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■横山茂彦の「NHK大河ドラマ八重の桜 勝手に論評・出しゃばり解説」4

 

●「蛤御門の戦い」3月24日放送分(3月30日再放送)

 
・京都は武家の魔都である

 

 この事変は、別称を禁門の変・元治甲子の変といいます。


 御所を重火器で侵し、京都の街を焼き尽くす応仁の乱いらいの戦争でしたが、ドラマで描かれているほど人身に被害があったとは伝わっていません。「
甲子雑録」に消失戸数二万七千五百十七戸連城紀聞」に死者三四〇名と記録されています。戦闘員という記録ですから、京都の民衆はほとんどが事前に避難していたようです。


 前年の八月十八日の政変で京都を追われ、池田屋事件で藩士を殺害された長州藩が、会津中将(松平容保)を討つために上洛進軍という筋書きです。これは事変の一側面にすぎません。

事変後は長州征伐となり、会津藩と松平容保は尊皇倒幕派の憎しみを買い、のちの戊辰戦争においては
 朝敵となる悲劇の道をたどるわけですが、今回はこの時期のそれぞれの陣営の政治的な思惑を整理しておきましょう。どちらが開明派で正義とか守旧派で悪とかではない、人間がおこなう政治というもののドス黒い闇について、考えていく必要があると思うのです。そこから浮かび上がってくるのは、京都という魔都の本性なのです。


 まず、孝明帝はドラマで描かれているとおりバランス感覚のある人物で、みずからは猛烈な攘夷派でありながら、長州藩士や脱藩浪人の過激な尊皇攘夷運動は嫌っていました。天子(帝)はつねに秩序を求めるものです。


 ところが、帝をささえるはずの公家は、必ずしもそうではありません。当時のというよりも京都という政治風土は、もともと反武家の気風があるところで、なおかつ畿内(大坂をふくむ上方)から政権を奪った東人(あずまびと)に憎しみと侮蔑を持ち続けたのが彼らにとっての江戸時代だったのです。


 そこで、公武派であろうが尊皇派であろうが、京都および自分が主導する形で、政治を奪権したい。これが公家たちの政治行動の原理です。党利党略・私利私欲です。したがって、長州も薩摩も会津も、彼らにとっては手駒にすぎないのです。


 そんなわけで、尊皇派の長州上洛を機に、
有栖川幟仁・熾仁両親王(父子)、中山忠能(大納言卿)らが、発言権の復活を策して容保の京都追放を画策するも、帝の逆鱗にふれて失脚。ぎゃくに薩摩藩・土佐藩などから長州の上洛阻止の建白があり、長州迎撃態勢がととのったのであります。


 かたや有力各藩にとっても、いまや政治の中枢が江戸城ではなく禁裏(朝廷)にあることが明白になり、自分たちがそこで政治的主導権をにぎる。これが行動原理であったと言えましょう。やはり党利党略なのです。島津久光などは、徳川に代わって島津幕府を開くことを本気で考えていたのですから。さらには、関ヶ原で一敗地にまみれた薩長、長宗我部遺臣(土佐の下士)が意趣返しを行なったのが幕末の倒幕運動という視点もありますが、これは戊辰戦争が本格化したら解説させてください。


 いまひとつ、京都の一般民衆はどう感じていたのでしょうか。ドラマでは、どんどん焼けで焼け出された童たちが「会津は出て行け」「おまえらが家を焼いた」などと、山本覚馬らに投石するシーンが描かれています。当時の実態は別の意味で、これに近かったのではないかと思われます。
長州の敗残兵をかくまった西本願寺が新選組と会津藩に焼き払うと恫喝され、ために新選組の頓所として庵を供出されるのも、このときのことです。


 当時の記録にも、会津が悪いという記述が多く見られるようです。これは会津藩が街を焼いたという意味ばかりではなく、京都人の心情が長州支持だったのではないかと思えるのです。


 たとえば、池田屋事件の原因(会合を自白)となった
古高俊太郎は尊皇攘夷派の志士ですが、同時に彼は京都の商人でもあり、今回の蛤御門の変でも福田理兵衛なる人物が私財を投げ打って長州を支援しています(変後、長州に亡命)。


