2 北イスラエル王国と南ユダ王国 1/3~3/3


 バビロン捕囚から南ユダ王国の民を解放したのは、新バビロニアを打倒して覇権を握ったアケメネス朝ペルシャです。
 アケネメス朝ペルシャは、220年にわたって広大な領土を支配しました。 

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 紀元前539年、アケメネス朝ペルシャが新バビロニアを征服。
 アケメネス朝ペルシャの王キュロス2世の命令によって、ユダヤ人たちは解放され、故国に戻る許可を得ました。
 ユダヤの知識人はキュロス2世を大いに称えました。
 キュロス2世は古代エジプトを除くすべての古代オリエント諸国を統一して空前の大帝国を建設しました。
 現代のイラン人は、キュロス2世をイランの建国者と称えています。
 
 ウィルフォード・ウッドラフ大管長は、こう述べています。
 「何度も考えることだが、古代に輩出した王たちの何人かは、ある意味で原則律法を実践することに現代の末日聖徒にも勝る熱意を持っていた。
 その例がキュロス2世である。………
 キュロス2世の誕生から死までをたどれば、知ってか知らずか、彼の動静はすべてのことにおいて霊感によって動いたようである。
 彼はまず寛大との原則に従った。
 これによりあらゆるキリスト教国とキリスト教徒の王を容認し得たのである。……
 彼により多くの原則が確立されたが、私はその中の多くがさまざまな意味でイエス・キリストの福音を持つ者の注目に値すると考えている。」 (Journal of Discourses 22:207)

 
 

 

 

 
 新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられたバビロン捕囚の地から、ペルシャ王キュロス2世の命令によってユダヤ人たちは解放されました。
 最初にエルサレムに帰還した人々は42462人といわれています。
 エルサレムに帰還した人々は、破壊されたソロモン神殿を再建し、新たな国造りを行いました。
 これ以降、南ユダ王国は「ユダヤ」とよばれるようになり、紀元2世紀にローマ帝国によって滅ぼされるまで続きます。
 ユダヤ人とは、南ユダ王国の民であったユダ族ベニヤミン族レビ族のことを指します。

 しかし、バビロン捕囚から解放されてもすべてのユダヤ人がパレスチナ地方へ帰還したのではありません。



  バビロン捕囚から戻らなかったユダヤ人

 大勢のユダヤ人がペルシャ、現在のイラン地方に来た理由があります。
 紀元11世紀ごろ、イスラエル人は現在のパレスチナ地方に古代イスラエル王国を築いていました。
 古代イスラエル王国は、紀元前931年に南北に分裂しました。
 紀元前721年にアッシリアによって北イスラエル王国が滅ぼされたように、紀元前597年、新バビロニア(紀元前625年‐紀元前539年)の王ネブカドネザル2世は、首都エルサレム市街に入城し、南ユダ王国は滅びました。
 南ユダ王国の王エホヤキムとともに住民内の有力な若い者を殺害し、約3000人(エレミヤ書によると3023人)を捕虜として新バビロニアの首都バビロンに拉致しました。
 エホヤキムの息子のエホヤキンが王国を継ぎましたが、ネブカドネザル2世は謀反を恐れ、エホヤキンや王族とエルサレム市内の若者や職人たちのすべてをバビロンに連行させました。
 その数は10832人にたっしたといいます。

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 エホヤキン王の叔父ゼデキヤが王位を継承したが、紀元前586年7月11日、エルサレムは破壊され、南ユダ王国のゼデキヤ王と南ユダ王国の住民はバビロンへと連行されました。 
 このバビロン捕囚で、神殿の宝物も奪われました。
 南ユダ王国のイスラエル人、すなわちのちにユダヤ人とよばれるようになる人々は、約50年にわたって異国のバビロン、現在のバグダードの南約90kmの地点で過ごすことになるのです。
 約50年にもおよぶ捕囚生活で、南ユダ王国のユダヤ人たちは新バビロニア人の宗教の影響を強く受け、偶像礼拝などを行い背教しました。
 
 また、逆に反動で偶像礼拝を徹底的に忌み嫌う人々も現れます。
 北イスラエル王国と同様、南ユダ王国が滅亡したのはヤハウェとの契約に違反したからだとして、特定の原理原則に固執する思想が強くなりました。
 現在のユダヤ教が事実上形成されたのはこのころです。

 バビロン捕囚から開放されたのにもかかわらず、故国へ帰らなかったユダヤ人も多数いました。
 バビロン捕囚の約50年間は、バビロン捕囚された南ユダ王国の民の2世代は経過していて、新バビロニアで生まれたユダヤ人も数多くいました。
 新バビロニアで生まれたユダヤ人は新バビロニアの繁栄の中で過ごしたので、奴隷でもそれなりの暮らしを享受していました。
 奴隷から解放されたからといって、見たことも住んだこともない遠い祖先の地へ戻ろうとは思わない人々も多数いたのです。
 新バビロニアの地はアケメネス朝ペルシャの領域になり、アケメネス朝ペルシャに残ったユダヤ人を「東ユダヤ人」とよびます。

 
 
  菊花紋章の解明

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              アケメネス朝の装飾タイル
 
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        ヘロデ門

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            ヘロデ門の16花弁菊花紋
 
 
 天皇の紋章である菊花紋章は、ユダヤの紋章と同じです。
 古代イスラエル王国では、16花弁菊花紋は基本的に十六方位、すなわち全世界を象徴していると考えていました。
 したがって、古代イスラエルの王が16花弁菊花紋を使用する場合は、全世界に向けてシンボルを掲げているのです。

 エルサレムにある城門の1つヘロデ門の16花弁菊花紋は、紀元前1世紀にユダヤ地区を統治したユダヤ人とエドム人のハーフでユダヤ教徒のヘロデ王が、ほかの民族へアピールするための物です。
 
 南朝の裏紋になっている12花弁菊花紋の12の数字は、イスラエル12部族の数字です。
 イエス・キリストの十二使徒が12人のユダヤ人から成っているように、民族性を象徴した数です。
 12花弁菊花紋はイスラエル12部族に向けてアピールするときに使用された紋章だといえます。

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 イスラエル人は、ソロモン神殿を建てるまで幕屋を使っていました。
 「幕屋」という言葉は文字どおり「住む場所」という意味を持ち、神がその聖なる場所に住んでおられるということを表すものです。
 イスラエルが野営したとき、その野営地の中央部に幕屋が設置されました。
 それは神が民の生活の中心であるという考えを象徴したものです。
 そして、その幕屋を中心にして、周囲にそれぞれの部族のテントが張られました。

 幕屋、神殿の目的は、ふさわしくない人々には隠されてきた儀式をふさわしい人々に明らかにするためです。

 古代イスラエルでは、幕屋の周り取り巻いて12部族がそれぞれ定められた位置に宿営しました。
 12花弁菊花紋の構造は、中心に位置するヤハウェと周りを囲むイスラエル12部族、もしくは中心に位置するイエス・キリストと周りを囲む十二使徒に対応し、神に選ばれた民を象徴しています。

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 幕屋の周囲には、それぞれ「父祖の家の旗じるしのもとに」2部族が三部隊ずつ東西南北の四方にある旗のもとに整然と宿営しました。


 主はモーセとアロンに言われた、
 「イスラエルの人々は、おのおのその部隊の旗のもとに、その父祖の家の旗印にしたがって宿営しなければならない。また会見の幕屋のまわりに、それに向かって宿営しなければならない。
 イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、その旗にしたがって宿営し、おのおのその氏族に従い、その父祖の家に従って進んだ。 (民数 2:1-2,34

 そして、レビ人は宮居の守護者であったため、その天幕は聖所を取り囲むように張られていました。
 
 
 主はまたシナイの荒野でモーセに言われた、
 「あなたはレビの子たちを、その父祖の家により、その氏族によって数えなさい。すなわち、一か月以上の男子を数えなければならない」。
 それでモーセは主の言葉にしたがって、命じられたとおりに、それを数えた。
 レビの子たちの名は次のとおりである。すなわち、ゲルション、コハテ、メラリ。
 ゲルションの子たちの名は、その氏族によれば次のとおりである。すなわち、リブニ、シメイ。
 コハテの子たちは、その氏族によれば、アムラム、イヅハル、ヘブロン、ウジエル。
 メラリの子たちは、その氏族によれば、マヘリ、ムシ。
 これらはその父祖の家によるレビの氏族である。
 ゲルションからリブニびとの氏族と、シメイびとの氏族とが出た。
 これらはゲルションびとの氏族である。
 その数えられた者、すなわち、一か月以上の男子の数は合わせて七千五百人であった。
 ゲルションびとの氏族は幕屋の後方、すなわち、西の方に宿営し、ラエルの子エリアサフが、ゲルションびとの父祖の家のつかさとなるであろう。
 会見の幕屋の、ゲルションの子たちの務は、幕屋、天幕とそのおおい、会見の幕屋の入口のとばり、庭のあげばり、幕屋と祭壇のまわりの庭の入口のとばり、そのひも、およびすべてそれに用いる物を守ることである。
 また、コハテからアムラムびとの氏族、イヅハルびとの氏族、ヘブロンびとの氏族、ウジエルびとの氏族が出た。これらはコハテびとの氏族である。
 一か月以上の男子の数は、合わせて八千六百人であって、聖所の務を守る者たちである。
 コハテの子たちの氏族は、幕屋の南の方に宿営し、ウジエルの子エリザパンが、コハテびとの氏族の父祖の家のつかさとなるであろう。
 彼らの務は、契約の箱、机、燭台、二つの祭壇、聖所の務に用いる器、とばり、およびすべてそれに用いる物を守ることである。
 祭司アロンの子エレアザルが、レビびとのつかさたちの長となり、聖所の務を守るものたちを監督するであろう。
 メラリからマヘリびとの氏族と、ムシびとの氏族とが出た。これらはメラリの氏族である。
 その数えられた者、すなわち、一か月以上の男子の数は、合わせて六千二百人であった。
 アビハイルの子ツリエルが、メラリの氏族の父祖の家のつかさとなるであろう。
 彼らは幕屋の北の方に宿営しなければならない。
 メラリの子たちが、その務として管理すべきものは、幕屋の枠、その横木、その柱、その座、そのすべての器、およびそれに用いるすべての物、ならびに庭のまわりの柱とその座、その釘、およびそのひもである。
 また幕屋の前、その東の方、すなわち、会見の幕屋の東の方に宿営する者は、モーセとアロン、およびアロンの子たちであって、イスラエルの人々の務に代って、聖所の務を守るものである。
 ほかの人で近づく者は殺されるであろう。
 モーセとアロンとが、主の言葉にしたがって数えたレビびとで、その氏族によって数えられた者、一か月以上の男子は、合わせて二万二千人であった。 (民数 3:14-39
 
