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  ヨハネの黙示録 第5章

 わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。
 その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。
 また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。
 しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。
 巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。
 すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。
 
 わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。
 それに七つの角と七つの目とがあった。
 これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。
 小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。
 巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。
 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
 
 さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。
 その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、
 「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
 四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。



  7つの封印

 わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。
 その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。 (黙示 5:1

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 古代のパピルスの巻物は粘土のシールで封印しました。
 古代の文書の所有者は、彼の権威を特定し文書に法的拘束力を作り無許可な開示から保護されました。
 封印された巻物を開いて読むのに値する唯一の人物としてのイエス·キリストの役割は、救いの計画の実行者としての権威を強調しています。

 七つの封印で封じられた巻き物は何を意味するのでしょうか。

 オーソン・F・ホイットニーは、こう述べています。
 「『ヨハネの見た巻き物』は、この世の実際の歴史を指す。
 それは神が直接その目で御覧になり、記録の天使が記したものである。
 7つの封印に相当する7千年は、母なる大地がその使命を全うする偉大なる7つの大いなる時代のこと(7日間)を表している。

 すなわち6日間労働をし、7日目は聖めの日として安息に入るのである。
 これら7日間には、地球の創造の期間と地球を人の住む場所として備えた期間は含まれない。 
 この7日間、『現世が存在する時間』は、『永遠』の時とは明確に区別して考えるべき『時』に限定されている。……
 したがって、ここで与えられている時の計算の仕方に合わせれば(もちろん不完全ではあるが、ある程度正確であるといえる)、『現世が存在する時間』としてこの地球に与えられた偉大な7日間の内の4日、すなわち4千年間は、すでにキリストが十字架におかかりになる前に過ぎ去っていた。
 そののち、さらに2千年がすぎようとしている。
 このことから、地球の長い1週間は間もなく終わり、今私たちは土曜日の夕方、すなわち人間の歴史の6日目の終わり近くにいる。
 今こそ考えるべきとき、心から深く思いを巡らすときではないだろうか。
 千年の平和と世の安息の福千年の夜明けがまさに訪れようとしているのである。」 (Saturday Night Thoughts p.12)

 
 また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。
 しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。
 巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。
 すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。 (黙示 5:2-5
 
 ヨハネは封印という言葉を使っていますが、これは折り畳んだ書簡や文書に確実に封をするための少量のろうであり、指輪などに彫り込んだ印鑑を押して印を付けるものでした。
 このようにして封じられていたために、その文書を開くためにはどうしてもその封印を解かなければなりませんでした。
 地球のこれまでの歴史と行く末について封印を解き、その内容を明らかにするのにふさわしい御方は、ただ1人しかおられません。
 それは、イエス・キリストです。
 イエス・キリストの贖罪があって初めて、地球が現世の状態で存続する期間に価値が出るのです。
 この地球が創造された目的をたっするための鍵をもっておられるのは、キリストだけです。
 キリストがおられるからこそ、救いの計画が成功するのであって、キリストなくしては、あらゆるものが無に帰し、封印が解かれることもないのです。

 イエス・キリストは、「ユダ族のしし」です。 
 父ヤコブがユダ祝福師の祝福を与えたとき、ユダは「獅子の子」と「成人の獅子」の両方にたとえられ、キリストの来るときまでつえが彼の子孫から離れることはないと約束されました。


 ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。
 あなたの手は敵のくびを押え、父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。
 ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。
 彼は雄じしのようにうずくまり、雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。
 つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。 (創世 49:8-10

 したがって、主をユダ族の獅子とよぶことは、彼のユダの子孫としての地位、彼が支配する王が選ばれる血統に属されていることを示すとともに、その部族の旗を掲げる者として主がその家系に属するすべての者の中で最も秀でた御方であることを示しています。

 「ダビデの若枝」とは、イエス・キリストのことです。
 
 
 わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。 (黙示 22:16

 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。
 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。
 すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。
 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。
 イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。 (マタイ 22:42-46
 
