10 日本に来た契約の箱と三種の神器 3/5 
 
 三種の神器(さんしゅのしんき)とは、天皇の王権を示すレガリア(正当な王であると認めさせる象徴となる物)のことです。
 天皇家のシンボルは、三種の神器です。
 三種の神器とは、「八咫鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」です。
 現在の実際の儀式に使われるのは三種の神器の代わりに使用するものでレプリカではなく神器に準ずる物です。
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 画像は三種の神器の形代の想像です。

 「八咫鏡」は、「天岩戸神話」において天照大神が御姿を写したとされる鏡です。

 伊斯許理度売命(イシコリドメノミコト)が作り、真賢木にかけられました。
 のちに天照大神が天孫二ニギ命に託し、これは自分の分身であると告げました。
 これによって、日本を統治するのは天照大神の子孫ということが決まり、その証が八咫鏡となりました。
 
 「八尺瓊勾玉」(曲玉とも表記)も、同じく「天岩戸開き神話」に由来する神器で、原始キリスト教徒である忌部氏(いんべうじ)系の祭祀氏族である玉造部の祖先、玉祖命が作ったとされる勾玉です。
 八咫鏡と一緒に真賢木にかけられました。

 そして、「草薙剣」は天照大神ではなく、スサノオ命ゆかりの神器です。


 


 高天原を追放されたスサノオ命は、ヤマタノオロチを退治し、そのとき尻尾の先から出てきたのが「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」です。
 のちにスサノオ命は、この剣を天照大神に謙譲し神器の1つとなりました。
 しかし、やがて時代が下り、倭建命(日本武尊)(ヤマトタケル)が天叢雲剣を持って、東征に出発し途中の静岡の焼津にて野火を放たれた際ニ天叢雲剣で燃える草を薙ぎ払いました。
 このときから天叢雲剣は「草薙剣」とよばれるようになりました。
 
 古代イスラエルの三種の神器は、「十戒の石板」「マナの壺」「アロンの杖」です。
 十戒石板の入った契約の箱、アロンの杖、マナの壺は行方不明とされていますが、すべて日本に持ち込まれています。




  八咫鏡
 
 「平家」とは平氏の家、朝廷に仕え続けた伊勢平氏の一門を指す言葉です。
 平氏と源氏との戦い「壇ノ浦の戦い」(1185年)で、平家が滅亡しましたこの戦いは、皇位継承を決定する「三種の神器」の争奪戦でもありました。

 平氏の負け戦が明らかになったとき、幼い安徳天皇を抱いて祖母二位尼(にいのあま)が入水しましたが、そのとき三種の神器も一緒に海に消えそうになりました。
 平重衡(たいらのしげひら)の妻は八尺瓊勾玉の入った唐櫃(かぶせ蓋の付いた方形で大形の箱)を抱えて飛び込もうとしましたが果たせず、源氏武者が手に入れて事なきを得ました。
 しかし、箱を開いた武者は血反吐を吐いて悶絶しました。

 「八咫鏡」は三種の神器の総称ともいわれる三種の神器の入れ物「神璽(しんじ)」に入っていて、海に漂っている所を拾い上げられました。

 昔、日本では鏡といえば2枚です。
 合わせ鏡(2枚の鏡を向かい合わせ)に配置し、後姿を見るように使用しました。

 「神璽」に入って浮かんでいた八咫鏡は、2枚が存在するとされ、思い浮かぶのは天之日矛(アメノヒボコ)が運んできた神宝「奥津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)」です。 (参照

 それと同じことを示唆するのが、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)の白石と天之日矛(アメノヒボコ)の赤玉です。
 両者は同一人物で、玉は石となり、2枚あることを暗示しています。
 2枚の石板が「神璽」に入っていたということは、神璽=契約の箱に入っている2枚の十戒石板です。

 
 ソロモンは主の契約の箱をダビデの町シオンからかつぎ上ろうとして、イスラエルの長老たちと、すべての部族のかしらたちと、イスラエルの人々の氏族の長たちをエルサレムに召し集めた。
 イスラエルの人々は皆七月の祭に王のもとに集まった。
 イスラエルの長老たちが皆きたので、レビびとたちは箱を取り上げた。
 彼らは箱と、会見の幕屋と、幕屋にあるすべて聖なる器をかつぎ上った。
 すなわち祭司とレビびとがこれらの物をかつぎ上った。
 ソロモン王および彼のもとに集まったイスラエルの会衆は皆箱の前で羊と牛をささげたが、その数が多くて、調べることも数えることもできなかった。
 こうして祭司たちは主の契約の箱をその場所にかつぎ入れ、宮の本殿である至聖所のうちのケルビムの翼の下に置いた。
 ケルビムは翼を箱の所の上に伸べていたので、ケルビムは上から箱とそのさおをおおった。
 さおは長かったので、さおの端が本殿の前の聖所から見えた。しかし外部には見えなかった。
 さおは今日までそこにある。
 箱の内には二枚の板のほか何もなかった。
 これはイスラエルの人々がエジプトから出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれ、モーセがホレブでそれを納めたものである。  (列王上 8:1-9

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 これは、イスラエルのソロモン神殿に置かれた神宝の様子を記した箇所で黄金でできた契約の箱の中に、十戒石板が2枚入っていることが記されています。
 
 「神璽」とは、神輿の原形で「本神輿」と呼ばれる木製の棺のことで金箔が貼られていました。
 神輿の上には羽を広げた「鳳凰」が乗りますが、鳳風とは陰陽一対の「鳳・凰」を合わせた聖鳥で、本来なら雄と雌が左右一対に向かい合う姿になります。 

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 一つ一つの文字が意味を表している「表意文字」でもある漢字は、物の形をかたどって描かれた「象形文字」でもあるので、神璽の「璽」は箱の上で向かい合い羽を広げて頭をたれるケルビムの姿に見えます。

 また偏や旁などに分解して意味を読み取る「漢字破字法」を使うと「・玉」で、爾は「汝」「然り」の意味です。
 「玉」は漢和辞典では「王」と同格とあります。 
 その意味は「至極」、玉は自然石であり、その王といえば宝石以外は「大理石」です。
 大理石は、石灰岩が変成作用を受けてできた粗粒の方解石からなる結晶質石灰岩です。
 また美しい石灰岩も総称し、建築・装飾用の石材として用います。
 契約の箱に収められた2枚の十戒石板の材質は大理石と考えられいます。
 
