2009年11月24日

芝居を観て気がついたことなど

<誤字その他若干修正'09.11.15.18:30>

最近二つのテント芝居を観た。テント芝居はおろか芝居そのものもほとんど産まれて初めて観た(学校で強制的に観せられたもの以外)。一つは野戦之月海筆子の「棄民サルプリ」、二つ目は劇団どくんごの「ただちに犬」。僕は前者に出演していた太田なおりさんと後者に出演していた丹生みほしさんのちょっとしたファンになってしまったが、なんと二人は近しい友達らしい。

どくんごの劇は全体が荒唐無稽という以外に僕には表現できないものだったので、その中に現れた唯一の「意味」らしきものを担っていた丹生さんの演技に僕は思わず感動してしまったのかもしれない。…こういうとむしろあの演劇に対する侮辱になるのではないかという恐れが生じてしまうような演劇。観て損はなかったが、二度と観る気にならない(というのは逆に褒め言葉…ということはないか)。

野戦之月海筆子の芝居では、記憶と言葉と匂いやらが国境と時代を越えて跳躍充満していたが、単純に人が歌うことの力強さに図らずも落涙しかけたほど感動した。また観たい。ぜひいつか九州に上陸してほしい。

さて、芝居を観て気がついたことというのは、政治と演劇の類縁性のようなもの。より正確に言えば、僕達が社会運動の手段にしているデモなどの「政治性」には、演劇との古代的類縁性のようなものがあるのだろうということ。だからコスプレとかメイクで叫んできた僕たちはみんな役者だったのだ。「そうです。すべて演技だったんです」。いや、といっても、もちろん、練習を積み重ね、鍛えられた役者さんたちの発声や歌や踊りを観て聞いて、自分も同じことやってきたなんて傲慢なことは言えないわけだが、誰しもデモで叫んだり、あるいは団交で経営者を罵倒するときに演技をしていないはずはないのである。われわれの人格そのものが仮面である、みたいな議論もあるが、日常生活の断片断片を本当に演技(演劇)として意識するならば、そこが政治化されはじめるのは間違いなかろうし、むしろ政治化とは自明視されている秩序を演劇化することに非ずや。デモが、テント芝居からテントすら取った芝居になれたとしたらば、では、どうか。あとは観客と役者の分割をどうするか。…と、こんなことをめぐって、その昔来日したミシェル・フーコーと寺山修司がかみ合わない議論をしていた。寺山は世界そのものが演劇だから(箱の中の制度化された)演劇は必要ないと言い、フーコーは世界に役者と観客の区分はないといい、寺山は役者と観客との二項対立は流動的で相対的なものだと言っていた。最近何十冊も出ているフーコーの本のどこかに入っているだろう。

旗もプラカードもトラメガも、個別的な身体と声を普遍性へ向かって引き剥がす手段なのだ。空間の演劇化が可能ならばトラメガもプラカードも要らないのではないのか。

個別から普遍への「引き剥がし」方は、例えば映画と演劇では全然違うだろうし、ライブコンサートと録音された音楽でも違うだろう。

「個別から普遍への引き剥がし」というのは市田良彦『ランシエール』の141ページに出てくる言葉で、最近僕はこの言葉が気に入っている。

いわゆる「過激」な行動をやってのけるアナキストなどが黒いフードやマスクで頭をすっぽり覆って集団で街頭に現れることについて、「卑怯だ、顔を出せ」「権力対応の緊張感が分からないのか」ってな議論の応酬がしばしばあるわけだけども、あれをむしろスタイルやメイクや舞台演出という観点から考えることもできそうだ。

地主と談判する農民の身体や経営者と団交する労働者の顔や手はそれ自体が「メイク」なのだ(農民は労働者は実際に何かを「メイク」している)。しかしその身体は異様に重たく、土地や工場という磁場に引きつけられてあり、引き剥がれ、飛翔してゆくものがないのかもしれない(土地から「引き剥がされた」のが労働者に他ならないとはいえ)。

僕たちの顔や身体は、もはや農民や労働者然とした有徴性を失い、右翼や左翼ですらなく、基本的にか弱いテレビ視聴者やゲーム発売日に店頭に並ぶの中学生のようだ。コスプレやメイクをするぐらいでないと逆に風が吹いたら吹き飛ばされ過ぎるのかもしれない。

hesalkun at 21:23│Comments(4)

この記事へのコメント

1. Posted by 太田なおり   2009年11月25日 02:21
こんにちは。私の名前を見つけてしまったのでコメントを書いてみようかな。読んだら削除してもらってかまいません。
空間を演劇化するというのはどういうことなのかしら?日常的な空間、ここではトラメガなどが出てくることから、集会場所や道路のことをさしていっているのかしら?

