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時折書房

時折書房が目指すは定常開放系。コメント&TB大歓迎。

19 12月

池井戸潤『陸王』(三読目(^o^))

陸王
池井戸 潤
集英社
2016-07-08


日曜劇場「陸王」最終話を心から楽しむために、また読んじゃっている(@_@)
内容(「BOOK」データベースより)
勝利を、信じろ。足袋作り百年の老舗が、ランニングシューズに挑む。このシューズは、私たちの魂そのものだ!埼玉県行田市にある老舗足袋業者「こはぜ屋」。日々、資金操りに頭を抱える四代目社長の宮沢紘一は、会社存続のためにある新規事業を思い立つ。これまで培った足袋製造の技術を生かして、「裸足感覚」を追求したランニングシューズの開発はできないだろうか?世界的スポーツブランドとの熾烈な競争、資金難、素材探し、開発力不足―。従業員20名の地方零細企業が、伝統と情熱、そして仲間との強い結びつきで一世一代の大勝負に打って出る!
日曜劇場「陸王」を心から楽しんでいます。
私も、ランナーの端くれなのでいろいろとムリな設定があることも気になりますし、原作ではしっかりと作り込まれていた部分がドラマで雑に扱われているの気になりはしますが、「半沢直樹」をきっかけに池井戸潤をコンプリートし、「ルーズヴェルトゲーム」「下町ロケット」と、池井戸ワールド×日曜劇場を堪能してきた者としては、今回も、もう心から楽しんでいる次第です(一話につき4回観てるんです、本当に)。
そして、いよいよ今度の日曜日に最終話ということで、私は、原作としての『陸王』を先週土曜日から読み始めていて、今日、残すところ45ページ、543ページまで読み進めてきました。
本は、ここで、止めておきます。
ドラマと本とでもう立体感あふれる”陸王”の世界がそびえたっている私の頭の中に、最終章は、ドラマ『陸王』を一気に流し込みたいと思っています。
かつて、角川映画華やかなりしころ、「読んでから観るか、観てから読むか」というキャッチコピーがありましたが、私の読×観術は、そんな退屈な順序性を超越した、野蛮なほどに交響楽的な快楽の追求法、です。
こんな言葉だけ、拾っておきます。
「だけどな、これだけはいっておくぞ、宮沢さん。諦めたら。そこで終わる。なんだってそうだ。自分で終わりを決めるな。そんなものは単なる逃げだ」(p.479)
顧問・飯山さんの言葉です。
自分で決める終わりは、諦めであり逃げ。
あがく。
あがいていれば景色は変わる、景色が変わればやりようも出てくる。
ファイト。
12 12月

片田珠美『忖度社会ニッポン』



忖度するは我にあり(+o+)
内容(「BOOK」データベースより)
「森友・加計」学園問題で話題になった忖度は、相手の意向を推し量り、先回りして満たそうとすることである。忖度する人の胸中には、自己保身欲求や喪失不安、承認欲求や何らかの見返りへの期待などが潜んでいる。忖度がはびこる日本社会の根底に横たわる構造的問題をあぶり出す。
この方、近年ものすごい勢いで本を出されている方ですね。読む前にちょっとだけ調べてみたら、「トンデモ本」「トンデモ精神科医」と扱われているような感じもあって、なんだかなー、変な先入観込みで読み始めることとなりました。
ただ、今年の流行語大賞にも選ばれたこの「忖度」、あまりまともにその事実や現象について考えてみるようなこともなかった私にとっては、特別おおおっということが書かれていたわけではありませんでしたが、「忖度」をめぐる基本的な理解というものを整理する意味では、この本、まあそれなりの収穫はあったかな、と思います。
備忘録的に記しておきたいこと。
まずき、「忖度」に走る背景には諸相がある、というご指摘。
こんなふうに四つの層を挙げておいででした。
 ・自己防衛 ・恐怖 ・罪悪感 ・承認欲求
確かに。
この中で、私が興味深く読んだ箇所の一つに、いじめのいわゆる四層構造において自己防衛的「忖度」が蔓延している、ということがあります。
いじめの四層構造とは、いじめというものは、単に「加害者」「被害者」と両者で考えるべきではなくて、「観衆」と「傍観者」を含めて一つの構造が完結する、という考え方です。
さて、ここでは「傍観者」がポイントになるわけですが、識者の中には「傍観者」こそがいじめ問題を解消するために最も大事なポイントである、と指摘しているのをよく目にもします。彼ら彼女らが、なぜ許しがたいと心の中では思っている現実に対して目を背けていられるのかと言えば、まさに自己防衛的「忖度」によって、いじめの許容が自然と広がり、結果としてむごたらしい現実が浮上してしまっている、ということ。
う〜ん。
「忖度」なんていうと、いかにもおじさんの世界、それもエリートと呼ばれるような人たちの中でのやりとりと連想されがちですが、いえいえ、そんなことない、日本中に、老若男女にすくっているものなんでしょう。
その現実をさらにしんと受けとめさせられたのは、日本人特有の気質との関連性の中で「忖度」を論じている部分でした。
たとえば、同調圧力の強い日本、「空気」がすべてを支配する日本、ことが大切な日本、「察する」「言わなくてもわかる」「以心伝心」こそよしとする日本、まさに日本人の伝統的美意識と深く結びついた心性において「忖度」という振る舞いも見なければならない、ということです。
ちょっと面白い視点でした。流行語大賞みたいなところで面白おかしく取り上げられるべき言葉じゃないのかもしれない、とか一瞬思ったりしました。
4 12月

