henry_mania

時折書房

時折書房が目指すは定常開放系。コメント&TB大歓迎。

26 5月

森美樹『主婦病』

主婦病
森 美樹
新潮社
2015-03-20


主夫病。
内容紹介
欲望、猜疑、諦め、嫉妬……私も患っているのだろうか、〈主婦〉という病を。部下の男との情事の最中に倒れた夫、その裏切りを受け止め切れない妻。自分には無関心な夫の知らない世界に飛び立とうと、テレクラのバイトで金を貯める主婦。願った子供が授からなかったために、好きな夫と距離を取ってしまう妻――揺れる関係に悩み、こじらせ、もがく女達を描く、第12回R-18文学賞読者賞を含む連作短編集。
通勤の地下鉄&電車の中で読みました。ブックカバーなどないので、表紙をしっかりガードするのは大変でした。
今手元に齋藤環さんの『人間にとって健康とは何か』という新書があって、明日の朝から読み始めようと思っているんですが、「みんなビョーキ」のこの世界において、健康/病気ということを官能的に考えさせてくれる楽しい一冊でしたね。明日、もうこの本を読めないんだと思うと、残念でたまりません。数日間の隠微な愉悦でした。主夫の私の病をグリグリ刺激してくれましたもの。

あっ、半年ぶりの更新でした。生きてました。
29 11月

桐野夏生『夜また夜の深い夜』

夜また夜の深い夜
桐野 夏生
幻冬舎
2014-10-08


変な小説を読んじゃいました。
内容紹介
どんな罪を犯したのか。本当の名前は何なのか。
整形を繰り返し隠れ暮らす母の秘密を知りたい。
顔を変え続ける母とアジアやヨーロッパの都市を転々とし、
四年前にイタリア・ナポリのスラムに住み着いた。
国籍もIDもなく、父親の名前も、自分のルーツも、わからない。
母と口論し外に飛び出すと、「MANGA CAFE」と書かれた
チラシを手にする男に呼び止められた。絶対に本当の名前を
教えてはいけないという母のOKITEを初めて破って、私は
「マイコ」と答えた。
私は何者?
私の居場所は、
どこかにあるの?
魂の疾走を描き切った、苛烈な現代サバイバル小説
ごめんなさい。こういう小説を求めている方もいらっしゃるのでしょうが、私はそうでもにかったので、とりあえず最後までお付き合いいたしましたが、はい、それだけです。小説から離れているから、ですかね。謙虚に次に向かいたいと思います。
23 11月

森絵都『ラン』

ラン (角川文庫)
森 絵都
角川書店(角川グループパブリッシング)
2012-02-25


ラン。
内容(「BOOK」データベースより)
9年前、家族を事故で失った環は、大学を中退し孤独な日々を送っていた。ある日、仲良くなった紺野さんからもらった自転車に導かれ、異世界に紛れ込んでしまう。そこには亡くなったはずの一家が暮らしていた。やがて事情により自転車を手放すことになった環は、家族に会いたい一心で“あちらの世界”までの道のりを自らの足で走り抜く決意をするが…。哀しみを乗り越え懸命に生きる姿を丁寧に描いた、感涙の青春ストーリー。
読み終えて、森絵都さんって本当に作家なんだなあ、という感慨がありました。
大人のファンタジーです。
ただ、苦さの中にも楽しくこの本を読むことができたのは、最近、私自身がランニングにはまっているから、でした。いやあ、走ることって、超スポーツですよね。もともと「道」志向の強い私ではありましたが、ランニング、私にとっては、人生と同フレームで語られるようなところがありますね、最近は。
私のファンタジー・晩年編はどう展開していくんでしょうか。
10 11月

