2007年09月05日

飛騨の匠展のあらまし1

43fb190d.gif飛騨の匠展、始まって以来、8/31までにほぼ2000人のお客様にご来場いただきました。ありがとうございます。

まだ、お越しになっておられない方のために、ブログでご説明します。まだの方は
会期が、9/9までです。あと4日ですので、お早めにお越しください!

1)第一コーナー 特別コーナー「もう一人の宿儺と飛騨の古代」





法隆寺夢殿模型

「両面宿儺(りょうめんすくな)」。その実像は「建築技術を兼ね備えた杣匠(そまだくみ)では・・」との八賀晋氏(三重大学名誉教授 高山市郷土館名誉館長)の推論を、早川和子画師に「もう一人の宿儺」として想像図の作画を依頼、飛騨の英雄の実態に迫ります。合わせて、発掘調査で明らかになっている「飛騨国分寺&尼寺」の復元想像図も発表展示予定です。また、飛騨の匠の統率者としての被葬者と位置づけられた、国府町の海具江(かいぐえ)古墳等々を紹介しながら、飛騨の古代について考察します。(斑鳩町のご厚意により、飛騨の匠の全盛期である奈良時代創建の法隆寺夢殿1/10模型を借用展示する予定です)

2)第2コーナー 「伐り出される飛騨の木材」




大鋸の模型

飛騨の山樵及び木工用具、運材図会・小桴の実物と模型などを展示。飛騨から木材がどのようにして運ばれたのか、その時のルートはどうであったか・・などについて検証を行うとともに、材木販売で大成功を収めた飛騨出身の商人についても顕彰を行います。また、葛飾北斎の図絵にある木挽き(こびき)絵を参考に、実物大模型で江戸期の大鋸(おが)の実態を紹介するとともに、木馬や地元の山口鳶なども展示し、往時の運材風景を考察します。

3)第3コーナー 「名工の道具とワザの変遷」




大工さん自慢の墨壷

江戸期から近代まで飛騨で使われた大工道具を収集展示。また、高山建築組合の協力で、墨壺等々の大工道具を紹介するとともに、江戸期の寺院垂木(たるき)と、それを止めていた和釘を紹介します。また、このコーナーでは期間中の日曜日には大工さんとのふれあいコーナーを設け、一緒に継ぎ手や仕口の組み立て体験をしていただけます。

4)第4コーナー「歴史に名を刻んだ名家一門」




藤原宗安・木鶴大明神

室町時代から昭和初期までに活躍した著名な飛騨の匠について展示を行い、功績紹介とともに系図をつくり顕彰します。また、飛騨の匠が造った建造物や伝承についても紹介。江戸時代に守(かみ)の称号を得た大工の儀式や作法についての検証も行います。
顕彰予定大工は藤原宗安、松田太右衛門家一門、廣田良親、東雲・小笠原・笠原家一門、水間相模家一門、谷口権守家一門、森本大和守家一門、村山陸奥守家一門、阪下甚吉家一門、土村家一門、蜂屋理八家(匠文化館)など。
また、焼失再建を繰り返した別院大門についても検証します。

5)映像コーナー

期間中、匠関連ビデオや10回にわたる市民勉強会等のビデオを放映します。

6)関連イベント




大工実演&体験、杣実演、ミュージアムひだ「夏の子ども体験教室」、飛騨の伝承組み手の体験等々を予定しておりますが、諸事情により変更になる場合もございますので、詳細につきましては主催者事務局にお問い合わせください。


ちょうなの実演



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2007年07月25日

市民勉強会開催 7/13

837aaeb5.JPG7/13 市民勉強会を開催しました。

主催者側としては、匠展の準備の傍ら、連日の作業に追われて私自身もすっかり市民勉強会の事を忘れておりました。

信行寺ご住職の田中雅恵先生による「くぎの話」でした。


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要約すると、「昔の釘はたたら製鉄で作られていて、炭素が0.1%ほどしか混入しないもの。したがって、表面は錆びるが、中までは錆びない。そういうことが、匠の作った建造物を200年も300年も持たせてきたといっても過言ではあるまい。」というお話でした。
本光寺の山門がいつ作られたかの検証や、ご自身の寺院本堂の建造に関わったお話に至るまで、巾の広いお話を伺う事ができました。



いよいよ始まりました『飛騨の匠展』5

2e159f25.gif皆様にはすっかりご無沙汰しておりました。

いよいよ匠展が始まりました。
始まって見たら、皆様より「今までにないほどの展示」とご評価をいただいています。

是非、一度はご覧下さい。


(徳積善太)


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2007年06月30日

毎日着々と準備が進んでおります。

e2fef1d3.jpg徳積善太です。

飛騨の匠展開催まであと3週間となりました。現在、鋭意メンバーの皆さんがそれぞれのブースの準備設営に大わらわです。

私も毎晩2時3時はあたりまえになってきています。

史上初の展示品もかなりございます。展示品目も400点近い数に上っております。
スタッフもがんばりますので、どうぞ、ご期待下さい!

