6438ac5
 
 紀元前13世紀ごろ、イスラエルの民がヤハウェがイスラエルの民に与えると約束した土地カナン(約束の地)に入る前に、預言者モーセは民を治める王国の建設に関して預言的な勧告をしています。
 その指示によれば、あえて王を立てようとする場合、下記の基準を満たす人を選ばなければなりませんでした。

 1.によって選ばれた人
 2.異邦人でなく、イスラエルの家に属する人
 3.侵略戦争のための大規模な軍備拡張をしない人 
 4.民をエジプトに帰らせない、この世的な道に民を導かない人
 5.妻を多くもったり、自分のために金銀を多く蓄えたりしない人
 6.神の律法に従って民を治める人
 7.神の定めを守る人

 あなたの神、主が賜わる地に行き、それを獲てそこに住むようになる時、もしあなたが『わたしも周囲のすべての国びとのように、わたしの上に王を立てよう』と言うならば、
 必ずあなたの神、主が選ばれる者を、あなたの上に立てて王としなければならない。
 同胞のひとりを、あなたの上に立てて王としなければならない。
 同胞でない外国人をあなたの上に立ててはならない。
 王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。
 また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。
 
 また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。
 また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。
 彼が国の王位につくようになったら、レビびとである祭司の保管する書物から、この律法の写しを一つの書物に書きしるさせ、
 世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない。
 そうすれば彼の心が同胞を見くだして、高ぶることなく、また戒めを離れて、右にも左にも曲ることなく、その子孫と共にイスラエルにおいて、長くその位にとどまることができるであろう。 (申命 17:14-20

 紀元前11世紀、預言者サムエルの時代に、イスラエルの民は「さばきつかさ」(士師)の統治を拒み、国を治める王を求めました。
 彼らは何世紀も前に主が指示を忘れて、ほかの国々のようになるために、他の国々のような王を望んだのです。 
 そこでサムエルは、そのような王をもつとどうなるかを告げました。
 すなわち兵役と君主への奉公、税の負担などについて警告したのです。


 今その声に聞き従いなさい。
 ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない」。
 サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、言った、「あなたがたを治める王のならわしは次のとおりである。彼はあなたがたのむすこを取って、戦車隊に入れ、騎兵とし、自分の戦車の前に走らせるであろう。
 彼はまたそれを千人の長、五十人の長に任じ、またその地を耕させ、その作物を刈らせ、またその武器と戦車の装備を造らせるであろう。
 また、あなたがたの娘を取って、香をつくる者とし、料理をする者とし、パンを焼く者とするであろう。
 また、あなたがたの畑とぶどう畑とオリブ畑の最も良い物を取って、その家来に与え、
 あなたがたの穀物と、ぶどう畑の、十分の一を取って、その役人と家来に与え、
 また、あなたがたの男女の奴隷および、あなたがたの最も良い牛とろばを取って、自分のために働かせ、
 また、あなたがたの羊の十分の一を取り、あなたがたは、その奴隷となるであろう。
 そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。
 しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。 (サムエル上 8:9-18) 

 サムエルは王政にともなう3つの大きな悪について、イスラエルの民に警告しました。
 重税、労働力の徴集、私有地の奪取です。 

 このことに関して、ブルース・R・マッコンキー長老は次のように語っています。
 「王政は、王位に就く人がどんなに才能に富み、あるいは気高くても、政府の最善の形態ではない。
 政府の本来の業務は、人民が最も利を得られるようにすることにある。
 しかし、最も理想的に運営されている王政でも、必ず支配階級にある人々に、ある種の特権が与えられ、疑わしい追従がともなうのである。…… 
 キリスト以前の時代に、折々、主は王によって義にかなう神権政治を行われたのは事実である。
 しかし、約2000年間、主が認めない王政が存在してきた。
 王が主の代表者であるこのような政治形態は、真実の神の王国に倣った適切な政体である。
 しかし、不義な王が王位に就くやただちに、この種の制度にともなう祝福や自由は失われてしまう。
 モーサヤ王は次のように語っている。
 『……すべての人は必ずしも正しくないので、あなたがたを治める王、あるいは王たちがいるのは望ましいことではない。
 見よ、一人の悪い王が犯させる罪悪は何とひどいことか。
 また滅亡の何と大きいことか。』 (モーサヤ 29:16-17
 現在も統治権を保有しておられる主が再び地上で統治なさる日まで、聖徒たちは、現存する権力に従う義務があるのである。」 (『モルモンの教義』 p.414-415)

 ところがイスラエルの民が正当な王であられる主を拒んだので、ヤハウェは預言者を通してイスラエルに王を立てるように指示されました。
 最初の王としてサウルが選ばれ、その指導の下に王国の基礎が置かれました。
 
 そしてダビデ王の時代には、王国が1つにまとまり強大な力を誇るようになり、ソロモン王のもとで、イスラエルは大いに繁栄し最大の領土を有しました。
 初代から3人の王はそれぞれ多くの重要な業績を残しましたが同時にこの世的な統治により、やがてこの国の崩壊の原因も作りました。
 紀元前931年ソロモンの死後、徴税に関する意見の相違から、紀元前922年にイスラエルは2つの王国に分裂しました。

         Ibo8UAgeq397uD01483672239_1483672495
 
 ソロモンの息子のレハベアムは、ユダとベニヤミンの部族の領土からなる南王国を治めました。
 南ユダ王国は、新バビロニアエルサレムが破壊される紀元前586年まで続きました。
 一方、新たに自らを王と宣言したヤラベアムは、残り10部族からなる北王国を治めました。
 この王国はイスラエル王国ともよばれ、約200年にわたって王により統治されました。
 しかし、どちらの王国においても、ヤハウェによって定められた王の条件がほとんど無視されていたので、ユダとイスラエルはからの悲しい結果になりました。

       gfbv3234

  北イスラエル王国

 北イスラエル王国の初代の王になるヤラベアムは、ソロモン王の時代にイスラエル軍を指揮していたエフライム族の人であり、ダビデの町の建設計画における業績を高く評価されイスラエルで最も強い力をもつ2つの部族エフライムとマナセの領土を管理する職に就きました。
 ソロモン王はヤラベアムを恐れて、彼の命を奪おうとしました。
 ヤラベアムはエジプトに逃れ、ソロモン王が死ぬまでエジプトにとどまりました。
 やがてエジプトから帰るとヤラベアムは北の部族の人々から招かれ、ソロモン王の息子レハベアムとの対戦を指揮するように頼まれました。
 この反乱により、イスラエル王国の人々はユダから分かれ、ヤラベアムを王としました。
 彼らの王国は北イスラエル王国として知られるようになりました。 

 北イスラエル王国は、ヨシュアの時代からヤラベアムの時代にいたるまで、エフライムの部族が支配権を握っていたので、とくに預言者によってエフライムとよばれることがあります。
 北イスラエル王国の首都は初めシケムに置かれ、のちにサマリヤに移されました。
 どちらもエフライムの領土内の町です。
 ときにはサマリヤの名前が、北イスラエル王国全体を指す言葉として使われました。

 ヤラベアム王は、偶像礼拝を行う宗教を国教として定めました。
 南ユダ王国のエルサレム神殿に対抗して、モーセの当時の偶像「金の子牛」を復活させ礼拝所を作り、レビ人でない者を祭司とし、しかも伝統的な祭日を勝手に定め自ら祭壇に上り香をたきます。
 イスラエルの民はカナンの地に定着後、周囲を取り巻く邪悪な異教徒の国々から、さまざまな習慣や宗教上の儀式を取り入れ始めました。

     99c66 

     rtxgjo

     567nm

 偶像礼拝は、モレクなどの邪神同様、人の子供を焼いてささげるなどの蛮行の元となっています。
 アンモン人は、モレクという空想の神も礼拝します。
 アンモン人とは、アブラハムの甥ロトの2人の娘たちのうち、妹が産んだ子供のが祖先となっている人々です。 
 古代イスラエルでは、ヘブル語(ヘブライ語)で「恥」を意味する「ボシェト」と同じ母音をあて、モレクとよぶのが一般的でした。
 『レビ記』では石打ちの対象となる大罪のうちに、「モレクに子供をささげること」があげられています。
 モレクへの生け贄として男女は生きている幼児を火に投げ込んでささげました。
 幼児をモレクにささげていたことは、考古学上の発掘からも明白です。
 子供をつかんでいる祭司を描いたレリーフが発見され、祭儀場らしい場所からは、子供の骨が大量に発見されました。
 子供には新生児も含まれていましたが、ほぼ6歳を上限としました。
 同じような場所は、フェニキア人の植民地があったサルデーニャマルタシチリアでも発見されました。
 
 
 あなたの子どもをモレクにささげてはならない。
 またあなたの神の名を汚してはならない。
 わたしは主である。 (レビ 18:21
 
 主はまたモーセに言われた、
 「イスラエルの人々に言いなさい、『イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。
 わたしは顔をその人に向け、彼を民のうちから断つであろう。
 彼がその子供をモレクにささげてわたしの聖所を汚し、またわたしの聖なる名を汚したからである。
 その人が子供をモレクにささげるとき、国の民がもしことさらに、この事に目をおおい、これを殺さないならば、
 わたし自身、顔をその人とその家族とに向け、彼および彼に見ならってモレクを慕い、これと姦淫する者を、すべて民のうちから断つであろう。 (レビ 20:1-5

 ソロモン王がモレクの礼拝を行ったことが「列王記」に述べられています。

 
 ソロモン王は多くの外国の女を愛した。
 すなわちパロの娘、モアブびとアンモンびとエドムびと、シドンびと、ヘテびとの女を愛した。
 主はかつてこれらの国民について、イスラエルの人々に言われた、
 「あなたがたは彼らと交わってはならない。
 彼らもまたあなたがたと交わってはならない。
 彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせるからである」。
 
 しかしソロモンは彼らを愛して離れなかった。
 彼には王妃としての妻七百人、そばめ三百人があった。
 その妻たちが彼の心を転じたのである。
 ソロモンが年老いた時、その妻たちが彼の心を転じて他の神々に従わせたので、彼の心は父ダビデの心のようには、その神、主に真実でなかった。
 これはソロモンがシドンびとの女神アシタロテに従い、アンモンびとの神である憎むべき者ミルコムに従ったからである。
 このようにソロモンは主の目の前に悪を行い、父ダビデのように全くは主に従わなかった。
 そしてソロモンはモアブの神である憎むべき者ケモシのために、またアンモンの人々の神である憎むべき者モレクのためにエルサレムの東の山に高き所を築いた。
 彼はまた外国のすべての妻たちのためにもそうしたので、彼女たちはその神々に香をたき、犠牲をささげた。
 このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。
 すなわち主がかつて二度彼に現れ、
 この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。 (列王上 11:1-10

