henry_mania

時折書房

時折書房が目指すは定常開放系。コメント&TB大歓迎。

17 2月

桐野夏生『猿の見る夢』

猿の見る夢
桐野 夏生
講談社
2016-08-09


猿的なもの。
内容紹介
これまでで一番愛おしい男を描いた――桐野夏生
自分はかなりのクラスに属する人間だ。大手一流銀行の出身、出向先では常務の席も見えてきた。実家には二百坪のお屋敷があり、十年来の愛人もいる。そんな俺の人生の歪(ひず)みは、社長のセクハラ問題と、あの女の出現から始まった――。還暦、定年、老後――終わらない男”の姿を、現代社会を活写し続ける著者が衝撃的に描き切る! 週刊現代読者の圧倒的支持を得た人気連載が、ついに書籍化!
あ〜あ、疲れました。
読み終わったとき(職場の昼休みでした。ランニング関係の読書をやめてこちらを読み耽っていました)、どどどっと疲れたのを覚えています(先週の木曜日の読了でした)。
そして、この疲れの意味するところを考えると、「つまらなかった」「くだらない話に長時間付き合ってしまった」というものではなかったと思います、とはいえ、「おもしろかった」「引きこまれてしまった」というものでもありませんでした。
う〜ん、なんだろう。
このドラマは定年男子のそれではありませんでしたが、定年付近男子の紋切型的なエピソードに溢れていたという意味では、私が前に読んだ定年男子ドラマ、渡辺淳一『孤舟』内館牧子『終わった人』と似通ったタイプではありました。
しかしながら、いかにもなお話の展開に、ある程度評論家的なスタンスで、ああ、こうくるわけね、それで、そうなるのね、みたいに付き合えたその二作品と違って、『猿の見る夢』というドラマは、読む者の生理に直接響いてくるような、何か重苦しさというか、悪意というか、逆に無邪気なんていうものも含まれた微妙に黒々とした感じが、とてもなまなましいのでした。
鳥獣戯画?
確かに、登場人物たちはみんな、何となくそのへんにいそうな人に見えて、いや、みんな狂気に足を半分つっこんでいるようなつんとにおってくるようなキャラクターたちばかりでした。
そして、結果的には、そんな鳥獣的にティピカルな登場人物たちの中で、一番普通の存在として見えてはたのが、長峰さんだった (@_@;) ように思えてきます。鳥獣たちの悲喜劇として展開していくドラマの中で、唯一人冷静に物事の進展やもつれを見通し、その欲望ゲームの中心にうまく入り込んでは彼ら彼女らを食い物にしていく。
この小説が、定年男子小説の類とはまったく違った光彩を放っていたのは、この小説の位相そのものに由来したのではないでしょうか。
これ、欲望ゲームの詩学、みたいな小説?!
私が読後に疲れ切っていたというのも、単に主人公の末路にどうこう思ったみたいなものじゃなくって、この小説に描かれた欲望ゲームの秘密のようなものを追いかけることの高負荷に付き合わされた代償だったのかな、と。
桐野さん、すごい。
16 2月

金哲彦『金哲彦のマラソンメンタル強化メソッド』



折れない心も決闘から (^O^)
内容(「BOOK」データベースより)
自己新達成に必要な読めば実践できるマラソンメンタル術。
 第1章 メンタルが走りにおよぼす影響
 第2章 トレーニング時のメンタルコントロール術
 第3章 いざ、レース本番! メンタル調整法
 第4章 ケガとの向き合い方
 第5章 レース後の気持ちの作り方
ランナーである私にとって、最大の課題は、メンタル・・・かもしれないと思っています。
二度つづけてフルマラソンで撃沈したとき、その分析を自分なりにしてみて、「足攣り」とともに「根性不足」をその要因と考えました。
そう、フルマラソンで負け続ける私は、メンタルという課題をもっと明確に自覚して、その対策を講じなければならないのです。そんな私にとって、またとない一冊でした。
金さん、30km走という練習メニューを実践する上でのメンタルの問題をこう指摘されます。
 たとえば、フルマラソンに向けた30キロ走を行うとします。始めるまではやや気が重くなりますが、ここは腹をくくってスタートするのみです。30キロといっても、スタートからフィニッシュまでずつと苦しいわけではありません。リズムが出てきて気持ちよく感じる局面もあります。
 やがて20キロを過ぎると徐々に苦しさが大きくなり、25キロあたりから28キロぐらいまでにもっとも苦しい場面がやってきます。そこが自分の弱い気持との戦いです。一番苦しい数キロが始まったら、負けそうな自分に勝てるか、勝てないかを賭けてみてください。ペースを落とさずにそれまでと同じように走れたら勝ち、やしりつらくてスローダウンしてしまったら負け。・・・
 何度かそういうやり方を続けると、自分の弱点がわかってきます。苦しさも「このへんで来るな」と予想がつくようになります。最初のうちは5回のうち1回しか勝てなかったのが、次第に3回、4回と勝てるようになっていきます。どんなに能力が高い人でも、最初から全勝はできません。
 折れない心はそのようにして作られます。体力や走力が向上するだけでなく、メンタルも強くなる。それが成長しているということです。(pp.60-61)
私、今年度30kmペース走を7度行いましたが、そんなに攻めた設定ではなかったこともあるのですが、7戦5勝1敗1分(設定ペースをある程度余裕で走れたのが「勝ち」、設定ペースを全くクリアーできなかったのが「負け」、設定ペースでは走れたものの余裕なく走り終えてしまったのが「引き分け」)くらいでした。
ただ、次回(明日(@_@))とその次回に予定している30km走は、来月のフルをにらんでの、何としてでも引きたくない、決戦のつもりです。
金さん、「負けそうな自分に勝てるか、勝てないかを賭けてみてください」とおっしゃいます。
むむむ、確かに、私は、まだ「自分の弱点」がまだまだわかっていないのだと思います。
そして、それというのも、私、自身の練習において、こういう勝負感覚などほとんどもつことがなかったなと思い返さざるを得ません。たとえば、ペース走なりビルドアップ走なりインタバル走なり、きつめの練習をやった場合、設定の走りができないときには、あああ、今日はその練習をやれるだけのコンディションになかったんだなとあっさりメニュー修正をしているのでした。
それを繰り返しているから、いつまでたっても心が折れる。
よしっ、決闘だっ(+o+)
そして、その良質の決闘体験を蓄積させることでしか備わることない「折れない心」を、何とかして手に入れるぞう、パオーン。
11 2月

