2015年05月27日

社会運動の理念

 自分の頭一つと身体一つは自由であるから、原発はすべて廃炉にしたいという意志を表明するため、反原発でもと金曜の官邸前抗議にはたびたび参加した。社会へ広くその意志が伝わって、選挙や諸政党に影響を与え、願いが実現される、とは思っていなかったが、福島原発事故以降の様々な政策に一定の影響は与えるだろうからとがんばってきた。しかし、いざ、川内原発の再稼働が目前に迫ってくると、無力感は増してきた。再稼働を遅らせたり、その数を少しでも減らしたりする圧力にはなるだろう。決して無駄な運動ではない。だが、事故が起こった場合の計り知れない惨禍を考えると、一基も稼働さすべきではないという願いは消えない。
 この再稼働問題と並行して、安倍政権は集団的自衛権の行使を容認を打ち出し、そのための法律群を国会に提出した。自分は平和憲法に反する集団的自衛権の行使を認めることには反対であるから、国会周辺で行われる抗議行動には、どんどん参加していくが、法案の可決を阻止できるとは思っていない。国会では可決を目指す与党が多数派だからだ。
 ところで、この問題と深くかかわるが、政府は沖縄の普天間基地移設問題を、辺野古への新基地建設によって強引に実施しようとしている。しかし、沖縄県民は、すべてのレベルの選挙によってその実施に、明確に反対の意志を示し、知事は工事の中止を命じた。だが、政府はそれを無視して止めようとはしない。
 社会運動の理念は、運動を通じて賛同者を増やし、選挙を通じて現状を変えていこうとするものだ。反原発運動も集団的自衛権の行使容認に反対する運動もそうである。だが、沖縄で生じている事態は、この社会運動の理念を扼殺するものだ。現状に抗する沖縄の人々は、社会運動を通して、すべてのレベルの選挙に勝ったのに、辺野古への新基地建設工事を止めることができない。
 こうした情況で、頭一つ、身体一つは自由な自分には何ができるか考えていたとき、川満信一氏が1981年に発表した琉球共和社会憲法私案をデモ仲間から教えられた。一読衝撃を受けた。ここには〈敗北の果てのどん詰まりに立った『開き直り』〉から創出された理念が黒光りしていた。

2015年05月14日

経済徴兵

今日、安保11法案の閣議決定を受けて銀座や官邸前で抗議行動が始まったようだが、安倍政権の平和憲法無視の姿勢はエスカレートする一方だ。また沖縄県民が示した辺野古基地建設反対の民意無視の姿勢も眼を覆うばかりだ。しかし、途方にくれているわけにはいかない。この身体一つと頭は自由に使えるのだから、できることをやっていこう。
「atプラス24」(太田出版 5月8日発売)は読みごたえがある。いくつも感想を書いてみたいが、取り急ぎ今回は國分功一郎氏の「辺野古を直観するために」で触れられていた〈経済徴兵〉のことを転記しておく。それは、以下のようなものだ。自分に何ができるかこれからじっくり考えるが、このことは頭に入れておきたい。
〈国からの命令によって強制的に軍に入隊させる古典的な徴兵制度がもはや機能しなくなった今日において採用されている新しいタイプのリクルート方法である。やり方は簡単だ。社会内の経済格差を広げるような経済政策を採用する。すると失業者が町にあふれる。その失業者たちに向かって「軍に入ると奨学金がもらえるぞ」「大学にいけるぞ」などと宣伝する。彼らは「自発的」に入隊する。今や、兵士を確保するのに国家的強制力など必要ない。経済的必然性があれば十分なのだ。
大学進学のための奨学金を受ける権利は確かに手に入れられる。だが、その権利を行使するためには厳しい条件が課されており、実際に大学に進学できるのはこうしてリクルートされた若者たちのうちのほんのわずかに過ぎない。こうして「自発的」に入隊した若者たちが、戦場の最前線に送られる・・・・・・といった事態が実際に起こっている(この手法については、次の書物に詳しい。堤未果『ルポ 貧困大国アメリカ』岩波新書)。もちろん、入隊する若者のすべてがこうしたこうした悲惨な事例に該当するわけではなかろう。しかし、少なからぬ数の若者がそうして軍隊に入ってきていることは確かなことである。〉

2015年05月13日

1997〜 四十三歳

 自分は読書から大きな影響を受けてきた。本から得たアイデアをそのまま実生活に応用してやってきたようなものだ。だが、中上健次の創造した浜村龍造はそうはいかなかった。『地の果て 至上の時』が出てすぐ読み、文字通り魅入られてしまったが、60歳の男盛りで龍造は自殺してしまうのだ。どうしてもその謎を解明したかった。
『枯木灘』で描かれた龍造はあらゆるタブーを突破する大文字の生であった。青年期から中年にいたる過程で生じる様々な葛藤を乗り切るのに大いに力づけられた。と、同時にこの大文字の生にはぴたりと裏側に「死の欲動」ともいうべき蕩尽を希求する自由が張り付いていた。もっとも鮮明にそれが表現されていたのはドストエフスキーの『悪霊』で、スタブローギンやキリーロフに体現されていた。そうして『地の果て 至上の時』の浜村龍造もそうだと思えた。
蕩尽と自殺の間にはもう一過程あると直観されていた。そんなことを追及して一体どうしようというのだろうか。しかし、スタブローギンやキリーロフ、そして浜村龍造に魅入られてしまった自分は、その謎をどうしても知りたかった。いいかえれば、ドストエフスキー、そして中上健次の認識にあこがれたのだ。
冷静に考えれば馬鹿げたやりかただか、自分は浜村龍造を模倣し始めた。『枯れ木灘』で秋幸がそうしたように。『地の果て 至上の時』においては、秋幸はもう「蠅の王」たる龍造を模倣したりはしない。だが、自分は「蠅の王」たる龍造を模倣しようとした。そして、奇妙なことに、目的を達してしまった。
蕩尽と自殺の間には恐るべき無感覚地帯が広がっていた。これは鬱病だ、とごくたまに考えがひらめくことはあったものの、心の可塑性というものがまったく失われてしまった。理想が、目的が一切感じられなくなってしまったのだ。この恐怖はすさまじい。なぜこのような地帯に迷い込んでしまったのか分からなかったので、出られるという希望も一切持てなかった。時間の経過とともに出口は死しか考えられなくなった。

