フリーターの引力『道の手帖 谷川雁』(河出書房新社)

2009年03月11日

マイケル・ハート「権力/力能の解剖学」(A・ネグリ『野性のアノマリー』英訳序文)

アントニオ・ネグリと言えば「働きたくない」の思想家である。僕は普段、基本的にはパソコンの前にぢっと座っていなければならない賃金労働をしているが、「あぁ働きたくねーなぁ」と思い、絶妙なサボりかたをしながら、ネット上になぜか全文が公開されているらしいネグリ『野性のアノマリー』(英訳は1991年、イタリア語の原著は1981年)のマイケル・ハートによる英訳の序文をコツコツ訳していたものが一応完了したのでこれを全世界に公開する(どこかで既に訳されているかもしれないが)。これを読めばネグリのスピノザ論はもう分かったも同然である。『野性のアノマリー』本文についても日本語訳は確か七千円近くもするので、近くの図書館が買ってくれるまでコツコツ私訳に挑戦する所存である。

たとえばスピノザの翻訳上すでに定着している訳語について不適切な訳語を選択しているかもしれないが、上野修『スピノザの世界』(講談社現代新書)を最近読んだことが何らかの効を奏して致命的な過ちは回避できているであろうことを神に祈る。その他、訳語選択の確かさについて訳者が極度の不安に襲われた場合には[]内に原文の英語を示しており、またいわゆる初学者の役に立つと思われると訳者が傲慢にも判断した場合には適宜、同じく[]内に拙訳者なりの解釈等を示しているが、そもそもアントニオネグリだのあんぐりだの言われても何のことやらわけが分からん人は、そのわけの分からなさのなかにこそ多数性=マルチチュードが潜んでいるかもしれないということで安心してこんなものを無視されたし。

この訳業はあくまでも賃金労働中にこれを隠然とサボタージュしてなされたものであり、上司にいつ見付かるか分からないという激しい緊張、すなわち資本のコマンドとのせめぎあいが孕む緊張感ゆえに、この日本語訳が犯しているかもしれないいかなる過ちも、読みにくさも、その一切は資本主義のせいである。

ono

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『野性のアノマリー』英訳者序文

権力/力能の解剖学

マイケル・ハート

 権力の性質に関する探究は現代の理論において中心的な課題となってきた。とりわけミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリなどの思想家の間で。これらの理論家たちは、権力が社会的、個人的、政治的地平全体に対する投資を行い、そこに浸透するために利用するあらゆる形態、メカニズム、配備の分析に集中的に取り組んできた。我々はまた彼らの仕事を通じて、新しく創造的な社会的諸力と肯定的でオルタナティブな実践が示唆されているのを発見する。アントニオ・ネグリのスピノザ解釈はそのような理論的企図に対する重要な貢献である。彼の分析は、スピノザが我々に対して、権力の有効な「他者」[他なる(権)力]、すなわち社会の組織化にかかわる、徹底的に独自で耐性[持続可能性]のある、そして後戻り不可能なオルタナティブを与える、ということを示そうとしている。ネグリは、この二つの力[権力と他なる力]のあいだの区別と敵対関係を認識することが、スピノザ思想の現代的有効性を評価する重要な鍵であると主張しているのだ。

 このような企図はしかし、直ちに翻訳にかかわるある難しい問題を提起する。スピノザの使用するラテン語、potestasおよびpotentiaはほとんどのヨーロッパの諸言語に厳密な対応語をもっている(イタリア語のpotereとpotenza、フランス語のpouviorとpuissance、ドイツ語のMachtとVerm���gen)が、英語にはpowerの一語しかない。この困難を解決するために、我々はどちらかにあてはまるであろう複数の語を考慮した。すなわちpotency[効力、潜在能力]、authority[権威]、might[力]、strength[強さ]、force[(物理的な)力]など。しかしこれらのいずれの語も真の問題を覆い隠してしまうような無用な歪曲にしかならないのである。したがって我々はこの翻訳[英語訳]では、この問題を未解決のまま残すことにした。すなわち我々は便宜的に、potestasを大文字のPowerに、そしてpotentiaを小文字のpowerとすることにして、混乱を招きやすい箇所についてはそれぞれに対応するラテン語をカッコ内に注記することにした[邦訳ではpotestasは「権力」、potentiaは「力能」と訳されている模様]。