 はわが主に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。 (詩篇 110:1

 (天父)が主(イエス・キリスト)に「イエスの敵をあなたの足もとに置くときまでは、天父の右に座していなさい」言われます。


 わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。
 その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。 (黙示 5:1

 御座に座っておられる方の「右の手に」は、ギリシャ語の原文では「右の側に」となっています。
 「右に」巻物があるとすれば、その巻物が置かれている場所は「御座」です。
 御座について古代世界の玉座は、長椅子のように3、4人が座れるような長方形をしていました。
 また古代において、王の右側は最高の栄誉ある地位を表しています。
 したがって、巻物が神の右側にあるならば『巻物を受け取る』という表現は、御座に座ることを意味しています。
 イエスが進み出て巻物を受け取ったということは、イエスが天父とともに御座に着かれていることを意味します。


 わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。
 それに七つの角と七つの目とがあった。
 これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。 (黙示 5:6

 わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。
 それには十二の角と十二の目があった。
 これらは、全世界に遣わされた、神の十二人の僕である。 (ジョセフ・スミス訳 黙示 5:6)

 「角」については、以下の聖句から意味が分かります。

 幕屋の入り口から入ってまず燔祭祭壇である「犠牲の祭壇」があります。

 燔祭とはアダムから代々族長が行ってきた犠牲儀式です。
 

 彼はまたその燔祭の獣の皮をはぎ、節々に切り分かたなければならない。
 祭司アロンの子たちは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを並べ、
 アロンの子なる祭司たちはその切り分けたものを、頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない。
 その内臓と足とは水で洗わなければならない。
 こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭としなければならない。
 これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。
 もしその燔祭の供え物が群れの羊または、やぎであるならば、雄の全きものをささげなければならない。
 彼は祭壇の北側で、主の前にこれをほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。
 彼はまたこれを節々に切り分かち、祭司はこれを頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない。
 その内臓と足とは水で洗わなければならない。
 こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭としなければならない。
 これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。 (レビ 1:6-13) 

 『旧約​聖書』に​述べられて​いる​動物​の​犠牲​は、のちにイエス・キリストが払ってくださった大いなる贖いの犠牲を思い起こすため​​の​象徴​で​した。

 ジョセフ・スミスは、こう教えました。
 「主が昔の人々に御自身を現し、主に犠柱をささげるように命じられたときにはいつでも、人々は主が来られる時を信仰をもって待ち望むように、また罪の赦しを得させる贖罪の力に頼るように期待されました。」 (『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.60-61,58も参照)

 当初は最初に生まれた天父の長子であるヤハウェ=イエス・キリストの象徴として、動物の初子をささげました。
 

 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。
 主はアベルとその供え物とを顧みられた。 (創世 4:4
 
 動物の種類は、犠牲をささげる理由と同じように、個人の社会的地位や貧富の度合いに応じてさまざまであり、雄牛、雄羊、雄やぎ、山ばと、家ばとのひながありました。 

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            幕屋の犠牲の動物をささげた祭壇

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 あなたはまたアカシヤ材で祭壇を造らなければならない。
 長さ五キュビト、幅五キュビトの四角で、高さは三キュビトである。
 その四すみの上にその一部としてそれの角を造り、青銅で祭壇をおおわなければならない。
 また灰を取るつぼ、十能、鉢、肉叉、火皿を造り、その器はみな青銅で造らなければならない。
 また祭壇のために青銅の網細工の格子を造り、その四すみで、網の上に青銅の環を四つ取り付けなければならない。
 その網を祭壇の出張りの下に取り付け、これを祭壇の高さの半ばに達するようにしなければならない。
 また祭壇のために、さおを造らなければならない。
 すなわちアカシヤ材で、さおを造り、青銅で、これをおおわなければならない。
 そのさおを環に通し、さおを祭壇の両側にして、これをかつがなければならない。
 祭壇は板で空洞に造り、山で示されたように、これを造らなければならない。 (出エジプト 27:1-8

