2012年09月11日

11月10日唐津で映画『へばの』上映

2012年11月10日に唐津で映画『へばの』が上映されます。映画については下記、および公式サイトを参照してください。一日のみ、二回の上映です。


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(以下、上映会のチラシより)
『へばの』2008年/日本映画/カラー/81分
出演:西山真来、長谷川等、工藤佳子、吉岡睦雄
監督・脚本:木村文洋
プロデューサー:桑原広考
公式サイト

《あらすじ》
青森県六ヶ所村。紀美(きみ)は、設立から再処理工場に携わる父親・大樹(だいき)と二人で暮らす。紀美は、大樹と同じ再処理工場で働く治(おさむ)との結婚を控えていてた。ある日、治が作業中にプルトニウムを誤って吸引・内部被曝し、穏やかな日常が一変する。大樹は、紀美が治との間で子供を、もうけること、結婚することに反対する。紀美は治と一緒に生きようとする。だが、治は突然、彼女の前から姿を消す。それから三年、紀美は大樹と二人きりの生活を続けていた。そこに、治が戻ってきたという噂が流れる。それを知った紀美は、治を探しに行くが……。
※年齢制限は設けていませんが、一部性描写があります。

《『へばの』上映に向けて 吉田晶子》
 私が『へばの』を上映するのは、この映画が原子力発電の問題を扱っていることが理由ではない。一組の男女の生き方を描いた物語として、一人の女性の人生を描いた物語として、面白い映画であるからだ。とくに「あらすじ」以降の展開、これはぜひスクリーンの中で見て欲しい。私は初めて見たとき、上映後すぐ、知人と数時間ぶっ通しで感想を話した。映画に出てくる人々は饒舌では無いのに、観る側の言葉を引き出させる不思議な映画だ、と思った。その面白さは、原子力発電という問題を真面目に扱っているから、であると思う。
 最初に書いたように、原子力発電の問題を扱っていることが、『へばの』を上映する理由にはならなかった。問題を扱っている、だけでは駄目だと思った。どう扱っているか、が重要であると思った。「面白ければいい」と、人の目を集める刺激的な「ネタ」として問題を一時的に消費しようとする軽薄な姿勢はもちろん無い。そういった退屈なドタバタ劇を面白いとは思えないし、人に時間を割いて観てもらおうとも思えない。むしろ軽薄な姿勢で眺めようとする消費者にすら得体の知れない面白さと違和感を与えられる作品だと思う。『へばの』の面白さとは、わかりやすく反原発を訴えることに徹することでも、「不謹慎さ」を指摘されるのを恐れ沈痛な表情をつくってみることでもない。自身が扱うべきテーマとして、対峙すべき問題として、自らがどのように問うのかを逡巡する手触りがある。多くの人に見て欲しい映画である、と思う。
 自らのものとして問題を語るための新しい言葉を私たちが獲得するとき、それは新しく誰かの仲間に入れてもらうときに訪れるものではなく、それまで一緒にいたものたちと自らを結びつけていた言葉を手放すことを覚悟したときに、訪れるものではないのだろうか。『へばの』を観て、そう思った。「へばの」とは青森弁で「さようなら」の意である。


日時 2012年11月10日(土)
場所 唐津市民交流プラザ(大手口センタービル3階)
上映開始時間
。隠魁В娃亜繊´■隠供В娃亜
※⊇了後、アフタートーク(約1時間の予定)
料金 前売1,000円/当日1,200円
[予約方法]名前・ふりがな・上映開始時間・予約枚数・お客様のメールアドレスを
hebano.karatsu@gmail.comまでお送りください。
返信をもって予約完了とさせていただきます。

<16:00の回終了後、アフタートーク開催(約1時間の予定)>
木村文洋(『へばの監督』)、桑原広考(『へばの』プロデューサー)、小野俊彦(フリーター・在野学徒/2009年「漆黒紀州映画祭」登壇者)

予約/問い合わせ
Eメール hebano.karatsu@gmail.com
上映会ブログ http://hebano-karatsu.blogspot.jp/

(以上、上映会のチラシより)

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上映会主催者の吉田さんは「『へばの』上映に向けて」で、今回この映画の上映を企画したのは「この映画が原子力発電の問題を扱っていることが理由ではない」と書いている。しかし、吉田さんがわざわざそう書かざるをえないということ自体、この2008年に公開された映画がすでに「311」ないし「312」と呼ばれる出来事以後の時間を生きているという事実の一部なのだろう。