鷲田清一・山極寿一『都市と野生の思考』

都市と野生の思考 (インターナショナル新書)
鷲田 清一
集英社インターナショナル
2017-08-07


野性的で、賢くあれ (^_-)-☆
内容(「BOOK」データベースより)
哲学者にして京都市立芸大学長の鷲田清一と、ゴリラ研究の世界的権威にして京都大学総長の山極寿一による対談。旧知の二人が、リーダーシップのあり方、老い、家族、衣食住の起源と進化、教養の本質など、さまざまな今日的テーマを熱く論じる。京都を舞台に、都市の思考と野生の思考をぶつけ合った対話は、人間の来し方行く末を見据える文明論となった。
なかなかの読み応えのある対談でした。
鷲田清一さんの思想に久しぶりに触れて、ああ、またいろいろなものを読みかえしてみたい(まだ読んでいないものもありますから、そっちもですね)、という気持ちになりました。
ただ、それ以上に、
山極寿一さんのダイナミックな思考に惹かれるところがありました。思わず既刊本をチェックしていたところです。前にちょっとしたものを読んだことはあるのですが、じっくり読んだことがなかったので、これからの楽しみになりました。
さて、お二人、臨床哲学と霊長類学と、専門のフィールドは異なるものの、底の部分で通じ合うものが多々あることがよくわかる対談でした。たとえば、京都大学で学び、現在大学のトップにあるという共通点のあるお二人の、「知」のあり方について、非常にダイナミックな共鳴が述べられていまして。
鷲田 ところで、学生のころ「あいつ頭ええなと言われたら、馬鹿にされてると思え」と、桑原武夫先生が口癖のように言われていたと聞きました。「あいつはおもろい」と言われて初めて褒められたことになるんだと。「おもろい」とは、これまでの通説や、それらが依拠している基盤そのものを揺るがし、覆す徴候を見てとったときに発せられる言葉です。これに対して「頭がええ」とか「できる」というのは、今、流通している基準の中で測られた評価でしかない。
山極 いかにも京大らしい話で、よくわかります。現世での利益など関係なく、とにかくおもろい研究にひたすら切磋琢磨できる。とんでもないことでもじっくりと考えられる、そんな場が大学です。ジャングルが多種多様な遺伝子をストックする場であるように、大学はありとあらゆる知の貯蔵庫であるべきです。(p.16)
「頭ええ=できる」に対してより価値のある「おもろい」という評価。さらに、「教養」についてこんなふうに展開していきます。
鷲田 日本で教養というと、どこか高踏的じゃないですか。古今東西の古典に通じていたり、クラシック音楽を聴いたり、美術書のコレクションを持っているなどというのが教養のイメージでしょう。これに対して俗にまみれているのは野暮ったいみたいな。
山極 俗世を見下ろすような……。
鷲田 三木清なんかはそれをルサンチマン(憤り、怨恨の感情)だと言ったけれどね。俺は賢いのに、世の中では実権を持つことができないというルサンチマンの裏返しだと。だから、教養を身につけて上に向かうという感じかな。これに対して昭和に入ってからの教養は、京都学派が典型だけれど、世の中全体を見渡して、全体を掘り下げていく。ある意味、哲学をモデルにした根源に向かっていく下向きの教養が出てきました。要するに高みに上るのか、掘り下げていくのかという方向性ですね。
山極 未知の世界を探求しようとか、根本原理を追い求めようとか。掘り下げる教養というのは、そんな感じですね。
鷲田 ところが、今求められているのは、そのどちらでもない教養だと感じます。上下方向ではなく、水平方向に気を配る「知」ですね。たとえば原子力の問題を、家事的発想にもとづくならどのように考えるか。あり合わせの材料でまかなう、予算のことも頭の中に入っている、食の安全を考えながら、家族の様子にも気を配る。こういう家事の考え方を原発に当てはめるなら、予算はもとより、現状と将来のリスクから後始末まで見通す必要がある。これらを全方位的に水平方向に気を配ることができるのが、科学者の教養ではないかと思います。
山極 まさにそのとおりです。その背景には、ここ数年で知識のあり方が劇的に変化したことがある。昔は、知識といえば大半が人の頭の中にあった。
鷲田 その知識を伝えるのが書物だったり、あるいは弟子だったり。
山極 かつてはそういう人のつながりや、書物が知識を伝えてくれた。けれども、今や知識は、人の頭の中から出て、全部インターネットの中に入ってしまった。だから、教養とは頭の中に入れておくようなものではなく、インターネットに入れておけばいいと。
鷲田 アーカイブになっているから、必要なときは、いつでも検索さえすれば取り出せますからね。
山極 そんなものをあえて積極的に取り込む必要はないわけです。そこで逆に「知恵」の重要性が浮き彫りになってきた。いちばん大切なのは、自分が今生きることですから、生きるための知恵が必要になる。まさに鷲田さんがおっしゃるような臨床哲学的な知恵が、何より欠かせないものとして浮かび上がってきた。
鷲田 自分はどこへ行こうとしているのか、自分はどうすればいいのかといった指針ですね。そういうものを誰が教えてくれるのか。
山極 コミュニティが希薄になり、個人がコミュニティから疎外されるようになっています。個人化が進んでいる一方で、ネット社会の中では個人の存在がどんどん希薄になっている。
鷲田 ネット社会は、基本的に匿名性の社会ですからね。いつでも出入り自由だし。
山極 ネットは参加しやすく、そこから抜けるのも簡単です。変更可能というか、自分と他者を区別するものが何もない。つまり、ネットの中には、自分が自分として認められる場所がないわけです。そのことが、多くの人を漠然とした不安に駆りたてているのではないでしょうか。
鷲田 要するに、今の世の中はわからないものだらけじゃないですか。科学の世界だけでなく、社会情勢も、時代の流れも、本当に複雑さを増してきている。何が決定要因なのかわからない状況の中で、不確定要素の相互作用みたいなものだけで、物事が決まっていく。こういう複雑性を増す社会の中で生きていくには、「ここを押さえておかないといけない」とか「ここらあたりが勘所や」とか「こっちに行くとやばい」などというアタリをつける感覚が非常に重要になってくる。
山極 まさにセンスですね。そういうセンスをある程度まできちんと高めていく装置として、本来なら教育が機能していたはずなんですが。
鷲田 ところが、今の中等教育や高等教育では、センスなんて芸術家や職人の世界に必要なものぐらいの認識で、ごそっと抜け落ちていますよ。ここに今の学問の危うさを感じずにはいられませんね。(pp.184-187)
長くてすみません。
今日は、備忘録を主として、ここでやめときます。
学びの新しい地平は、本当に現出するのでしょうか。
京都に注目です。
10 2月

