詳細っつっても、以前の告知どおり「青空文庫をコピペしてみよう!」でほぼ全部語れてしまっているのですが。
それじゃああんまりにざっくりすぎて、何をどうすれば良いのかわからない人も多いかと思うので、軽く趣旨などを記しておきます。
まず、バックグラウンドの思想として「既存の文章を切り貼りするだけで、新たな作品を創造することは可能か?」という問いかけがあります。
音楽の世界では、録音技術が発明されレコードが流通しはじめるに伴って、DJと呼ばれる人たちが現れました。
そこでは、様々なやり方でレコードが利用され、やがて「既存の録音音楽を切り貼りすることで新たな音楽を創造する」という試みも積極的に行なわれていくことになります。
絵画や写真にもコラージュという手法は古くから存在します。
ところが、詩や物語といった文学の世界において、パロディという手法は存在するものの、そのまま既存作品を一言一句流用して切り貼りをするという手法は、ほとんどと言っていいほど見かけることがありません。
現代社会では多くのテキストが電子データ化され、文章の切り貼りはかつてないほどに簡単な作業になりました。
大学生のレポートは、ネット上の文献のコピペが蔓延しているともよく言われます。
(それを逆手に取ったこういう例もあるそうです)
ネット上でPVの多いサイトというのを見てみると、例えばこのブログはライブドアのサービスを使っているのですが、ライブドアブログのアクセス上位は常に2chのまとめブログです。
つまり、掲示板への書き込みをコピー&ペーストし、読みやすく編集を加えたものですね。
一種の「コピペ文化」とでも言えそうです。
こういったまとめブログ・コピペブログは「2chの書き込み」を「素材」としているわけですが、さて。
ではこれは「創作物」と言えるのか、それとも単に掲示板の内容を要約して紹介しているのに過ぎないのか。
多くの人は、後者の判断をすると思うのですが、よくよく考えてみると、これはけっこう微妙な問題を孕んでいる気がします。
いったい、創作・創造とそうでないものの間に、どこでどう線が引かれるのでしょう?
これはなかなか答えの出ない問題ですが、確実に言えるのは、文章の切り貼りという作業は昔と比べると飛躍的に簡易な行為になり、またそれに伴って、文章のコピペという手法が今後も幅広く用いられていくこととなるだろう、ということです。
そして、手法の浸透とともに、徐々に文化も変容していく可能性はじゅうぶんに考えられます。
コピペと言えば、昨年とても印象的な事件がありました。
『俺と彼女が勇者と魔王で生徒会長』というライトノベルの盗作&絶版騒動です。
これが『バカとテストと召喚獣』という作品の文章を剽窃しているということで、ネット上で大きな騒ぎになり、結局絶版・回収にいたったという顛末でした。
この件の何がすごいって、ストーリーとか内容をパクってるんじゃなくて、文章をほとんどそのまま真似してるんですよね。
しかも、それで賞を取っちゃってるのが尚すごい。
これって、自分で文章を書く才能はなかったけど、既存の文章をアレンジしながら組み合わせることで新しい物語を創る才能はあった、ということだと思うんですよね。
もちろん、それは今の出版界ではやってはいけない行為なんだろうけど、これはこれで特殊な才能だし、これで潰れてしまったのは惜しいと感じています。
この『俺と彼女が勇者と魔王で生徒会長』を創作物であると見なすのか、それともこんなものは創作物ではないと一蹴してしまうのか。
これもまた、一概には答えを出し切れない、微妙な部分があると言えそうです。
ちなみに、同じく昨年、文藝賞でも似たような事件がありました。
これなんて、錚々たる選考委員の面子が揃いもそろって内容を絶賛していただけに、たとえ盗作であったとしても読んでみたかったと思ってしまいます。
おそらく、元ネタを上手に料理して、元ネタ以上に楽しめる作品に仕上がっていたと思うんですよね(でなきゃ、文藝賞の選考に残って絶賛されるまでいかないでしょう)。
どちらのケースも、紙一重の差で、作者も作品も世間に受容された可能性があるのではないでしょうか。
たとえば、きちんと元になった素材を明記しておけば、どうだったでしょう?