原発事故以後の状況の中で現に多くの人が経験している困難と、この映画の登場人物たちが通過する困難とは、やはり無縁ではありえないし、映画は先取りされた現実の複製のようにすら見えなくもない。生を取り巻く状況が困難であればあるほど、生きてゆくことは「決断」の様相をより濃くおびるだろう。しかし何が正しい決断なのかが分からないならば、決断そのものよりも、その決断を下した過程にこそ考えるべきことがある。視線の対象よりも視線そのものの動きに考えるべきことがある。しかし、私たちは分かりにくいものから逃げてしまう。対象に、現象に、視線を固着させ、視線の恣意と同時に自由を忘れてしまう。ある決断の背後にあったであろう特定の動機や理由から決断にいたる直通経路のようなものを想定し、また、それを了解することで他者と「連帯」できたとか、理解しあえたと考えてしまう。吉田さんが「上映に向けて」の最後で、映画『へばの』を観た感想として述べているのは、そのような分かりやすさに傾くことへの重要な疑義ではないだろうか。

「自らのものとして問題を語るための新しい言葉を私たちが獲得するとき、それは新しく誰かの仲間に入れてもらうときに訪れるものではなく、それまで一緒にいたものたちと自らを結びつけていた言葉を手放すことを覚悟したときに、訪れるものではないのだろうか」

私は最近、1970年ごろに津村喬が書いた文章を読んでいるが、津村は、吉田さんの言葉とは違うけれども本質的にはどこかで響き合っているようなことを書いている。津村は、「私たち」と「他者」の言葉が一致するとき、そこで「私たち」と「他者」との同一性が明らかになるのではなく、むしろそれぞれの存在基盤の間に横たわる深淵、津村の言葉でいえば、二つの異なる存在の「意味の落差」が明らかになる、と書いている(「戦後の超克とは何か −日本帝国主義と入管体制」『津村喬精選評論集』所収)。私たちの言葉と他者の言葉が一致するとき、それが似たような経路をたどって似たような言葉に辿りついた結果だと考えられるとしたら、そこでは実は何事も起きてはいないし、私たちにはそもそも「他者」すらいなかったということだ。

私たちと他者の、それぞれの存在の「意味の落差」を覆い隠してしまうような言葉の一致、さらには、その言葉の一致の裏に、私たちに理解できる範囲の動機や理由から言葉や行為へと至る直通経路ばかりを求める態度が溢れている。そしてしばしば「政治的な映画」がそういう安直な欲求に答えてもいる。私たちはある映画を観るとき、そこに私たちが求めている現実了解の直通経路に落とし込むことができる物語を見出すこともあるだろうし、あるいは、もっと不安定な「回路」あるいは「迂回路」を構成するような瞬間の連続の中で「私たち」が宙吊りにされることもあるだろう。どこか「私たち」の宙吊りや解体に促されているような上の吉田さんの言葉が、あの映画のどこからやってきたのだろうか。それは映画『へばの』を再び観て私が考えたいことのひとつでもある。

最初にこの映画を観て感動して以来ずいぶん時間も経った。この映画にとって余りにも重いと言わざるをえない出来事が起きてからも、そしてまた時間が経った。第二回の上映後には監督やプロデューサーの「アフタートーク」も設けられていて、あいかわらず何者だか分からない私も縁あってそこで喋ることになっている。とても貴重な機会を与えてもらった。もう一度、映画『へばの』をしっかり観て、いろいろ語りたいと思う。

吉田さんは、唐津という、決して条件にめぐまれていない場所で、真に「インディペンデント」な上映企画者として、奮闘して上映会を実現させようとしている。私もこの映画と、映画制作者たちと、しっかり対峙するような気持ちで参加するつもりだ。多くの方と上映会で出会い、できればいろいろと語り合えることを願っている。

hesalkun at 20:25|PermalinkComments(0)

2012年08月02日

群臭

群集は「鬼ころし」の紙パックと小便とコンドームと蛍光塗料と煙草の吸殻と食い掛けのハンバーグを撒き散らした挙句に饐[す]えきった苛烈な異臭を残して去る生き物だ。新聞が報じる「40万」という数字も、「見物客」とか「市民」だとかの気の抜けた名詞も、あの都市の秩序が歪んで渦巻いた巨大生物とそいつが残した腐臭を表現するには余りにも無力すぎる。原状回復を命じられた有償労働者と無償労働者とゴミ収集車と散水車が夜通しで清掃して脱臭を試みたが、群集が通り抜けた翌朝の靄の中にも、あの異臭はまだ豪然として漂っている。私は臭いの等高線が描く起伏にそって自転車を駆る。うっ。こんな臭ぇところには議員様も大臣様も天皇様もお通しできゃしねぇ。