 12部族で12花弁で、12部族にレビ族の氏族が4つで加えると16花弁です。

 日本の皇室の場合も同様です。
 16花弁菊花紋は旧日本軍の「旭日旗」にもなったように、全方位と全世界へ向けたシンボルです。
 12花弁菊花紋の場合、それは日本に渡来したイスラエル12部族に向けたシンボルです。


 アケメネス朝ペルシャの王キュロス2世はユダヤ人に寛容でした。
 国教はゾロアスター教と定めたものの国内の異邦人に関しては信仰を強要せず東ユダヤ人の宗教を認めました。
 信教の自由を認められた多くのユダヤ人は国際都市であったバビロンの生活に慣れていたこともあり、バビロン捕囚から解放されたのにもかかわらず、そのまま定住する者も少なくありませんでした。
 かねてからイスラエル人は勤勉で律法を重視し規律正しい生活を送っていたゆえに、異邦人の国家にあってもその優秀さが買われ政治の中枢へ上りつめる者が多く、古くは古代エジプトのヨセフ、新バビロニアの預言者ダニエル、アケメネス朝ペルシャにあっては東ユダヤ人のモルデカイです。
 モルデカイのことは、『旧約聖書』のエステル記に詳しく載っています。

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 エステルはモルデカイの叔父の娘で、彼女にとってモルデカイは養父でした。
 エステルはエステル記に登場する主要人物で、偉大な信仰の女性です。

 モルデカイの背景については、確かなことはあまり知られていません。
 ただ、ベニヤミン族の出身で、曾祖父は最初のユダヤ人のバビロン捕囚の際に連れてこられたことが明らかなだけです。
 彼はペルシャの階級組織の中でも高い地位にいて、宮廷に近づくことができたと信じるユダヤ作家もいます。
 モルデカイは神に対して強い信仰を持った熱心なユダヤ人であったことは、聖文の記述から察することができ、また彼は勇気ある真面目で実務型の人物でした。
 彼のおじに1人の娘が生まれ、ヘブル語でギンバイカ(英語ミルトス)という植物を意味するハダッサという名がつけられており、聖書中では星を意味するペルシャ語の名前でエステルと記されています。

 ユダヤ人は、この木が切られたのちも生命力が強く枯れにくいので、神の約束と恵みの象徴(イザヤ 55:13)とし、ギンバイカの芳香のある枝はほかの木々の枝とともに仮庵の祭りの材料(ネヘミヤ 8:15)として、幕屋をこの木の小枝でおおいました。

 結婚の象徴でもあり、花嫁が天蓋(カノピー)の下でブーケとして手にし、またウェディング・リースに編み込んだりしてきました。
 臨終の床にも備えます。 


 主はまたモーセに言われた、
 「イスラエルの人々に言いなさい、『その七月の十五日は仮庵の祭である。七日の間、主の前にそれを守らなければならない。
 初めの日に聖会を開かなければならない。どのような労働もしてはならない。
 また七日の間、主に火祭をささげなければならない。
 八日目には聖会を開き、主に火祭をささげなければならない。
 これは聖会の日であるから、どのような労働もしてはならない。
 これらは主の定めの祭であって、あなたがたがふれ示して聖会とし、主に火祭すなわち、燔祭、素祭、犠牲および灌祭を、そのささぐべき日にささげなければならない。
 このほかに主の安息日があり、またほかに、あなたがたのささげ物があり、またほかに、あなたがたのもろもろの誓願の供え物があり、またそのほかに、あなたがたのもろもろの自発の供え物がある。
 これらは皆あなたがたが主にささげるものである。
 あなたがたが、地の産物を集め終ったときは、七月の十五日から七日のあいだ、主の祭を守らなければならない。
 すなわち、初めの日にも安息をし、八日目にも安息をしなければならない。
 初めの日に、美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、七日の間あなたがたの神、主の前に楽しまなければならない。
 あなたがたは年に七日の間、主にこの祭を守らなければならない。
 これはあなたがたの代々ながく守るべき定めであって、七月にこれを守らなければならない。
 あなたがたは七日の間、仮庵に住み、イスラエルで生れた者はみな仮庵に住まなければならない。
 これはわたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの代々の子孫に知らせるためである。わたしはあなたがたの神、主である』」。 (レビ 23:33‐43

 仮庵の祭り(庵とは小屋のこと、仮小屋の祭り)は、幕屋の祭り、取り入れの祭りともよばれ、贖罪の日の5日後、ヘブル暦7月にあたるティシュリーの月の15日に行われています。
 現在の9月末から10月初めにあたり、仮庵の祭りは安息日に始まって安息日に終わり、8日間続くことになります。

 「贖罪の日」は、ユダヤ暦の7月、現行の太陽暦の9月末~10月半ばの間の1日に行われます。
 あらゆる宗教的な祭日のうち、この贖罪の日が最も厳粛で最も神聖な日とされていて、あらゆる人の働きが中止されて、お祭り騒ぎや浮かれ気分もありません。
 むしろこの日は、祈りによって心に苦しみを感じるときであって、自分自身をから清める日、また祈りをささげ黙想して自分を振り返って反省する日でした。
 
 
 これはあなたがたが永久に守るべき定めである。
 すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。
 この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。 (レビ 16:29

 
 

 

  

 

  
 
  神のように成長する改心 1/3~3/3 
 
  神がこれまでに啓示されたすべてのことを信じる L・トム・ペリー 十二使徒定員会

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 贖罪の日を守るにあたっては、モーセの律法全体、すなわち主イエス・キリストの贖罪がその中心です。
 つまりこれがモーセの律法のすべてです。
 律法自体が与えられた目的は、人がキリストを信じるようになり、救いイエス・キリストの贖罪犠牲によってもたらされるのであり、それ意外の方法では不可能であるということを知るようになるためです。
 あらゆる原則、考え方、教義上の教え、儀式、典礼、言葉と行いなど、こうしたことに関するものは、ことごとくモーセおよびモーセのあとを継いだ預言者たちの行った導きと教えを施す業の中に見いだされ、またそこから発展したものです。
 その律法に従って、キリストをおいてはほかにもたらすことのできない贖いの完全な祝福にあずかることができるようになるために、またその備えとして律法が与えられています。
 
 そして、きわめて重要象徴が、また最も完璧な雛形が、そして、たぐいまれな表象と影が、1年に1回すべての民の前で示されているのが贖罪の日です。

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 毎年1日、第7の月の10日に、レビ神権を持つイスラエルの大祭司、すなわちアロンの座にいる者には、神の宮居の中の至聖所に入る特権が与えられていました。

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 ヤハウェの御前に出るつもりで入った大祭司は、そこで民の罪のために贖いをしています。
 さまざまな犠牲と象徴として行っている間に、大祭司は自分を清めて神の住まいを清め、権能者全体を清め、民をすべて清めました。

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 救いの計画によってこの世に生を受けたすべての人、これから生を受けるすべての人のためにイエス・キリストが払ってくださった大いなる贖いの犠牲を思い起こすために、キリストが地上での務めを果たされる以前は、この目的で動物の犠牲がささげられていました。
 イエス・キリストの贖いの犠牲が払われたのち、イエス・キリストに従う者たちは、キリストの指示に従って、代わりに「打ち砕かれた心と悔いる霊」(3ニフ 9:20)をささげるようになりました。
 つまり、進んでを悔い改め、イエス・キリストに従い、その戒め従順に生活するようになったのです。

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 犠牲の動物が屠られて、その血が贖罪所の上や祭壇の前に塗られ、香が焚かれてとりなしを表わす象徴としての儀式がことごとく行われました。

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 モーセの律法では、一年に一度「贖罪の日」に大祭司が2匹のやぎを選びました。
 くじびきで1匹にはヤハウェの御名が与えられて、もう1匹はアザゼル、すなわち身代わりのやぎとよばれています。
 ヘブル語マソラ本文のつづりに従えば、アザーゼールは「やぎ」と「消え去る」という意味の2つの語根語の組み合わせで「いなくなるやぎ」という意味です。
 
 2匹のうちの1匹はと荒野に放されましたが、もう1匹はイエス・キリストが犠牲となり殺されることの象徴として、ささげ物にされ殺されました。

 大祭司は律法の定めに従って、生きて荒野に放たれるやぎの頭に両手を置き、イスラエルの人々のもろもろのをその上に告白して、やぎはその身に彼らのもろもろの悪をになって人里離れた地に行かされます。


 そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない。
 こうしてやぎは彼らのもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう。
 すなわち、そのやぎを荒野に送らなければならない。 (レビ 16:21‐22

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 大祭司はイエス・キリストの贖いの象徴として殺したやぎの血を取り、主の宮の至聖所にたずさえて入り、そのやぎの血を契約の箱の蓋である贖罪所にふりかけることにより、象徴的にイスラエルの罪のための贖いとしました。
 
 「この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められているからである」とモーセが述べています。(レビ 16:30

 この儀式によって、のちに起こるイエス・キリストの贖罪の大切さを忘れないようにしました。
 
 
 仮庵の祭りは、穀物、油、ぶどう酒を含む地の実りの取り入れを祝う祭りでした。
 年の変わり目の「取り入れの祭り」とよばれ、8日目の聖なる大会は1年の祭りの一巡りに区切りをつけました。 
 
 あなたは七週の祭、すなわち小麦刈りの初穂の祭を行わなければならない。
 また年の終りに取り入れの祭を行わなければならない。 (出エジプト 34:22
 
 仮庵の祭りは、イスラエルにとって農耕の1年がおおかた終了したことと贖罪の日が5日前に行われたあとなので、あらゆる穀物の実をもってヤハウェが与えてくださった祝福を感謝するときでした。
 出席は男性だけに義務付けられていましたが、家族全員が来て、祭りの7日間、人々は仮小屋(ヘブル語 スッコート)に住むことを求められ、普通は一家族が1つの仮小屋に滞在しました。
 仮庵の祭りのときには、国全体として、ほかのイスラエルの祭りを全部まとめたよりもはるかに多くの雄牛、雄羊、小羊、やぎが祭司たちによって犠牲としてささげられられました。
 