 このことはしかし、翻訳に関わる解決困難な問いが、複雑でかつ魅力的な概念上の問題にむかって開かれるという幸運な例のひとつなのである。ネグリの議論が持つ推進力が、用語上の区別にかかわる問題を政治的領野へと移動させる。そしてこの[政治的領野の]地平においてこそ、スピノザは権力の批判のみならず力能を理論的に構成する手段を我々に与えるのだとネグリは言う。スピノザによる力能の概念は、抵抗の配置や個々の物理的諸力や潜在能力からなる地平以上のものである。それは堅固な形而上学的基礎に根ざした組織化の真の力動なのである。スピノザの力能は常に、民主主義的な社会的権威の構成に向かいつつ、常に集合的次元で働いている。この点においてスピノザに関するネグリの議論は、現代フランスの思想家たちの議論に対する建設的な補完として、最も適切に位置づけられるであろう。フーコーその他の思想家たちは権力の性質に対する批判と分析において大いに歩みを進めたのだが、ネグリのスピノザ論は、自由に社会を創造する構成的な力としての力能を解剖するための基礎を我々に提供するのである。

 スピノザ研究においてこの問題はしばしば、純粋に用語上の問題として設定され、スピノザによるpotestas(権力)とpotentia(力能)の使い方の一貫性が吟味され、彼のテキストにおける両者の区別の必要性が検証されることになる。この問題はかなりの関心を集めてきたにも関わらず、ほとんど未解決のまま残されている。ネグリはしかしこの議論に直接参入することはない。彼はこの用語上の区別自体は自明のものとしたうえで、その代わりに問題を哲学的・政治的なものとして考えることで、我々を一連の異なる問いに導くのである。まず第一に、potestas(権力)とpotentia(力能)の区別を認識することが、いかにスピノザの著作についての新たな視野を我々にもたらし、彼の哲学的・政治的企図の全貌をよりよく理解することを可能にしうるのか?さらには、我々は世界における権力と力能の真の区別を見定めることができるのか?もしできるとして、いかにしてスピノザ的な観点は、我々が力能の性質についてより豊かな理解を持つことを可能にし、そうすることで現代の理論と実践に新たな可能性を与えうるのだろうか?これらの問いは、いかなる意味でもこの著作におけるネグリの企図全体を言い尽くすものではないが、他の著作も含むネグリの思想の中心的な水脈をなすものではある。したがって、スピノザにおける権力と力能についてのネグリによる解釈の概要を再構成することを通じて、我々はこの区別を理解し、評定するための予備的な枠組みを得ることができるし、また同時に、スピノザ研究および現代思想の領域全体におけるネグリの位置を明確に把握することもできるのである。

 ネグリの議論全体を通して、我々は理論的かつ実践的観点における権力と力能の明確な区別を発見する。一般に権力とは、中心化され、媒介された超越的な指令の力であり、力能とはローカルで直接的(非媒介的)で現勢的な構成の力である。最初から明確に認識しておくべきことは、この区別が、単にそれぞれ異なる資源と潜在能力のそなわった諸主体が持つ異なる能力に言及するものではなく、形而上学においてか政治の領域においてかに関わらず、概念的にも物質的にも対立する二つの根源的に異なる形態の権威と組織化−社会の組織化というときと同じ意味での存在の組織化にかかわるそれ−を印付けるものだということである。ネグリにとってこの区別は、真の対立(敵対)を認識するという、理論的探求のためのマルクス主義的課題に対するひとつの応答のかたちなのである。マルクス主義的な伝統の文脈において、権力と力能の対立は比較的問題の少ない用語に適用可能であり、我々はしばしば、ネグリの議論の中心軸が、資本家的な生産関係のもたらす権力と、プロレタリアートの生産力がもつ力能との対立に由来することを発見する。実際我々は、ネグリの知的・政治的な仕事における主要な要素は、政治思想や現代の社会的諸関係を含むさまざまな分野におけるこの対立を明確化することにあるのだ、と適切に性格づけることができるだろう。