[記 花火大会の翌朝に]

hesalkun at 15:07|PermalinkComments(0)

2012年07月11日

矢部史郎の「自己愛」と「人権」

我らが御大カール・マルクス同志は「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」(岩波文庫)の中で、近代において「政治社会」が完成すると同時に公的領域から解放された私的個人の利己心が、「人権」や「自由」などの観念で保護されはじめたことを批判している。

部分的な、たんに政治的なだけの革命は、何にもとづいているか?それは、市民社会の一部分が自分を解放して普遍的な支配権に到達すること、或る特定の階級がその特殊な立場から社会の普遍的な解放を企てることにもとづいている。この階級は社会全体を解放するが、ただしそれは、社会全体がこの階級の立場にあるという前提、したがって例えば金力と教養をもっているか、それとも任意に獲得できるという前提のもとにおいてである。[太字部分は原文では傍点](岩波文庫p.90)

続けてマルクスは、フランスではそのような「たんに政治的な」だけの解放にも理があるが、ドイツの解放はそうではありえない、という。そこからマルクスが特殊ドイツ的な状況における革命の主体として導き出してくるのが、既存の秩序の全否定を担う「プロレタリアート」である。そしてこの「プロレタリアート」の論理は「人権」を確立した西洋近代の外部から革命を実現しはじめた。

矢部史郎が「312」以後に強調している「自己愛」が、マルクスが批判しているような市民社会に埋没した「利己心」と区別されるとすれば、それは彼が再生産領域という、政治社会においては可視化されておらず、せいぜいが労働・生産の領域を補完するものとしてのみ扱われている領域にこだわることで、市民社会、および市民(国民)の権利としての「人権」に亀裂を入れているからではないだろうか。そして矢部の「収束拒否」の思想こそ、既存の法制度の外における「主婦」の形象に、あらゆる富や権利の外に存在する「プロレタリアート(無産者)」に等しい地位を与えうるものである。

したがって、矢部がそのような論点(政治の領域、すなわち政治的に表象されている領域と、政治的に表象されていない再生産領域との差異にかかわる論点)を外したところで、誰であれ(「万人」に対して)高線量地帯に自ら進んで行くことはそれ自体が「人権」意識の欠如であるという類の愚かな発言をするとき、それは彼の議論を「市民社会」の内部に閉じ込めて、その思想のポテンシャルを奪うだけである。

かつて「無産大衆」について語っていた矢部が「市民」を標榜し始めていることは何の兆候なのか。もしも「来るべき無産大衆」のために既存の政治秩序を構成する主体に亀裂を入れることが、いまだにわれわれにとって問題であるとして、「312」以降の放射性物質の拡散自体が新たな政治的主体を決定的に基礎付けたり、それに決定的な行動規範を与えるかのような口振りに傾きながら「市民」を標榜する矢部の議論は、われわれの議論の射程を狭めてしまっているのではないか。

放射性物質が大量に拡散したという事実が再生産領域においてどのような問題を可視化したのか、という論点において、矢部の慧眼は否定すべくもないが、彼が「312」以後の放射性物質拡散という事実自体に、われわれの政治的主体性を決定する「出来事」のような地位を与えてしまうかのように見えるとき、あの「無産大衆」の真髄は「市民」の論理の中で雲散霧消しはじめる。そして、しばしば矢部の議論においては、「312」が出来事としての地位を与えられているとするならば、放射性物質はそのすべてを意味づける「貨幣」のようですらある。「放射性物質の危険性」(が思考を規定してしまうこと)には内部被爆などとは関係ない危険がある。

私は、「主婦」が再生産領域において已む無く採用せざるを得ない放射性物質についての判断基準を、その領域外に無限定に拡張することには疑念を持つ。矢部が「収束の拒否」という思想的媒介を梃子にして、再生産領域における抵抗を原発労働者のスト権と結びつけようとするところには可能性を感じるが、しかし、放射性物質について原発労働者が主婦と同じ判断基準を持つことが、それらさしあたり別々の領域にある抵抗を結びつける回路になるというわけでもないだろう。

「物質的な力に活を入れて政治的な力になるよう勇気づけるあの天分、敵に向かって、我は無なりされば我は一切たるべし、と不敵な言葉を投げつけるあの革命的勇敢」(同上p.91)、それは「来たるべき無産大衆」の魂である。それは放射性物質の拡散という何の官能性もない物質的事象とは全く別種の戦慄をもたらすような「出来事」に由来するはずだ。

hesalkun at 00:05|PermalinkComments(0)