ヨハネの黙示録 7章 1/2

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  エライアス

 4人の御使が地を囲んだとき、1人の天使が東から上って来ました。

 
 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。
 彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、
 「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。
 わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。 (黙示 7:2-4

 この御使は、聖典の別の箇所でエライアスとよばれており、「イスラエルの部族を集め、万事をもとどおりにするために来る」と書かれています。


 問い。黙示録第七章二節の、東から上って来る天使によって、わたしたちは何を理解すべきか。
 答え。わたしたちは次のように理解すべきである。
 すなわち、東から上って来る天使は、イスラエルの十二の部族を治めるために生ける神の印を与えられている者である。
 それゆえ、彼は永遠の福音を持っている四人の天使に叫んで、「わたしたちの神の僕たちの額に、わたしたちが印を押してしまうまでは、地も、海も、木も損なってはならない」と言う。
 また、もしあなたがたがそれを受け入れることを望めば、この人こそ、イスラエルの部族を集め、万事を元どおりにするために来ることになっているエライアスである。 (教義と聖約 77:9
 
 預言者ジョセフ・スミスは、こう教えています。
 「福音の回復にたずさわった御使いは1人だけではない。
 多くの御使いたちが来て、彼らのもつ権能と力の鍵を授けたのである。
 エライアスという名前は称号である。」 (『預言者ジョセフ・スミス教え』 p.335)

 エライアスとは1人の人物ではなく、特別な使命をもつ者に与えられる称号です。

 その使命について、ジョセフ・スミスは次のように教えています。
 「エライアスの霊とは、より大いなるもののために先立って行って道を備えることです。」 (『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.347)

 聖典の中では、バプテスマのヨハネ、ノア、使徒ヨハネなどがエライアスとして言及されていますが、ほかにも回復と備えの業にたずさわる預言者は多くいます。

 ブルース・R・マッコンキー長老は、複数の人物がエライアスという名でよばれていると説明しています。
 「誰によって回復が行われたかという質問に対する答えを見いだすことによって、私たちはエライアスとは誰なのかを知り、一見相矛盾するこれらの啓示が無理なく調和すると知ることができる。
 万物を回復したのは誰であろうか。
 それは1人であったのだろうか。
 そうでないことは確かである。
 地上の人間に再び鍵とカを授け、それぞれの神権時代と栄光とをゆだねるために、多くの天使が栄光の御座から遣わされたのである。
 少なくとも以下の天使たちが地上を訪れている。
 モロナイバプテスマのヨハネペテロ、ヤコブ、ヨハネモーセエリヤエライアスガブリエルラファエルミカエル
 以下の事柄は非常に明白である。
 すなわち、回復の重責を担ったのはた1人の使者ではなく、それぞれの使者が特定の賜物をたずさえて天から来たのである。
 とすれば、エライヤスが複数の人物を指していることが明らかになってくる。
 この表現は、この最後の神権時代に地上の人々に鍵と力を授ける使命を帯びた使者たちの名や称号であると理解しておかなければならない。」 (『新約聖書教義注解』 3:492)

 ブルース・R・マッコンキー長老は、ラファエルについて次のように述べました。
 「近代において、万物の回復の一環として、その現代での働きの間に権能の鍵を保持していた天使ラファエルが地上に戻り、ジョセフ・スミスにその神権時代の鍵を授与した。(教義 128:21
 聖書にラファエルについての言及はまったくないが、聖書外典であるトビト記にはこう書かれてある。
 『わたしは、栄光に輝く主の御前に仕えている七人の天使の一人、ラファエルである』 (新共同訳 トビト 12:15)。
 ラファエルが地上において誰であったのかについて、私たちは推測することしかできない。
 しかしながら、私たちはエノクの神権時代を除いて、聖書に記されたすべての偉大な神権時代において行使された鍵を回復した人々が誰であったかを知っている。
 したがって、ラファエルがエノクあるいはエノクの神権時代に生きたほかの偉大な預言者であるかもしれないと推論することは可能である。
 この仮定が正しければ、ラファエルによって回復された鍵とは、多分人の身を変える力を含めて、エノクの時代の聖徒たちによって享受された鍵であることになる。」 (『モルモンの教義』 p.540-541) 