 仮庵の祭りが、取り入れがすべて完了したことを祝う祭りであるということは、あらゆる国民をヤハウェ=イエス・キリストのもとに集めることが、イスラエルの家の使命であるという福音の真理を象徴しています。

 仮庵の祭りのきわだった特徴は、一時的な小屋、あるいは仮庵の木の大枝を使って立てることにありました。
 これによって民は、祭りの最中をこの仮庵の中で過ごしています。
 これによって民は、シナイ半島の荒野で40年にわたって神が示した愛と、従順であれば約束の地に永遠に住むことができるという祝福とを思い出しています。 (出エジプト 16章

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 イエス・キリストを信じる信仰を持ち、悔い改めバプテスマを受けるときに、イエス・キリストの贖罪により赦されます。
 権能を持つ人が執行する、水に沈めるバプテスマは、福音の第一の救い儀式であり、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員になって永遠の救いを得るために必要なものです。
 永遠の命を得たいと願うすべての人々は、救い主の模範に倣ってバプテスマを受け、聖霊の賜物を受けなければなりません。
 バプテスマを受ける人は、イエス・キリストの御名を受け戒めを守り、最後まで主に仕えるという聖約を神と交わします。(モーサヤ 18:8-10教義 20:37参照)


 御父は言われた。
 「悔い改めよ。悔い改めよ。わたしの愛する子の名によってバプテスマを受けよ。」
 また、御子の声がわたしに聞こえて言われた。
 「父は、わたしの名によってバプテスマを受ける者に、わたしに授けてくださったと同じように聖霊を授けてくださる。それゆえ、わたしに従い、わたしが行うのを見たそのことを、あなたがたも行いなさい。」
 したがって、わたしの愛する同胞よ、もしあなたがたが十分に固い決意をもって御子に従い、神の前に決して偽善と欺きを行うことなく誠意をもって行動し、罪を悔い改め、バプテスマによって、まことに、あなたがたの主であり救い主である御方に従い、主の言葉のとおりに水に入り、バプテスマを受けることによって、キリストの名を喜んで受けることを御父に証明するならば、見よ、そのとき、あなたがたは聖霊を受ける。
 すなわち、そのとき火と聖霊によるバプテスマを受ける。
 するとあなたがたは天使の言葉で語り、イスラエルの聖者に賛美の声を上げることができるのである。わたしはそれを知っている。

 しかし見よ、わたしの愛する同胞よ、御子の声が次のように聞こえてわたしに言われた。
 「あなたがたは罪を悔い改め、水によるバプテスマを受けることによってわたしの戒めを進んで守ることを御父に証明し、火と聖霊によるバプテスマを受け、新しい言葉、すなわち天使の言葉で語れるようになった後に、わたしを否定するのであれば、わたしを知らなかった方があなたがたのためによかったであろう。」
 わたしはまた、御父がこう言われる声を聞いた。
 「まことに、わたしの愛する者の言葉は真実であり、確かである。最後まで堪え忍ぶ者は救われる。」
 さて、わたしの愛する同胞よ、このことから、人は生ける神の御子の模範に倣って、最後まで堪え忍ばなければ救われないことが分かる。
 したがって、わたしがあなたがたの主であり贖い主である御方の行われることを先見して、これまで語ってきたことを、あなたがたも行いなさい。
 これらのことがわたしに示されたのは、あなたがたが入らなければならない門を知ることができるようにするためである。
 あなたがたが入らなければならない門とは、悔い改めと、水によるバプテスマである。
 そうすれば、火と聖霊によって罪の赦しが与えられる。
 そのとき、あなたがたは、永遠の命に至る細くて狭いにいることになる。
 まことに、あなたがたはその門から入っている。
 あなたがたは御父と御子の戒めに従ってこのように行っている。
 またあなたがたは、御父と御子について証をされる聖霊を受けている。
 こうして、その方法によって入るならば受けると主が約束された、その約束が果たされたのである。

 さて、わたしの愛する同胞よ、わたしは尋ねたい。
 あなたがたがこの細くて狭い道に入ったならば、それですべて終わりであろうか。
 見よ、わたしはそうではないと言う。
 もしキリストを信じる確固とした信仰をもってキリストの言葉に従い、人を救う力を備えておられるこの御方の功徳にひたすら頼らなかったならば、あなたがたは、ここまで進んで来ることさえできなかったからである。
 したがって、あなたがたはこれからもキリストを確固として信じ、完全な希望の輝きを持ち、神とすべての人をして力強く進まなければならない。

 そして、キリストの言葉をよく味わいながら力強く進み、最後まで堪え忍ぶならば、見よ、御父は、「あなたがたは永遠の命を受ける」と言われる。
 さて、わたしの愛する同胞よ、これがである。
 そして、このほかには人を神の王国に救う道も名も天下に与えられていない。
 見よ、これがキリストの教義であって、限りなく一つの神である御父と御子と聖霊の唯一の真正な教えである。アーメン。 (2ニフ 31:11-21

 本来、罪というものはバプテスマの水の中で赦されるものであり、イスラエルでも当時はバプテスマは行われていました。
 しかし同時に、バプテスマののちに犯した罪を悔い改めた人々に対しても自由を与える方法を備えておく必要があります。
 このことを理解しておくと、毎年行われる贖罪の日の儀式の中で、ヤハウェがバプテスマの水で交わした契約を新たにして、それにかかわる律法に完全に従ったときにもたらされる清さを、再び祝福として受けるための方法が備わっているということにも気づくでしょう。
 人が清められた状態になるためには、聖餐を受けなければならないということです。
 
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 よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。
 わたしは命のパンである。
 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。
 しかし、から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。
 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
 そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。
 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。
 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。
 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。
 このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。 (ヨハネ 6:47-58
 
 D・トッド・クリストファーソン長老は、イエス・キリストが命のパンであることを教えました。
 
 「命のパンであるイエス・キリストが生きておられること、そしてキリストの贖罪には無限の力があり無限の領域におよぶことをします。
 結局のところ、主の贖罪、主の恵みこそが私たちの日ごとの食物なのです。」 (「日々の祝福に神の手を認める」 『リアホナ』 2012年1月 p.31)
 
 ブルース・R・マッコンキー長老は次のように説明しています。

 「神の御子の肉を食べ血を飲むということは、まず最初に何のためらいもなく、永遠の御父の肉体を持つ個人的な御子として、最も逐語的かつ完全な形で御子を受け入れること、第2に御子の福音を受け入れる、御子の教会に加わる、そして従順を持って終わりまで耐え忍ぶことによって御子の戒めを守ることである。
 この過程によって御子の肉を食べて血を飲む者は、永遠の命、つまり日の栄えの世における最上の昇栄を受ける。」 (Doctrinal New Testament Commentary 1:358)

 ブルース・R・マッコンキー長老は「わたしにおり、わたしもまたその人におる」という表現が何を意味するかを説明しています。
 「1つとなった者は、同じように考え信じ行動するため、同じ特質と特性を持つ。……
 それゆえに、彼らは比喩的にお互いの中にいる、つまりお互いのうちに存在するのである。」 (Doctrinal New Testament Commentary 1:766)

  救い主と聖餐

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 古代イスラエルで行われた祝祭のうち、1年を通じての贖罪の日に次いで主要な行事は、七週の祭りです。
 キリスト教徒には、五旬節あるいはペンテコステという言葉で知られています。
 ペンテコステという言葉は、ギリシャ語からで意味は「50日目」です。
 この祭りの長さは1日であり、過越(すぎこし)の祭り後7週目、すなわち「49日」ののちに行われます。
 これは仏教における「49日」と関連があるのかもしれません。
 神道では、身内に不幸があった人は50日間を経過するまで神社参拝は控えます。
 
 七週の祭りは5月の末か6月の初めで、新しい麦の収穫を開始するきっかけとなってます。
 この日、祭壇の上に置かれる供え物の中には、麦の束もあります。
 これは人々にとって、人は土地を耕して種を撒き、取り入れをしますが、神こそが収穫を増し加えてくれる真の御方である重要な意味となっています。
 この地球を創造して、その地球に物を生産する強さを与えたのは神であり、雨を送って生物が成長するように太陽で照らしてくれるのは神なのであるというのがこの祭りの目的です。
 イスラエルの民が真心からこぞって「地と、それに満ちるもの、世界と、その中に住む者とは主のものである」(詩篇 24:1)と言えるようになることでした。
 この日には、2匹の小羊と2匹の雄羊と1頭の雄牛が、罪祭(レビ 4:1‐13)および酬恩祭(レビ 3:7,11‐13)として捧げられて犠牲の祭壇の上で焼かれました。
 罪祭は、誤って犯した罪、会衆が知らずに誤って犯した罪、誓いや聖約を破った罪、肉に関する戒めの律法により汚れた祭儀上の罪のためにささげます。
 罪祭の目的は、罪を犯した人に備えさせ、真に悔い改めたのちに、聖約を新たにすることです。
 今日では、聖餐を取ることによって、これと同じ祝福にあずかることができます。

 酬恩祭は、あらゆる祝福について神に感謝するためにささげ、誓いや聖約を交わす、または新たにして、責任と結果をともなう聖約を自発的に受け入れることを示します。

 七週の祭りの目的は、イスラエル赦しを受けて、神と和解することです。

 当然のことながら、動物の犠牲で実際にこのような贖いや和解をもたらせませんが、動物の犠牲はキリストの贖いの血と犠牲の象徴であり、聖霊清めの力の象徴です。
 この聖霊は、あらゆるものを焼き尽くす清めの日「地球の火によるバプテスマ」にたとえられています。