 幕屋の中で行われた神への供物として動物を祭壇で丸焼きにして供える燔祭は、すべてこの祭壇の上で行われました。
 これは中空のもので、5キュビト(2,25mm)の方形で、高さが3キュビト(1,5m)です。
 堅く耐久力に優れているアカシア材で作られていて、青銅の板でおおわれていました。

 また四隅には角があり、この角の上に生け贄の血が塗り付けられました。
 この角につかまることによって、人は個々を逃げ込み場として利用し、身の安全を確保することができました。


 そしてアドニヤはソロモンを恐れ、立って行って祭壇の角をつかんだ。
 ある人がこれをソロモンに告げて言った、「アドニヤはソロモンを恐れ、今彼は祭壇の角をつかんで、『どうぞ、ソロモン王がきょう、つるぎをもってしもべを殺さないとわたしに誓ってくださるように』と言っています」。 (列王上 1:50

 しかし、謀殺の罪がある場合は例外でした。

 しかし人がもし、ことさらにその隣人を欺いて殺す時は、その者をわたしの祭壇からでも、捕えて行って殺さなければならない。 (出エジプト 21:14

 角は、動物や犠牲にする予定のものをつないでおくためにも使われました。

 犠牲とは、より良いものを選ぶために価値のあるものや大切なものを手放すことです。
 人はしばしば、さらに高い目標または目的を達成するために犠牲を払います。
 犠牲は、イエス・キリストの福音から切り離すことができません。
 それは、この世に生を受けたすべての人、これから生を受けるすべての人のためにイエス・キリストが払ってくださった大いなる贖いの犠牲を思い起こすためです。
 キリストが地上での務めを果たされる以前は、この目的で動物の犠牲がささげられていました。

 イエス・キリストが地球にマリヤから生まれる前のアダムの時代から、イエス・キリストが人の罪を贖うために降臨されるしるしとして動物を犠牲としてささげました。

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 そして、のちに背教していった民はキリストの降誕を信じる信仰を教えるはずの儀式を、単に礼拝の形式にしか目を向けず、その儀式をあざ笑いの対象としてしまいました。
 民は儀式の外形的な面は維持してきましたが、霊的な意義を見失ってしまっていました。
 それらの儀式に相応しい心の正しさを示してこなかったからです。 
 こうして、民を救うために定められた礼拝形式が、逆に忌まわしいものとなり、民の滅びに力を貸すことになってしまいました。 (イザヤ 66:1-4

 主はこう言われる、「天はわが位、地はわが足台である。あなたがたはわたしのためにどんな家を建てようとするのか。またどんな所がわが休み所となるのか」。
 主は言われる、「わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。
 牛をほふる者は、また人を殺す者、小羊を犠牲とする者は、また犬をくびり殺す者、供え物をささげる者は、また豚の血をささげる者、乳香を記念としてささげる者は、また偶像をほめる者である。これはおのが道を選び、その心は憎むべきものを楽しむ。
 わたしもまた彼らのために悩みを選び、彼らの恐れるところのものを彼らに臨ませる。これは、わたしが呼んだときに答える者なく、わたしが語ったときに聞くことをせず、わたしの目に悪い事を行い、わたしの好まなかった事を選んだからである」。 (イザヤ 66:1-4

 この祭壇上でさまざまな動物の供え物がほふられ主に供えられました。
 
 


 主はまたモーセに言われた、
 「イスラエルの人々に言いなさい、『もし人があやまって罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをした時は次のようにしなければならない。
 すなわち、油注がれた祭司が罪を犯して、とがを民に及ぼすならば、彼はその犯した罪のために雄の全き子牛を罪祭として主にささげなければならない。
 その子牛を会見の幕屋の入口に連れてきて主の前に至り、その子牛の頭に手を置き、その子牛を主の前で、ほふらなければならない。
 油注がれた祭司は、その子牛の血を取って、それを会見の幕屋に携え入り、そして祭司は指をその血に浸して、聖所の垂幕の前で主の前にその血を七たび注がなければならない。
 祭司はまたその血を取り、主の前で会見の幕屋の中にある香ばしい薫香の祭壇の角に、それを塗らなければならない。
 その子牛の血の残りはことごとく会見の幕屋の入口にある燔祭の祭壇のもとに注がなければならない。 (レビ 4:1-7