  福音の回復


 1829年5月15日、金版の翻訳に取り組んでいたときに、赦しのためのバプテスマについて読んだジョセフ・スミスとその筆記者のオリバー・カウドリは、人里離れた場所に入っていき、この件について主に尋ねました。
 ペンシルベニア州ハーモニー近くを流れるサスケハナ河畔で、2人は祈りの答えを受けました。
 バプテスマのヨハネ復活体を身にまとい「光の雲の中を降って来」た「天からの使者」として彼らの前に現れたのです。

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 バプテスマのヨハネは彼らにアロン神権を授けました。
 そののち、ジョセフとオリバーはバプテスマのヨハネの指示に従い、互いにバプテスマを施し、アロン神権に聖任し合いました。(ジョセフ・スミス―歴史 1:68-72教義 13章

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 1829年5月、古代の使徒であるペテロヤコブヨハネがジョセフ・スミスとオリバー・カウドリにメルキゼデク神権を授けました。(教義 128:20

 ヨハネは、「エライアス」という称号のもとに、イスラエルの部族の集合を助けるという使命を果たしています。
 ヨハネはまた、ペテロ、ヤコブ、バプテスマのヨハネとともに福音の回復の天使の1人として地上を訪れました。
 それゆえ、ヨハネもまた「東から上って来る天使」(教義 77:9)に象徴される複数の人物の1人に数えられます。

 エライアスがもつ神の印とは、神権による結び固めの権能を表します。
 神権を行使して、夫と妻、親と子、先祖と子孫を結び固め、神の聖徒が日の栄えの王国で1つの永遠の家族となれるように備えるのです。
 神の印をもった天使は、地を支配する権威を与えられている4人の天使たちに、神の僕たちがその額に印を押されるまでは、地球に荒廃をもたらすことを止められています。
 これは、福音が回復され、地の国々に宣べ伝えられるまで成就しなかったのです。 (参照

      Mount-Zion

 オーソン・プラット長老は、さらにこれに次のような説明を付け加えています。
 「〔新エルサレムに〕神殿が建てられると、2つの神権〔メルキゼデク神権とアロン神権〕による息子たちが……
 この神殿に参入する。……
 そして心の清い者たちは皆、主の顔を拝するであろう。
 それは、主が栄光をもって天の雲の中を来られる前のことである。
 主は神殿に突如来られるからである。
 そして主はモーセの息子たちとアロンの息子たちを清めて、彼らがその神殿で主の目にかなうささげ物をささげる備えをさせてくださる。
 これを行うときに、主はその神殿の中で神権者の心だけでなく、体をも清めてくださる。
 そして、彼らは身を変えられ、再新され、強められるであろう。
 こうして彼らは部分的に変えられる。
 しかし、不死不滅にではなく、神の力に満たされても堪えられるように身体の器官が変えられるのである。
 その結果、彼らはイエスの前に立ち、その神殿の中で主の顔を拝することができるのである。
 これは彼らにとって、地上の国々の間でさらに奉仕の業を進め、また神が前代未聞の疫病、悪疫、地震などで邪悪な国々を打ち、艱難と報いを下される時代に出て行くための備えとなる。
 また神の僕たちは神の力で武装し、しかも自分の額にあの結び固めの祝福の宣言を受ける必要もある。
 それは、このような荒廃と悪疫のただ中に雄々しく立ち、打ち負かされることのないためである。
 