まったく仕事ができなくなってしまい自宅待機を命じられた。精神科医にも見てもらったが、もらった安定剤や睡眠薬を飲むのが怖かった。後からこうでもあったろうと推測するしかないが、夏の盛りに肺炎になったのが幸運だったように思う。咳と高熱で動けなくなり、近所の総合病院までやっとの思いでたどり着き、そのまま入院した。完全に受け身になるより仕方がなかった。一週間寝たきりになり点滴を受け続けた。それで肺炎は治ったが体力はなかなか回復しなかった。秋からは埼玉の浦和市郊外の倉庫勤務となった。前の職場との関係が切れてしまったのだが、これも大きかったように思う。意図せず「遊動」してしまったわけだ。新しい職場に通うのは大変だった。何本か電車を乗り継いで南浦和駅まで行き、そこからはバスに乗らねばならなかった。駅の階段がこたえた。リハビリのつもりで、一歩一歩精神を集中して上り下りした。バスの本数が少なかったので、何日目かからは思い切って歩いてみることにした。結果的にはこれが大正解だった。片道約30分。地形が把握できたのちは、近道をさがしながらいろいろ歩き方を試してみた。必ずしも最短ではなく自然が多い道を選んだ。桜の大木が多く残っている地域だと気づいた。その紅葉も美しいものだと初めて知った。心の可塑性が回復していると意識はできなかったが、こうして書いていると自然に対する感受性は保たれていたのが分かる。対人関係や仕事の書類作成などはおぼつかなかった。以前のように能力が回復するという希望は持てなかった。気分は沈みがちであった。往復の途上で時々見かける飼い犬と藤衛門川という小川にかかる橋の下あたりに住むらしい雄鴨に会うのが楽しみになった。
業務は、印刷物を仕訳したり梱包して宅配便で出したりというのが主な作業で、パートのおばちゃんたちとはすぐ親しくなれた。まったく単調な手作業であったが、これもよかったのだろう。作業場にはラジカセがあって、皆が持ち寄った様々なテープが終日かけられた。手作業にかかりきりの間、精神はどのくらい音楽を慰めとするものか、これも初めて知った。
少しずつ体力が回復してきたので、往復の電車の中で本が読めるようになった。ひどいときは新聞を読んでも意味がとれなかった。酷なもので、若年性痴呆の記事だけは読めて、というより全く自分と同じ症状が書かれているので一々突き刺さるように分かり悲嘆にくれた。肺炎が治った直後は、何事にもすぐ疲れてしまい、振動する電車の中で無理に活字を追っていると熱が出た。再発が怖かったのでやめていたのだ。自宅待機の間、それまで愛読していたような本は全く読めなくなったので、図書館でなんとか読める本はないかと探してみた。赤川次郎と池波正太郎の作品は大丈夫だった。幸いたくさんあったので肺炎になるまでの苦しい自宅待機の期間、大いに助けられた。
あやぶみながらフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』を選んだ。少しずつだが読みすすむことができた。そして、極めつけは、倉庫の片隅で、全く捨て置かれた未使用の小型の原稿用紙の束を見つけたことであった。これに、一文字ずつ、升目を埋めてみようという意欲がわいたのだ。秋から冬、そうして春にかけてこうした生活のうちにあった。
秋に紅葉で慰めてくれた桜の大木たちが一斉に花を咲かせ始めた。雪の多い冬だったのがよかったのだろうか、何日も続いた満開の期間、感動で呆然としていた。倉庫への往復時のみならず、昼休みにも近所の桜を訪ねまわった。若葉の季節に突入しても自然との間の交通は衰えることはなかった。単調な倉庫の仕事に他の社員たちは必ずしも満足していないようであったが、いまの自分には合っていると感じていた。いわば社会関係は最小限で済んだので均衡が保たれていた。ところで、5月のゴールデンウイークを前にして、何がきっかけであったか、強烈な旅情に見舞われた。坂口安吾の『飛騨高山の抹殺』を読んでいるうちに何としても飛騨へ行きたくなって連休が始まるのを待ちきれず、国分寺の薬師座像や観音立像、そして大雄寺の小さな仁王の面影を胸に、上野の博物館へ出向いて各時代の仏像を見て歩いた。そして、思ったより数が少なかったので、そのまま能面や伎楽面なども見た。安吾の文章の力で何かが喚起されたのであろうか、お面のかたわらに人の気配を感じるような気がし始めた。全く興味を持ったことのなかったこれらの物と深く感応したに違いない人物がじょじょに感じられ始めた。初めて抱く感じだった。よし、どこまで続くか試してみようと更に時代を遡って土器の展示されている部屋へ進んだ。驚いたのだが、埴輪などや弥生式土器、果ては縄文時代の大きな壺に至ってもそれは持続した。別の棟には中国産の青銅器の類が展示されていたので、好奇心の赴くまま足を運んだ。だが、そこまでであった。人の気配は消えた。自分の想像力の限界であったのだろう。
4月30日の朝、明日は水無神社の祭礼と知って、矢も楯もたまらず1日分の着替えだけを持って家を出た。新幹線で名古屋まで行き高山線の特急に乗り換えた。