(徳積善太)


6/22 市民勉強会 「神岡の工匠達」 若田俊一

e6c04712.JPGこの日の第二部は、「神岡の工匠達」という題名で、郷土史研究家の若田俊一先生による講演でした。

神岡が生んだ名工「石田春皐」とその祖先について、石田家についてのお話や、代表的な建造物のご紹介。そして、最近お亡くなりになった現代の名工 山進木工の先代社長さんのお話など、興味深いお話を伺うことができました。

(徳積善太)

なお、この日の講演録については、後日ご紹介させていただきます。


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6/22 市民勉強会 「谷口与鹿と谷口家」 長瀬公昭

9478e672.JPG6/22 市民勉強会を開催しました。

この日の第一部は、匠学会事務局の長瀬公昭さんによる講演です。

高山の屋台を作った谷口与鹿の生涯についての話と、彼の育った谷口家という家がどういう家であったか。代表的建造物などをパソコンで紹介しながらのお話しでした。

(徳積善太)


6/8市民勉強会 第二部 竹之内信三さん

平成19年6月8日

市民勉強会 第2部 「飛騨東照宮の建造物」 竹之内信三 先生

前東照宮総代をやっておられました、竹ノ内先生にお願いしたいと思います。

みなさんこんばんは。只今紹介されました、竹之内ですが、75歳になります。今は百姓をやっております。私より適当な方がこられていますので、恐縮しております。立たせてもらいましたので、建造物の話をさせていただきますが、木工建造物の話は全くの素人でございます。
牛丸さんの話の内容を聞きましたが、もう少し前に知っておりましたら、非常に参考にさせてもらえたと思いました。それは後の祭りでしたが、今日は総代という立場で話をさせていただきます。
長瀬さんから話を聞いた時に、沿革の話をさせていただくということでしたが、パンフレットには嘘が書かれています。沿革の話も含めてさせていただきます。

南保育園の横で、畑をやっていますが、幼稚園児に「松泰寺の方へ行きます」と先生が言われます。東照宮という名前は売れていません。それよりも、松泰寺といわれれば理解される方が多いです。子どものころ、十代の初めから奉仕をしてきましたが、どうして松泰寺というのか、関心を持ってました。

まず最初に、手元に年表を作ってきました。間違いがあろうかと思いますが、私の知っている範囲で書きました。そのほかの資料は後ほど、話をさせていただきます。最後のは、東照宮の古建築の写真です。牛丸さんに解説してもらった方がいいくらい何もかもあります。東照宮のパンフレットには建物などがありますので、参考にしていただきたいと思います。

まずはじめに、ご祭神は、徳川家康です。全国に550ほど東照宮があります。もちろん正式に本殿を構えているものだけではありません。非常にあちこちあります。その東照宮の神様になっている家康公がなくなったのは、元和二年です。自分が死ぬ前に遺言されています。なんこう坊天海、金地院枢伝などに弔いの方法をいいました。中身は、俺が死んだら、久能山に埋葬せよ、という話。葬式は芝の増上寺で行い、松平の大じゅう寺で位牌をたて、日光で管理せよ。しんりゅういんぼんしゅんという坊さんに、お前が中心になってしきたれ。ということをいいました。天海は天台宗、枢伝、ぼんしゅうは臨済宗でした。天海と枢伝、ぼんしゅうは、法名でもめました。天海は120歳まで生きた大怪物でした。最終的には、法名は天海がきめ、ぼんしゅんが葬儀をしきったということです。豊国神社の別当でした。(飛騨ではいらんものを別当とよびますが) 坊さんが守をしたわけです。東照宮はそういう別当が守をしました。

