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  ツヌガアラシト

 日本に来たのは、天之日矛だけではありません。
 天之日矛が新羅から日本に渡来してきた理由として、『古事記』は天之日矛の横暴に怒った妻の「阿加流比売神(アカルヒメノカミ)」が故郷である日本に帰ってしまったことが記されています。
 実家に帰った妻を追って天之日矛は日本に渡来したというわけです。 
 この説話と同じ説話が『日本書紀』では第11代垂仁天皇の時代に渡来したとされる「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」のこととして記されています。
 『日本書紀』によると都怒我阿羅斯等は「額に角がある人が船に乗って越前国笥飯浦に着いた」とあります。
 ちなみに、若狭湾の敦賀(つるが)の地名は、ツヌガアラシトの名にちなむと伝えられており、駅前には銅像が立っています。

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 そして、伽耶から日本に来た都怒我阿羅斯等は、滞在3年目で朝鮮半島へ帰還します。
 そして、その都怒我阿羅斯等の帰国の1年後、今度は新羅(秦氏の国)の秦氏である「天之日矛」が渡来します。
 『日本書紀』には、ツヌガアラシト、天之日矛は、第11代垂仁天皇のときに渡来したと記されていますが、『古事記』には天之日矛が第15代応神天皇の項に記されています。
 垂仁天皇と応神天皇が同一人物であることを踏まえると、ツヌガアラシトは天之日矛と同じ秦氏あったことが分かります。
 新羅からやって来た「天之日矛」と伽耶からやって来た「ツヌガアラシト」。
 伽耶から日本に来たツヌガアラシト=秦氏は、滞在3年目で朝鮮半島へ帰還します。
 そして、ツヌガアラシト(秦氏)の帰国の1年後、新羅(秦氏の国)の天之日矛(秦氏)が渡来して来たのです。

 
 つまり、神武(応神)天皇の先発隊とともに日本に来た秦氏(秦の流民の末裔)が、以前から朝鮮半島と交流のあった九州北部の物部氏(秦からの徐福集団の末裔)と緊密な連絡を取り西日本に伝道しました。
 秦の流民の末裔の秦氏は、秦から渡来した徐福集団の末裔と秦の国の言葉や風習が同じなので、伝道しやすいため先発隊として渡来したと思われます。
 そして、神武(応神)天皇たちは、九州に連合国家を築いたのち、邪馬台国と併合するために新羅(秦氏の国)の天之日矛(秦氏)が渡来したのです。

 『日本書紀』には、天之日矛の渡来前の話として、本文に任那人「蘇那曷叱智(そなかしち)」の説話、2つの異伝に「都怒我阿羅斯等」の説話を載せていて、2人は同一人物であると書かれています。
 第14代仲哀天皇の名は、『日本書紀』では「足仲彦天皇」と書き「タラシ・ナカツ・ヒコ」と読むように教えられています。
 一方、『古事記』で仲哀天皇の皇后である神功皇后の名は「息長帯比売命」で「オキナガ・タラシ・ヒメ」と読まれています。
 そして、「足仲」を「ソクナカ」と読めば「息長」もまた「ソクナカ」と読めます。
 また、「足」「息」は「ソ」に対する当て字である可能性もあり、沖縄語の場合は「ス」に対する当て字となります。
 だとすれば、「足仲」「息長」は「ソナカ」「スナカ」ということになるので、ツヌガアラシトの別名が「蘇那曷叱智(そなかしち)」なのです。
 
 ニーファイ人の言葉を残している沖縄語で「ツヌ」は「角」 「アラシト」は「有る人」の訛りであり、ツヌガアラシトは「角が有る人」という意味でしょう。
 
 ツヌガアラシトは「都怒我阿羅斯等」と当て字されていますが、沖縄語では「ツ」を「チ」と発音することが多く、古語では「我」は清音で「カ」と発音されていました。
 「都怒我」は沖縄語で「チヌカ」であり、耳で聞くと「チンカ」と聞こえ、沖縄語では「チンカ」は「天下」になります。
 また、「日」は「カ」の発音も持っており、「都怒我」「天日」ともに「チヌカ」と読めます。
 「矛(ホコ)」は、「シト(ヒト)」の変化かもしれません。

 また、仲哀天皇は『古事記』では「帯中日子(タラシヒコ)」と記され、神功皇后は『日本書紀』では「気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)」と記されています。
 「帯中」を「タイナカ」と読めば、鹿児島語で「ティナカ」と発音し、沖縄語では「チンカ」と発音します。
 また、沖縄では「気」を「チ」と発音するので、 「気長」は「チナカ」となり、「都怒我(チヌカ)」「天日(チンカ)」の当て字だったことが分かります。
 したがって「ツヌガアラシト」と「天日矛」が同じ秦氏を表しているのです。

 伽耶(任那)からツヌガアラシト(秦氏)が日本に来ました。
 秦氏である天之日矛は秦氏の足跡と同じく、九州北部から瀬戸内海、大阪、琵琶湖周辺、そして若狭湾を通って丹波、但馬、出雲へと足跡を残していて、これらの地域には天之日矛や妻の阿加流比売神をまつる神社が数多く残っています。
 その中のでも、敦賀の「氣比(けひ)神宮」は天之日矛をツヌガアラシトとしてまつっていますが、そこにもう1人「伊奢沙別命(イザサワケノミコト)」という名前の神をまつっています。
 主祭神である伊奢沙別命の名義は不詳ですが、「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津神(ミケツカミ)」と称されています。

 イエス・キリストは、永遠の命を与える食物の神でもあります。 (参照

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 神道での自分自身の身を川や海の水で洗い清める儀式の「禊(みそぎ)」とは、「みそそぎ(身滌・身濯)」の約と考えられます。
 「そそぎ」は汚れを水で洗い落とす、清めるという意味の「すすぐ(そそぐ)」の連用形が名詞化した語です。
 そして、神道用語の「禊(ミソギ)」は、分別、聖別の意味のヘブル語の「ミソグ」からの言葉のように思えます。

 禊は本来は「示(神)」+「契」で、神との聖約儀式であるバプテスマのことも表しています。

 「禊(ミソギ)」の字の「示」(しめすへん)は、動物の犠牲を屠る祭壇を表す象形文字からです。

 そして、「T」は十字架、上の「-」は罪状板で、「示の八」はヤハウェの「八」です。

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 「八」は「ヤ」と読み「ヤ」は、「ヤハウェ」の短縮形です。
 さらに、「八」は「ヤ」「ヤー」とも読みます。
 「八」の漢字はカタカナの「ハ」のもとになりましたが、カタカナの「ハ」の文字は、ヘブル語の「 ה (ヘー)」の文字からです。
 とくに、筆記体の形にそっくりです。 
 イスラエルへ行って、カタカナの「ハ」を書けば、そのままヘブル語の「 ה (ヘー)」として立派に通用します。
 「 ה (ヘー)」の文字の用法の1つに神の略称があります。
 ヤハウェはヘブル語で「 יהוה 」ヨッド・ヘー・ヴァヴ・ヘー、YHWH(ラテン文字転訳)となりますが、この内の「ヨッド」だけでヤハウェの略称になるように「ヘー」でもヤハウェの略称として使われるのです。