 このように、史実では京都の人々は戦乱を恐れつつも、尊皇攘夷派の長州を支援する構造があったのです。流行りものを支持する、流れに身をまかせる日本人特有の行動様式がここに見て取れるとも言えます。


 これは民衆レベルにおいても同じで、生活の不満や政策批判がすべて政権批判に向かう原理で、反幕府へと向かうわけです。そこには朝廷を軽んじてきた徳川(松平)、太閤(秀吉)様から天下を奪った関東武士という歴史的な反感があり、平安京いらいのプライドがあったといえましょう。


 時代をさかのぼってみても、平氏政権は公家文化に敗れて都落ちし、鎌倉幕府は後醍醐帝の建武の中興で滅亡、室町幕府も織豊政権も京都で滅んだのだという言い方ができます。そして徳川もまた……。京都は武家政権にとって、滅亡をもたらす魔都なのです。


 話は脱線しますが、京都の宿では朝ごはんに無料の湯豆腐を提供するところが少なくありません。冬場の底冷えする京都の朝にはありがたいサービスなのですが、こんな俗説があります。


 南北朝争乱のころ、京都のお寺が関東から来た武士に熱い湯豆腐を振る舞いましたとさ。ところが、陰で「あないなマズいものを有り難がるとは、関東は貧しいのぉ」と笑っていたとか。そういえば、京都人はコッテリしたものが好みで、あっさりした食感=京都風というのは誤解なのです。観光地らしく丁寧に接してくれるものの、心の底では関東をはじめ地方からの観光客を「侮蔑?」している京都人がいるらしいのを、かの地の気風として知っておいていいかもしれませんね。またそこが気位高く、けっして本音をみせない京都の魅力でもあるのですから。


 ともあれ、幕末は最初に尊皇攘夷という思想が流行り、その基盤には反武家(反幕府)という京都の気質があり、やがて倒幕=近代=文明開化という流れに結実して行くのです。もはや徳川幕府と会津藩(の一部)がいかに親和的で開明的であろうとも、その流れの中では守旧派であり前世紀の遺物という感じになってしまうわけです。


 けれども、そうではなくて会津には会津の魂があり、というところに今回のドラマの真髄があるはずなので、そのあたりをジックリと見極めたいものです。


 ところで、前述したシーンに、
大垣屋(大澤清八)なる人物が登場します(役者は松方弘樹)。この清八は会津小鉄(神坂仙吉=会津藩の中間屋敷に出入りしたので会津名を名乗る)の親分に当たる人物で、ようするにヤクザの親分です。


 子分の会津小鉄といえば、現在も下京区に拠点を置く指定暴力団の元祖で、清八の養子には大沢商会・京都電気鉄道を設立した大澤善助がいますので、現代につながる重要人物といえましょう。当時は口入れ屋、人夫を動員する元締めでした。


 ヤクザはこの大垣屋清八だけではありません。一橋慶喜の上洛には新門辰五郎(娘が慶喜の妾に)という江戸の大物ヤクザが同行し、子分を動員して上洛中の面倒をみています。清水の次郎長が東征大総督(倒幕軍)から街道警護役を命じられるのが慶応四年と、幕末はヤクザの親分衆にとっても活躍がめざましい時代だったのですね。


 そう言う意味では、NHKの解説が大垣屋清八の人となりをナレーションしながら、「会津藩中間屋敷跡が下京区にあり、いまも五代目会津小鉄会にその魂が息づく、覚馬と清八の足跡です」とかやれば面白いのに、と思ってしまいました。

 
 次回は「鉄砲と花嫁」、いよいよ八重と尚之助の婚儀が俎上に。西郷隆盛役の吉川晃司の役作りがいいなぁ。やっぱり本物の俳優が出ると、ドラマが引き締まりますね。

 

横山茂彦:作家。近著に『合戦場の女たち』(情況新書・世界書院刊)、
『大奥御典医』シリーズ(二見文庫)など。
ブログ: http://07494.cocolog-nifty.com/blog/

■横山茂彦の「NHK大河ドラマ八重の桜 勝手に論評・出しゃばり解説」3

 