  地球の火によるバプテスマ


 つまり、大いる祭壇の上で犠牲を焼くのは、いかにしたらイスラエルの罪が真に赦されるのかを前もって表わしていたのです。
 新しい神権時代の幕開けとともに、七週の祭りも宗教礼拝のときとして神に認められていた役割に終止符を打ちました。
 そして主が、最後の過越しの祭りに続いてこの七週の祭りを選ばれたのは、重大な意味がありました。
 この日は、昔の犠牲の日にこめられていたことがことごとく、永遠にわたるその目的を劇的に成就する日となったからです。
 火は洗い清める役割を担っています。
 汚れも病も、この炎の中で死んでしまうのです。
 キリストによってもたらされるとヨハネが約束した火のバプテスマとは、人が実際に聖霊の訪れを受けるとき、悪意も邪心も、その心の中で火によって焼かれるのがごとくに焼かれてしまうという意味です。
 神会の一員である聖霊の清めの力によって、人は清められます。
 昔、祭壇の上で動物の肉を焼くとき、その火というのは霊的な清めは聖餐によってもたらされることを表わしていました。
 御父は御子のゆえにこの聖餐を送って下さるはずでした。
 いわゆるキリスト教時代の最初のペンテコステの日は、もし古い秩序がそのまま生きていたら、火が聖めの象徴としての役割を果たしていたでしょう。
 しかしながら、主がこの日をもって、天から生ける火、聖霊を送る日とされたことは、いかに適切なことでしょうか。
 この火は人の心の中に住まい、昔の祭壇上のあらゆる火と永久にとって変わることになっていたのです。
 この様子は次のように書かれています。


 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。 (使徒 2:1‐4

 人々が神に感謝をささげるこの日に、文字どおり主から御霊が注がれたことは、意義深いことです。
 ペテロはこれを、古代の預言者ヨエルの預言が一部成就したものと考えました。 (ヨエル 2:28‐32

 五旬節の日のように、御霊、すなわち聖霊が降られた大いなる出来事は、この末日の教会歴史でも見られます。
 カートランド神殿の奉献式のときに、預言者ジョセフ・スミスは、特別に御霊が降されるように神に祈り求めました。
 
 
 五旬節の日におけるごとく、それが彼らに成就しますように。
 炎のように分かれた舌なる異言の賜物とその解釈が、あなたの民に注がれますように。
 激しい大風のごとく、あなたの宮があなたの栄光で満たされますように。 (教義 109:36‐37

 そして、この願いは聞かれました。
 しかも、ただ一度だけではなく、最初の奉献式後、数日間これが続きました。
 

 「突風のような音が聞こえてきた。
 その音は神殿内に満ち、すべての会衆は目に見えない力に動かされ、全員が立ち上がった。
 そして多くの人々が異言を語り、預言し始めた。
 また、栄光に満ちた示現を見た人々もいた。
 そして私は、神殿が天使たちでいっぱいなのを見て、そのことを会衆に告げた。」 (『教会歴史』 2:428)


 

 
 エステルの両親が亡くなったときに、モルデカイがエステルを養女にして、家に引き取って養育しました。
 学者の多くはエステル記は、紀元前482年~紀元前478年ごろ記録されたと述べています。

 
 
 
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 エステル記に登場するペルシャの王アハシェエロスという名はペルシャ語クシャヤルシャのヘブル語訳で、歴史上ではクセルクセス1世の名の方がよく知られているようです。
 アハシェエロスは、クセルクセス1世(在位 紀元前485年‐紀元前465年)だと伝統的に考えられています。

 エステル記は偉大なペルシャ王の宮殿内、スーサの大庭園で行われた大宴会の場面から始まっています。
 クセルクセス1世の時代のペルシャは、インドからエチオピアまで127州を統治していました。
 彼はかつてのエラム王国の首都でもあり、ペルシャとペルシャ征服したバビロニアに近い場所、チグリス・ユーフラテス川対岸のカルデアウルの北東方向にあるペルシアの首都ともなった歴史ある都スーサ(ヘブル語名シュシャン)で王位に就き、その3年後に180日におよぶ「酒宴」を開き、家臣、大臣、メディアの軍人・貴族、諸州高官などを招きました。
 王は大臣の助言により、全国各州の美しい乙女をすべてスーサの後宮に集めさせました。
 
 そこにベニヤミン族のモルデカイとエステルがいました。
 エステルは両親がいないため、いとこにあたるモルデカイが義父となっていました。
 モルデカイはエステルを応募させ、エステルは後宮宦官に目を留められ、誰にもまして王から愛され、王妃となります。
 王は「エステルの祝宴」を開きます。
 モルデカイが王宮の門に座っていると、2人の宦官がクセルクセス1世を倒そうと共謀していました。
 モルデカイはエステルを通じてこれを王に知らせ、2人は処刑されます。
 モルデカイとエステルは、自分がユダヤ人であることを明かさないようにしていました。
 王は、ハマンを高い地位に就けます。
 王はハマンに跪いて敬礼するようにとの布告を出していましたが、モルデカイは従いませんでした。
 モルデカイがハマンへの敬礼を拒否したことに関して、個人的な理由の可能性は低いでしょう。
 説明できることは、モルデカイがユダヤ人であるという理由で敬礼の免除を主張したことです。
 ハマンが敬礼に単なる忠誠心でなく礼拝を要求したのに対して、モルデカイは神の第一の律法を守ろうとしたということが考えられます。


 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 (出エジプト 20:3‐17

 もし偶像礼拝に対する恐れが敬礼拒否の背後にあるとすれば、ユダヤ人は誰も敬礼をしないので、ユダヤ人すべてに復讐しようとするハマンの決意に不自然さがなくなります。
 無差別虐殺を含む類似の復讐行為が、紀元前5世紀の歴史家ヘロドトスによって記録されています。
 エステル記にはユダヤ人を撲滅しようとするハマンの計画が書かれてありますが、1人の人間の傷つけられた自尊心のためにこのような不合理な結論にたっしてしまうことも現実にあります。
 影響力のある熱心なユダヤ教徒を殺そうとするサタンの影響もあったのでしょう。
 ハマンには無礼に思えたモルデカイにハマンは激怒して、ユダヤ人全員の殺害を画策します。
 ハマンはクセルクセス王にユダヤ人への中傷を述べ、クセルクセス王の名によりユダヤ人が殺害されることが決定し、着々と準備が進んでいきます。
 これを聞いたユダヤ人の多くは熱心に神に助けを請いました。
 モルデカイはエステルが王のもとへ行ってユダヤ人のために王のあわれみを請い、王の前に助けを願い求めるように使者に伝させました。
 エステルは「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭に入って王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという1つの法律のあり、王に会えない」とモルデカイに返答しました。
 モルデカイは、エステルにこう返答しました。
 「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。
 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。
 しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。
 あなたがこの国に王妃として迎えられたのは、このようなときのためです。」(エテル 4:13-14参照)

 そこでエステルは「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために断食してください。
 三日の間、夜も昼も食い飲みしてはなりません。私と私の侍女たちも同様に断食しましょう。
 そして私は法律に背くことですが王のもとへ行きます。私がもし死なねばならないのなら、死にます」と返答しました。(エテル 4:16参照)

 モルデカイは、エステルが自分に命じたとおりに行いました。

 エステルはクセルクセスとの謁見に成功し、ハマン同席の酒宴を確約させました。
 ハマンは自宅で宴会を開き、エステルと王との酒宴につい聞かせ、憎んでいるモルデカイをつるす柱を建てさせました。
 その夜眠れなかった王は、宮廷日誌を持ってこさせ読ませましたが、ここで始めてモルデカイが王の暗殺を防いだ記録を知ります。
 エステルは、自分がユダヤ人であることを王に告げます。
 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行きました。
 エステルの話を宮廷内のほかの侍従に確認したいという気持ちに駆られたからでしょう。
 ハマンは残って王妃エステルに命ごいをしました。
 古代中東において酒宴を催す場合、客はクッションや長椅子の上に横になる慣わしがありました。
 王が酒席に戻ったとき、ハマンが長椅子に横になっているのを見て、ハマンがエステルを誘惑していると思った王は、ただちに死刑を命じました。
 ハマンは、モルデカイ殺害用に建てたその柱で処刑され、ハマンの財産がエステルとモルデカイのものになりました。

 こうして、モルデカイはエステルを通じてクセルクセス1世に謀略の存在を知らせことなきを得ます。
 ハマンに代わってモルデカイを宰相の地位に任命し同時に帝国内に勅命を発布、ユダヤ人の自由と権利を保証しました。
 これにより、アケメネス朝ペルシャ内のユダヤ人の敵は滅ぼされました。
 この戦いが終わった日をユダヤ人たちは記念して、毎年アダル(2月、3月に相当)の月の14日に「プーリームの祭り」を開き祝宴を行うようになりました。
 ユダヤ人はペルシャ王家の外戚(がいせき)であり、王国内部でも重用されました。

 そして、モルデカイが王の近くにいたので、圧力を受けていた多くのユダヤ人が救われ、帝国内で好ましい地位を与えられていために、ユダヤに帰る機会が来たとき、大部分のユダヤ人はバビロンにとどまるほうを選びました。



  牛祭
 
 京都の太秦に大酒神社(おおさけじんじゃ)があります。
 秦氏の本拠地、京都の太秦(うずまさ)には秦氏創建の広隆寺がありますが、広隆寺はもともと「太秦寺」とよばれていました。

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 イエス・キリストやエルサレム教団が日常的に使っていた言語は、主にアラム語です。
 アラム語でイエス・キリストは「イシュ・メシャ」と発音します。
 ところが、アラム語は、メソポタミアからオリエント一帯に広く使われていた言葉であるため、地方による設りが非常に強いです。 
 東へ行くと、「イズ・マシ」とか、「イザ・マサ」などと発音されます。
 さらに東へ移動してインド北部辺りまでくると、「ユズ・マサ」などと発音されるようになります。
 エルサレム教団が東へと移動して行ったならその過程で言語が訛って行ったはずで、「イエス・キリスト」「イシュ・メシャ」も、いつの間にか「ユズ・マサ」「ウズ・マサ」と転訛して行ったのです。
 
 「ウズ・マサ」=「イエス・キリスト」です。

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 秦氏は、首長を示す「太秦」を「大秦」とも表記していたことが記録的にも確かめられています。
 「大秦」は、中国における「ローマ帝国」の呼び名です。
 当時は、ユダヤの地はローマ帝国の属国でした。

 「大秦」を漢字破字法なる手段で分解すると意味を読み取れます。
 「大秦」を漢字破字法なる手段で分解してみると、「大=一・人・ノ」「秦=三・人・ノ・木」となり、それを漢文読みで合わせてみると「三人の木の一人」となります。
 
 「辟」は、重い刑罰、死刑を意味します。
 
 そして、景教(ネストリウス派)では「大辟」の字に似ている「大闢(だいびゃく)」とは、ダビデのことです。

 イエス・キリストは血統は、「ダビデの子孫」として生まれ「ダビデの子」と人々によばれていました。

 ナタンは、ダビデにこのように神の約束の言葉を告げました。
 

 あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。
 彼はわたしの名のために家を建てる。
 わたしは長くその国の位を堅くしよう。 (サムエル下 7;12‐13
 