池井戸潤『花咲舞が黙っていない』

花咲舞が黙ってない (中公文庫)
池井戸 潤
中央公論新社
2017-09-05


花咲舞 VS 半沢直樹 (@_@;)
内容(「BOOK」データベースより)
その日、東京第一銀行に激震が走った。頭取から発表されたライバル行との合併。生き残りを懸けた交渉が進む中、臨店指導グループの跳ねっ返り・花咲舞は、ひょんなことから「組織の秘密」というパンドラの箱を開けてしまう。隠蔽工作、行内政治、妖怪重役…このままでは我が行はダメになる!花咲舞の正義が銀行の闇に斬り込む痛快連作短篇。
しばらく書店にも図書館にも足が向かなくなっていた私でしたが、ちょっと改心して(^O^) 先日久しぶりに書店に赴いてみたのですが、、、読みたい本も結構溜まっているのかなあと思っていたのですが、いえいえ、まるで食指が動きません。
ふ〜ん、そういうものなんだな。
ある対象に対して興味を閉ざしはじめると、どんどんその対象は狭まっていくばかり。
そして、この私の読書への興味の場合は、そんな循環に陥ってどんどんくるくるパー化していくんでしょうね。
さて、その際、唯一購入したのがこの本でした。
現在は、日曜ドラマ「陸王」にドはまり中(日曜日21時から酔っぱらった頭で観て、翌日にはその内容も記憶されていないものですから帰宅後また観て、水曜日あたりにまた観て、土曜日には翌日のウォームアップとして観ます。同じものを4回観てます(「半沢直樹」以来、ですね))の池井戸潤ファンとしては、あらら、こんなものがあったのか(「読売新聞」連載が文庫として9月に出たものでした)、と、即購入&即読了、でした。
読み進めていて、な、な、なんと、産業中央銀行時代の半沢直樹が出てくるじゃないですか。
話の流れとしては、いかにもおなじみの「花咲舞が黙っていない」という感じのお話です。花咲舞が闊歩するドラマです、知っていてこれを読もうとする読者はほぼ間違いなくあの爽快感を求めているわけでしょうから、まずまず納得の読書になります。
ところが、半沢直樹は、一度出てきたらぷつんと姿を見せなくなります。
ふ〜ん、ちょっとしたお遊びスピンオフか。
そして、どんどん読み進めていくと、おろおろおろおろ(@_@;) それまでの一話完結式のチャンチャン的なドラマがだんだんディープなものに変わってきます。
「花咲舞が黙っていない」対象もどんどん大きなものになっていき、勝算など望むべくもないものになってきた・・・と思いきや、おおおおおっ、半沢直樹再登場、おおおおっ、そう来たかいっ。
結論。
なかなか頑張ったドラマでした。