 「香をたく祭壇(薫香の祭壇)」は祈りの象徴です。

 あなたはまた香をたく祭壇を造らなければならない。
 アカシヤ材でこれを造り、長さ一キュビト、幅一キュビトの四角にし、高さ二キュビトで、これにその一部として角をつけなければならない。
 その頂、その四つの側面、およびその角を純金でおおい、その周囲に金の飾り縁を造り、また、その両側に、飾り縁の下に金の環二つをこれのために造らなければならない。
 すなわち、その二つの側にこれを造らなければならない。
 これはそれをかつぐさおを通すところである。
 そのさおはアカシヤ材で造り、金でおおわなければならない。
 あなたはそれを、あかしの箱の前にある垂幕の前に置いて、わたしがあなたと会うあかしの箱の上にある贖罪所に向かわせなければならない。
 アロンはその上で香ばしい薫香をたかなければならない。朝ごとに、ともしびを整える時、これをたかなければならない。
 アロンはまた夕べにともしびをともす時にも、これをたかなければならない。
 これは主の前にあなたがたが代々に絶やすことなく、ささぐべき薫香である。
 あなたがたはその上で異なる香をささげてはならない。
 燔祭をも素祭をもその上でささげてはならない。また、その上に灌祭を注いではならない。
 アロンは年に一度その角に血をつけてあがないをしなければならない。
 すなわち、あがないの罪祭の血をもって代々にわたり、年に一度これがために、あがないをしなければならない。これは主に最も聖なるものである」。 (出エジプト 30:1-10

 これは神殿の聖所の中の垂れ幕の直前に置かれていました。
 契約の箱やパンの机と同じく、材料はアカシア材で金箔でおおわれていました。
 この香をたく祭壇の上には、毎日、熱せられて赤くなった状態の炭が置かれ、毎日朝と晩に大祭司が香をたきました。
 この祭壇は、福音の原則儀式に従って生活している人の第3の大きな特性を象徴して、祈りを通して絶えず主の力と啓示とを求める象徴です。
 祭壇の上で香がたかれたのは、私たちの祈りでさえ聖餐によって導かれ、影響されなければならないと暗示しているのでしょう。

 犠牲の祭壇と香をたく祭壇の上の角は、力の象徴でした。
 おそらく角のある動物の多くが力が強いせいでしょう。
 つまり祭壇上の角は、この2つの祭壇には救いの力があるということを象徴的に示していたのです。

 「十二の目」は、12使徒の目であり、目は聖典​で​は​しばしば、神​の​光(キリストの光)​を​受ける​能力​の​象徴​として​用いられます。
 目​は​象徴的​な​意味​で、霊的​な​状態​と​神​に​関する​事柄​へ​の​理解​を​示すこと​も​あります。

 イエス・キリストは贖罪のために自らの命をささげたので、「神の小羊」とよばれています。
 
 イエス・キリストは、人が心からの悔い改めを条件として罪から赦されるように、人に代わって罪の代価を払うために苦しまれました。
 
 イエス・キリストを信じて、日々悔い改めて、イエス・キリストの教えに従う生活をするときに、イエス・キリストが私たちの力だけでは克服しきれない罪を贖ってくださいます。
 このイエス・キリストの贖罪は、イエス・キリストが罪の行いに対する罰を引き受け、それによって悔い改める人から罪がもたらす影響を除き、神の赦しを可能にすることです。
 
