2017年04月22日

老人は貧乏でも健康な体があれば幸せな生活を送る工夫が出来る

P1310607P1310612P1310613P1310608お金に困らない老後の生活が理想であるが、でも健康という大前提がないとお金が生きない。貧乏でも健康な体があれば幸せな生活を送る工夫が出来る。健康はお金で買えない。とくに老人は一度健康を害すると元の生活に戻れない可能性が強い。大金叩いても体を元の状態に戻すことが難しい。誰もがそう考えるのではないか。お金が沢山ない高齢者、お金を沢山貯蓄していない老人は、お金を稼いだり貯めるよりも自分の健康寿命を延ばす生活に重点を置いて自分の時間とお金を投資すべきだと思う(通っている筋トレジムの老人仲間はみんなそのように考えて一晩も欠かさず鍛えている)。成長ホルモンを意図的に分泌させる方法として筋トレがある。筋肉を負荷の高い運動で傷つけて回復させる過程で成長ホルモンが分泌される。成長ホルモンには体の免疫力を強め、代謝促進を促す。筋肉は年齢に関係なく成長するので80歳の高齢者でも体が動く限りやれる。成長ホルモンは、バランスの取れた栄養(特にタンパク質を多めに取る)、適度な筋トレ運動、そして、睡眠で促進される。筋トレ後の夜は、爆睡するはずだ。体が睡眠を要求する。傷んだ筋肉細胞を修復するためにメラトニンが分泌されて爆睡になる。成長ホルモンは寝始めた時に多く分泌されると言う。80歳になっても運動をやり続けていると体はその生活環境に合わせてくれる。漁師をやっている老人の体が力強いのは、体が力を必要としている漁業の環境に適応しているからだ。経済的に裕福になることが難しい高齢者は、健康寿命を伸ばすことに自分の時間を使うことである。私のオススメは筋トレだ! 健康寿命を伸ばすための投資になる。安全な筋肉トレーニングを自分の習慣にしてしまうことだ。二本の足で立って、しっかり歩くことができるという機能を維持するためにいちばん重要となる筋肉は『大腰筋』。この筋肉こそが健康のあらゆるカギを握っている。(写真;沖縄の人は山羊を食べる、棟上げ式などの祝い事には山羊を一匹つぶす、山羊汁と刺し身が定番料理、食用にする山羊は“シージャー”と呼ぶ、色のついた山羊は“島シージャーでとくに美味しい)  

Posted by hhirano20 at 19:30

2017年04月19日

人生とは与えられた舞台で主役を演じているようなものかな?

P1310646P1310651P1310650人生とは与えられた舞台の上で、与えられた役を演じているようなものかな?と、これまでの生き方をふり返ってみて感じることがある。舞台は生きている場所(居場所)である。役は演じている自分自身の生き様。一人一人がそれぞれに場所と役の名前を頂いて演じている。初めに生まれ来る場所と役は定められている。でもそれをどのように生かしていくかによって、いか様にも演じていくことができる。与えられた舞台や役は、自分次第で素敵な人生にもつまらない人生にも出来る。どの様な人生にするかは自分自身の心の使い方にかかっている。人は心の在り方によって、善人の役、悪人の役、高貴な役、平凡な役、どんな役でも演じることが出来る。それを自分で選べるし選んでいる。人生の台本の脚本を書き演出するのは自分自身である。自分がどういう人生を歩みたいのか?どういう心で生きてゆきたいのか?どういう生き方をしたいのか?目的意識をはっきり持つことが、人生を演じていくのにとても大切な事だと思う。『日曜日の早朝に一度やってみたいことがあった。早朝五時前に目覚めた。早速二階のベランダの籐椅子に寝床を移した。まだ月も星も輝く闇夜であった。椅子を東向きにしてから寝直した。空が白けるよりもズーッと前に、何か東の暗闇の空にエネルギーが発散されるのに気がついた。物凄いパワーを東の方角に感じた。そのうち東の空が白みかけ、空はうすいブルーに変わり、思ったよりもチッポケで色白の太陽が昇ってきた。眠気が再び襲ってきて、少し冷たくも感じる風を四方から吹かれながら目を閉じた。あの闇夜のエネルギーに刺激されたのは鶏である。鶏は日の出前から鳴きはじめる。空が白けはじめると、小鳥がさえずりながらテラスにも近寄ってきた。陽が昇りはじめると途端に蝉の合唱が始まる。飼い犬が鳴きはじめるは最後であり、人間は犬の鳴き声に起こされて目覚めるである』。これは沖縄暮らしで自作自演した、楽しかった日曜日の思い出の一シーンである。(写真;沖縄“やんばる”にある借家のベランダが舞台である、東に東シナ海を望み西に乙羽岳と八重岳を仰ぎ、周囲は琉球松の見事な松林に囲まれている)