天台宗の天海が、東照宮の建物、祭りなどを司ったのが東照宮です。飛騨の東照宮もいまの話の延長線上で来ています。

先ほど言いましたように、真言の問題があります。ぼんしゅんは、秀吉が大明神になっているので、家康も同じようにしようとした。しかし、天海が権現にしようとされた。大々仏教との間に、本地衰弱説 本地=もとの仏様 仮の姿として国民の間にあらわされる。神仏融合という考え方により天海は東照宮の将来を決めました。東照大権現というのがそれです。
東を照らすということは、日本を照らし、日本全土を照らすというのが一つと、天照大神と同じような考え方で君臨させたいと、日ノ本権現、東照権現、アマテラス権現など4つがでたが、東照権現で皇室から勅許をもらったのが、元和3年。日光東照宮を作りました。そのときは東照大権現、東照権現社といいました。
その頃、飛騨は金森が統治していました。天正14年に許されて、統治しますが、元和3年には三代重頼が城山に東照宮を勧請して立てたとなっています。これは大変なことです。全国的には、どういう風になっていたかというと、元和3年に日光に東照宮ができて、元和3年には増上寺に安国殿ができました。法名が安国殿と言うところからきています。元和4年にもみじ山にできました。元和5年には、名古屋に出来ました。紀州などでも7年に造るわけですから、金森が元和5年に造ったということは大変なことです。
城の中ですから、当然、金森の鎮守であり、城の鎮守であったわけです。
城の中ではあまりにもったいないという話もあったために、西之一色の正きょうじというお寺の跡に、城中から遷座したということです。それが、寛永五年に遷座していきゅうという坊さんに守をさせた。場所はいまのところではなく、峰の先のほうです。今も跡地があります。そこへもってきたわけです。

あくまで金森家の氏神であり、城の鎮守として金森が祀りました。元禄五年に金森が国替えになります。飛騨からも多くの家来がついていきました。東照宮も一緒にいきました。それから10年ほどして金森は郡上へ流されます。そのときにまた東照宮を郡上まで運びます。宝暦騒動の時に、断絶になります。
そして、郡上で金森家が断絶になると、高山から行った家来集が135名居たようですが、正月に高山へ帰ってきます。そのとき東照宮を背負ってきたということです。
おねたということは、どういうものかというと、ご神体は位牌です。今も本殿にありますが、内緒で拝ませていただきましたが、お寺のものと一緒です。おそらくその位牌をお寝てまわってきたのだろうと思います。
上山に行く時は、しんごうひ一騎をのこして・・・ということでしたが、そのしんごうひは4尺ほどの石碑です。現在の本殿の床下にあります。私が確認しました。
そういうことで、60年ほどの間東照宮がありませんでした。それから現在まで錯綜したのですが、宝暦に帰ってきたときは変わっており、飛騨は幕府の直轄領でした。
どういう形で帰ってきた東照宮を祀ったかはわかりませんでした。社殿があったかどうかもわかりません。

その間、東照宮は、日豪上人がせいきょうじという寺として守をしていました。なくなってしまってから、新しい寺をつくることになった。それが松泰寺です。きんしょう山みょうじょうぜんじ、ほうこういんという信貴派のてらがありますが、山伏でした。
だい2世にちょうふうという人が居て、その息子がきんしょうざんに奉公していた。その息子に命じたのが6代頼ときです。当時12歳でした。
引き受けたぎょういんという人が24歳でした。それに松泰寺をおこさせて、12代続き東照宮の守をさせました。

はじめは松泰寺も住職がしっかりしていました。今でも裏に5つの墓がありますが、5代はちゃんとしていたということがはっきりしていますが、それ以後はおられなくなりました。どうにかこうにか12人は数えることが出来ます。古文書も残っていません。代々記というのが残っています。そこに12人あります。

文化文政期には、どんな社殿かどうかわからなかったものに、大きな関心を示して再建をしたのが、りょうけんという坊さんです。東照宮の住職ではありません。もともとは八幡神社の長久寺の住職でした。松たい寺の方は引き受けがなくなったので、代務者として入りました。いかにもすさんだ東照宮を見て、時の郡代は17代榊原郡代でした。

榊原郡代を東照宮へ呼び、初めてみた郡代は餘のひどさにびっくりして、文化10年に江戸へ走りました。いろいろと行き違いがあったりしたようですが、郡代はその間に交替します。次の芝郡代から引き継がれ、芝郡代とりょうけん和尚の間で善後策を講じました。
なかなか許可が下りない。やっとおりたのが文化13年の暮です。そのころ金森家の子孫に許可が下りました。微禄でたいした給与もないので、なかなか中心になってできないので郡代に助けを求めます。そのとき、残念ながら、りょうけん和尚がなくなってしまっていました。しかし、当時内山忠三郎が協力して再建をはかったということです。
翌文化14年の初めにちょうな始をして、4/12が例祭でした。これを4/17にあわせるためにつくったのが現在の社殿です。

