2011年03月

2011年03月30日

開いててよかった

 今日、チャリは使えないし、仕事は切羽詰っているし、「評議会」も立ち上げねばならんし、貧乏暇なし、を地で行く一日であった。
 そこを、ねらったように以下の文章が入手できた。会社では誰ともこのような話題について、もう語り合えない状況になってきている。友人としかコミュニケーションは成り立たないようなのだ。
 一日がはねて、勤務先から最寄駅まで帰り着いて、とぼとぼと家に向かって歩き始めた。足取りは重いのだ。家族会議はやったこと無いしな。気がついたら三人灯へたどり着いていた。

 無言で店長に文書を渡した。以下、もう芸も無く転記する。
 驚いたのだが、店長の指示を受けて、すぐに舞ちゃんが外に出て、この13頁ある文書のコピーをたくさんとってきた。

 「三人灯が開いてて良かったよ。」
 「さすがに今日は無理かなと思ったんですが、開けててよかった、と言えます(笑)」

 偶然は重なって、震災5で触れた三人灯のスタッフのSさんが、非番にもかかわらず顔をだした。だんだん会話を交わせるようになってきた。
 「あさって仙台に行ってきます。父に帰るから、というと必要ないと言うんですが、震災直後いちばんダメだったのは実は父だったらしいんです。母も姉も驚くほど沈着で、何とかなるから、と言うんですが、父はダメだと云っていたそうです。けど、なんか持っていくけど何がいい、と聞いたら、〈キャビンマイルド〉と云ってくれたんでカートンで届けてきます。」

   転記します。
出版社のOさんから最初に知らされました。

〉以下URLは平井憲夫さんという、数々の原発の配管をやり、現場監督をやっていた方
の遺言ともいえる、文章です。
原発について、設計ではなく、施工、造る立場からの話です。
平井さんは退職後、原発事故調査国民会議顧問などをやっていらっしゃいましたが、
被爆による癌で1997年に亡くなりました。
これまで知らなかった話が書かれています。


http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html


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2011年03月29日

パンク

 愛用のチャリがパンクした。
 仕事が長引いて10時過ぎに自宅の最寄駅の駐輪場へ到着して、さて、と飛び乗ったところ前輪がパンクしていた。まいったな。もう開いている自転車屋さんもないだろうし。自宅まで押して帰ったら30分はたっぷりかかる。
 気をとり直して押して帰ることにした。じっくり考える事がたまっていると感じたので、こうして歩くのは整理するのに丁度良いと思えたのだ。
 会社の一部局は仙台を中心として宮城県にある。震災から2週間余りたって、やっと職員の安否確認が終った段階だ。得意先の状況確認は全く目処が立たない。それでも仕事が再開できるエリアの確定が進み、2週間後くらいから活動が始まるが、大幅な統廃合は必至だ。どのくらいの時間を要するか全く予測はつかないが、首都圏の部局をフル稼働して震災前の水準に持っていくのが宮城地区の復興に繋がる確実なプランということになるだろう。しかし、一方では、福島の原発事故の問題がある。昨日のブログで書いたが、今、必要なのは従来のやり方、ルールにのっとった活動のみでは足りないという直感があるのだ。戦後の復興は、ついには原発時代へと行き着いた訳だが、懲りないとだめだと思う。今回は津波に、想定外の大規模津波にやられたというが、大地震は100年に満たない周期で確実に反復することは一般に受け入れられている。東海地震の近いこともまた。しかし、危惧する声が決して弱くはなかったのにもかからわず、強引に原発は各地に建設され続けてきた。それらの危惧を押し流す力があったのだ。それは利潤追求最優先のルールにのっとった運動だ。そうして、この運動の特徴が、人間が作り出すものであるにもかかわらず、個々の人間の思想では決して抑制できない点にあるのは確かだ。一企業で考えてみても、良識からそれを抑制しようと図る経営者達がいたとしても、遅かれ早かれ彼らが淘汰されることは間違いない。
 自分に考えられるのは、身近なところから始められる「評議会」が、各々の代表者を選出し、より高次の「評議会」を形成するという活動を貫徹させ、企業においても、政治においても、様々な単位の執行者を生み出していくというシステムのみだ。

 自分はとぼとぼと自転車を押しながら思案を続ける。自分の考え続けてきたシステムは本当に実現可能なのか。しかし、復興の実現は可能だとしても、従来のやり方では同じ轍を踏むのは確実だ。戦後の焼け跡で坂口安吾が記したように、人は懲りる事を知らねばならない。挑戦は必至だと思う。

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2011年03月27日

評議会

 どんな風に評議会が発生するのかやっと自分には分ってきた。どのようなことでも、たとえ原発のことであっても、信頼できる身近な人たちと、できる限り勉強して意見を交し合う必要があるのだ。このような事態に追い込まれて、つい目先の行為を決定するにあたっても、事故の推移に首根っこを押さえられてしまうのだから。
 何事も専門家に任す、というルールは疑わしい。専門家にしたところが、自らの知見をベースにした信念に従っているようには思えないのだから。より上位の政治的、経済的決定に服して意見を述べていることが明らかだ。

 今日、三人灯では急遽ライブがあった。震災について、原発について評議するとは、必ずしも議論を交わす事のみがその役割であるのではない。
 店長は自らのバンドを率いて詩を朗読した。佐野元春の「希望」であった。生き残ったものは、それのみを創造の根拠として発信をはじめてみたらどうなのか。なにも不遜なことはないだろう。羽田の福原さんは、言葉を、ひとつひとつ玉のように転がして歌った。工場地帯で、ヘドロの川の傍らで鳥に教わった歌い方なのだ。宇和島出身のトンカツさんは、雨風を、音と光を防いでくれる給水塔に住む住人の詩を紡ぎだした。また、突然出現する夕焼けに、むらがって、右往左往しながら生活のために闘争している人びとが怯む瞬間を歌ってくれた。
 評議会とは、このように発生するのだ。数多くの、このような活動が同期していることは何の疑いもない。

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2011年03月26日

広瀬隆への17日のインタビュー

 人がどのような情報に重きをおくか、非常にむつかしい。
 自分は、この報道が今貴重だと信じるので転記します。

http://www18.ocn.ne.jp/~nnaf/109a.htm

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
広瀬隆 「福島原発事故 -メディア報道のあり方-」

        「ニュースの深層」朝日ニュースター 3月17日(木)20:00〜 放送
         
                        インタビュアー:葉千栄(東海大学教授)、前田真里

葉さん:多くの国民が今日、空中からの放水と地上からの散水を見ましたが、この手段は効果がありますか?

広瀬さん:原子炉の崩壊熱のグラフを見てください。電気出力で100万キロワットの原発の場合です。グラフはずっと下がっていきます。対数グラフで分かりにくいのですが、一日たっても1万キロワットあるのです。1万キロワットというのは、それだけで発電所ができるほどの大きな熱量です。これはどんなに低くなっても、半永久的に出るのです。水で冷やすということは、水を循環させて熱を奪っていかなければ意味がないのです。水をかけても意味がないのです。何が大事かと言うと、たった一つ、電源だけです。電源が回復しないのに水をかけても、焼け石に水なのです。

葉さん:電源回復させる理由は? つまりシステムを作動させるため?

広瀬さん:そうです、要するにこの事故はどこから始まったかというと、津波でオイルタンクなどが流れて、発電機などがみんな水をかぶった、そこにあったのです。そこを直さない限り、この事故は原理的に収束できないのです。

葉さん:今日の夕方になって、東北電力から高圧送電線を現場にひこうとしていますね?