 それを受けてイザヤものちに、こう預言しています。
 
 
 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
 まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。
 万軍の主の熱心がこれをなされるのである。 (イザヤ 9:6‐7
 
 「大辟神社」とは、「ダビデの子、イエス・キリスト神社」の意味なのです。


 大酒神社と広隆寺の合同で行われている牛祭があります。
 10月10日前後(旧暦9月12日)の 午後7時になると摩多羅(マタラ)神が登場します。

       摩多羅神

 摩多羅神は、お面を着け白衣装束に紙をたらした冠をかぶり、頭巾には北斗七星が書かれています。
 赤鬼と青鬼が先に進み、広隆寺西門から山門の前をとおり東門より境内に戻り、マタラ神は薬師堂の前の祭壇を牛に乗ったまま三周し、赤鬼と青鬼は祭壇に登ると祭文を読み始めます。
 唱和が始まると、周りにいた群衆からやじが飛んで、摩多羅神たちは薬師堂の中に駆け込み、扉が閉められて終わりとなります。
 牛祭のときの祭文は、ヘブル語だといわれています。

 この牛祭の起源は、プーリームの祭りです。
 プーリームの祭りで行われるのは、エステル記の朗読です。
 この朗読の中で、ハマンという言葉がでてくると子供たちから笛や鳴り物によってブーイングが出され、エステル記の朗読が終わるまで続くのです。
 エステルが王妃として選ばれたり、ハマンの陰謀を阻止したのも酒宴の席であり、大酒神社の「大酒」はなったのかもしれません。

  義にかなった神の娘の持つ徳 ジエ一ムズ・E・ファウスト 第二副管長

  勇気を持てるように トーマス・S・モンソン大管長

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  「秦」の字が付く国
 
 の国の人々は漢民族と思われていませんでした。
 春秋戦国時代、まだ漢王朝が成立していなかったころ、漢民族は自らを中国最古の伝説の夏王朝の末衣周だという意味から「夏」と称しました。
 夏人は農耕民でしたが秦人は遊牧民であり風俗風習が異なっていて、秦人は夏人とは違いました。

 もともと「秦人」は漢民族ではなく、むしろ柵外の人という意味でした。
 中国では「秦」と名乗った国は春秋戦国時代の秦国と秦の始皇帝秦朝(秦帝国)以後も、王族は漢民族ではありません。

 中国は、バクトリアやアケメネス朝ペルシャ、ローマ帝国、そしてユダヤの国々を表すときに「秦」の文字を使いました。
 これら「秦」を付けたと国々には、イスラエル、ユダヤ人がいました。

 アレクサンドリア3世が率いたギリシャ軍勢の子孫が築いたバクトリアはギリシャ系国家です。
 中国ではバクトリアは「大夏」とよばれましたが、仏教の教典『那先比丘経(なせんびくきょう)』では「大秦国」と表記しています。

 「大秦」は、中国におけるローマ帝国の呼び名です。
 ローマ帝国を大秦とよぶようになったのは、紀元後の後漢(紀元25年‐紀元220年)の時代になってからです。

 中国の(紀元前778年‐紀元前206年)は、は中国の王朝で、周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一しましたが、紀元前206年にが滅ぼした国です。

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 秦の始皇帝はもちろん秦を興した人々が漢民族ではないことを考えると中国の国の名前として「大秦」と称す必要は何でしょうか。
 「大漢」とよばないで滅ぼした王朝の名称にちなんで、異民族の国名にしたのはなぜでしょうか。
 始皇帝の秦朝もローマ帝国も漢民族からすれば、同じ異民族の国家だからではないでしょうか。
 
 「大秦」は、記録によっては、シリアやエジプトにいたる広い範囲で使われた名称です。
 しかし、仏教の教典『那先比丘経』には、ローマ帝国の領内ではない国を「大秦国」とよんでいる箇所があり、前後の内容から、それは中央アジアの「バクトリア」国だと思われます。

 『那先比丘経』の筆者は、どうしてローマ帝国の名称として知らている「大秦」を、バクトリアの名称にしたのでしょうか。
 シリアやパレスチナ地方、エジプトなどローマ帝国の版図であった地域、もしくはその周辺地域が大秦とよばれるのなら分かりますがバクトリアはローマ帝国の版図であったことはありません。
 その理由は住んでいた人にあるのではないでしょうか。
 バクトリアは中央アジア、しかもインドの隣あった国で国を建てたのはギリシャ人です。
 そして、イスラエル10部が合流したスキタイ系のサカ族もいました。
 サカ族の1つが、のちに仏陀とよばれる釈迦を生み出す釈迦族です。 (参考 仏教解明

 そして、ギリシャ人は古代ローマである大秦にいたのです。
 紀元前6世紀のバクトリアの人口の主要部分、少なくともその支配階級はペルシャ人とスキタイ人によって構成されていたと考えられますが、イスラエル10部族も合流していたスキタイ系のサカ族ががこの地域にペルシャ人よりも早くから住んでいました。
 サカ族に遅れてバクトリアに侵入し、これを征服したペルシャ人はサカ族やそのほかの先住民の支配者となりましたが、その数は多くはなかったので、険要な地を選び城や砦を築いて住み着きました。
 ペルシャ人は、その軍事力と組織力によって原住民の社会秩序を維持するとともに、税を徴収していたと思われます。
 ローマ時代の史料によると、バクトリアは7000人の貴族によって支配されていたといいます。
 また、ギリシャの歴史家ヘロドトス(紀元前485年ごろ‐紀元前420年ごろ)が、「バクトリア人とサカ族」と並称させているのでペルシャ人と先住のサカ族が共同して支配階級を構成していたと思われます。
 当時の中国人の認識として、ペルシャと大秦は同じ地方を指す言葉でした。
 大秦の付く国や領域をふかんすると、1つのユダヤ民族の流れが分かります。
 ユダヤ人は、アケメネス朝ペルシャがアレクサンドロス3世との戦争で首都ペルセポリスが破壊されたとき、東へと逃げ出しました。



  ペルシャの滅亡

 アケメネス朝ペルシャは、第3代の王ダレイオス1世(在位 紀元前522年‐紀元前486年)から3世(在位 紀元前336年‐紀元前330年)が生きていた時代は、その優れた統制力とペルシャ人の団結によって維持されました。
 しかし、ダレイオス3世の死後、役人の間に権力争いが起こり、また税の重かったバビロニア地方やエジプト地方で反乱が起こりました。

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 紀元前334年、東征を開始したアレクサンドロス3世は翌年の紀元前333年、イッソスの戦いでダレイオス3世の軍勢を破り、紀元前330年にマケドニアの王アレクサンドロス3世がギリシャの大軍を率いてアケメネス朝ペルシアに侵入しました。
 そして、ダレイオス1世が建設した宮殿群ペルセポリスに入城したアレクサンドロス3世は、2万頭のラバと5000頭のラクダで運べるほどの莫大な金銀財宝を手に入れたのちに宮殿に放火しました。 

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 紀元前330年、200年あまり栄えたアケメネス朝ペルシャは、アレクサンドロス3世でに滅ぼされたのです。
 紀元前334年、ペルセポリスはアレクサンドロス3世の攻撃によって破壊され廃墟となりました。
 このときペルセポリスは徹底的に破壊されますが、アレクサンドロス3世は政略的にギリシャ人とペルシア人の婚礼を奨励し両民族の融和を図ろうとしています。
 アレクサンドロス3世自身もペルシャ人の妃を迎え入れています。
 アレクサンドロス3世は、多くの民族を支配するに当たって宗教や習慣を尊重し交流を活発化させることが国力増強につながると考えていたのです。
 そのため、アレクサンドロス3世は帝国内に自らの名前を冠した町アレキサンドリアを多数建設し、それらを幹線道路で結びました。
 その結果、商人が自由に帝国内を行き来し交易が活発となりました。
 その中に商才に長けたユダヤ人が、数多く含まれていました。
 とくにエジプトのアレキサンドリアには、パレスチナから大量にユダヤ人が移住します。
 続くプトレマイオス朝の時代には、市民の半分がユダヤ人の状況にまでなりました。
 
 アレクサンドロス3世の死後、部下であったマケドニア人のプトレマイオスが創始したプトレマイオス朝は、古代エジプトのマケドニア系王朝(紀元前306年‐紀元前30年)です。

 エジプトの全盛期となったエジプト新王国時代は紀元前1070年ごろに終わり、アッシリア、ペルシャ、ヌビアなどの異民族が次々と侵攻する混沌とした時代が続きます。
 そのエジプトに再び平穏をもたらしたのは、エジプト人のパロ(王)ではなく、アレクサンドロス3世の後継者の1人であるプトレマイオスで、プトレマイオスはパロを名乗ってエジプトの文化を引継ぎ、神殿も多く建てられました。
 しかし、ローマ帝国の勢力拡大の中で、紀元前30年のクレオパトラの死をもってエジプト王国は消滅しました。
 市民権を与えられたユダヤ人たちは公用語としてギリシャ語を話すようになり、のちに『旧約聖書』のギリシア語訳、通称『七十人訳聖書』が編纂されます。

 一方、アレクサンドロス3世はペルシャから軍勢をさらに東へと進めます。
 紀元前4世紀、アレクサンドロス3世は、今のイランからアフガニスタンパキスタンインドにまで進軍しインダス川にまで到達しました。
 アレクサンドロス3世の本隊は、インダス河でギリシャへと引き返しましたが一部残ったギリシャ人らは本国のマケドニア・ギリシャ滅亡後も、そこに住み着き紀元前3世紀ごろ、その辺を支配していたセレウコス朝から独立しバクトリアを建国したのです。

 大秦=アケメネス朝ペルシャ、大秦=バクトリア、大秦=セレウコス朝、大秦=ローマ帝国と、ユダヤ人がいた国で、「秦」とはユダヤ人を意味する字なのです。

 そして、アレクサンドロス3世が開いたシルクロードを通って、ペルシャにいたユダヤ人たちも東へと移動しました。
 始皇帝の配下には、ペルシャ人が多数存在しました。
 ユダヤ人たちが、民族解放の恩人であるペルシャ人とともに、中国へ来て秦国(紀元前778年‐紀元前221年)、さらには秦朝(紀元前221年‐紀元前206年)の建設にかかわったのです。