池井戸潤『下町ロケット2 ガウディ計画』



夢はあるか!
内容(「BOOK」データベースより)
ロケットから人体へ―佃製作所の新たな挑戦!前作から5年。ふたたび日本に夢と希望と勇気をもたらすエンターテインメント長編!!
 TBS『下町ロケット』みてます。
 池井戸潤作品の中で最も爽快な一冊だと思っていましたから。
 さて、最近本を読む習慣がほとんどなくなってしまい、書店に立ち寄ることもなくなっていたのですが、たまたまある目的からふらっと立ち寄ってみた近くの書店に平積みになっていたこの本を見つけて、思わず買ってしまいました。
 こちらもまた夢とプライドをめぐる熱いドラマ、です。
 今回は、相手の敵失により結果を得るような展開で、澄み切った爽快感は前作ほどではなかったかなと思いますが、でも、佃製作所という奇跡の会社の像はくっきりと残りました。
「お前ら、いい仕事したな」
 心からふたりをねぎらった。
 すると――。
「それはそうと、社長、ちょっとこれ見てもらえませんか」
 立花が見せたのは、一枚のデッサンであった。「一村先生から、例の血栓シュレッダーに関する所見をもらったんで、イメージをスケッチしてみたんです。感じとしては、心臓バイパス手術に使うステントのようなもので――」
 思わず、佃は苦笑する。
 もう次のことを始めてやがる。
 会社は小さいが、夢はでかい。
 それでこそ――人生だ。
 自分のやりたいことさえやっていれば、人生ってのは、そんなに悪いもんじゃない。
第一、オレがそうだ。
耳を傾けながら佃は、押し寄せる充足感に包まれていった。(p.368)
 夢がドライブさせる人生、夢が原動力となって成長する人間。
そして、夢の駆動力によって人を成長させる会社、佃製作所。
夢は他人に与えてもらうものでは決してなく、その夢を自分の中でしっかりと育てていくこともなかなか難しい。このドラマの中では、ガウディ計画の行方というドラマを紡ぐ縦糸に、たくさんの人物の夢にかかわるエピソードがドラマの横糸として編まれていました。その人物を動き出させた原点としての夢の行方・・・が。人を突き動かす原動力のようなものが、夢であるか、それともその他のものであるか、これって、人生の質を考えたとき、結構大事なポイントなんでしょうね。夢を語る、語り続ける大人像にあらためて思いを馳せてみます。まだまだ先はうんと長いのですから。
 まさに、「坂の上の坂」的人生ドラマでしたね。
 テレビドラマも楽しく観ていきます。きっとドラマでも「2」があるでしょう。
23 8月

畠山重篤『牡蠣とトランク』

牡蠣とトランク
畠山重篤
ワック
2015-06-24


森は海の恋人、forever。
内容紹介
牡蠣(かき)の友情
「家が流されるー」「アアー、船も、工場も流れてゆくー」……
やがて二波目が襲ってきた。第一波とは桁(けた)違いの高さの、黒い水の壁だ。映画『天地創造』のノアの方舟のシーンを思い出した。
話は50年前にさかのぼる──
フランスの牡蠣(かき)にウィルス性の病気が発生、フランス料理には欠くことができない牡蠣が絶滅の危機に瀕した。これを伝え聞いた漁師たちは「よし、宮城ダネ(牡蠣の種苗)を送って助けよう」と立ち上がった。
東日本大震災で牡蠣養殖のイカダが全滅したことを知ったフランスでは「今こそ恩返しだ!」とばかりに料理人組合が音頭をとって支援にのり出した。
フランス料理界の大御所アラン・デュカスらのよびかけに、日頃から環境問題に熱心なルイ・ヴィトンも支援に加わった。
畠山さんの養殖場を訪れたパトリックさんは創業者ルイ・ヴィトンの直系で五代目当主にあたる。畠山さんが本書の話を切り出したところ「それなら、わたしの絵を入れてはどうか」と、“友情出演”の申し出が……。
実はパトリックさんの絵は、フランス社交界で高い評価をうけており、オークションで高値で落札されたことで有名な存在だという。
本書は、大震災・大津波の貴重な証言記録であるとともに、牡蠣の友情がはぐくんだ絆が、いまいっそう力強く日仏を結びつけた感動の物語でもある。
ご無沙汰しております、くらいではすまないほどのご無沙汰でした。生きていました。
本を読むペースが極端に緩くなり、読んでもここにくる気にもなれずにいた私なのですが、今日、ふと目にとまったこの本を一気読みして、あああ、私も、私を鍛えてくれていたあのふるさとに戻ってみようかなという気になったのでした。
畠山重篤さん、私のアイドルです。
前に、畠山さんがお書きになった本の感想に「天才は天才を知る。 天才は会うべき人との出会いを自ら手繰り寄せ、そして、その出会いによって美しい幸せの輪が広がっている。その土地の美味が紙面にも賑わいを刻みつけ、そこで酌み交わされる酒で読者まで潤ってくる。」などと書いておりました。まさに、その通りの美しい出会いがつづられていました。
大震災からの復興を強く美しく生きられる畠山重篤さんの言葉に接して、ざわざわと内なる波が騒ぎ出しました。さあ、長い夏休みは今日で終わりだ。
24 2月