このあたりまで書いてきて、現在との類似を強く感じる。いままた同じことを反復しているのではないか。
同じ構造があるのだ。引退者となり期せずして「遊動」してしまったことにより社会関係が極小に後退した環境で、自然の中の1項としての関係性が前面化してきたのだ。前回この状態は、連休明けに倉庫業務から本部業務に、すなわち資本の原理が貫徹される職場に移動を命じられて一変することになった。自分に拒否権はなかった。

偶然だが飛騨に行く前、島崎藤村の『夜明け前』を読んでいたので、旅にはこの文庫本の下巻を持って出た。試楽祭の行われた夜、水無神社のそばの民宿に泊まった。それで気づいたのだが、狂死する半蔵が宮司として奉仕したのはこの神社であったのだ。新しい職場は目白にあった。思い立って少し足を延ばして早稲田界隈の古本屋をはしごして、島崎藤村の文庫本を集めたが、あまりに安いので愕然とした。ほとんど「一山いくら」といった感じであった。読み漁っているうちに高校時代の恩師が藤村の研究家であったことを思い出し、確か著書もあったはずだから読んでみようという気になって早稲田大学の図書館に探しに行った。運よく見つかって、書庫のなかで読みふけったが、その帰りキャンパスを横切って地下鉄の駅へ向かう途中、柄谷行人の講演会を告知する立看板と出会った。連載というより分載がその秋から始まる『トランスクリティーク』に関するものであった。
その講演の日は仕事を休んで聞きに行った。また秋からの連載を待ちかね、始まると毎号むさぼるように読みふけった。1999年の春に連載が終わったのち、お茶の水で「アソシエ21」の設立集会があったが、その記念講演で柄谷氏は『トランスクリティーク』の最終章を読み上げた。この「カントとマルクス」というサブタイトルを持つ長大な作品は単独者としての諸個人に、資本と国家に対抗する運動を提起するものであった。
この提起は魅力的であった。というよりも、ただちに自分が生きていくための指針となった。どんなに納得がいかなくても、利潤追求を至上命令とする資本の運動には歯が立たない、可能なのはせいぜい、できるだけその運動と距離をとって生きることしかない、社会に出て以来「浜村龍造」を模倣しようとしたときまでそう考えてやってきた。またどうしても人に支配されたくなかったし支配したくもなかった。いわば、ひょうひょうと生きるのが理想と思ってやってきた。だが、自由であれ、そして他者をも自由な人格として扱えという至上命令を堂々と掲げて、それを許さない資本と国家の強大な運動に対抗することは可能だと真正面から説く人物がここにいる。資本の運動を精密に解明し、生産=消費協働同組合と利子を生まない代替通貨の創設によって資本の運動を揚棄し、生産=消費協働組合のグローバルなネットワークが国家にとって替わることが可能だと提示したのだ。
強大な資本と国家の運動に対抗することが不可能であれば、ヘーゲル主義者が言うようにカントの提示する世界市民としてのあり方は単なる理想主義として軽んじられても仕方がないであろう。だが可能であるならば、自由であれ、そして他者をも自由な人格として扱えという至上命令は堂々と主張されるべきなのだ。『トランスクリティーク』のもたらした衝撃はまずこの点にある。ついで、その道筋のアウトラインの提示が新鮮であった。また具体的な提案もいくつかなされていた。それらを受けてまもなく運動体が結成された。ただちに自分は参加した。当初から、利子を生まない代替通貨の設計は運動体の中でも特に活発に検討され試行されたが、やがてその実践が運動体全体の主目的であるかのような観を呈しはじめた。
残念ながら2年ほどでこの運動体は解散してしまった。直接の原因は試行された代替通貨の運営をめぐっての内紛であるが、2001年㋈11日に生じたアメリカ同時多発テロ事件の衝撃も大きかったと思う。生産=消費協働組合のグローバルなネットワークの形成を通じて合法的かつ徹底的非暴力のもとに資本と国家の揚棄を目指すという運動方針が、この事件の衝撃の前に無力に見えた。この大規模なテロ事件は、ある意味で資本と国家に対抗するという側面を有していた。それは、いかに資本と国家の強大な運動が深刻な南北格差問題を生み出しているかを明らかにしてもいた。テロと戦争の問題、ひいてはこれらを生み出す国家の矛盾に対する用意がなかった。
運動体の解散の後も、運動を通じて知り合った仲間たちと、生産=消費協働組合的な活動、そしてイラク戦争反対デモなどに継続的に参加したが、やはりモチベーションは下降していった。一方資本の運動の進化は凄まじく、どのような分野においても、その運動と距離をとることが1年ごとに困難になっていった。この間、柄谷行人の国家と資本の運動に関する理論的解明は中断されることなく、論考も次々と発表された。その反復性が研究され世界システムとしての把握が進み、国家の原理的探究も進んだ。その上でさらなる対抗運動の方向性を示す著作として、2006年には『世界共和国へ』が、そうして2010年には『世界史の構造』が刊行された。ひたすらそれらを読み込む作業が進展する資本の運動に圧迫され続ける自分の生活の支えであった。
2011年3月11日の東日本大震災と原発事故の直前、もう自分は限界にきていたように思う。職場においては日常業務の隅々まで資本の原理が貫徹されるようになっていたから。冬の間、昼休みに近所の公園へ行き、陽光をあるいは反射し、さらには透過させる木の葉の生命力を浴びるのが唯一の慰めとなっていた。

