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  1 アブラハムの聖約

  モルモン書とDNAの研究 


 アメリカの先住民の一部がイスラエルの子孫であるという『モルモン書』を支持する根拠はあります。


 1974年、イスラエルの新聞が次のような記事を掲載しました。
 1587年、イエズス会宣教師ニラス・デルツは、スペインから南アメリカへ渡り、アルゼンチンで布教活動を行いてある村でアブラハムやダビデやモーセという名前を持つ人々に出会ったといいます。 

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 そのほかにもペルーのインカ遺跡でメノーラー形が刻まれた円形の石板が発見され、アラム語で「過越(パスカ)」と記されています。
 そこから数メートルの所に船の絵が刻まれた石板も見つかっています。
 その舟には「チッポラ」というモーセの妻と同じ名前が記されていました。
 学者は約3000年前の物と考えています。

 このほかにアメリカ大陸の各所からは、古代イスラエル人がいた証拠が多数発見されています。
 先コロンブス期のマヤ文化の古文書(Pre-Columbian Maya codex)はほとんどがこの植民地時代に焼却され、焼却をまぬがれ現存する古文書には聖書に類似した創世神話やバベルの塔に関する話などが伝えられています。

 1572年にユカタンー帯を管理する司教となったディエゴ・デ・ランダは、マヤの書物を収めた書庫を公然と焼き払ったことでもっともよく知られています。
 しかし一方で、、古代のマヤ族に関する重要な記述を残しています。
 その中にはマヤ人の先祖に関するユカタンの興味深い伝説についての記録もあります。
 「ユカタンに住む一部の老人の話によると、 この地にはかつて 神の御手により大海が開かれてできた12の道を通って東方から逃れてきた人々が住んでいたという先祖伝来の伝説があるという。」 (アルフレッド・M・トッザー 『ユカタン誌』 18:16-17)

 イスラエルの教育庁長官で歴史学者のアビグドール・シャハン博士は、アメリカ大陸に古代イスラエル人が来たことは間違いないと指摘します。 

 古代アメリカの聖典『モルモン書』には、アメリカ大陸への3つの移民のグループが記されています。
 リーハイたちとミュレクとフェニキア人を含む一団、そして現代のエジプトからメソポタミアにかけての西アジアの肥沃な三角地帯の辺りに住んでいたヤレド人です。

 グアテマラのキシェ語で書かれた何世紀も前の伝説を翻訳し1554年に発表された『トトニカパンの支配者の称号』(Tulio de Totonicapan)にも同じく3つの移民のグループがあります。

 「3つの偉大なキシェ族は、……イスラエル10部族の末裔です。
 この10部族は〔アッシリアの王〕シャルマネセルにより征服されてとらわれの身となり、アッシリアの辺境地に散らされて移住を決意した。
 当時、キチェ族には3つの国があり、日の昇る所〔東〕から来た彼らはイスラエルの子孫でイスラエルの人々と同じ言葉を話し同じ生活習慣を持っていた。……
 彼らはアブラハムとヤコブの子孫なのです。……
 海を越えた別の場所、すなわちバビロニアに境するシバン・テュラン(Civán-Tulán)から来たという伝説に基づいて、私たちは翻訳したとする証明書に署名する。」(『トトニカパンの支配者の称号』 p.167,170,194)(テッド・E・ブリュートン 「『モルモン書』 神聖な古代の記録」 エンサイン 1995年11月)

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 1889年、テネシー州リトル・テネシー川の支流(バット・クリーク)付近の盗掘等されていない墳丘墓(マウンド)でジョン・W・エマートが発見した石「バットクリーク碑文」があります。
 当時、スミソニアン協会の墳丘墓調査プロジェクトで雇用されていた彼は上司のサイルス・トーマスに報告しました。
 1964年、古代史研究家ヘンリエッテ・メルツはスミソニアン協会の報告書では、石を逆さまにして発表していると指摘し文字はフェニキア文字と見解しています。
 1971年、考古学者サイラス・ゴードンは、ローマ時代のヘブル語と考えました。

 2010年、テネシー大学の「McClung Museum of Natural History and Culture」でAmerican Petrographic Servicesによる走査型電子顕微鏡などを使用した観察報告では、人骨の下にあった石に刻まれた文字は少なくとも墳丘墓で発掘された埋葬された人骨より新しいということはないという判定でした。(報告書
 
 モルモン書には、紀元前600年ごろ、ヤハウェの命令により南ユダ王国に住んでいた家族と自分に同行する人々を、エルサレムからアメリカの地へと導いた預言者リーハイの記録があります。
 リーハイはマナセ族で息子たちの妻たちはエフライム族でした。


 そして、アミナダイはニーファイの子孫であり、ニーファイはエルサレムの地から来たリーハイの子、リーハイはマナセの子孫、マナセは兄たちの手によってエジプトに売られたヨセフの子である。 (アルマ 10:3

 紀元前941年ごろにユダ王国の王アサは、ユダとベニヤミン、エフライム、マナセ、シメオンから来て、彼らの間に寄留していた者を集めました。
 マナセ族の中にリーハイがいて、エフライム族の中にリーハイの息子たちの妻たちがいました。

 彼はまたユダとベニヤミンの人々およびエフライム、マナセ、シメオンから来て、彼らの間に寄留していた者を集めた。
 その神、主がアサと共におられるのを見て、イスラエルからアサのもとに下った者が多くあったからである。 (歴代下 15:9

 ところで、ここであなたがたに知らせたいと思うことがある。
 それは、父リーハイが自分の子孫について預言をした後、そこで主が再び父に、家族だけを連れて荒れ野へ行くのは父リーハイにとってよくない、約束の地へ行って主のために子供をもうけられるよう、息子たちがよその娘たちを妻に迎えるように、と言われたことである。
 そこで主は父に、わたしニーファイと兄たちを再びエルサレムの地へ帰して、イシマエルとその家族を荒れ野に連れて来させるように命じられた。 (1ニフ 7:1-2
 
 イシマエルはエフライムの子孫であるから、イシマエルの息子がリーハイの家族と結婚し、リーハイの息子がイシマエルの娘をめとることによって、エフライムとマナセに関して創世記 第48章に記されているヤコプの言葉が成就します。

 
 そしてイスラエルはヨセフに言った、「あなたの顔が見られようとは思わなかったのに、神はあなたの子らをもわたしに見させてくださった」。
 そこでヨセフは彼らをヤコブのひざの間から取り出し、地に伏して拝した。
 ヨセフはエフライムを右の手に取ってイスラエルの左の手に向かわせ、マナセを左の手に取ってイスラエルの右の手に向かわせ、ふたりを近寄らせた。
 すると、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、ことさらそのように手を置いたのである。
 そしてヨセフを祝福して言った、「わが先祖アブラハムとイサクの仕えた神、生れてからきょうまでわたしを養われた神、
 すべての災からわたしをあがなわれたみ使よ、この子供たちを祝福してください。
 またわが名と先祖アブラハムとイサクの名とが、彼らによって唱えられますように、また彼らが地の上にふえひろがりますように」。
 
 ヨセフは父が右の手をエフライムの頭に置いているのを見て不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
 そしてヨセフは父に言った、「父よ、そうではありません。こちらが長子です。その頭に右の手を置いてください」。
 父は拒んで言った、「わかっている。子よ、わたしにはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。
 しかし弟は彼よりも大いなる者となり、その子孫は多くの国民となるであろう」。
 こうして彼はこの日、彼らを祝福して言った、「あなたを指して、イスラエルは、人を祝福して言うであろう、『神があなたをエフライムのごとく、またマナセのごとくにせられるように』」。
 このように、彼はエフライムをマナセの先に立てた。
 イスラエルはまたヨセフに言った、「わたしはやがて死にます。しかし、神はあなたがたと共におられて、あなたがたを先祖の国に導き返されるであろう。 (創世 48:11-21
 
 こうして、マナセとエフライムの子孫は、アメリカ大陸の上に増え広がっていきました。

 
 

 

 

 

 

 
 
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 リーハイたちの子孫は、マヤ人ニーファイ人とのちのインカ人として知られるレーマン人の2つの民に分かれました。 

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 雨の神にへ生け贄の人体は優れた耐久性がある青色顔料で塗られていました。

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 ジョセフ・スミスはアルゴンキン語族だったレーマン人の末裔のインディアンたちに、『モルモン書』はあなたたちの先祖についての記録であるとグレート・スピリットが宣言していると語りました。

 ニーファイ人とレーマン人はたびたび戦いました。

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 多くのニーファイ人は神に従っていましたが、やがて背教し、レーマン人との戦争によってほとんど滅びました。


 また、このはレーマン人と、レムエル人と、イシマエル人にも知られるようになるであろう。
 彼らは先祖の罪悪のゆえに不信仰に陥った者たちであり、彼らの先祖は主から許されて、同胞であるニーファイ人をその罪悪と忌まわしい行いのゆえに滅ぼした者たちである。 (教義 3:18


 


 救い主が『モルモン書』の民を訪れられた当時、彼らはキリストの子として1つとなり、ニーファイ人やレーマン人の区別はありませんでした。

 
 さて、第三十四年が過ぎ去り、第三十五年も過ぎ去って、見よ、イエスの弟子たちは周囲の全地でキリストの教会を設立した。
 そして、彼らのところに来て、罪を心から悔い改めた者は皆、イエスの名によってバプテスマを受け、また聖霊を受けた。
 そして第三十六年には、民はニーファイ人もレーマン人もともに皆、地の全面で主に帰依した。
 そして、彼らの中にはまったく争いがなく、論争もなく、皆、互いに公正に振る舞った。
 また、彼らはすべてのものを共有したので、物持ちも貧しい者も、束縛された者も自由な者もなく、皆自由であり、天の賜物にあずかる者となった。
 さて、第三十七年も過ぎ去り、地は依然として引き続き平和であった。
 そして、イエスの弟子たちは大いなる驚くべき業を行い、病気の者を癒し、死者をよみがえらせ、足の不自由な者を歩けるようにし、目の見えない者を見えるようにし、耳の聞こえない者を聞こえるようにした。
 また彼らは、人の子らの中で様々な奇跡を行った。
 しかし、イエスの名のほかには、どのような名でも奇跡を行わなかった。
 このようにして、第三十八年が過ぎ去り、また第三十九年、第四十一年、第四十二年、そして第四十九年も過ぎ去り、また第五十一年、第五十二年、さらに第五十九年も過ぎた。
 主は民を地上で非常に栄えさせられたので、まことに、彼らは以前に焼けた町のあった所に再び町を築いた。
 まことに、あの大きな町ゼラヘムラさえも復興した。
 しかし、沈められ、水に覆われた町も多く、これらの町は再建することができなかった。