広瀬さん:それで少し希望を持ちました。しかし悲観的になるのは、原発はこの図(テレビで使われるような原子炉の略図)のようなものではないからです。こんなものはポンチ絵です。これ(実際の原子炉下部の写真)は原子炉のお釜の下の部分です。これが原子炉のお尻なんです。見てください。ずっと制御棒とか配線とか配管が、山のようにあるのです。テレビでえせ学者が出てきて簡単に言っていますが、あの人たちは何も知らないのです、大学教授たちは。技術者だけが知っているのです。そこに水をぶちこんできたわけでしょ。こんなに山のような配管が目まぐるしく走っているのです。我々にはわからないくらい、滅茶苦茶に複雑な構造を持っているのです。もう一週間になりますが、その間にそこに水をぶっかけたりしてきました。それも塩水でしょう? お釜に塩水を入れて高温にしたらどうなると思います? 塩ができちゃうでしょ? 塩があったら、それがみんなこういうバルブなどに入って固着しちゃうでしょ。動かないでしょう。そういうことがあらゆるところで起こっているのです。だから、簡単に考えちゃいけない。ただ電源をつないだからこれから水がぐるぐる回る、というふうには私には思えないのです。普通のエンジニアの人だったら想像すればたぶんわかると思うのですが。とてつもない滅茶苦茶な状態になっているところに、今ヘリコプターで水をまいたりするということを本当にやって、あの人たちに見通しがあるならいいですが、私には少なくともわからないです。

葉さん:3号機と4号機の使用済み核燃料のプールをいっぱいにするには、1300トンの水が必要です。午前中30トン。あとは自衛隊の車5台で30トンを放水しますが、まず足りないし、それを継続しなければならない。したがってこのような放水は現状を変えることができないですね?

広瀬さん:原理的にいうと、できないんです。非常に健全な状態であっても、熱をギリギリでいつも常にコントロールできて安全が保たれるのですから。内部がめちゃくちゃで、残っている50人の運転員の方々のことを、涙が出るくらいに思います。たぶん被ばく量は大変な被ばくで、たぶん死ぬだろうということを覚悟してあそこにいらっしゃるわけです。あの人たちがだいたいもつのかどうか。肉体も。たぶんそんなところまできてる。あのテレビで解説している学者たち、「お前たちそんなことを言うんだったらその現地へ行ってやれ!」と私は言いたい。本当に、あんなでたらめばかり言って、ただ安心させようとか、パニックを抑えようとか。いま日本人は、本当に正しいパニックを起こさなければならないんです。これは本当に危ないところに来ています。もし私が総理大臣だったら、もうここまできたらチェルノブイリの原子炉の爆発でソ連がやったように、最終的に石棺と言って、セメントで固めるしかないんじゃないかということをふと思うと、日本中のセメント会社すべてを動員して、空からまくような体制を指令した方がいいと思うのです。それは、最悪のことを想定してやっていかないと。なぜかというと、福島には第一原発と第二原発に6基と4基で10基の原発があるのです。1基の原子炉が最後に最悪の事態になったら、もちろんそこにいる人、職員の人たちはそこにいられなくて退避するか倒れてしまうか、どちらかしかないわけでしょう。もし1基がいくとしたら、第一なら残りの5基も時間の問題なのです。さっきのグラフの熱をとれないサイクルに入りますから。どういう順序でいくかわからないけど、少なくとも6基全部だめになるのです。そしたら福島第二もおそらくあの距離だったらダメになるでしょう。そこに職員はいられないんじゃないかと私は想像します。最悪のことを話しているようですが、確率としてはそんなに低い確率じゃないんです、全世界が見てるのはそこなんです。日本だけが隠しているだけであって。実際には、お分かりと思いますが、福島第一原発6基のうちの4基が全部危機にきているのです。そのうちのどれか1基で電気が動いて水がうまくいっても、他の3基がダメになるかもしれないでしょう。4基とも危機に来てますから、4基とも100%うまくいくということは、私はどうしても、言いたくはないのですが、考えると悲観的になるのです。そうすると、ともかく日本の国民すべてを救うためには、放出される放射能を最小限にするようなことを、何とか考えておくべきだ。水をまくというような、焼け石に水のことをやるのではなく、それを考えるべきではないでしょうか。なぜそういうことを考えるかと言うと、原子炉が6基すべていくということは、ここまできたら、非常に高い確率であり得ることですから。みなさん台風の通過速度をご存じと思いますが、大体1週間で通り過ぎますね。要するに、風速2メートルのそよ風でいきますと、5日間で日本中全部が放射能に包まれるのです。20キロ、30キロ、100キロの話じゃないんです。もちろん東京も、大阪も。それくらいの速いスピードで放射能の雲が包むのです。ただしそれは天候次第で、どういう汚染分布になるかわかりません。風向きがほとんど太平洋に向かって吹いてくれればいいですが、そうではない。たとえば15日、おとといは東京に向かいましたね。あのようになるわけです。それはわからないのです。そして雨が降るか、雪が降るか。それが降り積もると全部汚染してきます。つまり、最後は日本人が求めるのは水と食べ物ですから。水と野菜が汚染されてしまったら、私たちはどうしようもないわけでしょう、逃げようがないのです。だからその量を最低限に抑えることを、今から少なくともしなくては。私が言っていることが間違っているならいいんですよ。水をかけても意味がないとは言いません。私にはわかりませんから。しかし映像を見ている限りは、ほとんど意味がないと思いますね。

葉さん:初期段階の行動、手段の問題点は、一番最初に、今日やっている高圧線を敷地の中に真っ先に敷くべきだったのにやらなかったこと?

広瀬さん:これは電源がなくなって始まった事故ですから、必要なのは電源回復だけなのです。最初から。だから、私は悔しいと思うのは、この福島の原子炉を作ってきたのは日立と東芝なのですから、その技術者を結集するしかないのです。東京電力は、運転員だから知らないのです。ましてや保安院は何も知らない。私に言わせればバカ集団です。何も知らないんです。政治家はもっとひどい。無知な人間たちが議論してもダメなのです。できれば日立と東芝の技術者が。この福島原発は特に古い炉ですから、68歳である私の世代よりもっと上の人たちが設計したのです。とっくにその人たちはリタイアして現場にはいません。しかし少なくともこの原子炉をどうしたらいいかということを考えられる人は何人かいるのです。私の親友で田中三彦さんなど優れた人が、以前から危ないと言っているのです。そういう人たちの知恵を結集するしかないのです。官邸でどんな議論をしたって駄目なのです。

前田さん:参議院の院内集会で元東芝の設計者の後藤さんが説明されましたね。たくさんの議員が来ていました。

広瀬さん:菅首相もど素人です。悪いけどもちろん政治家にわかるわけがないのです。しかし少なくともスリーマイル島の事故が起こった時の、アメリカのジミー・カーターの行動と比較しても、日本の方がひどいです。なってないです。枝野も傲慢な態度で「大丈夫、大丈夫、万が一」なんて言っていて、結局こうなったでしょう。こんなことは最初から予測できていたことです。少なくとも私のような門外漢でもわかったのですから。どうやったら電源回復できるか、そこだけにあるのに、ここまで持ってきた責任は重大です。

葉さん:一連の話の中で、レベルの低いミスの連続です。例えばおととい、ポンプに油を入れ忘れて止まってしまって冷却水の注入ができなくなった。昨日は発電所と東電本社の専用回線を間違って切ってしまって8時間も現場のデータを送ることができなくなって、衛星電話で口頭で伝えた。世界中のメディアが報道しています。日本らしくないとみんな言ってますが?

