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時折書房

時折書房が目指すは定常開放系。コメント&TB大歓迎。

コ-甲野善紀

10 11月

甲野善紀・田中聡『身体から革命を起こす』3

身体から革命を起こす (新潮文庫)身体から革命を起こす (新潮文庫)
著者:甲野 善紀
販売元:新潮社
(2007-08)
販売元:Amazon.co.jp
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捻らない、タメない、うねらない。
内容(「BOOK」データベースより)
「捻らない、タメない、うねらない」これまでの常識を覆すその身体技法は、まさに革命である。武術家・甲野善紀が、武術、スポーツのみならず、音楽演奏や介護にまで変革をもたらしたのは何故か?古武術の探求をはじめとする甲野の現在とは?「ナンバ」に代表される日本人古来の身体の使い方など、西洋的身体観では説明できないその術理は、もはや我々の思考方法にまで転換を迫る。
 最後のところで聞き役・まとめ役の田中聡さんからこんなことばがありました。
 甲野の武術に影響を受けたさまざまな人たちの話を聞いてきたが、彼らは、みずからのうちに技的な身体の可能性を見出し、生きているものとして人生を歩む覚悟と喜びを選んだ、と言ってもいいのかもしれない。
 生きている身体は、他の身体の可能性と響きあいながら、その響きや動きを留めようとする観念の檻を破壊してゆくだろう。スローガンはいらない。ただ生きている身体があれば、そうなるはずだ。
 これから、きっと日本は危機的な時代を迎えるのだろうが、だからこそ、理念を掲げて制度の延命をはかったりすることより、まず自分の歩き方を見なおしてみたりすることのほうが重要なのだと思う。(pp.279-280)
 たしかにそういう事例がたくさん載っていました。
 自分の歩き方を見なおしてみる、それはそうなんだと思いつつ、でも、結構途方もないことのようにも思え、また、観念まみれというか頭でっかちというか脳化した現実を生きているというか、そんな私たち(ここでいう「私たち」とは、私たちの遠い祖先のことでしょう)が身体を取り戻すことは、決して簡単なことじゃありません。その方法論こそがここに詰まっているわけでしょうが、そんなふうにアプローチをイメージしている段階で、私はまた一つの檻の中に閉じ込められていると言わざるを得ないのでしょう。あ〜あ。
6 11月