内田樹『街場のメディア論』3rd



適性を開発するということ。
内容(「BOOK」データベースより)
テレビ視聴率の低下、新聞部数の激減、出版の不調―、未曾有の危機の原因はどこにあるのか?「贈与と返礼」の人類学的地平からメディアの社会的存在意義を探り、危機の本質を見極める。内田樹が贈る、マニュアルのない未来を生き抜くすべての人に必要な「知」のレッスン。神戸女学院大学の人気講義を書籍化。
先日取り上げた榎本博明さんの『「やりたい仕事」病』の記憶が心の深いところでむずむずしています。私の家には結構立派な神棚が設えられていて、私は毎朝ごはんと水をお供えして神様に一日の誓いをたてる・・・習慣が子どもの頃から染みついているのですが、あの本を読んでから、誓いの言葉の決まり文句が久しぶりに変わりました。「今日も一日、父として、夫として、○○の△△としてのより強い適性の開発に努めます」というものです。適性とは開発するもの。それまでだって、そんなことを全く考えていなかったわけではないと思うのですが、でも、その思想は稲妻のように私を撃ったのです。
そして、ふと、内田樹センセイの『街場のメディア論』で何だか突拍子もなくキャリア教育批判が展開されていたような薄ぼんやりとした記憶が蘇ってきて、ちょっと気になったのでした。正直、あの本はとてもインパクトがあったのですが、マスメディアの不調に係る言説しか記憶に残っておらず(そちらも薄っすらとしたものですが)、キャリア教育批判の記憶はほとんどなかったのです。
で、読んでみました、「第一講 キャリアは他人のためのもの」。
中味はいつもの内田樹節だったのですが、先日読んだ『「やりたい仕事」病』の主張のエッセンスがより濃く確信をもって説かれていて、びっくりしました。内田センセイのキャリア教育批判の根拠となる思想は「その能力が必要とされたときにはじめて潜在能力は発動する。」(p.23)というものです。大事なのは、前半部分です。他者からの作用があってはじめて人間は得がたい能力を発揮する。あああ。内田センセイの自立論を思い出しました。
「自立している人」というのは「ああ、この人は自立している人なんだ、立派だなあ。偉いなあ」という君たち回りの人間の「承認」と「敬意」を支えにして立っているわけで、別にひとり宙空に浮いているわけじゃない。だから、自立している人間というのは、平たく言ってしまえば、「何かというと、他の人たちから頼られ、すがりつかれる人」のことだ。(『期間限定の思想―「おじさん」的思考〈2〉』p.23)
もう何度となく引用している箇所で恐縮なのですが、あらためて引いてみました。前に「ひとりでは生きられないのも芸のうち、という思想。」についていろいろな内田センセイ本から引用してまとめておいたこともありました
さて、では、長めの引用をしておきます。
 就職活動を始めるときに、みなさんは最初に「自分の適性」ということを考えます。そして、適性にふさわしい「天職」を探し出そうとする。自分の適性がよくわからないと仕事が探せないと言うことになっていますので、本学では「適性テスト」というのを皆さん全員が受けます。
 でもね、いきなりで申し訳ないけれど、この「適性と天職」という発想そのものが実は最初の「ボタンの掛け違え」だと僕は思います。「適性と天職」幻想にとらえられているから、キャリアを全うできなくなってしまう。僕はそう思います。
 勤め始めてすぐに仕事を辞める人が口にする理由というのは、「仕事が私の適性に合っていない」「私の能力や個性がここでは発揮できない」「私の努力が正当に評価されない」、だいたいそういうことです。僕はこの考え方そのものが間違っていると思います。仕事っていうのはそういうものじゃないからです。
 みなさんの中にもともと備わっている適性とか潜在能力があって、それにジャストフィットする職業を探す、という順番ではないんです。そうではなくて、まず仕事をする。仕事をしているうちに、自分の中にどんな適性や潜在能力があったのかが、だんだんわかってくる。そういうことの順序なんです。
 みなさんはまだ学生ですから、自分にどんな適性や潜在能力があるのか、知らない。知らなくて当然なんです。知らなくても全然構わないと僕は思っています。自分が何に向いているか知らないままに就職して、そこから自分の適性を発見する長い長い旅が始まるんです。(pp.17-18)
我が人生を振り返ってみても、この思想には深く共鳴するところがあります。
私は、大学4年生まで、世に無数に存在しているいわゆるマスコミ志望でした。いろいろ受けていればどこかには拾われるんだろうくらいに楽観していて、実際にいくつかは受けもしたんですが、でも、試験を受ける頃には、マスコミへの思いは全くといっていいほど醒めていて、ほんの形だけの気持ちのこもらない受験で、当然すべて落ちました。というのも、4年生の6月に教育実習を行ったとき、私の心の中に雷鳴が轟いたのです。あっ、これは私の天職かもしれない、という雷鳴が。急にマスコミなどという世界が虚業に映るようになってきたのです。友人に付き合うという目的ではじめた教職課程で、ここまできたんだから免許は取っておこうと行った教育実習で、私は自分が思い描いていた自分とは違う本当の自分の貌をぐりりと突きつけられたような気分でした。
そして、今も、毎日神様に誓いを立てつつ、本当の自分(それは、「一つだけ存在する正しい自分」というよりは、「どんどん拡張していって中心が微妙にずれたりしながらもどんどん新たな貌を獲得していく自分」という感じ、です)を獲得するための「長い長い旅」の途上です。途上にあることは何て清清しいんだろう。藤原和博さんの『雲の上の雲』の世界が一大パノラマになって眼前にやってくるような気分です。
ついでに、もう一つ、いきます。
「天職」というのは就職情報産業の作る適性検査で見つけるものではありません。他者に呼ばれることなんです。中教審が言うように「自己決定」するものではない。「他者に呼び寄せられること」なんです。自分が果たすべき仕事を見出すというのは本質的に受動的な経験なんです。(p.31)
召命。
村上春樹。
私は、これからどんなふうに仕事をしたらいいのか、だんだんわからなくなってきました・・・が、それでいいんです。眼前のことに専心注力します。そして、誰かからどこかから掛けていただく声にしたがって、またその眼前のことに専心注力します。ほんとかな?
20 2月