●「守護職を討て」3月17日放送分(3月23日再放送)

 

 メルマガ読者のみなさま、わたくし横山茂彦と申します。前々回、前回と、小野編集長からの依頼でNHK大河ドラマの寸評をやってみたところ、反響のほうはともかく書くのが思いのほか面白くて、なんだか病みつきになっておりました。そこで小野さんにお願いして、連載を継続させていただくことになった次第です。どうかよろしく、お願い申しあげます。

 ご意見やご感想、それから「おまえ、わかってないやないか。間違っとるぞ」とかのご批判もぜひ、賜わりたく思料いたします。※連載中の小説「逃げるが果報」へのご意見・ご感想もよろしく。以下は前書きなので、お忙しい方々はすっ飛ばして、先をお読みください。


 近現代史は、じつは得意ではありません。文献史学の格付けでは古代にさかのぼるほど「偉い」とされ、近代・現代にくだるほど「たいしたことない」とされる不思議な序列がありますけど、わたしに言わせれば近現代のほうが圧倒的に史料点数が多くて、とっても大変。怠け者に近現代の歴史研究は向かないのでございます、はい。


 そればかりではございません。もともと近現代史には研究対象としての生々しさがあって、とくに幕末の東北をテーマにした場合、かの地の人々は「曽祖父様のお兄様が長州の兵隊に殺された」とか「使用人の女子たちが薩摩のイモ侍に乱暴された」だとかの記憶や言い伝えが生々しい世代がご存命だったりで、扱いがすこぶるむつかしいのです。


 おそらく、やった側の薩長のほうはあまり覚えていないが、被害を受けた会津藩や南部諸藩は、しっかりと被害を覚えているのです。竜馬や新撰組に特化しないかぎり、幕末モノは売れない、視聴率が悪い。などと言われるのは、殺戮の記憶が生々しいからでありましょう。


 そんな事情でも、「篤姫」の高視聴率・感動的なシーンの記憶があり、なおかつ危機を乗り越えて復興中の東北において、先進的な女性像を新島八重にシンボライズする試みがあるとしたら、大いによしとされるべきでしょう。これが「八重の桜」のねらいにほかなりません。


 もとより幕末・維新の出来事というのは、私たちの行動様式や意識を形成してきた直近の歴史であり、いわば私たちの原像ともいうべき足跡です。というわけですので、いっしょに新島八重たちの辿った歴史を探訪しつつ、歴史の裏側をひも解いて行こうではありませんか。以上、前書きでした。

 

 本題です。

 
 幕末という激動の時代ゆえに、物語は会津における弟の三郎、八重と川崎尚之助らの苦心惨憺、いっぽう京都では兄の山本覚馬が長州藩と攘夷派の巻き返しに苦闘する。ふたつの物語が同時進行することになります。

 
 京都派遣組に志願しては撥ね返される三郎の苦悩はともかく、もっとうまく進んでもいい八重と尚之助の仲は、何となく波風がなく物足りませんね。わたしたちに気を揉ませるでもなく、カァーッと若い恋心が情熱的になるわけでもなく、ただ一緒にいてお互いに啓発されたり感謝したりという感じで、何ともおざなりな……。ハラハラさせる恋敵もいませんしね。

 
 すでに新島襄がアメリカに密航し、将来的には京都で愛の物語が待っているのだから、あまりここで盛り上げても。という配慮がはたらいてしまっているとしか思えない静けさです。尚之助役の長谷川博己クンも学者肌で、やさしい好感度が目立ってしまうほうだし、八重も恋に胸をときめかす、様子はないし。

 
 というわけなので、物語の求心力はやはり京都の政情になります。


 まず、冒頭に前回も取り上げた佐久間象山の受難劇、殺され方も史実のとおりですが、供の者はいなかった説が強いです。象山の没後、殺され方が士道不覚悟(うしろから斬られるとは言語道断)、あるいは攘夷派が松代藩で多数派となったこともあり、家が取り潰されることになります。弟子である山本覚馬は「先生は二度殺された。攘夷派の浪士に、藩の愚かしさに」「松代藩に掛け合ってくる!」といきり立ちますが、じつはここまで言った以上、描かれなければならないもうひとつの物語があるのです。