3.11をきっかけに利潤追求一辺倒であった社会の趨勢にいったん変化が生じたのは間違いない。また、反原発運動が拡がっていった。何万人も参加するようなデモが毎月のように行われるとともに、毎週末、首相官邸前や国会前での抗議行動に大勢の人々が集まるようになった。しかし、盛り上がりを見せたのは2年間くらいで、現在も続いているとはいえ、その後は衰えていった。逆に資本と国家の運動の巻き返しは凄まじく、原発再稼働を着々と準備するのみならず、戦争へと傾斜する国家の暴走を食い止める歯止めであった平和憲法の解釈を覆し始めた。
交換様式論を打ち立てた 『世界史の構造』以降も、柄谷氏の資本=国家=ネーションを揚棄する道筋の解明は停滞することなく継続されている。特にその揚棄のカギとなる交換様式を『哲学の起源』においてはイオニアのイソノミアに、また普遍宗教によって開示された交換様式に、更には『遊動論』においては柳田国男の追及した固有信仰に見出し続けている。
このところの社会情勢の変化を危惧しながら一つ気付いているのは、イソノミアに関しても、普遍宗教にしても、また固有信仰にしても、理念は残しつつも運動体はその都度滅び去ったということだ。
〈小さいこと、あるいは、弱いことは、普遍的であることと背反しない。そのような考えが、柳田国男の思想の核心にある。強大なものは没落する。〉(『遊動論』P174)
〈遊動性(自由)は平等をもたらすが、それを保持するために、遊動性を可能にする空間を拡張しなければならない。ここにイソノミア=タウンシップがはらむ矛盾がある。アメリカの独立革命はタウンシップと連邦制をまもるためになされたが、同時に、それを無化してしまったのである。一方、イオニアでは、連邦が実現されなかった。そのために、隣国のリディアやペルシアの侵攻に対して抵抗できなかったのである。〉(『哲学の起源』P48)

2015年05月09日

『実践理性批判』(カント 岩波文庫 1979年)

初めて読んだ時と同じように驚いた。道徳的法則は直ちに定立され、しかもたった一つしかないのだ。
〈君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。〉

そしてこの法則は次のような相貌をしているのだ。
〈我々の本性の道徳的規定――すなわち無限への進行においてのみ[心意が]道徳的法則と完全に一致し得るという規定に関するこの命題は、差し当たり思弁的理性の無力を[現世において]補うという点に関してばかりでなく宗教に関してもまた極めて重要である。
この命題を欠くと、我々は道徳的法則を寛容(寛大)なものと見くびり、従ってまたこの法則を我々の安易な気持ちにそぐうように歪めて、道徳法則をしてその神聖性の尊厳をまったく失わしめるか、さもなければ(中略)狂信的な神智学的夢想に耽るか、この二つのうちのいずれかである。〉(第二篇 第二章 四 純粋実践理性の要請としての心の不死 P247)

来週は「琉球共和社会憲法C私(試)案(川満信一1981)」を考える集会を「三人灯」で行うための打ち合わせをやるが、自分の原点はここだと思う。社会情勢に精通した先達や10年間ひたすら信念に基づいて実践を継続してきた店長と意見交換して、どのような視界が開けるか期待するところは大きい。

2015年04月23日

『社会的共通資本』(宇沢弘文 2000年 岩波新書)

著作集を読み始めたのだが、「社会的共通資本と社会的費用」というサブタイトルの第1巻の巻頭は「自動車の社会的費用」で、タイトルは似ているが岩波新書の方の内容とはだいぶ異なる。ちょっと面食らったが、主として70年代に書かれた論文を主とする「自動車の社会的費用」という視点が「社会的共通資本」という理念に現実性を与える出発点になったのだと分かってきた。理念の原点は、S・ヴェブレンの『営利企業の理論』で説かれた制度主義(Institutionalisum)のようである。新書の第1章から抜粋してみる。
〈市民的自由が最大限に保障され、人間的尊厳と職業倫理が守られ、しかも安定的かつ調和的な経済制度〉はどのようなものか。それは〈一つの普遍的な、統一された原理から論理的に演繹されたものでなく、それぞれの国ないしは地域のもつ倫理的、社会的、文化的、そして自然的な諸条件がお互いに交錯してつくり出される〉ような制度で、〈経済発展の段階に応じて、また社会意識の変革に対応して常に変化する。〉したがって、〈生産と労働の関係が倫理的、社会的文化的条件を規定するというマルクス主義的な思考の枠組みを超えると同時に、倫理的、社会的、文化的、自然的諸条件から独立したものとして最適な経済制度を求めようとする新古典派経済学の立場を否定する〉
そして、このような制度主義の経済制度は以下のような〈社会的共通資本とさまざまな社会的共通資本を管理する社会的組織のあり方〉によって特徴づけられる。
まず、社会的共通資本とは、〈土地、大気、土壌、水、森林、河川、海洋などの自然環境だけでなく、道路、上下水道、公共的な交通機関、電力、通信施設などの社会的インフラストラクチャー、教育、医療、金融、司法、行政などのいわゆる制度資本をも含む。(中略)社会的共通資本のネットワークのなかで、各経済主体が自由に行動し、生産を営むことになるわけである。市場経済制度のパフォーマンスも、どのような社会的共通資本の編成のもとで機能しているかということによって影響を受ける。〉
また、これらがいかに管理、運営されるかが重要であるが、それは
〈それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって〉行われる。〈決して、政府によって規定された基準ないしはルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない。この原則は、社会的共通資本の問題を考えるとき、基本的重要性をもつ。社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciarry:受託・信任)の原則にもとづいて、信託されているからである。〉(P20〜23)

