090825
朝と昼の搾乳の仕事の他に、
午前と午後の2回、若い牛への水やりをしている。
水桶の中に水を入れるだけの仕事なのだけど、
けっこう牛が寄ってきて、水のホースをかじろうとしたりするので
順調に入れるのが少し大変。
今日、水やりの仕事をしに若い牛のところへ行く途中、
牛舎の前に、大きな牛と小さな子牛が死んでいるのが
並んで横たえて置いてあった。

そういえば先日産まれたばかりの子牛が、今日死んでしまったと聞いた。
最後に「めー」と山羊のような声で5回くらい鳴いて、息絶えたそうである。
「ミルクを飲まない」と言っていたので、そのまま衰弱して死んでしまったのでしょう。

同じ飼われているのでも、ペットとして飼っている動物の場合は
泣いたり悲しんだりお葬式をしたりお墓を作ったり遺影を飾ったり
などとするものだけど、
ペットでない動物の場合は「処理」に近くなる。
こういう違いは何なのだろうか。単なる定義か?。

だけど、こんなことは日常茶飯事で、
いちいちこういうことがある度に感情を入れて騒いでいてはやってられないので
そこはあえて割り切って対処するべきなのであろう。

今年の牛年にちなんだわけでも狙ったわけでもないけど、
どうも私の今年は、偶然牛づいている。
春に行った牛だらけの沖縄の黒島で牛のセリを見たのを皮切りに、
品川の食肉市場見学に行き、そして今回の酪農体験。
たまたま牛でつながったのだけど、
こうやって牛の色々な段階に触れて総括して考えるのは「生と死」
そして、世の中の生命の循環の必然性だ。

牛が売り飛ばされていくところや死ぬところを見たからといって
「かわいそうだから肉は食べないことにするの」というのは
なんだかちょっと違うと思う。
いや、思っても食べなくても個人の自由だから別にいいんだけど、
そこで感じるべきところは、生きるためには、そういう命をいただいてるんだよな、
と認識すべき、というところではなかろうか。

牛舎の前で死んで横たわっている牛を見ながら、
わー、ぎゃーと騒ぐという気持ちでなく、
割と冷静な気持ちでそれを見つめている自分がいた。
それは、色々なものを見て、慣れた、ということもあるのかもしれないけど、
なんというか、全体的な視点でそういうものを見ると、
わー、ぎゃーと騒ぐというのは、なんだか違うな、と思った。