絶叫委員会絶叫委員会
著者:穂村 弘
筑摩書房(2010-05)
販売元:Amazon.co.jp
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絶叫するときだって、言葉を慎重に選んでるううううう。
内容(「BOOK」データベースより)
町には、偶然生まれては消えてゆく無数の詩が溢れている。不合理でナンセンスで真剣で可笑しい、天使的な言葉たちについての考察。
 気に入った作家さんを見つけると、だだだだだと読み進めてしまう悪癖が出ていて、でも、禁断の悪癖です、もう止まらない止まらない、重松清、角田光代さん、井上荒野さん、大島真寿美さん、中島たい子さん、宮下奈都さん、と節操無く読んじゃうと、あっとう間に既刊の作品がなくなってさみしくなるのでした。穂村さんの作品とて、まだまだ残ってはいますが、有限ですから、ちょっとペース配分をコントロールしていこうかな、できたら。
 さて、これ。世間にころがっている言葉のきらめきを、穂村さん流に拾い集めたものです。そう、まさに"拾い集めた"感が横溢しています。言葉のきらめきなんて言いました、安易にそれを"詩"などと置き換えたりはしませんが、でも、いたるところに網を張り、独特の網目をしている(単に細かい粗いでは説明のつかない、やはり"穂村弘的"としかいいようのない網目)その網に引っ掛かった言葉を掬いあげる手さばきは、こともなげになされていて、かつ、ごくごく日常のありふれた場面にうずもれそうでいて、やはり、光ってる、平凡の非凡。
 最高は、ここ、かな。
 昼間の住宅地に小学生の集団がいた。学校から家に帰る途中らしく、きゃあきゃあきゃあきゃあじゃれあいながら歩いている。不意に、ひとりが大声で叫んだ。
「マツダのちんこはまるっこいです」
 そしてまたみんなできゃあはーきゃあ。
 うーん、と思う。さすがだ。
 さすがに本物の小学生は違う。
 くだらない。
 でも、くだらなさに感銘を受ける。
 特に「まるっこい」ってところがいい。
 これが「ちっこい」とか「でっかい」では駄目だ。「ちんこ」が「ちっこい」とか「でっこい」っていうのは、現実世界における分類や価値体系のなかにすんなりと収まってしまう表現だと思う。(pp.51-52)
 実は、この後も5〜6行ほど書き写していたんですが、「まるっこい」という言葉のすごさについて延々と分析する批評眼がとても鋭くあまりにくだらな過ぎるので、ふと何だ気だるさが押し寄せてきて、消してしまいました。
 この小学生もさることながら、穂村さん、やっぱりすごい。
 そして、ここで私が拾い上げるのは、「さすがに本物の小学生は違う。」というくだり。
 本物の小学生?
 とすると、なんだい、穂村さん、言葉を操作し消費する達人として、戦略的小学生、というものがあるってこと?
 戦略的中学生というのは最初に読んだときから感じていました。あの過剰な自意識って、多くの人にとって最初に自分を襲う中学生のころの型というものが、結構残るものなんだと最近感じてもいました。私自身、この1年間は、中学生っていうのが意外と人生の肝じゃないのみたいな迷妄に駆られていて、中学生再評価を念頭に読書をしてきているのです(ちょっと嘘)が、穂村さん、小学生の天才までカバーされていたとは。
 さらにもう一つ、備忘録としてメモしておくとすれば、「ど真ん中のストレート」(勝負にいくここぞの直球)と「棒球」の違い。
 問題です。次のa、bのうち、どちらが「ど真ん中のストレート」でどちらが「棒球」でしょう。
a 「好きだ愛してる君を一生離さない」
b 「愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない」
 答えは、また、来週。