井上荒野『悪い恋人』

悪い恋人
井上荒野
朝日新聞出版
2014-12-05


いろいろな意味であもらるな小説。
内容(「BOOK」データベースより)
開発業者として現れた中学時代の同級生と、抗うこともないままに肉体関係をもってしまった沙知。自宅裏の森を伐採する宅地造成工事の告知を機に、彼女の家族は一変する。反対運動にのめり込む義父母。いつしか夫も見知らぬ顔を覗かせるなか、その男は沙知への要求をエスカレートさせていく。日常にひそむ正常と異常の空隙。そこから現れる異様な光景を端正な筆致でとらえたアモラルな傑作長篇小説。
この希薄な現実感覚はなんだ!というか、これほど希薄な現実感覚の持ち主の存在感の不思議なリアリティはいったいなんなんだ!
井上荒野さんの小説は、角田光代さんに次いでくらいにハズレがないと感じる読者の私なんですが、たまにあまりにもぬーっとしていて(ちょっと伝わりにくいでしょうか)、ずっこんと肩透かしを食らうようなときもあるんですが、これなどもそれ系でしょうかね。
いや、決してハズレというわけじゃないんです。ひっかかっている感じはむしろすごくあるんです。その色合いをもう少しはっきり際立たせてくれたらすっきりした読後感が得られたんだろうなという思いがある一方で、でも、そんなふうにしてしまったらこの引っかかり感はなくなってしまうんだろう、うーん、微妙な思いです。
・・・夫の母親や父親というだけで、血の繋がりのない老人たちの心に思いを馳せたり逆にあちらからこっちに踏み込んできたりすることもある、そのことだって異常だし、そういうふうに考えれば、この暮らしそのものが異常だ。そもそも、ある偶然で知り合った男と一緒に暮らし、その子供を生んで育てる、ということだってじゅうぶん異常なことではないのか。
 でも、ひとはそれを異常だと言いはしない。私だってそうだ。異常とは思わないようにして生きている。ただ、異常という言葉は存在する。いったいどこから異常だということになるのだろう。正しい異常はどこからだろう。(pp.100-101)
たとえばこんな一節だけ取り出されると、なるほど、そういう感覚に陥った女=沙知の異常な行動が描かれているのね、と映るところでしょうが、こんな思わせぶりな思いの表出はそう精細になされているわけではありません。ドラマの中の沙知は、「異常とは思わないようにして生きている」のか、ただ淡々と何も考えずに「生きている」のか、よくわからないような描かれ方をされています。言い換えれば、先に掲げた「異常」観が沙知の行動原理になっているような描かれ方では決してないのです。そこにこそ、すっきりしないし、ざらりとひっかかるのです。
徹底して抗わない、というスタイル。そのスタイルに即して、旧知の同級生とさらさらと寝る沙知。そう、行動原理というよりスタイルなんです!沙知の不思議なリアリティの正体?うーん、保留。
17 2月

