henry_mania

時折書房

時折書房が目指すは定常開放系。コメント&TB大歓迎。

28 5月

みやすのんき『誰も教えてくれなかったマラソンフォームの基本』



「陸王」のサイラス・ジュイてんこ盛り(@_@;)
内容(「BOOK」データベースより)
子供の頃から何となくやってきた“かけっこ”と“陸上競技のランニング”はココが違う。本書はマンガ家ならではの独自の視点で“60の走るコツ”を徹底解説。読めば必ずラクに長く、そして速く走れるランニングフォームが身につく!

シンスプリントのため急遽ランoffにした日曜日、夢中で読み終えました。
ふーーーーーーーーっ。
前に読んだ『「大転子ランニング」で走れ! マンガ家 53歳でもサブスリー』の内容とほぼ重なるものだと思うのですが、一度読んだだけではすとんと理解できないようなところが多々あったということ、また、ケニア人ランナー・サイラス・ジュイさんの写真がきわめて効果的ということもあり、とっても収穫感の多い読書とあいなりました。
175cm 58kg。手足細長タイプ。頭を丸めていて日焼けして褐色。
だんだんケニア人化している私にとっては、日曜劇場「陸王」でおなじみのサイラス・ジュイ選手の写真の姿が、みやすのんき氏の語る大転子ランニングの奥義を丁寧にひも解いてくれている、そんな感じで読み進めることができました。
みやす氏、「あとがき」に「私がランニングフォームにおいて最も大切と思われる要素は3つです」といい、次のように語られています。
1)末端部分を意識しすぎない。股関節から足を動かすようにする事。大切なのは上肢帯と骨盤からなるブレない身体の軸と股関節筋群の動き。
2)末端部分を意識しすぎてはいけないが、接地と離地の丁寧さはマラソンで大事。着地で地面の反力を足裏全体で素直にもらい、ふくらはぎの筋腱スティフネスを使って推進力に繋げていく。離地で膝や足首で蹴るのは無駄でしかない。
3)たえずリラックスを心がけ、走る効率を意識する。マラソンの後半、疲れた時こそ頑張らないで、ピッチを維持してフォームの修正のみ意識する。力みは筋肉の硬直を生む。すなわち身体の巧緻性と俊敏性を奪ってしまい、ランニングエコノミーの低下につながる。(p.155)
ふくらはぎの筋腱スティフネス?
剛性(ごうせい、英: stiffness)とは、曲げやねじりの力に対する、寸法変化(変形)のしづらさの度合いのこと。力に対して変形が小さい時は剛性が高い(大きい)、変形が大きい時は剛性が低い(小さい)という。
まっ、いいか。
この三点、なかなかすーっと入ってこない。
というわけで、自分なりに、この本の中で使われていた言葉で、イメージしやすかった言葉を拾い集めてみることにしました。
「足は振り子運動ではなく上から回す」(p.40)
「地面とは喧嘩しないで友達になろう」(p.50)
「走行中の膝は常に曲がっている!」(p.71)
「着地時に素早く脛を前掲させる」(p.72)
「膝より下はただ置きにいくだけ」(p.102)
「着地した足はただ地面を真下に押す」(p.106)
「地面を蹴る意識ではなく『スーッと移動する』イメージ」(p.111)
「腕振りは回旋するのが自然」(p.122)
「マラソンは上半身が前傾姿勢である必要はない」(p.130)
「骨盤は前傾させるより大転子を前に出す」(p.136)
「低空で頭や腰の高さを変えずに走る」(p.138)
と、まあ、こんな感じでしょうか。
このイメージしやすかった言葉というのは、実際に自分が走ろうとするうえで大変リアルに迫ってきそうなもの、というものでもあります。
自分自身、フルマラソンで想像以上にうまく走れたことで、みやす氏の提唱するランニングエコノミーの改善というものを具体的にイメージできるところがじわじわと広がってきています。ここは、一気呵成に、ここに挙げたようなイメージを体に落とし込むようなトレーニングを続けていくことで、またまたランニングエコノミーの改革につなげたいものです。
あっ、今、故障してたんだっけ。
じわじわいきます。
19 5月

原美穂『フツーの主婦が、弱かった青山学院大学陸上競技部の寮母になって箱根駅伝で常連校になるまでを支えた39の言葉』



大学生に「奥さん」と呼ばれる、原監督夫人。
内容(「BOOK」データベースより)
子どもたちとパートナーのやる気と能力を最大限に引き出す「支える力」とは?
特に何もやることのない土曜日、図書館から借りて読まずにいた本が数冊ある中から選んで読んだのがこれでした。精神分析の対象となる選書でしょうか。
そして、時間はたっぷりあるのに、さらさらさらと一時間くらいで読み終えると、、、、感想といっても、特にないなあ。ちょっと妙な馴れ初めのシーンには、何となくクスリとできるような感じがあったかなあ。
ただ、そんなにインパクトがあったわけじゃないとはいえ、箱根駅伝4連覇の偉業を成し遂げるに、この「奥さん」の存在は相当に大きかったんだろうなあということは想像に難くありません。原監督のよさがよさとして機能しているのは、やはり、「監督の監督」たる監督夫人のなせる業だっんでしょうね。
この時期は大学長距離界のニュースもほとんど触れる機会もないのですが、水面下では熱いドラマが続いているんでしょうね。春の記録会の情報でも探してみようかな。
11 5月