写真をみていただきたいのですが、先ほどの古建築の話をしましたが、かれもみていないということですが、ぜひ見てもらいたい。あの一帯を見てもらいながら話を聞いてもらいたい。元田さんもいらっしゃいますが、修理をしていただきました。元田さんがいうには、壊れたものを見せてもらってもどうなおしていいかわからない。しかし、その元田さんがどこを直したかわからないように直していただきました。

県や国から補助金をもらって、やっとなおすことができました。東照宮は中に入れません。石段があって、中へは入れないようにしています。寺社建築でこんなものがあったかと驚かれると思います。素晴らしいものです。

余談ですが、比叡山東照宮の社殿の図を見てください。寛永11年に立てられました。日光が現在の形になったのは寛永13年です。誰が作ったか、天海和尚が作らせました。
権現作り、石の間作りだといわれています。これは東照宮だけが許されています。

右と左を一つの屋根でつないでいます。通常床は石畳になっています。どうしてこんなものを造ったかというと、拝殿は家族家来、奉仕をする坊様は石の間でやったということです。他には例がないそうです。
東照宮は権現作り、石の間づくり、が特徴です。

東照宮を造る時に、山王一律真道と言う徳川神道というしきたりがあります。
山王は日枝神社ですが、それは延暦寺の守り神です。天海があみだした方法です。
高山のは本殿だけそれを守っています。しかし、石の間も拝殿もありません。見た目は派手でありませんが、彩色を施してきんきらきんのものが多い東照宮にあって、飛騨のは色がありません。多少色があった程度です。白木作りで規模は小さいですが、技の素晴らしさを伝えている、それが西之一色の氏子だけで守するだけではだめだといった人もありますが、それくらい素晴らしいものです。
中を見ることが出来ませんが、そういう希望がありましたら、ぜひ神主さんに言ってください。

現在の東照宮を文化15年に完成させたのが、水間相模です。代々4代あったようですが、宝暦年間から4代続くそうです。様々な寺社建築を手がけていますが、3代宗俊がてがけています。実際見てもらいたいと思います。
さらに、高山の神社仏閣の中でこれほどの彫刻を残したものもありません。蛙股にしっかりした彫刻をはめこんであるとか、ぜひ見てもらえれば匠の素晴らしさを知っていただきたいと思います。元田さんの話もこのあとにありますが、その真実味のある話も聞いてください。
残念ながら東照宮は明治維新で、敵方になりました。ですから、東照宮は城中にできたときは金森家、歴代の郡代と町の檀那衆が護持をしてきました。明治維新以降、徳川は敵方となりました。守をするものがいなくなりました。
明治元年に、神仏崑崗令がだされ、廃仏毀釈運動がおこります。そのとき誰も引き受けてがいなくなり、西之一色で受けることになりました。
昭和町まで400戸ほどです。小さい氏子の神社です。東照宮の下に花里八幡宮は十数戸の氏子でしたが、今は東照宮の倍くらいの数に大変多くなりました。

住職になる人がないので、天保に耐えて、八幡長久寺と国分寺が、米15表で守をするということが幕末にも起こっていたそうです。慶応四年に東照宮と松泰寺は別々にしろということで、仏像仏具は市内の真言寺に四散したそうです。わかっておりますが。

日枝神社は松寿院、天満守は観音印、一本杉は大じょじ、八幡宮は長久寺などとなっていましたが、ほとんど、呼ばれていません。名をはばかれたのだとおもいます。
東洋山松泰寺となっております。城山に東照宮を勧請した元和5年のときに東洋山御宮というのがみつかりました。東照宮の山号だと思います。
なぜ東洋山だと、城山はこうよう山です。その東側に祀ったからとうようざんといったのではと思います。
西之一色にある東照宮も町年寄日記にも、松泰寺御宮となっています。

