A1Title変奇R
行人坂
-富士見茶屋-大円寺-太鼓橋-OGGI-蟠龍寺-大聖院-大鳥神社-玉川屋-権之助坂

A2変奇地図「目黒駅の高台から目黒川の谷へ下る大通りが権之助坂。その左手に富士見の名所として知られた行人坂がある。・・・」(権之助坂入り口の目黒区散歩道案内板より)。江戸の町民が、お不動さん詣でに行き来した坂だ。

今回は、この行人坂(ぎょうにんざか)を下り、富士見茶屋・夕日の岡、大円寺、お七の井、太鼓橋を見て昼食(オッジ)、蟠龍寺、大聖院、大鳥神社を経て和菓子の玉川屋に寄り、権之助坂(ごんのすけざか)から目黒駅に戻る。

まず、修行僧の気持ちで行人坂を下り始めたが、変奇人の年齢になると行人坂の勾配は下りとはいえ、少々きつく感じる。坂を上ってくるハイヒールの若い女性が足早に駅に向かう姿をみると羨ましくなる(写真3)。

目黒の地形            
目黒川が流れる谷は、初め断層でできた断崖であったが長年の浸食作用で現在のような形状になったと云われている[1]。この谷は、江戸時代から大正時代ぐらいまでは都心と郊外を分ける自然の境界となって来た[1]。行人坂の上までは江戸の町であったが、行人坂を下り太鼓橋を過ぎると、目黒不動の門前町までの間はのどかな田園地帯となっていたようである(写真1)。
写真1 江戸名所図会の夕日の岡、行人坂(1800年頃?。青字追加)[2]

A3変奇行人坂
写真2
は目黒駅付近の地形である。ちょうど目黒辺りの谷を見ると、斜面がほぼ西向きになっている。従って、目黒の丘の上から西方向を眺めると、田園が開け、不動の森の先に美しい富士がよく見えたのであろう。広重は行人坂、夕日の岡、千代ヶ崎、茶屋坂など目黒から見た富士を沢山描いている。よほど気に入ったのではないであろうか。特に、行人坂ほぼ西向きで,富士と夕日が美しかったようである。
写真2 目黒の地形            写真3 行人坂上より
A4変奇地形
この目黒川の谷の幅は目黒付近で狭くなり200~300mとなる[1]。目黒川の左岸の方が少し高くなっており、国土地理院の「標高がわかるWeb」によれば行人坂の一番高いところは標高30.3m、大円寺は15m、坂下の雅叙園入口で8.5mである。写真4にこのWebに基づき作成した行人坂の断面を示す。目黒区によれば行人坂は全長240m、高低差18.2m、平均斜度7.2度、起伏に富み、坂の多い目黒でNo.3の急坂としている[3]。
写真4 国土地理院の「標高がわかるWeb」から作成した行人坂の断面と斜度A5変奇断面
行人坂はかなりの急坂である。現在は、昔にくらべ道幅や傾斜が改修されというが、坂を上るには少々苦労がある。

行人坂のいわれ
行人坂は、品川区の上大崎4丁目1番と3番の境を目黒区の下目黒1丁目方向に下る急坂のことである。湯殿山(月山)の修行僧(後に大円寺を開いた)たちは、この坂の途中に大日如来像を建て、道場にこもって日夜修行に励んだといわれている。彼らは行人と呼ばれていたことから、この坂の名となった[4]。1600年代の初めとのことである。
A6変奇年表