 シドン人の先祖はカナンの長子シドンでした。
 海港の町シドンの名は彼らの父祖シドンにちなんでつけられ、そこは長年にわたりフェニキア人(シドン人)の主要な都市でした。
 アンモン人は、邪悪なモレク(ミルコム)を礼拝し、その邪悪な行いによって戦いが起きることを預言者エレミヤによって告げられています。 
 

 アンモンびとについて、主はこう言われる、「イスラエルには子がないのか、世継ぎがないのか。どうしてミルコムがガドを追い出して、その民がその町々に住んでいるのか。
 主は言われる、それゆえ、見よ、アンモンびとのラバを攻める戦いの叫びを、わたしが聞えさせる日が来る。
 ラバは荒塚となり、その村々は火で焼かれる。
 そのときイスラエルは自分を追い出した者どもを追い出すと主は言われる。
 ヘシボンよ嘆け、アイは滅ぼされた。ラバの娘たちよ呼ばわれ。
 荒布を身にまとい、悲しんで、まがきのうちを走りまわれ。
 ミルコムとその祭司およびつかさが共に捕え移されるからだ。
 不信の娘よ、あなたはなぜ自分の谷の事を誇るのか。
 あなたは自分の富に寄り頼んで、『だれがわたしに攻めてくるものか』と言う。
 主なる万軍の神は言われる、見よ、わたしはあなたの上に恐れを臨ませる、それはあなたの周囲の者から来る。
 あなたは追われて、おのおの直ちに他人に続き、逃げる者を集める人もない。
 しかし、のちになって、わたしはアンモンびとを再び栄えさせると、主は言われる」。 (エレミヤ 49:1-6
 
         fjfkjlx6y

 バアルは、フェニキアとカナンの国々の最高の男神となっています。
 「バアル」というのは、もともとはセム系言語で「主」「所有者」を意味する言葉です。
 本来は固有名詞ではなく、真実の名を隠すための呼び名にすぎませんでしたが「バアル」が固有名詞として認識されるようになったようです。
 バアルの礼拝は古代からあり、モーセの時代にモアブ人ミデアン人の間に広く浸透しており、彼らを通じてイスラエル人の間に広まりました。
 そして、のちに北イスラエル王国でもバアルの偶像礼拝が撤廃されることはありませんでした。


 主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人のならわしに従って歩み、またイスラエルの王たちが定めたならわしに従って歩んだからである。
 イスラエルの人々はその神、主にむかって正しからぬ事をひそかに行い、見張台から堅固な町に至るまで、すべての町々に高き所を建て、
 またすべての高い丘の上、すべての青木の下に石の柱とアシラ像を立て、
 主が彼らの前から捕え移された異邦人がしたように、すべての高き所で香をたき、悪事を行って、主を怒らせた。
 また主が彼らに「あなたがたはこの事をしてはならない」と言われたのに偶像に仕えた。
 主はすべての預言者、すべての先見者によってイスラエルとユダを戒め、「翻って、あなたがたの悪い道を離れ、わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、またわたしのしもべである預言者たちによってあなたがたに伝えたすべての律法のとおりに、わたしの戒めと定めとを守れ」と仰せられたが、
 彼らは聞きいれず、彼らの先祖たちがその神、主を信じないで、強情であったように、彼らは強情であった。
 そして彼らは主の定めを捨て、主が彼らの先祖たちと結ばれた契約を破り、また彼らに与えられた警告を軽んじ、かつむなしい偶像に従ってむなしくなり、また周囲の異邦人に従った。これは主が、彼らのようにおこなってはならないと彼らに命じられたものである。
 彼らはその神、主のすべての戒めを捨て、自分のために二つの子牛の像を鋳て造り、またアシラ像を造り、天の万象を拝み、かつバアルに仕え、またそのむすこ、娘を火に焼いてささげ物とし、占いおよびまじないをなし、主の目の前に悪をおこなうことに身をゆだねて、主を怒らせた。
 それゆえ、主は大いにイスラエルを怒り、彼らをみ前から除かれたので、ユダの部族のほか残った者はなかった。
 ところがユダもまたその神、主の戒めを守らず、イスラエルが定めたならわしに歩んだので、
 主はイスラエルの子孫をことごとく捨て、彼らを苦しめ、彼らを略奪者の手にわたして、ついに彼らをみ前から打ちすてられた。
 主はイスラエルをダビデの家から裂き離されたので、イスラエルはネバテの子ヤラベアムを王としたが、ヤラベアムはイスラエルに、主に従うことをやめさせ、大きな罪を犯させた。
 イスラエルの人々がヤラベアムのおこなったすべての罪をおこない続けて、それを離れなかったので、
 ついに主はそのしもべである預言者たちによって言われたように、イスラエルをみ前から除き去られた。こうしてイスラエルは自分の国からアッスリヤに移されて今日に至っている。 (列王下 17:8-23
 
 南ユダ王国においてはバアルのために神殿が建てられ、盛大な儀式をともなって礼拝されています。
 この崇拝が人々をひきつけたのは、その淫らな性格にありました。


       hjhg673e 

 アッシュール神は、アッシリアの最高神で起源、名前の語源、性格などについては定説がありません。

         asherah

 ヘブル語のアシラなど、最高神として置かれた神々の名にちなんで名づけられた古代王国がアッシリアです。
 アシラは西セム系女神アーシラト(アシェラト)のヘブル読みです。
 神々の女王とされ、もともとシュメールにおいては天界の王アンの子マルトゥ(アムル)の配偶者であり、高位の神格とされていました。
 イスラエルの民が邪悪だったときに、アシラをかたどった像を礼拝していました。

 1929年、北シリアの古代カナン人の都市ウガリットの遺跡であるラス・シャムラで発見された紀元前14から12世紀ごろの楔形文字板『ラス・シャムラ文書』は、この女神が「生き物の創造者」であるエル神の妻であるとしています。
 この女神を「海の淑女アシラ」また「神々の先祖」とよんでいます。
 そして、聖書の記録だけでなく、聖書以外の資料の中でも認められるように、バアル神崇拝の3人の著名な女神(アナト、アシラ、アシタロテ)の役割はかなり重複していたようです。
 アシタロテは、バアルの妻として対等の位置を占める女神とされました。
 アシラもやはりそのように見られていた可能性があります。
 アシタロテは、シドン人(フェニキア人)の女神の名前で、ペリシテ人の女神でもあります。
 この女神は士師の時代にイスラエルに持ち込まれており、ソロモン王自身がこれをほめたたえて背教に走りました。

 
 あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガシびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追い払われる時、すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。
 彼らとなんの契約もしてはならない。
 彼らに何のあわれみをも示してはならない。
 また彼らと婚姻してはならない。
 あなたの娘を彼のむすこに与えてはならない。
 かれの娘をあなたのむすこにめとってはならない。
 それは彼らがあなたのむすこを惑わしてわたしに従わせず、ほかの神々に仕えさせ、そのため主はあなたがたにむかって怒りを発し、すみやかにあなたがたを滅ぼされることとなるからである。
 むしろ、あなたがたはこのように彼らに行わなければならない。
 すなわち彼らの祭壇をこぼち(壊しの古語)、その石の柱を撃ち砕き、そのアシラ像を切り倒し、その刻んだ像を火で焼かなければならない。 (申命 7:1-5

 ヘテ人、ヒビ人、およびエブス人は、ハムの息子であったカナンの直系子孫なので、これらの人をカナン人とよびます。 
 ギルガシ人、アモリ人、ペリジ人はカナンの子孫ではありませんが、カナン人というのはその出生に関係なくカナンの地に住んでいる人をすべてカナン人とよぶので、彼らもカナン人とよばれています。
 カナン人とは、カナンが最初に住んだ地にいた人、およびカナンの子孫を指しています。
 パレスチナの地中海沿岸の低地に住んでいた民もカナン人とよばれており、ギリシャ人がフェニキア人とよんでいた、ヨルダン川の西方の地域に住むイスラエル以外のすべての民を指して用いられたこともあります。
 イスラエルが約束の地(パレスチナ)に近づくころには、これらのカナン人たちは極端に邪悪で不義な民になっており、婚姻によってそれがイスラエルに流入し始めたために、彼らとの結婚が禁止されました。

 カナン人の多産の女神アシラを表わす木の像もありました。
 
 
 その夜、主はギデオンに言われた、「あなたの父の雄牛と七歳の第二の雄牛とを取り、あなたの父のもっているバアルの祭壇を打ちこわし、そのかたわらにあるアシラ像を切り倒し、あなたの神、主のために、このとりでの頂に、石を並べて祭壇を築き、第二の雄牛を取り、あなたが切り倒したアシラの木をもって燔祭をささげなさい」。 (士師 6:25‐26

 しかし特定の聖句を、偶像礼拝の対象物を指していると理解すべきか、それとも女神を指していると理解すべきかは必ずしも確定できません。
 それでも、現代のいくつかの聖書翻訳は、原語のこの言葉を「聖なる立木、または神聖な標柱と訳し、女神に言及しているように思える場合にはこの言葉を音訳しています。
 アシラの記述には「石柱」と一緒に記される場合や、「高き所」、「像を焼く」といったことが書かれてあるので、アシラ像は丘の上等の周辺より高い場所などで石柱を多く立てた建築物の中に、木像製のアシラ神を刻んだ物であることが推測できます。
 
 
 彼は異なる祭壇と、もろもろの高き所を取り除き、石柱をこわし、アシラ像を切り倒し、 (歴代下 14:3

 偶像礼拝の場として山や丘の頂、家の屋上などが「高き所」として使用されました。
 この場所にはアシラ像が安置されることもあったようです。
 高き所とは、主に偶像礼拝の儀式のときに香を焚いたり犠牲となる動物などをささげた場所として使用されていますが、預言者サムエルはラマのような「高き所」で行われた祭に参加しているので、すべての「高き所」は邪悪な行いにふけるために使われていたのではなかったようです。
 

 おとめたちは答えた、「おられます。ごらんなさい、この先です。急いで行きなさい。民がきょう高き所で犠牲をささげるので、たった今、町にこられたところです。
 あなたがたは、町にはいるとすぐ、あのかたが高き所に上って食事される前に会えるでしょう。
 民はそのかたがこられるまでは食事をしません。
 あのかたが犠牲を祝福されてから、招かれた人々が食事をするのです。
 さあ、上っていきなさい。すぐに会えるでしょう」。
 こうして彼らは町に上っていった。
 そして町の中に、はいろうとした時、サムエルは高き所に上るため彼らのほうに向かって出てきた。 (サムエル上 9:12-14
 