 

  ペルシャと秦朝の類似性
 
 中国全土を統一すときに始皇帝が行った事業は、文字や度量衡、車輪幅の統一、貨幣制度、郡県制など、一国の制度を超えて世界基準を東アジアにおいて最初に実現しました。
 
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 秦朝以後の中国王朝は、秦朝の世界基準を踏襲して君臨したにすぎません。

 西域には秦朝と同じ支配体制をもったアケメネス朝ペルシャがありました。

 現在のイラン北西部を中心に広がっていた王国のメディアから独立したアケメネス朝ペルシャ(紀元前550年‐紀元前330年)は短期間でオリエントを席巻します。
 紀元前525年にはエジプトを征服してオリエントの統一を果たし、その影響力は最終的に北インドにまでおよびました。

 ダレイオス1世は都市の建設にも力を注ぎ、バビロン、スーサ、ペルセポリスなどの都市を整備し都市を互いに連携させ広大な領土を保持しました。

 そして、ダレイオス1世は帝国全土に郡県制サトラップ制)を敷き、駅伝や貨幣制度を統一し、堅固な統治体制を築きました。
 郡県制とは、官僚制による中央集権体制で、初めは直轄地を県、辺境地域を郡としたようであり、中央から王の任命する役人を派遣して統治した「郡県制」です。

 サトラップ制は秦朝の先駆であり秦朝と同じであると東京大学の三上次男教授などの歴史学者たちによって指摘されています。
 アケメネス朝ペルシャの情報が秦朝に持ち込まれました。
 古代にあっては情報は人が運ぶので、アケメネス朝ペルシャの住民の子孫がシルクロードをへて中国まで来たのです。

 

  兵馬俑のペルシャ人の骨

 始皇帝の墓が、秦始皇帝陵です。
 西安市の東約30kmに位置しており、大きさは東西350m、南北345m、高さ76mです。

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 2009年8月、秦の始皇帝陵で発見された人骨のミトコンドリアDNAを鑑定した結果、陵墓建設に従事した労働者の多くは南方から駆り出された少数民族であることが分かりました。
 漢民族の物も含まれていましたが、北方少数民族の物は発見されませんでした。
 鑑定を行った121体は15歳~45歳の男性で平均年齢は24歳。
 死因は生き埋めや拷問の形跡はなく過酷な労働によると思われ、伝染病の可能性もあるといいます。
 前漢時代の歴史家司馬遷による『史記』の「秦始皇本紀」などの歴史書でも「始皇帝は即位後、全国の広い範囲から大量の人員を召集し、陵墓建設の労役につかせた」と記されてます。
 
 中国の調査隊の地質調査の結果、陵墓の地下に東西168m、南北141m、高さ15mの巨大な空間が存在し、中から平均値の40倍以上の水銀の反応が出たと明らかになりました。
 
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 『史記』には、こう記されています。

 「三泉(三層の地下水脈)を貫くほどに深く掘られた場所に存在し、周囲の地下水が流れ込まないように壁には銅が使われ、百官や女官が並ぶ多くの部屋があり、宝玉などがあたり一面に安置されている。
 盗掘者を射殺するために自動で矢を放つ装置が仕掛けられ、水銀を満たした人口の川や海が再現され、天井には太陽や月が描かれている。
 部屋の明かりは人魚の脂を使った蝋燭で灯されている。」

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 古代中国で死者を埋葬する際に副葬された死者とともに埋葬した人形の俑(よう)のうち、兵士および馬をかたどった物を兵馬俑といいます。

 始皇帝の兵馬俑の原型は、すでに西周時代(紀元前1046年ごろから遷都して東周となる紀元前771年)には小規模ながら河南省のカク国墓地で 同じような兵馬俑が存在していました。
 地下に埋葬される車馬杭は始皇帝の車馬杭によく似ています。

 始皇帝の兵馬俑坑は、この陵(墓)を取り巻くように配置され、そこから出土した等身大の土偶は、東を向いています。

 紀元前537年、始皇帝の中国統一の300年前の秦の君主である景公陵墓には、当時180人近い王族大臣などが殉死させられ埋葬されたといいます。
 
 始皇帝が統一するころには、このような風習はなくなって人間ではなく代わりに兵士の像になりました。
 
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 秦朝の兵馬俑が作られる約100年以内の戦国時代末期の秦の墓から出土した騎兵の俑は、小さくシンプルです。
 西北大学の段清波教授は、技術や形態の変化は、兵馬俑は外来文化、とくにギリシャやペルシャなど西方の彫像文化を受け入れたものと考えています。

 

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 始皇帝の兵馬俑坑のから、100以上の当時では最先端の武器であるが見つかっています。
 弩は紀元前5世紀に始まる中国の戦国時代になると武器として広く活用されました。
 強弩の射程距離は最長700~800mで、旧ソ連の自動小銃AK-47の約400mの有効射程の2倍です。
 弱弩の有効射程は、約100mです。

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 右から、跪射俑、軍吏俑、将軍俑、歩兵俑、立射俑。
 
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 兵士像は、粘土をひも状にして輪にして積み重ねた「ひも作り」で製造しました。
 兵士像には1体ずつ親方の名前が刻まれ87人の親方の名前がありました。
 専門家の推測では87人の親方には、それぞれ10人の弟子がいて、合計で1000人近い職人で、数年かけて8000体を製作したとしています。
 
 兵士像の造形はすべて異なります。
 実際の人間をかたどって作られたと思われ表情が違います。
 顔認識の専門家、ニュージーランドのウェリントンのグレンキャメロンが顔認識ソフト「Neo Face(ネオフェイス)」ですべての顔を照合した結果 すべてが異なる顔をしていました。
 
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 多くはモンゴロイドの特徴を備えていますが、中にはモンゴロイドではなく白人のような顔つきの兵士の俑もあります。
 兵馬俑は、粘土を成型して窯で焼いた副葬品で焼き上がった俑には漆を二層塗り卵で作った顔料で仕上げていました。

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 画像は、アメリカ、ナショナルジオグラフィック誌がCGで再現した埋葬当時の兵馬俑1号坑で、出土した兵士像の姿勢、残存する塗料、銅製の武器などを基に作成されました。

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 秦朝は、基本は青銅製の武器になります。
 青銅は銅と鈴の合金で、銅より硬くまた加工も容易であったため、武器や儀式の道具などに使われました。
 秦朝において青銅製の武器が使用されていたことを示す証拠としては、兵馬俑坑にある青銅の武器があります。
 鉄器は、中国戦国時代(紀元前403年‐紀元前221年)から普及しましたが、武器は青銅製の物が主流でした。
 当時の鉄の鋳造方法がもろい鉄しか生み出せなかったため、鉄製武器は一般的には普及しなかったのです。
 
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 ナショナルジオグラフィック誌がCGで再現した兵馬俑の像は、階級の上下に関係なく、すべてに大胆な彩色が施されていました。
 
 「当時としては前代未聞の配色だ。以後も数世紀にわたり、これほどカラフルな像は作られなかった」とアメリカ、スタンフォード大学の中国史の名誉教授アルバート・E・ディエンは話します。
 
 この将軍像など数点の俑には、元の配色をほぼ完全に特定できる十分な塗料が残っていました。

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 秦始皇帝陵の封土の西北約40m離れた場所で銅車馬坑が発見されました。
 秦始皇帝陵が建設された時は封土の下に存在した物ですが、長い年月の間に農民が陵の縁を削った物と思われます。
 長方形の棺や副葬品を納めるための木の外箱(6,8×2,1+2m)内に2両の銅車馬が前後に並んで埋められていました。

 実物の2分の1の大きさで4頭立ての車馬が部品の細部にいたるまで精巧に組み立てられています。
 この車馬と御者は全部青銅で鋳造され、手綱、面繋(おもがい)などの馬具および馬の頭にある装飾品は金で作られています。

 車の屋根が楕円形で囲いが正方形の構造様式は、天が丸く地が四角の当時のユダヤ密教(カバラ)が基の道教の世界観の天円地方(てんえんちほう)を反映し、これに乗るときはあたかも天と地の間に座っているという考え方を表しています。

 秦は帝国と名乗ったように、始皇帝は多くの民族を積極的に登用しました。

 2006年6月28日、中国の西北大の発表によると副葬坑は2003年、等身大の兵士像などで有名な「兵馬俑博物館」から約500m離れた場所で見つかりました。
 陝西省(せんせいしょう)西安郊外にある秦(紀元前221‐紀元前206年)の始皇帝陵の副葬墓から出土した約2200年前の人骨が、ペルシャ系とみられる20代の男性の物と分かりました。
 調査団の徐智博士は50体の遺骨からDNAを採取し最終的に15タイプの個体を確認し、その中にペルシャ人など西アジアの民族の特徴を認めました。
 始皇帝の配下にペルシャ人が存在したのです。

 
 
  秦とイスラエル
 
  漢字の真相

 中国における字は(いん、商、しょうともいう 紀元前1700年ごろ‐紀元前1046年)の時代の甲骨文字にさかのぼります。
 基本となる字は象形文字として作られました。

 「」の字の場合、具体的に「舂」(シュ、ショウ 〔意味〕 うすづく、うすでアワなどの穀物をつく。ものをつく)と「禾」([音] カ [訓] いね のぎ 意味 いね わら 穀物の総称)を合わせた会意文字で、稲がすくすくと成長するさまを意味します。
 
 秦王家の先祖で、「嬴(えい)」の姓を賜った柏翳(はくえい)の子孫が与えられた秦州の地を示し、ここが作物を育てるのに適していた土地であることに由来するといいます。

 つまり秦とは地名です。
 「秦」の字、普通名詞やほかの氏族が使用する字ではなく、秦王家のシンボル的な意味があります。

 
 歴代中国のという国があります。
 紀元前、秦の名を冠した国は紀元前770年~紀元前221年に秦の始皇帝が中国を統一するまでの時代である春秋戦国時代の秦国、始皇帝の秦朝です。
 
 紀元後は、秦の名を採用した国が少なくとも3つ存在します。
 それらは紀元前の秦と区別するために、歴史学では「前秦」(ぜんしん 紀元351年‐紀元394年)「西秦」(せいしん 紀元385年‐紀元431年)「後秦」(こうしん 紀元384年‐紀元417年)と表記されます。

