ホテル・アイリス (幻冬舎文庫)
SМとかトラウマとか老人の性愛とか、既存の枠組みに依らずに読むには、もう少し技が必要な気がしました・・・
内容(「BOOK」データベースより)
染みだらけの彼の背中を、私はなめる。腹の皺の間に、汗で湿った脇に、足の裏に、舌を這わせる。私の仕える肉体は醜ければ醜いほどいい。乱暴に操られるただの肉の塊となった時、ようやくその奥から純粋な快感がしみ出してくる…。少女と老人が共有したのは滑稽で淫靡な暗闇の密室そのものだった―芥川賞作家が描く究極のエロティシズム。
 こういう感じのモチーフって、昔からたくさんありますよね。年の差だけの問題なら、小川洋子の長編の中で一番この作品が好きだとどこかでおっしゃっていた川上弘美さんの『センセイの鞄』がすく思い浮かびますし、川端先生や谷崎先生など、「センセイ」ならぬ「先生」方もいろいろ手を変え品を変え扱ってきたモチーフだといえるかもしれません。
 昨日取り上げた『「性愛」格差論』で、斎藤環は、こんなことを語っていました。
 そう、「性愛」こそは、時に負け組に勝利をもたらし、しばしば勝ち組の足下をすくう可能性を秘めた、最後の価値領域の一つなのです。しかも性愛においては、必ずしも量が勝ち負けを規定しない。多すぎる性愛はむしろ荒廃のきざしに見えてしまいます。
 もちろん性愛が人間を平等にするなどと素っ頓狂なことを主張するつもりはありません。ただ、性愛は明確な原因と目的を可能にするがゆえに、格差システムの作動を複雑化し、私たちにシステムの外側を思い出させてくれるかもしれないと考えるのです。(p.23)
 斎藤環は、現在の格差論には語られていない、むしろ、だからこそ!という感じで、この本では、本質的な「誰にとっても平等に不平等」な性愛の格差に注目していくという流れなのですが・・・ところで、システムの外側。学生の頃、「外部」なるキーワードに、よく訳もわからないまま、畏れつつ惹かれていたりしたものでした。そして、性愛の逆説的格差の現実が、強固で自己言及的な執拗さによって設計されたシステムに亀裂をいれるなまなましい力をもつ「外部」を秘めている・・・なんてイメージしたとして、この作品が、もったりした感じで眼前にたたずんでいました。
 というのも、SМ、トラウマ、老人の性愛、更に言えば、母子家庭、病病の青年と、歪んだ性愛のドラマに恰好のモチーフが錯綜しあっていて、そして、ある種、謎解きの構造とドラマチックな展開におさまる体裁になっていて、それでいて、そういった既存の枠組みの中で解釈されることを拒むような要求がある、小説なのです。小川洋子ファンになりかけている私は、この小説は、敢えて☆☆ですね。意図的にそういう構造・仕掛けをしたというのなら、もう少し読者の落ち着き方の可能性を示すべきじゃないのかなと、素朴に、感じました。作家って、「わかってもらえる人にだけわかってもらえればいい」という感覚を持ちたがるものかもしれないのですし、別に経済的な成功を全く度外視できるのならそれでもいいのかもしれませんが、ちょっと今回はそういうレベルですっきりできないでいました。すみません。