 7代の北イスラエル王国の王アハブ(在位 紀元前869年‐紀元前850年)は、偶像礼拝を行いました。


 オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。
 彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。 (列王上 16:31

 バアルとは、カナン地域を中心に各所で崇められた嵐と雨の空想上の存在です。
 地中海東岸のカナン、フェニキア人の最高神、男性格の太陽の神バアルは、肥沃をもたらす神でした。
 そして、古代のイギリス諸島の宗教は、この古代のバアル宗教に酷似しており、バアルを引き継いだと考えられられています。
 バアルを礼拝する人々は自分ばかりでなく、土壌や動物にも産出力または生殖力が与えられると信じていました。
 イスラエルの民は以前は遊牧民族でしたが、カナンの地に定着して農耕民族に近くなりました。
 そして、土地の産出力に依存する生活の中で、バアル神礼拝に心を引かれていきました。
 バアルという言葉は主人と奴隷の関係を示しています。
 バアルは通常、雄牛をその象徴としました。
 のちにバアルを崇拝する人々は、男女が性的乱交を繰り広げます。
 礼拝では豊饒多産が強調され、男女両方の儀式的な売淫行為がはびこりました。



 ユダの王アサの第三十八年にオムリの子アハブがイスラエルの王となった。
 オムリの子アハブはサマリヤで二十二年イスラエルを治めた。
 オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。
 彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。
 彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。
 アハブはまたアシラ像を造った。
 アハブは彼よりも先にいたイスラエルのすべての王にまさってイスラエルの神、主を怒らせることを行った。 (列王上 16:29-33

 モアブ人も偶像礼拝を行い、みだらなことをしました。


 イスラエルはシッテムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらな事をし始めた。
 その娘たちが神々に犠牲をささげる時に民を招くと、民は一緒にそれを食べ、娘たちの神々を拝んだ。
 イスラエルはこうしてペオルのバアルにつきしたがったので、主はイスラエルにむかって怒りを発せられた。 (民数 25:1-3

 新バビロニアのベル、あるいはベルスは多少の形を変えても、本質的にはバアルと同一であるといえます。
 複数形の「バアリム」という語がしばしば見受けられていますが、いくつもの合成語になって礼拝されていたと考えられます。
 そのほか、高き所や偶像、杜、小高い丘、緑の木などが非難すべき偽りの礼拝と結び付き、イスラエルの民をしばしば主から遠ざけました。
 イスラエル人は真実からそれて偶像礼拝に陥った理由には、普通の人は見えない的な現実を知覚することができないために、目立つ演出、盛観、行列をともなうなどの目に見える外形の形に引かれることのほかに、最も大きな魅力である淫らな歓楽とわいせつな遊興があります。
 単純で質素な礼拝儀式と律法が清純な心と生活を求める農耕民族にとって、この宗教はあらゆる肉欲的な欲情に訴えて、しかも富や流行、ぜいたくをもそえているので大きな誘惑となりました。

 北イスラエル王国は、初代ヤラベアム(紀元前926年)から数えてホセア(紀元前721年ごろ)まで、約200年間に19人の王により統治されました。 
 その間に5つの王朝が立てられましたが、いずれも長続きせず暗殺や暴動によって終わりを告げています。
 7人の王が殺され、1人が自殺しました。
 聖文の記述によれば、北の部族の統治者はいずれも邪悪でよこしまな王でした。
 この時代に北イスラエル王国で仕えた預言者たち、エリヤ、エリシャ、アモス、ホセアは、王と民に向かって悔い改めを叫びました。 
 ときを同じくして、イザヤとミカを含む南ユダ王国の預言者たちも北イスラエル王国の人々に、悔い改めなければ滅びると警告を与えています。
 古代イスラエル王国の分裂直後から、北イスラエル王国はアッシリアの猛威に晒され続けました。
 北イスラエル王国の末期には王が相次いで家臣に殺害され、殺害した家臣が王位に就く政情不安の中アッシリアの侵攻は激しさを増しました。
 北イスラエル王国の首都サマリアはサルゴン2世の猛攻によって紀元前721年(722年)に陥落し、19代の王で北イスラエル王国は終焉を迎えました。

 

  アッシリア

 アッシリアは紀元前1800年ごろから滅亡する紀元前609年、およそ1000年も続いた王国です。


 


 アッシュール神、もしくはアシラなど、アッシリア人の最高神として置かれた神々の名にちなんで名づけられた古代王国がアッシリアです。
 イスラエルの宿敵バビロニアと同様、旧約の時代に長期間、シリアとパレスチナの国々の多くを支配しました。
 アッシリア人は、安定政治体系の確立はできませんでした。
 アッシリア人は、戦争の火と剣などの兵器で敵を滅ぼしたり、民の大部分をアッシリア国内のほかの地域に追究して弱体化を図るなど、力と恐怖による統治を行っています。
 征服された人々のアッシリア人への敵意は消えず、アッシリアの全歴史を通して反乱が頻発しました。
 
 
 

 


 アッシリアの要は軍隊であり、その指導者にとって戦争は科学でした。
 戦車、工兵、歩兵、鉄製の鎧、とくに騎兵は、アッシリアの王アッシュールナシルパル(在位 紀元前883年‐紀元前859年)が歩兵と戦車を支援するために考案しています。
 ほかに城攻めの機械や破壊槌は、どれもアッシリア人が考案した物で、アッシリアの将官は戦術や兵法もよく心得ていました。
 占領された町は略奪されて、土地は木々を倒して丸裸にされるのが普通でした。
 戦利品の多くを山分けすることにより軍の忠誠が確保されるので、戦いの捕虜はすべて奴隷にするか殺すかという近東の通例によって勇気が鼓舞されます。
 兵士たちは戦場から持ち帰った生首1つごとに報奨がもらえたので、勝利後は死体から首を切り取って回る光景が常に目撃されました。
 
    539gd
 
 長い戦役中には食料もかさみ後方にいて危険で目障りになるので、捕虜たちは戦いののちに殺されることも多くありました。
 彼らは捕らえた人に背を向けてひざまずき頭を棍棒で割られたり、刃の反った重い剣で首を落とされたりしました。
 筆記者が脇に立って兵士1人が何人を捕虜にし殺したのかを記録して、それに従って略奪品を割り当て時間のあるときには王がその虐殺を取り仕切ります。
 降伏者の中でも貴族の扱いはとくにひどく、耳、鼻、手足を切り落とされたり、高い塔から投げ落とされ親子で打ち首にし生皮を剥ぎ弱火の上で時間をかけて焼かれました。
 アッシリア人の生活のあらゆる面に戦いに明け暮れ、あらゆる点で野蛮人さながらの民族特有の情け容赦ない族長的な厳しさがありました。
 アッシリア人は捕虜を拷問し親の目の前で子供の目をつぶし、生きたまま捕虜の皮を剥ぎ、炉の上で人を焼き、檻に鎖でつないで大衆の慰めにし、なお生き残った者は死刑にするなどの行為に満足を見いだしたようで、あるいはそれを男子の教育に必要なことと考えたようです。
 
 アッシュールナシルパルは、その様子をこのように書き残しました。
 「反攻した者たちは皆皮を剥いだ。
 その皮で私は柱をおおい、ある者は壁の中央にかけ、ある者は杭に留め、またある者は杭の上に立てた柱の周りに飾った。
 反抗の首謀者や高級軍人についてはその部下を殺した。」

 「私は3000人の捕虜を火で焼いた。1人も人質として働かせるために生かしては置かなかった。」
 
 「アシラ像に反逆の罪を犯し、私に悪事を企てたこれらの兵士は、……敵意ある口から舌を抜き、破滅させた。
 それでも生きている者は埋葬の生け贄としてささげた。……
 彼らの引き裂かれた体は犬や豚、狼にくれてやった。……
 私はこうした行為によって大いなる神々を喜ばせた。」
 
 別の王は、工芸家に命じて繁栄をたたえる次のような碑文を刻ませています。
 「私の戦いの戦車は人や獣を踏み潰した……
 私の建てる記念碑は頭や手足を切った人間の死体でできている。
 生きて虜にした者は、皆両手を切り落とした」
 
       9ac0f3

 ニネベで見つかったレリーフには、串刺しにされたり生皮を剥がれたり舌を引き抜かれたりしている男たちが描かれており、また中には囚人たちの唇を細いひもで縫い合わせ頭を動かないように固定してヤスで眼球をえぐり取っている王の姿が描かれているレリーフもあります。
 預言者イザヤはイスラエルに、もし悔い改めなければ主はアッシリアを「怒りの杖」として使うと警告しました。 

 
 わざわいなるかな、不義の判決を下す者、暴虐の宣告を書きしるす者。
 彼らは乏しい者の訴えを引き受けず、わが民のうちの貧しい者の権利をはぎ、寡婦の資産を奪い、みなしごのものをかすめる。
 あなたがたは刑罰の日がきたなら、何をしようとするのか。
 大風が遠くから来るとき、何をしようとするのか。
 あなたがたはのがれていって、だれに助けを求めようとするのか。
 また、どこにあなたがたの富を残そうとするのか。
 ただ捕われた者の中にかがみ、殺された者の中に伏し倒れるのみだ。
 それでも主の怒りはやまず、なおも、そのみ手を伸ばされる。
 ああ、アッスリヤはわが怒りのつえ、わが憤りのむちだ。
 わたしは彼をつかわして不信の国を攻め、彼に命じてわが怒りの民を攻め、かすめ奪わせ、彼らをちまたの泥のように踏みにじらせる。 (イザヤ 10:1-6) 

 当時のアッシリアは絶頂期にありその恐るべき残虐さはあまねく知れわたっていたのでイスラエルを神に立ち返らせるのに十分なはずでしたが、民はその警告を気に留めようとはしませんでした。
      
     344b8977

Neo-Assyrian-Empire

;jgc8543zs

 新アッシリア王国君主ティグラト・ピレセル3世と シャルマネセル5世の北イスラエル王国北部占領後に、サルゴン2世とその後継者センナケリブによって、北イスラエル王国北部の10部族と南ユダ王国46の街の住民を捕虜としてアッシリアに移動させました。
 北イスラエル王国の10部族は、紀元前740年代ごろにアッシリアへの捕囚が開始され、紀元前721年にサルゴン2世は北イスラエル王国の都サマリアを占領し10部族はアッシリアに捕囚として連れ去られました。
 それから彼らは「北の地」へ向かい、やがて消息を絶ちました。 
 この行方の知れない10部族は、イエス・キリストの再臨の直前に戻って来きます。