 ユダヤ密教(カバラ)において、秘数術(ゲマトリア)があります。
 ゲマトリアにおいて、8は何でしょうか。
 基本は、神会の3です。
 ゲマトリアで3を秘数とする場合、1つの方法に乗数があります。
 同じ数字を3回かけるのです。
 そこで、絶対三神、すなわち御父と御子と聖霊の順位をそれぞれ1、2、3とし、これを3乗します。
 すると、1、8、27の数字が現れます。
 1は天父、8はイエス・キリスト、27は聖霊の秘数となります。

 8は御子イエス・キリストの数字です。

 
 彼らはそこで、イエスを十字架につけた。
 イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた。
 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。
 それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。
 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。
 それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。
 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」。
 ピラトは答えた、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」。 (ヨハネ 19:18-22

 罪状板には、ラテン語の「Iesus Nazarenus Rex Iudeorum (ユダヤの王ナザレのイエス)」と書かれていました。

 4つの単語の頭文字のINRIの「 N 」はイエスの出身地であるナザレの単語の頭文字ですが、これを N と書かずに Na と書けば、「 INRI 」は「 INaRI 」となります。

 ヘブル語でも書かれて、ヘブル語表記では、
 「 ישוע הנצרי ומלך היהודים 」
 (Yeshua Haーnotzri Weーmelech Haーyehudeem)となり、「INRI」に対応する文字列は「 יהוה (YHWH)」となります。
 ヘブル語の表記では、4つの単語の頭文字は「YHWH(ヤハウェ)」です。

 稲荷神社の「いなり」とは、「INaRI (イエス・キリスト)」のことです。

 そして、INaRI (イエスス・キリスト)=YHWH(ヤハウェ)で、ヤハウェがイエス・キリストと示されたのです。

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 稲荷神社は、秦氏が造りました。
 全国に約三万社ある稲荷神社の中心の伏見稲荷大社は、奈良時代の紀元711年に秦氏が稲荷山上に神をまつり社殿が造営さました。
 伏見はの地名に関して古くは29代欽明天皇の出来事として『日本書紀』に出てきます。
 要約するとこのような話です。
 紀元6世紀初頭、欽明天皇が幼少のころ、秦大津父(はたのおおつちち)なる人物を大切にすれば天下を取れるだろうという夢を見ました。
 そこで秦大津父を探し伏見地方で発見します。
 秦大津父に何か変わった体験はないかと聞いたところ、商いで伊勢に行った帰り山の中でかみ合って血を流す2匹の狼に出会ったといいます。

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 そこで、秦大津父は口をすすぎ手を洗ってから、このように狼に2匹で争っていと猟師に見つかれば2匹とも命を落とすと狼たちに言いました。
 そこで狼は争いをやめ山に戻って行きました。
 これを聞いた幼少の欽明は大いに喜び、秦大津父を大切にしてお告げどおりに天皇陛下となったといいます。
 直接『日本書紀』にはありませんが、狼と出会った場所が京都府京都市伏見区にある伊奈利山三ヶ峯(稲荷山)の南の京都市伏見区深草大亀谷(おおかめだに)付近との伝承もあります。
 
 この伊奈利山三ヶ峯に関しては、『山城国風土記』の逸文(いつぶん)として、このような話が掲載されています。
 伏見稲荷大社の伝承では、紀元711年、裕福であった賀茂氏の秦伊呂具(はたのいろぐ)が餅を的に矢を射ると、餅が白い鳥となり稲荷山の山頂三ヶ峰まで飛び、そこへ落ちてのちに稲の芽が出ました。
 これを見た秦伊呂具は稲荷大明神をまつり、これが伏見稲荷大社の始まりであるといいます。
 (参照

 研究家によれば、この白鳥とは白い色をした鶴で、伊雑宮へ倭姫命を導いた稲穂を口にした真鶴と同じモチーフであるといいます。
 餅を的にした同様の説話は『豊後国(ぶんごのくに)風土記』にもあります。

 2匹の狼が闘うのに似た表現には、中国の『史記』などにあります。
 闘う動物は虎からネズミまでいて、2つの国が争っているのを示す常套句です。
 2者が激しく争っている様子を2匹のオオカミの争いにたとえ、そんな争いをしていると猟師にたとえられた第三者が利を得てしまうと語りかけているのです。

 イスラエル12部族のうちのベニヤミン族のシンボルは狼です。


 ベニヤミンはかき裂くおおかみ、朝にその獲物を食らい、夕にその分捕物を分けるであろう」。 (創世 49:27
 
 伏見稲荷大社には、2つの社家、秦氏と荷田氏(かだし)がありました。
 荷田氏系は「稲荷」と表記しましたが、秦氏系は稲荷を「伊奈利」の万葉仮名で表記することにこだわりました。
 秦氏の社家が「伊奈利」の万葉仮名にこだわった背景には、もともと「イナリ」が日本語ではなかったことが暗示されているのです。

 「稲荷」の漢字の意味は、「稲・荷」です。
 つまり「米の荷」となり「マナの荷」となります。
 だから稲荷とは「マナを入れた荷」を意味するのです。
 「米」を「八十八」と書きますが、「八」は秘数術(ゲマトリア)でイエス・キリストの数字です。
 ヤハウェは「マナ」を与えます。  

 さらに「米」の「八十八」の実態は、十字(磔刑)を中心とした上下合わせ鏡の区分けです。
 傑刑の対称位置には「八八」があり、八が鏡に写った構造になリ、旧約の神ヤハウェと新約の神イエス・キリストが 同一と示しています。
 また「荷」は、「荷車」「荷物」のように何かを入れる器や箱を暗示し、事実「荷」は草冠が上にありイエス・キリストを表します。
 草冠とは文字どおり草の冠を示します。
 しかも、それは十字架に礫になった際、イエス・キリストがかぶらされた「いばらの冠」を象徴しています

 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 「ユダヤ人の王、ばんざい」と言って敬礼をしはじめた。
 また、葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。
 こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣をはぎとり、元の上着を着せた。
 それから、彼らはイエスを十字架につけるために引き出した。 (マルコ 15:16-20
 
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 しかし、よこしまな人は、いばらのようで、手をもって取ることができないゆえ、みな共に捨てられるであろう。 (サムエル下 23:6) 

 いばらは、正しくなく道にはずれているよこしまな人を表し、捨てられるとされました。

 草冠は「」であり、三叉が一致している三神の神会になっています。
 「艸」はいばらの冠で、「十」を十字架とし「艸」は2つの命の木を表し、旧約の神と新約の神が同じ神であるということです。

