保坂和志の『プレーンソング
』を読んだので、その感想と、そこから4コマ漫画の可能性について考えたのでいろいろ書いてみます。
まず、『プレーンソング』(1990年発表)の概要を簡単に紹介。
この小説、なんといってもストーリーとか筋のようなものが、ほぼ皆無。
主人公がちょっと広めのアパートを借りて、そこに若者たちが続々と転がり込んでくる。で、主人公はなんとなくそいつらの面倒を見たりする。
その間、とくにこれといってドラマティックな事件が起こるでもなく、淡々と日常が過ぎていくのだけど、その一見平凡な日常の中でふと何か考えたり感じたりすることがある。
それは誰もが生活の中で抱くような些細でありふれたもので、だから普段は気にもとめず、それらの感覚はすぐに忘れていってしまう。本当に、そういうささやかなもの。
『プレーンソング』はそのようにして、一見なにも起こらない日常を淡々と描くことで、意識されるかされないかの瀬戸際のような微妙な感覚を、丁寧に表現していく小説です。
保坂和志の独特な文体も、感覚や思考といった主観的な領域を巧みに浮かび上がらせることに大きく貢献していて、このことは巻末で石川忠司さんがわかりやすくその手法と効果について解説しています。
とにかく『プレーンソング』は、非常に独特の手法で、平凡な日常の中にある、見落としそうな繊細な感覚を丹念に描いた小説と言えます。いやまあ、アパートに若者が転がり込む生活が平凡かどうかは若干微妙ですけど。
とまあそんな保坂和志のデビュー作『プレーンソング』なわけですが、この読書体験は実際に読んでみないことにはさっぱりわからないと思うのですね。
なので、いくら内容を語ってもいわゆる「ネタバレ」的な読書体験の損ない方は不可能だと思います。
例えば、匂いって言葉で伝えられないじゃないですか。「くさい」「いいにおい」みたいな良し悪しの評価はできても、それ以上のネタバレって無理ですよね。
保坂小説もそういうところがあって、というかそういう側面が非常に強く出ていて、やっぱり魅力的な小説っていうのはそうでなくてはならない、と改めて感じました。言葉で伝えられない感覚を、言葉で表現するという。
小説とはまた異なる文学の形態ですが、詩は完全にネタバレで作品の魅力を損なうことは不可能ですよね。本来、文学ってそういうものなんじゃないでしょうか。
いえ、ネタバレで魅力が損なわれるタイプの作品がダメだと言っているわけではないのですが(ネタで勝負する系の小説も好きですし)。
で、『プレーンソング』を読み始めて間もなくの頃なんですが、僕は妙な既視感のようなものを覚えました。
『プレーンソング』を読みながら体験する感覚が、どうも何かに似ているのです。
その「何か」というのは小説ではなく。
小説でない「何か」で、こんなのあるよな……。と、どうにもそのように感じられるのです。
んで、すぐにはその正体がわからず、もやもやしたまま読み続けていたのですが、後半になってあるキャラクターが登場した瞬間、自分の中にあった疑問が氷解しました。
そのキャラクターの名前は「ゴンタ」。
自主制作映画を撮ってるんだけど、一度も作品を完成させたことがないという若者です。
で、このゴンタの撮影する映画っていうのが少し変わっていて、映画というかビデオなんだけど、ひたすらビデオカメラを回しながら周囲の人たちを撮っている。
で、撮りながらぶつぶつ独り言なんかをつぶやいている。
ビデオの撮影法っていうのも独特で、喋っている人にフォーカスするでもなく、漫然とふらふらと視点が移動する。
そしてこのゴンタの撮影している映画(というかビデオ)こそが、僕が『プレーンソング』を読んで抱いた印象そのものなんです。
まあ僕は小説の登場人物であるゴンタの撮影したビデオを見たことはないので、正確には「それに近いもの」ですが。
「それに近いもの」というのは、例えば素人が撮影した無編集のビデオだったり、あるいは映画とかで意図的にカメラを回しっぱなしにして、カットを行わずにそこに漂う空気感のようなものを伝えるシーンだったりです。
ええと、例えば普通の映画だと。いや映画じゃなくてTV番組とかでも良いんだけど、何か強調したい被写体があって、そこを切り出して、そうして強調したいカットを集めてつなげて画面を作っていきますよね。
それって、普通の小説もそうなんです。どこかにフォーカスを絞り、描きたい対象がくっきり浮かび上がるように、輪郭を持った描写を連ねていく。
ところが、保坂小説はそれをしない。
とりとめのない思考が浮かんでは消え、特に意味のない台詞を誰かがつぶやき、周りの情景は特別な意味を持たずにただただそこに在るように在る。
被写体を定めずに回しっぱなしにしたビデオカメラのように、一人の主人公の「主観」――感覚や思考――を時間に沿って忠実に再現していく様は、他の小説にはない大きな特徴です。非常にユニーク。