質問時間もとってしゃべってしまいましたが、最後に本地堂というのがあります。仏が仮の姿になってあらわれるという思想ですが、薬師如来=とうほうくう薬効如来
仏教は東方瑠璃こうこうじょというのもあります。文化14年にそのあとに本地仏をまつるものを造っています。稲荷堂となっています。神社の中に純粋な仏像があります。
社務所の建物は、松泰寺の庫裏です。庫裏と本堂が社務所になっているところ。
唐破風の屋根の中に、ない神殿があります。そこに松泰寺の本尊の不動様を祀っていた。
きれいな黒塗りのカマチです。あきらかにお内陣を須見壇にしてあったというものです。
いなごという処理をてんじょうにしてあります。天井梁の仕組みもそのくさびがはってあること。床の間がはりどこです。ぬりどこではありません。陣屋の正面もはりどこであります。そんなことを思うと、東照宮は本地堂、金龍神社があり、ぜひ建物も見ていただきたいと思います。
そんな思いをお伝えして、私の話を終わります。

(徳積善太)

お詫び:固有名称が一部ひらがなのままになっています。





6/7市民勉強会 牛丸岳彦さん

大変お待たせいたしました。
市民勉強会の講演録です。

「市民勉強会

5回目ということですが、いつもたくさんの皆様においでいただきありがとうございます。
10回やりますが、本日は、当ミュージアム飛騨学芸員 牛丸岳彦さん、「古建築の見方と飛騨の匠」
竹之内先生に講演をお願いしております。
興味を持って私共も楽しみにしております。どうぞよろしくお願いします。

お願いがございます。飛騨の匠展という展示会に併せて開催させていただいています。来月のオープンに向けて準備をしております。44日に渡って開催します。開催にあたって、お願いがあります。警備、受付、説明など実演コーナーでのアドバイスなど、人手が必要です。市役所のほうへ文化ボランティアにお願いしました。ひょっとするとご来場の皆様にも登録をされておられる方も在ろうかと思いますが、余裕がありましたら、半日でも一日でも時間の許す限り、お手伝い下さい。
オープニングの前に内覧会、勉強会などもさせていただきますので、よろしくお願いいたします。

第一部 「古建築の見方と飛騨の匠」 牛丸岳彦学芸員

みなさんこんばんは。本日は足元の悪い中、来てくださりありがとうございました。突然ですが、こういうものをご存知ですか? 朱印帳といいます。私も善光寺を皮切りにいろいろ訪問しました。善徳寺とか、不忍の池とかあります。年号を書いてくださるところもあります。印刷もあります。だいたい300円くらいですが、お寺とか回るのが好きで全国を回っております。こういうものを集めると面白いと思います。博物館実習とかありまして、大学生の女性がいて、朱印を集めているという。彼女から教えてもらい、私も始めた次第です。建築の見方とか、いろいろと調べてきたことをお話したいと思います。
建築を楽しく見られればと思い、今日の資料を作ってきました。

資料は3枚綴りです。建築の様式を覚えようということで1枚。どうすれば年代がわかるのかということを2枚目に。これをみていけば、大分判ると思います。一番最後はスライドの内容を印刷しておきました。メモなどをしていただければと思います。
本日の内容は、今申しました、建築の様式、年代、時間があれば飛騨の建築の写真を見ながら感想の話をしていきたいと思います。

最初に「和様」ということをお話します。江戸時代の建築はほとんどが折衷様になっています。地域ごとにも特徴があります。建物を見たときにこれは和洋だとか、禅宗様だとか、わかります。和様というと、奈良の法隆寺とかがもとになっています。それが日本化していき、後に伝わっていくわけですが、天井が低い、長押を打つ、蛙股を持つ、縁側を持つ、などの特徴があります。
これだけでは、判りにくいので、写真を見ながら説明します。

国分寺の本堂です。元々中世の建築ですが、安土桃山にかまっているということがわかっています。塗りなおして赤い色になりましたが、屋根の先にぶら下がっている懸魚をとりはずして修理しました。六様との間に3cmくらいあいている。風とか雨で木がやせてしまっていることがわかりました。
これを見てみると、屋根が高くない。縁側がある。などの特徴があります。
長押がある。と写真に書いていますが、長押は柱と柱を打ち付ける部材を長押といいます。釘隠しもあるのですが、このころの長押は構造材として、建物のゆれを止める目的がありました。

木鼻(こぶし鼻)、その上にマスがあります。大斗といいます。取り巻くものを巻斗といいます。人間のひじのようになっていますので、肘木といいます。その角っこにぎょうが少し有る。これが和様の特徴で、法隆寺にはフナひじきというのがあります。
下の部材は長押といいますが、古いものほど、削って造るような造作をしています。新しいものは貼り付けただけです。上にあるのは頭貫といいます。中間にあると腰貫といいます。