 黙示者ヨハネはこの場面を描写するに当たって、4人の天使が遣わされるのを見たと言っている。
 この天使たちは、天の四隅から吹きつける四方の風を引き止めようとしていた。
 また、もう1人の天使が東の方から上って来て、4人の天使に向かって叫び、次のように言った。
 『今、地を打ってはならない。しばらくの間待ちなさい。』
 『どれくらい待つのですか。』『わたしたちの神の僕たちがその額に印を押されるまで。』
 何のためだろうか。
 こうした荒廃や悪疫のただ中にあって雄々しく立ち、打ち負かされることのないように彼らを備えるためである。
 その備えができ、主の神殿においてその肉体が更新され、聖霊に満たされて精錬の火の中で金や銀のように清められたときには地上の国々の前に立ち、邪悪な人々の上にやがて旋風のように速やかに下される裁きのただ中にあって、喜ばしい救いのおとずれを宣べ伝える備えができるのである。」 (『説教集』 15:365-366)

 預言者ジョセフ・スミスの教えによれば、この印を押すということは「その頭上に祝福を結び固めること、すなわち永遠の聖約を授け、それによってその召しと選びを確かなものにするという意味である。」 (『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.32)

 マタイによる福音書 17章には、次のように記されています。

 
 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
 ペテロはイエスにむかって言った、『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。
 もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。
 一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。 (マタイ 17:1-4

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 名前がその律法を象徴するほどの偉大な預言者であり神の代弁者であるモーセ、およびすべての預言者の知恵と見識の集大成といわれるほど誉れ高い預言者テシベ人エリヤは、なぜ変貌の山に現れたのでしょうか。
 彼らが主やペテロ、ヤコブ、ヨハネの元を訪れた目的は何だったのでしょうか。

 モーセは、イスラエル人をエジプトの奴隷の状態から導き出し、神によって示されるままに、宗教、社会、食生活に関する一連の律法をイスラエルの民に授けました。
 預言者エリヤはこの世にいたとき、イスラエルの北王国で務めを果たしました。
 彼は主に対して大いなる信仰をもち、多くの奇跡をなした人として知られています。
 3年半にわたって雨が降らないようにし、死んだ少年を生き返らせ、天から火を呼び寄せました。
 ユダヤ教の人々は、マラキが預言したように預言者エリヤが戻ってくるのを、今も待ち望んでいます。


 万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。
 その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。
 その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。
 しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。
 あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。
 また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる。
 あなたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。
 見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。
 彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。
 これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。 (マラキ 4:1-6

 預言者マラキは、主の再臨の前に、預言者エリヤが再び地上を訪れると預言しました。

 預言者ジョセフ・スミスは、預言者エリヤがメルキゼデク神権の結び固めの鍵をもつ預言者であり、またイエス・キリスト以前の時代にこの鍵をもっていた最後の預言者であると語っています。

 神権の鍵とは、長の職にともなう権利、すなわち、地上において神権を管理し、統制し、治めるために神から人に授けられる権威です。
 長の職に召された神権者は、自分を管理する権能をもつ人から神権の鍵を受けます。
 神権者は、神権の鍵をもつ人が指示する範囲内でのみ、神権を行使できます。
 教会の大管長は神権のすべての鍵をもちます。

 預言者エリヤは変貌の山にモーセとともに現れ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネに彼らのもつ神権の鍵を授けたのです。(マタイ 17:3参照)

 このエリヤとモーセは、骨肉の体を有しながら身を変えられた人たちです。
 そして、キリストの復活とともに死に瞬時に日の栄えの体に復活しました。
 それゆえ死すべき肉体をもつ人間に神権の鍵を授けることができたのです。
 聖典には預言者エリヤの昇天について詳細な記述があり、(列王下 2章)またモーセについても、彼が死なずに身を変えられ、天に昇ったということを物語る聖句が多くあります。(アルマ 45:18-19参照)

 1836年4月3日に、預言者エリヤは預言者モーセなどとともにオハイオ州のカートランド神殿に現れ、同じ神権の鍵をジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに授けました。

 安息日の集会時に示現が現されました。
 預言者ジョセフ・スミスは、この現れの記録に次のような前書きを記しています。
 「午後、私は、この日に聖卓での務めを果たす特権を与えられた十二使徒から主の晩餐を受けたのち、副管長たちを手伝って、それを教会員に配った。
 私は兄弟たちのためにこの務めをなし終えたのち、オリバー・カウドリとともに教壇に退いて、幕を下ろし、身をかがめて厳粛に無言の祈りをささげた。
 そして、祈りを終えて立ち上がると、わたしたち2人に次の示現が開かれた。」 (『教会歴史』 2:435)