 じつは佐久間象山の没後、山本覚馬はその息子である三浦啓之助(三浦姓は象山の妻=勝海舟の妹の姓)に父の仇を討つべし、と新撰組入りを勧めるのです。じっさいに、啓之助は叔父である勝海舟の推薦状を手に、新撰組の門をたたきます。頼みとする幕閣の勝先生のご推薦でもあり、近藤勇以下の新撰組幹部は啓之助を丁重にあつかいます。

ところがこの啓之助クン、父親の大言壮語癖・尊大さばかりを継いでしまっていたのか、空気が読めないうえに隊士と決闘事件を起こしたり、土方歳三や沖田総司に警戒されてしまいます。どうやら新撰組お得意の内ゲバ粛清対象になったところで、そそくさと隊を遁走。ゆくえをくらましてしまいましたとさ。


 士道不覚悟にも幕末・維新を生きのび、それでもなお勝海舟の親族ということで裁判所に役職を得たものの、若くして食あたり(うなぎ料理?)で亡くなるという最期だったようです。山本覚馬としては、あまりおもてに出したくない負の人脈ゆえに、今回の大河では出番はないでしょう、たぶん。


 そんなことよりも、注目するべきは長州藩の動向でした。長州藩を引っぱる形で会津公討つべしの真木和泉が、八幡宮で祝詞(のりと)をあげるシーン、緊迫感がありましたね。真木和泉は久留米藩士ですが、もともと神職の家に生まれた人で神がかり的な勤皇思想家と言っていいでしょう。


 修跋(しゅばつ=大幣でシャツシャとお祓いをする)から祝詞と、神前作法は合格ですが、二拝二拍手一礼のときに、他の侍・志士たちが倣わないのがおかしいといえば、おかしい。戦勝祈願なのですから、もっと盛大にやってもらいたいもんです。全員で「パン、パンッ!」と。


 もうひとつ、覚馬と梶原平馬らが八幡宮で偵察中に補足されるシーン。「何しよるんか?」(何をしているのです?)「来い」(来なさい)「はよせんか」(早くしなさい)と長州藩兵たちの山口弁(九州北部も同じなので、小野さんと私は懐かしく感じます)。ところが「せからしい」と、長州藩の来島又兵衛が口走ります。これは肥前・肥後の方言であって、真木和泉が口にするならOKですが、長州人はよほど品のない方しか使わなかったのではないかと思われます。


 「ぐち(口)を利くな、会津弁でバレる」と警戒心も細やかな梶原が、とっさに祇園で憶えた京都弁を操って難をのがれるところは、芸がこまやかと申せましょう。方言はその瞬間、聴く者を故郷への思いに誘います。


 この舞台である八幡宮は実在する「離宮八幡宮」で、平安時代に嵯峨天皇が八幡神を石清水八幡に勧請したときの在所が縁起です。サントリー山崎の蒸留所を背に、東海道本線と新幹線のあいだに、こじんまりとした社殿があります。


 西から洛中を俯瞰する山崎の地(天王山)・戦の神である八幡神祈願と、舞台装置がそろったところで、次回は禁門の変、どんどん焼きです。
(続く)

横山茂彦:作家。近著に『合戦場の女たち』(情況新書・世界書院刊)、
『大奥御典医』シリーズ(二見文庫)など。
ブログ:
http://07494.cocolog-nifty.com/blog/

■好調なWOWOWとNHKの亡霊たち

 

「去年までの洋画買い付けでは相当儲けました。洋画の買い付けでは為替格差が大きな問題となります。円高は我々にとつて大きな追い風でした。しかしアベノミクスで円安となった今は、新しいコンテンツの買い付けに影響が出るのは間違いなく、頭の痛いことです」(WOWOW関係者)

 

 WOWOWが好調である。新たにチャンネルも増やした。その中でもWOWOWプレミアムに対する会社の期待は大きい。WOWOWプレミアムはこれまでも進めてきたドキュメンタリーやドラマなどの独自制作専門のチャンネルでWOWOWでは今独自のコンテンツ制作に意欲を燃やしている。

 