やっぱり既存の作品を流用しているというだけで、一蹴されるのでしょうか。
でも本当に、流用は創作において絶対的な禁じ手でありタブーなのでしょうか。
人間は何かを模倣することでしか創造することができない、なんて言説も、手垢がつくくらいにあちらこちらで繰り返されています。
2010年は出版界での盗作騒動が目立ちましたが、書籍の電子化が進み、そして本を書くことが今以上にカジュアルになるであろう将来、こういった「盗用」とどう向き合うか、というのは文学界が直面する大きな問題となるでしょう。
そういった文脈において、音楽の世界で行なわれたような「DJ」的手法が、新たな文学の手法として成立する可能性もあると言えます。
あるいはそういった背景とは関係なく、単純に「文章のコラージュでどんな世界を表現できるか」という可能性の追求もあります。
そうした中で、闇の中を手探りするような覚束なさではありますが、今回「文学DJ」という企画を立ち上げました。
まず、著作権の問題をクリアーするために、ソースの文章は原則として「青空文庫」に限定します。
(参考:青空文庫収録ファイルの取り扱い規準)
英語が得意な人は、プロジェクト・グーテンベルクでもOKです。
いずれも、著作権的に二次利用が問題ないテキストであることを確認し、自在にコピペをすることで、新しい文章の世界を創ることに挑戦してみて下さい。
キーボードのタイプすら不要、マウスのクリックだけで作品が書けるという、なかなか新しい試みです。
たぶん、多くの方が「やり方はわかったけど……でも、何をどうやって、どういう作品にすればいいのかわからない」という状態なのではないかと想像しています。
それで、良いです。
なにぶん、新しい試み、実験的企画です。
先例があるわけでもなく、模範作品があるわけでもなく、まだ正解も不正解も、何が良い作品で何がダメな作品なのかも、まったく何も誰もわからない、未知の世界なのです。
だから、戸惑いはあって当然。
わからないながら、手探りで文章を組み合わせていくうちに、だんだん自分にとって心地よい言葉のリズムや、文の繋がりが見えてくるかもしれません。そうなればしめたもの。
あるいは、結局試行錯誤しながらもわけがわからずじまいで、出来上がったものも意味不明で原型を留めない文字列になっている、ということもあるかもしれません。それはそれで、やっぱりしめたものです。
気軽に参加するも良し、気合いを入れて挑戦するも良し。
一人でも多くの人に楽しんで頂き、そして一つでも多くの作品が届けば、企画を立ち上げた身として大変嬉しく思います。
それじゃああんまりにざっくりすぎて、何をどうすれば良いのかわからない人も多いかと思うので、軽く趣旨などを記しておきます。
まず、バックグラウンドの思想として「既存の文章を切り貼りするだけで、新たな作品を創造することは可能か?」という問いかけがあります。
音楽の世界では、録音技術が発明されレコードが流通しはじめるに伴って、DJと呼ばれる人たちが現れました。
そこでは、様々なやり方でレコードが利用され、やがて「既存の録音音楽を切り貼りすることで新たな音楽を創造する」という試みも積極的に行なわれていくことになります。
絵画や写真にもコラージュという手法は古くから存在します。
ところが、詩や物語といった文学の世界において、パロディという手法は存在するものの、そのまま既存作品を一言一句流用して切り貼りをするという手法は、ほとんどと言っていいほど見かけることがありません。
現代社会では多くのテキストが電子データ化され、文章の切り貼りはかつてないほどに簡単な作業になりました。
大学生のレポートは、ネット上の文献のコピペが蔓延しているともよく言われます。
(それを逆手に取ったこういう例もあるそうです)
ネット上でPVの多いサイトというのを見てみると、例えばこのブログはライブドアのサービスを使っているのですが、ライブドアブログのアクセス上位は常に2chのまとめブログです。
つまり、掲示板への書き込みをコピー&ペーストし、読みやすく編集を加えたものですね。
一種の「コピペ文化」とでも言えそうです。
こういったまとめブログ・コピペブログは「2chの書き込み」を「素材」としているわけですが、さて。
ではこれは「創作物」と言えるのか、それとも単に掲示板の内容を要約して紹介しているのに過ぎないのか。
多くの人は、後者の判断をすると思うのですが、よくよく考えてみると、これはけっこう微妙な問題を孕んでいる気がします。
いったい、創作・創造とそうでないものの間に、どこでどう線が引かれるのでしょう?