 さて見よ、ニーファイの民は力をつけ、急速に増え、非常に麗しくて喜ばしい民になった。
 彼らはめとり、嫁ぎ、主が彼らに立てられた多くの約束のとおりに祝福された。
 また彼らは、もはやモーセの律法の勤めと儀式を守ることなく、自分たちの主、自分たちの神から受けた戒めに従って歩み、断食と祈りを続け、また祈りをささげ、主の言葉を聞くためにしばしば集まった。
 そして、全地ですべての民の中にまったく争いがなく、イエスの弟子たちの中で数々の大きな奇跡が行われた。
 さて、第七十一年が過ぎ、第七十二年も過ぎ、要するに第七十九年まで過ぎ去った。
 また、第百年も過ぎ去った。そして、イエスが選ばれた弟子たちは、とどまることになっていた三人を除いて、全員がすでに神のパラダイスへ行き、彼らに代わってほかの弟子たちが聖任された。
 また、その世代の多くの人もすでに世を去った。
 そして、民の心の中に宿っていた神の愛のために、地の面にはまったく争いがなかった。
 また、ねたみや紛争、騒動、みだらな行い、偽り、殺人もなく、どのような好色もなく、神の手によって造られたすべての人の中で、彼ら以上に幸せな民は確かにあり得なかった。
 強盗も人殺しもおらず、レーマン人とか何々人とか言われる者もなく、彼らは一つであり、キリストの子であり、神の王国を受け継ぐ者であった。
 このように、彼らは何と祝福されていたことか。
 主が彼らの行うすべてのことについて彼らを祝福されたからである。
 第百十年が過ぎ去るまで、彼らは祝福されて栄えた。
 そして、キリストからの最初の世代の人々が世を去ったが、全地に少しも争いがなかった。 (4ニフ 1:1-18
 
 
 のちに再び悪事が広がったとき、人々はレーマン人やニーファイ人の集団に分かれましたが、それは血統ではなく、に従っているかどうかによるものでした。
 神の戒めに従って生活することを望んだ人々がニーファイ人であり、そうでない人々がレーマン人でした。

 モルモン書全体を通じて血統的レーマン人の末裔は、イエス・キリストの福音を受け入れニーファイ人に加わりました。
 また福音から離れていった多くのニーファイ人は邪悪なレーマン人に加わりました。
 民族集団を成す多くの人々の中でこのようなことがしばしば起こったため、先祖の血統の区別をするよりも最終的にはむしろ2つの文化的、宗教的特徴を区別する用語として使われるようになり、神の律法に従って生活する集団をニーファイ人、イエス・キリストを否定し、神の律法に従わず邪悪な生活をする民族をレーマン人とよびました。


 さて、レーマン人でない民はニーファイ人であったが、民はそれぞれニーファイ人、ヤコブ人、ヨセフ人、ゾーラム人、レーマン人、レムエル人、イシマエル人と呼ばれた。
 しかし、わたしヤコブは、今後このような名で民を区別しない。
 ニーファイの民を滅ぼそうとする者をレーマン人と呼び、ニーファイに好意を持っている者をニーファイ人、すなわち、王たちの統治に従ってニーファイの民と呼ぶ。 (ヤコブ 1:13-14
 
 当時、多くのグループが存在していたことは明らかですが、ニーファイ人の記録者は、記録の内容が霊的なものであることが、歴史や政治の記録よりもさらに重要だと感じていましたため、ニーファイ人とレーマン人の2つの呼び名を使うことで簡略な説明法を用いました。

 この2つのグループは、相互に係わり合い、交じり合いました。
 しばしば2つのグループは互いに入れ替わることがあり、ニーファイ人に不満を持つ者がレーマン人の集団に移ったり、レーマン人の中からキリストの福音に改宗してニーファイ人に加わる者がありました。
 何代か経つうちに、人種の区分上では大した意味を持たなくなり、やがてキリストを信じる者(ニーファイ人)とそうでない者(レーマン人)という宗教上の区別に変わっていきました。

 紀元34年ごろ復活されたイエス・キリストがアメリカ大陸に訪れ福音の教えを授けられ、イエス・キリストの教会を設立されたのちの短い期間(およそ紀元34年から230年(3ニフ 11章)、すべての人々がキリストを信じ義しい生活をしたため、レーマン人とニーファイ人の区別は使われませんでした。
 このような平和な時期のあとに再び区別が現れたことも記録にあります。


 さて、ここまでの記録を記したニーファイ(彼はそれをニーファイの版に記した)が死に、彼の息子アモスが代わって書き継いだ。
 そして、アモスもニーファイの版に記した。
 彼は八十四年間記録を書き継ぎ、その地は依然として平和であった。
 ただ教会から背いて、自らレーマン人と名乗った者たちが少数いただけである。
 このために再びこの地にレーマン人が存在することになった。  (4ニーファイ 1:19-20

 イエス・キリストに信仰を持つ人々は、自分たちをニーファイ人とよぶようになりました。
 ニーファイ人も含め多くの人々はやがて邪悪な生活をし始め、紀元400年ごろまでには数知れない戦争が起こり、ニーファイ人はレーマン人によって滅んでしまいました。
 破滅の原因はニーファイ人の高慢さと邪悪さであったと書かれています。

 モルモン書を正しく読めていなくて、現在ニーファイ人の子孫は残っていないと誤解している人々がいます。

 ヒュー・ニブレーは、こう述べています。

 「コロンブスのアメリカ発見以前の世代のアメリカ人は皆レーマン人のはずである、と主張する末日聖徒は多くないだろうか。
 当然のことながら、かつてニーファイ人とレーマン人が存在し、そののちニーファイ人が滅ぼされたのだから、というのがその理由である。
 しかし、モルモン書自体からはそのような解釈は生まれてこない。
 確かに、ニーファイ人は滅びてしまったと書かれてはいる。
 しかし、モルモン書で滅びてしまったと書かれているのは、実際にはどのような意味だったのだろうか。
 この言葉も、この書物にあるほかの多くの鍵になる言葉と同様、そのもとの意味から解き明かす必要がある。
 この『滅ぼす』というのは、『壊す、その構成部分を暴力的に分離する、構造物を破壊する』ということである。
 つまり、この『滅ぼす』というのは、構造を破壊することであって、その部分全体を破滅させることではない。
 
 ニーファイ第一書 17章31節で、モーセの時代のイスラエルの民について、『そこで神は、御自分の御言葉のとおりに彼らを滅ぼし、御自分の御言葉のとおりに彼らを導き』と言っているのはそのためである。
 つまり、滅ぼされたあとで、言い換えれば、散らされた後で、1つにまとめる導き手が必要とされた。
 ニーファイ第二書 25章9節には、『ユダヤ人の中で一代の人々がすでに罪悪のために滅びたように、代々のユダヤ人も彼らの罪悪のために滅びてきた』とある。
 ある1つの世代を完全に抹殺すれば、当然のことながら、その歴史もともに終わる。

 しかし、『滅びた』というのはそのような意味ではない。
 モルモン書にはたった一度だけ全滅の記録がある。
 この場面については『アモナイハ人はことごとく殺され』(アルマ16:9)と明確に書かれている。
 
 この場合、社会機構だけでなく、人もことこどく絶滅したということである。
 そのほかのときには、リーハイの末子のヨセフのように(2ニフ 3:3)、あるいはまたレミュエルのように(2ニフ 4:9)、その子孫を完全に滅ぼすことはないと、主は約束しておられる。
 さらにニーファイにも、神は、『この異邦人によってことごとく滅ぼされてしまうのを、主なる神は許されない』(1ニフ 13:30)と言われた。
 
 ニーファイ人は必ず『滅亡』(エテル 8:21)るという約束が実現したにもかかわらず、またモロナイが『今はレーマン人のほかにはだれもいない』(エテル 4:3)と言っているにもかかわらず、主が約束しておられるのである。」 (『荒野におけるリーハイとヤレド人の世界』 p.240-42)


 


 そしてほかにも、十人の者とそれぞれの一万人が剣で倒れていた。
 まことに、わたしの民は、わたしとともにいた二十四人と、南の地方へ逃げて行った少数の者と、レーマン人のもとへ脱走した少数の者を除いて、全員が倒れていた。
 そして、彼らの肉と骨と血は、彼らを殺した者の手によってそのまま放置されて地の面にあり、地上で朽ち、また朽ち果てて母なる大地に返るに任された。 (モルモン 6:15


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 ニーファイ人であったインディアンのホピ族は北アメリカに移動したという言い伝えがあります。
     
  モルモン書の地理 1/3

 『モルモン書』には、紀元前54年に多くのニーファイ人が北方の地へ行くこと、また何隻もの船を造り、それらの船は西の海に出たことが記録されています。

 カナダ・インディアンのサリッシュ族の歴史には、消えた兄弟の話があります。
 
 「遠い昔1000年以上も前のことだ。
 南に住んでいたわれらの祖先の一部は大きな船をいくつも造り、何かに突き動かされるかのように、大海へ乗りだしていった。
 しかし、彼らは二度と戻ってこなかった。
 同じようなことがそののちも何度か起きたが、彼らもまた二度と戻ってこなかった。
 やがて祖先たちは次第に戦争に明け暮れるようになり、やがて大きな船を造る技術を失い、大海を渡る方法も忘れてしまった。……」


 


 さて、ニーファイの民のさばきつかさの統治第三十六年の初めに、シブロンは、アルマがヒラマンに渡した神聖な品々を所有することになった。
 シブロンは正しい人であって、神の前をまっすぐに歩んでいた。
 そして、絶えず善を行い、主なる神の戒めを守るように努めた。
 彼の兄弟もまた同様であった。
 さて、モロナイもまた死んだ。
 このようにして、さばきつかさの統治第三十六年が終わった。

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 さて、さばきつかさの統治第三十七年には、ゼラヘムラの地から北方の地へ旅立った大きな一団があった。
 その一団は五千四百人の男たちと、彼らの妻子から成っていた。

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 さて、ハゴスという人がおり、彼は非常に技量の優れた人であったので、出かけて行って、デソレションの地に近いバウンティフルの地の境で一隻の非常に大きな船を建造し、それを西の海に進水させた。
 そこは北方の地へ通じている地峡の近くであった。

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 そして見よ、多くのニーファイ人がそれに乗り込み、たくさんの食糧を持って船出した。
 多くの女と子供も一緒であった。
 そして、彼らは北方へ進路を取った。

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 このようにして、第三十七年が終わった。
 第三十八年に、この人はほかにも何隻か船を建造した。
 最初の船が戻って来ると、また多くの人がそれに乗り込み、彼らもたくさんの食糧を持って再び北方の地へ出発した。
 そして、彼らの消息は絶えてしまった。
 思うに、彼らは海の深みに沈んでおぼれてしまったのであろう。
 また、ほかにも一隻が船出したが、それもどこへ行ったかわたしたちには分からない。