重松清『流星ワゴン』again

流星ワゴン (講談社文庫)
重松 清
講談社
2005-02-15


ちょっと言葉にならないな・・・。
内容紹介
38歳、秋。ある日、僕と同い歳の父親に出逢った――。
僕らは、友達になれるだろうか?
死んじゃってもいいかなあ、もう……。38歳・秋。その夜、僕は、5年前に交通事故死した父子の乗る不思議なワゴンに拾われた。そして――自分と同い歳の父親に出逢った。時空を超えてワゴンがめぐる、人生の岐路になった場所への旅。やり直しは、叶えられるのか――?「本の雑誌」年間ベスト1に輝いた傑作。
前に読んだときの感想の無味乾燥ぶりに正直驚きました。重松清の中で一番の作品だとずっと思い続けてきたこの作品ですが、自分で使っていた「お気に入り」という言葉に違和感を覚えました。そんな感じじゃないんだな、もっと深く濃く刻み込まれる何かがあって「一番の作品」と思い続けていたんじゃなかったか・・・そう思い出しながらの再読でした。
さて、テレビドラマ「流星ワゴン」を観ていて再読の意志が刺激されたのは間違いないです。実際、2007年の夏に読んだ際の詳細な記憶は驚くほどに残っていませんでした。テレビドラマと小説とで、美代子の依存症の中身や美代子へのスポットの当たり方やワゴンでの旅のルールなど微妙に異なる点はありますが、原作のもつテイストをしっかり映像化しようとしていることを再確認することもできました(でも、こんなドラマ、視聴率稼げるはずないですよね)。
しかしながら。つらい読書でしたね。つらいというか、きついというか。
雑誌連載当初は「マジカル・ミステリー・ワゴン」という題名だったというこのお話、確かに内容からすればそんな題名こそがぴったりの作品ですし、荒唐無稽なファンタジーであることに間違いないのですが、読む者に染みてくる味わいは、その横文字の感じの軽さがどうしても釣り合うものではない。とにかく、とんでもない荒唐無稽さの底を突き破って、不意に私たちの現実に一撃を放ってくる、その強度に、胸を締めつけられながら読まざるを得ない作品でした。8年前に読んだときと現在とで、私自身が置かれた状況等が変化しているのか、よくわかりませんし、8歳だけ歳をとったからということかもしれませんが、間違いなく8年前の時よりきつい思いで読んだなあというのが実感です。
この作品が今の自分の何、どこにそんなに突き刺さったのか、ほんのちょっとだけ、慎重に(慎重さがないと、また安易に折り合いのつきやすい解釈=物語のフレームの力に屈服してしまうんです)考えてみます。
一つの手がかりとして、こんなところを引いてみます。
「分かれ道は、たくさんあるんです。そのときにはなにも気づかない。みんな、そうですよね。気づかないまま、結果だけが、不意に目の前に突きつけられるんです」(p.123)
これは、まぎれもなく「分かれ道」をめぐるドラマでした。「分かれ道」というテーマについては、最近の私の中でも知らず知らずのうちにクローズアップされていたものです。つい先日読んだ朝倉かすみさんの『地図とスイッチ』でそのことに触れたばかりでした。作品中から「そのとき選択しなかった道筋――それぞれ枝分かれしている――も、ぼくの地図には載っているような気がする」といった言葉を引いて、分かれ道だらけ、選択と排除だらけの私たちの人生について、とりとめのない思いをめぐらしてみたのです。選択しなかった道にも相応の光を注ぎ、人生の一部としてとらえるということ。そうだとすれば、『流星ワゴン』の、すでに通過してきた大切な「分かれ道」を自分と同じ年齢の父親とともにたどるというこれ以上ないくらい荒唐無稽なドラマも、「やり直す」という甘やかな行為としてではなく(何度も強調されていた「過去は変わらない」というワゴン・ツアーにおけるルールには当然大きな意味があったのです)、ひたすら「見つめ直す」「見過ごしていたものを見出す」ことだけに重きが置かれた「分かれ道」探索だったと考えてみれば、その荒唐無稽臭が全くしなかったことも、何となく頷けるのではないでしょうか。徹底してドライでソリッドなファンタジーの中に、私たちは、人が生きる基本形を、自分が生きる現実のかたちを、見せられているのです。
自分が生きる現実のかたち?
今、私の頭の中では、小説とテレビドラマの内容や描写がぐちゃぐちゃになっていて、どちらの作品の解釈なのかはっきりしないのですが、そこに造形されている永田一雄に対してどことなく悲しいシンパシーを感じるようなところが多々ありました。家族のことを一番強く思っているということに嘘はないながら、でも、その家族の本当の貌と向き合うことから無意識裡にかうまく逃げ続けている男。永田忠雄という大きく強く冷たい父の姿を真っ向から否定するのと引き替えに、永田忠雄なら一切揺るぐことのなかった父、夫としての強さを、手放さざるを得なかった、ということか。そして、そのことも、今回のこの父との「分かれ道」探索の中で、まさに硬く閉ざされていたものが不意に露呈するかのように、一雄の中で氷解する。父というものの大きさ、強さ。
「分かれ道」とは、いかにも分かれ道のような感じでそこにあるわけではない。今回のドラマにおいても、かつてと同様に「分かれ道」をそうとも感じずに通過しそうになる一雄に対して、もっとしっかり目を開け、ここをとり逃すなとナビゲートしていたのが、他でもないチュウさんでした。チュウさんもまた、父親として、悔いを残したくないという強い思念をもって一雄のもとに現れたのです。そして、チュウさんから一雄に向けて、託された大きく、強い父のかたち。

