●安倍政権が力を入れる日越経済交流

 

 いま安倍政権が東南アジア外交で最も力を入れているのがベトナムである。安倍首相が首相主任後の最初の外遊の地にベトナムが選ばれたのはその表れだ。チャイナプラス1と呼ばれる中国からの工場移転で最も注目されているのがベトナムで、既にはトヨタ、ホンダ、パナソニク、ソニー、キャノンなどが続々と現地に工場を建設している。

 

ベトナムと日本は歴史上、深い交流の歴史がある。1960年代から70年代にかけてのべトナム戦争期、日本はアメリカに組みしたこと、ベトナム戦争に解放戦線と北ベトナムが勝利し、ベトナム全土が社会主義政権となったことで、日越関係は冷却した。しかし1980年代に始まったドイモイ政策でベトナムが目覚しい経済発展を遂げると、日越関係は一変。いまや日越関係は親密化の度合いを深めている。

 

ここでは、ベトナムと日本の交流の長い歴史を追うことで、その関係のあり方を考えてみたいと思う。

 

●縄文時代から続く日越の経済交流

 

ベトナムと日本の交流は遠く縄文時代から連綿と続いている。

 

縄文時代の交流はひとまず置くとして、まずは古事記に記された“日越”交流の痕跡を追ってみたい。それは古事記の神代記の海彦山彦に描かれたある船に関することである。

 

山彦は兄の海彦から借りた釣り針を無くしてしまう。山彦は自分の刀を潰して千本の釣り針を作り兄に献上するが兄は許してくれない。途方にくれた山彦は、海岸でとある老人と出会う。その老人は山彦に、釣り針は海の彼方にある竜宮にあることを継げる。そしてその老人は山彦に、竜宮に行くための船を提供する。その船は竹で編んだ籠(かご)の小舟であった。「无間勝間(マナシカタマ)」と呼ばれている。この船に使われた籠もまた日本の古代史と深い関わりを持っている。丹後半島には籠(この)神社という神社はある。古い由緒をもつ神社で元伊勢の名が付けられているように、伊勢神宮とも深い関わりを持つ。祭神は天火明命で、彼が常世に行き来した「籠」にちなんで籠神社と名づけたれたと言われている。この籠もまた「无間勝間」だと思われている。また籠神社は元浦島とも言われ、浦島太郎とも深い関係にある。丹後半島は浦島伝説の地としても知られている。浦島太郎が龍宮へ行くのを助けた亀というのも、この丸い籠船ではないかと考える郷土史家もいる。籠には籠目というものがあるが、それは亀甲とも呼ばれている。そこからも浦島の亀と籠船のつながりが見えてくる。

 

この竹で編んだ小舟が日本とベトナムを繋いでいるということは我々を太古の歴史ロマンに誘ってくれる。

 

●黒潮と籠船が結ぶ南九州の隼人とベトナムの海人族

 

古代、九州南部に住んでいた海人族は、海彦の象徴される部族であったと考えられている。彼らは竹で堅く籠を編み、それに天然のタールなどを塗り水の浸入を防ぐ工夫をして「舟」として用いた。それが「カタマブネ」だ。この「カタマ」とか「カタ」とかいう言葉は、台湾など黒潮に連なる島々で、「舟」とか「筏」とか「籠」をさす言葉だとされている。ミクロネシアで使われる双胴のカヌーがカタマランと呼ばれているのもその一例だといえよう。同様の舟が、台湾・ベトナムを始め、ビルマ・南洋群島・中国奥地の河川でも見られると歴史学者の上野喜一郎氏はその著「船の歴史」(天然社昭和27年刊行)で考察されている。またこの「カタ」という言葉は筏(いかだ)の「カタ」として今日でも使われている。

 

この竹で編んだ籠船を今でも漁に使っている人々が存在する。それがベトナム沿岸で漁を行っているベトナムの漁民なのである。彼らは二人乗りのお椀型をした籠船で漁をしているのである。その籠船は海彦山彦や浦島伝説に登場する「无間勝間(マナシカタマ)」や亀(船)を彷彿とさせる。

 

ベトナム中部のトゥアティエン・フエ省タムザン潟には海で暮らす人々が住んでいる。そこは古くからのベトナム海人族の伝統を今に伝える地域である。ここでは海で生計を立てる人々のすべてが籠船で漁をしている。朝ともなると海岸線は籠船で埋め尽くされる。それはあたかも、2千年の時空をタイムスリップして海彦山彦の世界へ舞い降りたかのような感がある世界だ。ベトナムは島国ではないが東西に細長い国で、そこには数千キロに及ぶ長い海岸線を持っている。そしてその海岸線には、籠船による漁で生計を立てる漁民が今も数多く生活しているのである。この彼らの使う籠船が、南シナ海、東シナ海、対馬暖流に乗って日本海側の海岸に漂着したことが何度かある。古代ベトナムの海の民が海流に乗り籠船で日本の九州に流れついたというのも考えられない話ではない。

 

●鹿児島の隼人に伝わる竹の文化


籠船の材料は竹である。海彦の末裔であるとされている隼人の住む鹿児島には「隼人式」と呼ばれる様々な竹製品があると「延喜式」に記載されている。「延喜式」が書かれた10世紀には竹製品は隼人の献上品で宮中などでしか用いられなかった。「延喜式」の他にも、例えば「神祇式」には大嘗祭に用いられる簀、とか儀式に使われる御輿の材料とか、祭の食器とか箸とかに使われるとかの記述がある。これらに記された竹製品の多くもまた隼人の献上品であった。このように隼人は竹の民だったのである。隼人はこの様に竹の加工技術に長けた民で竹を編んだ籠船を作っていた。

 

 ベトナムは、竹の国である。ベトナムには多くの竹林があり、人々はその竹を使い日常品をつくりだしている。それは漆の技術と結びついて多くの民芸品を生み出し、今日まで伝承されている。ベトナムでは今でも竹で籠を編み籠船を作っている職人が存在する。竹の民芸品を作る職人と合わせて、それは太古の隼人の姿を彷彿とさせてくれる。

 

 ちなみに、竹の民芸品で使われる漆もまた日本とベトナムの古代の交流の存在を示すものである。岩手県、青森県などの縄文遺跡からは漆を塗った竹製品が出土することがあるが、同じ時代のベトナムのドンソン文化の遺跡からもまた同じような漆製品が出土している。その漆の成分分析により日越の薄い文化に深いつながりがあったことが明らかになっている。縄文の太古、ベトナムから籠船に乗って漆文化を伝えた人がいたかもしない。

 

 ともあれ、九州南部にいた隼人と呼ばれた海人族は、黒潮を通して東南アジアの諸民族と深い交流を結んでいたことは間違いない。そしてその中にベトナム沿岸部にいた海人族が含まれていたこともまた間違いないことであろう。南九州の海彦を長とする隼人とベトナムの沿岸部の海人族は籠船で結ばれていたのである。これは古代日越の技術交流という側面をもっていた。先の漆も含めて日越は神代の代から経済交流をしていたのであった。

 

以後、平安時代の、室町・戦国時代の交流、明治時代の交流、戦中戦後の交流と筆を進めてみよう。(続く)

 

■文 浪城暁紀 ライター