石川忠司は巻末の解説でそのことを「究極のリアリズム」と表現し、文学史に残る偉大な達成であると評価しています。
それは本当に、僕もまったくの同意見で、小説というジャンルにおいてここまで「主観」を忠実に描出したことは革命的とも言えるだろうし、こんなことが可能だったのかと驚くほかありません。
さて、ここから話が変わります。
僕はここ最近、文学の未来についてけっこう真面目に考えています。
どれくらい真面目に考えているかというと、おっぱいについて考えるときと同じくらい真面目に考えています。
それで、おっぱいの未来なんですが、巨乳至上主義の反動がそろそろ本格的にマスマーケット上で観測されると思うんですね。
あ、違う。今回は文学の話や。
ええと、文学の未来。その主なテーマは「ポスト小説」です。
今でこそ文学というと小説が主流みたいなイメージがありますが、小説の歴史なんてたかが知れていて、文学というと詩や戯曲がその中心にずっとありました。
(世界で最初の小説は、17世紀に書かれた『ドン・キホーテ』と言われています)
でもって、そういった時代の流れみたいなのを考えたときに、今後も小説が文学の主流であり続けるかというと、やはりそこには疑問を挟まざるを得ません。
じゃあ小説のあとに何が文学の主流になるのか。詩や戯曲が復権するということはたぶんないでしょう。たぶん、小説の座を奪うものが出てくるとしたら、より新しい形態の言語作品のはずです。
その候補はいろいろ考えているのですが、僕がその中でも有力視しているのは「マンガ」です。
えっ、マンガ?
と思われるかもしれません。
漫「画」というくらいですから、あれは文学よりも絵画や映画のような視覚芸術なのではないかと。
しかし、小説にしたって詩にしたって、完全に視覚を切り離して言語のみで成立しているかというと、決してそんなことはありません。
どんな詩や小説も、それが文字によって表現されたものであれば、視覚的な要素を必ず含みます。
積極的に視覚効果を取り入れた小説や詩も、たくさんあります。
そしていまや、小説を読む人はすっかり少なくなり、代わりにみんなマンガを読んでいますよね。
マンガがどこまで文学と呼べるのかは確かに難しいところです。ですが、そもそも文学というものの境界線はそんなに明確なものではありません。
その曖昧な境界線から、今後マンガが文学の領分へ浸食を進めてゆくのはおそらく必然の流れだと思いますし、すでにそれは始まりつつあるとも考えています。
ここで保坂小説の話に戻ります。
保坂和志の小説は(というか僕はまだ『プレーンソング』しか読んでいないので、僕の読んだ『プレーンソング』は)、あたかもビデオカメラを回し続けるようにして、個人の主観を忠実に写実的に描くものです。
言語によって成立する小説という分野において、実際にそのような表現が可能であることを、保坂和志は巧みかつユニークな手法で証明しました。
そこで僕の興味は次のようなものになります。「果たして同様の表現がマンガにおいて可能だろうか?」と。
マンガというのはバラバラの絵を順番に並べ、物事を描いていきます。これ、保坂小説的な表現には向いていないように思えます。どうしても、マンガというものはカメラの切り替えがついて回る表現形態だから。
でも、絶対に無理なのかというと、そう言い切ってしまうこともできなそうです。
そうして、しばらくあれこれとこの問題について頭を使っていたわけですが、ふと思い当たりました。
4コマ漫画ならいけるんじゃないか? と。
実をいうと、最初は4コマ漫画こそ保坂的表現に最も向かない手法なんじゃないかと思っていました。
なぜかというと、4コマという決まった区切りを持って、描写が進行していくから。
こうした意図的な区切りは、情景や心象をありのまま描くにはあまりに恣意的です。
ゆえに、4コマ漫画で保坂的表現は無理だと。
そのように思っていたのですが、ふと視点を変えてみると、4コマ漫画の持つ別の特徴に気づきました。
それは、常に一定のコマの大きさ、一定のコマ間隔、一定の視線移動で作品が成立しているということ。
そのことに気づいた途端「4コマ漫画こそが、最も保坂的表現に向いた形態だ」と、ほぼ確信を持って考えを改めることになりました。
そう、普通のマンガではコマの大きさにメリハリがあって、それがつまり描写する対象を意図的に強調したり、状況をより効果的に整理したりといった機能を担います。
4コマ漫画にはそれがない。それがない代わりに、4コマという区切りの中で、オチをつけることによって作品のフォーカスを絞っています。
しかしここで、オチをつけず、ただ漫然と、だらだらと、何が起こるでもない日常を描けば、保坂小説のようなリアリズムが実現できるのではないか?