私は、先日読んだ『「やりたい仕事」病』を妙な感じでひきずっているというか、その本から最高の励ましを感じ続けています。そのときに引いた箇所をもう一度引きます。
適性というものは、仕事に真剣に取り組む経験の中でつくられていく。このことは、自分のやっている仕事にがむしゃらに取り組むことで、その仕事に必要な能力が徐々に開発されていくことを意味する。
 そこからさらに言えるのは、追い込まれれば追い込まれるほど、私たちの能力は開発され、取り組んでいる仕事に対する適性が増していくということだ。(p.89)
適性の開発。このことがまずは仕事の問題として私に突き刺さりました。真剣に今の仕事の適性開発に臨んでいるか!そして、次に、夫としての適性、父としての適性のそれぞれの開発にどれだけ真摯に向き合っていたか!と。どれだけ現状を場面を取り繕ってみても、そうしている間ずっと別な次元においては、それとは別の、より本質的といえる裂け目がどんどん広がっている、といった風景。思念の強さがないところに何もポジティブなものなど生まれはしない。
「チュウさん」を自分の内に呼び覚ましてみます。ただ、どうやって?
12 2月

朝倉かすみ『地図とスイッチ』

地図とスイッチ
朝倉 かすみ
実業之日本社
2014-11-07


人生の地図とスイッチ
内容(「BOOK」データベースより)
スイッチ押せばほんのちょっとの奇跡が起きる。昭和47年9月8日。同じ日、同じ病院で生まれたふたりの赤ちゃんがたどる40年―名手が紡ぐ「ぼく」と「おれ」の物語。
しみじみとした味わいの一冊でした。
地図とスイッチ。解題的な一節を次に掲げてみます。
 ぼくが考えるスイッチとは、つまり道筋だ。そしてスイッチを押すとは、どの道筋を選ぶか決めること。それを繰り返して、自分だけの地図ができる。
 経路と言ったほうがいいかねしれない。最終地点までの道順だ。だが、そのとき選択しなかった道筋――それぞれ枝分かれしている――も、ぼくの地図には載っているような気がする。恐ろしいほど細かく、複雑な地図だ。そのなかで、ぼくの選んだ道筋には矢印が書き込まれていて、現在地が赤くマーキングされている、そんなイメージ。
「人生のスイッチ」と言うと少々大げさだが、生きていくということは、毎日のとてもちいさな選択の積み重ねだとは思っている。( p.55)
特にビッと反応させられたのは「そのとき選択しなかった道筋――それぞれ枝分かれしている――も、ぼくの地図には載っているような気がする」といったあたり、です。そして、私は、ちょっと前に読んだ角田光代さんの『平凡』を思い出し(すぐにこの作品につながるような記憶力は残念ながらありませんでした。でも、そう昔ではないと思い、自分の描いたものを一つ一つ遡っていってこれを見つけたのでした)、そこから、大江健三郎『個人的な体験』や角田さんの「ジミ、ひまわり、夏のギャング」(『だれかのいとしいひと』所収)を思い浮かべたりしていました。
さて、私は、角田さんの『平凡』の記事にこんな思いを寄せていました。
・・・私のイメージは、「『もしかしたら』の夢想」というよりは、自分がそのとき選ばなかった人生もまた自分で引き受けながら生きている、つまり、分岐点の数だけいっぱいの人生を背負ってしか生き続けることができない人のかなしくもうつくしい営み、のように思えてくるのでした。
いわば、人の生きる基本形。
私はよく自分自身の中学生の頃を思い出しては、中学生時代って人の人生の縮図のようなところがあるといった思いに誘われることがあります。また一方で、自分自身の小学校時代や高校時代、大学時代などは、思い出すことすら自らに許さないようなところがあって、いつなんどきどんな復讐がわが身を襲ってくるかと戦々恐々としているようなところがあります。その中で、いろいろな分岐点を具体的に思い出したり、意識的に忘れようとしたりしています。私の人生の地図は、一部異様に膨れ上がっていたり、一部墨で塗りつぶされていたり、ずいぶんな畸形として存在しているような気がします。
ただ、いつまでも逃げ続けられないのが、人生というものだとも、最近思います。
「……思い出ってやつは入れ子式になってるんだな」(p.185)というのは「おれ」によるつぶやきなんですが、この小説はまさに「入れ子式」に展開していきます。こういう展開を、意匠の空回りと感じた読者の方もいるかもしれませんが、私には、とてもリアルに響いてきました。子どもが、中学生になって、高校生になって、大学生になって、社会人になってと、プロセスをなまなましく経ていく中で、私も、自身の中学時代や高校時代や大学時代や社会人スタート期が何か表舞台に引き摺り出されるような感覚があるんです。そして、一つのことを思い出していると、まさに「入れ子式」に、それまで何十年もの間意識にのぼらせることの全くなかった、より重要な記憶が私を不意撃ちしてきて、はっとさせられるのです。
私の人生のかたちは、今私がイメージしているものと全然違ったものに仕上げられていく可能性だってなくはないと思っています。そう、「そういう人生でありたい」という願望を軸に仮構しつづけてきた私の人生の張りぼてが何か鋭い刺激が横からやってきて露呈させられるかも・・・と、ほんの少しだけ恐怖します。でも、朝倉さんらしい珠玉の一冊でした。
2 2月