 そして、通説では「苦」の字は、古い植物の苦い植物をなめる様子を漢字にした形声文字とされています。
 しかし、「苦」の字は、草冠(いばらの冠)をかぶったイエス・キリストが十字架で苦しんで死に、その犠牲は旧約の救い主のことだという意味にも考えられます。
 十字架刑の苦痛を和らげるために、当時の人々は麻酔薬を受刑者に飲ませました。
 イエスも苦いぶどう酒を飲まされましたが、少し口にしただけで飲みませんでした。


 そして、ゴルゴダ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。 (マタイ 27:33-34

 また、私たちの罪からの苦さを取り除くために、イエス・キリストは苦い杯を飲み贖罪を成しとげられました。
 

 しかし見よ、悪人には恐ろしい死が及ぶ。
 彼らは清くないので、義にかかわることに関して死んだ状態になるからである。
 清くない者は決して神の王国を受け継ぐことができず、彼らは追い出されて、自分の働きの成果、すなわち自分の悪い行いの結果を受けるように定められる。
 そして、苦い杯のかすを飲むのである。」 (アルマ 40:26
 
 見よ、わたしは世の光であり命である。
 わたしは、父がわたしに下さったあの苦い杯から飲み、世の罪を自分に負うことによって父に栄光をささげた。
 わたしは世の罪を負うことによって、初めから、すべてのことについて父の御心に従ってきた。」 (3ニフ 11:11

 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。
 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。
 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、
 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。
 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。
 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。
 そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。
 祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。 (ルカ 22:39-46

 それゆえ、わたしは悔い改めるようにあなたに命じる。
 わたしの口の鞭によって、わたしの憤りによって、またわたしの怒りによって打たれて、つらい苦しみを被ることのないように、悔い改めなさい。
 これらの苦しみがいかにつらいか、あなたは知らない。
 いかに激しいか、あなたは知らない。
 まことに、いかに堪え難いか、あなたは知らない。
 見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。
 しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。
 その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。
 そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。
 しかしながら、父に栄光があるように。
 わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。
 それゆえ、わたしは再びあなたに命じる。
 悔い改めなさい。
 そうしなければ、わたしは全能の力によってあなたをへりくだらせよう。
 また、あなたの罪を告白しなさい。
 そうしなければ、あなたはわたしが語ったこれらの罰を受けて苦しむであろう。
 わたしが御霊を取り去った時に、あなたはその最も小さなもの、まことにその最も軽度なものを味わったことがある。 (教義 19:15-20

 イエス・キリストは、人が心からの悔い改めを条件として罪から赦されるように、人に代わって罪の代価を払うために苦しまれました。
 
 イエス・キリストを信じて、日々悔い改めて、イエス・キリストの教えに従う生活をするときに、イエス・キリストが私たちの力だけでは克服しきれない罪を贖ってくださいます。
 この贖罪は、イエス・キリストが罪の行いに対する罰を引き受け、それによって悔い改める人から罪がもたらす影響を除き、神の赦しを可能にすることです。
 世界の歴史の中で最も重要な出来事である贖罪の完全な意味を言葉で述べることは不可能です。
 イエス・キリストはゲツセマネの園と十字架上で苦しまれたことによって、私たちの罪を贖われました。
 イエスは私たちが心から悔い改めるならば、赦しを受けられるようにするため、ゲツセマネの園と十字架上で私たちの罪のために苦しみを受けられました。
 イエス・キリストが私たちの罪のためにどれほど苦しまれたのか、私たちは完全には理解できません。
 しかし、ゲツセマネの園で私たちの罪の重さのためにイエス・キリストがあらゆる毛穴から血を流すほどの苦しみを感じられたことを、私たちは知っています。
 そののちイエス・キリストは十字架にかけられ、かつて知られていた最も残忍な方法の1つで自発的に苦しみを身に受け亡くなられました。 


  

 
 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。
 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。
 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、
 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。
 しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。
 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。
 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。
 そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。 (ルカ 22:39-44
 
 わたしはアルパでありオメガであり、主なるキリストである。
 すなわち、わたしは初めであり終わりである者、世の贖い主である。
 わたしは、わたしの属する御方、すなわち父の、わたしについての御心をなし終えた。
 わたしは万物をわたし自身に従わせようと、このことを行ってきた。
 わたしは、世の終わりに、最後の大いなる裁きの日に、サタンと彼の業を滅ぼすほどの一切の権威を保持している。
 その日に、わたしはすべての人をそのなした行いと業に応じて裁き、世に住む者に宣告を下すであろう。
 人は皆必ず悔い改めなければならない。
 そうしなければ苦しみを受ける。
 神であるわたしは無窮である。
 それゆえ、わたしは宣告する裁きを取り消さない。
 まことに、わたしの左にいる者たちには、涙を流し、泣きわめき、歯ぎしりをするほどの災いが下るであろう。
 それでも、この苦痛には終わりがないとは記されておらず、無窮の苦痛と記されている。
 また、永遠の罰の定めとも記されている。
 それゆえ、これはほかの聖句よりも明確であって、人の子らの心に十分に訴え、わたしの名の栄光を表す。
 
 わたしはこの奥義をあなたがたに説明しよう。
 わたしの使徒たちのように、これを知るのはあなたがたにふさわしいからである。
 わたしはこのことのために選ばれているあなたがたに、まさに一人に語るように語って、あなたがたがわたしの安息に入れるようにしよう。
 見よ、神性の奥義は何と深いことか。
 見よ、わたしは無窮であり、わたしの手から与えられる罰は無窮の罰である。
 無窮とはわたしの名である。
 それゆえ、永遠の罰とは、神の罰である。
 無窮の罰とは、神の罰である。

 わたしはあなたに命じる。悔い改めなさい。
 また、あなたがわたしの名によってわたしの僕ジョセフ・スミス・ジュニアの手より受けた戒めを守りなさい。
 あなたがそれらを受けたのは、わたしの全能の力による。
 それゆえ、わたしは、悔い改めるようにあなたに命じる。
 わたしの口の鞭によって、わたしの憤りによって、またわたしの怒りによって打たれて、つらい苦しみを被ることのないように、悔い改めなさい。
 これらの苦しみがいかにつらいか、あなたは知らない。
 いかに激しいか、あなたは知らない。
 まことに、いかに堪え難いか、あなたは知らない。
 見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。
 しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。
 その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。
 そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。
 しかしながら、父に栄光があるように。
 わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。 (教義 19:1-19