みやすのんき『「大転子ランニング」で53歳でもサブスリー』



何だろう?この腑に落ちる感じは(^J^)
内容紹介
運動オンチで身体が弱く、当然、運動会の駆けっこもいつもビリが指定席だったマンガ家が10年前、フルマラソンに挑戦し時間オーバーで失格。その後、不摂生な生活で体重は増加、ついに85kgに。2014年、50歳を過ぎたところでくすぶった思いを糧に一念発起。55kgまで-30kgに及ぶダイエットも成功し、52歳で全マラソン競技者人口の3%未満といわれるサブスリーを達成した過程と、マンガ家ならではの奇抜な視点、 目からうろこのランニングメソッドを詳述して人気を博した『走れ!マンガ家ひぃこらサブスリー』から1年余、満を持しての第二弾。
「あの本で故障から立ち直れた、自己ベストが更新できた」と多数の読者からの成功報告に支えられて、2016年秋、練習を積み重ねて再びサブスリーを出した著者が、 今度は遅くから走り始めた人でもどうやって速く、楽に、長く走れるようになれるか秘訣を探求。 初中級者でも実践できる画期的なメニューからアプローチする。マンガ家ならではの豊富なイラストを満載。 解剖学的、物理学的にもわかりやすい納得の文章解説。 従来の「陸上経験者が教える本」とは一線を画した痒いところに手が届く、これからの新しいスタンダードとなる一冊。
身体に負担をかけずに走るには、骨盤の動きを理解する事が大変重要。固めず、動かす。しかし動かしすぎるのもよくない。 骨盤を正しく使うには、股関節にハマっている大腿骨の根元の出っ張りである狢臈昌勠瓩悗琉媼韻妨阿あった。 大転子にスポットを当て、世界のトップ選手なら誰でもやっている「体幹をねじらない、ひねらない」理想的なランニングフォームのノウハウを余すことなく大公開。
これであなたも10km、20km、30km、フルマラソン…そして目指せサブスリー!
■第1章 間違いだらけのランニング意識に「喝! 」
■第2章 2015年シーズンから2016年シーズンにかけての意地と維持の戦い
■第3章 大転子ランニングのススメ
■第4章 糖質?脂質?ケトン体?悩めるランナーのダイエット
前から気になっていた本だったのですが、これの前著である『走れ!マンガ家ひぃこらサブスリー』を書店で立ち読みしたときには、その言わんとするところがすーっと入ってこなくて、敬して遠ざかったままだったのですが、今回は、こちらの方を図書館本で何となく読んでみた次第です。
で。
いいです。
腑に落ちる感じが他の類似本と違います。
どこが?
・・・・・・・よくわかりません。ただ、一読して、これはもっとしっかり読みたいと感じ、すぐさまAmazonで購入してしまいました。
一つだけ確かなこと。
ご本人もご自身のストロングポイントとして挙げられていることですが、「私はどうしたら速く走れるのかが頭で゜理解できており、その一つ一つのポイントが文章化されている」(p.102)というところにその理由があるのは間違いなさそうです。
学校教育においても、もともと勉強ができた人の学習指導って、特にどう何をやって力がついたかというプロセス感覚が自分にないものだから、「こうやれば力がつく」という方法論に関して、意外にその実感を持てていなかったりするものです(私の教員としての強みは、できなかったけどこうやったらできるようになったという、その経験にこそありました(笑))。
みやすさんの筆致にみなぎる確信は、ある程度年をとってからランニングを始めて、それも意識的に試行錯誤を重ねてたどり着いた、というその自覚的かつ緻密なプロセスこそがつくりだしているんでしょう。
みやすさん、ランニングの極意として、「巧緻性」というタームをお使いになります。
巧緻、精巧で緻密であること。
つまりは、理にかなった走りができているかどうか、でしょう。
その点に関しては、私も、五十歳過ぎてから走り始めて、度重なる故障を経験して、何とかせねばと追い求めてきたものに違いありません。そして、どこまで言語化できているかは怪しいのですが、自分の中で確信に近いイメージはできつつあり、実際の走りについても、少しずつそれを目指している最中、です。
そんな私にとっては、ものすごい具体性に富むエールが無数に転がっている一冊でした。
・・・速い選手はどうやって走っているのでしょうか。彼らは股関節の屈曲と伸展しかやっていないのです。足首や膝には一切、能動的な力は入っていないのです。股関節だけで走っているのです。力の単純化です。人間の身体は「テコ」の集合体といえますが、その力点、支点、作用点をなるべく単純化させるのです。・・・物理学的にはテコの原理で関節に近いところを作用線が通るようにすれば、足首や膝は筋力をあまり使わなくて済むので、それは筋力ではなく、単なる力を伝達する物質になるのです。・・・ケニアやエチオピアのトップ選手がみな膝から下をただ「置きにいっている」のはそういう理由なのです。(pp.119-120)
「膝から下をただ置きにいく」ほんと、そんな感じですよね。
私も、真下着地をイメージして、それが何となくできていると感じるときの、足が気持ちよく回転運動に組み込まれて、どこにも力を入れていないのに気持ちよくペースを上げて走れるあの感覚を、この数か月、経験し始めていたところです。
それを、みやすさんは、「股関節の屈曲と伸展しかやっていない」「力点、支点、作用点をなるべく単純化させる」という表現で語っていらっしゃる、、、う〜ん、正直、このあたりの言葉は、まだすとんと落ちる感じはしないんです。ただ、再三読しつつ実地にいろいろとイメージをもった練習をしていく中で、あっ、そうか、となるときが来そうにも感じるのです。
また、最近気になっていることに、あらためて希望の光を注いでもくださいました。
 猫背で頭が下を向いた、骨盤の後傾したとぼとぼジョグは、大腿四頭筋とふくらはぎの腓腹筋が発達します。
 それに対し大転子ランニングは、どこの筋肉を使うようになるのでしょうか。そうです、お尻です。足は骨で支えられるので、棒のようにドンドン細くなっていきます。日頃、ペソッとした垂れ尻に悩んでいる女性の方は多いと思います。パンツやスカートを穿いても、お尻の盛り上がりがないので情けなく映ってしまいます。大転子ランニングでお尻の筋肉が使われ始めるとお尻がプリプリし始めて、特にお尻の上の筋肉が発達してピッチリしたパンツを穿いても、ミニスカートからのぞく足もすごくスタイルがよく見えるようになります。当然、長時間のランニングでも疲れませんし、健康的にスラリとしたきれいな足になります。(pp.129-130)
最近、トイレに入る度に、自分のお尻の上側部の筋肉の付き方がたくましくなっていることを実感しておりました。それに、先日走ったときに股関節からお尻にかけての違和感を覚えたりもしていて、私の最近の関心パーツはお尻から股関節にかけて、だったのです。
私のふくらはぎはもともと細く、いくらランラングをしても固くならないのです。
かつては、どうしてだろう?と思っていたのですが、最近は、これでいい、いや、これがいい、のかも?と思っていたりもします。
大転子ランニングの奥義、時間かけて、走りと併行させて、勉強します(^J^)
17 4月