  アッシリア捕囚



  南ユダ王国

 紀元前11世紀ごろ、イスラエル人は現在のパレスチナ地方に古代イスラエル王国を築いていました。
 紀元前931年、ソロモンの死後に徴税に関する意見の相違から、紀元前922年にイスラエルは2つの王国に分裂しました。
 北イスラエル王国の10部族は、紀元前740年代ごろ、アッシリアへの捕囚が開始され、敗戦後の紀元前721年にアッシリアに捕囚として連れ去られました。
 北イスラエル王国の滅びからほどなく、南王国ユダも残虐だったアッシリアの攻撃に脅えることとなります。
 ソロモンの死からエルサレムの崩壊、新バビロニアによるユダヤ人の捕囚にいたるまで、20人の王が南ユダ王国を治めました。

 その中の12人は、邪悪な人物として聖文に記されています。 
 経済を発展させ国を宗教的に高めたのは、わずか4人の王だけでした。
 北イスラエル王国と同様に数多くの預言者が召されて南ユダ王国の人々に悔い改めを叫びました。
 預言者は、イザヤミカナホムハバククゼパニヤリーハイエレミヤエゼキエルなどがいました。

 南ユダ王国、初代の王レハベアム(紀元前931年‐紀元前913年)は、国中に偶像礼拝を認めました。
 レハベアムが父ソロモンに代わって王になったとき、国政は重大な危機に直面していました。
 ユダの部族と最も小さく力のないベニヤミンの部族は、首都エルサレムに近接した領土をもち、ともにレハベアムを支持してユダ王国を建設しました。


 ソロモンの子レハベアムはエルサレムに来て、ユダの全家とベニヤミンの部族の者、すなわちえり抜きの軍人十八万を集め、国を取りもどすために、イスラエルの家と戦おうとしたが、 神の言葉が神の人シマヤに臨んだ、
 「ソロモンの子であるユダの王レハベアム、およびユダとベニヤミンの全家、ならびにそのほかの民に言いなさい、
 『主はこう仰せられる。あなたがたは上っていってはならない。
 あなたがたの兄弟であるイスラエルの人々と戦ってはならない。
 おのおの家に帰りなさい。この事はわたしから出たのである』」。
 それで彼らは主の言葉をきき、主の言葉に従って帰っていった。 (列王上 12:21-24

 年月の経過にともないほかの部族の民が、南王国に移住しユダの国に属するようになりました。
 聖文には、レビ、エフライム、マナセ、シメオンの移住が具体的に記されています。
 ユダは、ダビデの家の支配の下に存続すると預言されていました。


 ただし、わたしは国をことごとくは裂き離さず、わたしのしもべダビデのために、またわたしが選んだエルサレムのために一つの部族をあなたの子に与えるであろう」。 (列王上 11:13

 この預言は成就しました。
 南ユダ王国が存続する間、常にダビデの家系の者が王位に就いたのです。
 ある王の治世中に、王妃の働きを通して王位を別の一族に移そうとする者がいましたが、計画は途中で挫折し王家の支配は守られました。
 12代の王アハズ(紀元前735年‐紀元前715年)は、4年間、父ヨタムとともに治めました。
 親アッシリア政策の一環としてアッシリアの神々の崇拝を南ユダ王国に導入し偶像礼拝を国民に奨励しました。
 自分の子供を火に焼いて異教の神にささげました。
 この悪行の報いについて預言者イザヤから警告を受けますが、その言葉に従うことを拒みました。

 13代のヒゼキヤ王(紀元前715年‐紀元前687年)は重い病気にかかりますが、イザヤから王としてのよわいを増すという祝福を受け死ぬまで正しく世を治めました。
 このころからアッシリアの勢力は衰退し、新バビロニアとエジプトの両帝国が台頭しました。

        68eytdz

 ヒゼキヤは、神の前に義しく歩み王国内からあらゆる偶像礼拝の対象物を取り去り、その国民に悔い改めて主に立ち返るように勧めました。
 南ユダ王国は近隣諸国との抗戦同盟の歴史があり、絶え間ない内乱に苦しみました。
 イスラエル王国が2つに分裂してから新バビロニアの手に落ちるまで、正しい王はわずかで南ユダ王国が北イスラエル王国より100年長らえたのは、その正しい数人の王たちのおかけであるとも考えられたいます。
 紀元前721年に北イスラエル王国の民がアッシリア人によって連れ去られてから、南ユダ王国はヒゼキヤ王に統治されました。 
 ヒゼキヤ王は聖書に書かれてあるように、主の目にかなうことを行った王の1人です。 


 イスラエルの王エラの子ホセアの第三年にユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。
 彼は王となった時二十五歳で、エルサレムで二十九年の間、世を治めた。
 その母はゼカリヤの娘で、名をアビといった。
 ヒゼキヤはすべて先祖ダビデがおこなったように主の目にかなう事を行い、高き所を除き、石柱をこわし、アシラ像を切り倒し、モーセの造った青銅のへびを打ち砕いた。
 イスラエルの人々はこの時までそのへびに向かって香をたいていたからである。
 人々はこれをネホシタンと呼んだ。
 ヒゼキヤはイスラエルの神、主に信頼した。
 そのために彼のあとにも彼の先にも、ユダのすべての王のうちに彼に及ぶ者はなかった。
 すなわち彼は固く主に従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。 (列王下 18:1-6

 南ユダ王国の民は背教して、イエス・キリストの象徴だったモーセの造った青銅の蛇を偶像として拝んでいたのです。 (参照
 ヒゼキヤ王は偶像礼拝の祭壇と偽りの神の像や邪神礼拝を、民の間から除くことに成功しました。
 ヒゼキヤ王について聖書は、このように記しています。


 すなわち彼は固く主に従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。
 主が彼とともにおられたので、すべて彼が出て戦うところで功をあらわした。
 彼はアッスリヤの王にそむいて、彼に仕えなかった。 (列王下 18:6-7

 このように、ヒゼキヤ王は奇跡的な神の助けによって強大なアッシリア軍から救われました。
 紀元前701年、サルゴン2世の子でアッシリアの王センナケリブは、南ユダ王国のヒゼキヤの治世にエルサレムを包囲し、献上された金銀財宝を戦利品として持ち帰りました。
 この事件に関して、幸いアッシリアの記録や記録など、多くの考古学的発見により『旧約聖書』の信憑性が裏付けられました。
 当時アッシリアでは、国王セナケリブが国内の各地の反乱に見舞われていました。
 南ユダ王国のヒゼキヤ王もエジプトやエチオピアと手を組み、アッシリアに対抗していました。
 ヒゼキヤとアッシリアのセナケリブは応戦体制を整える一方、ヒゼキヤはラキシュにいたセナケリブに貢物を納めて戦いを逃れようとしています。


 ユダの王ヒゼキヤは人をラキシにつかわしてアッスリヤの王に言った、
 「わたしは罪を犯しました。どうぞ引き上げてください。
 わたしに課せられることはなんでもいたします」。
 アッスリヤの王は銀三百タラントと金三十タラントをユダの王ヒゼキヤに課した。
 ヒゼキヤは主の宮と王の家の倉とにある銀をことごとく彼に与えた。
 この時ユダの王ヒゼキヤはまた主の神殿の戸および柱から自分が着せた金をはぎ取って、アッスリヤの王に与えた。 (列王下 18:14-16

 ヒゼキヤ王から貢物を受け取っただけではアッシリアのセナケブリは満足せず、ヒゼキヤ王は、自国の防衛のために、エジプトとエチオピアと同盟を結んだため怒ったセナケブリは大軍をエルサレムに派遣してエルサレムを包囲してヒゼキヤの完全降伏を迫りました。
 このようなアッシリアの高圧的な包囲に対して、ユダの預言者イザヤは次のように預言していました。


 イザヤは彼らに言った、「あなたがたの主君にこう言いなさい、『主はこう仰せられる、アッスリヤの王の家来たちが、わたしをそしった言葉を聞いて恐れるには及ばない。
 見よ、わたしは一つの霊を彼らのうちに送って、一つのうわさを聞かせ、彼を自分の国へ帰らせて、自分の国でつるぎに倒れさせるであろう』」。 (列王下 19:6-7

 アッシリア王セナケブリの脅迫は続きますが、エチオピヤ王テルハカ出撃の情報を恐れる彼の虚勢でした。
 ヒゼキヤは使者を使わして預言者イザヤに祈りを求める一方、自分も神殿に入りセナケブリの脅迫状を神の前に開いて切に神の助けを祈りました。


 主に祈って言った、
 「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ、地のすべての国のうちで、ただあなただけが神でいらせられます。あなたは天と地を造られました。
 主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて見てください。
 セナケリブが生ける神をそしるために書き送った言葉を聞いてください。
 主よ、まことにアッスリヤの王たちは、もろもろの民とその国々を滅ぼし、
 またその神々を火に投げ入れました。それらは神ではなく、人の手の造ったもので、木や石だから滅ぼされたのです。
 今われわれの神、主よ、どうぞ、われわれを彼の手から救い出してください。
 そうすれば地の国々は皆あなただけが主でいらせられることを知るようになるでしょう」。 (イザヤ 37:15-20

 主はこの祈りを聞いて、このときも奇跡的に南ユダ王国を救ってくださいました。
 イザヤはアッシリア軍について、次のように預言しています。


 それゆえ、主はアッスリヤの王について、こう仰せられる、『彼はこの町にこない、またここに矢を放たない、盾をもってその前に来ることなく、また塁を築いてこれを攻めることはない。
 彼は来た道を帰って、この町に、はいることはない。主がこれを言う。
 わたしは自分のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守って、これを救うであろう』」。 (列王下 19:32-34

 この預言の言葉は成就して、セナケリブは侵入してきませんでした。
 アッシリアの王セナケリブが南ユダ王国に対し20万もの軍隊で攻め込んできたとき、陣を構えたアッシリア軍のうちの18万5千人のほとんど全軍に近い数が空からきた大災害により、ある朝一瞬にして打ち滅ぼされてしまいます。


 その夜、主の使が出て、アッスリヤの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。
 人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆、死体となっていた。
 アッスリヤの王セナケリブは立ち去り、帰って行ってニネベにいたが、
 その神ニスロクの神殿で礼拝していた時、その子アデランメレクとシャレゼルが、つるぎをもって彼を殺し、ともにアララテの地へ逃げて行った。
 そこでその子エサルハドンが代って王となった。 (列王下 19:35-37