 そして神の御子は、あらゆる苦痛と苦難と試練を受けられる。
 これは、神の御子は御自分の民の苦痛と病を身に受けられるという御言葉が成就するためである。
 また神の御子は、御自分の民を束縛している死の縄目を解くために、御自身に死を受けられる。
 また神の御子は、肉において御自分の心が憐れみで満たされるように、また御自分の民を彼らの弱さに応じてどのように救うかを肉において知ることができるように、彼らの弱さを御自分に受けられる。
 さて、御霊はすべてのことを御存じである。
 にもかかわらず、神の御子は御自分の民の罪を負い、御自分の解放の力によって彼らの背きを取り消すために、肉において苦しみを受けられる。
 さて見よ、これがわたしの内にある証である。
 さて、わたしはあなたがたに言う。
 あなたがたは悔い改め、再び生まれなければならない。
 再び生まれなければ天の王国を受け継ぐことができない、と御霊が言われるからである。
 したがって、自分の罪から洗い清められ、神の小羊を信じる信仰を持てるように、やって来て、悔い改めのためのバプテスマを受けなさい。
 神の小羊は世の罪を取り除く御方であり、人々を救い、すべての不義から清める力を持つ御方である。 (アルマ 7:11-14

 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られました。
 天使ミカエル(アダム)の導きに助けられながら、ますます強まる信仰をもって祈られたのです。
 イエスが、すべての人の罪を一身に受けどんなに苦しんでも、彼らのために贖罪の業を行わなければなりませんでした。
 全宇宙の何世代にもわたる罪の重荷と苦痛が一度に主にのしかかったのです。
 この筆舌に尽くし難い苦痛は、イエスの偉大な贖いの犠牲と切り離すことのできないものでした。
 その苦しみは毛穴から血がわき出るほどのものだったのです。
 このイエスの苦悶は、その大きさにしても原因にしても、人間の心では計り知れないものです。
 イエスが死を恐れて苦しんでおられたのではなく、イエスはこれまでこの世に生を受けた人が、考えつくこともないような重荷のもとに苦悶し、うめかれました。
 イエスに、あらゆる毛穴から血が吹き出るほどの苦痛を与えたのは、肉体の苦しみでもなければ、心の苦しみでもなく、それは神だけが経験することのできる、身と霊の両方にかかわる霊的な苦悩でした。
 肉体的に精神的にどれほど耐えられる人であっても、イエスのほかにはそのような苦しみに耐えられなかったでしょう。
 その肉体は苦しみに屈してしまい、仮死の状態で無意識と忘却に陥ったことでしょう。


 見よ、この御方は数々の試練に耐え、肉体の苦痛や飢え、渇き、疲労に耐えられるが、それは、人にとっては死ぬ以外に耐えようのないものである。
 見よ、御自分の民の悪事と忌まわしい行いのためにこの御方が受けられる苦しみは非常に激しく、あらゆる毛穴から血が流れ出るほどだからである。 (モーサヤ 3:7

 十二使徒定員会会長のボイド・K・パッカーは、こう説明しています。
 「救い主には、支払うべき負債はまったくありませんでした。
 何一つ間違いを犯されませんでした。
 にもかかわらず、人に知られている罪悪感、嘆きと悲しみ、苦痛、また屈辱のすべて、さらに知的、情緒的、肉体的苦痛のすべてを合わせて、救い主はそのすべてを経験されたのです。」 (「救い主の私心のない神聖な犠牲」 『リアホナ』 2015年4月 p.38)

 スペンサー・W・キンボール大管長は、こう教えています。
 「人は忍耐、辛抱、自制を学ぶとき、苦しみを通じて〔忠実な教会員の〕聖徒となります。
 救い主が味わった苦しみは、その教育の一部でした。」 (「悲劇か運命か」 ブリガム・ヤング大学年度講話 1955年12月6日 p.5)

 七十人のブルース・C・ヘーフェン長老は、こう述べています。
 「イエス・キリストの贖いによって、〔私たちは〕自分の経験によって罪あるとことなく、そこから学べるようにされたのです。」 (“Eve Heard All These Things and Was Glad” Women in the Covenant of Grace ドーン・ホール・フレッチャー、スセット・フレッチャー・グリーン編 p.32)
 
 「主が人々のためにお受けになった苦しみを多少なりとも味あわなければ、キリストの愛である慈愛を心から感じることはできません。
 愛と苦難は表裏一体だからです。
 人の苦難を自分のものとして苦しむとき『その苦難にあずかって』(ピリピ 3:10) キリストと共同の相続人になることができます。」 (『リアホナ』 2004年5月 p.99)

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 「苦」の下部の「口」は、契約の箱を表し、契約の箱の蓋の部分は、旧約時代の贖罪所です。
 契約の箱の上に十字架が立っています。
 苦しみ贖罪をなされ、十字架で死なれたイエス・キリスト。
 「苦」との字は、イエス・キリストがヤハウェであると表現しているのです。

 狐が油揚げが好物とされたのは、インドのダーキニーを奉ずる修行者は栄養食として珍重したネズミの揚げ物を供え物にしていたため、ダーキニーはのちに殺生を禁じる仏教に採り入れられ稲荷信仰と習合した際に油揚げで代用したのが由来とされています。

 この「油揚げ」は「あぶらげ」とも呼ばれ「あ」がないので「贖い(あがない)」を表してもいます。
 また、稲荷の「荷」は「に」と読むはずですが「り」と読んでいて「に」が「り」になっていて「にがり」を表すことになります。
 にがりは海水から塩を作る際にできる余剰なミネラル分を多く含む苦い液体です。
 油揚げは豆腐を薄く切って油で揚げ、豆腐を固まらせるに「にがり」を用います。

 は、塩化ナトリウムを主な成分とし、海水の乾燥、岩塩の採掘によって生産される物質です。
 
 
 あなたがたは、地の塩である。
 もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。
 もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 (マタイ 5:13
 
 人々がわたしの永遠の福音に召され、永遠の聖約を交わすとき、彼らは地の塩、また人の味とみなされます。
 
 
 彼らは人の味となるように召される。
 それゆえ、もし地の塩がその塩気を失ったら、見よ、もはや何の役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである。 (教義 101:39-40

 イエス・キリストは、御自分を代表する人々を称して「人の味」と言われました。
 悔い改めバプテスマの水に入り、清められて、主の名と大義を身に受けた人々をそのようによばれたのです。
 また、神との聖約に基づいて神権を行使する人々を指して、そう言われました。
 旧約の犠牲儀式においては、塩は、神との聖約のしるしでした。 
 
 
 イスラエルの人々が、主にささげる聖なる供え物はみな、あなたとあなたのむすこ娘とに与えて、永久に受ける分とする。
 これは主の前にあって、あなたとあなたの子孫とに対し、永遠に変らぬ塩の契約である」。 (民数 18:19
 
 聖徒は、それと同じ意味においてキリストの教えに一致した生活を示すしるしとなる必要があります。
 塩は、生命の維持に欠くことのできない物です。
 塩は、物が腐るのを防ぐ作用があります。
 塩に不純物が混ざった場合にのみ、塩気を失ってしまいます。
 信仰もそうです。
 真理ではないものを信じていたら、塩気がなくなります。
 主がおっしゃるように、もし塩に塩気がなければどうでしょうか。
 料理に使ったけれども、さっぱり塩味がしない。
 あるいは、保存のために食物に塩を使ったのに、腐ってしまった。
 もはやそれは塩ではありません。
 捨てるしかないでしょう。
 一度は信じて福音を受け入れながら、罪や怠惰のゆえに信仰を失った人についても、同じことがいえます。
 悔い改めが必要であり、喜びへの唯一の方法です。