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 そして、この年に多くの人が北方の地へ行った。
 そして、第三十八年が終わった。 (アルマ 63:1-9


 
  西へ広がった古代アメリカの民

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 ハゴスとは、ミケーネ人の名前と同じですので、ミュレク人の影響でしょう。

 末日の預言者たちはハゴスの船が太平洋の島々に到着して、ポリネシア文化と混じり合ったと宣言しています。
 ジョセフ・F・スミス大管長は1913年に、ポリネシア人がハゴスの民の一員だったかもしれないとの電報を先に受けたことに触れて、ポリネシアの聖徒たちにこのように述べました。
 
 「ニュージーランド出身の兄弟姉妹、皆さんがハゴスの民の子孫であることを知っていただきたいと思います。
 ここには『もしかしたら』という語句はありません。」

 ジョセフ・F・スミス大管長はハワイ宣教師として働いていたときに、ポリネシア人はリーハイの子孫であることを御霊によって証されたことを説明しました。 (ウィリアム・A・コールとエルウィン・W・ジェンセン Israel in the Pacific 1961年 p.388で引用)

 そののち、ヒーバー・J・グラント大管長はハワイ神殿の奉献の祈りの中で、「この恵まれた地において、何千、何万というリーハイの子孫が福音の知識を与えられていること」について、天の御父に感謝をささげました。 (“The Dedicatory Prayer in theHawaiian Temple” Improvement Era 1920年2月 p.283) 

 スペンサー・W・キンボール大管長も、たびたびハゴスの人々の子孫、そしてレーマン人の子孫は、ポリネシア民族にいると語っています。

 ハゴスは古代アメリカから、大船団を率いて乗り出しました。
 彼らは二度と故郷に戻らぬ覚悟をした人々で、海流の流れを利用しながら長い時間をかけ太平洋の島々を発見しては移り住んでいくのです。
 当然その一部はインドネシアバリ島マレーシアにも移住し、そこの先住民とも結合していきました。
 それは、太平洋全域に広がる「巨石文化」を見ても明らかで、日本の縄文・弥生文化圏で発見が相次ぐ古代遺跡群もすべてアメリカと南洋の巨石文化と共通しています。
 また、ハゴス以前にも同様に海に乗り出した人々もいたはずです。

 ハワイの人々のルーツがタヒチマルキーズ諸島のポリネシア人であり、そのポリネシア人のルーツが東南アジアのほうにあるとされることからペトログリフもまた東南アジア起源で伝播してきたのではないかと考える説があります。
 しかし、太平洋地域全体でペトログリフの分布を見るとハワイとニュージーランドを結ぶ線の東側にはペトログリフが大変豊富であるにもかかわらず西側では見られません。
 このことはハワイのペトログリフが土着固有の物でないかぎり、南東あるいは東のほうから伝わったということを示唆しています。
 ハワイのペトログリフは、もともとハワイには住んでいなかった人々が海洋を渡ってきて刻んだものです。
 古代アメリカからかハワイ諸島に到来して、彼らの故郷の風習に習ってペトログリフを刻んだとハワイ大学のハリー・コックス教授は『ハワイのペトログリフ』という研究書に明記しています。

 トーマス・G・スラムは、1915年に発表した論文の中で、オアフ島のペトログリフと古代アメリカのペトログリフを比較し「これは単に似ているというレベルではなく同じアーティストの作品だ」と述べています。
 
 マオリ、ポリネシア人たちの古代伝承によれば祖先は東から来たといいます。 
 今から100年も前の研究ですが、ジェームズ・ウイッカーシャム博士も論文の中でこう述べています。
 「記録、伝承、歌や歴史などに西への移住の話は多くあるが、ポリネシアには日が昇る方角に向かったというものは皆無。
 伝承は海流の西への方向と一致している。
 移住は西と南に行くが、東には行かない。これには例外がない。」

 マオリの古い伝承の中に、彼らの本当の故郷「ハワイキ」という言葉が残されています。
 この「ハワイキ」は「とこしえの地」という意味で、タヒチでは「ハヴァイイ」クック諸島では「アヴァイキ」サモアでは「サヴァイイ」ハワイ諸島では「ハワイイ」というように若干の違いがありますがこの地域に広く共通して存在した「ある場所」を指しています。
 その場所はマオリだけでなくポリネシア人全体の聖地であり「原郷の地」でした。
 そしてこの原郷の地は、各地の伝説によると遠い昔に海の底に沈んでしまったというのです。

 南北アメリカ大陸から西へ向けて出向すれば、ちょうど太平洋の中央付近の流れである北赤道海流南赤道海流の温暖な気候の流れに乗ることができます。
 途中、環太平洋の島々に移動することができ流れに乗って日本へ到達するのです。
 
  ハワイやポリネシア、ミクロネシア、メラネシア人は、古代アメリカから来たヤレド人が移住していた所に、のちに古代アメリカから渡来したマヤ文明のニーファイ人やのちのインカ人のレーマン人です。



  サツマイモにまつわる伝承
 
 ポリネシア人は西から来たと主張する学者たちにとって問題があります。
 それはサツマイモです。
 ポリネシアの人々の食生活を支えているのはサツマイモです。

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 ハワイでもイースター島でもポリネシア全域で、サツマイモが栽培されています。
 サツマイモの栽培の歴史は古くポリネシアに住みついたときには、すでに人々はサツマイモを食べていたことが分かっています。
 しかし、植物学的にポリネシアの島々にサツマイモは自生していなかったことも判明しています。

 サツマイモの原産はラテンアメリカなのです。

 なぜラテンアメリカ原産のサツマイモがポリネシアの島々しかも全域で栽培されるようになったのでしょうか。
 サツマイモだけではなくタロイモやパパイアもまた、ラテンアメリカ原産で、しかもポリネシア全域に広がっています。
 地域に限っていうならば、ほかにイースター島のチリ・コショウ、ハワイのパイナップルやホオズキ、マルキーズ諸島のトマトやタバコなどアメリカ大陸が原産の作物は数多いです。

 これらの多くは栽培植物であり、人の手を加えて初めて収穫できる作物です。
 海に種が流れて漂着し、そこから芽が出て育つことはないのです。
 明らかに何者かがアメリカ大陸からサツマイモなどを持ってきたのです。


 ポリネシア人の起源が東南アジアだと主張する人にとって、これは厄介な問題です。

 ポリネシア人が栽培する作物には、南アジアが原産である物も存在しますが、肝心のサツマイモにいたっては説明のしようがないのです。
 先史時代にアメリカ大陸から渡ってきた人々もいたのではないかと渋々その可能性を認めているというのが現状です。

 最近では航海術に長けたポリネシア人の祖先の一部がアメリカ大陸にまで到達し、サツマイモなどを発見したのちに再び太平洋に出たという説も提唱されています。
 ポリネシアとアメリカ大陸の問で交流があったことは事実でしょううが、何としても起源を西へもっていきたいという偏見があると思われ説得力が弱いです。

 もっと素直にアメリカ大陸からポリネシア人は来たと考えるほうがよほど自然です。
 
 十二使徒のマシュー・カウリー長老は、ハゴスの民たちは南太平洋に住むある人々の先祖であると考え強く信じていました。
 彼が若いころにマオリの人々に伝道したとき、こう聞きました。
 
 「あなた方の先祖はどこから来たのですか?」
 すると老人は「栽培もしないのに、さつまいもが自然に採れる所から来た」と答えました。

 野生のサツマイモが採れる所は世界に1か所しかありません。
 ハゴスが船を造った、あの狭い地峡です。
 サツマイモは、日本、ポリネシア人の栽培作物ですが、もともと中央アメリカ原産です。


 マオリの学者は、そこはが統合する所であると考えています。
 しかし、それは誤解です。
 霊を示す言葉は、マオリ語で「WAIRUA(ワイルア)」ですが、ハワイ語でもサモア語でも霊という意味を示す言葉は「WAIRUA」でありません。
 「WAI」は「海」を示し、「RUA」は「2つ」の意味を持ちます。
 霊ではなく2つの海と解釈するのが正しいのです。
 ハワイ諸島では「WAIRUA=2つの海」、サモア諸島の「VAIRUA=2つの海」があります。
 そして、野生のサツマイモの原産地は中央アメリカであり、そこはまさしくWAIRUA、2つの海を持つ地挟の国土なのです。

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 このことからも環太平洋民族のルーツが、古代アメリカだと説明できます。

 そして、アラスカのエスキモーからインカのインディオなどに「海草」を食べる習慣があります。
 ラテンアメリカではペルーボリビアチリの原住民だけの習慣です。
 太平洋沿岸ではハワイからニュージーランドにいたる一円でも同じような海草を食事に取り入れているこれらの食事風習から民族の移動が分かります。



  イースター島に上陸した古代アメリカの人々

 モアイを造ったイースター島の原住民も海流の方向から考えるとアメリカから渡ってきた人々です。

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 ポリネシア人の上陸地点は、イースター島でもっとも波の静かなアナケナ湾の海岸だったと思われます。

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 そして、アナケナ湾の上陸地点を中心にカヌーを引っ繰り返して住居としたのです。
 なぜならイースター島は南半球では比較的緯度が高く冬には南極付近からの強い風が吹きつけるため椰子が生えないからです。
 事実、イースター島西岸のクック湾では寒風による大波は荒々しく、この島がポリネシア文化圏の最果てにあることが分かります。

 イースター島は、最初から木材となる木が圧倒的に少ない島でした。
 現在もカヌーを引っ繰り返して家屋にしたような跡が遺跡として多数残され、巨大な遺跡では100mもあるカヌー型住居があったことが分かっています。
 昔から森林に乏しかったイースター島の周辺に、ポリネシア人たちは先祖をまつる石積みの祭壇の「アフー」を作り始めますが、その時代には巨大なモアイ像はなく小さな木の像や石像で先祖をまつるだけでした。
 事実、発見されている初期のモアイは、姿は非常に小さくデザインもシャープさがなく洗練されていないです。

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 上の画像は「アフ・トンガリキ」とよばれ、祭壇「アフー」はモアイ像の下の石積みの台座の部分です。
 また「アフー」は、マルキーズ諸島のアラフラフにある「マラエ」と同じ石組みであり、その名称からも同じ物だと考えられます。
 ハワイで「アフー」と同様の物は「ヘイアウ」とよばれます
 
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 モアイは、大きさは3,5m、重量20t程度の物が多いですが最大級の物は20m、重量は90tにたっします。
 
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        ラノ・ララクにある古い時代のひざまずくモアイ像

 典型的なイースター島のモアイは、細長い顔をしていますが最初からあのような形をしていたのではありません。

 巨大なモアイの時代になっても、最初のころはプカオという石の帽子を着けていなかったとされます。
 ところが、長耳族の冠の影響でモアイに冠をかぶらせるや、島民が競って鉄分を多量に含む赤い凝灰岩を切り出し海岸線まで運び出したのです。