岩井俊憲『男と女のアドラー心理学』



未来志向のパートナーシップへ(^_^)/
内容紹介
どうして男と女はすれ違ってしまうのか? 男脳/女脳の違いだけじゃ語れない! 恋人、夫婦、家族…あらゆる男女間の“ズレ"を解決!  【アドラー心理学研究の第一人者による恋愛・結婚論】
●アドラーは「愛」や「結婚」を、どう捉えていたか?
●デートや結婚・家事から食べ物の好みまで…ケースで読み解く男女の心理
●なぜ男は「ダンドリ」にこだわり、女は「意外な展開」にときめくのか
●「察してほしい」人と「忖度しすぎる」人…日本人ならではの“ズレ"
●増えるセックスレス、仮面夫婦、不倫、離婚…夫婦の溝を埋めるには?
●岩井流・良好なパートナーシップを続ける5つの極意
まあ、予想したような本でした。
アドラー心理学については、前から少々興味があり、本を読んだり、雑誌の特集記事を読んだりしていました。
いわゆる未来=解決志向的なアプローチというものを、いろいろなかたちで、いろいろなところで見聞きすることが積み重なる中で、このアドラー心理学も自然に自分の中に入ってきた、という印象があります。
例えば、こんなところを引いてみます。
 一時期、心理学ではこの原因論(過去志向)が主流をなしていましたが、アドラー心理学では、原因論の対極にある「目的論」を提唱しています。
 目的論とは、「人間の行動には、その人特有の意思を伴う目的がある」という理論で、「未来志向」ともいいます。原因を探っても解決にはつながらない、という考え方です。(p.58)
私たち、何か事が起こると、どうしても「どうしてこんなことが起きてたんだ」「なんでこんなふうになってしまったんだ」となりがち。自分のみの問題であれば、その原因追求ですっきりしたい欲望を無視できないというところがあるんでしょうが、それが、自分が関わる相手、他者との関係性の中での出来事だったりすると、その原因追求的なアプローチではむとろ埒があかないということは肌感覚としてわかるようになってきました。
さて、この本は、単なる「アドラー本」ではなく、「男と女」がテーマとして選ばれています。
筆者、男女の関係において、相手に対する共感と傾聴こそがその関係性の生命線だとして、男が陥りがちな態度についてこう書きます。
 男はおうおうにして、すぐに助言・解釈・肩代わりをしがちです。もちろんすべての男性がそうではないし、一部の女性にも助言したがる人はいますが、男性にこの傾向が強いのです。
 私は「ニーズなきところにサプライするな」と言いたい。(p.104)
はい。
私も、若いころから、妻の悩みごと相談に対して、その解決に繋がる効果的・効率的な助言を送っては、それが全然効果的じゃなくて、何だかなー(@_@;) という思いを何度も繰り返してきたクチです。
ニーズなきところにサプライするな・・・なるほど。
相談風の言葉が求めているものが「助言」でも「解釈」でも「肩代わり」でもない(すべてそうとは限らないでしょうが)という真実、いやあ、人生は実に味わい深いっす。
カウンセリングの基本技法を思い出して、意図的に「繰り返し」などやってみたときのはまりようは冗談抜きに半端ないっすもんね(妻の私を見る目が完全に変わります(@_@;))。
そして、まとめとして「よりよいカップルになるための関係構築法」は「なによりベースになるのは『相互尊敬・相互信頼』を確立すること」(p.168)と説かれ、アドラーの言葉が引用されます。 
自身が先に、自身がより多く、尊敬・信頼することから、相互尊敬・相互信頼が成り立つ。(p.170)
いやあ、さすが、アドラーさん。
アドラーさんに座布団一枚(^_^)/
「相互」だからといって、アプローチの形や量が必ずしもイーブンでなきゃならないわけではない。
恋せずにいられないな 似た顔も 虚構にも
愛が生まれるのは 一人から              (星野源「恋」)
3 2月