宇沢弘文は戦後若くして留学し、60年代末に帰国して日本の特異な「自動車社会」に衝撃を受けている。国内にずっといた人々は何も感じなかった。宇沢が「移動者」であったということは重要だが、河上肇の『貧乏物語』を読んで経済学を志す前は数学者であったという点も、普遍性を目指す点において圧倒的な資質を開花させた要因であろう。70年代からの日本の歴史に関して彼の述べるところは、20歳台からの自分が辿った歴史でもあるが、その洞察は40年を経過して引退者となった今ようやく腑に落ちるようだ。

2015年04月22日

辺野古移設問題を学ぶ

 17日の官邸前抗議からの帰りにデモ仲間から次の3点の存在について教えてもらった。あまりに近視眼的な昨夜の自分の言説に何の根拠をも見出せないと諭してくれたのだろう。
★琉球共和社会憲法C私(試)案(川満信一1981)
★琉球共和国憲法F私(試)案(仲宗根勇1981)
★生存と平和を根幹とする「沖縄自治憲章」(玉野井芳郎1981)
インター ネットで検索してすぐ読んでみた。
読むほどに、いかに自分が国家の視点にとらわれているか気づいて愕然とした。川満氏はひたすら普遍的な地平に立とうとしていた。
 土曜日にパソコンが壊れてしまい、アクセスできなくなったが、この普遍性には覚えがあった。20年前に雑誌の連載で初めて出会い、のちに『トランスクリティーク』で再会したあの普遍性だ。
〈われわれが先取りすることができないような他者とは、未来の他者である。というより、未来は他者的であるかぎりにおいて未来である。現在から想定できるような未来は、未来ではない。このように見れば、普遍性を公共的合意によって基礎づけることはできない。公共的合意はたかだか現在の一つの共同体―それがどんなに広いものであれ―に妥当するものでしかない。だが、そのことで、公共的(public)という概念を放棄せねばならないということにはならない。たんにパブリックという語の意味を変えてしまえばよいのだ。そして、事実カントはそうしたのである。
 カントは『啓蒙とは何か』において、啓蒙を幼年期を出ることと定義している。それは具体的にいえば、国家共同体の一員であることにとどまらず、世界市民的社会の一員として在るということである。注目すべきことは、その時、彼が公―私の意味を全く変えてしまったことである。
 (中略)
 通常パブリックは、私的なものに対して、共同体あるいは国家のレベルについていわれるのに、カントは後者を逆に私的と見なしている。ここに重要な「カント的転回」がある。この転回はたんに公共的なものの優位をいったことにではなく、パブリックの意味を変えてしまったことにあるのだ。パブリックであること=世界公民的であることは、共同体の中ではむしろ、たんに個人的であることとしか見えない。そして、そこでは個人的なものは私的であると見なされる。なぜなら、それは公共的合意に反するからだ。しかし、カントの考えでは、そのように個人的であることがパブリックなのである。
 ところで、共同体や国家は実在しても、またネーションを前提とした「インターナショナル」な機構が実在しても、「世界公民的社会」というものは実在しない。ひとは共同体に属するのと同じような意味で、世界市民であることはできない。世界市民的であろうとする個人の意志がなければ、世界市民社会は存在しない。世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者に向かって、現在の公共的合意に反してでもそうすることである。〉(『トランスクリティーク』P154〜6 定本 柄谷行人集3 岩波書店)

 なぜいま、福島と沖縄が資本と国家に対抗する運動の中心と感じられるのか。それは現在そこで生じている矛盾に押しつぶされないためには、〈世界市民的であろうとする個人の意志が〉、〈公共的合意〉すなわち国家レベルでの現在の合意に反してでも〈未来の他者に向かって〉理性を使用しよう、「パブリック」であろうとする意志が必要であるからなのだ。

2015年04月17日

福井地裁のこと、今日の翁長−安倍会談、そして金曜抗議

 昨夜上京してきて、今日は昼間から飛びまわった。この秋に10周年を迎える「三人灯」の企画会議に参加するのが最大の目的で上京したのだが、世の中の変転もめざましく、14日には福井地裁で感激のあまり身震いするような判決が出た。それを受けて、きょう夕方からは、関西電力東京支社前での抗議行動を皮切りに、官邸前、国会前へとはしごしました。官邸前にも国会前にも、今回の福井地裁の仮処分を勝ち取った原告の方も上京して、報告をなさってくれました。あいにく雨が強くなってきたので、通常は8時まで続けるのですが、今夜は国会前は20分くらい前で打ち切りとなりましたが、気分がよいというか文字通りすがすがしいアクションとなりました。
 さらに今日の午後は、もう一つ注目すべき出来事があった。翁長−安倍会談である。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150417/k10010051751000.html

 世の中の出来事はみな関連しあっている。自分もその一人であるが、3.11以降、高齢者、引退者がさまざまな対抗運動の中核を担いつつある。これは偶然ではないので、かつては、60年代、70年の対抗運動は学生が一翼を間違いなくになっていた。けれども、もう学生運動はない。なぜならば、入学したらすぐ就活を考えなければならいないような身分の者は、決して学生とは言えないだろうから。だから、変だな、納得いかないなと思うなら運動を始めるべきだが、それは学生運動と言うより「労働運動」に限りなく近い。正確に言っても「労働予備軍」としての運動であろう。
 いま、どのような巡りあわせかは皆目わからないけれども、沖縄が福島と同じく資本と国家に対抗する運動の拠点となりつつあるのは間違いないと感じられる。そうして、今日の翁長−安倍会談がどのような動きをこの後引き起こすか未知数ではあるが、のろしは福井から立ち昇った。年寄りの感傷なのだろうが、樋口裁判長は梅田雲浜を髣髴とさせた、ぼくには。みなさんは忘れているだろうけれども、安政の大獄で最初に検挙されたのは近藤 茂左衛門(こんどう もざえもん)で次が小浜藩士の彼なのである。この後、どのくらい秀才であったか見当もつかない越前松平慶永家臣の橋本佐内を皮切りに、最後の刑死者・吉田松陰まで大獄は続いた。およそ150年前と同じようなことが反復されようとしている。