 このような理論的な関心と知的探求の歴史をふまえれば、ネグリがスピノザを研究する際に、その思想の核心に権力と力能との対立を見出すのは不思議ではない。しかしまた、これらのことに加えて、我々はこの本が書かれた状況を念頭に置いておくべきだ。ネグリが序文で述べているように、この本は、彼がイタリアの国家に対する転覆の罪にかかわる一連の不当な容疑によってぶち込まれていた獄中で書かれたのだ。仮にその入念なスピノザ研究によって、ネグリが明白さや平安の中に脱出できたのだとしても、あるいは、彼のいた獄房がスピノザの簡素なレンズ工房を思い出させることがあったにしろ、差し迫ってくる[監獄という]現実の圧力にネグリが影響されなかったと考えることは難しい。ある現実的かつ具体的な敵対状況がネグリの世界を活気付け、とりわけこの圧迫は、スピノザの世界のなかにある敵対を認識するのにまたとない位置にネグリを導いたのだ。しかし、スピノザ的な文脈においては、我々はいかなる二元論的対立をも警戒するのに越したことはない。権力と力能との対立について問題を提起することは、「対立しているのではなく異なるのだ」という、スピノザの警告を我々に思い出させる。ネグリの解釈は、伝統的なマルクス主義の[階級]対立の枠組みに適合するようスピノザに強制するに過ぎないのだろうか?明らかにそうではない。ネグリがスピノザに取り組むに際して、彼のマルクス主義的な権力関係の概念は極めて豊かなものなっている。ネグリによるスピノザ読解の展開を通じて、権力と力能が決して単純で静的な対立とは無縁であることが分かってくる。むしろその両概念の関係は、いくつかの複雑な変容を通過しながら、両者の対立そのものの破砕へ向かって猛進するのである。ネグリによるスピノザのテキストの歴史的解釈は、[権力と力能という]二つの概念に豊かで独創的な意味を与えつつ、それらの[両概念の変容過程における]諸局面を結びあわせ、論理展開の傾向ないしは論理を形成[把握]しようとするものである。

 スピノザの思想の最初の局面において、ネグリは権力と力能との区別が、形而上学と歴史との対立を解き明かすものであることを発見する。議論の形而上学的な基礎付けは『エチカ』の第一部の最後に現れるが、逆説的なことにこの一節の目的は両概念のいかなる区別をも否定することにある。神の本質は神の力能と同一である(第一部定理34)。これは実定的な基礎[positive basis]である。それからスピノザは、我々に認識可能な一切は神の権力の内にあるということを説き、しかもその直後で、あらゆる原因からはなんらかの効果が生じなければならないこと(定理35-P36)を付け加える。これら三つの命題はスピノザに典型的な議論の進め方を示している。力能の本質的な性格を基礎として提示したうえで(定理34)、スピノザは、神の権力は生産の潜在的能力であるという(定理35)、慣例的な神についての説明を持ち出しておきながら、その同じ定理を最後の定理において否定する(定理36)のである。神の権力は、認識されうる一切を生み出す可能性ではなく、存在する一切を生み出すことの実在性[actuality]である。言い換えれば神の本質は、世界に現に存在するもの以外の何物をも可能とはしない。スピノザの形而上学には潜在性や可能性といったものの余地はない。したがって神の権力は神の力能以外ではありえない[例えば、神は本質であり、人間の認識する現象は疎外であるというときのように、神が世界の存在に対して外的な力(権力)をもつのではなく、神は存在に(世界がさまざまな様態において存在する力そのものとして)内在するということだと思われる]。このような[神の権力の力能への]還元(解消)は、議論の抽象的な基礎を提供する。形而上学の領域には権力と力能の区別は存在し得ない。そのような区別はスピノザにいては、力能の概念を肯定し、慣例的な[神の]権力の概念を否定するべく、単に論争的な機能を果たすのみである。したがって永遠の相の下において言えば、『エチカ』の断固たる観念論には力能しかないのであり、したがって[権力との]なんらの区別もありえない。形而上学において権力とはひとつの幻想である。