甲野善紀・茂木健一郎『響きあう脳と身体』5

響きあう脳と身体 (木星叢書)響きあう脳と身体 (木星叢書)
著者:甲野善紀
販売元:バジリコ
(2008-10-03)
販売元:Amazon.co.jp
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同時並列的知性。
内容紹介
養老孟司氏推薦! 「二人で“バカの壁”の取扱説明書を書いてもらったような、そんな印象を受けた」
脳科学の知見と、武術の奥義が響きあって、人間の能力が極限まで開花する! かたや脳科学者、かたや武術家。脳のプロフェッショナルと身体のプロフェッショナルが、人間が持つ無限の可能性について、がっぷり四つに組んで語り合った。現代科学のはらむ問題、脳科学の可能性と限界、「火事場のばか力」が生まれるメカニズム、脳のリミッターをはずす方法、身体を通した教育の必要性、Google的知性と身体知との対決……などなど、脳と身体にかかわるさまざまなトピックが飛び交う、脳科学の最前線を知る男と、武術的身体運用を究めた男の、知の交響楽。
 いやあ、とっても勉強になりました(で、今日は長くなります)。
 以前内田樹センセイとの対談本『身体を通して時代を読む―武術的立場』を読んだとき、ほうっ!この人やはりただ者ではないと強く感じたものでしたし、そもそも内田樹センセイの著書で武道の放つ魅力と魔力にはいたく刺激をうけてもいたんですから、決して食わず嫌いということではなかったのですが、これまで何となく敬遠してまいっていた、甲野善紀先生と、茂木健一郎の対談本、です。
 対談というよりは、甲野善紀先生の思想とことばに茂木健一郎が具体的な触発をうけつづけるというものでした。そして、その触発の総体でもいうべきものが最後にこんなふうにまとめられるのでした。
茂木 ・・・部分部分を鍛えることをやめて、全体をトータルに、同時並列に動かしたらどうなるのか、というのが甲野さんの武術だとすれば、それと同じことを知識人もやらなければならない、ということではないでしょうか。ああ、なんかすっきりしてきしたよ。僕の頭の中では解決への糸口が見えてきました(笑)。
 だって、今のインテリって、尊敬できる人がほんと少ないんですよ。それは、部分の筋トレをやるような知識の養い方しかしていない人が多いからですね。それは、知識人として堕落と言ってもいいと思います。
甲野 まあ、いろいろと噂は耳にしますが、茂木さんのことを「専門家でもないのに脳科学者のような顔をして」と批判している人もいらっしゃるようですね(笑)。でも、もうそういう考え方自体がすでに落とし穴に落ちいてますよね。
茂木 まったく気にしないからいいんですけどね(笑)。でも、専門家って、ほんとにほんとのところでは、世間からもあまり尊敬されていないですね。(略)いわゆる「専門家」が人に感動を与えられないのは、結局、筋トレをやっているようなものだからですね。
 それに対して、たとえばモーツァルトの作曲であったり、ケプラーの天文学であったり、ゲーテの文学であったりといった、偉人たちの総合的な知性の運動は、全然別物なんです。彼らのは、まさに甲野さんがおっしゃるところの同時並列的な身体運用の「知性バージョン」と言っていいと思う。「同時並列的知性」です。(pp.208-209)
 同時並列的知性(要アンダーラインです)。
 甲野先生の武術における実践がいろいろな異業種異業界にも多大なかつ具体的な影響を及ぼしているということは、私も、何となくは知っておりましたが、私は、いや、私も、まったく異なる世界に棲息する私のようなものまで、具体的なインスピレーションを与えられた気分になっていました、最近自分が昂じさせていたフラストレーションの秘密のようなものを言い当てられたような感覚で、この「同時並列的知性」という概念に惹きつけられていました。
 何かというと、国語、学校教育における国語の話なんです。
 私、ここ数年の修行の中で、基礎と応用の関係性の理解について、ものすごく大きな転回を生きています。
 どういうことか?
 たとえば、古文の学習において、古典文法を習得し語彙力を増強していくことが基礎力を養うことで、その基礎力を活用することで文章読解はすらすらできる、すなわち応用力が身についていく、とか、そんなあやふやな基礎と応用の関係性を、とりあえずのように信じて授業をしている国語の教員が現に本当に多くいるようなんですが、それ、本当ですか?ということ、です(意味不明ですか?でも、思いに忠実に書くとこうなるんです、必然的悪文というのを最近意図的に使っています)。
 最近、よその学校の古典の授業を見せていただく機会が立て続けにあり、そのほとんどで「e/e/u/uru/ure/eyo」とか「せ/○/き/し/しか/○」とか、活用の暗記を仕込むのに懸命なさまを拝見することになりました。別にそれが、それだけ取り出してそれが絶対にダメだとは思いません。動詞の活用や助動詞の接続などがわからなければ正確に解釈することが難しいなんていうケースはそりゃ確かにあるわけです。「夕月夜 小倉の山に 鳴く鹿の 声の内にや 秋はくるらむ」の「くる」が「暮る」であって絶対「来る」ではないことが文法の知識によって説明できると、予備校時代の講師に言われたとき、目から鱗、ああ、ぼくも文法をちゃんと勉強しようと思わせられたものでしたもの。
 しかしながら、私がそういう授業を拝見していてどうしても納得がいかないのは、そういう活用なり接続なりを覚えることがどういう意味での基礎・基本であって、どういうときに活用できて威力を発揮するのかということと無関係に習得の無理強いがなされていて、それがむしろ一つのゴールでもあるかのように見えてしまうこと、なんです。