「WOWOWはあまり外部の制作会社を使うことに慣れていなくて、戸惑うことが多いのは事実です。問題なのは彼らの中に現場を知っている人があまりいないということです。要求はきついのですが、それが予算と折り合わないということをなかなか理解してくれない」(外部制作会社プロデユ―サー)

 

 WOWOWの社員には中途採用で番組制作経験者をとってはいるが、局独自に番組の枠を埋めれるほどの制作能力はない。そこで勢い外部の制作会社に丸投げすることとなる。彼らと関わる外部制作会社ではそうした彼らの”素人”ぶりに手を焼いている。

 

 いま外部制作会社が制作に関与しているドキュメンタリー番組は「ノンフイクションW」という毎週月曜日の夜に放送されている50分のドキュメンタリーである。この番組のプロデユ―サーには音楽関係の会社からの転職組で映像に関してはズブの素人も含まれている。また制作費の問題も大きい。この番組の制作費は900万円である。900万円で50分のドキュメンタリーを制作するとなると、かなりきついのは事実である。それもかなりのグレードを要求されるということになれば相当きつい。ちなみにNHKBS1に50分の「ドキュメンタリーWAVE」という番組があるが、これは1300万円から1500万円の制作費が出る。900万円でNHKと同様のグレードの番組を求められること自身相当にきついことがお分かりになるだろう。

 

「WOWOWのドキュメンタリーはNHKを強烈に意識しています。そもそもWOWOWプレミアムというチャンネル名そのものからしてNHKBSプレミアムを意識して付けられているんです。それで企画はもちろん出来栄えも相当のグレードを要求してきます。予算的にはNHKとは500万円くらいの開きがあります。つまり同じグレードの番組を作れといっても、土台無理な話なんです。それでも今、ドキュメンタリーの枠が極端に少くなっている現状ではしようがないのでエントリーしているわけです」(外部制作会社プロデューサー)

 

「WOWOWがNHK並のグレードを求めるのは、NHKのOBの存在が大きいと思います。WOWOWにはNHKのOBがたくさん天下っています。現在の社長もNHKのOBですし、部長もそうです。彼らは古巣のNHKを強烈に意識しています。NHKの後輩などから『何だあの番組は、Fさんも落ちたものだな』と言われるのが怖いんです」(別の外部制作会社プロデューサー)

 

 実際、WOWOWのドキュメンタリーの現場を仕切っているのはNHKのOBである。WOWOWのプロパーはもちろん中途入社組にしたところで、ドキュメンタリーの経験はそれほどなく、あったとしてもその経歴は大したことはない。だからNHKのOBに対して面と向かってものを言える社員は皆無といっていい。そこで勢いNHKOBの発言が現場に反映されるのである。

 

 WOWOWは視聴者が金を払って見るチャンネルである。公共放送のNHKとは土台からして違うのである。極端に言うと契約者にはNHKOBの古巣への対抗意識の反映された番組などみる筋合いはない。もっと俺たちが見たい番組を作れという声が出るのももっともなのだ。NHKのような番組を見たければNHKを見ればいいのである。

 

「我々は独自カラーのある番組を作りたいんですが、上がなかなかOKを出してくれません。現場の士気は下がるばかりです。NHみたいな番組をやりたければNHKでやればいいのに。WOWOWにはWOWOWらしい番組作りがあるはずです。ドキュメンタリー論とかをひけらかせられるのはまっぴらゴメンです」(WOWOWの社員)

 

 こうした声をNHK天下り組はどう受け止めるのであろうか。

 

■取材・文 大伴理人 ライター

「最近は好調ですね。視聴率好調の要因としては、我が局のドラマが視聴者に受け入れら得ていること、バラエテイも『Qさま』『なにこれ珍百景』などが堅調なことが主な理由ですが、やはり10時台月金帯の報道ステーションの存在が大きい。報ステは爆発的数字を叩き出すというのではないけれどコンスタントに10%以上をキープしている。これは大きいですよ」(テレ朝編成関係者)

 

