■横山茂彦の「NHK大河ドラマ八重の桜 勝手に論評・出しゃばり解説」4

 

●「蛤御門の戦い」3月24日放送分(3月30日再放送)

 
・京都は武家の魔都である

 

 この事変は、別称を禁門の変・元治甲子の変といいます。


 御所を重火器で侵し、京都の街を焼き尽くす応仁の乱いらいの戦争でしたが、ドラマで描かれているほど人身に被害があったとは伝わっていません。「
甲子雑録」に消失戸数二万七千五百十七戸連城紀聞」に死者三四〇名と記録されています。戦闘員という記録ですから、京都の民衆はほとんどが事前に避難していたようです。


 前年の八月十八日の政変で京都を追われ、池田屋事件で藩士を殺害された長州藩が、会津中将(松平容保)を討つために上洛進軍という筋書きです。これは事変の一側面にすぎません。

事変後は長州征伐となり、会津藩と松平容保は尊皇倒幕派の憎しみを買い、のちの戊辰戦争においては
 朝敵となる悲劇の道をたどるわけですが、今回はこの時期のそれぞれの陣営の政治的な思惑を整理しておきましょう。どちらが開明派で正義とか守旧派で悪とかではない、人間がおこなう政治というもののドス黒い闇について、考えていく必要があると思うのです。そこから浮かび上がってくるのは、京都という魔都の本性なのです。


 まず、孝明帝はドラマで描かれているとおりバランス感覚のある人物で、みずからは猛烈な攘夷派でありながら、長州藩士や脱藩浪人の過激な尊皇攘夷運動は嫌っていました。天子(帝)はつねに秩序を求めるものです。


 ところが、帝をささえるはずの公家は、必ずしもそうではありません。当時のというよりも京都という政治風土は、もともと反武家の気風があるところで、なおかつ畿内(大坂をふくむ上方)から政権を奪った東人(あずまびと)に憎しみと侮蔑を持ち続けたのが彼らにとっての江戸時代だったのです。


 そこで、公武派であろうが尊皇派であろうが、京都および自分が主導する形で、政治を奪権したい。これが公家たちの政治行動の原理です。党利党略・私利私欲です。したがって、長州も薩摩も会津も、彼らにとっては手駒にすぎないのです。


 そんなわけで、尊皇派の長州上洛を機に、
有栖川幟仁・熾仁両親王(父子)、中山忠能(大納言卿)らが、発言権の復活を策して容保の京都追放を画策するも、帝の逆鱗にふれて失脚。ぎゃくに薩摩藩・土佐藩などから長州の上洛阻止の建白があり、長州迎撃態勢がととのったのであります。


 かたや有力各藩にとっても、いまや政治の中枢が江戸城ではなく禁裏(朝廷)にあることが明白になり、自分たちがそこで政治的主導権をにぎる。これが行動原理であったと言えましょう。やはり党利党略なのです。島津久光などは、徳川に代わって島津幕府を開くことを本気で考えていたのですから。さらには、関ヶ原で一敗地にまみれた薩長、長宗我部遺臣(土佐の下士)が意趣返しを行なったのが幕末の倒幕運動という視点もありますが、これは戊辰戦争が本格化したら解説させてください。


 いまひとつ、京都の一般民衆はどう感じていたのでしょうか。ドラマでは、どんどん焼けで焼け出された童たちが「会津は出て行け」「おまえらが家を焼いた」などと、山本覚馬らに投石するシーンが描かれています。当時の実態は別の意味で、これに近かったのではないかと思われます。
長州の敗残兵をかくまった西本願寺が新選組と会津藩に焼き払うと恫喝され、ために新選組の頓所として庵を供出されるのも、このときのことです。


 当時の記録にも、会津が悪いという記述が多く見られるようです。これは会津藩が街を焼いたという意味ばかりではなく、京都人の心情が長州支持だったのではないかと思えるのです。


 たとえば、池田屋事件の原因(会合を自白)となった
古高俊太郎は尊皇攘夷派の志士ですが、同時に彼は京都の商人でもあり、今回の蛤御門の変でも福田理兵衛なる人物が私財を投げ打って長州を支援しています(変後、長州に亡命)。


