かって福岡ソフトバンクホークスの前々身に南海ホークスと言う貧乏球団がありました。



昭和30年代は阪神を凌ぐ実力と人気があり、福岡の西鉄ライオンズと優勝を争った位で度々読売巨人軍とシリーズで鉾を交えました。



生涯一捕手野村克也を筆頭に、伝説のアンダースロー杉浦忠、カットボールの元祖皆川睦雄、木塚忠助、広瀬淑功等を擁して黄金期を築き強豪球団でありました。



因みに僕の母と皆川睦雄投手の夫人は中学の同級生です。
堺市長の親戚か何かだったらしいです。



しかし40年代には陰りが見え始め48年のリーグ優勝を最後に野村克也監督兼捕手の更迭で主力がごっそり抜けて最下位になってからは転落の一途を辿り63年にダイエーに買収されて福岡に移って行きました。当時監督だった故杉浦忠氏が『行って参ります!』は泣けました。



さて、お題は凋落の一途を辿った南海ホークスの貧乏物語に入ります。
南海電鉄はホークスに殆ど金をかけなかったらしくてスカウトが他球団のスカウトと同じタクシーに乗せて貰ったり手土産がないので手ぶらはしょっちゅうだったらしいです。



もっと悲惨なのは選手で選手の食堂のおかずが、キャベツ炒めだったり、試合後の軽食は一袋のポテトチップスでそれをみんなで分け合うトホホでしたし石鹸は自前で用意するのが当たり前でユニフォームは一度洗ったら縮んで刺繍がほどける位でした。



一人辺りの食費が五百円で選手がマクドナルドの前に並んでいたりとか、中百舌鳥にあった選手寮は窓ガラスが割れると、防水加工もしていない只のベニヤ板で補修しただけで悪臭が漂ったりと、悲惨で新人選手の親が、その悲惨振りに我が子を連れて帰ろうとした位に酷かったらしいです。


高校生や大学生の選手の入りたくない球団の堂々のワースト1でした。


だってドラフト一位の選手の年俸が余所の三位並みってしみったれた球団ですから。



ですから大阪球場は常にガラガラであのドカベン香川がベンチ入り選手と客の数を数えたらベンチ入り選手の方が多かったトホホ振りでした。



その後福岡に移転後余りの待遇の良さに天国だと叫んだ選手がいた位ですから。



如何に南海ホークスの貧乏ぶりが判るお話です。冷暖房もなく冬は火鉢で暖を取っていた位ですから。バブルの時代に火鉢ですよ!!悲惨過ぎます。