2015年04月16日

「固有信仰」からヒントを引き出す

 柳田国男にとって「家」は信仰の基盤であった。ただそれはふつう批判されているような家父長制イデオロギーに基づくというよりも、先祖が期日を決めて往来する場としての重視で、その場を媒介に固有信仰が存在するのである。大胆に言うなら、固有信仰がある限り「家」は一つのアソシエーションで、成員は神に対する愛によって、成員間関係を形成する。すなわち家族間の関係はアソシーエーションを形成する関係なのだ。
〈祭りは本来国民にとって、特に高尚なる一つの消費生活であった。我々の生産活動はこれあるがために、単なる物質の営みに堕在することを免れたのであった。それが一つの収益中心と結び付くに至って、新たに生まれた問題は算えきれぬほどもある。そういう中でも反省してみなければならぬ点は、昔はまったく見えなかった個人祈願の盛んになったことである。〉(『日本の祭り』 一三 P294)
 柳田が執拗に探究する固有信仰において個人祈願はなじまない。世界宗教といえども互酬性の原理に基づくかぎりは普遍宗教ではない。〈ひたすら神の照鑑を信頼して疑わず、瞑助の自然に厚かるべきことを期して、祭をただ宴集和楽の日として悦び迎える〉という信仰には、個人祈願も互酬性の原理も感じられない。
 では、そのような「家」と「家」の関係はどのようなものあろうか。「家」で行う祭りと神社で行われる「祭」の比較によって読み解けないだろうか。〈人は死ぬと御霊(みたま)になるのだが、死んで間もないときには、「荒みたま」である。すなわち、強い穢れをもつが、子孫の供養や祀りをうけて浄化され、御霊になる。それは、初めは個別的であるが、一定の時間が経つと、一つの御霊に融けこむ。それが神(氏神)である。祖霊は、故郷の村里をのぞむ山の高みに昇って、子孫の家の繁盛を見守る。生と死の二つの世界の往来は自由である。祖霊は、盆や正月などにその家に招かれ共食し交流する存在となる。〉(『遊動論』第四章P135)
 「家」で行うのは、先ず「荒みたま」を供養し祀ることである。さらに、盆や正月に祖霊を祭る、すなわち招き共食する。これは、御霊が〈一定の時間〉は個別的でもあるからだ。だが、それ以降は神(氏神)に融けこんでいるのだから、神社で祭る。
 しかし、どうもこれだけでは判然としない。参考になるのは『遊動論』で引用されている宇沢弘文の『社会的共通資本』の一文である。
〈「社」という言葉はおそらく、コモンズの訳語として最適なものではないだろうか。というよりは、コモンズよりもっと適切に、私がここで主張したいことを表現する言葉であるといったほうがよいかもしれない。社という言葉はもともと土をたがやすという意味をもっていた。それが、耕作の神、さらには土地の神を意味し、さらに、それをまつった建築物を指すようになった。社は、村の中心となり、村人たちは、社に集まって相談し、重要なことを決めるようになっていった。そして、社は、人々の集まり、組織集団を指すようになったといわれている。〉
 また、コモンズは次のように説明されている。
〈《独立した生産、経営単位としてとられるべきものは、一戸一戸の農家ではなく、一つ一つのコモンズとしての農村でなければならない》(『社会的共通資本』)。
 コモンズとしての農村は、林業、水産業、牧畜などを含む生産だけではなく、それらの加工、販売、研究開発を統合的に、計画的に実行する一つの社会組織である。それは、数十戸ないし百戸前後からなる。〉(『遊動論』P65〜66)
 すぐに気づくのは「家族会議」という言葉はいまも残っているが、それを越える複数の「家族」会議は消滅してしまったという点だ。また祭の場としての神社は残っているが、それ以外の問題をともに検討する場としての社、すなわち〈社は、村の中心となり、村人たちは、社に集まって相談し、重要なことを決めるようになっていった。〉ところの社はすでにない。従って次のような集団もない。〈そして、社は、人々の集まり、組織集団を指すようになったといわれている。〉理由は明確であろう。村が農業、林業、水産業、牧畜などの生産を営む家のみとなり、〈それらの加工、販売、研究開発を統合的に、計画的に実行する一つの社会組織〉になり損ねたからだ。
 資本主義経済の草創、発展期において都市と農村の二分化は不可避と考えられた。では現在はどうだろうか?
 