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 1978年、アナケナのモアイ像の土中で2つに割れた目が発見され、モアイには目があったことが判明しました。
 目は瞳部分が赤色凝灰岩で作られ外側の白目部分が白い珊瑚石で作られていました。


 チリ国立自然史博物館には、最初から目が彫られている小型のモアイや目のあるモアイ石面、さらに昔にイースター島で多く見られたマメ科のトロミロの木で造られた「モアイ・カバ・カバ」などが、黒曜石の石器などとともに展示されています。

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 モアイのかぶるプカオという身分を示す帽子は、南アメリカのボリビアのチチカカ湖付近のティワナク遺跡の石造の帽子と似ています。
 そして、この頭に付けるハチマキの型はマオリと共通し、カナダ・インディアンのトリンギット族の物とも似ていてアイヌとも似ています。
 そしてイースター島の耳長族の風俗は、古代アメリカと同じです。
 モアイを島民たちが作っていたころには、古代アメリカ全土では壮大な文明が花開いていたのです。
 古代アメリカから太平洋に向けて民族は移動したのです。

 イースター島のモアイ像のような「長耳」の石像は、タヒチ島やマルキーズ諸島などのポリネシアの島々にも多いです。

 ポリネシアの伝説の中には「神の子である太陽神ティキ」がいます。

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      左 マルキーズ諸島ヒバオア島の「ティキ像」   右 タヒチ島の「ティキ像」

 マルキーズ諸島のヌク・ヒバ島にも、モアイ像は「ティキ」という名で存在しており、タヒチ島の「タヒチ博物館」にもモアイと同様の顔のティキが展示されています。
 ティキは木で作られるのがほとんどですが、モアイと酷似した風貌と顔は間違いなくイースター島のモアイとティキが同じルーツということを教えています。

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 イースター島の初期の石像 (左)と、ペルー南部とボリビア西部にまたがる古代からあるチチカカ湖周辺の石像 (右)は、両方ともポーズや耳も長く目の部分などそっくりです。
 
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 イースター島からのこれらの壁画(上)は、南アメリカのティワナク文化圏の海岸でも発見されています。(下)


 モアイとはもともとは先祖の霊を具象化した姿で、木彫りの「モアイ・カバ・カバ」も、先祖の死者の霊を示しています。
 したがって、イースター島の各村々のアブに林立するモアイはすべてその村の先祖を具象化した像で、当時の人々は自分たちの先祖をまつっていたのです。

 ある日、小さなアフーと先祖の像以外に何もなかったイースター島に、巨大なモアイ像が続々と立ち始めることになります。
 モアイは本来は先祖の姿をした像で、ポりネシア文化圏で先祖の姿を巨大化させたのはイースター島だけです。

 南太平洋全般の歴史とイースター島の伝説を総合すると、4世紀~5世紀ごろには最初の入植者がイースター島におよそ数百人が上陸したと考えられています。
 彼らはポリネシア人でありマルキーズ諸島から来た人々です。
 そして、イースター島にのちのインカ人であるレーマン人たちが来て住み始め、圧倒的な力で島民を支配していたのです。


 インカの支配者たちは、自分たちのことを長耳族とよんでいました。
 イースター島に来たレーマン人たちは武力も優れていましたが、巨像を造ることを命じるようになってきたのです。
 その神官は、やがて自らの耳を長く伸ばし始め島民に同じような真似はさせませんでした。
 なぜなら長い耳は、イースター島では神官のシンボルになっていたからです。
 つまり、古代アメリカから渡ってきたレーマン人の長耳族は、イースター島の王族に取り入り自らを王族の一員とし、祭政一致で島民を完全に支配しようとしたのです。
 こうしてイースター島は、王族を巻き込んだ「長耳族」と「短耳族」の支配者と被支配者による二極対峙の社会構造を持つにいたります。


 キャプテン・クックに同行した画家が描いた長耳族の絵には、極彩色の羽根の冠をかぶった絵があります。
 イースター島には、「長耳族」とよばれる神官階級の人間がいて、一般人である普通の耳を持つ「短耳族」の人々を宗教的に支配していました。
 1774年、イースター島を訪れたキャプテン・クックは、長耳族の男を画家に写生させています。

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 長耳族とは、生まれつきモアイのように長い耳をした種族ではなく、耳たぶが下に垂れるほどに重りや穴を開けて徐々に引き伸ばした人々です。 
 巨大なモアイを作らせたのは長耳族だからこそモアイの耳は長く垂れ下がっています。
 耳たぶに重りをつける風習は、スペイン人に征服される以前のインカの支配者層にもありました。

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               ケツァル鳥の羽根の冠 

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 その豪華な鳥の羽根の冠は、南アメリカにいるケツァル鳥の羽根の冠と同じ物で当時はイースター島にはケツァル鳥はいなかったので、南アメリカとイースター島に交易があったことが判明するのです。
 
 遺伝子の調査でも紀元13~14世紀に南アメリカの人々との交流が認められます。 
 そして、神官たちは島に馴染み始めるとやがてそれまで島民が信仰していた「鳥人」という神を蔑ろにさせ始めるようになりました。
 そして、鳥人よりも先祖を神とさせ、先祖神を巨大化させることで偶像礼拝を推し進めるように仕向けたのです。
 それが今に残る巨大なモアイ像であり、時代的にモアイが巨大化したのもほかのポリネシア文化の歴史からみてもせいぜい紀元13~14世紀だとされます。
 こうしてイースター島の人々は長耳族の神官の言葉に踊らされ、巨大なモアイを村同士の対抗意識で続々と切り出し建て始めるようになりました。
 
 彼らは島民の祖先が自分たちと同じ古代アメリカ大陸から渡ってきた末裔と教え大勢の島民を労働に駆りたてたため総面積120平方km足らずの島は、その様相を一変させてしてしまいます。
 イースター島は、それでさえ自然が少なかったのにモアイを運ぶために木々が伐採され、さらにモアイをアフーに乗せ立てるための木々も次々と宗教の名のもとに伐採されて行ったのです。

 長耳族の神官たちは、自分たちの特権的立場と宗教的な権威を確固とするため、さらに数多くのモアイをラノ・ララク火山の麓で製造させ、島中の村人を総動員させることに躍起となりました。
 その結果、それまで静寂の中にあったラノ・ララク一帯は、毎日石のつるはしの音が絶えることがなくなり、まさにモアイの大量生産工場と化したのです。

 初期のヨーロッパ人は硬いモアイ像を石器だけで刻んだことに驚きましたが、実はラノ・ララク火山の火山灰が堆積してできた凝灰岩は見た目よりも硬くないです。
 それに凝灰岩に混じって飛び出した玄武岩を叩き割ればすぐに硬い斧にすることができたため、その斧を使えば凝灰岩からモアイを彫刻することは容易にできたのです。
 そのころ古代アメリカから高い技術を持つ集団が来ていたことが、アフーやモアイ像の姿からも分かります。

 モアイの下に敷かれているアフーという石組みの中にペルーの南東部に位置するインカの古都クスコ市の北にあるサクサイワマン遺跡の石組みと共通の物があります。

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                イースター島のビナプ遺跡

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                サクサイワマン遺跡

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                ティワナク遺跡

 たとえばアフーですが、イースター島の「ビナプ遺跡」にある2つのアフーは、ティワナク遺跡、インカ文明のペルー、クスコの郊外にあるサクサイワマン遺跡の石組みのようにナイフの刃が通らない接合面を持っており、南アメリカ遺跡と同じく夏至の太陽に背を向けるように建てられています。

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 ティワナクの遺跡の巨大な石造遺跡を調査した際、金属の留め金用の石のつなぎ目が発見されました。

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 左上 デンデラ(エジプト)、右上 アンコール・ワット(カンボジア)、左下 ティワナク、右下 オリャンタイタンボ(ペルー)

 同じような留め金のデザインは、世界中の古代遺跡で見つけることができます。

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 ここでは、花崗岩(かこうがん)の石の上に作られた溝のうちのいくつかの精度を鑑賞することができます。

 花崗岩はかなり硬く、モース硬度ダイヤモンドは硬度が10、水晶は硬度7、花崗岩は高度6,5です。
 溝の内部に等間隔に配置された非常に小さなドリル穴があります。
 これらの複雑なマークを作るために必要な道具は、当時の人々に利用可能な物を超えていて、今まで現場でこの穴を開けた道具は発見されていません。

 植民地時代の始め、この石壁を見たスペイン人の軍人と詩人ガルシラーソ・デ・ラ・ベガ(紀元1501年‐1536年)は、スペインの名家の出の騎士とインカの皇女の間に生まれたハーフです。
 征服直後のクスコの生活を身を以て体験したうえに、母方の親戚からインカの去りし日の栄華やクスコの華やかな日々を聞いて『インカ皇統記』など貴重な記録を残した人物です。

 ガルシラーソは、サクサイワマンの建造方法はまるで魔法を使ったようだと記しました。
 数代前の皇帝の時代に建造されたというサクサイワマンの城塞の建造方法が、このように書かれていることは、考古学者がいうように、サクサイワマン城塞が第9代皇帝パチャクティ・ユパンキの時代の建造はありえないことを示しています。
 ガルシラーソのもう1つの書、『インカに関する公式報告書』の中に興味深いことが書かれています。
 「……歴史上のインカの王がサクサイウマンの古代城塞を建設した先駆者の業績に挑戦したことがある。
 この挑戦は巨大な石を1つだけ数km離れた所から運び、城塞に追加しようとしたものだった。
 2万人以上のインディオたちが、山を越え急激な丘を上り下りしてこの石を引っぱった。……
 ところが断崖にさしかかった所で石が人々の手から離れて落下し、3千人もの人を押し潰した。」 

 これらの事柄を総合すると、サクサイワマンの城塞はインカ時代に建造された物ではないことが分かります。
 上記の報告文書には挑戦者の王の名が記されていませんが、考古学者のいうように皇帝パチャクティ・ユパンキが建造した物ならば、そののちの皇帝となると第10代か第11代皇帝が挑戦者ということになるでしょう。

 偉大な皇帝とされている第9代皇帝パチャクティー・ユパンキはインカの領土を大きく広げただけでなく、法律の整備や暦の改訂、宗教改革とともに、首都クスコの再構築などの多くの業績を残しています。
 しかし、サクサイワマンに関してはユパンキは新たな城塞の建造者ではなく、当時すでに存在していた古代遺跡の修復者にすぎなかったのです。
 遺跡として残っているクスコや周辺の建造物の多くは、先祖から受け継いだと思われる優れた石細工の技を持ったインカ人の手によるものでしょう。
 