行人坂と呼ばれる前の行人坂

光谷氏の「行人坂物語」に江戸の初め頃、まだ行人坂が行人坂と呼ばれていない頃の様子について、大変興味ある記述があるのでここに引用させていただく[5]。行人坂をこれから見、想う上に大変参考になるように思われる。
 大鳥神社社掌の、故小泉清治氏等の郷土史研究者の調査記録によると、徳川秀忠時代(1605-1623)の佐渡金山奉行、『大久保長安』が当時、切支丹宣教師ヒモンヤス、テツピヨースの2ポルトガル人から鉱脈探査方法の伝授として、『大久保長安』の別荘地目黒(不動尊付近といわれる本邸は白金台町)に招き実演教示のため、行人坂に坑道、横坑、竪坑を堀り、また鉱脈の走り方を教えた事実に対し、「慶長切支丹秘記」には目黒の山を堀り土中に岩窟を設け邪教を説いたと書いてある。
 また白金台町の『大久保長安』本邸の白金御殿と行人坂との間にトンネルを造った云々・・・また幡竜寺の岩屋弁天は切支丹信徒が住んでいた跡とも書いてある。さらに行人坂は天主教の僧等が開いた云々とも書いてある。

 この『大久保長安』は家康に仕え産金の発達に多大の功績を残し、所謂慶長金により徳川家の金山による富の功労者であったが、切支丹連類の罪により捕えられんとした矢先に静岡で発狂遂に狂死した。時は元和元年(1615)夏であった(一説に毒殺)。

その後の行人坂付近
国立国会図書館で公開しているは絵図で、行人坂が載っている一番古いものが写真5の1682年のものであった。一方右側(写真6)は幕末の頃の行人坂である。これらの絵図で今回の散歩コース「行人坂→山手通り→権之助坂」を辿ってみよう。

写真5の1682年(延宝9)の絵図では行人坂の入口の四つ角は茶屋や茶屋丁とあり、この頃から既に茶屋が並んでいたようである。行人坂の左脇は内藤左京なる大名邸である。さらに下りると大円寺があり明王院に相当するところに文字があるが意味が分からない。目黒川を渡るとすぐ道の両側が町となっている。商家があったのであろうか。これを越え畑の中を突き進むと現在の山手通りに相当する道に出る。この付近も左右茶屋丁とある。左に行けば目黒不動である。右に行くと現在もある大聖院があり大鳥神社に達する。蟠龍寺(当時は称名院)の文字は無いが豊前とある所か?このころまだ権之助坂は無い。
写真5 増補江戸大絵図絵入(1682)[6] 写真6 江戸切絵図部分(1849-1862)[7]

A7変奇絵図
幕末 (写真6) 近くになると、行人坂や、その付近に茶屋がはるかに多くなる(地図の灰色の部分)。かなりの賑わいを感ずる。内藤左京邸は細川越中守の屋敷に変わっている。大円寺、明王院の前に浄覚寺(絵図では上覚寺となっている)がある。浄覚寺については前シリーズの目黒不動とその周辺 龍泉寺 比翼塚で触れたのでそちらを見ていただきたい。浄覚寺は明治の初めに廃寺になり、そこにあった白井権八と小柴の連理塚は五反田の安楽寺に移されている。さて行人坂を下り、太鼓橋を渡り、田園を進むと現在の山手通りに、ここで岩屋弁天とあるところが蟠龍寺である。小さくて見にくいが右に曲がった角に大聖院と大鳥神社がある。権之助坂を上れば行人坂上に戻れる。

参考文献
1.都築秀徳:目黒川下流部の地形並びに湧水、郷土目黒、第4輯、7-15頁 1960
2.斎藤月岑(長谷川雪旦画):江戸名所図会7巻、1836
3.目黒区健康推進部健康推進課:坂道ウォ-キングのすすめ、目黒区、37頁、
   2010
4.めぐろ街あるきガイド:目黒区 目黒区観光まちづくり推進協議会 2008
5.光谷宗助:行人坂物語、郷土目黒、第5輯、19-25頁、1961
6.増補江戸大絵図絵入 表紙屋市良兵衛 延宝9(1682)
7.景山致恭、戸松昌訓、井山能知:目黒白金辺図、尾張屋清七、1849-1862

次号予定 富士見茶屋・行人坂の碑 11月9日(金)(臨時増刊になるかも知れません)