榎本博明『「やりたい仕事」病』

「やりたい仕事」病 (日経プレミアシリーズ)
榎本 博明
日本経済新聞出版社
2012-11-17


机上の計算とは違う私たちの人生、について。
内容(「BOOK」データベースより)
やりたいことが見つからないから、と就職を先送りする大学生、目の前の仕事はほどほどなのにキャリアプラン作成とスキルアップには余念がない若手社員…。数々の教育現場を知る著者が、巷に溢れる「やりたいこと」難民とその背景にあるキャリアデザイン教育の過熱に警鐘を鳴らし、10年後が見えない時代を生き抜くための新たな働き方の軸を提案する。
この本、手に入れてからずいぶん机脇に積んでおいたものでしたが、読書熱が少しだけ昂じてきたタイミングをうまく生かして手にしてみました。
なかなか勉強になりましたね。
内容じたいは、10ページもあればおっしゃりたいことが確実に伝わるようなものでした、それを二百数十ページ分に引き伸ばされるものですから、読んでいるこちらは、頭がぐるんぐるんしてくるような感じでした。すみません。
ごく大雑把にその要点を言うと、キャリアデザイン全盛の世の中だけど、「やりたいこと」を基準にして考えても、実際のところいいキャリアは積みあがっていくものではない、ということ。そして、じゃあ、どうすればいいのかということが具体的に提起されていくのでした。
私は、自分の仕事での経験上、このことに深い同感を覚えます。
たとえば、著者はこうおっしゃいます。
・・・文部科学省主導によるキャリア教育推進の動きが大学から高校や中学の教育にまで影響し、まだ自分も社会もよくわかっていない子どもたちにキャリアデザインをさせることさえ珍しくなくなった。
 アメリカの心理学者クランボルツが行った調査によれば、18歳のときに考えていた職業に就いている人は、わずか2%にすぎなかった。ましてや、12〜15歳の中学校時代思い描いていた職業に実際に就く人などきわめて稀なはずだ。(p.142)
高校に総合的な学習の時間がやってくることになったとき、私は、その効果的導入に熱中していました。進路指導に関わっていた当時の私は、生徒の主体性をうまく育成しないことには、進路指導なんてどうにもならない、という危機感をもっていました。ですから、進路学習などと呼ばれて、生徒の主体的な進路意識を醸成していくプログラムが、総合的な学習の時間スタートをきっかけに、全国の高校で開発されていっていたその頃、私も、ようっし、このチャンスをものにしよう!という気持ちだったのです。
そして、私が当時勤務していた高校ではじめた進路学習は、ある意味当時の定番的なプログラムだったと思うのですが、1年で職業研究をして自分が将来就きたい職業を考え、それをうけて、2年ではその職業につながる進路として大学研究をおこなう、そして、3年では、主体的に選択した志望する大学合格に向けて最大限の努力をする、だいたいそんなものでした。
ところが、私は、そのプログラムが動き始めて結構早い段階で、あれれ、なんだ、思い描いたのと何か違う、いやいや、これじゃダメだ・・・と思うようになりました。というのも、先ほどの引用部分がまさに指摘してくれていることなんですが、世の中のこともよく知らない高校1年生段階で就きたい職業を考えさせて何かを選ばせるということは、実は相当非現実的なことだ、と。だって、何かを選ぶとなったら、自分が知っているものからしか選びようはないわけで、実際、その当時の生徒たちが選んでいるものはというと、看護師とか教員とか公務員とか、極めて視野の狭い中での汲々とした選択になっていたのでした。
高校の僅か3年間の中で主体的に進路選択を目指させようとすれば、確かに先ほど描いたようなプログラムが効率的だとは言えます。だって、大学合格を勝ち取るには早い段階から準備をした者が勝つに決まっているし、早い段階から準備に着手するためには、できるだけ早い段階に目標を決めなければならないわけですから。しかしながら、高校生の社会性の度合を現実的に考えれば、それはまさに絵に描いた餅でした。まず念頭に置かせるべきは、選択させることではなく、むしろ、拡散させること、拡張させること、言い換えれば積極的混乱を招くこと。知らないことを知る、わからなかったことがわかる、自分が属している世界の輪郭をできるだけ拡張させ、選択肢の幅を広げさせ、多様な選択肢の中でいいかたちで悩むプロセスをつくりだすプログラムこそが望まれている、そう感じるようになったのでした。