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 わたしたちの心から幕が取り去られ、理解の目が開かれた。
 わたしたちは、主がわたしたちに面して教壇の手すりの上に立っておられるのを見た。
 その足の下には、こはくのような色の純金の床があった。
 その目は燃える炎のようであり、その頭髪は清らかな雪のように白く、その顔は太陽の輝きに勝って光り輝いていた。また、その声、すなわちエホバの声は大水の奔流のとどろきのようで、このように言われた。
 「わたしは最初であり、最後である。わたしは生きている者であり、殺された者である。わたしは父に対するあなたがたの弁護者である。
 見よ、あなたがたのは赦されており、あなたがたはわたしの前に清い。それゆえ、頭を上げて喜びなさい。
 あなたがたの兄弟たちの心を喜ばせ、わたしのすべての民の心を喜ばせなさい。彼らは力を尽くしてわたしの名のためにこの家を建てた人々である。
 見よ、わたしはこの家を受け入れた。そして、わたしの名はここにあるであろう。わたしは憐れみをもってこの家でわたしの民にわたし自身を現すであろう。
 まことに、わたしの民がわたしの戒めを守り、この聖なる家を汚さなければ、わたしは僕たちに現れて、わたし自身の声をもって彼らに語るであろう。
 まことに、幾千幾万の人の心が、注がれる数々の祝福と、この家で僕たちに授けられるエンダウメントのゆえに、大いに喜ぶであろう。
 そして、この家の名声は諸外国に広まるであろう。これはわたしの民の頭に注がれる祝福の初めである。まことにそのとおりである。アーメン。」

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 この示現が閉じた後、天が再びわたしたちに開かれた。
 そして、モーセがわたしたちの前に現れ、地の四方からのイスラエルの集合と北の地からの十部族の導きの鍵をわたしたちにゆだねた。

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 この後、エライアスが現れ、わたしたちと子孫によってわたしたちの後の時代のすべての者が祝福を受けるであろうと述べて、アブラハムの福音の神権時代をゆだねた。

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 この示現が閉じた後、もう一つの大いなる栄えある示現が突如わたしたちに開かれた。
 死を味わうことなく天に取り去られた預言者エリヤが、わたしたちの前に立って言った。
 「見よ、マラキの口を通して語られた時がまさに来た。」
 マラキとは、主の大いなる恐るべき日が来る前に彼(エリヤ)が遣わされ、
 先祖の心を子孫に、子孫の心を先祖に向けさせ、全地がのろいをもって打たれることのないようにする、と証した人である。
 「それゆえ、この神権時代の鍵はあなたがたの手にゆだねられている。これによってあなたがたは、主の大いなる恐るべき日が近く、まさに戸口にあるのを知ることができる。」 (教義 110:1-16

 これはすべて、主の再臨への備えとしてなされたのです。

 「『「見よ、炉のように燃える日が来る。
 すべて高ぶる者と悪を行う者は、わらのようになる。
 やがて来る日が彼らを焼き尽くして、根も枝も残さない」と、万軍の主は言う。
 「しかし、わたしの名を畏れるあなたがたのために、義の御子は翼に癒しを携えて現れる。
 あなたがたは出て行って、牛舎の中の子牛のように育つ。
 そしてあなたがたは、悪人を踏みつける。
 わたしがこれを行う日に、彼らはあなたがたの足もとで灰となる」と、万軍の主は言う。
 「あなたがたは、わたしが全イスラエルのためにホレブでわたしの僕モーセに命じたモーセの律法と、掟と裁決を思い出しなさい。
 見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
 彼は先祖の心を子孫に向けさせ、子孫の心をその先祖に向けさせる。これは、わたしが来て、のろいをもって地を打つことのないようにするためである。」』」 (3ニフ 25:1-6