 八咫鏡=十戒石板には10の戒めが刻まれ、十戒の標準によって自分の思い言動が計られます。
 
 旧約の民である徐福も十戒を保持し日本に渡来しました。
 


  物部氏の十種神宝

 秦氏の長、聖徳太子が製作したとされる物部氏の歴史が記されている一書の『先代旧事本紀大成経』は偽書とされていますが、多くの真理を含んでいて正しい内容も多いです。
 『先代旧事本紀大成経』のダイジェスト版である『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』によると、ニギハヤヒ命は「天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)」をたずさえて降臨し、それは神武天皇が即位する際に献上された伝説があります。

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 「璽(じ)」とは、印です。
 秦の始皇帝により、皇帝の印章を指す言葉として使われるようになりました。
 そののち、日本においても天皇陛下の印章を指す言葉として使われるようになります。
 「瑞」は、祭りのときに持つ貴重な玉、喜ばしい印の意味です。

 ニギハヤヒ命と神武天皇が互いに示した、天津神の子である証拠の印は、『古事記』では「天津瑞」と記され、『日本書紀』では、具体的に天羽羽矢(あめのはばや)と歩靱(かちゆき)です。

 天津神・国津神(あまつかみ・くにつかみ)は、日本神話に登場する神の分類です。
 つまり、天津神は天=工人で、大工だった天にいるイエス・キリストで、原始キリスト教徒です。 (参照
 そして、国津神は、天津神を信仰する原始キリスト教徒の渡来前に日本にいた先住民の信仰していた神であるヤハウェであり、またはヤハウェを信仰していた人です。


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 ニギハヤヒ命は天降するに際し、天神から十種神宝を授かりました。
 十種神宝は以下のものです。

 ・沖津鏡 (おきつかがみ)
 ・辺津鏡 (へつかがみ)
 ・八握剣 (やつかのつるぎ)
 ・生玉 (いくたま)
 ・死反玉 (まかるがえしのたま)
 ・足玉 (たるたま)
 ・道反玉 (ちがえしのたま)
 ・蛇比礼 (へびのひれ)
 ・蜂比礼 (はちのひれ)
 ・種々物比礼 (くさぐさのもののひれ)

 沖津鏡と辺津鏡は籠神社の神宝である「息津鏡(おきつかがみ)」「辺津鏡(へつかがみ)」と同じ名前です。
 十戒石板は2枚なので、息津鏡、辺津鏡で鏡は2枚あると示しています。 

 十種神宝は、ユダヤ密教の「命の木」の象徴図形の各部分を示しています。

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 『先代旧事本紀』によると、かつて父スサノオの命によって九州を治めていたニギハヤヒ命が、大和の地(奈良県桜井市周辺)へ遠征する際に、従者が32人いたといわれています。

 十種の神宝、32人の武将の数は、「命の木」から採られたものです。
 
 紀元2~6世紀ごろの成立と思われる『形成の書』(創造の書)には、以下のようにあります。
 「無窮なるエン・ソフ(ヘブル語の無窮)の世界から、分離世界が形成されるとき、そこに10の特質が識別可能となった。これがセフィロトである。」
 「聖なる知恵の32の経路」
 「そこには無形の10のセフィロトおよび基礎となる22の文字がある。……」 

 十種の神宝を持ち、一から十まで唱えてゆらゆらと振れば、死んだ者も生き返るといわれています。
 十種神宝の法は、十種神宝を使いひー、ふー、み……とい唱えれば、神は復活するとされます。

 天照大神が天岩戸に隠れたときに唱えた祈祷文は、次の10の音からなります。
 「ひー・ふー・み・よ・いつ・む・なな・や・ここ・と」

 これは日本語ではまったく意味が分かりませんが、ヘブル語では次のように訳すこともできます。

 ヘブル語発音
 「ヒー ・ フー ・ ミンハー ・ ヨ ・ ヒイツィヴ ・ ムッ ・ ナ ・ ヤ ・ コル ・ツー」

 日本語で訳すとこういう意味に読み取れます。
 「彼女は(ヒー)、彼(フー)。
 ささげ物(ミンハー)のヤハウェ(ヨ)は、置かれて(ヒイツィヴ)死ぬ(ムッ)願います。(ナ)
 ヤハウェ(ヤ)の音(コル)は岩(ツー)なり。」 (参照

 布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞(はらえことば)」、「ひふみ神言(かみごと)」ともいいます。 (フル 参考


 アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、モーセはヨシュアに言った。
 「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」
 ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。
 モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。
 モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。
 モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。
 モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。
 その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。 (新共同訳 創世 17:8-12)
 
 アロンは荒野での放浪の初期においてはモーセの補佐役として重要な役割を担っています。
 アマレク人との戦いにおいては、モーセが杖をあげている間はイスラエル人が優勢になっていました。
 モーセが疲れて手をおろすと、アロンとフルがともにモーセの左右でその腕を支えました。

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 つまり、徐福集団の子孫「海部氏」のルーツである「アロン」「天皇」のルーツである「フル」がイスラエルの預言者を助けたのです。


 十種神宝は、ユダヤ密教(カバラ)の「命の木」の象徴図形の各部分を示しているので、神の愛の表れである命の木、つまりイエス・キリストによって復活はします。 (命の木 参照) 

 天児屋命(アメノコヤネノミコト)は、岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱えます。 (参照

 「十種神宝」を継承していると称す神社の中には、不思議な図形を掲げる所が少なくありません。
 実は静岡の飯綱神社には「十種神宝」の図形のほかに、それらに付随して徐福の渡来したときに導入された漢字以外に使用されていた神代文字のアヒルクサ文字で、文言が記されています。
 解読できませんが、「十種神宝」の1つずつ文章が着いていて、合計で10の文章があるのです。
 これは「十戒」です。
 モーセがヤハウェから授かった十戒が「十種神宝」の正体なのです。

 そして、「十種神宝」とそっくりなのが天之日矛がたずさえて来た神宝「八種神宝(やくさのかんだから)」です。 

 記紀で数と内容に差がありますが、その内『古事記』に記されています。

 ・奥津鏡
 ・辺津鏡
 ・珠
 ・珠
 ・浪振比礼 (なみふるひれ)
 ・風振比礼 (かぜふるひれ)
 ・風切比礼 (かぜきるひれ)
 ・浪切比礼 (なみきるひれ)

 一方『日本書紀』では、天之日矛がたずさえてきた「八神宝」については異伝として、「八種神宝」と「七種神宝」の2つのバージョンを掲載しています。

 ・日鏡 (ひのかがみ) 
 ・出石槍 (いずしのほこ)
 ・出石刀子 (いずしのとうす)
 ・胆狭浅太刀 (いささのたち)
 ・葉細玉 (はぼそたま)
 ・足高玉 (あしたかたま)
 ・鵜鹿鹿赤石玉 (うかかのあかいしたま)
 ・熊神籬 (くまのひもろき)
 