松浦弥太郎『それからの僕にはマラソンがあった』



チャレンジへの意志。
内容紹介
疲れ果てたある日、松浦さんは衝動的に走っていた。日々のランニングによって何か変わったか。走ることが届けてくれた人生の処方箋。西本武司との対談収録。
走ることって、走ることを習慣的に確立してしまった者にとって、何だか特別なこと、なんですよね。
この本なおいても、著者の、そんな思いがひしひしと伝わってきました。
ただ、私が感じているものと、重なるところは多々あるものの、その中心がぴたりとこない分、ひしひし感も何となく上滑りするようなところがあり(すみません…)、う〜ん、そんなふうに、それぞれの思い入れの中心が微妙に食い違ったりするのも、「走ることって何だか特別」という所以なのかなとも感じました。
西本氏との対談の中での、西本氏の言葉を引いてみます。
西本 ・・・中年になってからマラソンにはまる人が多い理由のひとつに、気力も体力も落ちたような気がしてたけど、「俺って捨てたもんじゃない」という、自分の可能性を信じていたいという気持ちが根底にあるような気がします。(p.103)
この本の巻頭に「走ることとはなんだろう−−その答えは、『チャレンジ』なのだと思う。」という言葉がありましたが、この本を読んで、私は、松浦さんがそう言っている「チャレンジ」を、あまり感じられなかったのかもしれません。私にとっても、ランニングとは何かと問われたら、それはチャレンジである、とか言いそうです。
そう、そのチャレンジとは、まさに、西本氏が言うところの、「自分の可能性を信じていたいという気持ち」に与えた名前、のような気がしていました。
タイムとかだけの問題ではありません。
いろいろな意味での可能性が開けていく感触が、ランニングには、あります。
それは、人間そのものの練磨、というレベルすら含むものです。
チャレンジ&チェンジ。
24 3月