広瀬さん:電力会社には、事故の対処能力はないのです。メーカーの技術者にしかない。それから、少なくとも日本の電機メーカー、家電を含めて、発電機の製造は世界一の技術を持っているのです。なぜ最初に発電機を運ぶとか、対策を取らなかったのか、それができなかったのか、それも技術者つきで。機械だけじゃだめなのです。配電盤のことなどすべてわかる人も行かないと。どうしてそれができなかったのかということは、すべての日本の原発の欠陥を証明しています。

葉さん:毎日各自治体が放射線を測定しています。発表された放射線の値を見る限り、上がってはいるけれどもまだ健康に被害はない、と民放テレビ各社で言っています。胃のレントゲンと比較したり、もっと線量が上がったらCTと比較したりしています。実際はどうですか?

広瀬さん:これは、たとえばおとといです。福島第一周辺で400ミリシーベルト/時、1時間ですよ。これが測定されて枝野が初めて、健康に影響があると言いましたけれども、意味が全部伝わっていないのです。すべての報道機関が悪いと思います。人間の一般の生活で私たちが受けている放射線、宇宙からも放射線を受けますよ、なんてくだらないことを言っていますけれども、あれはすべて1ミリシーベルト/年なのです。一年間に365日があって、24時間でしょう。365×24を、みなさん電卓を持っていたら計算してください。8760です。それを掛けるのです。こちらは/時ですから。ということは、通常の350万倍ですよ。何で大丈夫ですか? これを報道した機関がありましたか? 言っていないでしょ。しかも彼らは、一瞬で抜けるCTスキャンなどを比較していますが、そんな問題じゃないのです。放射性物質が出ているから、放射線が出ているのです。それを体の中に取り込むと体内被曝が怖いのです。テレビに出ている御用学者たちが何を言っていますか? 遠くへ行くと距離の二乗に反比例すると。逆のことを私は言いたい。体内被曝というのは放射性物質が体に入ることです。どうなりますか? 要するに1mのところに放射性物質があって、吸い込んで体の中に入ってピタッとくっついたら、ミクロン単位になるのです。それは、1mは1000ミリ、1ミクロンは1000分の1ミリでしょう。1000×1000の二乗になるのです。距離の二乗に反比例するというのはそういうことなのです。だから、被ばく量が一兆倍になるのです。一粒の小さなものを吸い込んでも怖いのです。

葉さん:ですから、CTやレントゲンと比較しても意味がないのですね。放射性物質を吸ってしまうからですね?

広瀬さん:そうです。放射性物質は、体に入ったらどこに何が入るかは分かっています。怖いのは女性、特に妊娠している女性や幼い子どもです。いま報道されているのはヨウ素とセシウムですが、それは一部であって、きちんとした検出器で測っているわけではないのです。あれはモニタリングといって、空間線量を測っているだけ。機械は何も食べないんですよ。放射性物質の量とは関係ないんですよ。空間線量だけでそんな単純に・・・。私が原子力に反対する活動のきっかけになったのは、医療関係の仕事をしていて、外国の文献にそのことがきちんと書いてあって、それで気づいたのです。1970年代です。日本の医師たちはそのことにすっかり言葉を濁しています。

葉さん:放射線の被害と放射性物質の被害は別なのですね?

広瀬さん:福島原発の放射線がこのスタジオまでどれだけ飛んでいますか? と言われたら、そんなものはないのです。でも放射性物質は空を飛んできているのです。炉心溶融が始まったら、原子炉の中にあるヨウ素などという物質はすぐにガスになります。上が抜けてしまっているから、隙間があってどんどん出ているはずなのです。

葉さん:それを測定する方法は?

広瀬さん:ある新聞記者から聞いたところによると、今東京電力は、モニタリングすらできない状態なのです。ただ、ときどき行って測っている、それを枝野がしゃべっているだけです。定常的に測っていません。コンスタントに見ていかなければならない。それも、何が出ていて、どれだけ出ているかを測らなければならない。それは、かなり高度な分析機を持っていないとできないのです。そんなことはモニタリングポストではできないのです。空間線量を測ったって駄目なのです。車で行ってちょっと測って、高かった、低かった、そんな話ではないのです。今、どんな放射性物質が出ているか、それがどこに飛んで行っているか、そういうことは、今の体制ではおそらく現在できないです。

葉さん:そういう物質が日本各地に飛んで体内被曝を起こす可能性がある。なのに別のものを別の形で測っているのでしょうか?

広瀬さん:別の形で言いましょう。双葉厚生病院で、ヘリコプターで避難する人たちが屋上で被曝したというのでびっくりして距離を測ったら、3.4キロでした。ちょうどその時、フォトジャーナリストの広河隆一さんが電話をかけてきてくれて、ちょうどそこで「大変だ、1000マイクロシーベルトのカウンターが振り切れてしまった」というのです。原発でじゃないですよ。枝野が言っているのは、原発の話です。原発じゃなくてここで針が振り切れているのです。放射性物質は間違いなく行っています。だから今、福島県内の人は大変な状態なんです。住民がパニックだと言っていますが、パニックですよ。当然です。私は、被曝している子どもたちの放射線量を測っている写真をニューヨークタイムズで見ました。私は、この写真を日本の全部の新聞に出せと思います。どうしてこの写真をニューヨークタイムズで見なければならないのかと、悲しくなりますよ。

葉さん:今回のメディアの日本の報道についてどう思いますか?

広瀬さん:一番批判したいのはNHKの科学文化部の某です。ただちに健康に影響は出ないと。ただちにってどういうことなのかと、なぜ誰も追及しませんか? 1ヶ月後ですか、1年後ですか? 冗談じゃない。ガンなんていうものは、何年たったって出る可能性がある。わからないでしょう。人によってみな違うのです。特に危ないのは幼い子どもたちです。とうとう私の孫の高校生が、外国に行くと言い出しました。「だって俺、黙って死ぬのは嫌だから」って。正しいでしょう。だけど事実を知ったら、今そういう状態なんです。だから、軽々しく言ってほしくないんです。大丈夫であるだなんて。そういうことを言ってはいけないんです。「危ないんだ」と言わなければ。少なくとも、こういう事故が起こったらアメリカでもドイツでも、こんなマスコミはない。危険だから逃げなさい、ということをきちんとやりますよ。日本は、テレビをつけても、何も起こっていないようじゃありませんか。信じられないです。

葉さん:放射線量だけでは不十分だけれど、それでもテレビの各チャンネルで、せめて各地域の放射線の測定値を報じるべきでは? それは第何グループなどという停電の話よりはるかにそっちの方を流すべきでは?

広瀬さん:私もびっくりしましたが、おととい東京が汚染することについて、ドイツ人が解析した現在の福島の放射能雲のシュミレーション動画がインターネットで出ていました。ガクッとしました。ドイツ人はすでに解析しているのです。最初は太平洋側に流れているが、それからざっと風向きが変わって東京方向に降りてくる動画を作っているのです。それを見せるべきでしょう。日本人全部に。そんなことはできるはずでしょう。できる人がいるはずでしょう。そう思いません? これだけCGだなんだとやっている大学教授たちが、何もしていないんじゃないですか? われわれに教えてほしいんですよ、今。

葉さん:そのような真実をテレビで報道するとパニックが起きる、それが2次被害になる、東京の0.08は全く安全だ、なんて話も出てますが?