そう思ってみると、確かに最近の4コマ漫画というのは、明快なオチもなく、明確なトピックもなく、ただキャラクター達の生活の一部を漫然と描いたものが増えているように感じます。
その手法を芸術の域まで高めた作品となると、残念ながら僕は寡聞にして知りません(おそらく、そこまで追求してしまうと商業作品になりにくいためでしょう)。
しかし、書き手の側に「4コマ漫画からオチという制約を取り払えば日常を描く新しい手法になり得る」という感覚が意識的であれ無意識的であれ生じているというのはほぼ間違いなく言えそうです。
思えば、いがらしみきお氏あたりがそういった手法の嚆矢となり、やがてあずまきよひこ氏がその表現が持つ可能性の片鱗を見せたことによって、現在の状況に至っている気がします。
この道に、いったいこれからどういった才能が続き、どんな作品が世に出るのでしょうか。
この手の新しさというものは、えてして発表から評価までにタイムラグがあるものです。もしかしたら既に発表されているのかもしれません。
マンガが本当に小説の地位を奪って文学として認められるようになるのか、日常系4コマ漫画がやがて「究極のリアリズム」に到達できるのか、いずれも僕の頭の中で勝手に繰り広げた机上以前の空論なので果たしてどうなるものやら分かりませんが、ひとつだけ言えそうなのは、どうやら僕はやっぱりおっぱいのことがたまらなく好きらしいということです。
まず、『プレーンソング』(1990年発表)の概要を簡単に紹介。
この小説、なんといってもストーリーとか筋のようなものが、ほぼ皆無。
主人公がちょっと広めのアパートを借りて、そこに若者たちが続々と転がり込んでくる。で、主人公はなんとなくそいつらの面倒を見たりする。
その間、とくにこれといってドラマティックな事件が起こるでもなく、淡々と日常が過ぎていくのだけど、その一見平凡な日常の中でふと何か考えたり感じたりすることがある。
それは誰もが生活の中で抱くような些細でありふれたもので、だから普段は気にもとめず、それらの感覚はすぐに忘れていってしまう。本当に、そういうささやかなもの。
『プレーンソング』はそのようにして、一見なにも起こらない日常を淡々と描くことで、意識されるかされないかの瀬戸際のような微妙な感覚を、丁寧に表現していく小説です。
保坂和志の独特な文体も、感覚や思考といった主観的な領域を巧みに浮かび上がらせることに大きく貢献していて、このことは巻末で石川忠司さんがわかりやすくその手法と効果について解説しています。
とにかく『プレーンソング』は、非常に独特の手法で、平凡な日常の中にある、見落としそうな繊細な感覚を丹念に描いた小説と言えます。いやまあ、アパートに若者が転がり込む生活が平凡かどうかは若干微妙ですけど。
とまあそんな保坂和志のデビュー作『プレーンソング』なわけですが、この読書体験は実際に読んでみないことにはさっぱりわからないと思うのですね。
なので、いくら内容を語ってもいわゆる「ネタバレ」的な読書体験の損ない方は不可能だと思います。
例えば、匂いって言葉で伝えられないじゃないですか。「くさい」「いいにおい」みたいな良し悪しの評価はできても、それ以上のネタバレって無理ですよね。
保坂小説もそういうところがあって、というかそういう側面が非常に強く出ていて、やっぱり魅力的な小説っていうのはそうでなくてはならない、と改めて感じました。言葉で伝えられない感覚を、言葉で表現するという。
小説とはまた異なる文学の形態ですが、詩は完全にネタバレで作品の魅力を損なうことは不可能ですよね。本来、文学ってそういうものなんじゃないでしょうか。
いえ、ネタバレで魅力が損なわれるタイプの作品がダメだと言っているわけではないのですが(ネタで勝負する系の小説も好きですし)。
で、『プレーンソング』を読み始めて間もなくの頃なんですが、僕は妙な既視感のようなものを覚えました。