本田由紀『もじれる社会−戦後日本型循環モデルを超えて』



「もつれ」+「こじれ」=「もじれ」の日本。
内容(「BOOK」データベースより)
高度経済成長、バブルは遠い彼方。問題が山積みの日本社会には、悶々とした気分が立ちこめ、「もつれ」+「こじれ」=「もじれ」の状況にある。この行き詰った状況を変えるには、一体どうしたらよいのか?「教育」「仕事」「家族」それぞれが抱える問題について考え、解決策を探る。言葉を紡ぐ一冊。
本田由紀さん、何冊か読んだことがあります。
『教育の職業的意義−若者、社会、学校をつなぐ』『軋む社会 教育・仕事・若者の現在』。もう一、二冊読んだように思うのですが、ブログには収められていませんでした。ともに、教育社会学の知性とでもいうべきものに、ほっほーと感心しながら読んだような記憶があります。「教育の職業的意義」という独特なタームに込められた熱さと改革への意志、結構嫌いじゃなかったような。
さて、今作の題名の「もじれる」ですが、「もじれる」とは「もつれる」と「こじれる」をあわせもったようなニュアンスの言葉、と触れられています。確かに、伝わるものがありますね。今の時代(「今の時代」なんていうパースペクティブを持とうとすること自体、とんでもなく久しぶりな気がします。私の思考力の衰えって、想像以上かも(@_@;))のやばいよやばいよという感じがうまく表現されている気がします。
さてさて、この本のサブタイトルにもなっている「戦後日本型循環モデル」というものですが、このあたりから整理していきます。
まずは、「第二章 戦後日本型循環モデルの終焉」の中の、本橋哲也さんという方によるインタビューという形でまとめられたお話から「戦後日本型循環モデル」とは何か、そして、その問題点がどこにあったのか、について引いてみます。
本田 日本では、高度経済成長期からバブルが崩壊するまでのあいだに、「教育」「仕事」「家族」、この三つのあいだに独特の連関構造が成立してしまっていたと私は考えています。この三つの社会領域のあいだには、それぞれ互いに資源をぐるぐると投入し合うような形で、一見極めてスムーズな循環関係が成り立っていました。
 学校を出ればすぐ、新規学卒労働力として仕事の世界に典型雇用の形で移動し、仕事の世界では順調に上がっていく賃金を、家族形成や家族の維持につぎ込むことができていました。ちょうど子どもの教育費が高くなる頃に賃金も高くなるような、そういう生活給的な年功賃金でしたから、それを次世代の教育費用につぎ込み、さらに重要な教育エージェントとしての母親が高い教育意欲を子どもの教育に向けて注ぎ込む……。そういう循環構造が成り立っていたわけです。
 しかし、このような循環が成立していた頃からすでに、そこには二つの病理が内包されていたと思います。その一つは、各システムがいずれも、次のシステムを目指して作動していたことによって、それぞれの中身は、ある種空洞化していたことです。
本橋 教育の領域では、いい会社に入るために勉強するのであって、学ぶこと自体の意味や意義が問われなかった。
本田 そうですね。
本橋 問題が限りなく先送りされるような形になるわけですね。
本田 その先送り主義が病理の一つだと思っています。
 二つ目の病理は、そういう先送りの循環を駆動していたエンジンが、エゴイズムだったということです。つまり、うちの子は少しでもいい学校に入れたい。パパもとにかく昇進競争に勝ってもらって、できるだけ大きい一戸建てを買って、車もワンランク高いものにして、テレビも大きいものにして、みたいな。
本橋 経済成長とエゴイズム。
本田 自分と自分の家族のメンバーに閉ざされた利害でもって動いているわけです。
本橋 社会的な連帯みたいなものが、非常に育ちにくいわけですね。
本田 そうです。そういう非常に狭いエゴイズムによって駆動されていたという点でも、循環関係が成立していた頃から、病理があったと思うのです。(pp.47-49)
実に納得できる整理の仕方です。
循環モデルのシステムについても、その病理についても、怖いくらいにすとんと落ちました。
その循環モデル崩壊の中で、今の若者世代がどう苦しみ、どうもがいているか、はっとしつつリアルに感じられてもきました。
 上位者を上位へ、下位者を下位へ再生産するカラクリのなかで、学校はなにをやってきたかというと、学校的価値を再生産してきました。
 学校的価値とは、明日のために今日のがまんをするという「未来志向」と「ガンバリズム」、そして「偏差値一元主義」です、だから学校はつまらないところです。いまを楽しむのではなく、つねに現実を未来のための手段とし、すべてを偏差値一本で評価することを学習するのが学校なのですから。
 その学校的価値が学校空間からあふれ出し、にじみ出し、それ以外の社会にも浸透していった。これを「学校化社会」と言います。(p.66)
これは、ずいぶん前に読んだ上野千鶴子さんの『さよなら、学校化社会』中の一節です。不可視だけどだからこそ執拗に私たちの無意識にするすると入り込んでは私たちをその虜囚にする「学校化」という制度的思考を思い出しました。図3-2
実際、私たちの世代などは、そんな「戦後日本型循環モデル」がうまいこと機能しているように見られている時代に子供から大人になっていった世代に他なりません。そして、あらら(@_@;) そんな私たちはそんな循環モデルの中で生きていたことに全く無自覚だったということを知らされたわけですし、さらに、今だって自分と自分たちの健やかな成長を促してくれていたそんな循環モデルはまだ現役としてこの世に機能し続けていると思うともなく思い続けている者がたくさんいるんだろうなということを感じては、少し、ぞっとしました。
右の図は、90年代に崩壊した(私の三十代くらいですね)「戦後日本型循環モデル」の崩壊イメージを図に描きこんだものです。本田さんは、この崩壊が続く現実において望まれるニュービジョンの提案をこの後提示していきます。
ただ、私としては、まずは、この崩壊をしっかり受け止めることが自分の中での最大の課題だと感じました。そして、この循環モデルの崩壊という地平からいろいろな景色を眺める努力というかトレーニングを意識的にやってみなきゃという気持ちに駆られています。
というのも、私、教育業界にあって、いろいろな変化に接していながら、その変化のもつ意味合いをはじきだす自分の視座を疑う、つまり、もっと具体的に言えば「戦後日本型循環モデル」の中で過ごしてきて、そのモデルを無意識裡に盲信している自分を疑うことなく、そんな視点からものを見続けているということに疑いをもっていなかった、のではと思うからです。
ちょっとショックを受けましたね。
出直しです。
ランニングばかりやってちゃダメだこりゃ(@_@;)
29 1月