三羽省吾『刑事の血筋』

刑事の血筋
三羽 省吾
小学館
2018-02-13


三羽省吾って何者なんだ?!
内容(「BOOK」データベースより)
キャリアの兄とノンキャリの弟は、刑事だった父の汚名を雪げるか?プロの読み手も激賞!青春小説の旗手、初の警察小説!
へーーーー、こんな小説書く人なんだっけ、みたいな感じでしたね。
・・・と、思って、これまで読んだ三羽さんの作品の感想を見てみました(私のこのブログを読み返してみた次第です)。
すると、私は、三羽作品に「漢方薬文学」と名付け、また、三羽さんをして「『重松清』を自覚しない荒削りな『重松清』」などとイメージしておりました。またま、ある作品を読んで「スタートから何となく私のイメージにあったのは、漱石の『坑夫』」などとも。
数冊をたて続けに読んで、あっさりと十名限定の「お気に入り作家」にinさせていたんでした、忘れていました。
・・・というところからすると、このドラマ、これまで私を熱くさせていた三羽さんの感触はあまりなかったと言わざるを得ません。引きこませるだけの筆致は感じました。でも、漢方薬も、重松清も、坑夫も、醸し出されはしませんでしたね。ちょっと単純な枠組みにおさまるメロドラマすぎる印象。
三羽さん、すみません、次回作に期待します。
19 3月

山極寿一『「サル化」する人間社会』



ゴリラ社会とサル社会の間で。
内容紹介
「上下関係」も「勝ち負け」もないゴリラ社会。厳格な序列社会を形成し、個人の利益と効率を優先するサル社会。個食や通信革命がもたらした極端な個人主義。そして、家族の崩壊。いま、人間社会は限りなくサル社会に近づいているのではないか。霊長類研究の世界的権威は、そう警鐘をならす。なぜ、家族は必要なのかを説く、慧眼の一冊。
・ヒトの睾丸は、チンパンジーより小さく、ゴリラより大きい。その事実からわかる進化の謎とは?
・言葉が誕生する前、人間はどうコミュニケーションしていたのか?
・ゴリラは歌う。どんな時に、何のために?
その答えは、本書にあります。
●本書の目次
第一章 なぜゴリラを研究するのか/第二章 ゴリラの魅力/第三章 ゴリラと同性愛/第四章 家族の起源を探る/第五章 なぜゴリラは歌うのか/第六章 言語以前のコミュニケーションと社会性の進化/第七章 「サル化」する人間社会
2018.3.11。
あれから7年ですか。
私たちはどこへ進んでいるんでしょう・・・・・・
というわけで・・・というわけでもないのですが、京都大学総長で霊長類研究の世界的権威でもある山極先生によるこの社会、この時代への警鐘に耳を傾けてみようと思った次第です。
山極先生、冒頭でこうおっしゃいます。
 私は人間の人間たるゆえんは「家族」にあると考えています。
 家族というのは、私たち人間にとってあまりにも身近で当たり前の存在ですが、動物全体を見渡してみると、人間のような家族を持つ種はありません。たとえば鳥はつがいで仲良くします。オオカミは夫婦で子育てします。サルだって、一見、人間の家族に似たような群れを作っていることがあります。
 しかし彼らのつながりは一時期のもので、多くの場合、繁殖行為をきっかけにしてつがいになり、子育ての期間にのみ限定的にペアになります。それに対して、人間の家庭は、一生涯にわたって続きます。
 人間の家族という集団は非常に特殊なもので、不思議な集団です。(p.6「はじめに」)
人間の人間らしさ、人間の人間たる所以について、いろいろな立場からいろいろに言われたりもするわけですが、霊長類研究の山極先生は、家族という切り口から人間の本質を考えていきます。
そして、ゴリラの社会に自ら生身の体で踏み込んでいって調査を重ねつづけられた山極先生から、ゴリラとサルの社会性の差異について明快な分析が行われます。
 調査を始めて一か月くらいで、私はだいたいゴリラの感情が読み取れるようになりました。しかし私が彼らを理解する以上に、ゴリラのほうが私の感情をきちんと読み取っているはず。ゴリラは人間の気持ちを読むことにかけては名人なのです。これもサルと違うところです。サルは、人間の気持ちを忖度しません。
 ゴリラとサルに見られる違いは、知能の違いではありません。社会性の違いです。サルは厳密なヒエラルキーのある社会に生きているので、自分と相手のどちらが強いか弱いかで態度を決めます。立場の優劣でとる態度が決まってくるのです。だから相手の表情を読む必要がないのです。
 一方、ゴリラは優劣のない社会で暮らしていますから、優劣は態度を決める判断材料になりません。ゴリラは相手が何をしたいのか、自分が何を望まれているのかを汲み取り、どういう態度をとるべきかなのかと状況に即して考える。相手をじっと見て、何をしたいのかな、と考えるのです。