 フランスの考古学者ジャン・ピエール・プロッツェンが実験の結果、 インカの遺跡から大量に見つかった石のハンマーだけで石材の切り出しと 加工整形ができることを立証しています。
 しかし、インカ文明以前の遺跡があるサクサイワマン遺跡の石組みは、石を軟らかくする技術を用いていた築かれたと考えられます。
 石を軟らかくする技術が使われていたと仮定すると、このような精緻な加工がずっと容易になることが理解できます。
 このような接触面が寸分たがわず一致するような石組みはペルーだけではなく、エジプトやメキシコなどの古代遺跡にも見られます。
 石を軟らかくする技術は超古代文明における普遍的な技術であったようです。
 実はその技術自体が発見された可能性もあります。
 1992年、エクアドルのカルロス・ヴァカ神父はロバという田舎町にある洞窟で、推定身長7,5mの巨人の骨を発見しました。

 これだけでも十分に驚くべき発見ですが、彼がそのそばで発見した「油のような黄色の液体」には石を軟らかくする作用があることが分かったのです。
 探検家のパーシー・H・フォーセットは、ブラジルのマットグロッソを旅行中に現地人が硬い岩を成形するのに、特殊な植物の樹液を使用して表面を軟らかくしてから作業しているのを目撃しました。

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 ティワナクの遺跡群のプマプンク遺跡に残されたプレハブ工法の物と考えられる1つ100トン以上もあるH型ブロック。


 レーマン人の長耳族の神官により、やがてイースター島の鳥人を信仰する意識は徐々に薄れ、やがて儀式も廃れていきます。
 ところが、やがてモアイ製造による自然破壊が、結局は皮肉な形で鳥人信仰を復活させることになります。
 樹木の伐採が押し進められた結果、島の環境バランスは崩壊し雨水はそのまま海まで流れ去り土地は痩せ細り、耕地は作物を実らせなくなりました。
 その結果、猛烈な飢饅がイースター島を襲い1万人を突破したであろう島民を冬場の嵐が直撃しました。

 狭い区域に閉じ込められた人間にとって、飢えから逃れる方法は2つしかありません。
 人口を減らすための戦争を起こすことと生命を維持させるための共食いをすることです。
 そして、この2つは同時に起こすことができます。
 こうして、イースター島の住民は、長耳族の甘言(人の気に入るような口先だけのうまい言葉)に乗った結果、互いの村に対して戦争を起こし相手を殺して食料にするすさまじい「人食い戦争」へと突入したのです。
 当然、この惨状を引き起こし島民に重税をかけ特権階級の立場で支配する長耳族は、最初に排除される対象となります。
 それに長耳族はもともとイースター島にいた人間ではないし、伝承によると島民の子供を食料にしたことをきっかけに長耳族と短耳族の戦闘が始まったといわれています。

 
 そして、ポイケ半島の先にある堀で長耳族は1人を残して全員殺されそこで焼かれて食べられたといいます。
 つまり、古代アメリカから渡ってきた長耳族は抹殺されましたが、ただ1人の王族の血だけは残しておいたことを意味するのです。
 こうしてその場所は、今でも「ポイケ・ディッチ(長耳族のかまど)」と名づけられています。
 イースター島を襲う飢饅は、島民同士を人食いに走らせ、「アナ・カイ・タンガタ(人食い洞窟)」とよばれるような不気味な地名を残すようになるのです。

 イースター島の住民は、同族相争いのときに相手の村を守護するモアイ像を次々に打ち倒して行ったのです。
 そうしないと彼らの先祖の呪いが、自分の身に災いとなって降りかかってくると信じていたからです。
 災いとは今度は自分たちが食料されることを意味しました。
 それだけに、モアイを倒すことは絶対不可欠であり、こうしてイースター島全域に「ブリ・モアイ(モアイ倒し戦争)」が横行しました。
 それも、呪縛の力を持つとされるモアイの目を破壊し、モアイの顔をおおい隠すために必ず顔がある方向に倒されたのです。
 
 19世紀初めにイースター島を訪れたイギリスのピーチ総督は、ロッゲフェーンやキャプテン・クックが見たときは海岸の祭壇に立っていたモアイがことごとく顔を下にして引き倒されているのを見て愕然とします。
 ピーチが見た光景を引き起こしたのは、ヨーロッパ人のカトリック教会の神父だったのです。
 カトリック教会は自分たちの宗教を布教する邪魔になるものは、すべて異端として破壊することを平然とやってのけいました。

 

  ケネウィックマン
 
 1996年 アメリカ、ワシントン州コロンビア川から一体の遺骨が発見されました。
 遺骨の臀部に古い矢じりが突き刺さっているのを発見し不審に思った警察が、地元の考古学者ジム・チャターズ博士に年代測定を依頼したところ、遺骨は9300年前の物であることが判明しました。
 これ以後、この遺骨は発見場所の地名を取りケネウィックマンとよばれるようになりました。

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 年代測定は放射性炭素年代測定(炭素14法)で行われました。
 土地の名前ケネウィックから命名された人骨「ケネウィックマン」は、当初は最近の先住民インディアンの骨と考えられましたが、放射性炭素年代測定での測定の結果、人骨が9000年以上前までさかのぼることが明らかになると状況は一変します。
 放射性炭素年代測定は、誤りがあるので実際はこんなに古くはないです。

 研究者が強く主張したのは、人骨の特徴がモンゴロイドではなく、コーカソイドだという点です。
 最初に報告を受けて人骨を発掘した考古学者ジム・チャターズは、当初から白人の人骨であると判断し白人ゆえにせいぜい1900年ごろの人骨だろうと考えていたのですが、骨に矢じりが刺さっていることを発見し石器時代の人骨ではないかと考えました。

 アメリカ、カリフォルニア大学に依頼して分析したところ、9300~9500年前という年代がはじきだされました。
 アメリカ大陸で発見された古い人骨の多くは3000~4000年前の物で、それらはもちろんインディアンの人骨で、それよりも古い人骨となると、極端に数は少なくなります。
 9000年以上前となるとわずかに二十数例を数えるのみで、しかも完全な人骨はケネウィックマンが初めてでした。

 最古の完全標本である人骨がモンゴロイドではなく、白人だったとなるとこれは大問題です。
 アメリカ大陸はモンゴロイドでであるインディアンおよびインディオら、先住民たちの土地でしたが、白人たちが大挙してやって来て、彼らの土地を奪い近代国家を建設していきました。
 先住民であるインディアンたちよりも古い民族がいて、それが白人だったとなると過激な白人たちの中には、インディアンのほうこそ先住民であった白人ケネウィックマンたちを征服した人々であり、現在の自分たちは同胞である白人の土地を奪還したのだという論法を持ち出す者も出てきました。

 これに対してインディアンたちは、ケネウィックマンはあくまでも自分たちの祖先であり、けっして白人ではないと主張します。
 科学的に白人の形質が認められるという人類学者たちの主張に対しては、そもそも先祖の人骨を分析すること自体が冒漬に値すると強く抗議し裁判沙汰にまで発展しました。

 ケネウィックマンの起源を明らかにするもっとも良い方法は、DNAを調べることでした。
 しかし、困難な裁判の末、科学者側にDNAテストが認められたにもかかわらずテストは失敗してしまったいました。
 残念なことですがケネウィックマンは、現在も所有権をめぐる裁判を係争中でこれ以上の研究は望めそうにありません。
 当初はケネウィックマンは白人の特徴を持つといわれていましたが、2001年の研究では北米の西部地域およびアジア大陸に住む現在の住民、および古代人の1000人分以上の頭蓋骨を21か所の解剖学的基準に基づいて比較検討した結果、古代アメリカ先住民は現在のアメリカ先住民や北方アジア人とは似ていないことが分かったのです。

 古代のアメリカ先住民にもっとも近いのは、縄文人であるアイヌ、ポリネシア人という結果でした。
 古モンゴロイドです。
 中東地域・インド亜大陸方面から東南アジア方面に進出したと考えられるモンゴロイドを、形態人類学では古モンゴロイドと区分します。
 沖縄を含む日本に到達した琉球民族、クマソやアイヌは、古モンゴロイドとされます。
 現在、北米最古の人骨であるケネウィック人は、古モンゴロイドともっとも類似しています。
 遺伝学的には、新モンゴロイドとの差異は小さく、東南アジアや、太平洋の島々に比較的多く古モンゴロイドの特徴が見られます。

 アイヌはレーマン人に北方のエスキモーなど樺太中部以北および対岸のアムール川下流域に住むモンゴロイドの少数民族(ニヴフ)が混血しました。
 
 世界や日本でも明治時代までは、アイヌはコーカソイドであるという説がありましたが、研究が進み古モンゴロイドであることが確認されています。
 コーカソイドのロシア人が白人が来た17世紀ぐらい以降には、白人とアイヌの混血はいるでしょう。
 
 
 
  イースター島の神

 イースター島の住民の神は、モアイではなく鳥人でした。
 鳥人は、イースター島の各所に岩絵として彫られていますが、巨大なくちばしと目を持つ異様な姿をしています。

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 鳥人は「タンガタ・マヌ」とよばれますが、天の最高神「マケマケ」が人間に化身した姿だとされます。
 つまり、岩絵にある不気味な鳥人の姿は、象徴です。

 事実、タンガタが「人間」を表しマヌが「鳥」を表すことから、タンガタ・マヌで鳥人となりイースター島の伝説では鳥人は人の姿をしているといいます。
 そして、鳥のように天から舞い降りてきて、イースター島の人々に教え諭し海鳥のマヌ・タラを島民にもたらせたというのです。
 最高神マケマケが鳥人として現れた姿であるので、その姿は人間となります。

 鳥人をまつる聖地であるオロンゴ岬には、不気味な鳥人の岩絵とともに髭がある人間と餌してのタンガタ・マヌの顔が、岩に多数彫られて残されることになり、木彫りの鳥人は、頭に鳥のクチバシの冠を着けた人間の姿で表され髭をたくわえた男性の神になっています。

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 また鳥人が左右対象に2羽描かれた岩絵もあり「ダブル・バード」とよびます。
 このダブル・バードについては、アカデミズム(保守的な立場を固持しようとする態度)の学者たちも頭を悩ませていますが鳥人を象徴とすれば、最高神マケマケと神の化身として生まれたタンガタ・マヌが、ダブル・バードで同一神であることを象徴していることになります。
 だから、鏡で合わせたように左右対称になっているのです。

 このマケマケについては、イースター島の伝説はこのように述べています。
 「天空を想像した創造主(マケマケ)は、太陽、月、星、地球を創造し、最後に人間を創造した……」