広瀬さん:いやいや、だからその数値は、放射線の空間線量のことを言っているのです。怖いのは放射性物質であってね。少なくとも、放射性物質を測定できるような人間はいるのです。東京にもいるのです。例えば原子力関係の機関があちこちにありますから。東海村などにもいますし、その人たちが、今あちこちで自分たちの持っている計器をフルに活用して、想定できるところをずっと回るべきですよ。そう思いませんか? できるだけ早く。そして、これだけの汚染が起こる可能性があるというなら、そういうことを言ってから、安全論をやってほしいんですよ。何にも資料もなしに「ただちに健康に影響が出るものではない」なんていうことをNHKがたびたびやっているでしょう。ここまできたら、あの人間たちは平気な顔してやってますけど、犯罪者ですよ。子どもたちに対して。

葉さん:この地震だけではなくて他にも震度6以上の地震が起こるかもしれないと言われていますが?

広瀬さん:みなさんは、仮に私が言っているようなことが抑えられたとしたら、ほっとするかもしれない。それは違うのです。(地震の図を示しながら)おととし8月11日に、駿河湾地震がありました。このとき浜岡の原子力発電所が直撃を受けて緊急停止をして、内部は大変な状態になりました。その時前後して、伊豆半島でも地震が起こりました。これは、私は予測していたのです。おととしの4月の時点です。地殻変動を国土地理院が調べていて、毎日どういう方向に地殻の変動が起こっているかを調べていますが、それを調べていたら4月時点で駿河湾一帯がずっと地殻変動を続けています。周りもずっと調べていたら、南長野まで動いている。そして紀伊半島を調べたら動いていなかったのです。それで私の直感としては、太平洋プレートが大変な動き方をしているな、これはあちこちで大地震が起こるのではないかなと思っていたら、9月にスマトラ沖地震が起きました。マグニチュード7.6です。兵庫県南部地震が7.3ですから。ここでバヌアツでも7.8、サモア諸島でも8.0です。太平洋プレートという世界最大のプレートが、日本の下に潜り込んでいるのです。1千キロの深さ、日本列島の長さくらいにもぐり込んでいる。そして、去年の2月にチリ沖で地震があり、ナスカプレートが動く。それが動けばオーストラリアプレートが動く。これはみな連動しているのです。だから私は、太平洋プレートが動いているから、太平洋側の原発がみな危ないと思っていました。もっと大きな地震が来るのです。なぜこんなことを言うかというと、私は怖くてたまらないのですが、おととい、静岡で地震がありました。今度の地震とおそらく連動しているのです。テレビに出てくる地震学者はみな、今回の地震と無関係だと言っていますが、それは嘘ですよ。あんな地震学者を信じてきたからこんなことになったのです。本物の地震学者は、石橋克彦さんです。私は日本に本当の地震学者はただ1人しかいないと思っています。だって地震予知連絡会なんて、何を予知してくれたんですか? 何にも予知していないでしょう? 神戸大学の石橋先生だけは、警告しているのです。(73年の周期性をもって起こってきた小田原地震=関東大震災、のグラフを見せながら)このグラフは、小田原地震と呼ばれるものです。平均73年というサイクルでぴったり来ていますが、最後は1998年で起こるはずだったのです。でも起こっていないでしょう? 前回が1923年、関東大震災ですね。小田原で起こったけど関東で被害がひどかったから、みな関東大震災として覚えています。1998年に起こっていないから、今年ですでに13年たっているのです。いま太平洋プレートがずっと下がっているでしょう。これが動いているのです。猛烈な勢いで。まだ止まってくれないのです。それが今度の地震、東北地方三陸沖地震だったのです。だからチリ沖地震と連動しているのです。地球がどういうふうに動いているか我々にはわからない。だけど動いていることは間違いないのです。

葉さん:平均73年のサイクル、でも今回はプラス13年という状況になっている?

広瀬さん:石橋先生は、関東大震災の時にとてつもないエネルギーが開放されたから今度は少し伸びているのではないか、と言っています。これももちろん推測ですが。だけどひずみはそんなにはもたないと思います。今申し上げた地震は、それは相模湾で起こるのです。そうではなくて、相模湾の向こう側にある駿河湾。おととし動いた、そこが壊れる可能性がある。どちらかが来るのです。私はもう確信しています。これは近いうちに起こる。

葉さん:そのような確信を持っておられるなら最後に聞きたいのですが、現在他のまだ稼働してる原発はどうするべきですか?

広瀬さん:なぜ私がこの『原子炉時限爆弾』を書いたかと言うと、駿河湾には浜岡原発があるのです。今、3基あります。今回の福島がやられたのは津波です。今度は違います。揺れで壊れるのです。私は首をかけて100%と言いますが、絶対にもたないです。マグニチュード8.4が、今度は直下で起こるのです。直下ですよ。駿河湾で起こるのです。駿河湾は、下に入っているのですから、そのユーラシアプレートがぼんともちあがるんです。直接その上に原子炉が載っているのです。1〜2メートル隆起するんですよ、土地が。その上に建物があって、大丈夫と思いますか?

葉さん:その話をすると、原発を止めたら経済や国民生活が大打撃を受けて被害、パニックになる。3割が原子力に依存しているから止められない、と言われますが?

広瀬さん:それはぜんぜん嘘です。なぜかというと、今までずっと、発電量のピーク時は夏の午後2時から3時。真夏ですよ、そのごく短い時間帯なのです。その年間の最高使用量は、火力と水力だけで間に合うのです。今でもです。

葉さん:今夜停電が起こるかもしれないのは、福島の原発が止まったからでは?

広瀬さん:それは関係ありません。こういう場合のために、バックアップとして大量の火力を持っています。全部大丈夫なのです。ところが今回の場合は火力も止まっているのでしょう。その火力の状況は我々にはわからないのです。しかし東京電力が本当に電力が足りないというなら、こんな季節ですから、電力は余っているのです。だからたぶん、火力にいろんなトラブルが起こって、復旧に手間取っているだけなのです。こんなものは全然大丈夫です。なぜなら、東京電力が持っている原発は、福島と柏崎で17基あるのです。これが一回こんな季節に全部止まったことがあるのです。停電になりましたか? ないでしょう? それだけのバックアップを持っているのです。今回はたまたま地震の影響で火力などに問題があって、つまり燃料の補給か、輸送の問題ではないかと推測しますが、それで補給ができない。だから火力の問題なんです。でも火力の場合は、こういう事故は起こりません。トラブルで終わるのです。それは、完全に復旧できることです。

葉さん:ドイツ政府は80年代に作った7基をとりあえず止めることにしました。中国政府も国民緊急会議で、原発の計画中止を言いました。他の国もこれを見て、根本から国のエネルギー体制をあらためて考えなおすという意思表示がありました。いずれにしても、日本のエネルギー体制は、これをきっかけにして変わることになるでしょうか?

広瀬さん:私は、それは国民の問題だと思うんですよ。国民がこの危険性をどれだけ理解するかにかかっていると思っています。しかし悲しいかな、テレビをこの1週間見ていて、まともなことをしゃべる人が1人も出ていないのです。なぜかわからない。少なくとも15年前までならこんなことはなかった。私なんかでなくてもいいのです。京都大学の小林圭二さん、小出裕章さん、慶応大学の藤田祐幸さん、原子炉設計者の田中三彦さんなど、こういう方たちが出てしゃべってくれればいいのです。そうすれば国民はどんどん事実を分かっていくのです。一人も出ないじゃないですか!

葉さん:原発の設計者が反対する理由は? 考えが変わったんですか?