 いずれも記紀は天之日矛の「神宝」が今日、但馬の「出石神社(いずしじんじゃ)」に納められていると記します。
 「神宝」の種類は鏡と剣などの武器や玉などで、名前も同じものやとても似ているものがあります。

 旧約の民、ニギハヤヒ命がたずさえてきた「十種神宝」は「十戒」であり、新約の民である原始キリスト教徒の天之日矛のたずさえてきた「八種神宝」は、「八福の教え」だと思われます。
 
 籠神社のこ神宝である2つの伝世鏡が、「十種神宝」や「八種神宝」の2つの鏡と名前が同じであるのは、旧約の「十戒」を含むさらに高い「八福の教え」であり、原始キリスト教徒たちが十戒石板を持ってきたからです。
 籠神社の隣、但馬の出石神社に「八種神宝」が納められたという話は、旧約から新約の教えに改宗したことを表しています。
 
 復活したイエスは、ユダヤの人々と同様に、古代アメリカの人々に教えられました。


 さらにまた、あなたがたが私に会ったと証し、私が実在することを知っていると証する時、あなたがたのその言葉を信じる人々は、なおさら幸いである。
 まことに、あなたがたの言葉を信じて、心底謙遜になってバプテスマを受ける人々は、幸いである。
 彼らは火と聖霊を授かり、赦しを受けるからである。
 まことに、私のもとに来る心の貧しい人々は、幸いである。
 天の王国は彼らのものだからである。
 また、悲しむ人々は皆、幸いである。
 彼らは慰められるからである。
 柔和な人々は、幸いである。
 彼らは地(日の栄えの地球)を受け継ぐからである。
 義に飢え渇いている人々は皆、幸いである。
 彼らは聖霊に満たされるからである。
 憐れみ深い人々は、幸いである。
 彼らは憐れみを受けるからである。
 心の清い人々は皆、幸いである。
 彼らは神を見るからである。
 平和をつくり出す人々は皆、幸いである。
 彼らは神の子と呼ばれるからである。
 私の名のために迫害される人々は皆、幸いである。
 天の王国は彼らのものだからである。
 私のために人々があなたがたをののしり、また迫害し、またあなたがたに対して偽って悪口を言う時には、あなたがたは幸いである。
 あなたがたは大きな喜びを得て、非常に喜ぶようになる。
 天においてあなたがたの受ける報いは大きいからである。
 あなたがたより前にいた預言者たちも、同じように迫害されたのである。 (3ニフ 12:2-12
 
 「さいわいである (blessed)」という言葉で表現される喜びは、単なる「幸福 (happiness)」以上のものです。
 「幸福 (happiness)」は外部からもたらされ、しかも状況に左右されますが、幸い(blessed)は人間の心の中で喜びの泉となるものであり、外的状況が重大な影響をおよぼすことはないのです。


 

  「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」 ラッセル・M・ネルソン 十二使徒定員会

  憐れみ深い人々は憐れみを受ける ディーター・F・ウークトドルフ管長 大管長会第二顧問

  山上の垂訓 1/3~3/3
 

 古来、鏡は己の姿を映し出すもので、仏教には閻魔が用いる浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)という物があり、決め事や律法、道徳に照らし合わせて人を裁く象徴とされます。
 「八咫鏡」は鏡を意味するため、自分の真の姿を写すことが象徴された神器で、鏡で自分を眺めるように、第三者的に自分の現状を見られるための神器なのです。
 
  仏教解明 閻魔


 明治の文部大臣だった森有礼(もりありのり)伊勢神宮の三種の神器の1つ「八咫鏡」の形代(かたしろ)」(レプリカではなく神器に準ずる物)の裏面に、ヘブル語でヤハウェ(יהוה‎)と記されているのを見たと主張しました。



  八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

 「勾玉」は、「マナ玉」とすれば、玉はマナを入れた壺を意味することになります。
 さらに「勾」の「勹(ほう)」は、本来は「包み込む」ことを示し、「ム」は漢字原型を見るとその形は下が丸く玉のようで上が直線で全体的には明らかに壼型をしています。
 事実、ヘブルの壼は底が丸く、そのままでは固定できないため、座布団のようなものに乗せるか三叉の壺立て、または上から吊しました。
 つまり壺は玉のような底をしており、上に向かうほどカーブを描き壺型に曲がっていたのです。
 つまり勾玉は、マナの壺を象徴していたのです。
 そして、「ム」は元は鼻であり、鼻はヘブル語でアフで、自分自身「私はある」の意味になります。


 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」 (新共同訳 ヨハネ 8:58)

 つまり、私はある=ヤハウェ=イエス・キリストなのです。

  わたしは有る ヤハウェ(英語 エホバ)

 秦氏が渡来のときの日本の先住民の物部氏が大切にしている装飾品に「マナの壺」の象徴を込めて、「八尺瓊勾玉」にしました。

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  海幸彦・山幸彦物語

 『記紀』には、「海幸彦・山幸彦物語」神話が収められています。

 兄の海幸彦は海辺に住み漁をしていました。
 弟の山幸彦は山に住み、猟をしていました。
 ある日、兄弟は漁具と猟具を交換します。
 ところが、山幸彦は兄から借りた釣り針を海に紛失してしまいます。
 山幸彦は十握剣(とつかのつるぎ)を砕いて500本、1000本の釣り針を作って弁償しましたが、兄の海幸彦は釣り針を受け取らず、弟を許そうとはしませんでした。

 海辺で憂えている山幸彦の前に塩土老翁(シオツチノオジ)が現われ、海神豊玉彦(ワタツミトヨタマヒコ)の国へと連れて行きます。
 海宮に来た山幸彦は、神聖なる井戸の側に立つ桂の木の上に登って、しばらく国の様子を見ます。
 そこへ海神の娘で「豊玉姫(トヨタマヒメ)」という名の女神がやって来ました。 
 玉壺を手に持ち、井戸の水を汲もうとした豊玉姫(もしくはその侍女)は水面に映る山幸彦の顔に気づきます。
 山幸彦は「水を一杯くださいませんか」と言い、女が容器にくんで渡すと、山幸彦は自分の持っていた珠を口に含んでから容器に吐き入れると、珠は容器から離れなくなってしまいました。
 女は不思議に思い、容器をそのまま自分がお仕えしている姫様、豊玉姫の所に持って行きました。
 豊玉姫がどうしたことかと聞きますと女は「入り口の泉の木の上にそれはたいそう立派な男の方がおられます。
 水を所望なさったので差し上げましたら、この珠を容器に入れられました。
 すると取れなくなってしまったのです」と答えました。
 
