諸悪の根源に立ち向かうという所作。
内容紹介
僕の考えていることが本当に正しいかどうか、わからない。でもこの場所にいる僕はそれに勝たなくてはならない。これは僕にとっての戦争なのだ。「今度はどこにも逃げないよ」と僕はクミコに言った。「僕は君を連れて帰る」僕はグラスを下に置き、毛糸の帽子を頭にかぶり、脚にはさんでいたバットを手に取った。そしてゆっくりとドアに向かった。(本文より)
昨日読み終えました。
いやあ、読み始めてからどれくらい時間を要したのでしょうか。ほとんど通勤の時間にしか読んでいなかったのですから、相当の日数が経過してしまいました。その間、私自身、何だかかび臭い井戸の底に身を置き続けているような気分でした。優れた小説は読む者をある必然的な運動に駆り立てる、といったことを、かつて蓮實重彦氏があるところで語っておいででした(大江健三郎を揶揄するような筆致でした)が、そういった意味では、私を井戸に運んでくれた上嗅覚もなまなましく刺激してくれたこの小説が優れたものであったことは間違いなさそうです。
なお、私、〈第3部〉を読んだ記憶が全く欠落していました。〈第2部〉までは「ああ、そうだった」といった感じが多かれ少なかれあり続けていたのですが、〈第3部〉にはそれがまるでありませんでした。私自身はっきりしたことは覚えていないのですが、私は、きっと〈第2部〉を読んでその後を放棄してしまっていたんでしょう。今回は、あえて通勤で読むために文庫本を買いましたが、当時購入した単行本は書庫に確かにありましたから、買って読まずにいたようです。
調べてみると、〈第1部〉と〈第2部〉が同時に出た1年数か月後に〈第3部〉が出ているようですから、その間に、私は〈第3部〉に向かうだけのエネルギーを失っていたんでしょうね。
何が私を放棄に導いたのか。
よくわかりません。
ただ、あらためて読みつなぐのに相当な精神的エネルギーを要したはずです。それを持続できなかったんでしょうね。
その当時、私は、32歳。まだまだいろいろな意味でエネルギーを充満させていたころのようにも思うのですが。
しかしながら、『騎士団長殺し』の世界は、ここから始まっていたということを、ひりひりしながら実感した体験でした。私、『騎士団長殺し』の読後感をとりとめもなく綴ったのですが、これを本当の意味で読んでいない私だから、ああいう感想に落ちたんだということを今ならよく理解できます。
ただ、どういったらいいんでしょう。村上春樹さんのこの時期以降の小説の方法論の問題にも深くかかわってくると思うのですが、大がかりな仕掛けの楽しみ方ということ、について。例えば、この壮大なドラマから主旋律だけを取り出して、そう、例えば、大陸における微妙に絡み合ったエピソードを取り除いてしまったとしたら、そのドラマはやけにファンタジー色の強い奇妙なものになってしまうんでしょう。成立はしなくはないでしょうが、まるで魅力に乏しい説得力のないものに成り果ててしまうんでしょう。じゃあ、この大陸のドラマが、岡田亨=「僕」のドラマに何を与えているのかというと、それは、ドラマの普遍性というか神話性、または、ドラマのもつ喚起力の強度。
う〜む。すっきりとしたドラマのフォルムを感知しえた感覚がありながら、私は、まだ言いようのない混沌の中にあります。メタフォリカルに井戸と呼んでいいいような混沌に。こうなったら、村上春樹をひたすら読み続けるしかありません・・・ということで、すでに『1Q84』を読み始めている私です。