追記 「半沢直樹」の中野渡頭取がちらっと出てくるのですが、そのときの中野渡「部長」は、産業中央銀行の部長でした。あれれ(@_@;) そんなはずは、、、と調べてみると、原作からテレビドラマへと設定替えがなされていたんだそうですね。私は雑な読者で、カバーしていませんでした。
1 12月

NHKスペシャル取材班『縮小ニッポンの衝撃』

縮小ニッポンの衝撃 (講談社現代新書)
NHKスペシャル取材班
講談社
2017-07-19


浮かれている場合か、ニッポン。
内容紹介
私たちが生きる日本。これから先、どんな未来が待っているのだろうか。
読み終えて、心が寒々としてきました。
これまで、ここに描かれているような、日本にやがて訪れる人口減少=国全体の過疎化ということについて、確かにそうなるんだろうなとは思いながら、その現実がどれほどのものもになるのかということについて、考えたことがありませんでした。考えるのを遠ざけていた、というところかもしれません。
ただ、この一冊から伝わってきたのは「現実から目を背けるな」というなまなましいメッセージ。
東京都豊島区、北海道夕張市、島根県雲南市、神奈川県横須賀市等、ここで取り上げられた地域は様々であり、人口減少の背景も様々でした。しかしながら、様々でありながらも、日本のどの地域とてどこも例外になどなりえる見通しはなく、タイプやタイミングに違いこそあれ、人口減少は避けられず、そのことからもたらされる災厄も程度の差こそあれ、どこも同じものでしょう。
その対応策として取り上げられた、住民組織による自治という方法、つまり、人口減少による公共サービスの低下を住民組織による自治で補っていく取り組みには、正直寒々しいものを感じざるをえませんでした。それも、70代や80代の人たちに、そういう取組みが求められ、現に実践されている、というのです。
結び近くにこんな言葉がありました。
 東京オリンピックの5年後にあたる2025年は、団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になる年である。この年以降、日本は5人に1人が75歳以上という超高齢社会に突入する。ニッポンを支えてきた団塊の世代が医療や介護を受ける側にまわるようになれば、消費は著しく減退するとともに、社会福祉費が増大し、国家財政が破綻の危機に瀕する。東京オリンピックは、縮小ニッポンがもたらす歪みが噴出し始める分水嶺となる。祝祭の先で私たちを待ち受けているのは、奈落の底へとつながる絶壁なのかもしれない。(pp.195-196)
今の日本は確かに東京オリンピック2020に向けて浮かれつつあります。
1964年の東京オリンピックの頃、日本は、まさに浮かれていたんでしょう。ただ、それは、正当に浮かれていたんだと思います。
それに対して、2020年の東京オリンピックの頃の日本とは、まさに1964年から描いた軌跡とはまったく異なるものになるんだということを、どれだけの危機感をもってどれだけの日本人が感じているんでしょう。また寒くなってきます。
私などが老いていく時間は、まさに日本がどんどん闇に覆われていく流れと完全にシンクロしていくものです。
縮小社会における涙ぐましい自治?
本当にそんなものは可能なんでしょうか。
28 11月