 考えを進めて行くのに参考になるのは、3月に刊行された『社会運動』no.417に載った金翼漢(キム イッカン)氏へのインタビューだ。3月24日のブログで1回引用しておいたが、再度転記しておく。「今回の惨事」とはちょうど1年前に起こったセウォル号事件のことである。
〈今回の惨事の原因を簡単に言えばふたつなんです。ひとつはお金の追及しか知らない資本主義、もうひとつは民衆と意思疎通しない権力です。資本主義の話からすると、経営の透明性よりも人間中心の互恵の経済を大事にすべきだということはみんなわかっていたのですが、放っておいたのです。(中略)
 もうひとつ、権力の方ですが、僕らはこれまで政府や権力を握った政党だけを見てきました。彼らと闘うと何かしら改善できたわけです。セウォル号の惨事の構造を見た経験から、僕は中央権力に向かい合うことが問題の唯一の本質ではないと考えています。要するに、現場にある権力、それから大統領と現場の間にある多様なレベルの権力、その全体の問題です。結果的に船に閉じ込められたひとりの乗客も救出できなかったわけで、これまでは大統領を中心とした政治闘争による権力の改革を考えてきたとすれば、これからは多層の権力の実態に対してもっと緻密に把握し、権力ひとつひとつ、その構造全体を改革していくという戦略を立てないといけない。(中略)
 とにかく生活現場での運動が弱いので、理論的な論争をしても実際の社会に対する影響力はあまりなかったと思います、キムデジュン大統領の時代とノムヒョン大統領の時代に新自由主義を容認してしまった経過から見ると、経済や政治の現場で新自由主義の力は強かった。強いのは当然なのですが、問題は運動をする側の人間たちが本格的にそれに抵抗しなかったことです。口だけで「新自由主義反対」と表明しているに過ぎない。非正規労働者の問題に対しても、労働組合の人間たちは自分の損を前提にした代案を出せなかった。もちろん問題の解決ができなかった基本的な原因は権力と資本そのものにあるのですが、僕の個人的な視点は、下からの、つまり生活部分から新しく運動をやり始めないかぎり、現実に直接の影響を与える運動はできないだろうということです。(中略)目標は社会的経済の比率を大きくしていくことで、まずはそれが大事です。そのための権力ブロックですが、まずはまち単位の権力ブロックです。それが基本であって、一部の自治体に拡散して行く。それがいくつかあって、政治権力との連結をもつ。そういう三つぐらいの領域だと思います。(中略)基本のまちづくりやまちでの共同体運動などはやればできる可能性があり、それで僕は冒頭でお金の話をしたわけです。それを拡散して自治体レベルまでいこうとする時、僕はふたつの戦略を考えています。ひとつは、従来の自治体の権力が影響を与えないようにする。何でもかんでもほっといてくれということ。もうひとつは、下層ガバナンスと呼んでいますが、自治体の何々委員会をつくるといったことはほとんど意味がないので、実質的に動く政策に対する実際的な市民市民参加のガバナンスをひとつづつ開いていく。その力によって自治体の行政そのものがひとつずつ変っていく。それから制度を変えていく。それが力になると自然にいい人が自治体の長に就くこともできるだろう。そういう順番です。最初に民主派の市長の当選を目指すのではない。〉


 

2015年04月13日

『遊動論  柳田国男と山人』(柄谷行人 文春新書 2014年1月)

 6日に瀬戸内の郷里へ帰ってきた。3年前の秋に交通事故で父が死んだ後一人で暮らしている母のそばでものを考えてみたいと思った。晩年の父とは、焼酎を売る手伝いをすることで密な交通があり、いわば「もの」があったのだが、それを失ったあと自分に残った「もの」は母に対する信頼であった。それは10年ほど前に父が大病をして、それ以降年に3回は帰省する習慣がついたが、その時から動かぬものになっていた。
 『遊動論』で柳田の固有信仰は以下のように突き止められている。
〈彼にとって、固有信仰は遠い過去のものではなく、むしろ、来るべき社会のものであった。また、固有信仰はたんに個人的救済の問題ではなく、社会経済の問題でもあった。敗戦が迫ったとき、柳田国男は一九二〇年代に企て挫折したさまざまな活動を戦後に再開することを考えていた。それらを突き詰めていくと、固有信仰の問題になる。ゆえに、彼は『先祖の話』を書いた。が、それはたんに、神道理論の問題ではなかった。〉(P169)
 椎葉村における「ユートピアの発見」以降、山人そしてオオカミの探求を経て固有信仰の研究に至った柳田には一貫性があり、それは〈個人的救済の問題ではなく、社会経済の問題でもあった〉。またそれは〈一九二〇年代に企て挫折したさまざまな活動〉と一体でもあったのだ。
 これは『世界史の構造』を貫く大切な考えでもあるが、遊動性を復活させることは蓄積したものの放棄を意味する。したがって純粋贈与と等価である。「定住革命」とは、回帰してくる遊動性をそのたびに殺す=無効にするための儀式として贈与を発明した点に求められるべきであろう。定住を継続したために、純粋贈与が変質し、贈与された者には受け取る義務が、さらにはお返しをする義務が生じてしまった。この運動は連鎖する。のみならず、断続的に回帰する遊動性の欲動によって増強される。

 柳田国男の追及した「固有信仰」はこの「定住革命」の起源を突き抜けて遊動性にまで届いていると感じられる。しかしそこには、例えば『ゾミア』(ジェームズ・C・スコット)で述べられた以下のような可能性はないの」だ。
〈メジャーリーグ級の千年王国運動が小規模な預言運動と異なる点は、支持者が預言者の指示に従って、頻繁に後先を考えない行動に出ることである。よりよい環境に移住してそれまでの数々の習慣を作り直そうとする場合とは違って、千年王国運動は、新たな世界の訪れを待ち望むだけでなく、それを作りあげようとさえする。彼らは過去のすべての習慣を放棄してしまうことも多い。作物の植え付けをやめて、米や土地を売り払い、神聖なタブーを犯すことさえもある。こうした取り返しのつかない決断を行った後では、元に戻ることは容易ではない。これほど徹底した革命的行動の後には、村落共同体の社会的階層は完全な変容をとげる。新しい秩序の下では、それ以前の地位や特権は何の意味ももたなくなり、預言者やその取り巻きといった、従来の秩序の下で下層民であった者が、今度は上流に列せられる。外部の世界にとって革命かどうかは別として、それを経験する共同体にとっては、間違いなく文字通りの革命なのである。〉(P316)
 だが、このような革命には魅力がない。このような運動は、資本=ネーション=ステートの構造内で生じる政権交代と同じようなものだ。〈普遍宗教がもたらしたのは、たんに国家や共同体から離れた個人が直接に神と関係するということではない。むしろ、それを通して、個人と個人の関係を新たに創り出すことである。(中略)具体的にいえば、普遍宗教が目指しているのは、個々人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことである。したがって、普遍宗教は国家や部族共同体を解体しつつ、それを新たな共同体として組織する。別の観点からいえば、普遍宗教は祭司階級を否定しつつ、新たな信仰集団を組織する預言者によって実現されるのである。〉(『世界史の構造』P228〜9)
 いま柳田から読みときたいのは、出現しつつある多くのアソシエーションが、いかに新たな世界を作りあげていく過程にあるのか、ということだ。