 「主の使いのわざ」と書いてあるだけで、具体的に何があったのか分かりません。
 しかし、まったく予期しない何かがおきてアッシリア軍は撤退したのです。
 朝までに18万5千人が死んでしまい、アッシリアの生き残りたちは退散します。
 
        77700321232
 
 この時期の火星が、軌道の不安定な金星の影響で乱され地球に接近していて、火星の重力に引き付けられてきた隕石や宇宙塵、重力の影響でできた巨大な雹などがアッシリアの軍勢に降り注いだと思われます。
 ユダヤの古文書によると、このときセンナケリブ軍の天幕上に天から爆発が落ちたのだとしています。
 音響をともない地球の大気圏に突入してて発火した隕石でしょう。


 紀元前701年、イザヤは南ユダ王国のヒゼキヤ王の願いを聞き入れ、太陽を逆行させる奇跡を起こしています。 


 ヒゼキヤイザヤに言った、「主がわたしをいやされる事と、三日目にわたしが主の家に上ることについて、どんなしるしがありましょうか」。
 イザヤは言った、「主が約束されたことを行われることについては、主からこのしるしを得られるでしょう。すなわち日影が十度進むか、あるいは十度退くかです」。
 ヒゼキヤは答えた、「日影が十度進むことはたやすい事です。むしろ日影を十度退かせてください」。
 そこで預言者イザヤが主に呼ばわると、アハズの日時計の上に進んだ日影を、十度退かせられた。 (列王下 20:8-11

 日時計に落ちた影が十度後戻りしたとは、太陽が逆行し一時的に太陽が東に沈んだのです。
 はたして、実際問題としてありえるのでしょうか。
 ユダヤのラビ(宗教的指導者、学者)の古文書によると、その夕方に起こったとあり、この異変はセンナケリブ軍を殲滅した奇跡と原因を同じくする宇宙的な天変地異、すなわち地球に超接近した火星が起こした異変と考えられます。



  ポーラーワンダリング(磁極の移動)

 同じような記録が、パレスティナから45度ないし90度、時間的な差にすれば、3時間から6時間東にある中国の古文書の中からも見いだせます。
 ラビの古文書は、このときの太陽の運動異変は、アッシリアのセンナケリブ軍が天からの爆発で滅亡をした夕刻に起こったと記述します。
 この記述と対応する古代記録が中国にも残されており、紀元前2世紀ごろの歴史家ファイ・ナン・ツェの記した古代事件の記録です。
 「ルー・ヤン公がハンと戦っていたとき、戦いなかばに太陽が沈んでしまったので、公は槍を振って太陽を呼び戻したところ、太陽は公のために(黄道十二宮の)三宮だけ戻ってきた」とあるのです。
 ハンの治世の正確な年代は不明ですが、紀元前5世紀以前の事件と推測されています。
 
 さらに、古代ローマ時代のギリシャの著作家アポロドーロスの紀元1世紀~2世紀ごろに編集された伝統的なギリシア神話と英雄伝説の概要を述べた『ビブリオテーケー』には、太陽が通常の経路から外れ、東に沈んだことが明確に記録されています。
 「しかし、ゼウスはヘルメースをアトレウスに遣わして、もし太陽が逆の道を取ったならば、アトレウスが王になるという協約をテュエステースになすべしと言った。
 テュエステースがこれに同意したとき、太陽は東に沈んだ。」
 オヴィディウスは、上に記したアルゴス時代の現象を次のように語ります。
 「ポイボス(太陽神アポロン)は「道の途中で進むのをやめてしまい、彼の車を、ぐいと廻して、馬たちが暁に向くようにした。」

 まさに火星の大接近による火星の引力により、ポーラーワンダリング(磁極の移動)が地球を襲った記録です。 

      ghcgh77o
            地軸が傾く「ポールシフト(地軸移動)
   
      rtufgjxf898
           地軸はそのままで球体だけが転ぶ「ポーラーワンダリング

 イザヤの時代のポーラーワンダリングは、南北逆転ほどの大幅な極移動が起こったのではなく、太陽が西から昇るほどの規模にはいたりませんでした。
 事実、当時の世界中の記録には太陽の東西方向への完全な逆行運動の記録はありません。
 よって太陽運行の逆行も一時的には起きましたが、方位の入れ替えもなければすぐにもとに戻っているのです。
 その理由は簡単で、火星の質量が地球の10分の1程度だったからです。
 それ以後、ポーラーワンダリングは二度と起きていません。
 惑星規模の天体が地球に大接近していないからです。


 イザヤの時代に起きた火星によるポーラーワンダリング(磁極の移動)は、確かに規模こそ小さかったですが、生態系の被害は甚大でした。
 イザヤの時代のポーラーワンダリングは極移動が逆転でなかったため、それまで極地だったカナダ北東部ののハドソン湾周囲が極地から温暖な緯度まで下りてきて、逆に当時は極地外の緯度にあった大陸が、一挙に南極大陸になってしまったのです。
 単なる季節の逆転程度ではすまない温暖から極寒の極地への大激変です。
 ただし極移動であるため、自転方向は変わらず自転軸もそのままです。

 1487年に、オスマントルコの海軍提督イブン・ベン・ザーラが作った地図には経緯度線がグリッド(基準線網)的に少し傾いています。
 さらに、地中海の地図が水位が低くなった地形図になっているため、本来は見えないはずの小島までが記されています。
 このように水位が低かったのは、それだけ当時の平均気温が低かったことを示します。
 事実、穀物の不作による餓死の危険は、その時代の最大の関心事でした。
 火星の地球接近によるポーラーワンダリング後、イザヤの時代のそれまでの極地の氷床や氷原が溶けだし、新たに形成される氷床との相対的バランスの中でやがて今の海面の高さに落ち着きました。

 もしこれらの地図がイザヤの時代の古地図を参考にしていたとすると、10~30度の範囲で地球本体がポーラーワンダリングした可能性が高いのです。
 そうなると、当時の北極だったカナダ北東部のハドソン湾から五大湖付近までが南下し、温暖な気候だったシベリアが一瞬に極地へと移動したため、マンモスサーベルタイガーなどが死滅したことになります。

        690880

     ghc57io85

       smilodonWC7

 現在の北アメリカ大陸の東、カナダ北東部のハドソン湾の東、グリーンランド南部が、北極圏です。
 事実、最後の氷河期にその辺り一帯に膨大な氷河が形成されていたと判明しています。
 氷河期とは、ポーラーワンダリングによって極地方となったハドソン湾付近など世界各地に氷床跡が存在することであり、地球全土が冷凍室のように冷却化したのではありません。
 極地外にあった南極大陸が一瞬にして極地へと移動して、大陸全体がすさまじい寒さと豪雪のため巨大な氷床を形成することになりました。

 
     hgk48598

 ポーラーワンダリング以前の南極大陸は温暖で、多くの植物や大型哺乳類とともに人は文明を築いていました。
 それは巨石文明でした。
 南極大陸文明は、マンモスが絶滅したころに一瞬にして滅びました。
 彼らは独自のピラミッドを建し、大陸各所に都市も築いていましたが、襲ってきた超寒気の渦によって滅亡してしまったのです。

 1993年2月、権威ある科学誌として有名な『ネイチャー』に、「西南極の氷床下の活火山と、氷床の安定性に対するその影響」と題する興味津々の論文が掲載されました。
 それによると、アメリカの資源探査衛星ランドサットが、西南極の氷床面下1400m地点に正確な円形構造が存在しているて、その円形構造には特殊な磁気異常が見られると確認しました。
 
 氷床のない南極大陸の全体像を描いた「オロンテウス・フィナエウス地図」が発見されています。
 紀元1531年に作成された「オロンテウス・フィナエウス地図」は、氷床の底にある大陸部分、それも全域が描かれているとも考えられています。
 「オロンテウス・フィナエウス地図」での南方大陸は実際の南極大陸よりも大きいですが、それは当時の地理学者に太平洋の存在を疑う人が多かったことが一因となっています。

     64232
 
        7847376

 右は海抜で色分けされた南極大陸です。
 アメリカの物理学者W・D・ユリーは南極大陸周辺の海底の地質を調査した結果、南極大陸に氷床がなかった時代が数度あったことが判明しました。

    85646
 
        53827
 
 これは氷床がすべて除かれ、地盤がその圧力からの解放による地盤の上昇と海面の上昇を計算した南極の地図です。

 オロンテウス・フィナエウスの地図の起源は、紀元前4世紀に建設されたアレクサンドリア図書館にあった古地図です。
 そこに描かれたのは火星による極移動が起こった紀元前8世紀以前に作成されたものでしょう。
 まだ南極大陸が氷に閉ざされていない時代、古代の冒険家が測量し、作成したのでしょう。
 その証拠に、地図にはオーストラリア大陸が描かれていません。

 南極大陸を知っている人間が、どうしてもっと温暖なオーストラリア大陸を知らなかったのでしょうか。
 オーストラリア大陸こそ、かつては南極大陸だったからです。
 紀元前8世紀以前、地球の南極はオーストラリア大陸のすぐそばにありました。
 事実、オーストラリア大陸が氷床におおわれていた跡が発見されています。
 オーストラリアが南極圏にあったからこそ、古代人は容易に近づくことはできなかったのです。
 現在の南極大陸のように、その海岸線を肉眼で測量することはできなかったからこそ、古代人の冒険家はオーストラリア大陸を地図に描いていないのです。
 オロンテウス・フィナエウスの地図の製作時に南半球に地理の知識がなくて想像で大陸を描いたか、オーストラリア大陸のことは知っていてオーストラリア大陸を想像を含めて描いた可能性もあります。

      mammoth

 1918年に旧ソ連のある猟師によるマンモスの目撃報告があります。
 1920年3月、当時ウラジオストクにあったフランス領事館の代理公使ギャロンは、ソ連アジア銀行に勤める知人にその弟で最近4年間にわたるタイガ地帯(シベリア奥地の大針葉樹林地帯)での生活から帰ってきた猟師の男を紹介されました。
 夕食に招かれた男は、ギャロンに次のような驚くべき体験談を語りました。
 「タイガ地帯の探検2年目の秋、私は泥雪の上に今まで見た事もない巨大な足跡を発見した。……
 跡をたどって行くと、ニレの森の入り口で、まだできたての大きな糞を発見し、調べてみると中身は植物だった。…… 
 とても大きい体の動物がむりやり押し通っていった跡を示すように、森の中は直線上に枝がぺし折られていた。
 私は何日も何日も東へ足跡を追った。
 そのうちにもう1頭の足跡が合流してきたのが分かった。……
 ある午後、私はついにそいつらに追いついた。
 風下だったから良かったが、私は木の向こうに見え隠れするそいつらの異様な姿に身震いした。……
 大きく曲がった長い牙を生やした巨大な象だった。
 体から長い赤黒い毛を垂らし、太い足でのろのろと動いている。
 象を絵で見たことはあるが、こんなに大きいとは信じられなかった。……」

