つやのよるつやのよる
著者:井上 荒野
販売元:新潮社
発売日:2010-04
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不思議な凄味。
内容(「BOOK」データベースより)
夫と、恋人と、父と、関係のあったらしい奔放な謎の女の危篤の知らせをきっかけに、自分の男を見つめ直す女たち。男と女の心の奥の奥を鮮やかに照らし出し、愛のありかを深く問う長編。
 この本を手にして最初に目次をながめたとき、大好きな井上荒野さんの久しぶりの長編にわくわくしていた気持ちが少しだけ萎えたように感じました。なぜでしょう? 自分でもよくわかりませんが、たぶん、技巧的な井上さんよりもただひたすらにむき出しの井上さんを読みたかったんだと思います。だから、艶という女性との関係性として立ち上がる女性たち(最後だけ男性)の名が冠せられた章立てに、何か、非常に手のこんだ何ものかを感じてしまったんでしょう。
 そして、「? 艶の従兄の妻、石田環希(51歳)」を読んでいくと、艶という女性の存在など忘れて、久しぶりの井上荒野さんの筆致をただ楽しんでいました。行彦(環希の夫、つまり、艶の従兄)という独特な境遇と感覚に絶妙の距離感をもって同行する環希との関係性に、ああこれだこれ、と。
 夫を薄情だと思い悲しくなったり腹を立てたりしたのは結婚して数年の間だけで、行彦がそんなふうに平気で無関心になれることを、今は環希はむしろ好ましく感じる。環希の存在の代わりにときどき彼の頭の中を占めるらしいものを、愛おしいとまでは言えないにしても、何か行彦が飼っている小さな猫のようにも思う。(p.9)
 たとえば、こんなふうな語りが、また、「2 艶の最初の夫の愛人、橋本湊(29歳)」の濃密なドラマが、私を、ひとつの世界に連れ去ります。
 現実は小説を模倣する。
 小説は私たちの人生のOSである。
 うまい言葉にはならないのですが、井上荒野さんの小説を愛おしく想う私の根本の認識が、そんなところにあるのだと感じています。
 しかしながら、だんだん読み進めていくと、じわじわと艶の存在感が増していきます。そして、それとは逆に、石田環希や橋本湊といった、艶とはほとんど関わりも持たないようでいながら、独特かつ濃厚な存在感を発する人たちをどう自分の中でどうおさえていけばいいのか・・・途方に暮れていくばかりで、私は、この不思議な物語たちの不思議な連鎖に、どんどん落ち着かなくなっていくのでした。
 鎖は不思議に連なっていきます。
 最終章において、松生、艶の最期の夫である松生は、艶の死が避けられなくなった時点で、艶と関係のあったさまざまな人たちにそのことを伝え病室への訪れを望みます。そして、艶の人生と、彼女とともに大きな揺らぎの中にあった自分の人生とを、いかにも手応えのはっきりしない不確かなものと感じるとともに、ある種の恐怖にとらわれていきます。
 わからなかった。なぜなら松生にとって、艶の死というのはあらゆる意味を持っていたから。いつ死んだのかわからないということは、まだ死んでいない、ということにもなりはしないか? とうとうそんな考えが浮かんだ。松生は途方に暮れた。艶が死んでも(医者がそのことを保証しても)まだ何も終わった気持ちにならない。終わりはいつかは来るのか? 松生は震えた。終わりが来るのも、終わりが来ないのも同じくらい恐かったから。(pp.246-247)
 ぴったりの言葉が見つからないのですが、ここまできたとき、この小説が、このスタイルでしか表わせなかったある貴重な何事かを語りきった、ように感じました。石田環希も、その夫である艶の従兄も、橋本湊も、その愛人である艶の最初の夫も、『つやのよる』という、とんでもなく恐ろしい小説を成立させるのに不可欠の存在であるというふうに、私の中に立ちあがってきた、そんな感じがしたのです。
 人生の、不確かさと、それとは逆の事実の揺るぎのなさ。
 一人の人間の、徹底した個と、関係の網の目の中の相対性。
 それらの相克に垣間見えるもの。
 いやあ、今日は『つやのよる』の入口付近でゴニョゴニョするにとどめます。イマジネーションをいろいろなレベルで刺激する、傑作と、感じます。