次の写真は、懸魚で、その中央部に六葉があります。右のほうにカットしたものがありますが袖切といいます。その横に渦、紋様が若葉といいます。これがわかれていると、古いものであるといえます。

2.大仏様=だいぶつよう
平安時代後期になると中国との交易が活発になり、建築様式を取り入れました。これを大仏様といいます。構造的には貫という材を貫いて造る水平材を用いて、頑丈にするということがあります。これは他の建造にも後に取り入れられました。
実際に残った建物はほとんどありません。神戸の浄土時浄土堂くらいしかありません。この寺は、本堂が東側からみているんですが、西をバックにしている。これは、西方浄土へ導くために西をバックにしています。後ろ側に光を取り入れる開放窓があります。照蓮寺も西を向いて立っていたそうです。
この建築は柱が大きくて、日本建築でも珍しい建物です。
特徴で面白いのは巻斗、大斗の下に座布団のような部材があります。これはマスと一体になったもので、飛騨には残ります。水野先生の話によると、瀬戸内海、飛騨地方に残っています。皿斗といわれているものです。肘木のところに貫通する穴をあけて通しています。天秤のように屋根を支えています。
こういう寺社建築はいかに屋根をやんだすか、ということに苦心しています。飛騨弁のわからない方には、いかに遠くに出すか。木を痛めてしまうので、雪にも耐える工夫が差し肘木というものです。東大寺の南大門などの様式が可能になりました。

3.禅宗様
鎌倉時代に禅宗が活発になった頃、中国の寺院形式が用いられました。一番上の頭抜きの上に平べったい台輪というのをおいたり、ちまきといって、柱を細くする工夫。そばんといって、蓮華の花を模したもの。栗はらというもの、加藤窓、えび虹梁などを使っています。
宗猷寺、私の出身地ですが、これが禅宗様の強いものだと思います。つめぐみというのがありますが、2Fの屋根を見てもらいたいのですが、組物を蜜に入れる。禅宗様の場合、詰め組であるのが特徴です。また、屋根が二層式というのも特徴です。
また、前のところが石敷きになっていますし、粽のある柱、礎盤というのも特徴です。

頭貫というものの写真ですが、平べったい板があります。これが、台輪です。また中央に蛙股というのがあります。これは折衷式になってきた名残です。

4.年代の推定
1)柱を見てみよう
もともと家は柱に屋根を乗せたもの。柱を見ると判る。
2)軒下を見てみよう
屋根の下には、特徴があります。
3)縁と縁の下を見てみよう
4)屋根を見てみよう
5)中を見てみよう

資料のほうに、見方をかいておきました。一覧に特徴がすこしづつ説明されています。

神岡町小萱薬師堂 県下でも古い建築の一つ。いわれが面白いのですが、ねまぜやくしという呼名があります。男女が雑魚寝をして、フリーに交友する。そして、神の子として扱われるなどという話があります。
柱は丸になっています。柱は丸が高くて、角が少し落ちると思っていただいて結構です。
柱を造るのが丸のほうが大変です。ここは、丸柱で均等に柱の間を割っております。

柱には面取りというのがあります。料理も面取りがありますが、建築も同じです。現在はかんなを一かけするだけですが、面取りが必要でした。国分寺の本堂は1割=2cmくらいの面取りをしています。照蓮寺も面取りが多い。法華寺も材が太くて面取りが大きいです。城山神明神社の絵馬殿は、和様の建築形式で、写真でわかりにくいのですが、肘木にも面取りがしてあり、古いものだとわかります。

素玄寺の本堂は高山城の遺構をうつしたものですが、柱の間隔が等間隔です。お寺の場合は真ん中を空けて見えるようにするものが多いのですが、古いものは住宅で修行をしたものが、そのままお寺になったようなことがあるので、等間隔というのがあります。

法華寺の洗い仏の建築は、面取りが2面になっていて、新しいものです。

次に、国分寺本堂の軒下を見てください。古い建築の場合は、隅っこの柱を少し高くする特徴があります。写真では見にくいですが、隅の柱が少し上に上がっている。これは中世の特徴です。屋根が下がってくるのを防いだという特徴があります。

マスという部材についてみてみましょう。この部材も年をとると細くなってきます。大雄寺のマスは平べったいものです。古いものは正方形に近いものもあります。

もう一つの中世の特徴は、屋根の下の垂木がカーブしていることです。軒下を見て見ようのΔ暴颪い討い襪茲Δ法安国寺の経蔵のものは、すこしそっています。照蓮寺のものもそっています。いわゆる後には手抜きしてきたということでしょうが、このころには手間をかけたということでしょう。