 つまり、ゴリラには共感能力があるのです。相手の目を見つめるということは、相手の気持ちの中に入り込むということ。その能力がゴリラ同士の関係性や社会を形づくっているのです。(pp.61-62)
このように両者の差異というものを考えていると、われわれ人間はどうなんだろうという疑問が自然と頭をもたげてきます。どっち?というよりは、どちらの要素もわれわれ人間は色濃く持っているし、というか、地域や時代等によってその濃淡が分かれていくようなところもあるだろうし、何となくぞくぞくっとくるところです。
山極先生のこの時代、この社会に対する警鐘は、人間の、ここでいうゴリラ的×サル的の問題として明示されます。
・・・現在、家族の崩壊ということがよく言われます。家族という形態が、ひょっとすると現代の社会に合致しなくなってきているのではないか。そんなふうにも思えます。家族は、人間性の要とも言える部分。また、人間社会の根幹をなす集団の単位てせす。そこに変化が起き始めていることについて、私たちはどう考えればいいのてしょうか。
 改めて家族というものを定義してみると、それは「食事をともにするものたち」と言うことができます。どんな動物にとっても、食べることは最重要課題です。いつどこで何を誰とどのように食べるか、ということは非常に重要な問題です。
 そして霊長類の場合、なかでも「誰と食べるか」が大事なのです。ともに食べるものをどう選ぶか、その選び方で社会が作られているからです。
 人類の場合は、食を分け合う相手は基本的には家族です。何百年前もの間、人類は家族と食をともにしてきました。家族だから食を分かち合うし、分かち合うから家族なのです。しかし、その習慣は今や崩れかけていると言えます。
 ファストフード店やコンビニエンスストアに行けば、いつでも個人で食事がとれてしまいます。家族で食べ物を分かち合わなくても、個人の欲望を満たす手段はいくらでもあります。家族でともに食卓を囲む必要性は薄れ、個人個人がそれぞれ好きなものを好きなときに食べればいい時代になっています。この状態は、人類がこれほどまで進化したことの負の側面とも言えるでしょう。
 コミュニケーションとしてあったはずの「共食」の習慣は消え、「個食」にとって代わられつつある。食卓が消えれば、家族は崩壊します。人間性を形づくってきたものは家族なのですから、家族の崩壊は、人間性の喪失だと私は思います。そして、家族が崩壊すれば、家族同士が協力し合う共同体も消滅していかざるを得ません。
 もちろん、家族やコミュニティという形態そのものが今すぐに消えてなくなるわけではありません。政治的な単位、あるいは経済的な単位としては、今後も長く残り続けると予想できるからです。
 では、家族が崩壊してしまったら、人間はどう変化していくのでしょうか。
 そうなれば、人間社会はサル社会にそっくりなかたちにかわっていくでしょう。そしてその変化は、もうすでに始まっていると私は感じています。(pp.156-157)
とてつもなく長い引用ですみません。この本は、私にとっては、本当に新鮮でかつ学びの多いもので、確信犯的に多量の引用をしてしまっています。
人間社会のサル化という問題がここに鮮やかに提起されています。
「人間性の要とも言える部分」である家族が変容している。家族を「食事をともにするものたち」と定義してみたとき、その変容は紛れもないかたちとして露呈し、それこそが、人間がかつてもちえていたゴリラ的という家族の在り方を喪いつつあるということである、と。
前に高校の教科書に掲載されていた、今村仁司さんの「市民社会化する家族」という評論を読んでぞっとしたことがありました。人間はアトム化する方向に確実に進んでいて、その先には、今とは確実に違う社会が訪れる。。。。でも、それを読んでいた十数年前の私には、特別な危機感など芽生えもしませんでした。そんなこともありえるかなあと、説得力のある論調に、そう思わせられてはいましたが。
ところが、2018年の春(+o+)
森友問題が再浮上してグロテスクなまでに不様な政治劇場に辟易する私たちは、もうすでに東日本大震災後を7年間も生きていて、世の中のおぞましさというか、日本の能天気なほどの底の浅さというか、実はこの社会はまっとうな基礎基本の上に成り立っているわけでは決してないんだということがばればれになってしまっている白けた感じというか、そんな空気感の中で生きている者として、本当に背筋が寒くなるような近未来予告として、山極先生の言葉は響かざるを得ません。
今、山極先生による『京大式 おもろい勉強法』という本を読んでいます。
おもしろいです(「おもろいです」とは言えない、私には)。山極先生のような知、インテリジェンスが今の時代には絶対に必要だと感じます。