小林雅一『AIが人間を殺す日〜車、医療、兵器に組み込まれる人工知能』



AIの真の脅威!?
内容(「BOOK」データベースより)
飛躍的な進化を遂げる人工知能(AI)。明るい未来が語られる一方で、「二〇四五年問題」などのAI脅威論も少なくない。しかし著者はむしろ、目前に迫る危機として、車、医療、兵器の三つを挙げる。共通するのは、私達の命に直結する分野であること。ここに今、最先端のAIが導入されようとしているが、中身の見えないブラックボックスであるうえに、ときに暴走の危険性をはらむ。AIの真の脅威が明らかに!
こんな本を読んでました。
2週間前くらいに読み終えていたんだっけ、かな。
AIに興味をもっていた一つのポイントとしては・・・今改訂に向かう学習指導要領の、方向性を確定させる中教審の答申(「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について」(答申)平成28年12月21日 中央央教育審議会)に、まさにAIの時代の中での教育への意味づけが書かれていたのを読んでから、その肝心なAIというものの実相に触知してみたいという思いがあった、のです。
答申の「第2章 2030年の社会と子供たちの未来」には、こうあります。
 人工知能がいかに進化しようとも、それが行っているのは与えられた目的の中での処理である。一方で人間は、感性を豊かに働かせながら、どのような未来を創っていくのか、どのように社会や人生をよりよいものにしていくのかという目的を自ら考え出すことができる。多様な文脈が複雑に入り交じった環境の中でも、場面や状況を理解して自ら目的を設定し、その目的に応じて必要な情報を見いだし、情報を基に深く理解して自分の考えをまとめたり、相手にふさわしい表現を工夫したり、答えのない課題に対して、多様な他者と協働しながら目的に応じた納得解を見いだしたりすることができるという強みを持っている。
 このために必要な力を成長の中で育んでいるのが、人間の学習である。解き方があらかじめ定まった問題を効率的に解いたり、定められた手続を効率的にこなしたりすることにとどまらず、直面する様々な変化を柔軟に受け止め、感性を豊かに働かせながら、どのような未来を創っていくのか、どのように社会や人生をよりよいものにしていくのかを考え、主体的に学び続けて自ら能力を引き出し、自分なりに試行錯誤したり、多様な他者と協働したりして、新たな価値を生み出していくために必要な力を身に付け、子供たち一人一人が、予測できない変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となっていけるようにすることが重要である。
実際、こんな認識をベースにして新しい学習指導要領は編まれています。
そのポイントとしてよく取り上げられる「社会に開かれた教育課程」も「主体的・対話的で深い学び」も「カリキュラム・マネジメント」も、すべてこんな認識から教育というものを構想しなおしてみた結果として、必然的に示されたもの、と考えなければならないんでしょう。
しかしながら。
今回、この本を読んで、AIがますます幅を利かせるようになる新しい時代というものが、そう簡単に私たちをわかりやすい単色の世界−例えば、「幸福な世界」とか「不幸な世界」とか「効率的な世界」とか「恐怖の世界」とか−に届けてくれるものではない、という感触を得たような気がします。
この本では、自動車と医療と兵器という三つの側面からAIの現実をえぐっていました。
例えば、自動運転車ですが、「2020年に実用化」などという文句を耳にするにつけ、そんなことがもうすぐ起きてしまうなんて…とにわかには信じがたいような感覚がずっとあったのですが、実際にはそこまでの実現は難しいようです。
そのポイントとしては、統計・確率的AIでは異常事態への対応が難しく、ある程度の事故発生は不可避だということ。つまり、AIが人を殺す、ことは不可避であるということ。
ただし、自動車にしろ、医療、兵器にしろ、その精度がかなり上がっており実用(どの段階で「実用」に踏み切るのか、わかりませんが…)まであと一歩、というのは間違いないことなんでしょう。
さて。
中教審の答申は、「人間は、感性を豊かに働かせながら、どのような未来を創っていくのか、どのように社会や人生をよりよいものにしていくのかという目的を自ら考え出すことができる」と語っておいででした。ですが、私がむしろ感じたのは、AI時代において、人は、どれだけ「感性を豊かに働かせ」たり、生きる「目的を自ら考え出」したりできるものなのか、ということでした。
ビッグデータの解析により示される智慧がいとも簡単にはじき出されるようになる世の中において、そこに、感性や意志、思考等をもって対峙できるという自信などどのようにしてもてるというのか、私にはイメージを描けませんでした。
この本では、最後に、AIの真の脅威についてこう書きます。
 