蛙股という部材があります。飛騨には古いものがあって、荒城神社、久津八幡宮などには古いものがありますが、そこに彫刻をつけたのが特徴です。蛙がふんばったような形をしているのでこの名があります。板蛙股などという平たいものもあります。古川の林昌寺のものも、板状のものです。富士社社殿は日枝神社の元本堂ですが、これも彫刻が立派です。
福成寺のものには、獅子が入れてあるという特徴があります。

先ほど、向拝とか木鼻の話をしましたが、これが何であるか。木鼻は龍のものをつけたりしていますが、これは、真横から見るともともと貫の一つでした。はみ出した部分に彫刻をつけて発達しました。国分寺のものなどは、貫をみると貫いている幅をはみ出さない。そういう形になっています。
袖切鼻は、木を薄くしてはめ込むためにあったものです。それが装飾的になっていったということです。
千島町の飯山寺の写真です。エクスという会社の裏ですが、この木鼻は非常に小さい。幅が狭い。貫が発展してきているという特徴があります。

福成寺本田の木鼻は、これくらいになると、幅も広くなってきて、角などもはみだしています。全く別の部材でひっかけて、差し込む形になっています。松田太右衛門の作で古いものですが、すでにはみ出しています。
信行寺の和尚さんに聞くと、このころのものは、阿吽の原則があるらしいのですが、だんだん崩れてきます。獅子が使われるようになると、大きく口をあけたり、龍の彫刻などはお参りの人をにらめつけるようなそういうのもあります。

川上家別邸の稲荷堂は谷口延恭(与鹿のお兄さん)が作りましたが、

肘木の上にマスがありますが、獅子の頭の上にマスがないという特徴が江戸時代後期にみられてきます。

飛騨の建築の特徴は、マスの下に皿斗というものを入れます。国分寺・飯山寺にもない。福成寺のものは、皿がでかいです。信行寺の田中さんは松田太右衛門が広めたとおっしゃっていました。善応寺のものにも皿斗があります。

向拝=ごはいといいますが、古いものはシンプルで新しいものはぐちゃぐちゃになっていきます。国分寺は渦と若葉が分離しています。円徳寺のものも分離しています。大雄寺山門は区別がありません。渦という観念がなくなり、若葉にくっつきます。
法華寺は、渦が上行ったり下行ったり、波になったり雲になったりしてきます。そういうものが新しいものです。

一番したのは賢誓寺の鐘楼ですが、垂木が放射状の形になるのは明治以降になります。
法華寺の鐘楼は古くて、屋根に草が生えていましたが、1786年くらいのものです。この垂木をみると、まっすぐ。天性寺のものは、平行。明治の初めごろまでは、平行だったのが、だんだん放射状になってくるのです。

縁の古いものは、縁を支える柄柱が、本堂の柱の延長線上に来ています。本堂の並ぶ柱の延長線上にあります。新しいものだと崩れてきます。

照蓮寺の屋根はゆるい勾配になっています。もともと移築される前は急勾配でした。解体修理のときに、どんなに上がっていたかわかったのは、2段階になってたかくなっていた。
屋根をどんどん上げていって、部材をどんどん足して作っていたことがわかりました。
三福寺のかんきじの屋根は明治になってから上げたそうです。

照蓮寺のものは、本来低いものが、高くなっていって、元に戻したということだそうです。

信行寺の田中さんの講演が今度ありますが、規制などもあった話があります。三間梁規制、箱棟=屋根のうえについたものや向拝などは規制されて作ることができなかったそうです。
いろんな制約の中でお寺ができていったということがわかります。

後門のつくりについて、後の時代のものである。という経緯があります。
歓喜寺の本堂の柱を見ていただくと、四角になっています。古い形式を残しています。葬式などで四角柱は古いぞなどと思ってください。

私も高野山とか日光とか見てまわって歩きましたが、こういう見方を知識として思って於いてください。
古建築の細部意匠、建物の見方調べ方=ちょっと高い本ですが、買ってみてください。
いろんな参考になる本がありますので、見てください。」

(徳積善太)