◎備忘録的に他の引用部分も残しておきます。

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12 3月

原晋『1日10分走る青トレ』

1日10分走る青トレ
原晋
ゴルフダイジェスト社
2017-11-02


「脚を上げる」から「脚が上がる」へ。
出版社からのコメント【担当編集者からのオススメ情報! 】
著者・原監督自ら1500mに挑戦し、2ヵ月で8キロのダイエットに成功。不健康だった担当編集者と編集協力者も、1日10分のランニングを3ヵ月間、3日に一度続けただけで健康的なカラダを取り戻しました!
ランニングはどれだけ続けられるかが肝心です。「走ることの楽しさ」を原監督と青学の選手たちに学ぶことで“1500mじゃ物足りない、もっと走りたい"という気分になれます。
青学のスター選手たちのランニング写真(カメラ・野村誠一)も満載でフォームをマネすることから始められるのも楽しいと思いますよ!
何といっても「走る青トレ」です。
走る青トレとは?
走る青トレは、走りに使う関節の可動域を広げ、走るための筋肉を温め、動きやすくするトレーニングだ。それを準備運動に取り入れれば走りのパフォーマンスが高くなるのはもちろん、ケガや故障の予防にもつながる。(pp.72-73)
こんなふうに説明されてはいるのですが、私は、「走る青トレインタビュー」で田村和希選手(4年)が語っていたこんな言葉にこそ、そのポイントがあると感じました。
・・・春先から故障に見舞われ、思うような走りができなくなっててしまいました。そこで、普段の練習のほか、トレーナーの方のスタジオに通いアドバイスを受けながら、自分にあったトレ―ニングをしてきました。その内容を説明するなら、「いい姿勢をつくる」のではなく、「自然といい姿勢になる」トレーニングといったらいいでしょうか。(pp.67-68)
「いい姿勢をつくる」のでなく「自然といい姿勢になる」ようにするトレーニング、それこそが「走る青トレ」だというのです。
実際、ランナーの端くれとして、自分のフォームや走りに課題があって、それを自覚していても、そう簡単に解消、克服できないものだということを痛感しています。
「走る」という動作と「走りを矯正する」という意識が同時進行でなかなか進まない。
それに対して、「走る青トレ」を適切に行いつづければ、特に矯正の意識を持ち込まなくても、自然と走りが矯正されていくという、、すごい。
「走る姿勢を身につける」という章には、「S字ライン」「FGライン」「走る呼吸」をはじめ、「胸を張る=凧に引っ張られるように胸を前に向けるとスピードが得られる」(pp.40-41)「お腹で走る=いい姿勢といい走りは『コア』にかかっている」(pp.44-45)といった非常に説得力のあるキーワードが並んでいました。
特に「胸を張る」というのは、最近自分でも意識していたポイントでした。
さらに、「走る青トレ・続」の章でも、非常に走りにダイレクトに響きそうな走りの改善のポイントが示されていました。並べてみます。
軸を作る=肋骨から骨盤までをコアの鎧で固定する」(pp.74-75)
腰が乗る=腰がしっかり両足に乗る意識を持つと、自然と上半身もしっかり腰に乗る。ケガや故障を防ぐ、カラダの土台を作り上げよう」(pp.76-77)
腰を折らない=スピードに乗り、勝手に前にいくのが理想の前傾姿勢」(pp.78-79)
腕を振らない=腕の振りがスムーズな走りがスピードにつながることは間違いない。腕が勝手に振られるコツを覚えよう」(pp.82-83)
脚の回転力UP=足の回転は蹴りの強さと、足の上げ下げのスピードだ。地面を強く蹴れるから、そのエネルギーで足もひざもももも素早く高く上がる。高く上がった足は、再び着地して地面を強く蹴る」(pp.90-91)
ストライドUP=全身の伸縮を使って、ストライドを伸ばす」(pp.94-95)
これまで抱いていた走り改善のポイントをしっかり整理できたような気がします。
そして、もう一つだけ、得難い学習の視点がありました。
最後に「走る青トレインタビュー」の下田裕太選手(4年)の言葉を引いておきます。
 唯一、意識するとしたらケイデンスです。(略)ボクが意識するのはこのケイデンスの数値と、それをキープすること。どんなにスピードを上げても、このケイデンスだけは変えないように意識します。これはジョギングのようなゆっくりとしたランニングであってもできれば同じケイデンス。スピードは歩幅で変えるのであって、同じリズムを意識すれば速く、長く走ることにも、ランニングを楽しむことにもつながるとぼくやは思います。(p.21)
私自身、最近こだわり続けていたのがケイデンス=ピッチでした。
事実、ケイデンスの改善が走りの改善に直結しているという感触を得られていました。
ただ、私の場合、キロ5分で走るときと、キロ4分30秒で走るときを比べると、どうしてもケイデンスに5spmほどの差が出るのでした(ペースが上がるほどケイデンス=ピッチも高い)。そして、そのことを、自分でも意識しつつあったところだったのです。
下田選手のはっきりとした言葉に、あらためて、ケイデンス=ピッチの改善に向けて真剣に取り組もうというモチベーションをもらいました。
スピードは歩幅で変える(^_-)-☆
10 3月