 塩(信仰)を行使するときに、にがり(苦い経験)があるのです。

 油揚げは、豆腐を油で揚げて作ります。
 白い豆腐の白はがない清い状態を表していて、メシヤは「油​注がれた​者」の​意​の​アラム語​と​ヘブル語​の​一​形態で、『新約​聖書』で​イエス​は​キリスト​と​よばれて​いますが、これ​は​メシヤ​に​相当​する​ギリシャ語​です。
 その​意味​は​油​注がれた​預言者、祭司、王、救い主​で、イエス​は​人類​の​救い​に​関する​すべて​の​事柄​に​ついて、御父​の​代理​を​務める​者​として、御父​から​油​を​注がれた​御方​で​す。


 


 「御食津神(ミケツカミ)」とも称される「伊奢沙別命(イザサワケノミコト)」は『古事記』に登場する神で、幼少のころ応神天皇が禊をするために敦賀を訪れた際、お供をしていた武内宿弥(タケウチノスクネ)の夢枕に立ち、皇太子(のちの応神天皇)と名前を交換したいと申し出ました。
 神の託宣ということで、その言葉に従い応神天皇はイザサワケ命と名前を交換したといいます。

 バプテスマを受けるときに、イエス・キリストの御名を受けることを聖約します。
 生活の中で主を第一にすること、主がされるように考え行動するように努めること、そして、いつでも、どのようなことについても、どのような所にいても、神の証人になることによって、この聖約を守ります。


 さて、多くの日の後、アルマの言葉を聞くためにモルモンの地に集まった人々は、相当な数に上った。
 まことに、彼の言葉を信じた人々は皆、彼の語ることを聞くために集まった。
 そこで彼は、これらの人々を教え、悔い改めと贖いと主を信じる信仰とを説いた。
 そして、アルマは言った。
 「見よ、ここにモルモンの泉がある。(この泉はこのように呼ばれていた。)あなたがたは神の羊の群れに入って、神の民と呼ばれたいと願っており、重荷が軽くなるように、互いに重荷を負い合うことを望み、
 また、悲しむ者とともに悲しみ、慰めの要る者を慰めることを望み、また神に贖われ、第一の復活にあずかる人々とともに数えられて永遠の命を得られるように、いつでも、どのようなことについても、どのような所にいても、死に至るまでも神の証人になることを望んでいる。
 
 まことに、わたしはあなたがたに言う。
 あなたがたが心からこれを望んでいるのであれば、主からますます豊かに御霊を注いでいただけるように、主に仕えて主の戒めを守るという聖約を主と交わした証拠として、主の御名によってバプテスマを受けるのに何の差し支えがあろうか。」
 人々はこの言葉を聞くと手をたたいて喜び、「それこそわたしたちが心から望んでいることです」と叫んだ。
 さて、アルマは、最初この地にやって来た人々の一人であるヘラムを連れて水の中に立ち、祈り願って言った。「おお、主よ、あなたの僕が聖い心でこの務めを果たせるように、僕にあなたの御霊を注いでください。」
 そして彼がこの言葉を語ったとき、主の御霊が彼のうえにあった。
 そこで彼は言った。
 「ヘラム、わたしは全能の神から権能を授かっているので、あなたの肉体が死ぬまで全能の神に仕えるという聖約を交わした証拠として、あなたにバプテスマを施す。主の御霊があなたに注がれるように。また全能の神が、世の初めから備えてくださっているキリストの贖いによって、あなたに永遠の命を授けられるように。」
 アルマがこれらの言葉を語り終えると、アルマとヘラムはともに水の中に沈んだ。
 それから二人は立ち上がると、御霊に満たされて、喜びながら水から出て来た。
 さらに、アルマはまた別の一人を連れて、もう一度水の中に入って行くと、最初のときと同じようにバプテスマを施したが、今度は自分自身は水の中に沈まなかった。
 このようにして、彼はモルモンの地にやって来たすべての人にバプテスマを施した。
 その数は二百四人ほどであった。
 そして、これらの人々はモルモンの泉でバプテスマを受けると、神の恵みに満たされた。
 そしてそれ以後、彼らは神の教会、すなわちキリストの教会と呼ばれた。
 また、神の力と権能によってバプテスマを受けた人々はだれでも、神の教会に加えられた。 (モーサヤ 18:7-17
 
 「第一の復活」とは、何でしょうか。
 

 またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。
 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、
 そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。
 その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。
 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。
 そして、彼らにさばきの権が与えられていた。
 また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。
 彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)
 これが第一の復活である。 
 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。
 この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。
 彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。 (黙示 20:1-6

 ジョセフ・フィールディング・スミスは、正しい者の復活について次のように書いています。
 
 「近代に教会に与えられた啓示で、主はこの栄光に満ちた出来事についてさらに詳しく知らされた。
 このときに復活の特権に浴する人々には、少なくとも2種類の人々がある。
 まず1つ目は、『とこしえにいつまでも神とそのキリストの前に住む』人々である。
 そして2つ目に、日の栄えの王国の人々だけでなく、月の栄えの王国に属する高潔な人々である。
 キリストが来られるときに、『墓の中で眠っていた者たちは、彼らの墓が開かれるので出て来る。そして、彼らもまた、天の柱のただ中で主に会うために引き上げられる。彼らはキリストのもの、初穂、キリストとともに最初に降る者、地上や墓の中にいてキリストに会うために最初に引き上げられる者である。これはすべて、神の天使が吹き鳴らすラッパの音による。』 (教義 88:96-102参照)
 
 これらの者は、『神とキリストが万民の審判者として住まわれる、天にその名が記されている』正しい人である。
 『これらは、自らの血を流すことによってこの完全な贖罪を成し遂げられた、新しい聖約の仲保者イエスを通じて完全な者とされた正しい人々である。』

 この大きな出来事に続き、主と主に会うために取り上げられた義人が地上に降って来たのち、もう1つの復活が起こる。
 これは少し遅れて起こるが、第一の復活の一部と考えることができる。
 この復活で、主に会うために取り上げられる資格はないが、よみがえって福千年に住まう資格のある月の栄えの定めに属する者が出てくる。……
 
 第一の復活にあずかる権利を持つ人々で、また別の部類の人々がいる。
 彼らは、完全な福音を受け入れることを拒み、長子の教会の会員ではないが、高潔な生活を送った人々である。
 またこの中には、律法なくして死に、したがって主の戒めを破ったことに対して罰を受けない人々も含まれている。」 (『救いの教義』 2:272-273)