 世界の歴史の中で最も重要な出来事である贖罪の完全な意味を言葉で述べることは不可能です。
 イエス・キリストはゲツセマネの園と十字架上で苦しまれたことによって、私たちの罪を贖われました。
 イエスは私たちが心から悔い改めるならば、赦しを受けられるようにするため、ゲツセマネの園と十字架上で私たちの罪のために苦しみを受けられました。
 イエス・キリストが私たちの罪のためにどれほど苦しまれたのか、私たちは完全には理解できません。
 しかし、ゲツセマネの園で私たちの罪の重さのためにイエス・キリストがあらゆる毛穴から血を流すほどの苦しみを感じられたことを、私たちは知っています。
 そののちイエス・キリストは十字架にかけられ、かつて知られていた最も残忍な方法の1つで自発的に苦しみを身に受け亡くなられました。

 

 

 

 

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 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。
 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。
 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、
 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。
 しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。
 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。
 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。
 そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。 (ルカ 22:39-44

 わたしはアルパでありオメガであり、主なるキリストである。
 すなわち、わたしは初めであり終わりである者、世の贖い主である。
 わたしは、わたしの属する御方、すなわち父の、わたしについての御心をなし終えた。
 わたしは万物をわたし自身に従わせようと、このことを行ってきた。
 わたしは、世の終わりに、最後の大いなる裁きの日に、サタンと彼の業を滅ぼすほどの一切の権威を保持している。
 その日に、わたしはすべての人をそのなした行いと業に応じて裁き、世に住む者に宣告を下すであろう。
 人は皆必ず悔い改めなければならない。
 そうしなければ苦しみを受ける。
 神であるわたしは無窮である。
 それゆえ、わたしは宣告する裁きを取り消さない。
 まことに、わたしの左にいる者たちには、涙を流し、泣きわめき、歯ぎしりをするほどの災いが下るであろう。
 それでも、この苦痛には終わりがないとは記されておらず、無窮の苦痛と記されている。
 また、永遠の罰の定めとも記されている。
 それゆえ、これはほかの聖句よりも明確であって、人の子らの心に十分に訴え、わたしの名の栄光を表す。
 
 わたしはこの奥義をあなたがたに説明しよう。
 わたしの使徒たちのように、これを知るのはあなたがたにふさわしいからである。
 わたしはこのことのために選ばれているあなたがたに、まさに一人に語るように語って、あなたがたがわたしの安息に入れるようにしよう。
 見よ、神性の奥義は何と深いことか。
 見よ、わたしは無窮であり、わたしの手から与えられる罰は無窮の罰である。
 無窮とはわたしの名である。
 それゆえ、永遠の罰とは、神の罰である。
 無窮の罰とは、神の罰である。

 わたしはあなたに命じる。悔い改めなさい。
 また、あなたがわたしの名によってわたしの僕ジョセフ・スミス・ジュニアの手より受けた戒めを守りなさい。
 あなたがそれらを受けたのは、わたしの全能の力による。
 それゆえ、わたしは、悔い改めるようにあなたに命じる。
 わたしの口の鞭によって、わたしの憤りによって、またわたしの怒りによって打たれて、つらい苦しみを被ることのないように、悔い改めなさい。
 これらの苦しみがいかにつらいか、あなたは知らない。
 いかに激しいか、あなたは知らない。
 まことに、いかに堪え難いか、あなたは知らない。
 見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。
 しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。
 その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。
 そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。
 しかしながら、父に栄光があるように。
 わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。 (教義 19:1-19

 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られました。
 天使ミカエル(アダム)の導きに助けられながら、ますます強まる信仰をもって祈られたのです。
 イエスが、すべての人の罪を一身に受けどんなに苦しんでも、彼らのために贖罪の業を行わなければなりませんでした。
 全宇宙の何世代にもわたる罪の重荷と苦痛が一度に主にのしかかったのです。
 この筆舌に尽くし難い苦痛は、イエスの偉大な贖いの犠牲と切り離すことのできないものでした。
 その苦しみは毛穴から血がわき出るほどのものだったのです。
 このイエスの苦悶は、その大きさにしても原因にしても、人間の心では計り知れないものです。
 イエスが死を恐れて苦しんでおられたのではなく、イエスはこれまでこの世に生を受けた人が、考えつくこともないような重荷のもとに苦悶し、うめかれました。
 イエスに、あらゆる毛穴から血が吹き出るほどの苦痛を与えたのは、肉体の苦しみでもなければ、心の苦しみでもなく、それは神だけが経験することのできる、身と霊の両方にかかわる霊的な苦悩でした。
 肉体的に精神的にどれほど耐えられる人であっても、イエスのほかにはそのような苦しみに耐えられなかったでしょう。
 その肉体は苦しみに屈してしまい、仮死の状態で無意識と忘却に陥ったことでしょう。