AIのようなツールは病気の原因を探そうとはしないし、患者を治そうともしない。全ての手を尽くし、何としても患者を救おうとする「心」を持った医師が、ツールを使って患者を治すのだ。
 逆に、いつの日か私達がそうした本来の心を失い、AIによるスーパー・オートメーションに全ての判断を委ねるとき、人は人であることを止め、人の姿をしたロボットになる。
 AIがもたらす真の脅威とは、それが人間を殺すことではなく、むしろ人間性を殺すことなのかもしれない。私達はこれを警戒する必要があるのだ。(p.234)
ここでいう「心=人間性」というものは、さきほど私が使った「感性や意志、思考」と同じものだとして、中教審答申が描く教育へのオプティミズムは底が抜けているようにも思います。
よく「近い将来になくなる仕事」といったものの予測がなされていますが、教員という仕事もそういう意味では相当微妙な仕事のように感じます。教員的な仕事はなくならないとしても、その役割というか機能は、今のものとは全く違うものになっていることは間違いないでしょう。今回の学習指導要領改訂は、その大転換の序章のようなものなんだと思います。
がんばれ、教育。
いや、教育ははたしてがんばれるものなのか?!
20 11月

重松清『トワイライト』

トワイライト (文春文庫)
重松 清
文藝春秋
2005-12-01


人生の踊り場はいくつかある。
内容(「BOOK」データベースより)
小学校の卒業記念に埋めたタイムカプセルを開封するために、26年ぶりに母校で再会した同級生たち。夢と希望に満ちていたあのころ、未来が未来として輝いていたあの時代―しかし、大人になった彼らにとって、夢はしょせん夢に終わり、厳しい現実が立ちはだかる。人生の黄昏に生きる彼らの幸せへの問いかけとは。
いつ以来の更新?
最近、故障で走りもできないくせに、走ること以外に何も興味を示せないでいることに、ある種危機感を覚え、週に一回はこちらも更新しようと思い立ったのでした。
重松清の『トワイライト』。
これを読もうと思ったのは、微妙ないきさつでした。土曜日から日曜日にかけて妻とともに東京で学生をやっている次女のところに行くことになり、行きは節約のために高速バスを使うことになったのでした。約5時間半。これは、本を読まなきゃ!と。
ところが、本を買いにいく余裕はなし。
当日、出発5分前に家にある本の中から読む本を選ぼうとして、、、、なかなか決まらない。そんなときに、目に飛び込んできたのがこの本・・・重松のトワイライト?全然記憶にないな・・・400超ページというのも行き帰りで読むのにちょうどいいくらいかな、とこれにした次第でした。
読んでみて・・・まったく記憶にありませんでした。
このブログの過去記事を探してみたら、ありませんでした。
平成19年、激しく本を読むようになり、やがてブログをはじめるのですが、その1〜2か月の隙間に読んだ本がブログに拾われていない、その時期に貪り読んでいたのが重松清だったのです。
で。
トワイライト、か。
字義としては「日の出前や日没後の薄明かりのこと」とありますが、私だけでしょうか、「日の出前」よりは「日没後」のイメージの方が強いような気がします。
薄ぼんやりとした時間、暗がり、黄昏。
この小説では、40歳を迎えようとする男女数名の人生の黄昏のドラマが描かれていました。
人生の黄昏を感じ始めるのは、個人差があるものだと思います。ただ、ここに描かれていた40歳前後って、人生に黄昏を感じ始めるひとつの時期といえるのかもなあと思いました。
三十代って、どこか怖いもの知らずであるのに対して、四十代、それまでを振り返りつつ、その先を薄ぼんやりとしたものとして展望する、その結果、生き直しの最後のチャンスのように感じられ、人生の踊り場にいる自分をはっと自覚する、そんな感触を、私自身四十代によく感じていたような気がします。
今の自分からすると、ある意味、青春小説のようにも感じられる苦さが、ああ、そんな感じもあったなあとしみじみと懐かしくページをめくることができました。
ただ、まだまだ私も現役だという感じもあります(何の現役!?)。

さて、文庫の解説に中森明夫さん(懐かしい(^O^))が、重松清をして「同時代作家」と呼んでいたのがとても印象的でした、ふむふむ。重松清と同じ年の私も、それに近い感覚でずっと彼の書いたものを読んできたことを思い出したような気がします。
そんな感覚からすると・・・最近、重松の、これだっ!という作品となかなかめぐりあえていない感じがずっとあります。
どうしたんですか。
五十半ばの男女が主役の同時代作品、読みたいなあ。そんな作品に照らして、自分の現在地をあぶりだしてみたいなあ。
16 8月