 この第一の復活は福千年に入っても続き、その千年間に地上に生きて死ぬ、日の栄えの王国にふさわしいすべての人も復活にあずかります。


 そのとき、彼らはわたしを待ち望むであろう。見よ、わたしは来る。
 そして彼らは、天の雲の中に、力と大いなる栄光とをまとって、すべての聖なる天使たちとともにいるわたしを見るであろう。
 また、わたしを待ち受けない者は絶たれるであろう。
 しかし、主の腕が下る前に、一人の天使がラッパを吹き鳴らし、眠っていた聖徒たちは雲の中でわたしに会うために出て来る。
 さて、あなたがたは安らかに眠っていたならば、幸いである。
 なぜなら、今わたしを見て、わたしがいることを知っているように、あなたがたはわたしのもとに来て、生きて、あなたがたの贖いは完成されるからである。
 また、聖徒たちは地の四方から出て来るであろう。
 それから、主の腕がもろもろの国民に下る。
 そしてその後、主はこの山の上に足を置く。すると、これは二つに裂ける。
 また、地は揺れ動き、あちらこちらとよろめき、また天も震える。
 また、主は声を発し、地の果てに至るすべての者がそれを聞く。
 そして、地のもろもろの国民は嘆き悲しみ、笑った者たちは自分の愚かさを知るであろう。
 災いがあざ笑った者を覆い、あざける者は焼き尽くされるであろう。
 また、罪悪の機をうかがう者は、切り倒されて火の中に投げ込まれるであろう。
 
 それから、ユダヤ人はわたしを見て、『あなたの両手と両足のこの傷は何ですか』と言うであろう。
 そのとき、彼らはわたしが主であることを知る。
 わたしは、『この傷は、わたしの友の家で負った傷である。わたしは上げられた者である。十字架につけられたイエスである。神の子である』と彼らに言うからである。
 そのとき、彼らは自分たちの犯した罪悪のゆえに涙を流す。
 そのとき、彼らは自分たちの王を迫害したので、嘆き悲しむであろう。
 それから、異教の諸国民が贖われる。
 そして、律法を知らなかった者は第一の復活にあずかる。
 彼らはそれに堪えられるであろう。
 また、サタンは縛られて、人の子らの心の中に決して場所を得られないであろう。 (教義 45:44-55

 ジョセフ・フィールディング・スミス長老は、こう述べています。
 「復活は現在でも継続して行われているという意見を持った人がいる。
 しかし、これは聖典に根拠を置かないまったくの推測である。
 主が、望むままに人を死からよみがえらせる力を持っておられるのは事実である。
 とくに復活していることが必要な使命を与えられた人の場合はそうである。
 たとえばペテロ、ヤコブ、モロナイの場合がそうである。
 私たちは将来起こる第一の復活、すなわち義人の復活は、ある特定の時期に起こると理解している。
 この時というのは救い主が天の雲に乗って現れ、地に戻って来て統治される時である。
 何の啓示も与えられていないのに、預言者ジョセフ・スミス、ハイラム・スミス、ブリガム・ヤング、そのほかの人々が主に呼ばれてよみがえったかどうかを想像してもそれはまったくの推測にすぎない。
 主は、彼らの中の誰かを使いたいと思われれば、よみがえらせる力を持っておられる。
 しかし私たちが将来起こる事柄として関心を寄せている第一の復活は、キリストが降臨する時に始まる。」 (『救いの教義』 2:299-300)


 さて、あなたがたが交わした聖約のために、あなたがたはキリストの子と呼ばれ、キリストの息子および娘と呼ばれる。
 見よ、それは、今日キリストが霊的にあなたがたを子としてもうけられたからである。
 あなたがたは、キリストの御名を信じて心が改まったと言う。
 だから、あなたがたはキリストから生まれ、キリストの息子および娘となったのである。
 そしてあなたがたは、この称号の下で自由を得た。
 このほかにはあなたがたに自由を得させる称号はない。
 救いをもたらす名はほかに与えられていない。
 だから、キリストの御名を受けて、神と聖約を交わしたあなたがたは皆、生涯の最後まで従順であってほしい。
 そして、このとおりにする者はだれでも、自分がどのような名で呼ばれるか分かるので、神の右に見いだされるであろう。
 なぜならば、キリストの御名で呼ばれるからである。
 そして、キリストの御名を受けない者はだれでも、何かほかの名で呼ばれる。
 それゆえ、神の左にいる自分に気づくであろう。
 そして、これこそが、戒めに背かなければ決して消されることのない名で、わたしがあなたがたに与えると言ったその名であることをあなたがたは覚えておいてほしい。
 だから、この名があなたがたの心から消えてなくならないように、あなたがたは戒めに背くことのないよう注意しなさい。
 わたしはあなたがたに言う。
 あなたがたはこの名をいつも心にしっかりと記しておくことを忘れないようにしてほしい。
 そうすればあなたがたは、神の左に見いだされることがなく、自分がどの声で呼ばれ、どの名で呼ばれるかが聞いて分かるであろう。
 なぜならば、仕えたこともなく、見も知らぬ他人で、心の思いと志を異にしている主人を、どのようにして人は知ることができようか。
 人はまた、隣人の持ち物であるろばを連れて来て、これを飼うだろうか。
 そのようなことはしないと、わたしはあなたがたに言おう。
 人は、そのろばが自分の群れの中で草をはむことさえ許さず、それを駆り立てて追い出すであろう。
 わたしはあなたがたに言う。
 もしあなたがたがどの名で呼ばれるのか知らなければ、同じようなことがあなたがたの中で起こるであろう。
 したがって、あなたがたは確固として揺らぐことなく、いつも多くの善い行いをして、全能者である主なる神、キリストから御自分のものとして印を押されるように、また天に招き入れられて、永遠の救いと永遠の命にあずかるようにしてほしい。
 この永遠の救いと永遠の命は、天地の万物を創造された、あらゆるものに勝る神の知恵と力、公正、憐れみによって与えられるものである。アーメン。」 (モーサヤ 5:7-15

 歴代の天皇陛下の中で、応神天皇だけが九州で生まれたことになっています。
 本来の歴史からいえば、応神=神武天皇は朝鮮半島で生まれ、成長して大人になってから日本へ渡来したはずです。
 それなのにあえて九州で生まれたという伝説を創作したのは、母親から生まれたのではなくバプテスマによって新しく生まれたことを意味し、応神天皇はバプテスマを受けたのです。
 そして、バプテスマを受け神の道を従順に歩むなら、生れながらの人を捨て再び生まれます。
 生れながらの人とは、聖霊の促しよりも、激情、情欲、不適切かつ強い願望である欲望肉欲に影響された選択をする人です。
 このような人は、物質的なことは理解できても、霊的なことは理解できません。
 人は皆肉欲に従い、死すべき状態にあります。
 生まれながらの状態から抜け出すには、イエス・キリストの贖罪を通して、再び生まれなければなりません。