 私、あるとき、採用されたばかりの国語の先生と話をする機会があったときに、こんなことを聞いたことがありました。「あなたには、自分自身、文法や語彙を勉強したから文章が読めるようになったという感覚がありますか? きっとないんじゃないですか。もともと読めていたんじゃないですか?」何を言いたかったかというと、国語の教員などをしている者って、現代文、古典を問わず、もともと文章を読む能力がある人がほとんどで、文法や語彙の知識が不十分でも中味がわかってしまうんです、きっと(私は貴重な例外なんです、だから、むしろ、そういうことに敏感だったように思います)。だから、大切な基礎・基本だから文法と語彙は大切!と日夜暗記を強いてはいるものの、実際その基礎・基本がどういうふうに機能するかを実は知識として対象化できていない。
 このあたりから、ようやく甲野先生の「同時並列的知性」に戻ってきます(冗長ですみません)。
 私は、文章を読む力というものも、本当に「同時並列的知性」を要求されるものだと感じたのでした。
 そして、文章読解のために絶対不可欠な基礎・基本として無理強いされた文法・語彙習得については、その労力が最終的に相当無駄に帰してしまうことになる似非基礎・基本でしかない、ことをあわせて実感せざるを得ないのです。最終的に使えない基礎・基本は、結局基礎・基本ではなかったということです。本当の基礎・基本のなんたるかを気づかぬままただしこしこと文法・語彙習得に明け暮れることになる受験生は、結果として全然文章が読め見せずに惨敗し、その労力が完全に意味のなかったものたったと振り返ることになるのです。文法・語彙が基礎・基本として重要であるためには、文章を読解するという「同時並列的知性」のシステムの具体をもとに、そのシステムの中のどこでどう働くべきだからその力を身につけることが有効なのか、メタレベルで把握しておく必要が絶対にあるのではないでしょうか。
 つまり、文章読解力を応用力ととらえるとして、そこではどれだけの基礎力がどうはたらくか、そのメカニズム(「同時並列的知性」の仕組み)を納得させつつ、読むという行為そのものに向かわせる必要があるのでは、と。
 ここで、「同時並列的」というありようについて、達人レベルを補足しておきます。
甲野 ・・・ここで大切なことは、この方法は、できないうちは「まるでできない」ということなんです。近代以降、スポーツでも武道でも、「易から難へ」という形態で、学ぶことが広く普及しています。つまり、ぎこちなく真似をしている状況から、練習を重ねることによって動きが少しずつスムーズになって、最後には流麗に動けるようになるというモデルが暗黙のうちに誰もが持つようになっていますが、この技は「まったくできない」か「できる」かしかないんです。見よう見真似で練習していればだんだんできるようになる、という性質のものじゃないのです。
 こういう質的に違う技ができるようになるためには、頭で考えて、真似しようと思ってもダメです。それは「Aの時にB」という単純な一対一対応の動きではなく、身体が同時並列的に動いている技である上、身体が同時並列的に働くと行ってもいろんなレベルがあって、この技の場合は、車の運転や、ピアノを両手で弾くというレベルよりも、ずっと難度が高く、そのためできないうちはまったく真似することもできない。ですから、これも先の論文主義の問題と同じで、近代になって学びというものをとにかく論理的に、順序だって整理していこうという傾向が強くなる中で消えていった動きだと思うのです。(pp.26-27)
 「易から難へ」というタームに象徴されている、「近代」が生み出したパースペクティブの一つに、「基礎から応用へ」というものもあるのだと思います。そして、実際の頭の働き方における単純化できない非常に精密な部分を捨象して、いわゆる学問の世界は、わかってもらえそうなモデルを次々にひねり出しては、それを常識にしてしまっているわけでしょう。
 本書では、私たちが何とはなしに常識としてもたされているいろいろなものに、いや待てよと心地よい風穴をあける力としてこそ、甲野先生の武術的あり方とその思考とが溢れていました。そして、スポーツや思想、教育と、いたるところに具体的な喚起力をもつことの秘密が、次のように語られていたのかと思います。
甲野 ・・・武術は、その起源は、相手を殺傷する技術ではあるわけですが、突き詰めると「相手への対応」をどうするか、ということにつきます。ですから、「武術なんて野蛮なものは私には関係ない」なんて言う人がいますが、生きている限り、関係ないことはないはずです。(略)
 子どもの頃からさまざまな対人関係や、いろいろな事件に遭うことを通して、十分な経験を積んでいる人は、素早く状況を整理して言葉にできる。ところが、トラブルや葛藤を回避してマニュアル的に育ってきた人は、何か予想外のことがあると、しどろもどろになってしまうんでしょう。(pp.131-134)
 ここを読んで、私は、内田樹センセイが震災対応について触れられてご自身のブログで「有事対応モデルというのは、ひとことで言えば、『どうしていいかわからないときに、どうしていいかわかる人間」のことである。』とおっしゃっていたのを思い出していました。そして、数年前から、日本の再生には武士道しかないのかもしれないという荒唐無稽な思いつきをしていたことも、ぽこんと思いだしてもいました。
 ちょっと今日はさすがにしどろもどろです。日本の命運から古文の読み方まで大小取り混ざったかたちでわけがわからなくなってしまいました。今すでに次なる甲野先生のご本を読んでいます。内田樹センセイの『武道的思考』も読み返したくなりました。だんだん整理していきます。
6 2月