竹内薫『子どもが主役の学校、作りました。』



「一条校」サイドから。
内容(「BOOK」データベースより)
今の子どもたちにとって必要な教育とはなんだろうか。母国語としての日本語はもちろん、英語は外せない。加えて、AIと共存していく彼らにとって、プログラミングの習得も必須だろう。わが子の就学にあたり、それらを満たす学校がないことを知った著者は、自ら学校を作ることを決意する。文部科学省や教育委員会、内閣府などへ100回以上足を運び、また開学資金のスポンサーも見つけ、やっと開校のめどがたった。その直後。親として、人として、究極の選択を迫られる―。開校への奔走をつづった感動のノンフィクション。
自分は何も知らないんだなと、思わせられました。
たとえば「一条校」なんて言葉は初めて聞きました。「一条校」とは、学校教育法の第1条に掲げられている教育施設の種類およびその教育施設の通称。
自分は「一条校」サイドの人間です。・・・サイドの人間です、っていうのはちょっと大げさな表現ですかね。少なくとも「一条校」サイドで仕事をしている者です。
学校とは「一条校」のこと。
自分がそこに安住しているから、それを当然のこととして、自分が学校とはどういうものかなどと特に意識することもないから、「一条校」などといって客観化する必然性に完全に無頓着でいられるんでしょう、きっと。
「一条校」というタームを必要とするのは、間違いなく、現代の日本の教育に対して、違和感なり、焦燥感なり、絶望感なりをもっていたり、そういう感情から現に新しい形の学びや学校を創出したりしている人たちなんです。
この著者の竹内薫さん−ご自分のご子息を通わせたい「学校」を自分の力で作ってしまわれた方−は、まぎれもなくそんな一人なわけです。
「ホームスクール」というタームも初耳でした。「ホームスクール」とは、学校に通学せず、家庭に拠点を置いて学習を行うこと。
日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識。
実際、私だって、「一条校」サイドで生きてはいながら、日本の教育や教育行政への不満のようなものをこれまでもぶつぶつ言ってきました。
そして、今回改訂された学習指導要領にしろ、今こそ日本の教育を大きく見直すべきという基本のメッセージ性こそ大歓迎ですが、何だか実際的な肌感覚からすると、性急さ、拙速さの粗が散見され、大丈夫なのかという感じをもたずにいられませんでした。
たとえば、小学校で急遽導入が決まったプログラミング教育と、教科としての英語について、竹内さんは強い口調でこう語られます。
 現在の日本の学校が陥っている大きなジレンマがある。それは、先進グローバル教育をしないと世界に取り残されてしまうから、英語やプログラミングの授業を増やさないといけないのに、古い科目が残っているせいで、もう時間割に英語もプログラミングも入りきらないこと(笑)。(p.176)
外国語活動、英語と小学校に次々に組み込まれていくのを、私は、あまり期待感をもって眺めることができないでいます。時間を設けりゃいいっていうもんじゃないだろ。
そして、プログラミング教育に至っては、その時間すらはっきりと割り当てられないでいるわけです。道徳だって特別の教科という扱いになりました。ビルド&ビルド&ビルド・・・の中で、それまでも全ての教科の指導に手いっぱいだった教師たちは更なる追い打ちをかけ続けられていく。
そんな一方で「教職員の働き方改革」が何かしずしずと進行している。むしゃむしゃ(+o+)
なお、さきほどの引用の部分に続いて、筆者はこう言います。
 どうすればいいかは、誰にだってわかることだ。
「竹内さん、この本の読者は全員、答えが頭に浮かんでいますよ。科目の壁をとっぱらってボーダーレスにして、融合型の授業にすればいいだけのことでしょう」
 はい、そのとおり!(p.176)
思い出していました。
藤原和博さんの教科再編案−「21世紀の5教科」(中学校編)を。これなどは竹内薫さんのイメージ以上に過激なものでした。
そう、竹内さんのイメージは、ある意味徹底して現実的な考え方、と言えるのかもしれません。
 ・英語
 ・日本語
 ・プログラミング言語(数学)
この三つの言語の高度習得、トライリンガル教育こそグローバルな時代に打ち克つ道。
んんんんっ、シンプルだけど強いメッセージはある。
先日ある教育系雑誌で、民間人校長たちによる鼎談を読んだのですが、いろいろと刺激的でした。自分たちが自在に思考していると思い込んでいる営みというものも、畢竟制度的思考でしかない、、、私が学生時代に最も大切にしていた基本認識のはずでしてた。
そんな思考すら捨ててた最近の自分を猛省します。
28 1月