2015年04月05日

『引退者の仕事』 2

 何故柄谷氏は柳田国男の認識の欠陥、〈それは、「経済的な変遷」を根本的にみのがしている〉、を指摘しながらそのことを展開しなかったのだろうか。〈理念的批判〉は自らが今後行うべき仕事だと考えたのだろうか。あるいは自分の誤読だろうか。この指摘は柳田の認識に対して言われたのではなく、〈それ〉=〈理念的批判〉は、「経済的な変遷」を根本的に見逃しているからである、だから柳田は〈理念的批判〉を行わない、と読み説くべきなのだろうか。
 これに続く件で、次の一文を引用し、柳田の認識の根幹を再確認する。
《我々は単に昔は今日の通りではなかったことを知ればよいのである。そうしてもし出来るならば、如何にして斯く変遷することになったかを、もう少し的確かつ簡単に、同胞の誰にでも説き得るように、心掛けて居ればそれでよいと思って居る。》
〈ここに「知は力なり」(ベーコン)という認識があることはいうまでもない。柳田は、「共同の祈願」であった信心が、私的な利害に関する信心に変わっていった過程を、厳密にはよいとも悪いともいわない。またそれを「歴史的必然」だともいわない。それは「風景」についていったことと同じなので、人間の日々の実践が、つまり必要にせまられた人間の活動が存するかぎり、その変化は必然であり、柳田はそのような必然以外に、「歴史的必然」なる抽象をみとめないのだ。
 彼のいう「積極的楽観」の姿勢は、このような認識と結びついており、その姿勢は根本的に変わらなかった。《自分たちは文化史の学徒としては、普通以上の楽観派である。但し其楽観は決して消極的なものでは無い。打棄てて置いても段々によくなるなどと考えたことは無い。我々が何かしさへすれば世の中が住みよくなるといふのである。だから何かしようといふのである》(「青年と学問」大正十四年)。〉(「文体と個人 その一」)
 そうして、認識の欠陥に関してはそれ以上触れることなく、むしろその欠陥にもかかわらず示された別の重要な洞察に関して述べ始める。
〈ところで、『日本の祭』で最も興味深いのは、「共同の祈願」から私的な祈願へ信仰が変わっていくことを、柳田がたんに共同体の解体、私的利害の露出というような理由、あるいは個人はもともと共同体に対立するといった論理にもとめていないことである。〉(同上)
 では、どのような論理によるのか。以下、柄谷氏は、『日本の祭り』から次の引用を行うことで「旅人という在り方」の豊かな理論を縦横に展開する。
 〈 《個人各自の信心といふものが、人生の為に必要だといふ経験は、通例仏教によって得たもののやうに説かれて居るが、私などは寧ろ人が家郷の地を出て歩くといふことが、もっと大きな機会であったらうと思ふ。》
 つまり、彼は、個人の病気、私的利害というような角度から、個人的な信仰の起源を説かずに、それを「旅人」という在り方に見出すのである。いいかえれば、ひとが個人として存在するのは旅人、すなわちその所属する共同体(ムラ)から切りはなされた生存の意識においてであるというのだ。〉(「文体と個人 その二」)
 さらに柄谷氏はこの「旅人」という在り方から個人的な信仰を導き出すのみならず、柳田が自身その「旅人」としての境遇で獲得した認識として〈日本列島を南洋諸島と同位にみようとする認識〉をとり出す。と同時に、より重要な認識として「言葉が根本の問題だということ」の認識があったことを強調する。
〈言葉はたんにコミュニケーションの手段ではない。つまり、なんらかの対象・事態・思念を言葉で伝達すると云うものではない。その逆に、言葉(母国語)は、われわれの考え、感じ、行動することの根そのものにある。そうであるがゆえに、われわれは通常はそのことを意識しない。それはいわばオルテガのいう「信念」の層である。
 そのことをわれわれが切実に知るのは、ムラから出るとき、すなわち外国にあるときである。そのときわれわれは、自分がまったくひとりであることを、それと同時にわれわれが感じ考える仕方、いいかえれば、われわれは意識的にはどんな信仰ももっていなくても、日本語というものにおいて、「信念」をもっている。それが「信念」だとはすこしも気づかないとしても。(中略)
 旅人が異国において見出すのは、たんに風景の差異ではない。重要なのは風景が根源的に「言葉」と結びついていることだ。もしそういう言葉が理解できないかぎり、風景はデカルトのいったような延長にすぎなくなる。近代科学(物理学)が前提するのは、いわば言葉をはぎとった風景なのである。
 柳田がヨーロッパで見出したのは、同じことの裏返しであるが、言葉がいかにわれわれの根幹にあるか、われわれがものを見、考えることの根底にあるかということだったといえる。柳田の言う「固有信仰」とは、ひとがさまざまに選択しうる宗教のことではなく、そのように見出された言葉にほかならなかった。〉(同上)
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