増田明美『カゼヲキル 3 疾走』

カゼヲキル(3)疾走
増田 明美
講談社
2008-07-31


マラソンへ、時間は積み重なる。
内容(「BOOK」データベースより)
オリンピックへの道、そのすべてがここにある!2時間20分というレースのために、積み重ねられた時間は、10年以上。経験者ならではの渾身のリアリティで描きだす、迫真マラソン小説。
この「3 疾走」後半を通勤の地下鉄の中で読んでいたとき、ううううっ(?_?) ぐっとくる場面に出くわし、思わず涙があふれてきてしまいました。
いやあ、山根美岬さんの10年ちょっとにわたるランニング人生、楽しませていただきました。
全体的な感想としては、重要なレースについては、もっと紙幅を割いて丁寧な描写をしてもらいたいなあという不満が何度かありました(それこそ「細かすぎる解説」をしてほしかった(+o+))。あらすじを追いかけていくような淡々とした感じ、それが不満といえば不満なのですが、それを実行したら、きっとこの小説は10巻くらいになったことでしょう(それもよかった、ような)。
ただ、山根美岬の中学時代から実業団時代までを、農業に勤しむお父さんと視線を共有するような気持ちで、付き合わせていただきました。
増田明美さんの増田明美さんらしい筆致がいたるところに感じられて、小説を読む、というよりは、ランニング、マラソンを感じるというか味わうというか、そんな時間を過ごすことができました。
増田さん「あとがき」にこんな風に係れています。
 この物語で私が一番伝えたかったことは、マラソンで五輪や世界陸上などのスタートラインに立つまでに少なくとも十年以上の歳月がかかるということです。レース中に紹介されるのは、"今"の選手の姿ですが、そこに至るまでの遠い遠い道のりを描きたいと思いました。選手たちの地道な努力の積み重ねの日々。また、目標達成のために精進する選手を支え続ける、監督やコーチ、チームメイトやライバル、家族のことも。(pp.252-253)
よくわかります。
その「十年以上の歳月」は、ただ時間的に「遠い遠い」だけでなく、そして、決して平たんな道のりではなかった。
大きな故障が二度美岬を襲いもしました。
私のランニングの師匠は、三浦しをんさんが大学駅伝のドラマを熱く描いた『風が強く吹いている』の感想として、「・・・必ず起こってくる故障もほとんど誰にも起こらないし‥あ〜。という思いが強すぎて私は物語に入りこめなかったんです」とコメントくださったことを思い出しました。
そうですね。
故障抜きにランニングは語れません。
いや、挫折抜きにランニングは語れない。
走る力は生きる力、生きる力は走る力。
増田さんの、体と神経をすり減らしながら走った経験のある増田さんだから書けた小説だったんでしょう。
最後に、ひとつの言葉を引いておきます。某実業団の監督さんの言葉です。
「トレーニングは、前よりもさらに強くなるためにやってるだろ? 体をその都度リフレッシュしてしまうとダメなんだ。疲れている状態で積み上げていくからこそ鍛錬になり、強くなるんだぞ。がんばれよ」(p.153)
私、最近、このことを感じていました。
私は、五十半ばという年齢も考慮し、「体をその都度リフレッシュ」させすぎていたのかな、と。無理をしたらいけないし、でも、無理をしないと強くなれないのが、ランニング。そのぎりぎりの見極めを確実に行うには、マラソンを知り、そして、己を知る必要がある。いい勉強をさせていただきました。
増田さん、ありがとうございます。
9 3月

増田明美『カゼヲキル 2 激走』

カゼヲキル(2) 激走
増田明美
講談社
2013-08-09


恭子と美岬の高校時代。
内容紹介
長距離走の世界へ一歩足を踏み入れた美岬が、けがによる挫折を経てたどりついたのは、「やっぱり走りたい!」という強い気持ち。ライバルの恭子への闘争心がますます燃えあがる「激走」編。オリンピックと併走する、増田明美のマラソン小説。経験者ならではの渾身のリアリティ!
「2 激走」を読み終えていました(先週の日曜日に車の修理をしてもらっている間に一気に読み進めていました)。
淡々と進みます。
メロドラマとして盛り上がりそうなところも、むしろ語りすぎるようなこともなく、ストーリーがさらさら流れていきます。
「2 激走」は、美岬が高校に進学し、宿命のライバル・恭子の後輩として、いろいろともがきながらも成長を遂げていく段階です。
さて、場面一つ、残しておきます。
美岬が、高校駅伝で、自分が重要区間である一区にもアンカーにも選ばれなかったことに納得がいかず、沢森監督に質問をした場面です。
「駅伝はな、前のランナーから思いを受け取り、次のランナーへ思いを伝えるもんだろう?」
「はい」
「でも一区は前のランナーがいないから、みんなの思いがつまったずっしりと重い襷を動かし始めなきゃいけない。スタートでの出遅れはみんなに迷惑をかける。それがすごいプレッシャーになり、の前の晩なんて眠れないやつも多いんだ」
 美岬は黙って沢森の話に耳を傾けた。
「アンカーは襷につまった全員の思いをすべて受け止めなければいけない。思いを託せる次のランナーはいないんだ。ゴールという結果だけが待っている。お前にはまだ、一区やアンカーを走れる精神力は備わっていない! 今のお前はただ速いだけだ。ちょっとテレビに映って、ふわふわした気持ちでいるんなら、控えにまわすかもしれないくらいだ!」
 その言葉は美岬の胸にナイフのように突き刺さった。速さを求めて努力してきたのに、速いだけだ、と言われた。自分のこれまでの努力をすべて否定されているように感じてしまった。
「でもな、山根」
 沢森の口調は優しくなった。
「わたしは一区と二区の一〇キロをひとつの区間として考えているんだ。青井と山根で一〇キロちょっと、二人で走ってほしいんだ」(pp.214-215)
「3 疾走」まで読まないと、この沢森監督が暗示したドラマの味わいはわからないのですが、ただ間違いなく言えるのは、美岬のランナーとしての成長というものが、まさしく人間としての成長、成熟とともにあることです。
走る力は生きる力。
さあ、「3 疾走」で、JAPANのユニフォームをまとった美岬の晴れの舞台を楽しむことにしよう。
4 3月