 再び生まれるとは、聖霊によって心の中に大きな変化が起こり、二度と悪を行おうとは思わず、それよりも神にかかわる事柄を求めたいと望むようになることです。

  あなたがたは再び生まれなければならない デビッド・A・ベドナー 十二使徒定員会

       christ-teaching-disciples

 したがって、応神天皇は九州でバプテスマを受けたのではなく、九州で真に改宗をし聖霊によって心の中に大きな変化が起こり、二度と悪を行おうとは思わず、それよりも神にかかわる事柄を求めたいと望むようになったのかもしれません。
 もしくは、九州でバプテスマも受け九州で真に改宗をし再び生まれたのかもしれません。
 また、『宇佐神宮社伝』は、三角池で神武(応神)天皇が渡来したときに、秦氏によってバプテスマの儀式を行ったことをも表しているのかもしれません。
 新約の民である秦氏からバプテスマを受けた旧約の民である先住民たちは、神武(応神)天皇の信仰しているイエス・キリストを認め受け入れ、バプテスマを受けたのです。
 
 神武は、神に応じ、応神として新しく生まれたのです。
 
 「応」とは、「求めに応じる」という意味です。
 「応」の字は、「广部(げんぶ)」+「心」で、「广」は广の字は「岩屋」を意味します。
 「岩屋」の墓から復活したイエス・キリストの求めに応じる意味があります。
 「応」の異体字の「應」は、「广+人+隹(とり)」から成り、人が鳥を「心」で受け止めた様を示しています。
 したがって、「鳩」のように降りてきたと表現された聖霊を受け止めたという意味で、「聖霊の賜物」の儀式を受けたことを意味するのです。

  聖霊を受けなさい デビッド・A・ベドナー 十二使徒定員会

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 イエス・キリストの求めに応じて、バプテスマを受け、聖霊の賜物を受けたという名が「応神」なのです。
 

 イエスはバプテスマを受けると、すぐ水の中から上がられた。
 そして、ヨハネが天を見ると、見よ、天が開かれ、聖霊が鳩のようにイエスの上に降って来るのが見えた。
 また天からの声を聞いた。
 「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。彼に聞きなさい。」 (マタイ 3:16-17

 「烏の行水」という言葉は、入浴時間が非常に短いことのたとえとして思われていますが、真相は神道管理組織「八咫烏」の「バプテスマ」を受け、「すぐ水の中から上がられた」ことを表しているのです。

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 さらにツヌガアラシトと天之日矛は、ともに牛にかかわっていることで知られます。
 ツヌガアラシトは、角がある人とも言われ、牛の角とかかわりそうですが、『日本書紀』には、その名前の由来が以下のように記されています。
 ある日、黄牛(あめうし)を見失った王子は、足跡を追って村に入った。
 そこで会った古老が、「牛はすでに村人に食べられたから、村人が弁償すると言っても聞くな。そのときは神の御神体が欲しいと言いなさい」と言った。
 そこで王子は村人にそのように言うと、彼らは王子に御神体の白い石を差し出した。
 すると、やがて白石は可憐で美しい娘となった。
 ところが、白石の化身は東の海に消えたので、それをツヌガアラシトが追って渡来することになった。
 だが、結局その娘は、難波(なにわ)に下り、2つの社にまつられたという。
 
 天之日矛は『日本書紀』に以下のように書かれています。
 天之日矛は新羅の王子だった。
 ある日、村人の男の妻が沼の辺で居眠りをしていたところ、日の輝きによって懐妊し、真っ赤な玉を産むことになった。
 その赤玉を妻の夫が奪い、牛を引いて山中を歩いていたとき、偶然に王子がその男を見つけることになる。
 そして、「おまえは、その牛を殺して食べてしまう気だろう」と男を答めたところ、恐れおののいた男は、王子に赤玉を譲って早々に逃げ去るのである。
 そこで王子は赤玉を床に置くと、やがてそれが麗しい乙女となった。
 ところが、乙女は故郷の難波に帰らねばならないと告げ、さっさと小舟に乗って王子の元を離れ去るのです。
 それを追って渡来したのが、王子が天之日矛です。

 燔祭の儀式は、アダムからの代々の族長が行ってきたささげ物をともなう儀式です。
 具体的な内容はモーセの時代に明らかになっており、これには後世に犠牲になるイエス・キリストの雛形とする意味があります。

 モーセの律法下では、罪の赦しは動物の血を流すことによって得られました。
 古代イスラエルに生け贄の儀式をともなう律法を設けるに当たって、主は次のように言われました。
 
 
 肉の命は血にあるからである。
 あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。 (レビ 17:11

 すなわち、血は命の象徴であって、罪の赦しを受けるためには、キリストの命が必要とされました。

 「この世に来られることになっていたキリストを信じる信仰によって、またキリストの血が流されたことを予表する生け贄とそれにともなう儀式によって、古代イスラエルの人々は自分たちの罪の贖いを行っていた。
 彼らは啓示された儀式制度によって、赦しと贖いがキリストの血が流されることによってもたらされることを忘れないようにしていた。」 ( ブルース・R・マッコンキー 『新約聖書教義注解』 3:184-185) 
 

 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
 それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世救われるためである。 (ヨハネ 3:16-17

 私たちの罪からの苦さを取り除くために、イエス・キリストはすさまじい苦しみに耐え贖罪を成しとげられました。

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 あなたはまたアカシヤ材で祭壇を造らなければならない。
 長さ五キュビト、幅五キュビトの四角で、高さは三キュビトである。
 その四すみの上にその一部としてそれの角を造り、青銅で祭壇をおおわなければならない。
 また灰を取るつぼ、十能、鉢、肉叉、火皿を造り、その器はみな青銅で造らなければならない。
 また祭壇のために青銅の網細工の格子を造り、その四すみで、網の上に青銅の環を四つ取り付けなければならない。
 その網を祭壇の出張りの下に取り付け、これを祭壇の高さの半ばに達するようにしなければならない。
 また祭壇のために、さおを造らなければならない。
 すなわちアカシヤ材で、さおを造り、青銅で、これをおおわなければならない。
 そのさおを環に通し、さおを祭壇の両側にして、これをかつがなければならない。
 祭壇は板で空洞に造り、山で示されたように、これを造らなければならない。 (出エジプト 27:1-8

 幕屋の中で行われた神への供物として動物を祭壇で丸焼きにして供える燔祭は、すべてこの祭壇の上で行われました。
 これは中空の物で、5キュビト(2,25m)の方形で、高さが3キュビト(1,5m)です。
 堅く耐久力に優れているアカシア材で作られていて、青銅の板でおおわれていました。

 また四隅には角があり、この角の上に生け贄の血が塗り付けられました。
 この角につかまることによって、人は個々を逃げ込み場として利用し、身の安全を確保することができました。