 
 見よ、この御方は数々の試練に耐え、肉体の苦痛や飢え、渇き、疲労に耐えられるが、それは、人にとっては死ぬ以外に耐えようのないものである。
 見よ、御自分の民の悪事と忌まわしい行いのためにこの御方が受けられる苦しみは非常に激しく、あらゆる毛穴から血が流れ出るほどだからである。 (モーサヤ 3:7

 「あらゆる毛穴から血が流れ出る」という言葉は、きわめて象徴的です。
 イエス・キリストが贖罪を行ったのはゲツセマネの園です。
 アラム語で「ゲツセマネ」は「オリーブしぼり」の意味です。
 
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 救い主の時代には、オリーブ油を生産するのに、まずオリーブの上に大きな石を転がして潰しました。
 その「すり潰されたオリーブ」を、ゆるく編んだ柔らかい籠に入れ、その籠を積み重ねました。
 その重みで一番搾りの最も上質な油が搾り出されます。
 次に、積み重ねた籠の上に大きな梁や丸太を乗せて圧力をかけ、さらに多くの油を生産しました。
 最後に、文字どおり最後の一滴まで搾り取るために、梁の片方の端を石で重くして、最大限の圧力を加えました。
 イエスがゲツセマネで贖罪を成し遂げられましたが、まさしく圧搾機にかけられるように搾られ、苦しみのあまり血の汗を流したのです。
 ちなみに、最初に流れ出る油は血の色をしています。

 オリーブの油を抽出するときは、4段階でされました。
 第1番目に一番軽い重石で抽出され、バージンオイルとして神にささげられました。
 第2番目にさらに重石が付けられ、抽出された物は上質なオイルとて一般の人々が食用にしました。
 さらに重石がつけられ、抽出した物は貧しい人々が食用にし、残った物は肥料として用いられ、圧縮機で徹底的に絞られました。 
 このようにイエスもすべての人のために贖罪を成し遂げられたのです。
 
 贖罪のときに、贖い主はあらゆる​苦痛​と​​苦難​と​試練​を​受けられました。
 
 十二使徒定員会会長のボイド・K・パッカーは、こう説明しています。
 「救い主には、支払うべき負債はまったくありませんでした。
 何一つ間違いを犯されませんでした。
 にもかかわらず、人に知られている罪悪感、嘆きと悲しみ、苦痛、また屈辱のすべて、さらに知的、情緒的、肉体的苦痛のすべてを合わせて、救い主はそのすべてを経験されたのです。」 (「救い主の私心のない神聖な犠牲」 『リアホナ』 2015年4月 p.38)
 
 
 さて、一同はゲツセマネという所にきた。
 そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。
 そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、
 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。
 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、
 「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。 (マルコ 14:32-36
 
 マルコの言葉は、救い主の苦悶の現実性と過酷さを証しています。(マルコ 14:23-36参照)
 文中『恐れおののき』と訳されているギリシャ語の言葉は、驚嘆、畏怖、大きな衝撃に続くおどろき、そして圧倒的な苦痛を含む、さまざまな感情を指しています。
 『悩みはじめ』と訳されているギリシャ語の動詞は、悲観する、落胆する、苦痛あるいは悲しみに満たされるという意味をもちます。
 これらの言葉はともに深く極端な悲しみを表現します。
 救い主は、私は『悲しみのあまり死ぬほどである』(マルコ 14:34)と言われました。
 すなわち、主の苦悩は、御自分が死に瀕しているとお感じになるほどとても激しかったということです。