岩本能史『型破り マラソン攻略法 必ず自己ベストを更新できる』



必ず自己ベストを更新できるんですね!
内容(「BOOK」データベースより)
その古い常識が自己ベスト更新を阻む。市民ランナーを「サブ4」「サブ3.5」へと導く型破りな最新マラソン攻略法。厚底シューズは絶対ダメ、ストレッチは不要。「ビルドアップ走」と「峠走」と「ラン反射」でトレーニングすれば、マラソンは劇的に速くなる。現役ウルトラランナーのカリスマコーチによる新理論。
お久しぶりです。
本は常に読み続けているんです。
更新しない間に読んだ本・・・『1Q84』はBOOK3の後篇まできれいに読み終えました。感想・・・忘れました。池井戸潤の文庫新刊なんてものもありましたね。重松清が懐かしくなって『ビタミンF』と他に2冊ほど読んだりもしました。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は(上)を読んで中断していたなあ、そういえば。あとは・・・・
今回は、ランニングブログにアップしたものをそのままこっちに移植してみました、何の意味もありませんが。

さて、これ、面白い、というか、とても刺激的でした。いい本に出会ったかも。
自分がやっていることがいかに惰性的で、意外と無意識裡に型にはまったものであったかを思い知りました。ただ、もともと自分にプライドのようなものがないので、その「思い知る」体験はひどく気持ちのいいものでした。
岩本コーチ、マラソンメソッドとして、七つのことを提唱されます(pp.10-11)。

・マラソンは食べるスポーツである
・膝が痛い人は薄底のランニングシューズを試してみる
・30キロ走のトレーニングを過信してはいけない
・カーボローディングを無理に行わない
・速くなるのにLSDトレーニングは逆効果
・ランナーにストレッチは不要である
・「峠走」と「15キロのビルドアップ走」で速くなれる

この七つのうち共感できたもの、ちょっと気になっていたものもありました。共感できたのは「LSD逆効果」と「ストレッチ不要」です。疲れとり&脚づくりの緩ジョグというものを入れていますが、いろいろな考えをたどりながら、現在のところ5:30/kmをイメージするようになっていました。6:00/kmより遅いペースでは走らないようにしています。また、ストレッチについては、中野ジェームズ修一氏の教えにより、ラン前については静的ストレッチを全くしないようになっていましたが、ラン後はむしろたっぷり行っています、ビミョウ。
また、「薄底のランニングシューズ」に関しては、最近adizero takumi sen bst2を試している中で、自分の接地の感触をまざまざと知ることができて、課題をクリアーにする体験をしたばかりでした。しばらく膝痛には無縁なのですが、ランニングシューズについての研究に一つの示唆をいただいた感じがしていました。
さてさて、そんな中、残りの四つのメソッドは非常に刺激的でした。
特に、最も核心的なのは「30キロ走のトレーニングを過信してはいけない」「『峠走』と『15キロのビルドアップ走』で速くなれる」というものでした。
 15キロビルドアップ走と峠走は、フルマラソンの自己ベスト更新に最適の「究極のポイント練習」だと僕は思っています。これまでビルドアップ走も峠走もやったことがない市民ランナーには、それだけ開発されていない伸びしろがあるということ。この2つのポイント練習を取り入れるだけで、自動車のエンジンにターボチャージャーが付いたように、ペースが一気に上がって自己ベスト更新が達成できる可能性があると思います。(pp.152-153)
私、現在、ポイント練習らしきもの(言い切れるほど確信的でもないのです^^;)としては、「20-35kmペース走」と「インタバル走」を行っています(予定も含めて)。実際、岩本コーチは、「ペース走、LSD、30キロ走」を「オーソドックスな練習法」とネガティブに列挙なさり、さらに「インタバル走」については、実は正しく行うのがとても難しいトレーニングであると指摘されていました。
正直、私の心はがっくんがっくん揺さぶられました。
インタバル走については、確かに、自分の中で難しさを感じていました。先日などは、自分の中では、タイム的には一番それらしく走れたインタバル走のとき、心拍数が意外なほどに低く、これは何なんだろうと不審に思ったことがありました。
これを読んで、私は、すぐさま自分のトレーニングプランの組み直しに走りました。
峠走は、ちょっとすぐにはできそうにないのです(来シーズンの飛躍にとっておきます、家の近くにいい山がありますもの)が、15キロビルドアップ走なら、すぐにでもやれそうです。ランナー中級入口付近にいて、まだまだ基本的な脚づくりをしっかりやる必要があると自覚している私としては、実際に距離を踏む「20-35kmペース走」は今後も大事なメニューとしていきたいと思っているものですから、今週末は30km走ります。最上川S-mileマラソンが終わったら、すぐにでもやってみます。
なお、レース前日のアルコール厳禁というくだりもありました。いろいろな本で目にした言葉です。今回は、沁みました。
私、あるダイエットアプリを使っていて、ここ3〜4年分くらいの全食事について写真付きで記録されてあるのですが、撃沈したいわて奥州きらめきマラソン前夜、ビール350cc1缶と日本酒1合と麦焼酎1合をしっかりいただいていた、ようです。その前日などは、ビール350cc3缶と日本酒1合と麦焼酎1合、でした(+o+) レース(フルのみ)前夜禁酒、宣言します。
再三読したい本ですね。また、この本の他の箇所を取り上げたいと思います。
12 6月