『プレーンソング』を読みながら体験する感覚が、どうも何かに似ているのです。
その「何か」というのは小説ではなく。
小説でない「何か」で、こんなのあるよな……。と、どうにもそのように感じられるのです。
んで、すぐにはその正体がわからず、もやもやしたまま読み続けていたのですが、後半になってあるキャラクターが登場した瞬間、自分の中にあった疑問が氷解しました。
そのキャラクターの名前は「ゴンタ」。
自主制作映画を撮ってるんだけど、一度も作品を完成させたことがないという若者です。
で、このゴンタの撮影する映画っていうのが少し変わっていて、映画というかビデオなんだけど、ひたすらビデオカメラを回しながら周囲の人たちを撮っている。
で、撮りながらぶつぶつ独り言なんかをつぶやいている。
ビデオの撮影法っていうのも独特で、喋っている人にフォーカスするでもなく、漫然とふらふらと視点が移動する。
そしてこのゴンタの撮影している映画(というかビデオ)こそが、僕が『プレーンソング』を読んで抱いた印象そのものなんです。
まあ僕は小説の登場人物であるゴンタの撮影したビデオを見たことはないので、正確には「それに近いもの」ですが。
「それに近いもの」というのは、例えば素人が撮影した無編集のビデオだったり、あるいは映画とかで意図的にカメラを回しっぱなしにして、カットを行わずにそこに漂う空気感のようなものを伝えるシーンだったりです。
ええと、例えば普通の映画だと。いや映画じゃなくてTV番組とかでも良いんだけど、何か強調したい被写体があって、そこを切り出して、そうして強調したいカットを集めてつなげて画面を作っていきますよね。
それって、普通の小説もそうなんです。どこかにフォーカスを絞り、描きたい対象がくっきり浮かび上がるように、輪郭を持った描写を連ねていく。
ところが、保坂小説はそれをしない。
とりとめのない思考が浮かんでは消え、特に意味のない台詞を誰かがつぶやき、周りの情景は特別な意味を持たずにただただそこに在るように在る。
被写体を定めずに回しっぱなしにしたビデオカメラのように、一人の主人公の「主観」――感覚や思考――を時間に沿って忠実に再現していく様は、他の小説にはない大きな特徴です。非常にユニーク。
石川忠司は巻末の解説でそのことを「究極のリアリズム」と表現し、文学史に残る偉大な達成であると評価しています。
それは本当に、僕もまったくの同意見で、小説というジャンルにおいてここまで「主観」を忠実に描出したことは革命的とも言えるだろうし、こんなことが可能だったのかと驚くほかありません。
さて、ここから話が変わります。
僕はここ最近、文学の未来についてけっこう真面目に考えています。
どれくらい真面目に考えているかというと、おっぱいについて考えるときと同じくらい真面目に考えています。
それで、おっぱいの未来なんですが、巨乳至上主義の反動がそろそろ本格的にマスマーケット上で観測されると思うんですね。
あ、違う。今回は文学の話や。
ええと、文学の未来。その主なテーマは「ポスト小説」です。
今でこそ文学というと小説が主流みたいなイメージがありますが、小説の歴史なんてたかが知れていて、文学というと詩や戯曲がその中心にずっとありました。
(世界で最初の小説は、17世紀に書かれた『ドン・キホーテ』と言われています)
でもって、そういった時代の流れみたいなのを考えたときに、今後も小説が文学の主流であり続けるかというと、やはりそこには疑問を挟まざるを得ません。
じゃあ小説のあとに何が文学の主流になるのか。詩や戯曲が復権するということはたぶんないでしょう。たぶん、小説の座を奪うものが出てくるとしたら、より新しい形態の言語作品のはずです。
その候補はいろいろ考えているのですが、僕がその中でも有力視しているのは「マンガ」です。
えっ、マンガ?