広瀬さん:田中さんは、元日立の、原子炉メーカーの設計主任だった方で、福島原発の敷地内にある1基を設計された方です。自分が会社にいたとき、原子炉の圧力容器を製造しているときに日立が不正をしたことを自分で見ているんですよ。それでたまらなくなってチェルノブイリの事故の後に内部告発をしてくださった。そして柏崎原発を全部止めたいと、身を粉にして走り回ってこられて、今回も柏崎から戻ってきたところでした。今回の話をしたら、「俺は柏崎から帰ってきたところなんだよ。全部吹き飛んだなあ」と言っていました。今そんな状況なんです。作った人が、早く止めてほしいと言っているんです。それは、日本中の54基の原発がそうなんです。今日は、ほんのちょっとしかお話していないのです。本当にもう1つ怖いことを言わせてもらうと、若狭湾には、もんじゅを含めて14基の原発がある。青森県六ケ所村には、日本中の死の灰を集めています。私は怖くてしょうがない。六ヶ所村が壊れたら、日本の終わりでは済まない。チェルノブイリの何百倍の話になるのです。



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2011年03月25日

桃だと思っていたのは

 今日で大地震から2週間、だった。今夜も一時冷たい雨が降った。梅や辛夷の花は消えたが上に伸びて咲く桃は勢いを増してきた、と出勤途上チャリをこぎながら愛でてきた近所の花が、桃ではないと教えられた。あんまりショックを受けたので名前は忘れてしまったのだが。
 やがて桜も咲くであろう。勤務中は、相当な打撃を被った仕事の立て直しに追いまくられていて真に考えるという余裕は無いのだが、帰宅後にはいろいろと思うことはあるのだ。自分は三十年余り前、自ら選択した、今で云うフリーターの境涯を積極的なものとして活き活きとしていたのだったが、他に選択肢の無い次男、高校時代のコンビニのアルバイトを振り出しに、パチンコ屋の店員、ラーメン屋での修行等、なにかと経験豊富な25歳の次男に、和民で働いたことはあるのか、と尋ねてみた。
 「うん、あるよ。 」
「どうだった? 何か他と違ったところは、優れたところはあったかい? 」
「いいや。ほかの居酒屋と同じだよ。皆おなじなんだ。 」
 自分は考え込まざるをえなかった。自分も同じ年恰好の頃、職場を転々としていた訳だが、あんこ工場でも、いかがわしいカーステレオを作っている工場でも、出版社や大企業でも、どこでも面白かった。収入はかつかつだったが、短期は短期なりに、長くいればまたそれなりに得る所があって、出口なし、という感じは全くなかった。次男は、自分らの時と較べて衣食住に遊興まで、格段に恵まれていると見えるが、閉塞感は傍目にも明らかだ。
 こんどの都知事選に、この和民の創設者が立候補した。企業家としての実力が大いに評価されているものと思われる。その手腕を政治にも、と期待する人たちが多いのだろう。だが、自分は考え込まざるをえない。世間の評価よりも次男の「いいや。ほかの居酒屋と同じだよ。皆おなじなんだ」という言葉の方に目方が感じられるのだ。

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2011年03月24日

花冷え

 今日勤め先で、具体的にどのように被災地の支援が可能か知恵を出し合った。痛切に感じたのは自分たちがどんなに無力であるか、こうなってみると他者を助ける事がいかに困難であるかという2点だ。もっとも忙しい時期において大地震に見舞われたため、自分たちの仕事も大打撃を受けた。おそらくは2、3割の売上減は免れないと思われる。一方、すべてを失った被災地の復興の為には、働ける地域の者が剛毅に職分を果たす事が第一で、そこからしか真の復興の支援という継続的な力は生まれはしないという事実も確かだ。このような事態にあっては、可能な限りの緊急の措置プラス日常的な職分の全うが要請されるのだ。容易ならぬ試練だ。
 昼間つよい霙が降った。東北の寒さが偲ばれた。弱い心は困難を前に萎縮してしまう。花冷えにさえもひるんでしまうのだ。剛毅に持ち場で役割をまっとうするのが被災地との連帯である。言い訳する自らを冷静に見つめ、何がやれるか見出だしていくこと。自分がどういう人間か日々あらわになっていくのだ。

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2011年03月22日

春宵談話会

 木蓮と梅と桃が咲き誇っている。おまけに一昨日は満月だった。
近所の酒屋へ澤乃井を買いに出かけた。と、店主と女将さんが浮かない顔をしている。店を閉めようかどうしようか、もう決めかねる、といった表情なのだ。
「いいですか? 」
「はい、はい、どうぞ。 」
自分は、結構広いこの酒屋にずんずん押し入って、一番奥の日本酒の棚まで行った。おどろいたことに、一升瓶は全部寝かされている。今しも、結構こたえる余震があったばかりで、といっても震災10日目だが、毎日のように腹にこたえる余震があるのだが、寝かしておかないと倒れて割れてしまうのだ。寝かしてあるからラベルが見えない。で、のん兵衛の執念で1本1本ラベルを確かめていたら、店主が見かねて、
「何をお探しですか? 」
とっさのことで銘柄を度忘れしてしまった。
「あれ? 忘れちゃった。 あの、青梅の方の酒蔵、えーと、東京の銘酒・・・」
「澤乃井ですか? 」
「そう! 澤乃井 」
「大辛口と辛口とありますけど・・・。」
自分は吟醸が欲しかったのだがなぜかためらわれた。
「辛口の方で」

 こうして一升瓶をころがしておかないと大きな余震のたびに被害が出てしまうのだろう。酒屋の倅の自分が不明な事であった。
「そうか。みな割れちゃいますよね。 」
こんどは女将さんがはきはきと話してくれた。
「今も何本も落ちたんです。 」
「そうでしたか。じゃあ、こいつはよくぞ割れなかったと褒めてやらないと。いや、みな割れたらのん兵衛はあがったりですからネ 」

 今夜は「春宵談話会」の当日だった。しかし、主人公は、高瀬先生のことだが、不在である。震災以来、主要な催しはことごとく中止に追い込まれた。けれども、われわれの談話会までが中止の憂き目に遭うとはおもいもよらなかった。
 南さんが、提案したのだ、「飛弾さん、せっかくだから徒歩徒歩亭に集りましょうか? 」

 南さんは、毎度まいど口惜しい思いを重ねてきたのだった。高瀬先生の上京の度ごと、と言っても年に何回もないのだが、に催される談話会に、いつもお母さんの具合が悪くなって信州行きを余儀なくされてきた。1月半ぶりにお母さんの病状が安定したので、今回こそはと手薬煉をひいていた。会が価値を帯びるのは待つ人の必要による。自分は主人公不在でも集るべきだと感じた。

 絶妙のタイミングで『ガウスの数論』は皆に献本されていた。で、南さんも田口もあたかも通行手形のようにそれを持参した。めいめいが文字通り座右におき、一風変わった春宵談話会が― それは読書会でもあり、不在の先生をこの空間に浮かびあがらせる場ともなったのだが― 開幕した。不思議なのは、若女将も仙人のごとき後見役もただちにその趣旨を解して一体となったことである。この仙人は高瀬先生の唯一の師匠、もちろん数学ではなく、屋台のシナそばの。で、いまだに先生はここに来ると「若頭」である。そうして、われら三人にとって高瀬先生は「師匠」であるから、やはり数学ではなく、強いて言えば「文学」のであるが、ねじれた関係ではあるが、孫弟子となってしまう。
 のみならず、この日はさらに同期する流れもあったのだ。

 奇しくも若女将は中学、高校と今をときめく福島原発の近傍で暮らしていた。震災以来、かつての同級生たちに安否を確認する電話を何度もいれるのだが連絡はつかない。原発の生態を知っているだけに絶望の度ははなはだしい。やっと連絡が着いた者たちは皆避難所生活であある。何百人もが、10日も経つと劣悪な状況に追い詰められている。田口は丁度この原発の建設時に現場近くにいた。もちろん作業員としてではなかったが。