 つまり、マケマケはヤハウェであり、タンガタ・マヌはイエス・キリストです。

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 鳥人をまつる儀式が、イースター島の南端のラノ・カオ火山付近の岬で行われていました。
 儀式が行われたオロンゴ岬では、毎年9月~10月(南半球では春)になると、マヌ・タラ(アジサシの一種)が、イースター島に巣作りのため数万羽も来ることから鳥人タンガタ・マヌがイースター島に鳥の恵みを与えてくれる場所となっています。
 そこでは毎年、成人式のような意味で、オロンゴ岬から海に飛び込んだ若者が最初に海鳥マヌ・タラの卵を採る競争をしていました。
 しかし、モアイ倒し戦争が起きてからは長耳族を排除したことで、各地区の戦士階級「マタ・トア」の中から、1年かぎりの統率者を選びだす儀式として行われるようになりました。
 なぜオロンゴ岬が聖域になったかは、海鳥の産卵する岩場があること以外にとくに理由は見つかりません。
 そして、この岬の断崖絶壁の先には、「モツ・カオカオ」「モツ・イチ」「モツ・ニュイ」の3つの岩場が顔を出し、この3つの岩を神会の象徴にしていた可能性があります。
 
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 メキシコの中央部チョルラ地方のアステカ族やトルテカ族では「ケツァルコアトル」とよばれ、メキシコの南東チヤパス州では「ボタン」、メキシコ南部のオアクサカでは「ウィクシペチョチャ」、グァテマラのマヤでは「グクマッツ」、「ククルカン」です。
 「グクマッツ」は、「グク」が「緑色の羽根」で、マヤの神鳥ケツァルを意味し「マッツ」が「蛇」です。
 「ククルカン」は、ククルが「羽根」 、カンが「蛇」を意味します。

 ヤハウェは、蛇に表現されました。 (参照

 パプアニューギニアのアドミラルティ諸島には、蛇神が創造神とされています。
 蛇神のマライは珊瑚礁に浮上を命じて陸地を造り、最初の男女を誕生させました。
 


  日本の龍神

 チャイニーズ・ドラゴンは、伝説上の龍のような2本の長い角が頭部にあるのが特徴で、顎の周囲に体毛が生えています。
 そして、貴州省安順市の「興偉古生物化石博物館」が、同種の角が生えた恐竜化石を公開しました。
 その姿はまさに中国伝説の龍そっくりです。

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 このショッキングな化石は、1996年に安順市で発見され、全長7,6mもあるとされています。
 発掘以来、専門家が最新の注意を払って剥離作業を行って、頭部に2本の角がありました。
 少し曲がった角が頭上に伸びているその姿は龍です。

 1934年の夏、黄河で体長10m以上を越える同種の怪物の骨が流れ着き、その画像も公開されていました。

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 中国遼寧省営口市の「歴史資料館」の、チャイニーズ・ドラゴンの画像です。

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 天池は中国吉林省にある長白山の山頂付近にある湖で、2003年8月23日には、40人ほどの観光客が国境警備隊員とともに怪物を目撃しました。
 『人民網日本語版』によると、 目撃された2003年8月23日11時ごろ、天池上空の空は晴れて湖の視界も良好だったといいます。
 国境警備隊の1人が怪物を目撃し、観光客らが大騒ぎになったのです。
 観光客らの証言だと、水中に得体の知れない黒くて巨大な怪物が泳いでいたといいます。
 その大きさは3mを越え、怪物は最初は天池の中心付近に姿を見せましたが、そののち南側からも同様の怪物が現れて、そのまま北に向けて泳いで行ったといいます。
 
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 天池の水深は373mもあって、中国ではもっとも深いカルデラ湖ですが、この付近では昔から怪物が何度も目撃されていました。
 それも一頭や二頭ではなく、一度に四頭もの怪物が目撃されました。
 怪物の特徴は、巨大で体色が黒っぽく、アヒルのようなくちばしがあって、牛のような顔をしているといいます。
 
 2003年7月11日には、吉林省政府関係者が甘粛省の林業関係者ら10人とともに、50分の間に5度も目撃しています。
 怪物の数は出現のたびに数頭ずつ増え、最終的には20頭余りにたっしました。
 怪物は観光地化した1960年ごろから頻繁に目撃され続け、今まで30件以上の目撃情報が記録され、目撃者延べ人数は千人を突破しました。
 
 さらに天池は、標高2750mもの長白山(北朝鮮では白頭山)にできた火山湖で、1700~2000年前の火山の大爆発で誕生した湖とされています。
 これらのことからいくつもの事実が読み取れます。
 標高の面で考えられるのは、怪物は間違いなく恒温動物です。

 変温動物爬虫類では生存できません。
 まして巨大な爬虫類となると、体の表面積の上からも変温動物として活動には相当な無理があります。
 次に、カルデラ湖に住んでいることから、怪物は閉じ込められたのです。
 それも約2000年前です。

 朝鮮半島は大昔は陸塊でした。 
 それがユーラシア大陸と大衝突して盛り上がったのが朝鮮国境に存在する長白山脈です。
 大衝突によって火山活動が起きて長白山が誕生しました。
 そののち、カルデラ湖が誕生しユーラシア大陸の海岸線か朝鮮陸塊に生息していた怪物が移動してすみついたのてす。

 日本の龍は、前足の指が3本で神会を示し、ケツァルコアトルと同様に羽根の生えた蛇を表し、イエス・キリストが空から降臨したように飛翔します。

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  ケツァルコアトル

 古代アメリカの著述は、「天から降りてきた白く輝き髭を蓄えた神」について頻繁に述べています。
 多くの名前でよばれているこの神は、伝説的人物でしばしば「ケツァルコアトル」とよばれています。
 紀元16世紀の歴史家らは、スペイン人征服者到着の遥か以前にアメリカ大陸を訪れた白い、髭を蓄えた神についてのスペイン征服以前の信仰について記録しています。
 ラテンアメリカ先住民の伝説は、以下の例があげられます。

 ベルナルド・デ・サヘーガン (1499年生) 
 「ケツァルコアトルは、神として崇められ尊敬され、古代には礼拝されていた。
 この神は長い髪と髭を持っていた。人々は唯一の神として礼拝した。」(Historia General de las Cosas de Nueva Espana, Mexico: Editorial Porrua, S. A., 1985, p.195, 598)

 ディエゴ・デュラン (1537年生) 
 「偉大な人尊敬され宗教的な人物は、髭を蓄え、背が高く、長い髪をして、威厳のある立ち振る舞いをし、勇敢な行いを示し、奇跡を起こした人物である。
 私はこの人物が祝福された使徒の1人だった可能性があると確信している。」(Historia de las Indias de Nueva Espana, 1867年出版, 第一版 二巻, メキシコ: Editorial Porrua, S. A., 1967年 1:9)

 バートロミ・デ・ラ・カサ (1474年生)
 「ケツァルコアトルは、羽を持った蛇で、白く、丸い形の髭を蓄え、背が高く、東の海から来て、東の海へ帰る。」(Los Indios de Mexico y Nueva Espana Antologia, メキシコ: 編集者 Porrua, S. A., 1982年出版, p.54, 218, 223)

 ベネズエラのインディオのタマナコ族は、白く、髭を蓄えた神の同じ伝説を持っており、それによると、「アマリバカ(Amalivaca)は、朝空に見られる軽いふわふわの雲の色をした顔を持ち、その髪の毛は白く長く、……彼は『私はアマリバカだ、私は私の父イナ・ウキ(INA-UKI)の名前によって来た。』と言った。」(Arturo Hellmund Tello, Leyendas Indigenas del Bajo Orinoco, 翻訳文. デッド・E・ブリュートン, アルゼンチン、ブエノスアイレス市 “Imprenta Lopez Peru 666”, 1948年出版, p.19-22)(テッド・E・ブリュートン 「『モルモン書』 神聖な古代の記録」 エンサイン 1995年11月)

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 マヤ文明の権威者の1人アルフレッド・V・キダー博士は著書『キリグアの紹介』(A Guide to Quirigua)で次のように述べています。
 「古代マヤ帝国の大都市は、紀元後の初期に築かれた。
 この恵まれた民は約600年間、芸術、建築、数学、天文学の各分野において指導的立場を堅持していた。
 彼らは私たちよりもある点で正確な暦を作っている。……
 詳細な点では異なるところもあるが、インディアン文明の成長過程は、エジプトやメソポタミアを発祥地とする私たちの文明の成長過程と驚くほど似ている。……
 社会および経済機構が確立され、都市開発が行われ、宗教が発達し、礼拝のための神殿が建立されている。」

 歴史学者ムーニョースもこの点についてその著書『コパンの驚異』(Marvels of Copan)で次のように述べています。
 「建築、天文学、数学、絵画、織物、そのほか生活を彩るあらゆる芸術が、かつてこの地で栄えた。」
 
 彼は、インディアンの祖先がけっして野蛮な民族ではなかったこと、現在では驚異と考えられている事柄がマヤ人の間では当然のこととして知られていた事実を強調しています。
 
 ウィスラー博士は、マヤ文明に関する著書の147ページで、マヤ人はエジプト人がパピルスから作ったのと同じ方法で紙を作っていたと述べています。
 
 『アメリカがインディアンから受け継いでいるもの』(The American Heritage Book of Indian)の19ページには次のように記されています。
 「マヤ人は、古代アメリカで発達した中で最高の文明、さらには世界中でももっとも高い古代文明を成し遂げている。」
 
 また彼らは、技術的に高度な灌漑施設、ダム、水道を敷き山腹を耕し灌漑によって豊かな農地を作り出しました。
 この水道施設はスペイン人が訪れる2千年前に築かれた物で、現在もなおそのいくつかは残っています。

 初期のアメリカ大陸にはかなりの数にのぼる住民がいました。
 スペイン人に征服されたとき、中央メキシコだけでも2500万人が住んでいました。
 しかし、古代アメリカ住民にまつわるかずかずの事実の中でもっとも印象的なのは、約2000年前に聖なる御方が彼らの先祖を訪れたときの模様です。
 この御方は長期にわたって彼らの間に滞在し、教えを説き祝福を与えられました。
 高度の知性と技術を具えた古代アメリカ人は、この御方が神の教えを宣べ伝え、病人を癒やし、死者を生き返らせ、新しい農耕法を教え、公平と平和を基本理念とする管理体を確立したと断言しています。
 彼らの記述によると、この御方は超自然的な方法で前触れもなく来て、また突然去っていかれたといいます。
 古代住民はこの御方を人の形をとって地上に来られた創造主であると考えました。

 ポ一ル・ハーマンはその著書『人類の征服』(The Conquest of Man)でこの出来事の真実性についてこのように述べています。
 「この話を綿密に検討してみると、光の神ケツァルコアトルは実在の人物で、スペイン人の宣伝活動のために作られた人物でもなく、インディアンの伝説による虚構でもないという結論に到達せざるを得ない。」 (p.72)

 この話は、天文学、数学、灌漑、建築学の知識を持つ知性豊かな古代アメリカ人から語り継がれた話です。
 これは無知な民や迷信深い民のたわごとではないのです。
 古代のもっとも高度な文明を築いた民から伝えられました。

