月と雷月と雷
著者:角田 光代
販売元:中央公論新社
(2012-07-09)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

底の見えない深い井戸。
内容(「BOOK」データベースより)
不意の出会いはありうべき未来を変えてしまうのか。ふつうの家庭、すこやかなる恋人、まっとうな母親像…「かくあるべし」からはみ出した30代の選択は。最新長篇小説。
いやあ、それにしても、強烈なドラマでしたね。
人の生きるかたちというものの圧倒的な強さというかしつこさ。
どう生きようと、どう逃げようと、人は、自分の生きるかたちから逃れられない。
そう、それは、底の見えない深い井戸のような、寒々しくもひりひりするようなまぎれもなさ。
 縁。智はつぶやいて、そうして底の見えない深い井戸をのぞきこんだような気分になる。
人は、意識的に、また無意識的に行動する。大きなことではない、ちっぽけなことだ。財布を家に忘れてとりにいくとか、待ち合わせに早すぎて本屋にふらりと立ち入るとか。そのなんでもない行動は、波紋のように広がっていく。あまりにも素早く、あまりにも広範囲に広がっていくから、自分たちに止めることはできない。呆気にとられて眺めているしかない。動いたら、自分の関与できないものごとがはじまってしまうのだ。それを人はのんきに縁などと呼ぶのか。(pp.155-156)
出会いだけが人生か。
いや、でも、出会いの総和としてあるかに見えて、出会いの挿話でしかないような人生というかたちよ。
この作品をひとつ中心において角田光代さんの作品群を眺め返してみると、なんだかぞっとしてきました。
初期作品群から『空中庭園』『庭の桜、隣の犬』『対岸の彼女』『薄闇シルエット』『八日目の蝉』『なくしたものたちの国』『ツリーハウス』と、角田さんが描こうとしているものは一貫して「底の見えない深い井戸」のようなもののように感じられてくるのでした。私は、ずっと、それらの作品に通底するものとして「空洞」「空っぽ」というキータームを呪文のように唱えつづけていましたが、その「空洞=空っぽ」という深い闇こそが何より饒舌であるという、逆説。
私は、たとえば『予定日はジミー・ペイジ』があまり好きではありませんでした。
私は、またたとえば『ひそやかな花園』があまり好きではありませんでした。
妊娠なり不妊なり、共通項は「妊」。「はらむみごもる。はらむ。」の意。ある意味、これは、角田サン的な「空洞=空っぽ=底の見えない深い井戸」的様相の、最もなまなましく表象されたひとつのモチーフだったといえるのでしょうか。凡庸な男として、私には到底耐えられない過剰ななまなましさであったのか、と。
今、『空の拳』を読んでいます。現在242ページ。
「空」は、角田さん的文脈からすると、どうしても「空洞=空っぽ=底の見えない深い井戸」を連想させていくキータームです。ここまで淡々と物語が転がってきているのですが、後半、とにかく楽しみです。