 これが2人の出会いで、のちに豊玉姫は山幸彦の正妻となります。
 山幸彦は3年間、そこに住んだのち、海神に地上に戻りたいと告げます。
 海神は彼に「潮満玉(しおみつたま)」と「潮干玉(しおひるたま)」という宝玉を授けます。
 海の塩の満ち干きを自在に操ることができる玉です。
 「お兄さんが高い所に田を作ったら貴方は低い所に田を作りなさい。
 お兄さんが低い所に田を作ったら、あなたは高い所に田を作りなさい」と助言しました。
 そうしてワニに命じて、山幸彦を岸辺まで届けさせました。
 山幸彦はこれで兄の海幸彦を懲らしめ、自分に服属することを約束させます。
 寛容な心を持たなかった山幸彦はやがて没落し、宮廷に仕える隼人(はやと)の祖となったといいます。

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 エサウとヤコブは双子の兄弟で、父はイサク、母はリベカです。
 エサウは巧みな狩人であり横暴な性格でしたが、弟のヤコブはとても優しく穏やかな人でした。
 父イサクはエサウを愛し、預言者としての神権を彼に委譲しようとしました。
 しかし、母リベカは長子としての特権を軽んじるエサウよりも寛容で心優しいヤコブこそが、父の祝福を受けるにふさわしいと考えました。
 そこで、イサクの目が老齢でよく見えなかったことを良いことに、ヤコブにエサウのふりをさせて、父の祝福を奪ってしまったのです。
 これに激怒したエサウはヤコブを憎み、機会あれば彼を殺そうとしました。
 そのことを察した母リベカは、ヤコブを叔父のラバンの所に送り出します。

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 ヤコブがラバンの土地に着くと、そこには井戸があり、ラバンの娘であるラケルが羊に水を飲ませようとしていました。
 これが2人の出会いであり、のちにラケルはヤコブの正妻となります。
 ヤコブは20年間、叔父であるラバンのもとに滞在しますが、のちに父祖たちの土地へと帰還します。
 ヤコブが土地へ帰ると、兄エサウの怒りも冷めており、兄弟は再び仲直りします。
 そして、エサウはイサクの預言どおり、のちに没落し、弟に仕えます。

 海幸彦・山幸彦物語との共通点、類似点があります。

 弟が兄の役割を演じていたときに、兄の大きな怒りを買います。
 弟は兄の怒りを避けるために別の国へと亡命します。
 そして、井戸の側で正妻となる女性と運命的な出会いを遂げます。
 また、ラバンにはレアとラケルの2人の娘がいましたが、一方の海神にも豊玉姫と玉依姫(タマヨリヒメ)の2人の娘がいました。
 またヤコブと山幸彦は、ともに入り婿結婚であることで共通しています。
 そして、夫は妻を連れて自分の土地へと帰ります。
 兄弟は和解しますが、兄はのちに没落し、弟に仕える身となります。


 記紀の「海幸・山幸彦神話」で、山幸彦が海神の宮にやって来たとき、彼は井戸のそばで豊玉姫に出会います。
 女は井戸に水をくみにやって来たのですが、手にしていた壺の名前が「玉壼」といいます。
 このとき、山幸彦が水を所望し、これに答えて曲豆玉姫は水を入れた玉壺を彼に差し出し、山幸彦は持っていた「珠」を口に含み玉壺(容器)に吐き出すと、「珠」と「玉壺」は離れなくなってしまったといいます。
 勾玉と壺がくっ付いて一体となりました。
 これは、八坂項勾玉と玉壺が同一であることを暗示しています。

 
 この山幸彦(神武天皇)をまつっているのが元伊勢籠神社です。 
 
 山幸彦が首に下げていた勾玉と壺がくっ付いて、一体となった八坂項勾玉とマナの壺は、同一です。
 山幸彦が持っていた「珠」=「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」
 豊玉姫(あるいは待女)が持っていた「玉壺」=「マナの壺」
 そして「珠」と「玉壺」がくっ付いて離れたくなったことは、両者は1つになったことであり、同一の物とすることなのです。
 すなわち「珠」=「玉壺」であり「八尺瓊勾玉」=「マナの壺」です。
 「マナの壺」は、籠神社にありました。


 秦氏は「沸流・温祚物語」を持ち込み、聖書の物語を含ませ、ニーファイ人の南方系の神話も含ませ「海幸彦・山幸彦物語」を創作したのです。

 「海幸彦・山幸彦物語」は、アメリカからニーファイ人が移住したインドネシアからメラネシア方面に伝えられた説話との類似が多くあります。
 インドネシア東方のモルッカ諸島には、兄から借りた釣り針をなくしていじめられた弟が、ある魚に助けられて釣り針を取り戻し、兄に仕返しをする話があります。
 ミクロネシアに属しインドネシア北東(フィリピン南東)に位置するパラオ諸島には、父に作ってもらった大事な釣り針をなくした息子の話があります。
 それを探しに海に潜ると村があり、水をくみに来た2人の娘と出逢います。

 メラネシアに属するニューギニア島北東海中のビスマルク諸島では、逃げた鳩を追って見知らぬ島にたどり着いた男の話があります。
 鳩を追う男が人の足音に驚いて木に登ったところに、娘が水をくみに来ます。
 娘は水面に映った男を見つけるのです。
 男はその娘と夫婦になりました。
 この島は女だけの国で一騒動ののち、男は故郷の島に帰ります。
 すると、故郷では長い時間がたっており、すでに墓まであったのです。

 「浦島太郎の物語」も同様に、男は故郷に帰ると故郷では長い時間がたっていました。

 

  浦島太郎物語
 
 丹後、元伊勢であり本当の伊勢神宮(本伊勢)である「籠神社」は、祭神の彦火明命(徐福)が、竹で編んだ籠船に乗って、海の彼方の海神の宮(龍宮常世国)に行ったとあります。
 常世国とは仙人が住む世界で、日本における常世信仰の発祥の地は「籠神社」であるといわれています。
 
 常世国とは仙人が住む世界で、日本における常世信仰の発祥の地は丹後、元伊勢「籠神社」であるといわれています。
 
 海の中の常世である龍宮城が登場するお伽噺浦島太郎」も、元は籠神社に伝わる伝説です。
 籠神社がある丹後には、「宇良(うら)神社」(浦嶋神社)があり、浦嶋太郎物語を伝承しています。