甲野善紀・内田樹『身体を通して時代を読む』5

身体を通して時代を読む―武術的立場 (文春文庫)身体を通して時代を読む―武術的立場 (文春文庫)
著者:甲野 善紀
販売元:文藝春秋
(2010-09-03)
販売元:Amazon.co.jp
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私たちが立ち返るべき未知なる、武術的立場。
内容(「BOOK」データベースより)
『「学び」とは別人になること』、『「生きている実感」に火をともす』、『あらゆる社会制度の分岐点で』―。日本が抱える喫緊の課題の解決策を、介護、教育の世界からも注目を浴びる武術研究者・甲野善紀と、フランス現代思想の研究者にして合気道六段の内田樹が、武術的視座から解き明かした画期的憂国対談。
 ちょっと心身不調に陥っているのです。私は武術家ではないんです。
 この本、昨日の夕方から読み始めました。
 こういう本があることも、最近文庫化されていたことも、何となく知ってはいて、それでいてスルーしていたのは、さすがに武術ものはちょっと・・・とか思ってのものだったのですが、ところが、その間『武道的思考』が大変面白く読めてしまい、そして、そういう局部的な問題ではなくって、私か何気なく武士道を気にしていたりしたことと、現代のニッポンの惨状を憂慮しているようなこととが見事に開通してしまっていて、そして、それらをすべてうまくつなげるパースペクティブというものじたいが、そう、内田樹センセイの「武道的思考」そのものであったと気づていてしまったものですから、あらら、私はとんでもなく重要な一冊を読み損なっていたのでは…と、この本に対峙したのでした。
 決定的といえる一冊でした。
 内田センセイによる「まえがき−武術的立場」でこの本の決定打性を確信しました。
「どうすれば自分の心身のパフォーマンスを最高レベルに維持できるか」という問いにつねに最優先的に取り組むことを課題とする以上、武術家は彼を含む社会全体のあり方についても配慮を怠ることができないということになります。
 ある種の政治体制の到来や、ある種の心身のパフォーマンスの向上を妨げる可能性があるとき、武術家はそのような趨勢に対して誰よりもはやく危険を感知しなければなりません。ですから、国際政治にまったく無関心な武術家とか、目の前にいる人間の心理の襞が読めない武術家というのは定義上存在しないということになります。(p.15)
 「武術的立場」なり「武道的思考」なり、その迫り方が半端じゃありません。
 今、読み終えたばっかりの今としては、おそらく五十本はくだらない付箋がニョキニョキしているこの一冊を前にして、簡単に収拾つけられるような気も起らないものですから、最近多発させているagain版を近日中にまとめることにしてみます。
 これから心身の調和をもくろみます。
この本に帰ろう。
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