勢古浩爾『定年バカ』

定年バカ (SB新書)
勢古 浩爾
SBクリエイティブ
2017-11-07


私は何バカなんだろう!?
内容紹介
【発売即6刷、5万部突破のベストセラー】
それでも、焦ってはいけない!
◆定年後こそ青春というバカ、生きがい追求バカ、健康バカ、資産運用に走るバカ――でも、ちょっと自分にも当てはまる……。
◆ベストセラー『定年後』に影響されて、充実した定年後にしなきゃと急かされない!「自分はこれでいく」と思えればそれでいい生き方
◆定年ベストセラー本にはご用心! 「定年後は何かしなきゃ、生きがいをもたなきゃ病」の呪縛をとく!
【本書の構成】
第1章 定年バカに惑わされるな/第2章 お金に焦るバカ/第3章 生きがいバカ/第4章 健康バカ/第5章 社交バカ/第6章 定年不安バカ/第7章 未練バカ/第8章 終活バカ/第9章 人生を全うするだけ
こういう本も楽しみます。
前に渡辺淳一の『孤舟』や、内館牧子の『終わった人』などといった小説を読んだこともあります。
確かに、私、定年の年齢に近づいてきています。
だから、じわじわと不安に駆られているのか・・・というと、現段階ではそうでもありません。ただ、渡辺淳一の『孤舟』の記事(2012/1/10)には、「私も定年後を『孤舟』という感じで流れていく可能性がなくないなと思った」などと神妙なことを書いていたんです。
ところが、内館牧子の『終わった人』の記事(2016/11/26)では、次のように書いていました。
現在のところ、私の定年後のイメージとしては、まずはできる限り長く働き続けることです。今の仕事を65歳まで続けたら、その後は無理なくトレーニングを兼ねられるような仕事をやりたいなあ、駐車場誘導とか(他にどんな仕事があるだろう?)。なんせ、定年退職後の本業はランナーになる予定ですから、レース参加費用等を稼ぎつづけなきゃならないですからね。定年退職で「終わる」のじゃなく、むしろランナーとしていよいよ脂がのってきて「始まる」「花咲く」ような人生を希求しつづけたいと思っています。
そうです、ランニングとの出会いが、私の個人的な老後観を一変させてくれたのです。
さて、前置きが長くなってしまって、すみません。

肝心な本の方ですが・・・
う〜ん、この人、私、初体験なのですが、いったいどういう方なんでしょう。
お金に焦る人、生きがいを大事にする人、健康に気遣うひと、つながりにこだわる人、もやっとした不安に包まれる人、いろいろと未練を感じる人、終活を真剣に考える人、いろいろな定年後の紋切型な生き方すべてを一刀両断、「バカ」扱いしていきます。要は、定年後に「主体的に何もしない」という選択肢があっていいじゃないかと説いているわけです。
このこと自体には、私も、賛成ですね。
お金を増やすことが好きなら一生懸命増やせばいい。
健康に気を付けることに一生懸命になることが悪いはずがない。
友達いっぱい作って楽しむのが好きならどうぞ。
そして、何もしないのが好きなら、何もするなー。
とにかく、圧力に弱い人はいますから。
ただ、この定年後というテーマに関しては、ビジネスと結びついている要素も大きいのかなと感じます。ビジネスが作りだしている圧力。
定年後という新しい世界にポーンと投げ出された初老の男性(「定年後」がテーマとして面白おかしく(or 物悲しく、切なく・・・)前景化してくるのはほぼ男性のケース)とは、たんまりお金をもっていて、それでいてその使い道を知らないでいる存在であり、定年後と呼ばれる今後ますます拡張していく市場においては恰好の獲物、鴨が葱を背負ってくる状態、なんでしょう。

私の場合。
私は、どちらかというと、何らかの過剰さと戯れていないとうまく生きていけないタイプです。そして、そういうものは、いつの間にか入れ替わりつつもいつも私の目の前にあり、そういうものがない中で生きていた経験自体がないので、定年後だろうと何だろうと、私は私、です。
定年後−過剰さてんこもり大作戦。
_我せずたくさん走る(月間走行距離は300kmいける)
▲献爐膨未辰洞撻肇譴卜紊燹箆群修箸寮錣い貿瓦蟠く挑み続ける)
たくさんレースに出る(フル4本、ハーフ4本、その他4本)
ぅ薀鵐縫鵐哀屮蹈阿亮舛鮓上させる(オリジナルな芸風の確立(^O^))
イ燭さん本を読む(まずは一週間5冊)
ζ表颯屮蹈阿魃弔燹覆泙困楼貊鬼孱飢鷙洪掘
料理の質を向上させる(ベジブロス活用術の洗練)
┐酒をおいしく楽しく飲む(日本酒のたしなみ方の洗練)
私の好きなことをたくさんある時間の中で存分に拡充させられる。あああああ、過剰バカ。
24 1月