お詫び:固有名称が一部ひらがなのままになっています。




2007年05月28日

5/25 市民勉強会終わりました。

5313dafd.jpg平成19年5月28日(土)午後7じより、飛騨の匠 市民勉強会を行いました。

今回は、岐阜大学教授の早川万年先生をお招きして、「飛騨の匠と下国について」という題名で講演をいただきました。

今回は、雨にもかかわらず、34名の皆様に受講いただきました。


早川先生2


講演録は、採録しておりますが、現在、先生に文章を確認中のため、今しばらくお待ち下さい。

(徳積善太)


2007年05月18日

金山の加藤家を訪問しました

57f5718a.jpg18金山町加藤家資料調査
平成19年5月17日
金山町:加藤朋昭、長瀬茂樹、小島忠之
匠展:山腰、長瀬、牛丸

●加藤家について
・明治3年の築
・平成4年刊『みの・ひだ歴史的建造物・町並み』にも紹介されている。
・高山別院の落慶法要の際、お坊さんが本山から来る際立ち寄った。知事の計らいで平光という建築士が紹介された。
・宗和流か?
・生糸とお茶の商いで栄えた
・伊勢講の面倒を見ていた。
・渡の加藤家が本家。
・元は桴師で日雇だったか?
・二代目金之助が財を成し、美術品などを集めた。現朋昭氏で六代目。
・生糸やお茶を横浜を通じてアメリカなどへ輸出していた。
・東西の喜八郎と言われた。東はホテルオークラの経営者。
・ボッケイ(牧渓?)、狩野派の絵など所有。
・櫂は船のもので、小桴のものではない。川船のものか?渡船等に使用したものか?
○古文書について
・運材にかかわるものも多数。
・犬山城主成瀬氏から金森頼直へ宛てた手紙や今尾藩当主竹腰正晴からの手紙あり。金山の百姓が、飛騨からの材木の件で訴えていることが分かる資料。
・下原村桴乗手の肝入代七兵衛が奉行と、下原から大利までの川下げの契約をしている。(1693)
・下原六カ村が金山あたりで薪を売らない旨誓った文書。(1713)
・金山―下原の荷運びを盛んにして欲しいと願いあげた文書。
・幕末の自植場の絵図。植林政策にかかわるものか?
など多数。

●小島さんからの情報、要望等
・運材図会の元が小坂にあった。元古川にあったとも言われる。
・南方山の地図が、県の歴史資料館にある。こちらで、画像でいいので使用したい。


●運材について
○綱場等
・中綱場、大利、下麻生が大きかった。
・紀伊国屋文左衛門が下麻生までで来ている。
・鷲場(下由井の下)は天領で材木の見張りをしていた場所。
・七宗の国有林は尾張藩。有事の時すぐに伐り出せるよい場所。家康より与えられた。
・田渕の綱場で尾張藩が材木をあげていた。
・高木酒造は尾張藩の関係。昭和の初めまで木を上げていた。
・鉄砲の時木につめるコケなどは、子供の小遣い稼ぎになった。
・S15頃、益田川を流していた。
・S3年に鉄道。
・トラックが入るようになって川流しが廃れた。
・木馬は大正からS30年ころまでやっていた。
・山林鉄道はS25、6年まで。トラックは当時2tだった。
・金山のユガケではS40頃まで木馬やっていた。いい木ばかり。その後4tトラックに。
・福来国有林s26頃まで木馬。中切のフクサ、ササマタ三郎、加藤マサユキらが山小屋に泊まってやっていた。
・金山の日通のトラックが木材を運んでいたがs26頃なくなった。
・山人(やまど)がいて朝晩通っていた。
・s13,14,15あたりが管流しの最後か?当時ヒノキが。短かった。萩原のダムに木がたまっていた覚えがある。
・山小屋だけ作る杣もいた。
○上野銀松さんについて
・父親が杣大将。父について色々回った。
・滝の本を出している。
・長野南木曾まで行っている。

●下原のことなど
・下原は400石知行で田が少ない。
・口留番所が福来にあった。出て行くものは白炭、きざみ大根、生糸等。入ってくるものはミカン、鴨など。
・金山役所は三木のころからあった。江戸に入ると尾張藩に。金山役所は尾張藩になってからの言葉。
・馬瀬川は郡上川のこと。
・石場搗き歌に「川を取られた下原に」と歌われた。
・名主の細江家は近江浅井氏の流れ、日下部、吉島と縁がある。
・郷土館になっている永田家とも縁があり、「永田畑」がある。

●その他
・金山出身のカンベヨシフミさんが姫路の博物館に勤務している。


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