 アメリカからニーファイ人が移住したポリネシアの古語に「LIUKU リューク」という言葉があります。
 「LIU リュー」は長期滞在、「KU ク」は島です。
 龍宮(りゅうぐう)は「りゅうく」とも読めます。


 「浦島伝説」のような「オトギ話」を、なぜ「お伽話」と書くのでしょうか。
 お伽話の「伽」が、「伽耶」からつけられたので、お伽話は「伽耶話」となります。
 よって「伽」を「トギ」とは読めないため、わざと伽を当ててオトギ話の持つ意味を象徴したのです。
 つまり、かぐや姫にせよ、桃太郎にせよ、一寸法師にせよ、たとえ舞台が日本でも、内容は伽耶での出来事や伽耶から来た神武天皇や秦氏の話を表しているのです。
 
 「浦島太郎」は、神奈川や長野、鹿児島、沖縄などの日本各地に話が伝わっており、全国約40か所に伝説が残っています。
 昔々、亀を助けた浦島太郎がお礼に龍宮城へ連れて行かれ、そこで乙姫から玉手箱をもらい、絶対に開けてはならないという禁を破り玉手箱を開け中から出た白い煙が出て、瞬く間にお爺さんになってしまったという粗筋です。
 地方によって細部は異なりますが粗筋は同じです。
 
 直接の原典は室町時代(紀元1333年‐1573年)江戸時代にかけて成立した『御伽草子(おとぎぞうし)』に所収されている「浦島太郎」にあります。
 また『万葉集』では、嶋子は老いたのち死んでしまいます。
 『万葉集』9巻にも高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)に「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき内容が詠われています。

 本来、浦島太郎の名は、浦嶋子(うらのしまこ)といいます。
 浦は苗字ではなく、浦辺の意味の浦で、その地域に住んでいた嶋子という人物のことを指します。
 嶋とは山の鳥であり、山は神殿を指し、鳥は天の神の言葉を神に代わって語る預言者を表し大祭司、祭司を表します。 

 万葉集に記されている浦嶋子は、墨江の人と書かれています。
 墨江とは住ノ江のことを指します。
 もともと吉の字を「え」と読んでいたそうで、「すみのえ」は、古くは「住吉」と書いていました。
 つまり「浦嶋子=住ノ江の人=住吉の人」です。
 住吉は「すみよし」は、元は「すみのえ」と読んだのです。
 住吉の「吉」は古来では「エ」と読み、「住」(すみ)と「吉」(え)の間に助詞の「ノ」を入れて、「住吉」は「すみのえ」と読みましたが、平安時代(紀元794年‐1185年/1192年ごろ)のころから「すみよし」と読むようになりました。
 住吉大社周辺の墨江や住之江の地名は、「スミノエ」の読みに漢字を当てたとされます。
 『万葉集』に「墨吉(すみのえ)」との記述があり、これは現在の大阪の住吉のことです。
 ここに住吉大社がまつられており、住吉神の祭神は住吉三神で、表筒男命(ウワツツノオノミコト)中筒男命(ナカツツノオノミコト)底筒男命(ソコツツノオノミコト)です。

 神名の「つつ」とは星のことという説があります。
 そうなら、住吉三神はオリオン座の三ツ星のことです。
 

 
  オリオン座
 
 エジプトの三大ピラミッドは、今から約4300年前の地球のバプテスマであるノアの時代の洪水前の神の教会の神殿です。

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 バプテスマのヨハネを特別な存在として位置付けるマンダ教徒らは、エジプトの三大ピラミッドを3つの星の象徴で語り継いできました。

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 3つの星は神会を象徴しています。
 ノアの時代の洪水前のエノクの時代から、オリオン座の3つ星は神会を表していたのです。

 ピラミッド形の構造物は火星にもあり、約200m間隔で並ぶ3つのピラミッドで、配列はエジプト・ギザの三大ピラミッドと同じです。 (参照

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 画像は、左から、中国の長安ピラミッド、テオティワカンの神殿ピラミッド、エジプト三大ピラミッド、火星のピラミッド、オリオン星座。
 
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 メキシコシティには、かつて多くの神殿ピラミッドが存在し、最も大規模な都市はテオティワカンです。
 テオティワカン文明の開発は、大まかに4つの期間に分割されると考えられています。
 これらの4つのうち、1番目は紀元前150年から紀元200年の約350年間で建物の建造と通商の基礎が確立され、社会は農業生産に大部分は依存しました。
 また画家や彫刻家、商人、建築家、聖職者および政府高官などの職業もありました。
 この時代、テオティワカンには南方から移住した約25000人の住民がたと考えられています。 (参照

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 テオティワカンには、巨大ピラミッドが2基存在し1つは中央に位置する高さ64mの「太陽のピラミッド」、もう1つは通りの端に位置する高さ47mの「月のピラミッド」で、そしてもう1つは高さは20mの「ケツァルコアトルのピラミッド」があります。
 テオティワカンの神殿ピラミッドは、配置と敷地の大きさがオリオン座の3つ星に対応しています。 (参照


 さらに古い「浦島太郎物語」の原典である、奈良時代(紀元710年‐794年)に成立したとされる『丹後国風土記』によると、問題の事件は丹後国与謝郡で起こったことになります。
 丹後国風土記版「浦島太郎」では、主人公は与謝郡日置里に筒川村の「日下部氏(くさかべし)」の先祖とされ、貴人である水江の浦嶋子で、容姿は端整で、風流心(風流、ものの趣を理解する心)も比べる者がないほどでした。

 浦嶋子と神女である亀比売(かめひめ)の物語として以下のように記されています。
 その内容は、以前丹波の国に赴任していた行政官である国司伊余部馬飼(いよべのうまかい)連(むらじ)が書いたものと同じです。
 おおよその出来事は以下のどおりです。

 雄略(ゆうりゃく)天皇が天下を支配していた時代に、嶋子が、独りで小船に乗って海の中に漕ぎ出し釣りをして、三日三晩たっても一匹の魚も釣れないでいたとき、不意に五色の亀を釣り上げた。
 不思議だと思って船の中に置き、そのまま眠ってしまうと亀はいつのまにやら女性になっていた。
 しかも、その姿は麗しく、ほかに比べようがないほどだった。
 驚いた嶋子が、「ここは人家から遠く隔たった海上で人はいない場所です。どこから突然やって来たのですか」と尋ねると、娘はほほえみながら「風流な方が独りで青海原に浮かんでいらっしゃったので、親しく語り合いたい思いに耐えられず、風雲に乗ってやって来ました」と答えた。
 嶋子がまた、「その風雲はどこから来たのですか」と聞くと、娘が答えて、「私は天上の仙人の家の者です。どうぞ疑わないでください。私と語らい、どうぞかわいがってください」と言う。
 