 「当時で、日雇いの作業員は日給6万円なのです。それでも地元の人は作業員にはなろうとしない。多くは流れ者の人たちが従事するんです。けれども、どうしても生活に困った人は他に口がないから雇われる。すると、飲み屋がたくさん出来るんです。作業員が月に何度かの日当がもらえた日に憂さをはらす場が必要ですから。だから、地元の人はスナックのママさんになったりそこで手伝ったりするんです。羽振りはわるくないんです。けれども、悲惨さは骨身にこたえる。だから誰も実情は語らなくなるんです。」

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2011年03月21日

震災 5

 長池講義のあと、母親と連絡が取れないと足早に帰っていったネモッチャンから所用のメールがきたが、末尾に〈福島から避難してきた母親と妹の家族が同居しています〉と記してあったので、まずはご家族が無事でよかったですね、と返信した。被害に立向かうとは、例えば3人家族から一挙に8人家族になる、ということなのだ。Tさんと会うために三人灯に行った時、店長がもう40日休んでないと教えてくれたのではっとした。震災前からきびしい不況に曝されていたのだ。店のスタッフの一人で読書会のメンバーでもあるSさんは実家が仙台で、避難所にいる家族の無事だけは確認できているが、おじいさんは人工透析が必要なので一人で病院にいるという。元来が無口なタイプなのだが、黙々と仕事に打ち込む姿には何か研ぎ澄まされた感じがあった。
 今日の朝日新聞で宮城県南三陸町長と岩手県陸前高田市長の「オピニオン」を読んだ。こんどの災害に立向かうということがどれほど途方もない試練であるか、この文章ではじめて目の当たりにした。一週間経って、いまだ壊滅的である、という形容以上には被害の全容すらつかめない現状で、避難所対策に精一杯だが、グランドデザインに取り組んでいかねばならない。しかし、〈そもそも町には高齢者が多く、お金をかけて新たに家を建てることができるのかということもあります。道路や建物、インフラなどハードの部分はお金をかければやれます。でも、こういう災害を受けて、なお、ここに住むかどうかという心の問題は、私たちではどうしようもないところがあります。〉
〈いつになるか分りませんが、これからある程度平穏になったら、どこで仕事をするのかという問題も出てくる。私たちの街は、一番被災してしまった地区に商店や会社があった。国の緊急雇用対策なども使いながら、最低限市民が生活をしていけるよう考えなければいけない。
 これから税収がゼロみたいになるなかで、市の復旧のために起債しながら、新たな税を市民に求めるのは厳しい。家もない、仕事もない市民にもっと税金をよこせと言うのはいじめになる。例えば3年間の税の優遇措置とか、国や県に特例を認めてもらうようなことも考えたい。
 あれだけ怖い思いをして、家族を亡くした人がいる。そういう人たちが、何がなんでもこの地域に住みたいかといえば、そういう心境ではないかもしれない。〉

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震災 4

 被災した福島原発の現状に関して、まず自分が入手できた洞察を伴った情報は京都に戻ったYからもたらされた。Yが理事をやっている「使い捨て時代を考える会」の相談役で『脱原発・共生への道』の著作がある槌田劭さんに話を聞きに行って、その「談話」を伝えてくれたのだ。原発のイロハさえ自分が知らなかったことを思い知らされ、呆然となってしまったが、考えの出発点を築く助けになった。この後も、矢継ぎ早にYから聞き取りの報告が届いたが、それはYの報告に難がある、という指摘をも含むものであった。Yの悪戦苦闘振りが思い浮かんだ。が、一連の報告を通して、槌田さんの知見、並びになぜ現在にいたる運動を開始せざるをえなかったかを自分は理解するに至った。あわせて、なぜYが信頼し運動に加わったのかも。
 博多の高瀬先生も、妹さんの病気見舞いで群馬に帰省する予定だったと思い出しメールしてみた。先生は地震当日羽田へ到着するも、お茶の水のホテルまでの交通手段がなく途方にくれていたところ、偶然知り合った方の「迎車」に同乗することができ、明け方にたどり着けたという。そうして翌日、自分がメールした日だが、東武線の「りょうもう号」が動き出したので見舞いに行くと返信がきた。ついで翌々日、博多に戻った先生から22日の「談話会」は延期というメールが届いた。20日に予定されていた学会が中止となったので上京もやめる、ついては4月上旬に帰省の途中で東京に滞在予定だから、その折まで延期したいとのことだった。ただちに谷川さん、南さん、そして田口にこの旨を伝えた。田口は渋谷の区役所前でこの地震に遭遇したとか。「帰宅難民」になり葉山の自宅へ帰りつけたのは翌日の昼頃だったという返信が届いた。南さんは麻布の会社から田町の自宅まで歩いて帰ったそうだ。谷川さんからは2、3日待っても返信が来なかったので電話を入れてみた。地震当日は結局学校の職員50名とともに生徒400名が泊ったのだそうだ。予め震災対策の再構築を行っていたので、幸い大した混乱は生じなかったとのこと。原発事故に対する情報収集も行き届いており感心した。様々な教えを受けた。おかげで自分は何点か考えを修正することができた。なんといっても谷川さんはこの事態に立向かう心の整理ができていた。
 

hida_2005 at 15:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

震災 3

 懇親会の席で、自分はもっぱら出版社のTさんと会話をしたのだが、それは前回の9月のこの懇親会の時から構想を聞かされていた「老人評議会」の立ち上げに関するものであった。自分は聞かされた当初から参加する腹積もりであった。というのは、さらに1年近く前に、『世界史の構造』の最終章の部分が「at」に発表されたのを読んだ時から活動に強く促されるのを感じて、いろいろ模索していた時期にTさんから連絡が来て新宿で会ったのだったが、Tさんが同様の衝動に捕らえられていることは直ちに分った。以来、情報交換を何度か重ねたが、その過程で一緒に活動をやってみたいという気持ちは固まっていった。今の、移動、そして活動を求める自分の強い衝迫は、こうして1年余り続いてきたこの流れとも同期していた。
 ところで、震災の影響は思ってもみなかった事態を引き寄せた。月曜に出社してみると耐え難かった仕事のやり方が影を潜めていたのだ。当然のことながら様々な混乱が生じており、対処するには個人の創意工夫が不可欠であった。全く自力ではなく求めていた状況が転がり込んできた具合なのだ。翌日、Tさんからメールが来て木曜日に三人灯で会ったのだが、直ちに「老人評議会」の立ち上げ準備にとりかかる前に、まずこの震災とその影響を、特に原発事故の予断を許さぬ展開を見定めない事には着手できないと意見の一致をみた。というよりも、異なった種類の活動が要請されている予感がしたのだ。
 同じような予感は二人だけを襲ったのではなかった。水曜日には長池講義の主任講師からメールが来て、直ちに連絡会議用のMLを立ち上げるよう要請があった。予測された事ではあったが、不確かな情報が錯綜するようになり様々な混乱が生じつつあったが、活動の為にはより確かな情報交換の場、そうしてビジョンを練る場が必要であった。そうして、何をおいても自分なりに考え続けることが。
 