  
Posted by hhirano20 at 21:02

2017年04月17日

『死生観』とは「死を通して生き方や生き様(よう)を決めること」である

P1310572P1310568P1310547P1310539P1310573『死生観』とは「死を通して生き方や生き様(よう)を決める、判断する考えのこと」である。死を前提に生き方を考えることで、死を意味づけることにもなる。また死や死後に自分の納得できる意味を持たせることで、自分の中で死を受け入れ、死への恐怖・畏れを払拭したり軽減したりすることである。「よく生きながらえる人は十人に三人、ただ死んでいく人が十人に三人、命を守ろうとして動き回り、かえって死を早めてしまう人が十人に三人・・」。死が怖い、死が不安だ・・・、そんな気持ちのまま死ぬのは誰だって嫌だし怖い。死に直面してからでも、直面する前にでも、死を自分の中で受け入れる体勢を作っておくだけで不安感は軽くなるはずである。するとどのように生きたらいいのか、周りとどのように過ごしていくべきなのか、自分はどう在りたいのかが少しずつ見えてくる。日本人は「死」はどのように考えているのだろうか。昔と比べて「現代の日本人は死を日常から遠ざけてきた」ということに尽きる。その最たる例に「火葬」が挙げられる。今でこそ火葬が主流であるが、高度成長期以前までは土葬も珍しくなかった。この習慣があっという間に死体を日常生活から遠ざける方向へと向かわせた。他にはホテルや病院の部屋に「死」を連想させるため「4」号室がないことや、「アンチエイジング」という言葉から、人々が死と同じ自然の摂理である「老い」というものにもネガティブなイメージを持って見ていることからも覗える。つまり日本人は生と不可分のマイナスの部分をできるだけ視界から追いやり見ないようにしてきた。また本来自然の一部であるはずの死に「実感」が持てなくなってきている。「昨日の交通事故死者1名」と、人の”死”を単なる”数字”に置き換えている派出所の看板にみられる死は、リアルな死を思い浮かべる機会を消し去ってしまっている。「死ぬだの死体だのは見たくもないし、考えたくもないという姿勢は、当たり前のことから目を背けようとしている」と言えるだろう。死に直面したときほど生きる実感が湧いたり、死に感心を持ってこそ生と死が背中合わせであることに気ずき、自らの生き方を深く考えたりできる。(写真;沖縄を代表する植物、デイゴ、ハイビスカス、ブーゲンビリア、島バナナ、パパイア)  
Posted by hhirano20 at 23:16

2017年04月15日

老化は細胞が干からびて行く「細胞内液」低下現象とも言える

P1310484P1310486P1310487P1310491成人は体重の約60%(40%が約60兆個の細胞に含まれる細胞内液、20%が組織や血管の中の細胞外液)が水(体液)で、人体で水を蓄えている部分が「細胞内液」である。高齢者は体液が年齢と共に減り、とくに「細胞内液」が減っていく(細胞外液はほとんど減らない)。「細胞内液」が少ないと言うことは、水分の予備能力が少ないということであり“かくれ脱水”の状態に常にあることになる。通常、脱水症では体液は細胞外液から失われる。失われた水は「細胞内液」から随時補充される。その「細胞内液」が不足している状態が高齢者の体液である。そのため高齢者は脱水に弱く、血液がドロドロになりやすく脳や心筋梗塞の危険も高い。生まれたての赤ちゃんは水みずしくて、しっとりもちもちしている。水分は体重の80%もある。20代で60%を切り、高齢者になると50%を切ってしまう。「細胞内液」が減ると脱水状態になりやすくなるばかりでなく、各臓器にも悪影響を及ぼす。物忘れは水分量55%から始まるそうである。年をとるほど人体という水の惑星が砂漠化してくるので、老化の原因の大部分は実は「細胞内液」不足によるものである。張りのない皮膚やシワの原因は「細胞内液」不足による細胞の新陳代謝の低下であり、老人性のシミの原因は水分不足による腸内の汚れ(便秘・宿便)が皮膚に現れたもの。健康な脳の「細胞内液」約90%なのに、痴呆症の人の脳はその水分が減って縮んでいる。高齢者の身長が縮むのは骨や椎体の「細胞内液」が減るためであろう。老化は細胞が干からびて行く「細胞内液」低下現象とも言える。(写真;沖縄行飛行機の車窓、雨雲の上は雲一つない快晴、着陸で雨雲の中に突入、雨雲を抜けると曇り空、そこで不思議な現象を観察した、機体は全く雨に濡れていないのである、雨雲の中には雨粒ではなく雲粒、雲粒の大きさは雨粒の100分も一だそうである)

  
Posted by hhirano20 at 21:27

2017年04月12日

老いに“身をまかせて”立派に老いていくことが人間らしい

P1310673P1310675P1310677私たちは老いていく。老いていくことは運命の一つの事実である。だから老いというものを受け入れなければならない。「老いと闘う」ということになると、老いた人というのは悪であり、敗北したということになる。老いという一つの自然の働きというものを受け入れて、その老いに“身をまかせて”立派に老いていくことのほうがむしろ人間らしい。病気というものは人間が背負ったものである。生活習慣病の原因は、人間が長く生きすぎたからだという考え方もできる。医療の進歩や衣食住などの生活の改善、その他さまざまな改良で平均寿命をどんどん引き上げてきた。これは人間の勝利と考えてもいいが、本当は自然なことではないとも考えられる。人間というものはさまざまな生き方がある。老いていくのも病を得るのも、これは人間というものが否応なしに背負った一つの運命である。病気と闘い、病気をやっつける、このように“戦争”の中で「生病老死」を生きているという考え方もある。そうでなくて病んでいる細胞をなんとか応援して立ち直らせる、こういう考え方の方がむしろ医学の本筋ではないかと考えるようになった。いまの西洋医学の背景にあるものは、悪を許さない、悪を制圧するのが人間の善のもっとも大きな仕事である。物事を黒と白、善と悪に分けて、その善と悪の闘いが人間の体のなかでミクロの世界でも繰り広げられている。医学はその善に味方し、悪を滅ぼすための軍隊である。がん細胞は元々自分の細胞の一部が異常に増殖して、その増殖が止まらなくなった状態。一生懸命頑張りすぎた結果、ものすごい勢いで疾走し、ブレーキが壊れて暴走が止らない。こう考えると悲鳴をあげながら暴走しているがん細胞をなんとか助けて、異常な増殖を止めてあげたいと考えることもできる。このような考え方こそが治療というものの根本だと思うのだが・・。(写真;吉備路五重塔近辺の桜木も満開、お寺や校庭の桜見もノスタルジアを感じて楽しい)  
Posted by hhirano20 at 21:43