 かつては「振り向けばテレビ東京(テレ東さんお許し下さい)」と言われフジ、日テレ、TBSの後塵をはいし民放第四位の地位を定位置としてきたテレビ朝日が、日テレを抜き第一位に躍り出ようかの勢いである。この原因は、ドラマ、バラエテイが好調なのが大きな原因であることは間違いないが、その数字をそこで支えているのは午後10時台の報道ステーションであることは誰しもが認めるところであろう。

 

「報ステにいる人って局内でも特別ですね。4階では(4階の報道フロアーには報道ステーションとスーパーJチャンネルのデスクが並んでいる)彼らに遠慮していますね。何事につけても彼らが優先です。肩身が狭いといえば狭いですけ」(スーパーJチャンネル担当者)

 

 テレ朝報道セクションでは報道ステーションの扱いは別格である。報ステには第一線クラスの戦力が投入されているのは確かである。報道ステーションはある意味報道のテレ朝と言われたテレ朝の核をなすといっても過言はない。現社長の早河洋氏は報ステの前身であるニュースステーションのCPを努めた人物である。早河氏はテレ朝初のプロパー社長だが彼を社長まで押し上げたのはひとえにニュースステーションと報道ステーションの成功と言っても過言ではない。

 

「古館伊知郎がニュースキャスターかと言われれば、どうだろうか。最近週刊文春も書いていたが、彼のコメントは全部作家が書いたものだ。臨機応変のコメントがキャスターの資質だとすれば、彼にその資質があるかどうかは、大いに疑問だな。まあテレビを見る人にはそんなことは判らないから、それでいいといえばいいのだけど」(報ステ関係者)

 

 古館伊知郎はテレビ朝日の元社員アナウンサーである。テレ朝時代の古館といえばプロレス中継で名を馳せたように報道とは程遠い存在であった。その古館が独立して設立したのが古館プロである。古館プロは、元々は放送作家の集団で初代の社長を努めたのは今は故人となった越川という放送作家である。越川は古館のタレントとしての可能性にかけたのである。ニュースステーションを巡るテレ朝とオフイストウ―ワンとの確執で古館にお鉢が回ってきた。当時テレ朝には久米宏の後を継げるような局アナはいなかったのである。

 

「古館伊知郎は自信がなかったらしいけど、事務所としては、大きなビジネスチャンスでこれを逃がすということは考えられなかった。そこで事務所の放送作家が全力で支えるということで決断した。事務所としては古館の軽さを払拭する必要があった。軽口や絶叫だけが取り柄の古館を地のままで言ったらいつ失言するかわからない危険があった。それで原稿でガチガチに固める必要があった」(報ステに関わった外部スタッフ)

 

 ある意味、古館は造られたキャスターと言えるかもしれない。この点、彼は実に周到だった。彼の横に座る女性キャスターは局アナだが総じて地味である。彼女らは古館の指名で決められる。古館は自分より目立ちそうな女子アナ起用を決して許さないのである。

 

「富川悠太は将来のテレ朝報道を牽引していくエース的存在です。今は現場リポーターとして修行中の身ですが、その可能性は大きいです。背も高いし、ハンサムだし、コメントのキレもいい。何から何まで胡散臭さのつきまとう古館とは正反対です。彼がメインの椅子に座るのも遠くないかもしれない」(テレ朝報道部員)

 

 テレ朝報道教員の間には密かな富川悠太待望論があるという。古館は今後も安泰かというと実はそうでもないのである。富川アナはテレ朝の好感度NO1の男子アナであり、古館不在の時、彼が報ステのキャスターを務めることがあるのは将来を見据えてのことである。

 

 これには古館も内心のところは穏やかではない。富川アナは最初から報ステに参加しているが、初めは歯牙にもかけなかった古館が彼のことをしきりに気にするようになっている。傍から見ると富川アナを見つめる古館の目は明らかにライバルのそれである。テレ朝と古館プロの間がぎくしゃくし始めたとき(それは既に始まっているが)古館の契約更新打ち切りという事態が生じないとも限らない。

 

 報道ステーションという長寿番組にも転機が訪れるのかだろうか?