堀裕嗣『スクールカーストの正体〜キレイゴト抜きのいじめ対応』



現場の達人ならではのメッセージ。
内容(「BOOK」データベースより)
「子どもたちに、今、何が起きているのか」を、これ1冊で俯瞰できる、血の通った「現場」のスクールカースト論。現役中学校教師である著者は、「スクールカーストの決定要因は、コミュニケーション能力だ」とその本質を喝破、「LINEはずし等の現代型いじめ」や、「キレて暴れ出す子どもたち」等々、リアルなエピソードの背景にあるものを読み解いていきます。機能する「いじめ対応」とはどうあるべきかを提案する最終章は、教育関係者ならずとも、必読です。今後、本書を抜きにして「いじめ対応」は語れません。
お久しぶりです。
何かしらの本は読み続けているのですが、ここに立ち寄るエネルギーがありませんでした。
エネルギーのすべては、あちらに持っていかれています。
また気持ちを入れ直して、週一の更新を目指したいと思います。
さて、前に、鈴木翔という方の『教室内(スクール)カースト』という本を読んだときの記憶は結構残っていて、というか、「スクールカースト」という視点で今の中高生をとらえるのがとても有効だという感じが強くあったのでした(堀さんは、この本を取り上げて、まったく評価できないと触れられていましたが)。
それで、まずこのタイトルで惹かれ、そして、現役中学校教師というような方が書かれる本ってあまり手にしたことがなかったので、何となく興味があり、手に取ってみた次第でした。
率直な感想、、実におもしろかったです。
いや、「おもしろかった」というのは適切な用語ではないですね、現場で五感と頭脳を働かせ続けている方だから書けるという言葉が、そこにはありました。そして、ヒリヒリせざるを得ないような過酷な現実認識に連れていかれるような感じが、ありました。
気になった部分をまとまりなく引きながら振り返ります。
〈スクールカースト〉を決定する要素として最重要と目される〈同調力〉は、明らかにこのバラエティ番組のひな壇芸人の在り方がモデルとされている。それも〈空気〉と呼ばれる不確かなものが神聖化され、〈空気〉を読めなかった者、〈空気〉を壊した者は「反〈空気〉罪」とでも呼ぶべき犯罪があるかのごとく叱責され排除される。「コミュニケーション能力」は、〈空気〉に乗ることが前提とされ、そこからの逸脱は決して許されない。おそらく生徒たちにとっては、それが〈同調力〉なのである。(p.36)
〈スクールカースト〉はバラエティ番組のひな壇芸人の在り方がモデルになっている、というご指摘にうなります。
私はあまりそういう番組を目にしないで生きている方なのですが、お笑い芸人と呼ばれる人たちのステータス自体がここんところずーっと上がり続けていることとも関係しているんでしょうかね。
「コミュニケーション能力」というタームは、ずいぶん前からこれからの日本人が身につけることが望まれる資質・能力として注目され続けているわけですが、そういう文脈から外れて、私たち日本人の進む指針となっているんですね。
また、堀さん、教育評論家の森口朗さんの説を借りながら、生徒を八つのタイプに分類して、スクールカースト分析を進めていくのですが、そのタイプの一つ「お調子者タイプ」に注目してこう語ります。
・・・「お調子者タイプ」の生徒たちがどういう動きをするかが、現在の学級運営の成否を決めると言っても過言ではない。
 教師が現代型の学級集団を運営するには、この「お調子者タイプ」集団を学校文化に馴染む方向に引き寄せるか、その場のノリだけで動く方向に散逸させてしまうかがキーポイントとなっている。力量の高い学級担任はうまく前者の方向にみっていけるが故に学級が安定し、力量の低い学級担任は後者の道を辿るが故に学級が安定せず、ときには学級崩壊へと至る。そうした構造がある。(p.49)
肌感覚としてよくわかりますね。
スクールカーストというものが、例えば一つの学級集団の中にあるとして、それは、生徒たちだけの問題では当然ありえない、教師、つまり、学級担任の存在もまた、大きくかかわるわけです。実際、「〈スクールカースト〉は・・・学級担任をも巻き込み、学級運営をさまざまに現象させる基準としても機能するのである。」(p.66)と指摘されていました。学級担任もある意味そのスクールカーストに無縁に学級担任としていられるわけではない、ということ。そして、その意味、その重さ。
そういえば、最初にあげた『教室内(スクール)カースト』を読んだとき一番強く印象に残ったのが、スクールカーストというものに対して、教員もその構造を強化するように作用することが往々にしてあり、また、その構造そのものを肯定的に評価してもいる、というところでした。
この本では、現場の真実を知り尽くしている自負のもと、さらに具体的に突っ込んでいきます。
生徒のみならず、教員にもカーストの高さ、低さが歴然とある、ときます。
 一般に、〈スクールカースト〉の最も高い教師は、〈父性型教師〉である。次いで高いのが〈有人型教師〉のなかで将来、〈父性型教師〉になるであろう若手・中堅の教師である。つまり、教師陣からも生徒たちからも、将来の〈父性型教師〉候補として目されるタイプの教師たちだ。次いで〈母性型教師〉、将来の〈母性型教師〉候補としての〈友人型教師〉と続いていく。
 しかし、これで終わらないのが教師集団の現実である。実は教師のタイプはれですべてではないのだ。この他に、自分では〈父性型教師〉だと思って生徒に不条理な厳しさを示す〈勘違い父性型教師〉、自分では〈母性型教師〉だと自己認識して生徒に接するものの、そのかかわりかぜ中途半端に終わり生徒たちからの信頼を得られない〈勘違い母性型教師〉、自分では〈友人型教師〉だと思って生徒たちに接しているが、生徒たちとほとんどまったくと言って良いほどに心を通わすことのできない〈勘違い友人型教師〉といった者たちがたくさんいるのである。こうした教師たちは、生徒たちから見て、〈スクールカースト〉が極端に低い教師たちということになる。(pp.193-194)
むむむむむむっ(唸っています)。
〈勘違い○○型教師〉のリアリティ、じんじん響いてきます。
きっと、ここを読んだ〈勘違い○○型教師〉は、きっと自分のことを「勘違い」のつかない〈○○型教師〉と思うんでしょうね、何しろ「勘違い」なわけですから。これが、教師集団が全体としてうまく成長していくのが難しいポイントなんでしょうね。それが「勘違い」であることがわからないような感受性の持ち主であれば現実にいい指導など期待できない、とはいえ、そもそも「勘違い」しているわけだから自覚するになかなか至らない、、、あああ。
またそういえば、私、あるいじめ問題に係る研修会に出て、講師の方が「児童生徒によるチーム戦としてのいじめと戦うためには、教員もチームとして強かにやらなければならない」とおっしゃっていたのを強いインパクトをもって記憶しています。
まず、現代のいじめが児童生徒たちによる、「個人戦」ではなく「チーム戦」であるということ。ここでいう「チーム戦」とは、複数が介在するというだけでなく、学級の単位であれば「傍観者」を含めてほとんどすべての児童生徒がそのいじめの関係者としている、ということ。
そして、そん複雑面倒な問題に対応するためには、関わる教員個々の観察力や対応力、腕力だけではどうしようもなく、「チームとして」かつ「強かに」対応する必要がある、ということ。「強かに」ということ、簡単には具体のイメージが出てきませんが、その目の前にあるいじめの構造分析に基づいた、具体的に事態を好ましい方向に動かしていく具体的な力、というものなんでしょう。
堀さんも末尾にこう語っておいででした。
 学校はもはや、チームで動かなければほとんど運営できない、そういう場になっているのだ。〈父性型教師〉だけではやっていけない。ましてや〈母性型教師〉や〈友人型教師〉だけでもやっていけない。の三者がバランス良く機能しなければ、いじめ指導はおろか、ごく小さな生徒指導さえ機能させ得ない、そういう場になってきているのだ。(pp.202-203)
文部科学省が「チームとしての学校」というものを提起しています。それらのメッセージにおいて、ある意味重なる部分はなくはないのですが、むしろそれらを発する危機感の認識においてレベルが違いすぎるようにも思います。
そう、「三者がバランス良く機能」する学校になるには、先に引いたような意味での「強かさ」を要するのは間違いないことでしょう。
ああ、心の震えが止まらないっす。
19 12月