 ニール・A・マックスウェル長老は、贖罪の苦しみについて次のように述べています。
 「……イエスはゲツセマネで、「恐れおのの〔く〕」ほどの苦痛を経験されます。(マルコ 14:33
 ギリシャ語でこの『恐れおののく』という言葉は、『畏敬の念に打たれた』や『おどろいた』」という意味を含んでいます。
 この世のみならず多くの世を創造されたエホバが『おどろかれた』のです。
 想像できるでしょうか。……
 贖罪がいかなるものか、一部始終は知らされていなかったのです。
 ですから苦痛が最高潮にたっしたとき、それはイエスの特別な知力をもってしても想像し得ないものとなりました。……
 過去、現在、未来の全人類の罪の重荷が、完全で、罪のない、繊細な御方に課せられたのです。
 私たちの不完全さや病気は、何らかの形で主の贖罪の一部をなしているのです。(アルマ 7:11-12イザヤ 53:3-5マタイ 8:17参照)」 (「喜んで服従する」 『聖徒の道』 1985年7月 p.73参照)
 
 救い主が受けられたたとえようのない苦痛の原因は何でしょうか。
 イエスは、御自身を犠牲にすることにより罪を取り除かなければならなかったのです。
 そして、そのすべての人の罪を一身に受け、彼らのために御自身を犠牲にすることによって贖罪の業を行わなければならなかったのです。
 イエス・キリストの至高の犠牲は、私に従いなさいという主の招きを受け入れたときにだけ、私たちの生活に完全な効力を発揮します。
 
 ディーター・F・ウークトドルフ管長は、こう述べています。
 「神に比べれば人は取るに足りないものです。〔モーセ 1:2
 にもかかわらず、人は神にとってすべてなのです。
 無数の創造物の中での自分の存在を考えれば、私たちは取るに足りない者のように見えるでしょう。
 しかし、私たちの心の中には永遠に燃える火の輝きがあるのです。
 人の理解を超えた昇栄の約束、すなわち無限の世界が私たちの手の届くところにあるのです。
 私たちがそこへ到達するのを助けたいと、神は強く願っておられます。……

 兄弟姉妹の皆さん、宇宙で最も力ある御方が皆さんの霊の父なのです。
 御父は皆さんを御存じで、完全な愛で皆さんを愛しておられます。
 神は皆さんを、小さな地球の上で短い間だけ生きる、死すべき者と考えてはおられません。
 御自分の子供とみなしておられるのです。
 なるべき者になれる能力を備えた存在であり、そのように創造された存在であると思っておられます。
 皆さんが御自分にとって大切な存在であることを知ってほしいと望んでおられます。
 私たちが信じ、信頼し、生活を整え、それによって、私たちの真の永遠の価値と可能性を理解することができますように。
 天の御父が用意してくださっている貴重な祝福にふさわしくなれますように。」 (「あなたは御父にとって大切な存在です」 総大会 2011年10月)

 ヘンリー・B・アイリング管長は、こう述べています。
 「創世の前から、優しい御父と御子は、いつか道に迷うことを御存じだった者たちを愛し、助けてこられました。
 神は彼らを永遠に愛されることでしょう」 (「わたしの孫たちへ」 総大会 2013年10月)

 トーマス・S・モンソン大管長は、こう述べています。
 「その愛は、皆さんの外見や持ち物、あるいは銀行口座にある金額に左右されるようなものではありません。
 皆さんの才能や能力でも変わりません。
 その愛はただそこにあるのです。
 皆さんが悲しんでいるとき、希望に満ちているとき、皆さんのために存在しています。
 神の愛は、皆さんがその愛にふさわしいと感じているかどうかにかかわらず、皆さんのために存在しています。
 いつもそこに存在しているのです。」 (「決して独りで歩いているのではない」 2013年9月中央扶助協会集会)

 けっして神があなたを愛して助けることを疑わないでください。
 無知と誤解、悪とによって、心をかたくなにしてはいけません。
 聖霊の影響力を受けられるように、生活を整え、瞑想して祈り、を望みを増しましょう。
 そうすれば、あなたの望みと行いの努力、人格のふさわしさによって得られる奇跡を信じてください。