 このように、史実では京都の人々は戦乱を恐れつつも、尊皇攘夷派の長州を支援する構造があったのです。流行りものを支持する、流れに身をまかせる日本人特有の行動様式がここに見て取れるとも言えます。


 これは民衆レベルにおいても同じで、生活の不満や政策批判がすべて政権批判に向かう原理で、反幕府へと向かうわけです。そこには朝廷を軽んじてきた徳川(松平)、太閤(秀吉)様から天下を奪った関東武士という歴史的な反感があり、平安京いらいのプライドがあったといえましょう。


 時代をさかのぼってみても、平氏政権は公家文化に敗れて都落ちし、鎌倉幕府は後醍醐帝の建武の中興で滅亡、室町幕府も織豊政権も京都で滅んだのだという言い方ができます。そして徳川もまた……。京都は武家政権にとって、滅亡をもたらす魔都なのです。


 話は脱線しますが、京都の宿では朝ごはんに無料の湯豆腐を提供するところが少なくありません。冬場の底冷えする京都の朝にはありがたいサービスなのですが、こんな俗説があります。


 南北朝争乱のころ、京都のお寺が関東から来た武士に熱い湯豆腐を振る舞いましたとさ。ところが、陰で「あないなマズいものを有り難がるとは、関東は貧しいのぉ」と笑っていたとか。そういえば、京都人はコッテリしたものが好みで、あっさりした食感=京都風というのは誤解なのです。観光地らしく丁寧に接してくれるものの、心の底では関東をはじめ地方からの観光客を「侮蔑?」している京都人がいるらしいのを、かの地の気風として知っておいていいかもしれませんね。またそこが気位高く、けっして本音をみせない京都の魅力でもあるのですから。


 ともあれ、幕末は最初に尊皇攘夷という思想が流行り、その基盤には反武家(反幕府)という京都の気質があり、やがて倒幕=近代=文明開化という流れに結実して行くのです。もはや徳川幕府と会津藩(の一部)がいかに親和的で開明的であろうとも、その流れの中では守旧派であり前世紀の遺物という感じになってしまうわけです。


 けれども、そうではなくて会津には会津の魂があり、というところに今回のドラマの真髄があるはずなので、そのあたりをジックリと見極めたいものです。


 ところで、前述したシーンに、
大垣屋(大澤清八)なる人物が登場します(役者は松方弘樹)。この清八は会津小鉄(神坂仙吉=会津藩の中間屋敷に出入りしたので会津名を名乗る)の親分に当たる人物で、ようするにヤクザの親分です。


 子分の会津小鉄といえば、現在も下京区に拠点を置く指定暴力団の元祖で、清八の養子には大沢商会・京都電気鉄道を設立した大澤善助がいますので、現代につながる重要人物といえましょう。当時は口入れ屋、人夫を動員する元締めでした。


 ヤクザはこの大垣屋清八だけではありません。一橋慶喜の上洛には新門辰五郎(娘が慶喜の妾に)という江戸の大物ヤクザが同行し、子分を動員して上洛中の面倒をみています。清水の次郎長が東征大総督(倒幕軍)から街道警護役を命じられるのが慶応四年と、幕末はヤクザの親分衆にとっても活躍がめざましい時代だったのですね。


 そう言う意味では、NHKの解説が大垣屋清八の人となりをナレーションしながら、「会津藩中間屋敷跡が下京区にあり、いまも五代目会津小鉄会にその魂が息づく、覚馬と清八の足跡です」とかやれば面白いのに、と思ってしまいました。

 
 次回は「鉄砲と花嫁」、いよいよ八重と尚之助の婚儀が俎上に。西郷隆盛役の吉川晃司の役作りがいいなぁ。やっぱり本物の俳優が出ると、ドラマが引き締まりますね。

 

横山茂彦:作家。近著に『合戦場の女たち』(情況新書・世界書院刊)、
『大奥御典医』シリーズ(二見文庫)など。
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