村上春樹『1Q84 BOOK1後篇』



切なさが少しじんじんしてくる…。
内容(「BOOK」データベースより)
ふかえりはきっと特別な存在なんだ、と天吾はあらためて思った。ほかの少女たちと比べることなんてできない。彼女は間違いなくおれにとって、何らかの意味を持っている。それなのにどうしてもそのメッセージを読み解くことができない。…『空気さなぎ』、宗教集団さきがけ、リトル・ピープル、そして夜空に浮かぶ月。謎に満ちた「1Q84年の世界」を生きる天吾と青豆の運命は―。
BOOK1を読み終えました。
ただおもしろいですね。
この「ただ」という、一見意味不明なワーディングがみそです。
メタファー解読や謎解きを楽しませるのも村上春樹ワールドですが、それと相反するようですが、意味も思想も関係なく、その物語世界に浸っていること自体が楽しい、というのも村上春樹作品ワールドでしょう。私は、どちらかというと、面倒くさがりなところがあるので(ある面においては面倒こそを趣味にしてしまうようなところもあるのですが、それはごく限られた部分です)、後者派です。
ただ(笑)、意味解読を全く抜きにして楽しめないようなところもあり、備忘のために、こんな一節だけ抜き出しておきます。
「やった方は適当な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえる。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れられない。目も背けられない。記憶は親から子へと受け継がれる。世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ」(p.324)
婦警のあゆみによる言葉です。
ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘い?
そういえば、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』には、パラレルワールドという形で二つの世界が表れていたっけなあ。次はこれだな。
5 6月

村上春樹『1Q84 BOOK1前篇』



作品の1/6を読み進めている段階。
内容(「BOOK」データベースより)
1Q84年―私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう。青豆はそう決めた。Qはquestion markのQだ。疑問を背負ったもの。彼女は歩きながら一人で肯いた。好もうが好むまいが、私は今この「1Q84年」に身を置いている。私の知っていた1984年はもうどこにも存在しない。…ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』に導かれて、主人公・青豆と天吾の不思議な物語がはじまる。
というわけで、『1Q84』を読んでいます。
私の最近の読書は、通勤の朝晩のみに限定されていて、土日はランに心身没頭するためお休みになるのが常だったのですが、現在左ふくらはぎの肉離れが快癒しておらず、ぷすぷす、時間が余る、楽天戦も見れば、読書も引き続きする、という感じで、昨日、一気にBOOK1前編を読み終え、今朝から快調に後篇に突入しています。
8年も経てば、記憶もすっかりゆるゆるになっていて、実に楽しいですね。ああ、そうだったそうだったと、ええ、そうだけっけが織り交ぜられた、実に味わい深い再読になっています。
『騎士団長殺し』から『ねじまき鳥クロニクル』とリバースさせていったときは、もう、あの折り重なるところの多い世界観の奇妙なリアリティが、読まずにいる私の時間にも侵食してきて、何だかいつも精神的井戸に縛り付けられているような感じだったのですが、この作品の場合は、その感じとは明らかに違う滑走感のようなものを覚えつつも、でも、何かふと気が付くと前二作を思い返しているようなところもあり、ああ、どんな楽しい読者体験に育っていくことやらと、わくわくしてきます。
まだ具体的な感想を差し挟む段階ではありませんが、今回もこのために文庫を6冊購入して読んでいますので、1冊読み終えるごとにここに近況報告(笑)をすることにします。
さあ、今日は飲み会だっ。
31 5月