 そしてアドニヤはソロモンを恐れ、立って行って祭壇の角をつかんだ。
 ある人がこれをソロモンに告げて言った、「アドニヤはソロモンを恐れ、今彼は祭壇の角をつかんで、『どうぞ、ソロモン王がきょう、つるぎをもってしもべを殺さないとわたしに誓ってくださるように』と言っています」。 (列王上 1:50

 しかし、謀殺の罪がある場合は例外でした。
 

 しかし人がもし、ことさらにその隣人を欺いて殺す時は、その者をわたしの祭壇からでも、捕えて行って殺さなければならない。 (出エジプト 21:14

 角は、動物や犠牲にする予定の物をつないでおくためにも使われました。

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 アダムから旧約時代は、イエス・キリストの贖い犠牲を思い起こすたの神殿でささげる生け贄は牛などの動物であり、牛は旧約の民の象徴でもあります。
 

 主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、
 「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうちだれでも家畜の供え物を主にささげるときは、牛または羊を供え物としてささげなければならない。
 もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。
 会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。
 彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。
 そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。
 彼は主の前でその子牛をほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。
 彼はまたその燔祭の獣の皮をはぎ、節々に切り分かたなければならない。
 祭司アロンの子たちは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを並べ、
 アロンの子なる祭司たちはその切り分けたものを、頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない。
 その内臓と足とは水で洗わなければならない。
 こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭としなければならない。
 これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。 (レビ 1:1-9) 

 ツヌガアラシトの物語の「牛はすでに村人に食べられた」、天之日矛の物語の「おまえは、その牛を殺して食べてしまう気だろう」は、牛=旧約の動物の犠牲儀式の意味を理解するという意味です。
 つまり、贖い主の象徴である牛を食べるとは、贖い主の贖罪を理解することを意味します。

 イエス・キリストが宇宙の全人類の罪を背負って、十字架上で最後の生け贄となったので、原始キリスト教徒は動物の犠牲の儀式を行いません。
 旧約の動物の犠牲の儀式は、イエス・キリストが生け贄となり人々を贖う犠牲を象徴していました。
 動物の犠牲の儀式は、イエス・キリストの贖いを思い起こすための儀式だったからです。

          adam-eve-angel

        3hi9
 
 アダムとその妻エバの名を呼び、エデンの園の方向から彼らに語る主の声を聞いた。
 しかし、主を目にすることはなかった。彼らは主の前から締め出されていたからである。
 主は彼らに、主なる彼らの神を礼拝し、主へのささげ物として群れの初子をささげるようにと戒めを与えた。
 アダムは主の戒めに従順であった。
 多くの日の後、主の天使がアダムに現れて言った。
 『あなたはなぜ主に犠牲をささげるのか。』
 そこで、アダムは彼に答えた。
 『わたしには分かりません。ただ、主がわたしに命じられたのです。』
 すると、天使は語って言った。
 『これは、御父の、恵み真理に満ちている独り子の犠牲のひながたである。
 したがって、あなたが行うすべてのことを御子の御名によって行いなさい。
 また、悔い改めて、いつまでも御子の御名によって神に呼び求めなさい。』 (モーセ 5:4-8

 救いの計画によってこの世に生を受けたすべての人、これから生を受けるすべての人のためにイエス・キリストが払ってくださった大いなる贖いの犠牲を思い起こすために、キリストが地上での務めを果たされる以前は、この目的で動物の犠牲がささげられていました。
 イエス・キリストの贖いの犠牲が払われたのち、イエス・キリストに従う者たちは、キリストの指示に従って、代わりに「打ち砕かれた心と悔いる霊」(3ニフ 9:20)をささげるようになりました。
 つまり、進んで悔い改め、イエス・キリストに従い、その戒め従順に生活するようになったのです。

  打ち砕かれた心と悔いる霊 ブルース・D・ポーター長老 七十人


 東北では、子牛を「ベコ」とよびます。
 ヘブル語の「ベコ(BEKOR)」の言葉は、最初、初子という意味を持っています。
 ヤハウェ(イエス・キリスト)は、天の父の初子です。

 ヤマト王権は紀元5世紀中期から、氏姓(うじかばね)や部(べ)によって成り立つ氏姓制度を作り出していきます。
 物部氏とは、「牛」「勿れ」であり、形容詞「なし」の命令形で、禁止の意を表します。
 秦氏の新約のキリスト教に改宗したユダヤ教徒の徐福の末裔は、牛を犠牲を禁止したので、牛 勿(ウシ ナカレ)で、物部氏の名前となります。


 旧約の民、秦の流民ツヌガアラシトは、牛(旧約)をなくす代わりに、御神体の白石をもらいました。
 白い石とは、神殿の儀式のエンダウメントでもらえる新しい名前が書いてあります。
 神殿で受ける儀式の1つが、エンダウメントです。
 そして、永遠の命を受けるとき、白い石を受けるのです。
 

 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。
 勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。
 また、白い石を与えよう。
 この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。 (黙示 2:17)
 

 当時の裁判制度では、裁判員がそれぞれ黒い石と白い石とを手渡され、有罪のときは黒い石を、無罪のときは白い石を投じました。
 「白い石」は「無罪宣言」を表わします。
 
 パウロは、自分が以前にクリスチャンを迫害していたときのことを述べました。
 
 
 そしてわたしは、それをエルサレムで敢行し、祭司長たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、彼らが殺される時には、それに賛成の意を表しました。 (使徒 26:10

 そして当時、公的な招待制の宴会の招待客に手渡される宴会場への入場許可の印であった白い石も想起させます。
 したがって「白い石」は、罪がなく天国に入れることを表しています。
 白い石とは、神殿の儀式「エンダウメント」でもらえる新しい名前が書いてあります。
 そして、永遠の命を受けるとき、白い石を受けるのです。
 日の栄えの王国に来る各人には白い石が与えられ、その石のトには新しい名前が記されています。
 その白い石は、それを受ける各個人にとって1つのウリムとトンミムになります。
 そして、これによって高位の王国に関することが知らされます。
 その新しい名前は、鍵の言葉です。
 

 神が住んでおられる所は、一つの雄大な「ウリムとトンミム」である。
 この地球は、聖められて不滅の状態になると、水晶のようになり、そこに住む者たちにとって一つの「ウリムとトンミム」になる。
 そして、これによって下位の王国、すなわち低位のすべての王国に関するすべてのことが、そこに住む者たちに明らかにされる。
 また、この地球はキリストのものとなる。
 そのとき、黙示録第二章十七節に述べられている白い石は、それを受ける各個人にとって一つの「ウリムとトンミム」になる。
 そして、これによって高位の王国に関することが知らされる。
 日の栄えの王国に来る各人に一つの白い石が与えられる。
 その石の上には新しい名前が記されており、それを受ける者のほかにはだれもそれを知らない。
 その新しい名前は鍵の言葉である。 (教義 130:8-11
 
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