 にも関わらず、歴史的かつ政治的な視野から見れば、スピノザの世界において権力は非常に現実的かつ物質的に存在している。ネグリの歴史的な読解は、いかに17世紀という時代が、君主制や宗教的階層秩序というかたちで権力の網の目に覆い尽くされているかを示す。実際のところ17世紀のヨーロッパは権力の概念的かつ実際的な構築を推し進めてきたのであり、その中でデカルトとホッブスは、それぞれ形而上学と政治学の中核に場を占めている。スピノザはそのような潮流に逆らって泳ぐのだ。ネグリは、スピノザの往復書簡や政治論の中の豊富な証拠に基づきながら、民主的で共和主義的なスピノザが思想の自由を唱え、神学的な、また政治的な権威に対して抵抗し、権力の構築を攻撃している様を我々に示す。この時点ではスピノザの形而上学と歴史思想のあいだには絶対的な対立、全き亀裂があるように思われる。すなわち『エチカ』の観念論的な観点から見れば権力は幻想として認識され力能に従属しているが、スピノザの歴史的な観点からは、政治的または宗教的な権威が多数性[multitude,マルチチュード,民衆ないし群集]の自由な表現を抑圧することによって力能がつねに権力に支配されているのである。ここに我々は、図式的かつ抽象的な形態においてではあるが、スピノザにおける対立の概要を理解する。しかしこの障害、力能と権力との対立、形而上学と歴史との対立がスピノザの知的探求を阻害することはない。実際にネグリは、スピノザの企図をその成熟の地点にまでたどることで、この対立を破壊する二つの戦略を発見するのである。それらの戦略は一種の交錯的対応をなす。すなわち、一つめの戦略は、力能から権力へと、形而上学から歴史へと移行し、もう一つの戦略は反対の方向に、すなわち権力から力能へと、政治や歴史から形而上学へと移行するのである。

 スピノザにおける形而上学的な力能の概念の存在論的な密度と政治的中心性についての認識は、おそらくネグリによる最も重要な貢献であろう。力能の理論的な構築、その概念の他の概念との関係付けが蓄積される長い過程が、スピノザの著作を通じて展開されている。その過程は人間の本質たるコナトゥスすなわち「努力」からはじめられ、欲望と想像を通過したうえで、複合的な生産の力としての、思考し、行為する力能のイメージに到達する。しかしまだ我々は、単に個別的な力や衝動に留まっている力能の観念で満足するわけにはいかない。というのも力能は、常に集合的な次元において自らを組織化しているからである。『神学政治学論集』および『エチカ』の第三部、第四部はこの点にかかわる中心的なテキストである。なぜならそこでは、想像と愛と欲望に駆動された、人間の力能の現実的で直接的で連合的な運動の分析が発展させられているからだ。人間の本質についての形而上学的議論が、倫理と政治の領域に参入するのは、このような力能の組織的発展を通じてなのである。ネグリは、力能のこの組織的な側面を引き出すために、多数性と構成という、二つのスピノザの概念に焦点を当てる。多数性とは、共通の社会的行為を通じて共通の欲望を表明することにおいて統合されている集合的な社会的主体を記述するためにスピノザが使う用語である。この多数性の情動と知性を通じて、力能は常に新たな社会関係の発明にかかわっている。スピノザの民主的な展望における主役である多数性は、ある社会的権威を創出するのであるが、それは構成の過程、すなわち、直接的(非媒介的)で集合的で連合的な諸関係の論理によって、社会の基盤から社会的規範と権利とを構築する過程において創出される。この構成の過程において、力能の形而上学は、倫理、すなわち多数性の集合的な情動、想像力、欲望の倫理となる。このような力能の分析は我々を形而上学から政治学へと移行させ、そうすることで我々が歴史的次元、すなわち現実的な存在と権力の突出にかかわる問題を参照するための基盤を与えるのである。