まず、私達は何かを狙っていくということ。
ここから行動がはじまるとうちは思っている。
例えば何のためにトラメガやプラカードをなくす必要があるのか、うちはあまりわかっていないのでなんなんですが、なくす必要があるとして、空間を演劇化するということが、運動にどんな影響を与えるのか、ちょっと考えてみようと思ったのですが・・・、うん、いや、影響うんぬんよりも、そんなんすごく楽しい試み!大変すぎるがね。いや、やったら絶対おもしろいと思う!(勝手に妄想がふくらんでいってます、はい。)空間を移動しながら、その場その場をとらえていく試み。うちはデモってそういうもんやと思いますが、なかなかそれが共有できない。一面的にとらえられている感もあり。「デモやってもなぁ・・・。」「デモで何がかわるん?」とにかく「デモ」は運動の一面として見られ、それゆえさけられる。うちもデモをし、しかしおもしろいデモを提案し組織出来きれなかったし、なにか中途半端な感じにあきてきた感がありまふ。そしてさけてきた。デモするくらいなら芝居するってな感じに。デモもそれそうとうのエネルギーが必要やからね。そのエネルギーは空に消えていくのかなんなのか、どこまで投げても当たっている感触がつかめにくいところも消耗する一つ。そう、身内で楽しみすぎるとただのオナニーで、外に向かいすぎると暖簾に腕押しのようなむなしさ。難しいね。。。(ただの愚痴に発展しそう・・・やばいやばい。)
2. Posted by 太田なおり   2009年11月25日 02:24
(さっきの続き…長すぎた…)

話をもどして、空間の演劇化。ただここでそれそうとうの意志が必要になる。確実にこの場所(空間)をとらえていくぞという意志。場をつくっていくぞという意志。見せていく、ひきつけていく、意志。これをじゃぁ、どんだけの人がつくる側で見る側はどのようにみるか、観客も必ずデモの中に構成されるわけで、またそれを道行く人が、観客としてみている、何層にもなって空間をとらえていく・・・という意志。
それでも空間を演劇化出来きれるのだろうか。路上パフォーマンスと空間の演劇化の違いってなんだろうねぇ。空間の演劇化がまたわからんくなってきた。
あ、そうそう、今年の6月やったかなぁ、長居公園で大輪祭りという祭りが毎年行われてきていて、その中で芝居をやりました。それは、テント芝居ではなく、公園の広場でやぐらをくんでやったんですが、それはその広場の空間をとらえれていたのか。いや決して空間を獲得するものではなかった。内容からしてもその空間に(いや、場所に)寄り添う形で存在していた気がするんです。そういう意味で失敗。狙いがあやふやだったのね、きっと。書きすぎましたが結論もでず、すみません。またお話できれば幸いです。では、すみませんが、読んだら削除しといてください。
3. Posted by 前田年昭   2009年11月25日 15:13
5 あんにょんはせよ。芝居もデモもその時その場かぎりで消えてしまいます。ビラ、フライヤーも数多の印刷物のなかでは“かげろう”のような存在です。しかし、1回1回を身体をはって演じたとき、少しずつですが自分自身が変わるのです。自分自身を変え得ない運動なんてクソです。野戦之月の芝居がいいのは例えば「私らはたかがパートタイマー、されどパーマネントトライアル」という言葉が生きる勇気になるからです。映画「アンヴィル」に描かれた精神にも通じます(>太田さん、いま吉祥寺で上映中、おすすめ!)。
4. Posted by (ono) > 飲み友達たちへ   2009年11月25日 18:25
> 太田さん

先日はどうも。コメントありがとう。もちろん削除しない。

「私達は何かを狙っていく」「ここから行動がはじまる」…が、「何か」や「ここ」がまたそれ自体難しい。僕達はすでに人々が現実からえぐり出してきた言葉を使って現実をとらえ、その言葉で現実を再度えぐる「不毛」な過程の中にいる。言葉と現実の照応関係には何の手応えもない日常がある。「こんなことで僕は本当に生きているのか」というぐらいない。「自分」なんてものをいくらいじくっても「オリジナル」な出発点はない。「何か」も「ここ」もない。その代わりテントはどこにでも張れるやろ。デモもどっからでもできる。すでにある言葉(「何か」を指している言葉)と自分がその言葉を「ここ」で偶然吐くことがある。しかし確かに「澱」がある。偏差がある。もしかしたら台本上の台詞と役者の声との狭間にそれはある。前田年昭の「繙蟠録」2009/11/21付「日常的現実の肯定と否定の二重構造を追及すること」参照。これも演劇のことでは?演劇って役者と、役者が演じている人間との、その場所と、舞台上で構成される場所との二重があるのでは?「トラメガやプラカードをなくす必要」はないよね。でもトラメガで吠えれば、あるいはデモをしたからと言って何かした気になる左翼文化はナンセンス。前田さんに同意。「空間を演劇化する」というのは、個人的な日常生活感覚とへばりついている言葉を、意識して言い直すことを通じて、支配的な秩序をずらす(身を引き剥がす)可能性を生み出すことではないかと思う。「ああ、うんこしたい」と言うことも、もしそれをトラメガで言う必要があるとしたら、何か変なことが起きるということ。(ああ、たとえが悪い)

> 前田さん

「アンヴィル」観たのですね。僕も何を隠そうもともとヘヴィメタ少年。観ようと思います。

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