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2011年03月20日

震災 2

 ほぼ定刻に始まった講義は、およそ1時間半を費やしたゲスト講師の講演が終わったところで小休止となった。外にタバコを吸いに出ようと長池自然館の入り口に差し掛かったとき、京都から駆けつけてきたYと出会った。
「おう、よく来られたな。新幹線は動いているのか? 」
「福島原発が爆発したらしいぞ! 」
そう云うなりYは呆然と立ちすくむ自分を尻目に講義室の方へずんずん歩き去っていった。
少し遅れて自分と同じように外に出てきた出版社のTさんやOさんは、Yから聞いてすぐに携帯のワンセグを見始めたようで、騒然としてきた。世話人のMさんも異様な表情で出てきた。チェルノブイリの時のように大惨事になるのだろうか。が、すぐには事態が飲み込めなかった。
 小休止の後、主任講師の講演が1時間程あり、さらに聴講生からの質疑、両講師の応答が1時間程続いた。こうして予定通り5時には会場の後片付けをすまし、ぞろぞろと駅前の懇親会場へ皆が歩き始めた時だった。
「また爆発したぞ! 」という声が聞こえた。
「どこのニュースだ? 」
「NHK! 」
「核爆発なのか? 」
「いや、そうではないらしい・・・」

 大地震の翌日で、郊外に集った人間の間だけでは情報が極端に不足していた。出版社のOさんはマックのi-padを持参していたので、懇親会の席上せっせと情報収集にはげみ、途中でみなに集約して情報を流した。最終電車の頃まで懇親会が続くのが恒例なのだが、まだ復旧してない路線もあったし、この郊外の駅まで皆を運んできた京王線にしてからが通常の半分くらいの本数しか動いてないような状況であったので、9時頃にはお開きとなった。

 ぐっすり眠ったので震災から3日めの日曜日は疲れも取れていた。しかし、徐々に事態が飲み込めてきた。世話人のMさんを一緒にサポートしているネモッチャンは、福島の母親と連絡がとれないと心配そうで、講義の後ただちに帰宅したのだったが、ニュースで映し出される東北地方沿岸の惨状は想像をはるかに越えていた。福島原発の被害もただならぬ事だと腑におち始めた。一方、2月から限界を覚えていたストレス回避のため、転進あるいは移動を求めて、12日の「長池講義」を目安に、ワン・フイの著作や丸川哲史の著作を、そうして竹内好の著作を読み込み始めていたのだが、思想内容というよりも、読書を通しての意志の集中によって、移動への地ならしが整って来ているのも感じられてきた。





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2011年03月19日

震災

 11日に学芸大駅のそばにある事務所で今度の地震を迎えたのだが、古いビルの5Fにあったので相当気持ちが悪かった。こんなに繰り返し長時間続くものなのかと舌を巻いた。不気味さは追い払えなかったが、繁忙期であったので、揺れが収まってからは直ちに仕事を再開した。勤務時間を過ぎても、電車はほとんど止まってしまっていたので自分は帰宅は考えなかった。バスだけは動いているという情報が入ったのを期に、何人かの同僚は渋谷駅なり、あるいは東京駅まで行って後は歩こうと誘い合わせて出て行った。また、グーグルマップで、何時間歩けば帰れるか、という情報が得られたので、余り遅くならないうちにと、意を決して出ていく者も何人かいた。
 結局、夜中の2時前に東急が動き出し、渋谷と池袋の間は地下鉄が動いているという情報も入り、更には丸の内線も動いていると分ったので、泊る準備をしている同僚達に別れを告げ自分も帰宅することにした。12日は「長池講義」が決行されると分っていたので、3時過ぎに帰りついても何時間かは眠れると目算がついたから。
 
 不思議な解放感を味わっていた。この時期、仕事が忙しいのは毎年の事なのだが、1年余り前から大規模な組織の再編が進行し、ストレスがたまっていた。特にこの1月あまりは限界を感じてもいた。毎日のように背筋に悪寒が走るのだ。仕事の進め方が全く自分には合わないのだ。官僚制が徹底化されてしまった。このブログの2月24日に〈ITリテラシー〉の占める位置について短文を書いておいたが、出口なし、という気分にすっかり覆われてしまっていた。
 「長池講義」には24人集った。前日は帰宅できなかった人も多かったはずなのだから、午後1時開始とはいえ、これだけの人数が新宿から1時間以上もかかるこの郊外まで参集してくるとは驚きだった。まだ不通の路線も少なくはなかったのだから。
 自分には期するところがあった。内なる自然が転進を、移動を命じていると分っていた。ストレスは限界に近い。活動を開始しなければもうやっていけなかった。

 


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2011年03月18日

「近代の超克」(1959)

 竹内好はかつての『近代の超克』(1942年)を有効に再考するため、いくつかの補助線を導入している。その中には、竹内自身が、1931年以降、「事変」に感じていた矛盾の念が、1941年の大東亜戦争の開戦に際して、氷解するのを覚えた事を明示し、なぜ、そのような精神状態になったか検証しようとする作業がある。そうして、一口でいうと、開戦は、以下の矛盾を打開する実践の端緒と見えたのだ。

 〈大東亜戦争はたしかに二重構造をもっており、その二重構造は征韓論にはじまる近代日本の戦争伝統に由来していた。それは何かといえば、一方では東亜における指導権の要求、他方では欧米駆逐による世界制覇の目標であって、この両者は補完関係と同時に相互矛盾の関係にあった。なぜならば、東亜における指導権の理論的根拠は、先進国対後進国のヨーロッパ原理によるほかないが、アジアの植民地解放運動はこれと原理的に対抗していて、日本の帝国主義だけを特殊例外扱いしないからである。一方、「アジアの盟主」を欧米に承認させるためにはアジア的原理によらなければならぬが、日本自身が対アジア政策ではアジア的原理を放棄しているために、連帯の基礎は現実にはなかった。〉

 竹内は検証の末とりだした以上の「戦争の二重性格」を、日本近代史のアポリア(難関)として認識の対象としえなかった点に、1942年の「近代の超克」論議が、〈問題の提出はこの時点では正しかったし、それだけ知識人の関心も集めた〉のに〈結果が芳しくなかった〉理由を見出している。つまり、〈復古と維新、尊皇と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、総力戦の段階で、永久戦争の理念の解釈を迫られる思想課題を前にして、一挙に問題として爆発し〉ていたと考え、それはまっとうな成り行きであったと考えるのだ。

 従って、次のような結論となる。
 このアポリアをめぐる思想闘争は行われてはおらず、〈敗戦によるアポリアの解消によって、思想の荒廃状態がそのまま凍結されているのである。思想の創造作用のおこりようはずがない。もし思想に創造性を回復する試みを打ち出そうとするならば、この凍結を解き、もう一度アポリアを課題にすえ直さなければならない。そのためには少なくとも大川周明の絶句した地点まで引き返して、解決不能の「日華事変」を今日からでも解決しなければならない。戦争に投入された全エネルギーが浪費であって、継承不可能であるならば、伝統による思想形成も不可能になる。今日の日本は「神話」が支配していることに問題があるのではなくて、「神話」を克服できなかったエセ知性が「自力」でなく復権していることに問題があるのである。〉

 もちろん、このことは近代主義者にも日本主義者にもあてはまる。

 

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2011年03月14日

竹内好の「『中国文学』の廃刊と私」

 丸川哲史氏の『魯迅と毛沢東』は優れた書だと思うのだけれども、自分が求めた「肺腑の言」はなかった。ただ、章のタイトルに、強い魯迅読解の自信が匂っている。第6章は〈地獄を思い出すこと〉であり、第7章は〈自分の肉を煮るために〉と題されている。抜群のバランス感覚は明らかなのだが、学術書というのは、こうしたものなのだろう。