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 』



諸悪の根源に立ち向かうという所作。
内容紹介
僕の考えていることが本当に正しいかどうか、わからない。でもこの場所にいる僕はそれに勝たなくてはならない。これは僕にとっての戦争なのだ。「今度はどこにも逃げないよ」と僕はクミコに言った。「僕は君を連れて帰る」僕はグラスを下に置き、毛糸の帽子を頭にかぶり、脚にはさんでいたバットを手に取った。そしてゆっくりとドアに向かった。(本文より)
昨日読み終えました。
いやあ、読み始めてからどれくらい時間を要したのでしょうか。ほとんど通勤の時間にしか読んでいなかったのですから、相当の日数が経過してしまいました。その間、私自身、何だかかび臭い井戸の底に身を置き続けているような気分でした。優れた小説は読む者をある必然的な運動に駆り立てる、といったことを、かつて蓮實重彦氏があるところで語っておいででした(大江健三郎を揶揄するような筆致でした)が、そういった意味では、私を井戸に運んでくれた上嗅覚もなまなましく刺激してくれたこの小説が優れたものであったことは間違いなさそうです。
なお、私、〈第3部〉を読んだ記憶が全く欠落していました。〈第2部〉までは「ああ、そうだった」といった感じが多かれ少なかれあり続けていたのですが、〈第3部〉にはそれがまるでありませんでした。私自身はっきりしたことは覚えていないのですが、私は、きっと〈第2部〉を読んでその後を放棄してしまっていたんでしょう。今回は、あえて通勤で読むために文庫本を買いましたが、当時購入した単行本は書庫に確かにありましたから、買って読まずにいたようです。
調べてみると、〈第1部〉と〈第2部〉が同時に出た1年数か月後に〈第3部〉が出ているようですから、その間に、私は〈第3部〉に向かうだけのエネルギーを失っていたんでしょうね。
何が私を放棄に導いたのか。
よくわかりません。
ただ、あらためて読みつなぐのに相当な精神的エネルギーを要したはずです。それを持続できなかったんでしょうね。
その当時、私は、32歳。まだまだいろいろな意味でエネルギーを充満させていたころのようにも思うのですが。
しかしながら、『騎士団長殺し』の世界は、ここから始まっていたということを、ひりひりしながら実感した体験でした。私、『騎士団長殺し』の読後感をとりとめもなく綴ったのですが、これを本当の意味で読んでいない私だから、ああいう感想に落ちたんだということを今ならよく理解できます。
ただ、どういったらいいんでしょう。村上春樹さんのこの時期以降の小説の方法論の問題にも深くかかわってくると思うのですが、大がかりな仕掛けの楽しみ方ということ、について。例えば、この壮大なドラマから主旋律だけを取り出して、そう、例えば、大陸における微妙に絡み合ったエピソードを取り除いてしまったとしたら、そのドラマはやけにファンタジー色の強い奇妙なものになってしまうんでしょう。成立はしなくはないでしょうが、まるで魅力に乏しい説得力のないものに成り果ててしまうんでしょう。じゃあ、この大陸のドラマが、岡田亨=「僕」のドラマに何を与えているのかというと、それは、ドラマの普遍性というか神話性、または、ドラマのもつ喚起力の強度。
う〜む。すっきりとしたドラマのフォルムを感知しえた感覚がありながら、私は、まだ言いようのない混沌の中にあります。メタフォリカルに井戸と呼んでいいいような混沌に。こうなったら、村上春樹をひたすら読み続けるしかありません・・・ということで、すでに『1Q84』を読み始めている私です。
この本に帰ろう。
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