池井戸潤『陸王』(三読目(^o^))

陸王
池井戸 潤
集英社
2016-07-08


日曜劇場「陸王」最終話を心から楽しむために、また読んじゃっている(@_@)
内容(「BOOK」データベースより)
勝利を、信じろ。足袋作り百年の老舗が、ランニングシューズに挑む。このシューズは、私たちの魂そのものだ!埼玉県行田市にある老舗足袋業者「こはぜ屋」。日々、資金操りに頭を抱える四代目社長の宮沢紘一は、会社存続のためにある新規事業を思い立つ。これまで培った足袋製造の技術を生かして、「裸足感覚」を追求したランニングシューズの開発はできないだろうか?世界的スポーツブランドとの熾烈な競争、資金難、素材探し、開発力不足―。従業員20名の地方零細企業が、伝統と情熱、そして仲間との強い結びつきで一世一代の大勝負に打って出る!
日曜劇場「陸王」を心から楽しんでいます。
私も、ランナーの端くれなのでいろいろとムリな設定があることも気になりますし、原作ではしっかりと作り込まれていた部分がドラマで雑に扱われているの気になりはしますが、「半沢直樹」をきっかけに池井戸潤をコンプリートし、「ルーズヴェルトゲーム」「下町ロケット」と、池井戸ワールド×日曜劇場を堪能してきた者としては、今回も、もう心から楽しんでいる次第です(一話につき4回観てるんです、本当に)。
そして、いよいよ今度の日曜日に最終話ということで、私は、原作としての『陸王』を先週土曜日から読み始めていて、今日、残すところ45ページ、543ページまで読み進めてきました。
本は、ここで、止めておきます。
ドラマと本とでもう立体感あふれる”陸王”の世界がそびえたっている私の頭の中に、最終章は、ドラマ『陸王』を一気に流し込みたいと思っています。
かつて、角川映画華やかなりしころ、「読んでから観るか、観てから読むか」というキャッチコピーがありましたが、私の読×観術は、そんな退屈な順序性を超越した、野蛮なほどに交響楽的な快楽の追求法、です。
こんな言葉だけ、拾っておきます。
「だけどな、これだけはいっておくぞ、宮沢さん。諦めたら。そこで終わる。なんだってそうだ。自分で終わりを決めるな。そんなものは単なる逃げだ」(p.479)
顧問・飯山さんの言葉です。
自分で決める終わりは、諦めであり逃げ。
あがく。
あがいていれば景色は変わる、景色が変わればやりようも出てくる。
ファイト。
12 12月

片田珠美『忖度社会ニッポン』



忖度するは我にあり(+o+)
内容(「BOOK」データベースより)
「森友・加計」学園問題で話題になった忖度は、相手の意向を推し量り、先回りして満たそうとすることである。忖度する人の胸中には、自己保身欲求や喪失不安、承認欲求や何らかの見返りへの期待などが潜んでいる。忖度がはびこる日本社会の根底に横たわる構造的問題をあぶり出す。
この方、近年ものすごい勢いで本を出されている方ですね。読む前にちょっとだけ調べてみたら、「トンデモ本」「トンデモ精神科医」と扱われているような感じもあって、なんだかなー、変な先入観込みで読み始めることとなりました。
ただ、今年の流行語大賞にも選ばれたこの「忖度」、あまりまともにその事実や現象について考えてみるようなこともなかった私にとっては、特別おおおっということが書かれていたわけではありませんでしたが、「忖度」をめぐる基本的な理解というものを整理する意味では、この本、まあそれなりの収穫はあったかな、と思います。
備忘録的に記しておきたいこと。
まずき、「忖度」に走る背景には諸相がある、というご指摘。
こんなふうに四つの層を挙げておいででした。
 ・自己防衛 ・恐怖 ・罪悪感 ・承認欲求
確かに。
この中で、私が興味深く読んだ箇所の一つに、いじめのいわゆる四層構造において自己防衛的「忖度」が蔓延している、ということがあります。
いじめの四層構造とは、いじめというものは、単に「加害者」「被害者」と両者で考えるべきではなくて、「観衆」と「傍観者」を含めて一つの構造が完結する、という考え方です。
さて、ここでは「傍観者」がポイントになるわけですが、識者の中には「傍観者」こそがいじめ問題を解消するために最も大事なポイントである、と指摘しているのをよく目にもします。彼ら彼女らが、なぜ許しがたいと心の中では思っている現実に対して目を背けていられるのかと言えば、まさに自己防衛的「忖度」によって、いじめの許容が自然と広がり、結果としてむごたらしい現実が浮上してしまっている、ということ。
う〜ん。
「忖度」なんていうと、いかにもおじさんの世界、それもエリートと呼ばれるような人たちの中でのやりとりと連想されがちですが、いえいえ、そんなことない、日本中に、老若男女にすくっているものなんでしょう。
その現実をさらにしんと受けとめさせられたのは、日本人特有の気質との関連性の中で「忖度」を論じている部分でした。
たとえば、同調圧力の強い日本、「空気」がすべてを支配する日本、ことが大切な日本、「察する」「言わなくてもわかる」「以心伝心」こそよしとする日本、まさに日本人の伝統的美意識と深く結びついた心性において「忖度」という振る舞いも見なければならない、ということです。
ちょっと面白い視点でした。流行語大賞みたいなところで面白おかしく取り上げられるべき言葉じゃないのかもしれない、とか一瞬思ったりしました。
この本に帰ろう。
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