 現在、マンモスの化石はヨーロッパや北アメリカのほとんど全土から発見されていています。
 フランスのドルドーニュ地方の洞窟には、原始人の描いたマンモスの絵や象牙の彫り物が多く残っています。
 また、極地近くの先住民はマンモスを思わせる怪物を古くから知っていて、いろいろな形の伝説として伝えています。
 ラップランド人は万年雪の下に棲む毛だらけの怪獣を恐れ、チュクルクミュートというエスキモーの一族は、牙をふるって地中を走りまわる「陸クジラ」の存在を信じています。
 ヤクートコリャーク人にも「地中にすむママンツという名の巨大なモグラ」の伝説があり、これがマンモスの言葉の語源になりました。

 1799年、広大なユーラシア大陸の北の果て北部シベリア(ベレゾフカ)の凍てついたツンドラ平原で、厚い体毛におおわれたマンモスの冷凍遺体が発見されました。
 このマンモスの冷凍体は保存状態が良く『肉は繊維質で脂肪のため大理石模様をしており、冷凍牛肉のように新鮮に観えた』とD・F・ヘルツの観察が伝えられています。
 犬がそのマンモスの肉を食べましたが、害はありませんでした。
 マンモスは一瞬にして冷凍化し死にました。

 発見されたマンモスの遺体の肉は鮮度が高く、犬ぞりの犬やオオカミだけでなく人間ですら食べることができました。
 かつてアラスカ州のフェアバンクスのレストランでは、マンモスステーキをメニューに載せていて「繊維が多く霜ふりのようだ」とか「馬か牛の冷凍肉のようである」と書かれた報告書も残されています。
 冷凍マンモスの研究のために自ら冷凍食品技術者にまでなったアメリカの生物学者のアイヴァン・サンダーソンは「味を損なわずに肉類を冷凍するには、摂氏-30℃以下で、しかもとても急速に冷凍しなければならない」と述べています。

 肉が凍るときには、細胞に含まれている水分やその他の液体が結晶となりますが、冷却の速度が急速であればあるほどその結晶は小さく、鮮度が保たれるからです。
 肉が凍る過程は、もし氷結温度でゆっくりと肉を凍らせた場合は細胞中の液体に氷の結晶ができてしまい、水が凍ると体積が膨張すのでその氷が細胞膜を破裂させ肉の水分を殆ど外に流してしまいます。
 そうなった場合、冷凍肉は一挙に鮮度が落ちて味も極端に悪くなり食用としては通用しなくなります。
 しかし、実際の冷凍マンモスの肉は鮮度を維持し続け、味も良かった以上マンモスはゆっくりと冷やされていったのではないのです。

 冷凍の専門家によると、味を損なわずに動物の肉を冷凍するには、-40℃で約数十分以内の短時間で一挙に冷凍させる、急速冷凍技術で凍らせてしまうのです。
 マンモスのように全身を厚く体毛でおおわれた巨大動物を瞬時にフリーザーで凍らせるには、-100℃以下のすさまじい寒気が必要です。
 なぜなら、実際の巨大動物の肉の冷え方は、内部になるほど遅くなるからです。
 まして冷凍マンモスは、直前までは生きていて暖かかったのです。

 また、マンモスの体の内部、とくに胃は死後もしばらく暖かいので、-100℃以下温度で急速冷凍されないかぎり食べ物と一緒に胃が腐敗してしまいます。
 また、シベリアで発見された牙の状態が短期間での気候の激変の証明です。
 シベリアの北部の象牙はアフリカの象牙と同じ位に白くて新しいのです。
 牙が腐って使い物にならないようであれば、象牙業者は見向きもしなかったでしょう。
 牙が十分役に立つ状態なのは、急速に凍った証拠です。
 もし普通の状態で野ざらしになっていたら、象牙の質はすぐに低下します。

 そして、研究者たちは紀元前にシベリアにすんでいた34種類の動物のうち、28種類以上が温暖な気候にしかすめないと確認しています。
 34種類の中にはマンモスや巨大な鹿、ハイエナ、ライオンなどが含まれています。
 北に行けば行くほど、マンモスやそのほかの動物の死骸が増えます。
 今日の地理的あるいは気候的状況から考えると逆のように思えます。
 マンモスは氷点下の寒冷地では生きられない体の構造をしていることが、冷凍死体の研究から明らかになっています。

 多くの動物には半流動体の脂肪性物質を出す「皮脂腺」があります。
 寒冷地では皮脂腺がないと、冷気が皮膚の水分を奪い細胞が瞬く間に脱水症状を起こして死にます。
 しかし、冷凍されたマンモスの皮下組織を調べたところ、皮脂腺がありませんでした。
 つまり、マンモスは寒帯性の生き物ではないのです。
 マンモスについての思い違いは、マンモスの全身が長い体毛でおおわれているので寒冷地に順応した動物とする点です。
 体毛の長い動物ならオランウータン、ナマケモノ、アンゴラウサギからペルシャネコにいたるまで、さまざまな動物が温帯から熱帯にかけて生息しています。
 
 フランスのジョルジュ・キュヴィエはマンモスだけでなく、パリ周辺の原野の各種の地層の中から発見される生物の化石のあり方を観察して『多くの過去の生物が、災変の度事に、死滅交代を繰返しているように見える』と見解を発表しましたが、当時のアカデミズムの賛同を得られませんでした。

       de542

 2007年5月にロシア北極圏、西シベリアの河口付近で発見された生後約半年の雌マンモス「リューバ」です。
 そののちもシベリアの永久凍土では、同じようなマンモスの氷漬け遺体が多数発見され、1902年に起きたベレゾフカ河畔の大規模な雪解けの際に発見された冷凍マンモスは、今までの冷凍遺体と何ら変わらないように見えました。
 河畔斜面から顔を覗かせた冷凍マンモスは、右足を立て、立ち上がったような姿で発見されましたが、頭部から顔面までの肉は凍土から露出していたため、シベリア狼に大部分食い尽くされ頭蓋骨だけになっていました。
 しかし、顎から下と体の部分だけは凍土の中だったため、ほぼ完全なままの姿で残されていたのです。

 この1902年にベレゾフカ河で発見された氷漬けのマンモスは、肉が新鮮で口の中や胃袋から食べかけの植物が発見されたました。
 このマンモスは食事中か食事直後かそれがまだ消化し切れない時間内に瞬時に凍死したとを示しています。
 食べていたものは、キンポウゲの花やアルプスケシ、ヤナギ、キダチヒャクリコウ、カンパ、トショウ、針葉樹の芽が含まれていました。
 キンポウゲの花が咲いているので、このマンモスが死亡した季節は夏で、辺り一面には草花が咲いていたのでしょう。
 気温も十数℃はあったはずです。
 キンポウゲは、4℃以上の気候でないと、絶対に生育しない植物で日照時間が長く晴れや雨の日が交互に繰り返すことが生育の条件です。
 つまり、現在のこの地の環境では生育できない植物を食べていたということは、マンモスがキンポウゲを食べたときは暖かい環境でしたが急激に極寒の環境に激変してしまい死んでしまったのです。

 シベリアでも南部のほうではキンポウゲがありますが、食べていたほかの植物は北極圏にはありません。
 基本的に食べていた植物はすべて温帯の気候に属する地方に育つ植物なのです。
 数十万頭のマンモスがせいそくしていたシベリア北部は現在とは違い温帯性気候に属し、彼らに突然の死と冷凍化が起きる直前までは多くの温帯性植物が繁茂していたのです。
 マンモスが発見されたのと同じ黒泥土から、虎、ライオン、ピューマ、野牛、オオカミなどの動物の骨やサーベルタイガー、マストドンなどの絶滅動物の骨が大量に出土していますが、これらもすべて温帯気候に生息する動物です。

 また、マンモスの牙や骨が最も多く発見されているニュー・シベリア諸島はマンモスが生きていた当時は、あらゆる種類の樹木が生えていて、スモモと同じ仲間の木もあり実も葉もありました。
 発見者であるバロン・トールによると、その実は熟し木の根も氷結土の中で原形を保っていました。
 しかし、現在ではニュー・シベリア諸島から約3200km以内の地域に、そのような「かつよう樹」はまったく育たちません。
 それに当時の地面が石のように固い氷結土であったとすれば、木は埋まることはできなかったであろうし、あるいはそれらの木がもっと暖かい地方から流れ着いた物だとしたら、葉はとれてしまっていたでしょう。
 それらの木は、その地に生えて育ったものなのです。
 そして気候はただ暖かいだけではなく、葉を茂らせ実がなるほど夏が長かったと分かります。
 
 マンモスは寒さで凍え死んだのではありません
 マンモスの死因は解剖学者の意見では、窒息死の特徴です。
 窒息といっても水に溺れたのではないのは、口の中に残った食べかけの大量の植物でわかります。
 -100℃以下の殺人的な超寒気を肺に吸い込み、何呼吸かする暇もなく最初の一呼吸直後に絶命したのです。
 すなわち最初の一呼吸で超寒気が肺内部に吸い込まれ、無数の微小な肺胞を一瞬にしてすべて氷結させたのです。
 結露と氷結がほとんど同時に発生しました。
 それほどのすさまじい寒気だったのです。
 そうなれば当然、肺による酸素交換はできません。
 マンモスは瞬時にショック状態で死にいたり、そのまま窒息状態で死亡したのです。
 そして、ベレゾフカ河畔の冷凍マンモスのペニスが勃起状態だったは、窒息死特有の現象です。
 窒息死の場合、雄はペニスを勃起させたまま死亡します。
 
 これら事実は、温暖だったシベリアの地に生息していたマンモスに訪れた死が急激であって、死後冷凍が短時間で起き死亡原因の温暖から極寒環境への激変が一瞬だったと分かります。
 そうでなければ遺体は横たわった状態で発見されたはずで、胃や口内の食物も腐敗してしまいます。

      1207091600

 火星と地球の両星は、比較的長い時間並行して並んでいました。
 そうなると必然的に火山活動が活性化し、世界中の空は噴煙でおおわれていたと思われます。
 つまり、猛烈な水蒸気が火山性ガスとともに放出され、やがて地球大気の大循環の中で一挙に両極地方に集積されるのです。
 そのため、火山性ガスは絶対温度の宇宙空間と接し、急激に冷やされるや極低温の下降気流となって両極地方を襲います。
 このときの超低温ガスは空気中の膨大な水分と衝突すると一挙に豪雪を降らせ、短時間で氷床を形成します。