 『国家論』の中でスピノザは諸々の政治形態を評価するためのある論理を発展させており、ネグリはこの論理が、いかに多数性の構成的力能に基づいて、力能から権力への移行をもたらすかを示している。スピノザは君主制の最善のあり方(構成)はいかにあるべきかを考察することで、彼の同時代から探求をはじめる。彼が発展させた力能と権利の概念を基礎として、スピノザは平和と自由の観点から言えば、最善の君主制とは、至高の権力たる君主が多数性の構成的力能によって抑制されている君主制であると論じる。言い換えれば君主制とは、至高の権力が多数性によって自由に構成されていないかぎりでは限界付けられた政治形態なのである。スピノザは権力から力能への移行の次の段階として、貴族制に目を向ける。スピノザの論理によれば、貴族制は、貴族評議会の形態における至高の権力が多数性によってより十全に構成されているかぎりにおいて、より限界の少ない政治形態ということになる。民主制がこの移行における最終地点となるのだが、残念なことにスピノザはこの節を完成させる前に死んでしまった。しかしながら論理はすでに明らかである。民主制は、至高の権力が多数性によって十全に構成されているがゆえに絶対的で限界なき政治形態である。スピノザの民主制は、民衆によって担われる権威のダイナミックな形態たる構成的権力によって活性化されることになる。この君主制から貴族制、貴族制から民主制への移行にともなって、スピノザは歴史から形而上学へ、権力から力能へと移行する。他でもない、民主制とは『エチカ』の地平への回帰なのである。スピノザの民主制において権力(potentia)は、それが多数性の力能によって完全かつ自由に構成された構成的権力であるかぎりにおいて以外は存在しない。ならば、ある意味では我々がたどった権力と力能の関係をめぐる知的探求の軌跡はここで出発地点に戻っているのだが、その過程において形而上学的な密度と具体的な政治亭次元の有形性を獲得しているのだ。もしも『エチカ』が権力と力能の区別と従属的関係をそのユートピア的な展望の中にある観念論的な概念によって解消するとすれば、『国家論』は未来において、民主的な権力が多数性の力能によって完全なかたちで構成されるときに実現するこの区別の解消へと向かう現実的な傾向を促すのである。この民主制のイメージにおいて、スピノザの展望は彼の時代と変わることなく現在でも活きている。こうして我々は、彼が描く傾向を自分たちの未来として見ることができるのだ。

hesalkun at 16:36│Comments(6) 哲学・思想 

この記事へのコメント

1. Posted by Jose   2009年03月11日 22:44
5 読んでもわけ分からないがつまりこういうことですね。わからなくてもいいから、もっとみんなでネグリを読もう、それがマルチチュードだ、と。

読んでもわけのわからなかった僕だけど、”スピノザの歴史的な観点からは、政治的または宗教的な権威が多数性[multitude,マルチチュード,民衆ないし群集]の自由な表現を抑圧することで力能がつねに権力に支配されているのである。”ーーーここでちょっと権力と力能を分離した意味について、ピンときた。
2. Posted by shimako   2009年03月12日 01:15
5 すばらしい。ありがとう。
ネグりはスペイン語で講演したときは、簡単な言葉を使ってユーモラスに話していたんだけど、こういう本の序文となると、難しそう。後で読みます。
3. Posted by (ono)   2009年03月12日 11:25
おお、全世界に公開して良かった。ドイツとメキシコから反響が!

> jose

ネグリなんか読まなくてもマルチチュードはそこにある。そう、神のようにです。無神論者に神は宿る!?

> shimako

元気?ネグリの講演を聞いたことあるんやね。僕もネグリに会いたかったけども、だいたいその人に会い損ねることがその人との真の出会いをもたらすね。僕はずいぶん前に買って読みかけていた『構成的権力』を最近読んで、ネグリの思想的な力強さに改めて感銘を受けています。


タイプミスを訂正せないかん。
4. Posted by jose   2009年03月13日 00:08
>ネグリなんか読まなくてもマルチチュードはそこにある。そう、神のようにです。

この辺はわかるけど、間違ってるような気もする。
5. Posted by shimako   2009年03月13日 13:12
あ、まちがった。ネグりじゃなくて、ハートの講演。(普通に間違った!!!)チアパスのサパティスタ祭りで。

たどたどしいスペイン語で、がんばって話していて、ユーモラスでチャーミングだったよ。聴衆もほくほく笑ってたし。ゲバラを引きながら「愛の概念について。愛、重要、重要」って言ってた。

あ、でも見たんじゃなくて、ネットラジオで聞いたんだけど。

((ono))くんの文章、九州の言葉が混ざるところがいいね。生活の中から出てくる言葉の感じ。私は自分の言葉、良くわからなくなっちゃった。自分のスペイン語より、ハートのスペイン語の方が好き。あったかくて。
6. Posted by nayuta   2013年07月25日 23:35
はじめの紹介文、知的でユーモラスだったので引き込まれました。私は今コモンウェルスを読んでいます。勉強になります。

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フリーターの引力『道の手帖 谷川雁』(河出書房新社)