 前秦は、紀元350年、東晋という国から「氐族(ていぞく)」が中心となって独立した国です。

 テイ族は、アメリカのユタ州のグレートソルト湖に次いで世界で2番目に大きな内陸塩湖である中華人民共和国の西部に位置する青海省(せいかいしょう)にある青海湖(せいかいこ)を拠点としていましたが、春秋戦国時代には秦と同様、甘粛省に住んでいました。
 民族的にチベット系で牧畜を生業とする遊牧民で、使用言語は漢民族とは明らかに違い「羌族(きょうぞく)」の言葉に近いです。
 先祖は西戎(せいじゅう)とされた非漢民族であり羌族と同族であると考えられています。

 前秦は紀元394年に滅びますが、代わって台頭したのが後秦西秦です。
 後秦は384年に成立した国で支配層は羌族でした。

 一方の西秦は385年に前秦から独立した国で王家は「鮮卑族(せんぴぞく)」でした。
 鮮卑族は遊牧騎馬民族で、のちに北魏(ほくぎ 紀元386年‐紀元534年)を建国します。
 民族の系統としてはモンゴル、もしくはチュルク系であるといわれています。

 氐族と羌族、鮮卑族は遊牧民です。
 羌族はチベット系の民族の1つで秦は広い意味で羌族です。
 「羌」とは羊に由来する文字で、これは彼らが発祥以来、遊牧民であったことを示しています。

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 イスラエル共和国の調査機関アミシャーブの所長であったラビ・エリヤフ・アビハイルによれば、古代の羌(きょうぞく)族の末裔とされている「チャン族」は、行方の知れないイスラエル10部族の末裔であると科学的に判明していると述べています。

  3 古代アメリカからの日本の先住民 4/4


 羌族は、イスラエルと同様に唯一神を信仰しており、神を「アバチ(の父)」などとよびます。
 固有名詞としては、その唯一神を「ユイワ」とよび「ヤハウェ」が長年かけて変化して行ったのでしょう。
 そして、イスラエルと同様に山も神聖視していて「山の神」ともよびます。

  さあ、わたしたちは主の山に登ろう イレイン・S・ダルトン 中央若い女性会長


 しかし、羌族の歴史はイスラエル10部族よりもはるかに古くパレスチナに古代イスラエル王国が誕生する紀元前11世紀よりはるか以前にさかのぼります。
 羌族の歴史は古く、紀元前16世紀~前11世紀までの殷(いん)の時代にまでさかのぼる民族です。

 羌族はすでに甲骨文に記されていて、殷と激しく対立していたようです。
 
 そのため殷に追われた羌族は、テイ族の拠点だった青海省をへて四川省に南下し、その移動過程で中国古代の伝説的な帝の禹(う)の神話も運び、四川省西北の岷江(ミンジャン)上流域において「禹は母の胸を剖(さ)いて生まれた」とする二次神話をできました。

 夏王朝の始祖である禹は、黄河の治水に成功したとされます。
 紀元前1900年ごろ、地震によって起きた土砂崩れで山峡を通る黄河が半年から9か月の間せき止められたのち、ダムのように水をせき止めていた土砂が崩れ大量の水が下流の低地帯に流れ込んだと考えられています。
 現在の青海省にある黄河がせき止められた場所の沈殿物や、何kmも離れた下流まで流れた堆積物が発見されています。
 南京師範大学・地理科学部の呉慶竜教授は、2007年に現地を調査した際にダムになっていた場所で、放射性炭素年代測定で紀元前1900年くらいの堆積物を発見しました。
 アメリカ、パデュー大学のダリル・グレンジャー教授は、「洪水は現在の川の水面より38mも高くなった」と述べています。

 紀元前16世紀~前11世紀までの殷の時代からの羌族に、紀元前5世紀ごろに東アジアに来たイスラエル10部族が合流したのでしょう。
 古代の羌族は、紀元前2100年ごろのアブラハムの時代に東へと移動したヘブル人の一派なので、イスラエル10部族と同化したのでしょう。

 

 
  古代中国文明
 
        古代中国

 2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らは、約2500年前の春秋時代、約2000年前の代の中国山東省中部の北寄りにある小都市臨淄(りんし)、黄河下流にある紀元前770年~紀元前221年の春秋戦国時代斉(せい)の都の遺跡から出土した人骨、および現代の臨?住民から得たミトコンドリアDNA(細胞小器官であるミトコンドリア内にあるDNA)の比較研究の結果を発表しました。
 
 それによると、3つの時代の臨シ人類集団が、異なる遺伝的構成を持つと明らかになりました。
 約2500年前の紀元前500年ごろの春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は、白人の遺伝子でした。
 アケメネスペルシャ(紀元前550年‐紀元前330年)は、白人の国です。

 
 そして、約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は、現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近かったのです。
 紀元500前ごろの臨シの人々は、ミトコンドリアDNAから、ペルシャ人がいてペルシャ人と混血した人々もいたのです。

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 斉では、ペルシャでよく見られる樹木双獣文のデザインの瓦が見つかっています。

 現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないです。

 そして、さらに古い時代にも中国には白人がいました。
 長江文明 (紀元前2000年ごろ? ‐ 紀元前1000年ごろ)の(いん、商、しょうともいう 紀元前1700年ごろ‐紀元前1046年)の遺跡に白人の死体が発見されています。

 1980年、タクラマカン砂漠の東にある楼蘭鉄板河遺跡で、放射性炭素年代測定で紀元前1800年のコーカソイド(白人)の約40歳の女性のミイラが発掘されました。

 2002年、タクラマカン砂漠地下から、大量の遺骸が出土しました。
 放射性炭素年代測定で紀元前2000~紀元前1700年のミイラは、DNA鑑定によってモンゴロイドとコーカソイド(白人)の混血と分かりました。
 

 紀元前18~16世紀ごろ、インド・ヨーロッパ語族の移動がありました。
 彼らは中央アジアから南ロシアのあたりにいたのですが大移動を開始し、ユーラシア大陸全域に大きな変動を起こしたのです。

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 南東に向かったアーリア人とよばれる一派はインド北部を征服し定住しました。
 南にむかった一派はペルシャ人やソグド人となり、イラン高原に定着しました。
 また、西方に移動した人々はケルト系・ラテン系・ゲルマン系・スラブ系などのヨーロッパ人となりました。
 
 長江文明の担い手の苗族(ミャオ族)の先祖は、ノアの息子のヤペテの子白人のゴメル(創世記 10:2)であるという伝説があります。

 長江文明は、初期段階より稲作が中心であり畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したと見られています。
 
 苗族は自称ではなく漢民族による呼称です。
 苗族自身は、モン族を自称し中にはミャオの呼称を嫌う者もいます。
 このため中国などのミャオ族居住諸国以外では、ミャオ(東南アジアで概ねは「メオ」とよぶ)を蔑称として、公式の場では自称であるモン族という呼称を使う傾向があるのです。
 ただし、ミャオもモンも語源は同じと考えられています。

 苗族にも、古来から同様のヤハウェ信仰があります。
 苗族にもまた、天地を創造し、あらゆる生物と人類を創造された創造主なる神に関する言い伝えがあります。
 またその言い伝えは、大昔の大洪水と人類の絶滅、箱船によって一家族が助かったこと、またバベルの塔、民族の起源などに関するものも含まれ内容は『聖書』に酷似しています。

  天地創造と地球のバプテスマ

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 苗族の言い伝えは、キリスト教の宣教師によるものではなく先祖の言い伝えを忠実に保持してきたにすぎないのです。

 苗族は長江流域で稲作を営み、太陽・鳥・蛇を信仰し、太陽族・鳥族・蛇族の三苗(さんびょう)とよばれました。
 紀元前2000年前ごろの気候変動(寒冷化)にともない、北方の部族が南下し苗族と戦いに苗族が敗れ、あるいは移動せざるを得なくなり長江文明も滅んだとされています。

 中国の伝説は、アブラハムの時代に東へと移動したヘブル人の一派の羌族の黄帝が苗族を倒したときに彼らの歴史における初の戦争が起こったとされます。
 
 中国甘粛省蘭州大学生命科学学院の謝小東教授は「DNA調査の結果、現代の中国人はさまざまな民族の特質が混ざっていて、いかなる特定民族の特質も顕著には表れなかった」と説明しています。
 また「かなり以前から『漢民族は中原に暮らしている』と考えられてきましたが、これは特定時代の漢民族を周辺の他の種族と区別するために作った地域的区分にすぎない」とし「漢民族をこのように地域的に特定して定義することはできない」と指摘しました。
 
 紀元前12世紀の陝西省西安を首都とした西周は漢民族政権に属しますが、そののちの春秋戦国時代に同じ地域に建てられたは少数民族の「西戎」が主流だったということです。
 また中国の歴史に表れる中原の範囲に居住する人々を漢民族だと規定するのも歴史的事実とは合わないという主張です。

 さらに、中国人は自らを「炎帝と黄帝の子孫(炎黄子孫)」と主張しますが、研究の結果、黄帝と炎帝の発源地も北狄(ほくてき)地域だったことが研究の結果から分かりました。

 黄帝と炎帝の発源地はともに黄土高原地域で、ともに漢民族の本拠地ではなく居住地域でもなかったのです。

 謝教授は「研究の結果、むしろ中国北部から南部に移住した『客家』が古代中原人の文化伝統を継承したことが分かった」とし「彼らの古語、風俗および習慣からして、客家こそが本当の中原人」と強調しました。
 
 謝教授は中国に純粋な血統の漢民族がもはや存在しないのは大規模な民族移動と関係があるとし、長い歴史の中で周辺少数民族、さらには周辺国家が漢民族と融合してきた結果でもあると付け加えました。

 バベルの塔崩壊後の紀元前2000年ごろ、アブラハムはシュメール文化の中心地である首都ウルで生まれました。
 両親と住みながら、そこで彼はシュメール人のサラを妻に迎えます。
 アブラハムはヤハウェの指示で家族や使用人とともに多数の家畜を連れて各地を転々とします

 羌族はアブラハムの時代に東へと移動したヘブル人の一派と考えられます。
 預言者ノアの息子であるセムは長じて大祭司メルキゼデクとよばれます。
 セムの子孫は主にアジア全域に広まりました。
 メルキゼデクを祖とする預言者アブラハムの子孫も遠く東アジアへと移動しました。

 紀元前1900年ごろからと考えられている夏王朝の存在自体は考古学的にも最近の発掘調査で確認されました。
 漢字学者の藤堂明保は「夏」の字を甲骨文字や金文からの形成の変遷を分析し「大きい人」の美称ではないかと述べています。
 ヤレド人と同様にバベルの塔崩壊後に東へ移動した人々かもしれません。