その後、進路指導に注力できる機会を失い、私は、少し離れたところからキャリア教育というものをながめてきたのですが、効率を考えた机上の計算から突きつけられる要求は、私が考えた以上に負の副産物をもたらすものだったことを、この本から学ばせていただきました。大事な視点をたくさんいただきましたので、備忘録的にいくつかピックアップしておきます。
まず、あるべき「適性」観。
 適性というものは、仕事に真剣に取り組む経験の中でつくられていく。このことは、自分のやっている仕事にがむしゃらに取り組むことで、その仕事に必要な能力が徐々に開発されていくことを意味する。
 そこからさらに言えるのは、追い込まれれば追い込まれるほど、私たちの能力は開発され、取り組んでいる仕事に対する適性が増していくということだ。(p.89)
「適性というものをうっかり固定的にとらえると、成長が止まってしまう」(p.90)ということ。これは、将来を展望する高校生や大学生のみならず、私たち大人にとってみても大切な視点でしょうね。私だって自分で無意識裡につくる「自分とはこういう人間だ」みたいな呪縛にいろいろな可能性を自分で摘んでしまっているようなことがよくありますね。適性とは、動的で、伸縮自在なものである。この価値観は生きていくうえで生を豊かにする絶対的な力になると思います。
次に、「やりたいこと」より「できること」重視。
・・・「できること」が変われば、「やりたいこと」も変わってくる。ゆえに、「やりたいこと」にとらわれる必要はない。
 それよりも、目の前の仕事に没頭することで、「できること」を増やしていこう。「できること」を増やしていくのが成長である。
 考えるよりも、まずは動くことで、「できること」が増えていく。「できること」が増えれば、自然に「やりたいこと」も変わっていく。そんな移ろいやすい「やりたいこと」などに振り回されるなんてバカらしい。(p.95)
『「やりたい仕事」病』の解題的な一節とも読めます。「やりたい仕事」に囚われていくことが一種の病根となることの解説として、非常に腑に落ちます。そういえば、私、この仕事に就いたばかりのところ、生徒会誌に「交通ジコのすすめ」などという雑文を寄稿したことを思い出しました。簡単に言うと、自分自身なんて、一所懸命に生きた軌跡から結果論的に浮かび上がってくるものでしかない、何かにぶつかってふーっと現れてくるもんだ。とにかく目の前の現実を必死になって生きよう!というメッセージを書いたのでした。この本に親和性があるわけです。
最後に、マーリンズへの移籍が決まった、我らがイチローの言葉。
「『楽しんでやれ』と言われるけれど、僕はその言葉の意味がよくわからない。『楽しむ』というのは、決して笑顔で野球をやることではなくて、充実感を持ってやるもんなんだと僕なりに解釈してやってきましたけど、そりにたどり着くまでには『楽しんでやる』というような表現は、とてもできなかったですね。」(p.117)
ここ二十年来日本に不気味に蔓延している「楽しむ」シンドローム。その病的増殖に対して、私は、ずっと違和感を覚えてきたのですが、イチローにこういう言葉をもらうと、視界が非常にすっきりしますね。実際、プレッシャー回避術の一種というか、メンタルコンディショニング法の一つなのかもしれません。でも、安易に「楽しむ」ことを表面化させる風潮は、物事の本質を覆い隠すことにもつながりかねません。私の個人的な記憶なんですが、私、高校生のとき私大文系志望者だったのですが、受験科目である国語、英語、日本史、どれも好きで勉強するのが楽しかった・・・みたいに過去を振り返ることがあるのですが、ちょっと待てよ、そんなに単純な話じゃなかったはずだと、記憶の詐術を意識します。というのも、最初から楽しかったはずはないのです、やり続けていくうちにいつしかその科目の面白さのようなものがほのみえるようになり、だんだんその勉強が単に苦痛ではなくなっていった・・・というあたりが本当のところでしょうか。いずれにせよ、まずはやってみる、この本に通底する大事なメッセージです。
休みの日の徒然にだらだら書いてしまいました。あしからず。
この本に帰ろう。
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