 直接、竹内好に当たってみようと、丸川氏が2006年に編集した『竹内好セレクションI』にとりかかった。そうしたら、58頁めにして早くもぶち当たった。
「『中国文学』の廃刊と私」(1943年3月)にこう記されていた。
〈私は、大東亜の文化は、日本文化による日本文化の否定によってのみ生まれると信じている。(中略)日本文化が日本文化としてあることは、歴史を創造することではない。それは、日本文化を固定化し、官僚化し、生の本源を涸らすことである。自己保存文化は打倒されねばならぬ。そのほかに生き方はない。
 自己の保存を前提とし、従って対者の存在を予想した外国文学の研究の態度は、かかる歴史の自覚の前に意義を失う。歴史の創造者にとって、世界は内に生み出されるべきもので、外から加えらるべきものではない。(中略)日本文学が日本文学自体を否定することによってのみ、外国文学は自己の内に生きる。それが究極の理解である。すなわち外国文学の研究は、日本文学の自己否定に置き換えらねばならぬ。存立の根拠の失われることを恐れる必要はない。恐れるものがあれば、それは歴史の創造者の自覚を持たぬ自己保存慾者、文化の官僚主義者、思想の貧困者のみである。〉

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2011年03月10日

『魯迅と毛沢東』

 丸川哲史のこの書は面白い。中国の現代史として特段新しい事実が記されているわけではないが、次の一点において傑出している。それは〈魯迅研究は、時代の推移とともにその解釈権が権力政治の期待の地平において再編される傾向がある〉ことに気づいて、そこをテコに大胆に政治現象に肉迫している点だ。そうして、自らの魯迅読解の徹底性故に、この試みはすぐれた社会批評たり得ているのだと思う。

 〈民国期には民国特有の扱い方があり、四十九年から文革終了まではほぼ典型的な「祭り上げ」型の解釈があり、そして「改革開放」以降において、魯迅解釈の多様化が進行することとなった。八十年代においては、日本の魯迅研究者であった竹内好や伊藤虎丸などの紹介が精力的に為され、またもう一方では、欧米の文学論や文化理論が紹介され、中国の魯迅解釈の革新に少なからず影響を与えたのである。〉(P225「地獄を思い出すこと」)
 これが、丸川氏がたどった〈時代の推移とともに〉再編された魯迅研究のあらましだが、特筆されているのは「祭り上げ」を敢行したのは毛沢東であったという点と、八十年代の解釈革新の中から出現した、(八八年に出版された)ワン・フイの『絶望への反抗―魯迅およびその文学世界』から始る一連の著作であるという点だ。

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2011年03月07日

丸川哲史の『竹内好』

 『世界史のなかの中国』の第二章に感心し、それが丸川哲史氏のインタビューに基づいた経緯を知ったので、丸川氏の本を読み始めた。
 ワン・フイも魯迅研究者としてスタートしたようだが、それは竹内好も同じで、丸川氏はその竹内好の研究を核に中国、そして東アジア研究を深めてきているようだ。昨日は、ワン・フイが今、ここ、をどう認識しているかに関して、ヘゲモニー分析を採りあげた。しかし、それだけでは、シャープではあるが、自分の認識をさらに進めてくれる要素は無い。やはり注目すべきは、日中のたどらざるをえなかった共通の進路の基盤、朝貢関係から帝国主義を生み出したネーション・ステートの矛盾の産物である帝国主義的国際法への移行を抽出した点である。しかも、その移行の時点への遡行は、脱政治化の政治が支配する、今、ここ、を突破する為のヒントをつかもうとする試みなのだ。
 ここのところを、さらに自分の血肉とするため丸川哲史氏の著作を読んでいるのだが、『竹内好』からまず汲み取れたのは、なにをおいても政治性の復活を模索する志向である。竹内好が体現していた変革へのパトスを受け継ごうとしているのだ。

 自分のなかで、まだ明瞭ではないが、対応するものがある。さらにはっきりさせたいので、昨年刊行の『魯迅と毛沢東』にとりかかった。


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2011年03月06日

今日のヘゲモニーのあり方

ワン・フイは今日のヘゲモニーを分析するにあたって、少なくとも三つのレベルにおいて見る必要を説いている。一つは国家レベルであり、二つ目は国家間関係において、三つ目はグローバル領域において、である。なぜならば、これら三つのレベルで多重的に構成されているからであるが、しかし、同時に〈この多重的なヘゲモニー構成はそれぞれが截然と分けられるカテゴリーなのではなく、相互浸透的な、相互に絡み合った権力ネットワークである〉ことも注意している。そうして〈それらは現代社会のさまざまなメカニズムやネットワークに内在しており、人々の行動や信仰に内在している。まさにこうした覇権のネットワークの相関作用の中で、「脱政治化の政治」は構成されていく〉と考えているのだ。

そうして、特にグローバル領域に顕著なヘゲモニー、資本主義経済を市場経済と言いかえることによって、資本の蓄積が資本と賃労働という階級関係に基づくことを覆い隠す事情を以下のように説明する。
 〈近代の市場関係は、わたしたちの日常生活の世界に内在しているがネーション・ステートの国境やその権力において定義づけられるものではない。(中略)金融資本を主な形態とする市場主義が覇権化するとき、多くの人々は、現実にある市場拡大と政治的コントロールを、すべての人に有益な歴史の流れであると思い描く。その結果、市場の拡張と支配の持つ政治的含意についての分析は充分に展開されることはない。〉

さらには次のような事情もあげられる。
〈かつてのGATT、今日のWTO、その他市場一体化の協調システムとして成立した各種の多国籍企業はみな、グローバルなイデオロギー装置だと見なすことができる。(中略)それらは経済的支配と道徳的支配という二重の権力を持っていると言える。市場主義のイデオロギー装置は、メディア広告、スーパー・マーケットのようなさまざまな商業メカニズムとして端的に表れてくる。これらのメカニズムは、商業的であるのみならずイデオロギー的でもある。その最も大きな強みは、それが五感と「常識」に訴えかけてくること、つまり、いわゆる日常とか五感に訴えかけて、人間を消費者に変えていき、そうして彼らが日常生活の中で自発的にその論理に服従していくよう仕向けるのだ。市場主義イデオロギーとイデオロギー装置には、「脱政治化」の特徴がはっきりしている。「脱政治化」の社会プロセスの中で、それはまさに「脱政治化の政治イデオロギー」を構成している。〉


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2011年03月01日

オリエンタリズム

 拙速で『世界史の中の中国−文革、琉球、チベット』の読解をつづってきが、一番の収穫は、現在の自分の中国観が絵に描いたような「オリエンタリズム」の支配下にあったと思い知った点であった。第三章の「東西間のチベット問題」は、最初に30頁近い〈オリエンタリズムの2種類の幻影〉という節があって、面食らったのだが、やはりこのような記述が不可欠なのだと、いまは納得している。
 明治期の脱亜入欧政策とともに、要するにオリエンタリズムの色めがねも採用してしまったのは確かだと思われる。しかし、そう理解する事は、現在の局面で入亜脱欧を検討することを全く意味しない。それは、また別の色眼鏡をかけることだ。ワン・フイが特筆に価するのは、世界史をシステムとしてとらえ、規則(構造)の変容を基底に見出すことにより普遍性を獲得している点だ。そうして、一九世紀に見出した朝貢関係からネーション・ステートの矛盾の発現であった帝国主義国際法へ、というルールの変容を、現代の変容、脱政治化をもたらしたルールの変容を理解する補助線とするとともに、現状を突破する構想を立てるスプリングボードとしている点なのだ。

 3月12日の「長池講義」は丸川哲史をゲスト講師に招いて、〈中国の左翼について〉のシンポジウムとなる予定のようだ。主任講師は『世界史の中の中国』を参考文献に指定した。どのような展開になるのか見当もつかないが、楽しみである。

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