藤原和博『10年後、君に仕事はあるのか?』



奈良市立一条高校の藤原和博校長のメッセージ。
出版社からのコメント
本書には、著者が現在勤める奈良市立一条高校で、生徒や先生、そして40代、50代の保護者たちに語りかけている、 10年後(2020年代)の近未来の姿とその対処法をキッチリ盛り込まれています。藤原先生の決定版といえる内容です。
現在奈良市立一条高等学校の校長を務めていらっしゃる藤原和博先生の、中高生や大人たちに向けてのメッセージが詰まった一冊でした。
これまで藤原先生のさまざま提起に対して(ある程度は)真摯に向き合ってきたという自覚のある私にとっては、高校という新しいステージでも確信をもって教育改革を実践しつづけていらっしゃる藤原先生の大変具体的で実際的なメッセージに、大いなる刺激をいただくことができました。
実際問題、藤原和博氏がこれまでニッポンの教育において投じてきたムーブメントは、ようやく国レベルの動きになりつつある、とも言えるわけです。
氏は、かねてから、情報処理能力の育成に偏っていたニッポンの教育に、情報編集能力の育成というニューフェーズを創り出す必要性をずっと発信してこられました。「よのなか科」という試みのみならず、新しい教科編成の提案まで飛び出すものでした。
面白い記述がありました、こんなところです。
・・・僕が40年にわたる社会人生活のなかで観察した結果から言うと、総合力として情報編集能力の高い人の見た目の特徴は、次の2点です。
  嵳靴咫廚あってイマジネーションが豊か
 ◆崟鑪性」がある
 この2つを満たしていれば、「仕掛ける側」に回れるのです。・・・
「仕事ができる人」「打つ手が当たる人」「人望がある人」「予測が的中する人」「リーダーシップのある人」「マネジメントがうまくいってる人」「業界のイノベーターだと周囲も認めている人」「実際に現代社会を動かしている人」……そして何より、自分が切り開いた分野で「自分の人生を主人公として生きている人」に共通する特徴でもあります。(pp.112-113)
ニッポンの教育がこれから真剣に育成していかなければならない情報編集能力の、その高い人の見た目の特徴!
「遊び」と「戦略性」ですか。
確かに、これまでのニッポンの教育において、「遊び」も「戦略性」も、どちらもあまりまともに向き合っていなかったというか、積極的に評価してこなかったもののように思います。むしろ、邪魔もの扱いしていた面があったと言えるかも。
この視点は、学校教育の今後を展望しようとするなら、結構有効な視点のような気がします。
そして、藤原氏、AI時代が進行しても、教員は欠かせない、なくなってはいけない存在であるということを、独自の視点から説かれます。
・・・仮にある種の感性をも獲得したAIロボットが先生となって、ブレストやディベートを進行できるようになったらどうでしょう。つまり、2030年代くらいに、僕がやっている「よのなか科」でさえも実施できるAIロボットができちゃったら……。
 僕はそれでも、教員は生き残ると思うのです。
 なぜか?
 教えるマシンとしていかにロボットが完璧になったとしても、学ぶ喜びを教えることはできないだろうと考えるからです。君もそうだと思いますが、子どもって、教えてる大人というよりも、学んでる大人から多くを学ぶものなんです。・・・
 先生たちの「学ぶのが好き!」というオーラが、波動のように子どもたちに共振していく。教育とは、伝染・感染なんだと思うのです。(pp.149-150)
昨日とりあげておいた鷲田清一さんのことばが蘇ります。
子どもは大人が口にする言葉をまっすぐに聞くのでもなければ、そのふりをただまねるのでもない。その姿、その佇まいを、後ろからしかと見ている。生きるうえでほんとうに大事なことは、こういう姿、こういう佇まいをつうじてこそ伝わってゆく。
伝染・感染としての教育。
新しい学習指導要領が姿を現し、「主体的・対話的で深い学び」が標榜され、児童生徒が主役という部分が強調されています。それ自体はとてもいいことです。でも、だからといって「大事なことは教えない教師」が、これまで以上に仕事をしなくなっていいはずがない、これまで以上に、ファシリテーターやコーチ、メンターとしてのスキルを高めるとともに、すてきな感染・伝染を広めるために力を尽くさなきゃならないんです。
藤原校長先生の任期は確かこの3月まで、でしたよね。
次に、どんな冒険をなさるんでしょう。

また、他にも何カ所か、備忘録的に引用しておきます。

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