 さらに超低温ガスは、温暖な緯度からポーラーワンダリングで一瞬にして北極圏に移動してきたシベリアを直撃し、マンモスの肺を瞬時に凍らせてしまう結果を起こしたのです。
 こうしてマンモスは、超低温ガスを肺に吸い込んだ瞬間、肺胞を瞬時に凍らせて窒息死したのです。
 そののち、マンモスは寒冷地で腐敗することなく永久凍土に埋もれました。

 そして、マンモスの冷凍死体は、北シベリア以外でも、アラスカ、カナダの河畔などから多数発見されましたが、どれも北シベリアの永久凍土のような良好な遺骸ではありませんでした。
 北極圏各地のマンモスが発見された堆積物の中から、トラ、ライオン、ピューマ、野牛、ビーバー、狼、馬などの動物の骨や、毛サイやサーベルタイガー、マストドン、代表される絶滅動物種の骨も多数出土しています。
 しかし、それらの動物のほとんどの遺骸は樹木と混じり合い肉がちぎれたまま毛の残る肉塊と化していたり、骨がばらばらに骨折していたりで、まるで何か巨大なミキサーでかくはんされたような状況になっています。
 ポーラーワンダリングの種類と方向によっては、津波や洪水で押し流されるマンモスやサーベルタイガーなどもいたはずです。
 ばらばらに四散した哺乳類の遺体や北極圏の海洋に沈む多数のマンモスの牙や骨は、こうしてできたのです。


         eryafg

 2015年、ロシアのシベリアにある氷河期の永久凍土層から、凍った状態のホラアナライオンの子どもが複数体発見されました。
 公開された写真からわかるように、発見されたホラアナライオンのうち少なくとも1頭は、毛皮までそのまま保存されていました。
 ネコ科の化石を専門とする米デモイン大学のジュリー・ミーチェンは、こう述べています。
 「私の知る範囲では、先史時代のネコ科の動物がこのレベルの保存状態で発見されたことはありません。
 つまり、これは本当に驚くべき発見です。」

 ポーラーワンダリングにより一瞬にして温暖な南極大陸を襲った大異変により、すさまじい冷気を吸い込んだ人々は、シベリアのマンモス同様、その場で絶命しました。
 男も女も子供も赤ん坊も苦しむこともなくを死んでしまい、南極大陸の周辺にいた人々や生物はその直後の大津波に巻き込まれ、沖へと流されてしまいました。
 その直後、彼らの生活の跡を隠すかのように膨大な雪が降り積もり、瞬く間に周囲すべてを埋め尽くしたのです。
 南極大陸文明の証拠は、南極大陸をおおう北大西洋の水量に等しい1京9000兆tもの氷の下にしかなく、それでさえ氷の庄力の下で潰され撹拝されて粉々にされてしまったのです。

       6574748

 「氷床」とは地球の両極にしかできない巨大な氷の平原で、氷帽や氷冠ともいいます。
 南極氷床は高山の谷問にできる氷河の比ではなく、平均でも厚さ1600mを超えます。

     epaisseur-glace-antartique

 地球の両極以外に世界各地には、大昔に巨大な氷床が存在した形跡がいくつか存在します。 
 1960年、アフリカのサハラ砂漠の中央部でフランスの地質学者たちはすさまじい圧力で刻み込まれた傷を発見しました。
 それが広範囲の摩擦の傷跡ゆえ、可能性として考えられる傷跡の原因は巨大な氷河だけです。
 モロッコモーリタニアアルジェリアニジェールチャドからも同様の巨大な氷河の傷跡が発見され、その範囲はあまりにも広大で氷河というよりは極地方にある氷床としか考えられません。
 南極大陸と同じ氷床が大昔のサハラ砂漠に存在しました。
さらにすべての傷跡がある方向"を向いており、逆にたどれば傷跡群の中心部が判明します。
 傷跡群の中心部はサハラ砂漠の中央部でした。
 つまり、かつてサハラ砂漠は極地方だったのです。
 ポールシフトによって、サハラ砂漠は極地となり赤道直下の砂漢となったのです。
 
 紀元前の時代に何回か南北の極が入れ替わったり、極が移動しては新しい極地が一時的に極寒の地となりました。
 したがって地球全体が極寒にった期間である氷河期などは1度もなく、極が移動した場所に分厚い氷床や氷河が短期間にできていたのです。
 アフリカのサハラ砂漠、オーストラリアなど、各地が一時的に極地になったのです。
 現在はサハラ砂漠の対称位置には南太平洋があり、その中の各諸島(火山列島)の形成年代や大陸移動によっては、現在の北極と同様に広大な海洋上に氷原が存在した可能性が高くなります。
 現在の南極大陸に、昔は温暖な気候の時代が存在したのは判明しています。
 そして氷漬けマンモスが出土することからも、前回の北極はロシアのシベリア地域だと想定されます。

     yupy;p

 ニーファイ人の子孫のホピ族の神話には、これまで4つの時代の世界あったといいます。
 最初の世界は「トクペラ(無限宇宙)」といい、創造主「タイオワ」のみが存在した。
 タイオワは甥に当たる神「ソツクナング」を創造します。
 ソツクナングはタイオワの命を受けて、9つの宇宙と太陽や月、そして地球を創りました。
 地球には、同じく創造された「コクヤングティ(クモ女)」を置き、その彼女は双子の神を生み、それぞれ「ポカングホヤ」を北極、「バロンガウホヤ」を南極に遣わして、地球の自転を支配させました。
 次に、コクヤングティは赤、黄、白、黒色の男を創造し、続いて同じく赤、黄、白、黒色の女を創りました。

 8人は動物たちと共存して、素朴な暮らしを続けた。
 やがて人間に子供ができ増えていきましたが、人数が増えるといつしか神を忘れる人間が現れ堕落していきます。
 事態を憂いた神ソツクナングは、第1世界トクペラを滅ぼすことを決心します。
 心正しい一握りの人間を選ぶとコクヤングティに命じ、彼らをアリ人間とともに地中に避難させます。
 準備が整ったのをを見計らい、ソツタナングは天から火を降らせ大地から火を噴き立たせ、地上をことごとく焼いて浄化しました。

 こうして、第2世界「トクパ(真夜中)」が始まりました。
 避難していた人類は地上へ出てきて、新しい大地に広がりました。
 彼らは汗水たらして働き手工芸品や建築を生み出し家や村を作りましたが、物が豊かになると高慢になり再び人々は神を忘れました。
 背徳が支配し、悪がはびこりました。
 神ソツクナングは失望し、また地上を浄化させることにしました。
 正しい人々をアリ人間と一緒に地中へ隠すと、今度は両極にいる双子の神に命じ持ち場を離れるように命じました。
 すると世界は大きく失速し、2度もひっくり返り、山は海になだれ込み海は陸地におおいかぶさりました。
 地球の地軸は乱れ、ついに極移動が発生したのです。
 地上の気候は激変し天変地異が来襲し、古代アメリカの地上にいた人類は滅亡しました。

 第3世界「クスクルザ」の始まりです。
 持ち場に戻った双子の神により地軸は安定を取り戻し、地上は平穏を取り戻します。
 創造主への祈りを絶やさなかった人々は助かりましたが、地上のすべてが厚い氷の下に閉ざされてしまいました。
 この巨大な氷により悪から浄化された大地は、第3の世界を受けることになりました。
 
 地軸が狂って、突如として地上が氷におおわれてしまったのです。
 地中から出てきた人類は再び地上に広がり次々に街を建設し大きな国家を形成するまでになりますが、堕落を避けることはできませんでした。
 人々が荒廃していく様子を目の当たりにした神ソツクナングは、この世界も終わらせることにします。
 計画を知らされたコクヤングティは大きな葦を切ると、その中に正しい人間と食料を入れました。
 すべてが完了すると、地上を未曾有の大津波が襲来し、短期間にすさまじい大洪水が人類と国々を飲み込んでいきました。

 第4世界「ツワカキ(完全世界)」の幕開けです。
 葦から出たとき、そこは高い山の頂だった。
 人々は鳥を使って乾いた地面が現れたことを確認し、葦で船を作ると島から島へそして最後に巨大な大陸にたどり着きました。
 すると、そこに神マサウが姿を現しました。
 マサウは第4世界の支配者で、大陸へ来た人々を取りまとめる集団毎に移動せよと命じました。
 マサウは、安住の地を見つけるまでそれぞれ真っ直ぐ進め、大陸の端に至ったら今度は曲がれと指示しました。
 現在、ホピ族が住んでいるアメリカ南西部を中心として人々は四方に移動し、海岸にまでたっすると進行方向に向かって右に曲がった者と反対に左に曲がった者がいました。
 全体から見ると、それは巨大な「卍」を描いていることになります。
 実はこのときに神マサウは、人々に向かって「星に従って進め。星が止まった所が定住の地である」と述べています。

 神マサウの命令に忠実に従い実行できたのは、のちのホピ族だけでした。
 残りの部族は脱落して、アメリカ大陸の各地に定住し、また気候が暖かいことを良いことに中央アメリカから南アメリカへと移動した部族もいました。
 ホピ族によると、ラテンアメリカのマヤアステカトルテカ族などは、途中で脱落した部族だといいます。

 第4世界の支配者マサウは人間たちの前に姿を現しました。
 彼は創造主タイオワに仕えるとともに、人間の守護者です。
 マサウは自らを「最初であり最後である」と称しています。
 まったく同じことをイエス・キリストも述べています。


 わたしはアルパであり、オメガである
 最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。 (黙示 22:13

 主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない。 (イザヤ 44:6

 マサウはイエス・キリストです。 (参照

       pictures-of-jesus-with-children

 ホピ族は、古来より伝えられる預言によって地球が球体であることや地球は回転し2つの地軸極が存在することを知っていて、それらを司る双子の神をバロンガウホヤとポカングホヤとよびました。
 神話によれば、彼らが持ち場を離れたとき世界は大きく失速し、2度も引っ繰り返ってしまったといいます。
 これは地軸に大きな異変が生じ、突如として地上が氷におおわれてしまったことを物語っています

 マヤ文明では、太陽が逆行することを「テオトル・リクスコ」とよんで畏怖しました。
 「テオトル・リクスコ」の意味は「東に向かう太陽」で、逆行する太陽のことです。
 古代アメリカのマヤ人たちは、西から昇る太陽を見ていたのです。
 太陽の運行に異変があったのは古代文明の記録を見るかぎり、ほんの短期間にすぎないとが判明しています。

