエン・フエ省タムザン潟には海で暮らす人々が住んでいる。そこは古くからのベトナム海人族の伝統を今に伝える地域である。ここでは海で生計を立てる人々のすべてが籠船で漁をしている。朝ともなると海岸線は籠船で埋め尽くされる。それはあたかも、2千年の時空をタイムスリップして海彦山彦の世界へ舞い降りたかのような感がある世界だ。ベトナムは島国ではないが東西に細長い国で、そこには数千キロに及ぶ長い海岸線を持っている。そしてその海岸線には、籠船による漁で生計を立てる漁民が今も数多く生活しているのである。この彼らの使う籠船が、南シナ海、東シナ海、対馬暖流に乗って日本海側の海岸に漂着したことが何度かある。古代ベトナムの海の民が海流に乗り籠船で日本の九州に流れついたというのも考えられない話ではない。

 

●鹿児島の隼人に伝わる竹の文化


籠船の材料は竹である。海彦の末裔であるとされている隼人の住む鹿児島には「隼人式」と呼ばれる様々な竹製品があると「延喜式」に記載されている。「延喜式」が書かれた10世紀には竹製品は隼人の献上品で宮中などでしか用いられなかった。「延喜式」の他にも、例えば「神祇式」には大嘗祭に用いられる簀、とか儀式に使われる御輿の材料とか、祭の食器とか箸とかに使われるとかの記述がある。これらに記された竹製品の多くもまた隼人の献上品であった。このように隼人は竹の民だったのである。隼人はこの様に竹の加工技術に長けた民で竹を編んだ籠船を作っていた。

 

 ベトナムは、竹の国である。ベトナムには多くの竹林があり、人々はその竹を使い日常品をつくりだしている。それは漆の技術と結びついて多くの民芸品を生み出し、今日まで伝承されている。ベトナムでは今でも竹で籠を編み籠船を作っている職人が存在する。竹の民芸品を作る職人と合わせて、それは太古の隼人の姿を彷彿とさせてくれる。

 

 ちなみに、竹の民芸品で使われる漆もまた日本とベトナムの古代の交流の存在を示すものである。岩手県、青森県などの縄文遺跡からは漆を塗った竹製品が出土することがあるが、同じ時代のベトナムのドンソン文化の遺跡からもまた同じような漆製品が出土している。その漆の成分分析により日越の薄い文化に深いつながりがあったことが明らかになっている。縄文の太古、ベトナムから籠船に乗って漆文化を伝えた人がいたかもしない。

 

 ともあれ、九州南部にいた隼人と呼ばれた海人族は、黒潮を通して東南アジアの諸民族と深い交流を結んでいたことは間違いない。そしてその中にベトナム沿岸部にいた海人族が含まれていたこともまた間違いないことであろう。南九州の海彦を長とする隼人とベトナムの沿岸部の海人族は籠船で結ばれていたのである。これは古代日越の技術交流という側面をもっていた。先の漆も含めて日越は神代の代から経済交流をしていたのであった。

 

以後、平安時代の、室町・戦国時代の交流、明治時代の交流、戦中戦後の交流と筆を進めてみよう。(続く)

 

■文 浪城暁紀 ライター

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