街場のメディア論 (光文社新書)
著者:内田 樹
光文社(2010-08-17)
おすすめ度:
販売元:Amazon.co.jp
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納得感もりもり。
私も最近折に触れてまくしたててもいることなのですが、とにかくニッポン人の浅薄さと、そこに大きな影響力を行使しているマスコミの異常な浅薄さ、というか、浅薄かつ単純な煽動ぶりに、ちょっとこんなので本当にいいんだろうか?! という思いを禁じえなかったのです。たとえば最近で言えば、民主党と岡田ジャパンに対する無節操な評価の乱高下に、小学校のクラスの中で醸成されていそうな幼稚でそれでいて残忍な選別と排除の論理のようなものを感じてしまっていたのです。
ただ、あらゆる意味で素人である私にしてみれば、この妙なニッポンについて、「これじゃあまずいぞ」と具体的にそのまずさの中心をえぐってくれるような言説がどこかにないかとあてもなく探しているようなところがあった今日この頃だったのですが、やはり、それは内田樹センセイだった、ということでしょうか。
さて、本書では、メディアが斬られに斬られます。
一番肝心なのは、最近「マスメディアの凋落」というとき、そのほとんどは、インターネットという新しいメディアに屈するというかたちで示されることが多いのでしょうが、本書がそれらメディア本と一線を画すのは、より本質的な凋落に焦点を合わせていることに他ならないのです。
そして、じゃあ、実際に、内田センセイのマスメディア批判が具体的にはどういうふうに展開していくのかというと、私にとって非常に納得できた切り口として、二つ、あげてみます。
一つは、マスメディアの語る内容そのものに対する批判、です。
そして、もう一つ、それは、ニッポン人が過剰なクレイマー集団と変わった背景として指摘する、マスメディアの節操のない根本的変化待望のスタンスについての言及。
高度というか異様な爛熟ぶりを示す資本主義的様相は、本来不可侵とされるはずの領域をどんどん侵蝕し、その先導役を自任するマスメディアは、他の領域のみならず、自身の、本来不可侵であるべき部分をも侵しつづけ、自身をも損ない続けてしまっていた、といった笑えない喜劇。
ただ、最後にちょっと。
スタートの段階から圧倒的な熱狂的な共感をもって読み進めてしまったものですから、ちょっと冷静さを欠いた読書になってしまったようにも感じます。特に終盤は、雑に読み飛ばしてしまいもしました、ちょっと違和感もありました。
とにかく、私にとっては、貴重な一冊でした。近いうちに再精読してみます。
著者:内田 樹
光文社(2010-08-17)
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納得感もりもり。
内容(「BOOK」データベースより)こういう本を待っていたのだと、読みながら思っていました。
テレビ視聴率の低下、新聞部数の激減、出版の不調―、未曾有の危機の原因はどこにあるのか?「贈与と返礼」の人類学的地平からメディアの社会的存在意義を探り、危機の本質を見極める。内田樹が贈る、マニュアルのない未来を生き抜くすべての人に必要な「知」のレッスン。神戸女学院大学の人気講義を書籍化。
私も最近折に触れてまくしたててもいることなのですが、とにかくニッポン人の浅薄さと、そこに大きな影響力を行使しているマスコミの異常な浅薄さ、というか、浅薄かつ単純な煽動ぶりに、ちょっとこんなので本当にいいんだろうか?! という思いを禁じえなかったのです。たとえば最近で言えば、民主党と岡田ジャパンに対する無節操な評価の乱高下に、小学校のクラスの中で醸成されていそうな幼稚でそれでいて残忍な選別と排除の論理のようなものを感じてしまっていたのです。
ただ、あらゆる意味で素人である私にしてみれば、この妙なニッポンについて、「これじゃあまずいぞ」と具体的にそのまずさの中心をえぐってくれるような言説がどこかにないかとあてもなく探しているようなところがあった今日この頃だったのですが、やはり、それは内田樹センセイだった、ということでしょうか。
さて、本書では、メディアが斬られに斬られます。
一番肝心なのは、最近「マスメディアの凋落」というとき、そのほとんどは、インターネットという新しいメディアに屈するというかたちで示されることが多いのでしょうが、本書がそれらメディア本と一線を画すのは、より本質的な凋落に焦点を合わせていることに他ならないのです。
マスメディアの凋落の最大の原因は、僕はインターネットよりもむしろマスメディア自身の、マスメディアにかかわっている人たちの、端的に言えばジャーナリストの力が落ちたことにあるんじゃないかと思っています。もしマスメディアに誰もが信頼を寄せているという現実があったなら。"インターネットにとってかわる"なんて、誰も簡単に信じないものでしょう。事実、そのベースとなる信頼というか不可欠感が崩れてしまっていてこそ、メディアの新しい時代を、私たちも、うん、そんなものだろうと、思えているというのは間違いないことでしょう。