 ペドロ・デ・レオンの著した『インカ人』(The Incas)によると、この闇が支配していた間、人々は非常な苦難を強いられ、失った光が戻るよう神に熱心に祈りをささげました。
 そして、ついに太陽が輝き続めたとき、この御方が現われたのです。

 ペドロ・デ・レオンはこう述べています。
 「彼の態度と人格に打たれた民は彼を尊敬し、崇拝した。……
 そして彼の持つ力を目の当たりにした民は、万物の創造主、創始者、太陽の父と彼をよんだ。」 (『インカ人』)
 
 ケツァルコアトルは、鳥のように空を飛ぶ蛇の姿をした神。
 ケツァルが鳥の名前、コアトルが蛇の意味です。
 この男神は髭が長く白く輝いていて、蝶や花を愛し、アステカの民にトウモロコシを与えた文化・農業神とされています。
 ケツァルコアトルや闘神ウィツィロポチトリ、戦神テスカトリポカは柱たる男神と女神から生まれた息子で、かずかずの神とともに世界を4度、創造しました。
 そして、それらはことごとく滅び、5度目で今の世界が作られました。
 ケツァルコアトルは、人間を作るために苦行に耐えねばならなりませんでした。
 一度死に、血を流し、苦労のすえ人間が誕生しました。
 人間の生みの親、文化・農耕神ケツァルコアトルは人の生け贄を禁じました。


 一方、恐怖と暗黒の象徴である戦神テスカトリポカは生け贄を求めました。
 この2人は、生け贄を巡って対立します。
 テスカトリポカの罠にかかり、負けたケツァルコアトルは東の海の向こうを目指し、魔法の筏(いかだ)に乗りました。
 そして姿を消す寸前、彼は予言を残しました。
 
 「私は、必ず帰ってくる。そして、今度こそ私が要となる。
 それは、生け贄の神を信仰する民にとって大きな災厄となるであろう。」
 
 1の葦の年に帰ってくるというのは、誤訳です。
 一部では「ケツァル鳥を先住民は神と崇めた」と解説をする場合がありますが、これは用いた資料の間違のためです。
 
 ナワトル語原板を忠実に解釈すると、ケツァルコアトル神が「長い髭」をたくわえた点が共通することになります。
 ナワトル語原碑板では、ケツァルコアトル以外についても記述があり、それによるとコロンブス以前に、すでに新世界(南北アメリカ大陸)フェニキア人カルタゴ人ヒッタイト人が先住民と接触していたとその碑板には記されています。

 現存するニーファイ人の末裔である北アメリカのホピ族は、白い神、ケツァルコアトルは、紀元前の神「大霊(グレートスピリット) = ヤハウェ」が肉体を持って地上に現れたといわれています。

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 古代アメリカの先住民に伝わるケツァルコアトルの正体は、イエス・キリストです。


 ケツァルコアトルは、白い体で白く輝いています。
 イエス・キリストは、白い衣を着て白く輝いています。


 ……すると見よ、天から一人の男の方が降って来られるのが見えた。
 この御方は白い衣を着ておられ、降って来て群衆の中に立たれた。 (3ニフ 11:8

 イエスの姿が変り、その顔は太陽のように輝き、その衣は光のように白くなった。 (マタイ 17:2

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
 この言葉は初めに神と共にあった。
 すべてのものは、これによってできた。
 できたものの内、一つとしてこれによらないものはなかった。
 この言葉に命があった。
 そしてこの命は人の光であった。
 光は闇の中に輝いている。
 そして、闇はこれに勝たなかった。 (ヨハネ 1:1-4

 イエスは、また人々に語ってこう言われた、
 「私は世の光である。私に従って来る者は、闇の内を歩くことがなく、命の光をもつであろう」。 (ヨハネ 8:12

 イエスは大声で言われた、「私を信じる者は、私を信じるのではなく、私をつかわされたかたを信じるのであり、 また、私を見る者は、私をつかわされたかたを見るのである。
 私は光としてこの世にきた。
 それは、私を信じる者が、闇の内にとどまらないようになるためである。
 たとえ、私のいうことを聞いてそれを守らない人があっても、私はその人を裁かない。
 私がきたのは、この世を裁くためではなく、この世を救うためである。
 私を捨てて、私の言葉を受けいれない人には、その人を裁くものがある。
 私の語ったその言葉が、終りの日にその人を裁くであろう。
 私は自分から語ったのではなく、私をつかわされた父ご自身が、私のいうべきこと、語るべきことをお命じになったのである。
 私は、この命令が永遠の命であることを知っている。
 それゆえに、私が語っていることは、私の父が私に仰せになったことを、そのまま語っているのである」。 (ヨハネ 12:44-50

 わが子よ、このことをあなたに話したのは、あなたが知恵を得るため、また人が救われるのはただキリストにより、キリストを通じてだけであり、決してほかの方法や手段はないことを、私から学べるようにするためである。
 見よ、キリストは世の命であり光であられる。
 見よ、キリストは真理と義の御言葉であられる。 (アルマ 38:9

 その目は燃える炎のようであり、その頭髪は清らかな雪のように白く、その顔は太陽の輝きに勝って光り輝いていた。 (教義 110:3

 ケツァルコアトルは、柱たる男神と女神から生まれた息子である。
 イエス・キリストは、父なる神と母なる神から生まれた長子です。

 ケツァルコアトルは、ほかの神々と一緒に世界を造った。
 イエス・キリストは、ほかの霊たち(神々とごく近い霊格)と一緒に地球を造った。

 ケツァルコアトルは、テスカティルポカと対立します。
 イエス・キリストは、ルシフェル悪魔)と対立します。

 ケツァルコアトルは、人を造るときに血を流し死に復活しました。
 イエス・キリストは、人類に永遠の命を与えるために、血を流し死に復活しました。

 ケツァルコアトルは、人の生け贄を禁じました。
 イエス・キリストは、人の生け贄(殺人)を禁じ、モーセの律法で定められたイエス・キリストによってささげられる贖いの犠牲を覚えるための象徴としての動物の犠牲(生け贄)「の儀式を廃止しました。

 「あなたがたは、もはや血を流すことを私へのささげ物としてはならない。
 あなたがたの犠牲と燔祭は取りやめなさい。
 私はこれから、あなたがたの犠牲と燔祭を受け入れないからである。」 (3ニフ 9:19

 ケツァルコアトルは、テスカティルポカとの戦いで負けました。
 イエス・キリストは、大背教の時代にキリストの教会は崩壊しました。

 ケツァルコアトルは、再び戻ってくると言い残しました。
 イエス・キリストは、再臨を予言しました。

 ケツァルコアトルは、アステカ人の先祖にさまざまなことを教えました。
 イエス・キリストは、アメリカ大陸の人々に多くのことを教えました。

 ケツァルコアトルは、神々の中でもっとも重要な神としてあがめられています。
 イエス・キリストは、人類の救い主としてあがめられています。

 アステカの歴史家は、Fernando de Alva Cortes Ixtlilxochitlは、次のように述べています。
 「ケツァルコアトルは……手に印刷されたか刻印された。
 彼の顔は白く、彼は預言したことが起こった証として……そして彼はひげをたくわえていた。」(1600 A.D. Aztec Historian, Ixtlilxocitl, info. not available until 1892)
 
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 マヤのヤシュチラン遺跡からの石の彫刻には、後手の平と手首の骨と骨の間に釘を打たれたイエス・キリストと同じ丸い傷跡があります。

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 イツァムナーは、ククルカン、ケツァルコアトルと同一の存在で、完全なる善意を司る存在とされ、温厚で恵み深い存在です。
 人々に文字、カレンダー学、薬学のほか、トウモロコシカカオの栽培方法を伝授しました。 

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 ジョン・テーラー大管長は、こう述べています。

 「メキシコの神〔ケツァルコアトル〕の生涯の物語は、救い主の生涯の物語によく似ています。
 とてもよく似ていて、本当に私たちはケツァルコアトルとキリストは同じ存在であるという結論以外にたっすることができません。
 しかし、前者〔ケツァルコアトル〕の話は、不道徳なレーマン人たちの情報源を通して私たちに伝えられました。 
 そして、それは残念ながら、救い主の生涯と働きの元の出来事と教えが損なって歪められました。」(Mediation and Atonement Salt Lake City:Deseret News 1882 p.201) 

 ケツァルコアトルは「青い目」をしていたとも伝えられています。
 セムの子孫のイエス・キリストの目が青かった可能性があります。
 イスラエル人は、カナン人の黒人以外の異民族と結婚をしているので、遺伝子的にはいろいろな染色体が入り込んでいると考えられます。