 それで嶋子は、この娘が神女であると知り、慎みや恐れを感じながら半信半疑でいた。
 すると娘はその心を見透かしたように、「私は、あなたと天地や日月がなくなるまで永遠に一緒にいたいと思っています。あなたのお気持ちはいかがでしょう。早くあなたのお心をお聞かせ下さい」と言う。
 嶋子は「もう尋ねることもありません。私の方こそあなたを愛する心に緩みなどありません」と答えた。
 すると、娘が、「あなた、船で蓬莱山に参りましょう」と言い、嶋子がついて行こうとすると、娘は嶋子の目をつむらせた。 
 瞬く間に海の中の広く大きな島に着いた。
 そこは玉を敷いたようで、門の影が長く伸び高殿は日を浴びて輝いており、今まで見たことも聞いたここともない所であった。

 2人は手をつないでゆっくりと進み、1つの立派な家の門前に着くと、娘が「あなたはしばらくここで待っていて」と言って、門の中に入って行った。
 すると七人の子供たちが来て「この方は亀比売様のご主人です」と噂し合い、また8人の子供たちが来て、「この方は亀比売様のご主人です」と言い合っていた。
 それで、娘の名が亀比売(かめひめ)であると知った。
 しばらくして娘が来たので、嶋子が子供たちのことを尋ねると、娘は、「その7人の子供たちはすばる星です。また、八人の子供たちはあめふり星です。どうぞ心配しないで」と言いながら、嶋子を導くように先に立って家の中に入って行った。
 家では娘の両親が嶋子を歓迎した。
 そして、人間界と仙人の世界の違いを語り、人と神とが偶然に出会ったことの喜びを語り合った。
 その歓迎の宴で、多くのすばらしい味わいの食べ物を勧められ、娘の兄弟姉妹たちと杯をあげて乾杯し合い、近所に住んでいる可愛い少女たちも着飾って宴を楽しんでいた。

 仙界の音楽は清らかに澄み透り、神がみの舞う姿は妖艶で、その宴の様子はすべて人間界に比すべきものがないほどだった。
 そのために日が暮れるのも忘れていたが、夕刻になると仙人たちはだんだんと退席してしまい、部屋には娘と嶋子だけが残った。
 2人は肩を寄せあい袖を絡め合って夫婦の交わりを交わした。

 そのようにして、嶋子は故郷を忘れて仙境で過ごし、3年の歳月が流れて行った。
 そのうちに突然、嶋子は故郷が懐かしくなり両親を恋しく思うようになった。
 郷愁がつのり、嘆きは日増しに強くなって行った。
 その様子に気づいた娘が、「このころのあなたは、顔色が良くありません。どうか、悩みごとがあれば聞かせてください」と言ったので、嶋子は、「昔の人は、心劣る人間は故郷を懐かしがり、死期を迎えた狐は生まれた巣穴のある丘に行くといいます。
 私はそんなことはうそだと思っていたのですが、今は真にそのとおりだと思うようになりました」と答えた。
 すると娘が、「あなたは故郷に帰りたいのですか」と尋ねるので、嶋子は、「私は、家族とも離れて、この遠い神仙境にやって来ました。それで、故郷への恋しさに耐えられず、つい心の中をさらしてしまいました。どうか、しばらく故郷に帰り、両親に会いたいというわがままをお許しください」と答えた。
 それを聞いた娘は、涙を拭きながら、「2人の心は金や石のように堅く結ばれ、永遠を誓ったのに、どうして故郷を懐かしみたちまちに私を捨てようとなさるのですか」と言って嘆き、2人は手を取り合って歩きまわり、語り合いながら別れを嘆き悲しんだ。
 そして、とうとう嶋子は袂をわかって娘の元から去ることになった。
 そこで、娘の両親や親戚の者たちが別れを惜しんで見送った。
 
 そのとき、娘は「玉匣(たまくしげ)」(くしげは物を入れるための器、たまは美称)を持ってきて嶋子に渡し、「あなた、こののちも私を忘れることなく、またここに戻りたいと思うなら、しっかりと玉匣を握り、けっして開けて見ようとなさらないで下さい」と言った。

 そして、2人は別れ、嶋子は船に乗った。
 娘は来たときと同様に、嶋子の目をつむらせた。
 たちまち元の筒川の郷に着いた。

 すぐさま村を眺めると人も様子もすっかり変わっていて、知っている者は誰もいなかった。
 そこで、村人に、「水の江の浦嶋子の家族の者は、今どこにいるのでしょうか」と尋ねると、村人は驚いて、「あなたはどこの人なのか、ずっと昔の人を尋ねるなんて。私が古老たちの語り継いできた話を聞いたところでは、ずっと昔に水の江の浦嶋子という人がいて、1人で海に行ったまま帰らなかったといいます。
 今は、そのことがあってから300年以上もたっている。
 どうして、突然そんな昔のことを尋ねるのですか」と言った。
 
 すべてを知った嶋子は放心状態で村を歩きまわったが、知っている人には1人も会わず、10日もの日がすぎてた。
 
 そして、玉匣を撫でながら別れた神女を思い出していた。
 そこで、嶋子は神女との約束を忘れて、ふいに玉匣の蓋を開くと、瞬く間に芳しく若々しい嶋子の肉体は風雲にさらわれるように天空に飛び翔って行ってしまった。
 嶋子はすぐさま約束を破ったから、もう二度と神女に逢えないと悟り、首をめぐらしながらたたずみ涙にむせびながら歩きまわった。

 そして、そこで、涙を拭いながら次のような歌をうたった。
 神女の住む常世の方に、わき立った雲がなびいていく。
 あれは水の江の浦島の子の言伝てを神女のもとに持って渡ってゆく雲だ。
 すると神女もはるか彼方から心地よい歌声を響かせてくる。

 大和の辺りに風が吹いて雲が離れ離れになるように、たとえ私とあなたが隔たっていようとも、どうぞ私を忘れないでください。
 それを聞いた嶋子は、恋の思いに耐えられずにまた歌を返した。

 あの子への思いに眠れずに夜を明かして朝になり、戸を開けてぼんやりすわっていると、懐かしい常世の国の浜辺の音が聞こえてくることよ。
 浦嶋子の物語を聞いた後世の人が、2人の歌に合わせてうたった歌。
 水の江の浦島の子がもし玉匣を開けなかったら、再び神女に逢えたものを。
 常世の辺りに雲が立ち渡ってゆく、心に隙が生じてほんのわずかに心惑いした私が悲しいことであるよ。