きびしい言い方ですけれど、ジャーナリストの知的な劣化がインターネットの出現によって顕在化してしまった。それが新聞とテレビを中心として組織化されていたマスメディアの構造そのものを瓦解させつつある。そういうことじゃないかと思います。(p.38)
そして、じゃあ、実際に、内田センセイのマスメディア批判が具体的にはどういうふうに展開していくのかというと、私にとって非常に納得できた切り口として、二つ、あげてみます。
一つは、マスメディアの語る内容そのものに対する批判、です。
・・・固有名と、血の通った身体を持った個人の「どうしても言いたいこと」ではなく、「誰でも言いそうなこと」だけを選択的に語っているうちに、そのようなものなら存在しなくなっても誰も困らないという平明な事実に人々が気づいてしまった。(p.96)先日の朝日新聞(8/14)で「世論」をテーマにして大学の先生にスポーツ記者が話を聞くという記事があった(「夏の基礎講座」シリーズ・4時間目)のを、思い出していました。そこで、大学の先生は、「輿論とはパブリックオピニオンで、世論はポピュラーセンチメンツです。つまり輿論は理性的討議による合意、真偽をめぐる公的関心で、世論は情緒的参加による共感、美醜をめぐる私的感情です」と説明していました。そのうえで、先生は、「世論」にまみれている現在のマスメディアに「輿論」の形成を期待していくというものでした。この時流にすごく適切な提言だと思っていたのですが、内田センセイのパースペクティブとも本質的に重なるものでしょう。
そして、もう一つ、それは、ニッポン人が過剰なクレイマー集団と変わった背景として指摘する、マスメディアの節操のない根本的変化待望のスタンスについての言及。
教育制度についても、医療制度についても、「とにかく早く変えろ」という焦燥の声はよく聞こえるけれど、変えてはならないもの、変えるにしてもゆっくり変えたほうがいいものを実証的に検証した記事を僕はメディアで一度も読んだことがありません。「変える必要のないもの」「惰性が効いているほうがよいもの」はメディアにとっては存在しないと同じなのです。報道に値するのは「ニューズ」だけだからです。昨日と同じままのものには報道する価値がない。「報道する価値のないもの」は存在していないように扱われるか、あるいは存在させてはならないものとして扱われる。退屈は敵、売れる情報が徹底的に優先される、マスメディア。
だから、メディアが医療と教育というえ制度資本に対して集中的なバッシングを展開した理由も今となるとよくわかるのです。医療も教育も惰性の強い制度だからです。簡単には変わらないし、変わるべきでもない。だからこそ、メディアの攻撃はそこに集中した。(pp.115-116)
高度というか異様な爛熟ぶりを示す資本主義的様相は、本来不可侵とされるはずの領域をどんどん侵蝕し、その先導役を自任するマスメディアは、他の領域のみならず、自身の、本来不可侵であるべき部分をも侵しつづけ、自身をも損ない続けてしまっていた、といった笑えない喜劇。
ただ、最後にちょっと。
スタートの段階から圧倒的な熱狂的な共感をもって読み進めてしまったものですから、ちょっと冷静さを欠いた読書になってしまったようにも感じます。特に終盤は、雑に読み飛ばしてしまいもしました、ちょっと違和感もありました。
とにかく、私にとっては、貴重な一冊でした。近いうちに再精読してみます。
Comment
いやあ、やけに忙しくって、本もなかなか詠み進まりません。手もとに『若者よマルクスを読もう』があるのですが、勢いがつかず、牛歩のごとき読書です。
さて、メディア批判はそうですかね・・・、よくわかりませんが、読んだときは、相当大胆に本丸に切れ込んだなと思いましたが。
私も内田さんによる「メディアの主張が定型化・定式化している」という主張は、かなり新鮮、と感じました。同時にそうした報道が繰り返されることで、クレーマーを生んでいるという説明も、少し前までコンシューマビジネスの近くにいた人間としては実感できます。
いずれにしても、現代を読み解くために重要な一冊ですね。
最近目にする内田樹の書いたもの(復習やらなんやら)を読んでいると、とにかく"個"の有責性の担保抜きに何も実現しないというメッセージをびしびしと感じます。匿名性という問題は、いろいろな意味でニッポンをおかしくしているような気にさせられます。
期限切れというわけでもなさそうですが…
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