 極移動のポーラーワンダリングが起こった古代の記録があります。
 ユダヤ密教を基にした儒教の祖として有名な孔子は『書経』で、こう記しています。
 「帝(ぎょうてい)の時代、日の出と日の入りの方向が入れ替わった。
 そのために、東西南北の方位はもちろん、四季の長さと暦をすべて新しく定めた。」

 帝とは、ほとんど謎の古代中国の王で殷の時代の皇帝と考えられています。
 殷の時代は紀元前1700年から1046年なので、太陽の運行の異変はその間のいずれかの時代で起きたことになります。 
 堯の治世に大洪水の状態であったため、九年たっても治水に成功せず、禹(う)という人があとを継いで治水にあたり、左手に測量縄を持ち右手に定規を持って各地を巡り十三年かけて治水に成功したとします。
 このときに禹は7人の天神を助けています。 (参照
 『史記』や『山海経』の海内経、『書経』などには、夏王朝成立のころに伝説的な大洪水があったことを記します。
 これらの大洪水は、極移動のポーラーワンダリングによるものです。
 
 モーセがエジプトを脱出したころに記されたエジプトのイプワー(イプウェル)とよばれる賢人が、怠惰な王に対して語った誡めの言葉のエジプトのエジプトの賢者イプアーの記したパピルス製の『イプワー文書』には「大地は陶工の車台(ろくろ)のように回転した」や「大地は逆転した」と記されています。
 さらに『エルミタージュ・パピルス』には「未曾有の災害が大地を襲い、全地を逆さに倒した」とあります。
 ギリシャの哲学者プラトンは、対話集『政治家』で「昔ある時代では天空は現在と変わらぬ回転をする。しかし次の時代では逆にも回転する」と記しています。
 
 イスラム教の『クルアーン』にも、「2つの東、そして2つの西」という神について記されていて、南北の逆転の意味でしょう。
 東に変わったのが2回、西に変わったのが2回あり、合計4回も東西の方向が逆になったというのでしょう。

 2つの東と2つの西という記述に対応するような記録を、紀元前5世紀の歴史哲学者ギリシャのヘロドトスが残しています。
 それ以前の歴史を記した著書『ヒストリカ』に、エジプトについて記した項目があり、エジプトの神官から聞いた話として次のようにあります。
 「これまでの本書の記述は、一般のエジプト人および祭司たちの語ったところにしたがったものであるが、それによって明らかになったことは、初代の王から最後に王位に就いたヘパイストスの祭司にいたるまで341世代を数え、その間祭司長と王とがそれぞれ世代と同じ数だけいたということである。……
 またこの期間中、太陽が四度その正常の位置より外れて昇ったという。
 現在太陽の沈んでいる方角から昇ったのが2度、現在昇っている方角へ沈んだのが2度あったというのである。
 しかも、エジプト国内ではその際に何の異常も起らず、陸や河からの収穫物、病や死に関する事柄にも影響はなかったという。」 (『歴史・中』 岩波文庫)
 
 すなわち、現在の太陽の運行から見て逆行が2度あったということで、2度は西から東へ太陽が逆行し、2度は現在と同じ東から西へ運行したという意味となります。
 最初、太陽は東から昇ったとして、現在もまた太陽は東から昇っていることから考えて、運行異常は4回あったことになります。

 メキシコのメソアメリカ遺跡にある象形文字の中に「太陽の4運動と次の新たな時代を示すトナティウ」を示す象形文字があります。
 マヤ文明は、4つの世界、太陽が4回も運行を逆転させたことを知っていたのです。
 180度回転する極移動のポーラーワンダリングが4回も起きたことを、別の文明の記録が伝え残しているのです。


 エジプト第18王朝(紀元前1479年‐1458年ごろ)にいた大臣で建築技師だったセンムトの墓が、20世紀になって発掘されました。
 古代エジプトの信仰上で重要な「天井板星座」の位置が、違うパターンの星座が描かれていました。
 すなわち、異なった2つの時代のエジプトの星座が、2種類描かれていたのです。
 南板はオリオンやシリウスなど現在のエジプトでも見慣れた星座で占められてはいますが、東西が逆になっていました。
 南板に描かれている星座は南北が逆転しているのです。

      376787
       南半球の星座が描かれているエジプトのテンデラにあるハトホル神殿の天球図

 一方、北板に描かれている星座は本来のエジプトの星の位置で描かれています。
 このような逆向きの天井板星図は、昔の中王国時代には尊重されていたといいますが、それ以後はめったに見られることがなくなりました。
 すなわち、センムトの時代には、現実性がないとして廃れてしまったものを、センムトが再び復活させたのでしょう。
 つまり、かつて地球は南北が入れ替わったのです。

 古代エジプトの記録書『パピルス・ハリス』には、「火と水の天空異変が起きた際、南が北となり地球は引っ繰り返った」と記されています。
 「ハラクテ」という言葉は、古代エジプトの西方の太陽(夕陽)という意味ですが、古い碑文には「ハラクテ、西に昇る」とあり、現在の太陽の運行とは逆の運行が記されています。
 さらにピラミッドで発見された象形文字に「太陽は西になく、新たに東で輝く」と刻まれていて、現在からすれば当然の常識をわざわざピラミッドに新たな現象として刻んでいます。

 紀元4世紀のローマの著述家、文法家ガイウス・ユリウス・ソリヌスは、エジプトの南端に住む人々の奇妙な伝承として「この国の人々は、昔、太陽が昇った方角に今は沈むという伝承を残している」と記録しています。
 エジプトとは地中海を挟んだギリシャのソポクレスが書いた史劇『アトレウス』にも東西逆転神話があり、「ゼウス神は太陽の経路を変えてしまった。そして西からではなく東から昇らせた」と記しています。
 センムトの天球図は南北が逆転している上、東西方向が逆転しています。
 センムトの天井板星図は、太陽が西から昇った古代エジプトの記録とともに考えると極移動のポーラーワンダリングだったのです。
 ポーラーワンダリングが起きている間、場所によっては天空の太陽が途中で静止したり逆行して見えたり、一日中昇ってこなかったりするのを体験します。
 『旧約聖書』にも、モーセのときの金星接近による影響に続き、モーセの任を継いだヨシュアのときにも金星接近による影響が記されています。 (参照

       polereversal3

  4回のポーラーワンダリング

 古文書の『ユダヤ伝経』の「サンヒドリン篇」に記述が残されています。
 「大洪水の7日前に、聖なる存在は太古からの決め事を改め、太陽を西から昇らせ東へと沈ませた。」
 すなわち、大洪水の7日前には、現在の太陽運行とは逆になってしまったと記録しています。
 太古からの決め事が崩され改まったとある以上、洪水のときに方位が逆転し太陽が西から昇っのです。

 約4300年前、ノアの時代の洪水を起こした惑星は、ノアの時代の洪水時に地球にポーラーワンダリングを起こします。
 約4200年前、同じノアの時代の洪水を起こした惑星が再び接近し、バベルの塔を崩壊させ、そのまま磁極を移動させました。
 ポーラーワンダリングで自転はそのままですが、太陽は逆になり東から昇ります。

 紀元前2000年ごろ、木星に再び大赤斑下の巨大火山が大噴火して金星が飛び出しました。
 そして、紀元前1900年ごろ巨大な彗星として地球に接近して、インダス文明やソドムとゴモラを滅ぼしました。
 そののち紀元前1250年ごろ、金星は再び地球へ接近し潮汐作用によって、モーセのときの奇跡を起こし磁極を移動させます。
 世界各地の文明は被害を受けました。 (参照 金星誕生と滅んだ文明
 この金星の最大の接近で、地球は大きくポーラーワンダリングを起こし、太陽は西から昇るようになります。

 紀元前1200年、長楕円軌道を描いていた公転していた金星が再び地球へ接近し、ヨシュアのときの奇跡を起こし太陽の運行を停止させます。
 ヨシュアが約束の地を得るためヨルダン川を渡る前に、ルベン族、ガド族、マナセ族に伝えた言葉です。
 
 
 そして主があなたがたに賜わったように、あなたがたの兄弟たちにも安息を賜わり、彼らもあなたがたの神、主が賜わる地を獲るようになるならば、あなたがたは、主のしもべモーセから与えられた、ヨルダンのこちら側、日の出の方にある、あなたがたの所有の地に帰って、それを保つことができるであろう」。 (ヨシュア 1:15) 
  
 主が彼らをも、あなたたちと同じように安らかに住まわせ、あなたたちの神、主が与えられる土地を、彼らも得られるようにしなさい。
 あなたたちはその後、主の僕モーセがあなたたちの領地としたヨルダン川の東、すなわち太陽の昇る側の土地に帰り、それを得なさい。」 (新共同 ヨシュア 1:15)
   
 ヨシュアが約束の地カナンに入る前には、奇跡は行われていません。
 ポーラーワンダリングなどは、この言葉のときにはなかったのです。
 しかし、このときの太陽は現在とは逆に西から昇っていなければなりません。
 「ヨルダン川の東、すなわち太陽の昇る側の土地にに帰り」とあるように、ヨルダン川の東と述べたのちになぜ東が太陽の昇る方角と説明を加える必要があったのでしょうか。

 当時のイスラエル人は新しい預言者ヨシュアが、モーセのときと同じ奇跡を神に起こしてもらえ、エジプト脱出の際に起きた方位の逆転、太陽の運行の逆行をヨシュアが再び起こすことを、このヨシュアの言葉を通して分かったのです。
 ヨシュアは西から昇る太陽を差し太陽が逆の東から昇ると示し、再び奇跡を行うのをイスラエル全軍の前で宣言したのです。
 以上が東西の方向が逆になった4回のポーラーワンダリングです。
 紀元前688年、金星は火星に接近し火星の軌道が大きく乱され火星が地球へと大接近しました。
 そして、預言者イザヤのときの奇跡を起こし、磁極を10~30度移動させます。

 古代中国では、天空に「麟麟(きりん)」という想像上の動物が飛翔したり、宮殿に天空から「」が舞い降りる描写が多数残されており、天帝はその都度、天のお告げを信じて座を降りたといいます。 (龍 参照

 これは火星が地球に大接近してきたころの記述であり、世界規模で天変地異が起こり、磁気嵐プラズマ現象が発生していたことを証明する重要な記録です。
 天体同士のニアミスには、互いの強烈な磁力線が向き合うためすさまじい磁気嵐が発生します。
 そうするとそのときの無数の磁気リコネクション(交差する寸前にやめて、つなぎ替えをする)の結果、局地的なプラズマ現象が発生するのです。

  2 北イスラエル王国と南ユダ王国 2/3