 匣(くしげ)は櫛などの化粧道具を入れる箱で、櫛笥とも書かれ、美しく飾られていたので玉匣と呼ばれており、のちに玉手箱に変わります。

 要約すると嶋子が海に船を出し釣りをしていると5色の亀が釣れ、その亀が女(亀姫)に変身し、嶋子を蓬莱山へと連れて行きます。
 島は神仙郷で、浦島太郎は手厚くもてなされ、毎日、大宴会を繰り広げますが、3年後には郷愁の念にかられ、浦島太郎は玉手箱ならぬ玉匣をお土産にもらい、再び地上へと戻ります。
 しかし、村に戻ると、300年も時がたっており、悲嘆に暮れた浦島太郎は絶対に開けてはならないと言われた玉匣の封を解き蓋を取ると、中から白い煙が出て、たちまちお爺さんになってしまったのです。


 『日本書紀』の雄略紀「雄略二十二年条」には、御伽草子版「浦島太郎」のモデルがあります。
 この逸話は第21代雄略天皇のころで、歴史的にも紀元5世紀ごろです。

 『丹後国風土記』の「浦嶋子の物語」の冒頭には、こうありました。
 「雄略天皇の御世、丹後国の与謝の郡、日置の里、筒川の村に、1人の男がいた」

 『日本書紀』では、雄略天皇の所に、以下の文が挿入されています。
 「秋七月に、丹波国の余社郡(よさのこおり)の管川(つつかわ)の人、瑞江浦島子(みずのえのうらしまこ)、が舟に乗って釣りをしていると、大きな亀を得た。
 すると、大亀はたちまち女となった浦嶋子は感動して妻とした。
 海中に入り、蓬莱山にいたって仙境を見てまわった。この話は別の巻にある」

 船で釣りあげた亀が乙女となり、一緒に蓬莱山へ行ったという発端部分のみが記され、最後に詳しくは「別の巻」にあると記されています。
 「別の巻」とは何を指すのかは記されていませんが、「浦嶋子」とあることから『日本書紀』と同時代に書かれたといわれる「浦島子」の話がある『丹後国風土記』だと考えられています。

 「浦嶋子」は「雄略天皇の御世」とあることから、雄略天皇がかかわっているらしいです。
 古文献の『日本書紀通釈』は『日本書紀』について書かれたもので、雄略天皇について興味深い箇所があります。
 「天下に朕が開きて見られざるのなしと宣(のたま)いて、この黄金のつるべ、すなわち甕の口を開かせ給いてたるに、中より白い煙が出でたるより、畏(かしこ)みてこれをもとのごとく密閉せしめたり」

 古来より、代々天皇家には伝わる「黄金の壺」があったといいます。
 雄略天皇は、自らの権威を誇示するために、天皇家に代々伝わる「黄金の壺」を持ち出そうとしました。
 そして、蓋を開けたら中から白い煙が出たので、恐れて閉めたといいます。
 
 「黄金の壺」とは「マナの壺」です。

 中から白い煙が出たとは、浦島太郎の「玉手箱」から、白い煙が出たとする現象とも重なります。

 雄略天皇がマナの壺の蓋を開けた事件に、ニーファイ人の南方系の神話と徐福集団の中国の神仙思想が加わって、「浦嶋子の物語」、そしてお伽話「浦島太郎」へと変化して行ったのではないでしょうか。
 そして、「玉手箱」とは「玉」が「優れた」の意味があるように「非常に優れた箱」を意味します。
 「玉手箱」と「玉壺=マナの壺」の「玉」が、同じなので、「玉手箱」とは、マナの壺を収める箱である「契約の箱」の意味にもなります。




  アロンの杖の正体

 三種の神器の1つ「アロンの杖」も日本に存在します。

 「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」が「アロンの杖」です。

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 江戸時代に一度、熱田神宮の宮司たちが夜、密かに、この御神体を見たという記録が残されています。
 江戸時代の間は祭司の代わりとして働いていた吉田家の『玉せん集裏書』に記されています。
 
 剣の長さは、2尺7、2寸(約85cm)で、刃先は菖蒲(しょうぶ)の葉のようで、中ほどには厚みがあり、また本のほうの6寸(約18cm)ほどは魚の背骨のように節立っており、全体的に白色であったということです。
 5尺(約1m50cm)ほどの木の箱に収められており、その石の箱の中にさらに樟(くす)の木で造られた箱があって、石の箱の周囲と樟の木の箱の周囲には、それぞれ赤土が詰められていたということです。
 
 「草薙剣」はスサノオ命ゆかりの神器です。

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 高天原を追放されたスサノオ命は、「八岐大蛇」を退治し、そのとき尻尾の先から出現したのが「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」です。
 のちにスサノオ命は、この剣を天照大神に謙譲し、神器の1つとなりました。
 しかし、やがて時代が下り、倭建命が天叢雲剣を持って、東征に出発し途中の静岡の焼津にて野火を放たれた際に天叢雲剣で燃える草を薙ぎ払いました。
 このときから天叢雲剣は「草薙剣」と呼ばれるようになりました。
 
 
 モーセとアロンの時もアロンの杖から芽が出てきて、芽の出た杖を持つアロンこそ祭司の資格のある者と再確認された話が旧約聖書にあります。 (民数 17:1-11

 アロンの杖から芽が出てきた様子は、草を薙ぎ払い草が巻き付いた剣の様子で表現されています。

 玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)の伝承には、蘇我氏と物部氏の決戦のときに聖徳太子が玉造稲荷に詣でて「もし、この決戦に勝つなら、この枝に芽を生じさせたまえ」と祈り、栗の木の枝を折って差し込むと枝に芽が出たという伝承があります。

 壇ノ浦の戦いで、平氏の負け戦が明らかになったとき、幼い安徳天皇を抱いて祖母二位尼(にいのあま)が入水しましたが、そのとき三種の神器も一緒に海に消えそうになりました。
 平重衡(たいらのしげひら)の妻は八尺瓊勾玉の入った唐櫃(かぶせ蓋の付いた方形で大形の箱)を抱えて飛び込もうとしましたが果たせず、源氏武者が手に入れて事なきを得ました。
 しかし箱を開いた武者は血反吐を吐いて悶絶しました。
 
 
 主はまた、モーセとアロンに言われた、
 「あなたがたはコハテびとの一族を、レビびとのうちから絶えさせてはならない。
 彼らがいと聖なる物に近づく時、死なないで、命を保つために、このようにしなさい、すなわち、アロンとその子たちが、まず、はいり、彼らをおのおのその働きにつかせ、そのになうべきものを取らせなさい。
 しかし、彼らは、はいって、ひと目でも聖なる物を見てはならない。見るならば死ぬであろう」。 (民数 4:18-20) 