 モロナイはマラキのメッセージの表現を一部変えており、それは末日聖徒がこの預言を理解するうえで助けとなっています。


 見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤの手によってあなたがたに神権を現そう。
 彼は先祖に与えられた約束を子孫の心に植え、子孫の心はその先祖に向かうであろう。
 そうでなければ、主の来臨の時に、全地はことごとく荒廃するであろう。 (教義 2:1-3

 福音のすべての儀式は、神権の結び固めの力によって、天においても有効なものとされます。
 この結び固めの力は、生者と死者の昇栄に不可欠な、先祖と子孫の結合をもたらすものです。


 わたしはこれをもっと分かりやすく翻訳することもできましたが、このままでも十分に分かりやすく、わたしの目的にかないます。
 この場合、先祖と子孫の間にある事項について固いつながりがなければ、地はのろいをもって打たれるということを知るだけで十分です。
 さて、その事項とは何でしょうか。それは死者のためのバプテスマです。
 彼らなしにはわたしたちが完全な者とされることはなく、またわたしたちなしには彼らが完全な者とされることはないのです。
 また、福音にあって死んだ者なしには、彼らもわたしたちも完全な者とされることはありません。
 今や訪れようとしている時満ちる神権時代の到来に当たって、アダムの時代から現在に至るまでの、神権時代と鍵と力と栄光のすべての、ことごとくの、完全な和合と結合が起こり、示されることが必要だからです。
 またこれだけではなく、世の初めからまだ一度も示されておらず、知恵のある者や賢い者から隠されてきた数々の事柄も、この時満ちる神権時代には、みどりごや乳飲み子に示されることでしょう。 (教義 128:18

 チャールズ・W・ペンローズ長老は、「時満ちる神権時代」について次のように説明しています。
 「この神権時代、すなわちあらゆる神権時代のうち最も壮大で偉大な神権時代には、キリストの内にあるすべてのものが1つに集められる。
 シオンを築き上げるために、また主の足を置く場所を備えるために、主の民がさまざまな国々からシオンに集まって来るだけでなく、すでにこの世を去っている大勢の人々も、主に率いられて主とともに集合するのである。
 しかも、集められるのは人だけではない。
 過去の時代に明らかにされていた栄光に満ちた真理も、私たちの住む神権時代に世に出されるのである。
 また世の初めから隠されていたことも明らかにされるであろう。
 主がそう約束されたからである。主の約束が果たされないことはけっしてない。
 私たちの住むこの神権時代の特徴は、全能者の目的が完全にたっせられる偉大な御業にあるのである。」 (大会報告 1911年10月 p.48-49) 


 モロナイは、マラキが語った呪いという言葉の意味を明らかにし、もし結び固めの力が回復されなければ、主の来臨のときに「全地はことごとく荒廃するであろう」と述べました。
 
 ジョセフ・フィールディング・スミスは、その理由を次のように説明しています。
 「エリヤの結び固めの力によって、家族を代々最初にいたるまで結び合わせることが可能となる。
 さて、この権能が地上になければ、家族の単位を存続させる結び固めの業は行われない。
 そうすると、すべての祝福を地上においても天においても結び固める力が存在しないことになる。
 もしそのようなことになれば、地はのろいをもって打たれることになる。
 なぜなら、これまでなされたすべての業は、この結び固めの儀式がなければ、果たされずに失敗することになるからである。」 (『救いの教義』 2:112)

 ジョセフ・フィールディング・スミスは、エリヤが1836年4月3日に再び地上を訪れたことについて、こう述べています。
 「エーデルシャイムは、その著書『神殿』(The Temple)の中で次のように述べている。
 『今日にいたるまでユダヤ人の家庭では例外なく、過越(すぎこし)の祭のある部分〔すなわち3杯目を飲むとき〕に差しかかると、戸を開けて、預言者エリヤがメシヤの先駆者として入って来ることができるようにしている。
 その間、彼らは、すべての異邦の国々が滅亡することを預言した適切な聖句を読んでいる。
 主イエスが御自身の晩餐を定めるに当たって、裁きの象徴ではなく、深い愛の象徴を『3杯目』の杯と結びつけられたことは驚くべき偶然の一致である。