これはなかなか答えの出ない問題ですが、確実に言えるのは、文章の切り貼りという作業は昔と比べると飛躍的に簡易な行為になり、またそれに伴って、文章のコピペという手法が今後も幅広く用いられていくこととなるだろう、ということです。
そして、手法の浸透とともに、徐々に文化も変容していく可能性はじゅうぶんに考えられます。
コピペと言えば、昨年とても印象的な事件がありました。
『俺と彼女が勇者と魔王で生徒会長』というライトノベルの盗作&絶版騒動です。
これが『バカとテストと召喚獣』という作品の文章を剽窃しているということで、ネット上で大きな騒ぎになり、結局絶版・回収にいたったという顛末でした。
この件の何がすごいって、ストーリーとか内容をパクってるんじゃなくて、文章をほとんどそのまま真似してるんですよね。
しかも、それで賞を取っちゃってるのが尚すごい。
これって、自分で文章を書く才能はなかったけど、既存の文章をアレンジしながら組み合わせることで新しい物語を創る才能はあった、ということだと思うんですよね。
もちろん、それは今の出版界ではやってはいけない行為なんだろうけど、これはこれで特殊な才能だし、これで潰れてしまったのは惜しいと感じています。
この『俺と彼女が勇者と魔王で生徒会長』を創作物であると見なすのか、それともこんなものは創作物ではないと一蹴してしまうのか。
これもまた、一概には答えを出し切れない、微妙な部分があると言えそうです。
ちなみに、同じく昨年、文藝賞でも似たような事件がありました。
これなんて、錚々たる選考委員の面子が揃いもそろって内容を絶賛していただけに、たとえ盗作であったとしても読んでみたかったと思ってしまいます。
おそらく、元ネタを上手に料理して、元ネタ以上に楽しめる作品に仕上がっていたと思うんですよね(でなきゃ、文藝賞の選考に残って絶賛されるまでいかないでしょう)。
どちらのケースも、紙一重の差で、作者も作品も世間に受容された可能性があるのではないでしょうか。
たとえば、きちんと元になった素材を明記しておけば、どうだったでしょう?
やっぱり既存の作品を流用しているというだけで、一蹴されるのでしょうか。
でも本当に、流用は創作において絶対的な禁じ手でありタブーなのでしょうか。
人間は何かを模倣することでしか創造することができない、なんて言説も、手垢がつくくらいにあちらこちらで繰り返されています。
2010年は出版界での盗作騒動が目立ちましたが、書籍の電子化が進み、そして本を書くことが今以上にカジュアルになるであろう将来、こういった「盗用」とどう向き合うか、というのは文学界が直面する大きな問題となるでしょう。
そういった文脈において、音楽の世界で行なわれたような「DJ」的手法が、新たな文学の手法として成立する可能性もあると言えます。
あるいはそういった背景とは関係なく、単純に「文章のコラージュでどんな世界を表現できるか」という可能性の追求もあります。
そうした中で、闇の中を手探りするような覚束なさではありますが、今回「文学DJ」という企画を立ち上げました。
まず、著作権の問題をクリアーするために、ソースの文章は原則として「青空文庫」に限定します。
(参考:青空文庫収録ファイルの取り扱い規準)
英語が得意な人は、プロジェクト・グーテンベルクでもOKです。
いずれも、著作権的に二次利用が問題ないテキストであることを確認し、自在にコピペをすることで、新しい文章の世界を創ることに挑戦してみて下さい。
キーボードのタイプすら不要、マウスのクリックだけで作品が書けるという、なかなか新しい試みです。
たぶん、多くの方が「やり方はわかったけど……でも、何をどうやって、どういう作品にすればいいのかわからない」という状態なのではないかと想像しています。
それで、良いです。
なにぶん、新しい試み、実験的企画です。
先例があるわけでもなく、模範作品があるわけでもなく、まだ正解も不正解も、何が良い作品で何がダメな作品なのかも、まったく何も誰もわからない、未知の世界なのです。
だから、戸惑いはあって当然。
わからないながら、手探りで文章を組み合わせていくうちに、だんだん自分にとって心地よい言葉のリズムや、文の繋がりが見えてくるかもしれません。そうなればしめたもの。
あるいは、結局試行錯誤しながらもわけがわからずじまいで、出来上がったものも意味不明で原型を留めない文字列になっている、ということもあるかもしれません。それはそれで、やっぱりしめたものです。
気軽に参加するも良し、気合いを入れて挑戦するも良し。
一人でも多くの人に楽しんで頂き、そして一つでも多くの作品が届けば、企画を立ち上げた身として大変嬉しく思います。