 八咫鏡は、神璽=契約の箱に入っていたので海に漂っている所を拾い上げられましたが、草薙剣は見つからず、そののちに草薙剣は浜に打ち上げられ、愛知県の熱田神宮に戻されてまつられています。

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 熱田神宮では草薙剣の鎮座は倭建命が伊勢の国で亡くなった際、妃から預かったまま動かしていないとしていますが、壇ノ浦の合戦は史実なので熱田神宮に草薙剣があるということは、それは史実どおりに戻ったからです。

 現在、アロンの杖は熱田神宮にあるのです。
 壇ノ浦の合戦において、草薙の剣は浜辺に打ち上げられました。
 剣とは象徴であり、実際は草が絡み付き浜辺に打ち上げられたことから、水に沈む鉄製の剣ではなく水に浮く剣ほどの長さの木製の杖である「アロンの杖」なのです。
 
 アロンの杖は契約の箱に納められていたため、契約の箱から出されたアロンの杖はヤマタノオロチの尾から出された剣を暗示させます。

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 契約の箱の角の数は八か所で、それぞれの角は必ず三叉になっています。
 三叉を1つとするのは、天父、御子、聖霊の思いが一致して1つであると表現されている「神会」を表しています。  
 つまり、八角で八つの三叉を示すことになり、八叉となります。
 こうして、「八叉の大蛇」の姿と表現しているのです。
 ヤハウェは、蛇と表現されました。
 (参照
 
 そして、南米ペルー南部とボリビア西部にまたがる淡水湖のチチカカ湖の西の海岸にいるでは蛇のことを「オロチ」といいます。
 
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 モーセが主の命令でアロンの杖を地面に投げると「蛇」になって、尾をつかむと「杖」に戻りました。

 
 主は彼に言われた、「あなたの手にあるそれは何か」。彼は言った、「つえです」。
 また言われた、「それを地に投げなさい」。
 彼がそれを地に投げると、へびになったので、モーセはその前から身を避けた。
 主はモーセに言われた、「あなたの手を伸ばして、その尾を取りなさい。
 ――そこで手を伸ばしてそれを取ると、手のなかでつえとなった。――
 これは、彼らの先祖たちの神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、あなたに現れたのを、彼らに信じさせるためである」。 (出エジプト 4:2-5

 このことは、スサノオ命が八岐大蛇の尾を割いたときに天叢雲剣が出てきたことと対応します。
 
 
 主はモーセに言われた、「パロの心はかたくなで、彼は民を去らせることを拒んでいる。
 あなたは、あすの朝、パロのところに行きなさい。見よ、彼は水のところに出ている。
 あなたは、へびに変ったあのつえを手に執り、ナイル川の岸に立って彼に会い、そして彼に言いなさい、『ヘブルびとの神、主がわたしをあなたにつかわして言われます、「わたしの民を去らせ、荒野で、わたしに仕えるようにさせよ」と。
 しかし今もなお、あなたが聞きいれようとされないので、主はこう仰せられます、「これによってわたしが主であることを、あなたは知るでしょう。
 見よ、わたしが手にあるつえでナイル川の水を打つと、それは血に変るであろう。
 そして川の魚は死に、川は臭くなり、エジプトびとは川の水を飲むことをいとうであろう」』と」。
 主はまたモーセに言われた、「あなたはアロンに言いなさい、『あなたのつえを執って、手をエジプトの水の上、川の上、流れの上、池の上、またそのすべての水たまりの上にさし伸べて、それを血にならせなさい。エジプト全国にわたって、木の器、石の器にも、血があるようになるでしょう』と」。
 
 モーセとアロンは主の命じられたようにおこなった。
 すなわち、彼はパロとその家来たちの目の前で、つえをあげてナイル川の水を打つと、川の水は、ことごとく血に変った。
 それで川の魚は死に、川は臭くなり、エジプトびとは川の水を飲むことができなくなった。
 そしてエジプト全国にわたって血があった。
 エジプトの魔術師らも秘術をもって同じようにおこなった。
 しかし、主の言われたように、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。
 パロは身をめぐらして家に入り、またこのことをも心に留めなかった。
 すべてのエジプトびとはナイル川の水が飲めなかったので、飲む水を得ようと、川のまわりを掘った。
 主がナイル川を打たれてのち七日を経た。 (出エジプト 7:14-25

 モーセがアロンの杖を打つと、川の水が血の色に変わりました。

 八岐大蛇の神話では、こうあります。
 スサノオ命が剣を抜いて大蛇を斬ったので、肥の河が血になって流れた。
 その大蛇の中の尾を割くときに剣の刃が少しかけた。
 これは怪しいと思って剣の先で割いてみると、鋭い太刀があった。
 
 エジプト中が血の色に染まった出来事は、スサノオ命が八岐大蛇を退治して、肥の河が血の色に染まったことと対応します。

 スサノオ命は、徐福集団の末裔の祖神です。
 したがって「アロンの杖」は、おそらく南ユダ王国のロンの子孫が継承し、やがて秦の始皇帝や徐福たち東ユダヤ人に渡った可能性があり、徐福とともに日本にもたらされた可能性があります。

 第二次世界大戦末期に勅令によって全国の主な寺社で、アメリカのルーズベルト大統領調伏祈願が行われました。

 高野山東寺でも禁断の大元帥明王法が修され、熱田神宮では草薙剣を開封して儀式をするように命じました。
 
 当時の大宮司の話では、草薙剣の材質について錆びることのありえない素材で、形は異様な形状で石上神宮七支刀にやや近く、金色で魚の骨のような形状だったとされています。
 
 そして、儀式中に大宮司が祭文を唱えるにつれ、草薙剣が唸り声のような重い音をあげ、祭殿の左の西の方角に向けて自ら蛇のようにのたうちながら移動し始めました。
 そのまま震えて祭文を唱え続ける大宮司に代わって、草薙剣を押しとどめようとした禰宜が草薙剣に触れたとき、禰宜の口から青い炎を上げて体が燃え上がり、骨も残さず溶けるように一片の黒い炭になってしまったのです。
 儀式を終えた大宮司は、3か月半後に再び同じ儀式を行うよう命令されましたが拒み続け、そのまま敗戦を迎えました。
 これは、プラズマによる現象です。
 
 この証言から、アロンの杖には金箔が張られている可能性があります。 

  10 日本に来た契約の箱と三種の神器 5/5