水曜日の神さま
あえて角田さんの亡き父の話について。
内容(「BOOK」データベースより)
「旅をすれば小説が書ける」と信じて10年。ところがある日、小説が書けなくなった。さあ、どうする?!書くこと、旅すること。
 旅がテーマのエッセーですが、私には、最後のところにとってつけたように並べてあった家族にまつわるエッセーが実に味わい深いものとして残りましたので、そちらから引いていきます。
 高校時代にお父さんを亡くされた角田さんは、「父が死んだとき、私は父がどんな人だったのか、まったく知らないことに気づいて愕然とした」と述べて、亡き父についての思いを妙な方向に流していきます。
 私たちはなんのために父と子だったんだろう(p.230)
 この問いは、今まで自分では想像もつかなかったものだっただけに、何か深いところでどきりとさせらたのでした。角田さんは、そのことについて「幾度か考えたりした」といった後、こう続けます。
・・・答えは出なかった。出なかったけれど、自分が成長していくにしたがって、わかったことがある。父はだめな男だったんだなあ。そのことが私はわかったのである。
 同級生が結婚し、親になっていく。それを見ていると、たとえば子どもっぽい男の子が、子ができねやいなや親然とするはずはなくて、子どもっぽいまま子どもっぽい親になっていく。子どもが成長しても、やっぱり子どもっぽい親のまま年老いていく。私の父もきっと、結婚するずっと前からだめ男で、だめ男のまま親になり、コミュニケーションをとるすべも知らず話しかける言葉も持たず、だめ男のまま死んでいったに違いない。そう理解したとき、私は父のすべてを好ましく思っていた。彼が父親になった年齢に近づいてようやく、私は父と向き合ったのかもしれなかった。(pp.230-231)
 「だめな男」という言葉に愛情を感じないこともないのですが、とはいえ、この言葉、角田さんの小説の中の言葉ではなく、エッセーの中の言葉なんだとあらためて考えてみたとき、何か、今まで私は何か根本的な誤解をこの作家に抱いていたのかもしれないと、ふと思ってしまいました。
 角田さんには、男を、特に大人の男をまともに描いた作品がない。
 以前からずっと感じていたことです。物足りなさを感じるというよりは、そこに、何か角田光代という小説家を解くカギがあるのではないかとすら思うようなところもあり、たとえば、結婚に対して微妙な立ち位置をとっていたはずの角田さんが同じ作家の伊藤たかみと結婚したと聞いては、あまり面白くもないのに、伊藤たかみ作品をせっせと読んでみて角田研究サイド攻撃をはかりもしましたし、今回めでたく再婚されたというニュースを発見し、ええええっ、離婚していたの?! と驚くとともに、角田さんの男性観研究がまた大きく揺さぶられたりもしていたのです。
 そんなこんなの中で出くわしたこのエッセーの、亡き父への、何となく突き放すような「だめ男」呼ばわりは、何となく、これまで私が五十もの作品を読む中でこつこつと作り上げてきていた角田光代像のどんなイメージにもつながらないような気がして、おおおっ、ここから振り出しかいっ!みたいな途方の暮れ方を味わわせられた感じだったのです。
 少なくとも、亡き父に対するこんな追憶を吐露できる面と、大人の男がまともに描けない、のではなくって、描こうとする対象から予めはずされているということには、きっと何かしらのつながりがあるように思えてなりません。「角田さんが描く/描かない男」という視点、これから角田作品を読むときの一つ大事なものにしてみたいとあらためて思いました。