 

■取材・文 大朋理人 ライター

■凋落著しいフジテレビ

「どうしてこんなことになったのだろう。自分が入社した10年前は日の出の勢いだったのに。バラエテイはダメ、ドラマもダメ、数字を取れるのはサッカーとかフィギュアスケートとかのスポーツだけ。特に看板であるバラエティの不振が痛い。とにかく今のウチにはイノベェーションが全くない。いまどき、『アイアンシャフ』もないだろう。現場のモチベーションの低下は著しいものがある」(フジテレビ中堅社員)


 フジの低迷が止まらない。その原因には色々なことがあるのだが、まず第一に言えるのはマンネリ化である。フジはこれまで番組のイノベーションを活力の源にしていた。それが最近は全く見られないのである。



今、フジの現場を仕切るのは、大多亮常務と亀山千広常務である。両名は一世を風靡したトレンディドラマなどでフジの全盛期を支えた人物なのだが、その大多常務の肝いりで仕掛けた「アイアンシェフ」が大コケした。この企画は「料理の鉄人」のリメークである。「料理の鉄人」は当時としては斬新で視聴者にも大いに受けた。「そのリメークで、夢よ、もう一度という発想が情けない」という声も上がっている。つまり今のフジには斬新なものには怖くて手が出せないのが現状だ。


「昔のフジにはサムライが一杯いました。フジは現場が全てで、現場には自由があり上層部に気兼ねすることなくやりたい事がやれました。またフジのいいところは学歴など全く関係なかったことです。今では信じられないでしょうが、一世を風靡した『なるほどザ・ワ-ルド』を大ヒットさせた王東順プロデユーサーは高卒の総務職としてフジテレビに入った。彼はフジの総務と夜間大学生という2足のわらじを履きながら、夢であるテレビ製作の現場へ上り詰めたのです」(フジテレビ元局員)



フジは能力があると見れば学歴とか出身に関係なく現場に登用していたのである。


「実際フジにはサムライが多かった。今は退職しているが森永さんというプロデユサーは自らを『札付き』と呼んでいた。彼は上司の言うことを一切無視して自分のやりたいように番組を作った。それがヒットし上司は何も言わなかった。しかし彼は出世することはなかった。ハナからその道は放棄しひたすら番組製作だけに命をかけていた」(前出元局員)


「今はサムライなんていませんね。今の中堅社員はフジが好調になってから入社したもので、その大部分が高学歴です。高学歴の特徴として冒険ができません。言われたことはそつなくこなせるけど、自ら何かを切り開くということは苦手ですね。フジの現在の低迷は自分も含めて社員の資質にあるのかもしれない」(90年代に入社した高学歴の社員)


現在のフジの制作部を見れば東大、京大卒の高学歴者がゴロゴロいる。彼らが就活していた時、フジはすでにメジャーで業界でも一二を争う高収入が約束されていた。
 

2000年代には給料水準は極限まで達していた。30歳代で1千万は当たり前。50代の部長ともなると年収は2500万円を超えていた。その給料水準は不況の現在でも変わりない。つまり高学歴者は番組を作りたいということより、高収入が約束される会社としてフジテレビを選んでいるのである。これは何もフジに限ったことではなく、民放キー局ならどこも同じだ。


「とにかく冒険しない。まず最初に歩留まりを考える。自分の時とは全く違う。奴らはテレビマンではないサラリーマンだ。自己保身には長けているけど、何か新しいものに挑戦するという意欲はほとんどない。嘆かわしいしいことだが、これも時代の流れか……」(フジテテレビ元社員)


 フジの社員は個性的な社員が多かったという。酒を飲むにしてもその飲み方も半端ではなかった。昼間から酒を飲み千鳥足で局にくる豪傑もいた。今はそんな社員は一人もいない。コンプライアンスかどうか知らないけど、豪傑の存在を許さないのである。


 一介のワイドショーディレクターから専務にまで上り詰めた太田英昭氏は、情報局長時代、部下を自由に働かせ数々のヒット番組を世に送りだした。彼も常務、専務と上り詰めていくうちにかつてのイノベーションや部下を自由に動かす精神を失ってしまったのだろうか。


 フジテレビの元社員たちのぼやきは、日増しに大きくなるばかりだ。フジテレビの凋落は、今のテレビ業界を映し出している鏡でもあるだろう。



■取材・文 大伴理人 ライター


 


 


 

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