 シュメール語において「エン」とは「主人・神」を意味します。
 「エンシ」とは祭司王から都市の王の意味になった記録が確認できます。
 シュメール語の「エン」の絵文字は宗教的な分野での統率者を意味し、中国神話の創世の始祖である三皇の1人「炎(えん)帝」(神農)の名と同じ「エン」があります。

 炎帝の発祥の地は陜西省宝鶏市の南30kmにある天台山であるとされています。
 伝説によると母の女登は神龍に感じて炎帝を生み、人身にして牛首であったといいます。
 火徳の王であったので「炎帝」と称したとあります。
 エン・リル神もシュメールでは「野生の雄牛」とよばれ共通しています。

 中国書体の初めの10文字「十干(じっかん)」は、夏王朝後の黄帝の時代のものでしょう。
 十干は、甲・乙・丙・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛・壬(じん)・癸(き)の総称で、五行(万物を組成する五つのもとになる気)の木・火・土・金・水と結びつけて、それぞれ兄(え)(陽)、弟(と)(陰)をあて、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)とも読みます。
 十二支と組み合わせて年・日の表示などに用います。

 甲骨文字の形はシュメール文字の形に似ている字がいくつもあります。
 十干の甲骨文字の形はシュメール文字の形に似ています。

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 1年を12か月とすることや、60進法で1度を60分、1分を60秒、1時間を60分と定めたのもシュメール人でした。
 十干十二支が一巡する60年が還暦です。

 客家はY染色体ハプログループO2で、苗族(ミャオ族)はO2が約61%です。



  日本に来た苗族

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 苗族(ミャオ族)が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていました。
 味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ漆(うるし)や絹を利用します。
 主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われています。
 
 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていました。

 苗族の伝承では、(ご 紀元前585年ごろ‐紀元前473年)は苗族の国で、その国が紀元前473年に越(えつ)に滅ぼされたとき、一部の苗族は日本に逃げたしています。

 熱湯に手を入れて正しき者は焼けないが不正な者は焼けてしまうというクガタチの風習について、苗族が伝えたといいます。

 吉野の国主(クズ)とよばれる先住民が応神天皇とその太子の前で歌う場面が『古事記』にありますが、それに続いて国主が低く横に平たい臼の横臼を横たえて酒を造る記述が見えます。
 横臼は苗族も持っています。

 またベトナムに住む苗族族に、畑を開墾する老人がどうしても切り倒せない大木があり困っていると、1匹の蛇が現われ老人の3人娘のうちの1人をもらう約束で木を焼き払い、3番目の娘をもらって水の宮に連れて行く伝承が伝わっています。
 岐阜県の有名な夜叉ヶ池の伝説は、日照りで困っている長者の前に1匹の蛇が現われ老人の3人娘のうちの1人をもらう約束で田に大雨を降らせ、3番目の娘をもらって山の中の沼に連れて行く物語です。
 
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 画像は、上、苗族がいた雲南省、滇(テン)国(紀元前3世紀ごろ)出土の青銅器に彫刻された図と、下、鳥取県淀江、角田遺跡の弥生土器の線刻。
 
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 では銅の生成技術に優れており、『荘子』逍遥遊篇によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨を施していたといいます。
 『墨子』公孟篇や『史記』越王勾践世家などにも同様の記事が見られます。

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 越族または百越は、主に江南とよばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称です。
 越族は、ハプログループO1b系統に属していたとされます。
 O1b1a1とO1b2は長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退にともない、O1b1a1および一部のO1b2は南下し百越とよばれ、残りのO1b2は西方および北方へと渡り、山東省、朝鮮半島、日本へ渡ったとされます。
 O1b1a1aオーストロアジア語族と関連しています。
 O1b1a1系統と姉妹関係のO1b2系統(倭人)が日本に多く見られることは、日本語とオーストロアジア系クメール語の語彙類似性が高いとするデータとも符合します。 (安本美典 1991 『日本人と日本語の起源』)

 と越は、ともに中国の南西部にあった国で、漁民は文身断髪をしていたことが中国、(みん、紀元1368年‐1644年)の参考図書『事物起源』に記されています。
 呉と越の漁民は皆南方系の人々で倭人と非常に近かったと考えられ、とくに越は倭と同じく「ヲ」と発音します。
 小倉貞男は著書『物語 ベトナムの歴史』(中公新書 1997年)で、「ベトナム人はどこから来たか」という問題に関して、中国の史書によると、ベトナム人は中国南部から移住した民族との説を紹介しています。
 「ベトナム人は紀元前6世紀に、現在の中国浙江省の北部を占めていた越から出た。
 この国の住民は、原始ベトナム人と同じように身体に刺青を施し、頭髪を刈る習慣があった。」
 
  4 沖縄の線刻石板と海底遺跡 2/2


 『魏志倭人伝』では倭人は、古代アメリカのレーマン人やマオリなど太平洋の島々の人々と同様に入れ墨をしていました。
 
 ・ 好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても皆潜って採る。
 ・ 倭の水人は、好んで潜って魚やハマグリを捕え、体に入れ墨して大魚や水鳥の危害を払う。
 
 ここで倭の水人(倭水人)と書かれていて、当時の中国では明らかに倭人のことを海洋民族としてとらえています。
 そして、倭人の男性は、顔や体に入れ墨をしていて最初は大魚や水鳥よけでしたが、のちに飾りになり所属や身分により違いがある入れ墨になったとあります。

 紀元3世紀末に原始キリスト教徒が集団渡来し、邪馬台国(ヤマト国)がヤマト王権に移行してからは、入れ墨は廃れていきました。

 入れ墨は、皮膚に刺し穴をあけ刺し穴に消えない墨を入れることによって作るしるしや図柄です。
 この行為は神聖な人間の体を汚すことであり、目立たない所に血液型や認識番号を.書き込むことを除いて、容認されるべきではありません。


 死人のために身を傷つけてはならない。
 また身に入墨をしてはならない。
 わたしは主である。 (レビ 19:28

 入れ墨をした人は、神殿の儀式や祝福を否定されることはありません。
 
 中国やモンゴルに入れ墨文化はありませんが、太平洋の台湾や南のボルネオニューギニア付近一帯には、現在も入れ墨文化が残されています。
 その海域の島々だけでなく、バリ島インドネシアマレーシアにかけた一帯にも昔から入れ墨文化がありました。
 さらに、アイヌや沖縄でも最近まで行われていた風習です。
 南太平洋にあるマルケキーズ諸島の入れ墨をした戦士ですが、ここでは顔、胸、背、腹、手、脚、のほか、唇、瞼、歯茎までも入れ墨をするので有名でした。

 南洋文化圏に属する国や島には、入れ墨の風習があったのです。
 ニュージーランド(マオリ語で翡翠の水の意)には先住民のマオリの入れ墨の複雑さは飛び抜けており、とくに特徴的なのは渦巻き模様で酋長の入れ墨は手が込んでいました。
 
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 マオリの女性は、口の周りに入れ墨をしていました。
 マオリにとっての入れ墨は神話に基づく彼らの過去とのつながりや、彼らの祖先の特徴を物語るものといわれています。
 そのデザインは各地域の神の像に施されたカービング(渦巻き)のパターンを模倣しているといわれ、入れ墨が自分の家族の起源、強いては地域上、歴史上の一族の情報を記録しているとされます。
 入れ墨のパターンは渦巻きが主流で、男性は顔や臀部からももにかけて、女性はあご、唇、鼻孔と限られた体の部分に施されるのが普通でした。
 
 『魏志倭人伝』にも入れ墨をしていたと記されていて、アイヌも入れ墨をしておりアイヌの女性も最近まで口もとに入れ墨をしていました。
 
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               東日本の縄文人
 
 アイヌの入れ墨は、カリフォルニアのインディアン独特のパターンと同じで、とくに北部ユキ族の入れ墨のパターンと一緒です。
 ユキ族の入れ墨は、頬部を中心に文様を描き、そのほかの地域のインディアンは口許から顎にかけての部分だけに入れ墨がされています。
 そのユキ族の入れ墨の仕方が、縄文土偶の入れ墨と共通点が多数認められます。

        Ainu Tattoos
            アイヌの女性

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 画像は、左上 アイヌ  右上 台湾  左下 アメリカ・インディオ  右下 インカ
 
 アイヌや琉球民族、クマソは、当時は海洋民族でした。

 大きな文化集団を単純に「海の民」「山の民」と分けることはできませんが、これまで「山の民」としての縄文人の側面のみが強調されてきました。
 しかし、実際の縄文人は海の民で海洋とのかかわり合いが深い文化を備えていました。
 
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 1.香川県善通寺市の仙遊遺跡出土 2.愛知県安城市の亀塚遺跡出土 3.茨城県下館市の女方遺跡出土
 
 マヤ人やクマソ、琉球諸島の人々、アイヌたち、台湾の高砂族、東南アジアの少数民族の女性たちは、どの民族も結婚の前に入れ墨をする習慣があり、その場所も指先から手の甲にかけて同じ箇所に彫られ文様もよく似ています。

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 アイヌの女性は、手の甲だけでなく口の周りにもかなり派手な入れ墨をしていました。
 アイヌでは結婚する前12から16歳くらいに入れ墨をするのが風習となっており、入れ墨をしないと周囲から一人前の女性と見なされず結婚することも儀式へ参加することも許されなかったようです。

 沖縄や琉球諸島でも「針突き」とよぶ同じ風習がありました。
 呼び方は島によって異なり、奄美大島ではハズキ、沖縄本島ではハジチなどとよんでいました。

 1719年に沖縄を訪れた徐葆光(じょほこう)の『中山伝信録(ちゅうざんでんしんろく)』には、この地の女性は15歳で針突き模様を完成すると記されているので入れ墨をする年齢もアイヌとよく似ていたことが分かります。
 また入れ墨をする理由については 、琉球諸島では入れ墨を持たない女性は次の世に行けないという信仰があったようですが、アイヌも同様な来世観を持っていてほとんどすべての女性が入れ墨をしていたようです。
 なお琉球諸島の針突きは1899年(明治32年)に「入れ墨禁止令」が出されたのち、風俗改良運動が進展する中で次第にその習性が消えていきました。 

  5 秦朝のユダヤ人 2/2