八日目の蝉八日目の蝉
著者:角田 光代
販売元:中央公論新社
発売日:2007-03
おすすめ度:4.0
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角田光代が切り拓きつつある新境地とは、「とっても微妙な新境地」と言うべきでしょう・・・
出版社/著者からの内容紹介
逃げて、逃げて、逃げのびたら、私はあなたの母になれるだろうか−−理性をゆるがす愛があり、罪にもそそぐ光があった。家族という枠組みの意味を探る、著者初めての長篇サスペンス。
 大切な人間関係ほど、たとえば夫婦・家族・恋人・友人と、そこにおそるべき空洞を垣間見てしまう感受性を基軸にして、その結果、フリーターやアパート住まいの若者ややる気のない夫婦や恋人同士を描いてきた角田さんは、この『八日目の蝉』で、大きな転回を試みているのかな、これが、読み終わって抱いた第一印象でした。『空中庭園』では「空洞」の存在感に突き放されました。『対岸の彼女』では「空洞」の深さと怖さだけが残りました。また、『庭の桜、隣の犬』では狂気に近い自暴自棄でしか「空洞」に立ち向かうすべがないようなメッセージを読み取りました。ところが、同じ「空洞」を、それも正面からモチーフにした『八日目の蝉』で、角田さんは、まるで救済のドラマとして織り上げました。
 たとえば、ラストシーンの清清しさ
 なぜだろう。
 希和子は歩きながら、両手を空にかざしてみる。なぜだろう。人を憎み大それたことをしでかし、人の善意にすがり、それを平気で裏切り、逃げて、逃げて、そうするうちに何もかも失ったがらんどうなのに、この手のなかにまだ何か持っているような気がするのはなぜだろう。いけないと思いながら赤ん坊を抱き上げたとき、手に広がったあたたかさとやわらかさと、ずんとする重さ、とうに失ったものが、まだこの手に残っているような気がするのはなぜなんだろう。(p.345)
 犯罪を公的に償い終えても、深い傷を負ったまま生きることを余儀なくされ、「そこしかない」と思い焦がれる小豆島に赴くこともできず、その島を臨む岡山の港町という微妙な土地にとりあえず生き続ける希和子が、ここで「両手を空にかざして」得るものを、角田さんは、デビューの頃からずっと「空洞=がらどう」と呼び、ひとの触れる根源的な恐怖の象徴のように描き続けてきたものと言ってみて、間違いでしょうか。もしそれが可能であったとして、その忌まわしい空洞−実際、この長大なドラマにつきあってここまでたどり着いた読者ならば、そこで希和子が感じている空虚感というものは、それこそ人を呑み込むブラックホールのような濃い闇のような現前を実感できるのではないでしょうか−は、ここで、むしろ確かな重みのあるあたたかさでありやわらかさとして認識されているのです。実際、この作品の起点は、あくまでも従来の角田作品的な展開でした。
 逮捕直後から公判のあいだ、秋山丈博、恵津子夫妻との関係において、ほとんど口を開かなかった野々宮希和子が、ひとつだけくりかえしていたことがある。「空っぽのがらんどうと恵津子さんに言われました。私が空っぽの体になったのは子どもを殺した罰だと言われ、その言葉を思い出しては、病室で父が寝入ったあとにこっそりと泣きました」何を訊かれても「その通りです」としか発言しない希和子が、このときだけは強い口調ではっきりと言った。(p.243)
 いうならば「空っぽのがらんどう」という一言がこの事件を生み出したといって過言ではないのです。何ものかになろうとして、何ごとかを生み出そうとして、そして、何の実体をも残しえない人間の、その関係の空虚さ。その恐怖から逃れるために、その空虚を埋めるために必要だったのが「薫」という重みであり、やわらかさであり、あたたかさだったのでしょう。誘拐の動機に、かつて愛した男の影などまったくないのがその証拠でしょう。
 ところが、すべてが終わったとき、紛れもない「空っぽのがらんどう」となった自分を、むしろ慈しむような思いとともに、このドラマはやさしいエンディングを迎えます。
 海は陽射しを受けて、海面をちかちかと瞬かせている。茶化すみたいに、認めるみたいに、なぐさめるみたいに、許すみたいに、海面は光で躍っている。(p.346)
 角田光代の転回、角田光代の新境地
 ああ、そっか。
 泣く母、動けない父、うつむく妹を見て、私はひどく冷静な気持ちで思う。ああ、そっか、そえだよね。なんで私だったのか。それを抱えて過ごしてきたのは私だけではなかったんだ。なんで私が事件に巻き込まれたのかと、ずっとそう思っていた。でも本当の問いはそうじゃない。なんで私が私だったのか。なんで「私」を引き受けることになってしまったのか。父も母も、妹も、きっとずっとそう思ってきたんだ。なぜ父親になんかなったのか。なぜ母親になんかなったのか。なぜおれは帰ってきた娘から目を逸らすのか。なぜ私はこの子に自分の不安定を見せてしまうのか。なぜおれはすべてに背を向けてしまうのか。なぜ私はすぐ逃げ出してしまうのか。なぜ私には突然姉ができたのか。なぜ私はこの家の子だったのか。なぜ私はこんなふうにしかだきないのか。父らしからぬ父、母らしいことのできない母、いつも気をつかっていた妹、そしてすべて憎むことで自分を守ってきた私。「こんなはずではなかった」と思う場所から、一歩も踏み出せなかった私たち。好きや嫌いではなく、私たちがどうしようもなく家族であったことに、私は今気づく。
 「ごめん」かすれた自分の声が耳に届く。「ごめん。でも産みたいの」(p.293-295)
 「私」に執着していた自分の偏狭な家族理解=無理解に苛まれていた恵理菜=薫は、自暴自棄と自己実現のはざまから、大学生で父のいない子を出産することを決め、それを家族に告げ、父と母と妹の拒絶と絶望を含んだなまなましい反応に出会い、ある悟りに近づいていきます。自分だけでなく、家族みんながそれぞれの「私」に執着しながら、みんなそれぞれの「私」の個体としての不幸に苛まれながら、ただひたすら「どうしようもなく家族であ」るという、ただそれだけの事実。重荷を、重荷として受け止めてつづけてきた時間が、その時間だけが保障する家族である価値、意味
 たとえば、エンジェル・ホーム時代のサライの言葉が、一つの陰画として蘇ります。
 「幼稚ではないわよ」とサライは言う。「もし魂で人と出会えることができたら、私たちの苦しみのほとんどか不必要だということになるよね。自分は女だ、自分は若くない、自分は醜い、そういう思いこみは全部、いらない荷物だと思わない? 手放してしまえば、うんと軽くなるようなものだと思わないかな」(p.96)
 重荷を手放すということ。その行為の表と裏。
 しかしながら、角田さんがたどり着こうとしている新しい境地は、とてつもなく不気味な感じがします。家族や夫婦や恋愛や友情の、簡単な肯定などではない、空洞への慈しみ。今後の展開が、ぞっとするほどに、楽しみになってきました。