 ケツァルコアトルは、空を飛べる翼(能力)を持った神です。
 イエス・キリストはアメリカ大陸を訪れた時、空よりやって来て地上に降り立ちました。 (3ニフ 11:8

 メキシコ伝承のケツァルコアトルも「地球に大変動のあった闇黒時代に、謎に満ちた顎髭の偉大な人が外来者として来た」とあり、『モルモン書』には当時の記録があります。



  モルモン書の未確認動物
 
 オルメカ文明を築いたヤレド人たちの記録に、このキリストの磔刑時の大災害で滅んでしまった動物のことが記されています。
 
  エテル書 第9章

 血統により、また陰謀と殺人により、王位が次々に移る。
 イーマー、義の御子にまみえる。多くの預言者が悔い改めを叫ぶ。
 飢饉と毒蛇が民を苦しめる。

 さて、わたしモロナイは記録を続ける。
 さて見よ、エーキシと彼の仲間たちは、彼らの秘密結社でオメルの王国を倒した。
 それでも主は、オメルとオメルを殺そうとしなかった彼の息子たちと娘たちに憐れみをかけられた。
 そして主は、その地を去るように夢の中でオメルに警告された。
 そこでオメルは、家族を連れてその地を去り、幾日もの間旅をして、シムの丘のそばを通り、ニーファイ人が滅ぼされた地方の近くを通り、そこから東の方に向かって、海岸に近いアブロムとよばれる地方に着いた。
 そして彼はそこに天幕を張り、またヤレドと彼の家族を除く、オメルの息子たちと娘たち、およびオメルの家のすべての者が皆、そこに天幕を張った。
 さて、ヤレドは、悪の手によって油を注がれて、民を治める王になり、娘をエーキシに妻として与えた。
 さて、エーキシは義父の命を取ろうとして、昔の人々の誓いの言葉で誓っていた仲間に頼んだ。
 そして彼らはエーキシの義父の首をはねた。
 それは、彼が王座に着いて、民の訴えを聞いていた最中のことであった。
 この邪悪な秘密結社は、その広がりが非常に大きく、すでにすべての民の心を腐敗させていた。そのために、ヤレドは王座に着いていて殺され、エーキシが彼に代わって統治したのであった。
 さて、エーキシは息子をねたむようになり、息子を牢に閉じ込めてほとんど食物を与えず、とうとう飢え死にさせてしまった。
 すると、死んだ息子の兄弟(その名をニムラという)が、自分の兄弟に対して行った父の仕打ちのことで父を怒った。
 そしてニムラは、少数の人々を集めてその地から逃げ出し、オメルのもとに行ってともに住んだ。
 さて、エーキシはほかにも息子たちをもうけた。
 しかし、その息子たちは、父から求められるままにあらゆる悪事を行うと父に誓っていたにもかかわらず、民の信用を得た。
 エーキシが権力を得たいと望んでいたように、エーキシの民も利得を得ることを望んでいたので、エーキシの息子たちは彼らに金銭を与えて、民の大半を引き寄せて自分たちに従わせたのである。
 そこで、エーキシの息子たちとエーキシの間で戦争が始まり、その戦争は何年間も続いた。
 そして、王国の民はほとんど皆滅びてしまった。
 まことに、三十人の者と、オメルの家族と一緒に逃げた者たちを除く全員が死んでしまった。
 そこで、オメルは再び自分の受け継ぎの地へ戻った。
 さて、オメルは年を取ったが、それでも老年に及んでイーマーをもうけた。そして、オメルはイーマーに油を注ぎ、彼を自分に代わって統治する王とした。
 オメルは、油を注いでイーマーを王とした後、二年間、国の平和な有様を見てから死んだ。
 彼の一生は非常に長かったが、悲しみに満ちたものであった。
 その後、イーマーが父に代わって統治し、父の足跡を歩んだ。
 主は再び地からのろいを取り去られ、イーマーの家はイーマーの統治の間に非常に栄えた。
 そして、六十二年の間に彼らは大きな力をつけ、非常に豊かになった。
 彼らはあらゆる果物や穀物、絹布や織り目の細かい亜麻布、また金や銀や貴重な品々を持つようになり、またあらゆる家畜、雄牛、雌牛、羊、豚、やぎ、そのほか人の食用となる多くの動物も持つようになった。
 彼らは馬とろばも持ち、また象とクレーロムとクモムもいた。
 これらはすべて人のために役立ったが、とくに象とクレーロムとクモムは役に立った。

 このように、主はほかのあらゆる地に勝ったえり抜きのこの地に祝福を注がれた。
 そして主は、この地を所有する者はだれであろうと、主のためにここに住まなければならず、さもなければ、民の罪悪が熟したときに民は滅ぼされると命じられた。
 なぜならば主は、「わたしはそのような者にわたしの限りない怒りを注ぐ」と言われるからである。
 イーマーは生涯義をもって裁きを行い、また多くの息子たちと娘たちをもうけた。
 また、彼はコリアンタムをもうけ、彼に油を注いで自分に代わって統治させた。
 彼は自分に代わって統治するようにコリアンタムに油を注いだ後、四年間生き長らえ、国の平和な有様を見た。また、彼は義の御子にさえまみえ、主の日を喜んで誇りに思い、そして安らかに死んだ。
 さて、コリアンタムは父の足跡に従って歩んだ。そして、多くの大きな町を築き、生涯民に良いものを与えた。しかし、高齢になるまで彼には子供がいなかった。
 そして、彼の妻が百二歳で死んだので、コリアンタムは老年に及んで若いおとめをめとり、息子たちと娘たちをもうけた。
 彼は百四十二歳まで生き長らえた。
 そして、彼はコムをもうけ、コムが彼に代わって統治した。コムは四十九年間統治した。
 また、彼はヘテをもうけ、ほかにも息子たちと娘たちをもうけた。
 民はすでに再び地の全面に広がっており、地の面でひどい大きな悪事が行われ始めた。
 そして、ヘテは自分の父を殺そうとして、昔の秘密のはかりごとをまた受け入れるようになった。
 そして、彼は自分の剣で父を殺して王位から退け、自分が代わって統治した。
 すると、またこの地に預言者たちがやって来て、民に悔い改めを叫び、民は主の道を備えなければならない、さもなければ地の面にのろいが下る、すなわち、悔い改めなければひどい飢饉があって滅ぼされる、と告げた。
 しかし民は預言者たちの言葉を信じることなく、彼らを追い出した。
 また、民はある預言者たちを穴の中に投げ込み、そのまま放置しておいて死なせた。
 そして、民はこれらのことをすべて、ヘテ王の命令によって行ったのであった。
 さて、地にひどい飢饉が起こり、その飢饉のためにその地に住む者たちが次から次へと死んでいった。地の面に雨が少しも降らなかったからである。
 また、地の面に毒蛇も現れ、多くの人がその毒で死んだ。
 そして、彼らの家畜の群れは毒蛇に追われて、ニーファイ人がゼラヘムラと呼んだ南方の地へ向かって逃げ始めた。
 そして、途中でその多くが死んだ。それでも、ある群れは南方の地へ逃げ込んだ。
 そこで主は蛇にそれ以上家畜の群れを追うのをやめさせ、人々が通り抜けられないようにその道をふさがせて、通り抜けようとする者が毒蛇のために倒れるようにされた。
 そして、民は家畜の逃げた道をたどり、途中で倒れた家畜の死体をむさぼり食い、一つも残さずに食い尽くした。
 そして民は今や自分たちの滅びるのが避けられないことを知ると、罪悪を悔い改めて主に叫び求め始めた。
 そして、彼らが主の前に十分にへりくだったので、主は地の面に雨を降らせられた。
 そこで民は再び力を取り戻し、また北の地方と周りのあらゆる地方で、実がとれ始めた。
 このようにして、主は民を飢饉から守ることによって彼らに御自分の力を示された。

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 もしジョセフ・スミスが、古代の記録を翻訳したのではなく、自分の力でモルモン書を創作したとすれば、モルモン書の時代のアメリカ大陸に馬がいたという記述を入れるのは、まったくばかげていたはずです。
 1830年当時、ほとんどの歴史家や学者は、コロンブスの上陸以前のアメリカ大陸に馬は存在しなかったと主張していたからです。
 しかし、モルモン書が出版されたのち、考古学上の発見により、コロンブス以前のアメリカ大陸に馬がいたことが明らかになりました。

 コロンブス以前のアメリカに馬がいなかったというのは、真実ではありません。

 フランシス・ドレークは、1579年にオレゴン州の海岸に訪れ「野生の馬の一団を見ました」 (Reynolds and Sjodahl, Commentary on the Book of Mormon Vol.6 p.236)

 ラスベガスの東にあるGypsum Cave(ギプスケーブ)には、人、マンモス、マストドン、ラクダ、そして馬などの絶滅した動物がアメリカで人と関係していた23の場所があります。(M. R. Harrington, Gypsum Cave, Nevada, Southwest Museum Papers, No.8,37)

 南カリフォルニアのランチョ・ラブレアのアスファルト層から、モルモン書の時代以前の物と推定される馬の化石が多数見つかっています。
 この発見で、コロンブスの上陸以前に馬が存在していたことは証明されました。

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 そして、モルモン書の記された時代のメキシコのマヤ文明の遺跡、チチェン・イッツァには馬と思われる動物に乗っている人が刻まれています。 (画像 The Book of Mormon Evidences Joseph Smith A Prophet p.16)
 
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 1928年、アイダホ州ヘイガーマンの近くで見つかったヘイガーマン化石層群の馬の化石(Hagerman horse)は、斉一説での約350万年前とされ実際にはこんなに古くない地層から出土しました。 (参照

 地質学・古生物学者のウェイド・ミラー博士は、アメリカ全域の遺跡で見つかったいくつかの馬の標本に炭素14法の年代測定を実施しました。
 結果は、紀元前6000年から紀元後の1400年でのさまざまな日付を算出できました。 (Wade E. Miller, Science and the Book of Mormon: Cureloms, Cumoms, Horses & More 〔Laguna Niguel, CA: KCT & Associates, 2010〕 p.82)


 紀元前15世紀に広く知られていた象は、紀元前15世紀から紀元前5世紀の間にメソポタミア、ペルシャ、中国、ジャワなどのアジアゾウの亜種が存在しましたが、広範囲において絶滅しました。
 クレーロムとクモムも絶滅したのかもしれません。
 
 『モルモン書』を読むと、アメリカ大陸にもかつて象がいたが絶滅したと分かります。 

 マルコ・ポーロコロンビアの民について、次のように語っています。
 「彼らは鉄、アッカラム、アンダニカムを豊富に持っている。
 そして、ここではよく磨かれた鋼で、大きく美しい鏡を作っている。」
 
 ここでとくに注目すべきことは、中央アジアにおける鋼細工の進んだ技術ではなく、アッカラムとアンダニカムが何であるか誰にも分かりません。
 ヨーロッパには存在しない物であったため、それを指す言葉がなく、マルコ・ポーロは現地の名でよんだのです。
 
 エテル書 第9章19節のクレーロムとクモムについても同様で、これらの動物はニーファイ人には知られていなかったためにモロナイは、その名前を訳さずにそのまま残しました。
 あるいは、ニーファイ人には知られていたが、ジョセフ・スミスや当時のアメリカ人には分からない動物であったため、それらを指す言葉が見当たらなかったのかもしれません。

 
 それらは「人の食用となる多くの動物」とだけ述べられています。

 クレーロムとクモムのどちらかは、アメリカバクかもしれません。
 
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 そして、クレーロムとクモムのどちらかは、「トクソドン」かもしれません。

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 発掘現場において発掘物が廃棄されているという話は、そこかしこで耳にします。
 たとえば、インカ遺跡の発掘現場で豚の土偶が発掘されたとき、監督者である大学教授がそれを即座に廃棄したという話があります。
 豚はスペイン人が持ち込んだとされているので、その土偶がスペイン人侵略以前の遺跡から出土されるはずがないからです。
 「こんな土偶は論文に書いても何の足しにもならない。
 こんな土偶を発見したら私の経歴に傷が付く」とその教授は言ったといいます。

 紀元前の古代アメリカには、象もいました。
 
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              スパイ峡谷、アリゾナの象の絵 

 1929年、エクアドルでマストドンの骨格が発見されました。

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           ミシガン州のマウンド(塚状の土木構築物)からの象
 
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             ミシガン州の遺物

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 1872年、ペンシルベニア州でマストドンと戦うインディアンが描かれた石が発見されました。

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 1922年、マサチューセッツ州で見つかった象とインディアンの一場面が描かれます。
 
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 アイオワ州には、象の彫り物があります。
 
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 メキシコ、マヤ遺跡でも象が描かれています。

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                コパン遺跡

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              グアテマラのマヤのカップの象

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 オルメカ文明の遺跡にも象があります。

 3 古代アメリカからの日本の先住民 2/4