 小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。
 巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。
 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
 さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。
 その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、
 「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
 四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。 (黙示 5:7-14

 
 「わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至る」とは、ヨハネの黙示録 第1章6節と同じです。


 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。 (黙示 1:6

  ヨハネの黙示録 1章参照


 イエス・キリストは贖いの犠牲によって、封印された巻き物を開くことができました。
 四つの生き物と24人の長老たちは、ひれ伏し永遠のイエス・キリストを礼拝しました。
 
 預言者ジョセフは、このように述べました。
 「ヨハネは、われわれには概念がない変わった獣である千の形態の存在を天国で多分見たでしょう。
 そして、すべての動物が天国で見られるかもしれません。」 (Documentary History of the Church 5:343-344)

 「ヨハネは天における奇妙な有様をした生き物を見た。
 天に住むすべての造られたもの、すなわちすべての獣と鳥と魚が実際に天にいて、神に栄光を帰すのを見たのである。
 あなたはそれをどのように立証するだろうか。(黙示 5:13参照)

 『またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた。
 「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように。」』
 私はヨハネが実際にさまざまな形をした生き物をそこで見たのだと思う。
 それらの生き物は、この地球のような数限りない地球から救われた生き物で、まったく私たちの思いもおよばない珍しいものであった。 
 これらはすべて天で見ることができる生き物である。
 この大いなる奥義が与えられたのは、天に存在するものをヨハネに示すためであった。
 こうしてヨハネは、神が御自身の手で造られたすべてのもの、すなわち獣や鳥、魚、人などすべてを救うことによって御自身の栄光を受けられたことを学んだのである。 
 また、神は今後もこれらの生き物をもって御自身に栄光を受けられることであろう。 
 『私は獣の救いを信じることができない』という人がいる。
 あなたにこのように告げる人がいるとすれば、その人は啓示が真実でないとあなたに告げていることになる。
 ヨハネは神に栄光を帰す生き物の声を聞き、それを理解した。
 生き物を造られた神は、それらの生き物が語るすべての言葉を理解することがおできになった。
 4つの生き物は、彼らの創造の目的をたっした最も気高い生き物であり、ほかの世界から救われたものであった。
 というのは、彼らは完全であったからである。
 彼らは彼らの天体における天使のような存在であった。
 彼らがどこから来たのか告げられていないし、私はそれを知らない。
 しかし、彼らが神をたたえ、栄光を帰しているのをヨハネは目にし、耳にしたのである。」 (『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.291-292)

       lion-and-the-lamb

 ブリガム・ヤングは、こう述べています。 
 「すべてのひざがかがみ、すべての舌が主を認めて告白し、地上に生を受けながら至高者についての教えとその啓示を踏みにじった人々が、恥じ入りうなだれて、主の前にへりくだり、
 『神は確かにおられる。おお、神よ、私たちはかつてはあなたを拒み、御言葉を信じず、あなたの教えを顧みませんでした。
 しかし今、私たちは恥のうちに頭を垂れ、神がおられ、イエスがキリストであられることを認めます』と叫ぶときがやってくるでしょう。
 そのときが、必ずやって来ます。
 私たちは、主イエスの福音を信じています。 
 彼らは、どうするのでしょうか。
 彼らはシオンの知恵を聞き、もろもろの王国と国々の指導者は、主の方法を尋ね、至高者の聖徒たちを通して示される偉大な知識知恵理解を求めてシオンにやって来るでしょう。
 彼らはやむなくひざをかがめ、その御方が神であられること、世のもろもろの罪のために苦しみをお受けになったイエス・キリストが確かに贈い主であられること、そしてイエス・キリストが御自身の血を流すことにより、男、女、子供、獣、烏、魚、地球そのもの、そしてヨハネが天において見、たたえる言葉を聞いたすべての者を贖われたことを告白するでしょう。〔黙示 5:13参照〕」 (『ブリガム・ヤング説教集』 p.362)