おやすみ、こわい夢を見ないように

内容(「MARC」データベースより)
憎悪は愛の裏返しってこと? それとももっと気まぐれなもの? 新婚夫婦、高校生カップル、同棲中の恋人たち。あなたの気持ちをざわざわとさせる、衝撃的な7つのドラマ。
 壊れていたパソコンようやくなおりました。はあ。
 さて、角田作品でまだ読んでいない小説を見つけたときはヤッホーと喜んだのですが、読んでみると、予想を大きく上回るヘビーな感じに、ぐったりとしてしまいました。かといって、それは、期待を裏切る駄作だったというのでは決してなく、むしろ逆に、『空中庭園』を、その脂っこいところだけ煮詰めて短編にしたようなものをズッドンズッドーンと七つも並べられたら、いくら角田マニアを自任する私としても、安穏と「さすが角田さん」とは単純にいかないですね。それくらい、ニッポンの家庭の脆弱さが、喜劇も悲劇も通り越して、ただただ気味悪いくらいのリアルさでもって迫ってきました。冷静に振り返りたくないな・・・普段自分が直視することを無意識裡に避けていた現実を、「さあさあ、ちゃんと目をしっかり開いてみなきゃタダメなのよ!」と無理矢理引っ張ってこられて、ああ、もう勘弁してください、すみません、すみません、というような、というか、作品のタイトルに反して、「こわい夢」でも見ざるを得ないような不吉な予感を抱かせてくれるほどの凄みを感じました。
 この短編集のそれぞれの作品をつなぐ最大の要素は、家族間や夫婦間や恋人間、友人間に漂う、憎悪なり怨みなり呪いなり、とにかく、濃―いネガティブな感情、でした。
 たとえば、夫婦ドラマと親子ドラマの交差点。
・・・翠は、長く抱えていた疑問のひとつがすらりととけるのを感じた。なぜ母は自分のせいで父が死んだと思ったのか。あの日父が普通に家を出ていくその直前、きっと母は父とささやかな諍いをしていたのだ。いや、諍いをするまでもなかったかもしれない、母はおそらくひどく日常的に、平穏に、そのとき父を憎んでいたんだろう。いつも口にしていたいってらっしゃいを言わなかったのかもしれない、靴下はどこだという父の問いを無視したかもしれない。いつもどおり父が玄関をでたあとで、今に別れてやるとか、顔も見たくないとか、くたばっちまえとか、明日には忘れるはずの罵りの言葉をつぶやいたかもしれない。・・・それなのに、憎しみだけを宙ぶらりんに残したまま、くりかえしは途絶えてしまった。父がいなくなってみれば、なんの役にもたたない、なんと馬鹿馬鹿しい憎しみ。母は、自分の生へ向けてでも父の死へ向けてでもなく、ただ、理由をなくしたその憎しみに向かって食事を作り続けたのではないか(pp.74-75)
 長い引用になってしまいました。あまりの長さに途中「・・・」と削ってしまいはしましたが、抜き差しならぬリアリティが臭い立つような、何か息苦しさを覚えてしまうような、筆致でした。
 憎しみ。その多くは、空を切ってしまったり、言った本人に逆に照射されてしまったり、どこに何ものも生産しなかったりするものなのでしょうが、人が人である以上なかなか避けきれない感情、行為。ただ、その感情、行為も、憎む対象に何かしらの意味が届いてはじめて何かしらの存在意義が認められるもの、なんですね。何だか、人間の根源的な切なさのようなものを、この母親に感じてしまいますし、そして、そんな思いは、ちょっと頭をごろごろさせれば、いとも容易く自分自身にも跳ね返ってくるようにも思えて、今度はぞっとしました。
 こういう角田さんの筆致を、多くの読者の方たちは「毒」といった言葉で語られることが多いようですが、もしこのディスクールが「毒」だとして、この「毒」は何も「悪意」を意味しはしません。むしろ、作家としての「才能」であり「誠実さ」であるように思います。「角田さんの大ファンだ」と名乗る場合、もっと慎ましやかに語ろうと自分に言い聞かせて、今日はこのへんで終わります。