と思われるかもしれません。
漫「画」というくらいですから、あれは文学よりも絵画や映画のような視覚芸術なのではないかと。
しかし、小説にしたって詩にしたって、完全に視覚を切り離して言語のみで成立しているかというと、決してそんなことはありません。
どんな詩や小説も、それが文字によって表現されたものであれば、視覚的な要素を必ず含みます。
積極的に視覚効果を取り入れた小説や詩も、たくさんあります。
そしていまや、小説を読む人はすっかり少なくなり、代わりにみんなマンガを読んでいますよね。
マンガがどこまで文学と呼べるのかは確かに難しいところです。ですが、そもそも文学というものの境界線はそんなに明確なものではありません。
その曖昧な境界線から、今後マンガが文学の領分へ浸食を進めてゆくのはおそらく必然の流れだと思いますし、すでにそれは始まりつつあるとも考えています。
ここで保坂小説の話に戻ります。
保坂和志の小説は(というか僕はまだ『プレーンソング』しか読んでいないので、僕の読んだ『プレーンソング』は)、あたかもビデオカメラを回し続けるようにして、個人の主観を忠実に写実的に描くものです。
言語によって成立する小説という分野において、実際にそのような表現が可能であることを、保坂和志は巧みかつユニークな手法で証明しました。
そこで僕の興味は次のようなものになります。「果たして同様の表現がマンガにおいて可能だろうか?」と。
マンガというのはバラバラの絵を順番に並べ、物事を描いていきます。これ、保坂小説的な表現には向いていないように思えます。どうしても、マンガというものはカメラの切り替えがついて回る表現形態だから。
でも、絶対に無理なのかというと、そう言い切ってしまうこともできなそうです。
そうして、しばらくあれこれとこの問題について頭を使っていたわけですが、ふと思い当たりました。
4コマ漫画ならいけるんじゃないか? と。
実をいうと、最初は4コマ漫画こそ保坂的表現に最も向かない手法なんじゃないかと思っていました。
なぜかというと、4コマという決まった区切りを持って、描写が進行していくから。
こうした意図的な区切りは、情景や心象をありのまま描くにはあまりに恣意的です。
ゆえに、4コマ漫画で保坂的表現は無理だと。
そのように思っていたのですが、ふと視点を変えてみると、4コマ漫画の持つ別の特徴に気づきました。
それは、常に一定のコマの大きさ、一定のコマ間隔、一定の視線移動で作品が成立しているということ。
そのことに気づいた途端「4コマ漫画こそが、最も保坂的表現に向いた形態だ」と、ほぼ確信を持って考えを改めることになりました。
そう、普通のマンガではコマの大きさにメリハリがあって、それがつまり描写する対象を意図的に強調したり、状況をより効果的に整理したりといった機能を担います。
4コマ漫画にはそれがない。それがない代わりに、4コマという区切りの中で、オチをつけることによって作品のフォーカスを絞っています。
しかしここで、オチをつけず、ただ漫然と、だらだらと、何が起こるでもない日常を描けば、保坂小説のようなリアリズムが実現できるのではないか?
そう思ってみると、確かに最近の4コマ漫画というのは、明快なオチもなく、明確なトピックもなく、ただキャラクター達の生活の一部を漫然と描いたものが増えているように感じます。
その手法を芸術の域まで高めた作品となると、残念ながら僕は寡聞にして知りません(おそらく、そこまで追求してしまうと商業作品になりにくいためでしょう)。
しかし、書き手の側に「4コマ漫画からオチという制約を取り払えば日常を描く新しい手法になり得る」という感覚が意識的であれ無意識的であれ生じているというのはほぼ間違いなく言えそうです。
思えば、いがらしみきお氏あたりがそういった手法の嚆矢となり、やがてあずまきよひこ氏がその表現が持つ可能性の片鱗を見せたことによって、現在の状況に至っている気がします。
この道に、いったいこれからどういった才能が続き、どんな作品が世に出るのでしょうか。
この手の新しさというものは、えてして発表から評価までにタイムラグがあるものです。もしかしたら既に発表されているのかもしれません。
マンガが本当に小説の地位を奪って文学として認められるようになるのか、日常系4コマ漫画がやがて「究極のリアリズム」に到達できるのか、いずれも僕の頭の中で勝手に繰り広げた机上以前の空論なので果たしてどうなるものやら分かりませんが、ひとつだけ言えそうなのは、どうやら僕はやっぱりおっぱいのことがたまらなく好きらしいということです。