 1836年4月3日に、過越の祭を祝っていたユダヤ人はエリヤが入ってこられるように戸を開けていたということを私は聞いた。
 まさにこの日に、エリヤは入ってきたのである。
 ただユダヤ人とともに過越の祭を祝うために彼らの家に来たのでなく、主の御名のために建てられ、主に受け入れられたカートランドの主の宮に現れたのであった。
 そしてそこで、まさにユダヤ人が家に集まって求めていたことを成就する鍵が授けられたのである。」 (『救いの教義』 2:91-92)

 「〔エリヤの来訪は〕明瞭に預言されているとおり、主の大いなる恐るべき日の少し前にある出来事である。
 主の大いなる恐るべき日とは、この預言で宣言されているように、主が大いなる栄光をもって天の雲の中を来る日である。
 そして、この日に主は、神を敬わない者に報復されるのである。
 この日は、悔い改めに染まっている者にとっては恐ろしい日であるが、正しい者には平安救いの日となる。
 しかし、この日が来る前にエリヤの権能が回復され、力強く業が進められる。
 その業は大きな力を発揮するため、地球が破壊されるのを、すなわちのろいをもって打たれるのを救うのである。」 (『救いの教義』 2:103)

 ジョセフ・フィールディング・スミスは、エリヤの主要な役割を理解するには、彼が地上にいたときの任務について知る必要があると指摘しています。

 「多くの教会員は、この重要な使命がなぜエリヤに与えられたのか、またこれらの権能がなぜほかの預言者、中でも時の中間の神権時代に権能の鍵をもっていたペテロ、ヤコブ、ヨハネによって与えられなかったのか、不思議に思っている。
 もし委任されていれば、ペテロ、ヤコブ、ヨハネがこの権能を授けることができたことに疑問の余地はない。
 アダムもすべての神権時代の鍵をもっていたので、同じことができたであろう。
 エリヤがこの使命を果たすように定められていた理由は、預言者ジョセフ・スミスによれば、次のとおりである。
 
 『エリヤは神権の鍵を所有していた最後の預言者であり、最後の神権時代が始まるに当たって権能を回復し、神権の鍵を与えて、すべての儀式がにかなって執行されるようにする預言者であった。
 救い主がこの祝福を授ける権能と力をもっておられたことは真実である。
 しかし、レビの息子たちはあまりにも偏見をもたれていた。……
 なぜエリヤを遣わすのか。
 それは、彼が神権のすべての儀式を執行する権能の鍵を有しているからである。
 権能が与えられなければ、もろもろの儀式は義にかなって執行することはできない。』」 (『救いの教義』 2:104)
 
 1836年4月3日にエリヤがカートランド神殿に現れるまでに、ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリは、すでに1829年6月にペテロとヤコブとヨハネの手からメルキゼデク神権を受けていました。
 しかし、その神権に必要不可欠な鍵はまだ授けられていませんでした。
 
 エリヤが訪れて回復した力と権能について、ジョセフ・フィールディング・スミスは、次のように説明しています。
 「エリヤが保持していた鍵は永遠の神権の鍵であって、主が彼に与えた結び固めの鍵である。
 エリヤが……預言者ジョセフ・スミスに与えたのはこの鍵である。
 それは生者と死者のために結び固めを行うことも含んでいた。
 それは生者に限定されず、また死者に限定されず、両者を対象としている。……

エリヤの使命は結び固めの力に関するものであった。
 彼は両親が互いに結び固められ、また子供が両親に結び固められる鍵を保有していた。
 そしてこの鍵を預言者ジョセフ・スミスに授けたのである。これは、主イエス・キリストの来臨以後の死者と生者の両方に適用される。
 
 しかし、この末日におけるエリヤの地上に対する使命は何だろうか。
 それは、かつてこの世の人々に与えられていた力と権能を回復することであった。
 その力と権能は、人が神の王国で完全な救いと昇栄を得るために不可欠のものである。
 言い換えれば、エリヤは、神権の力のすべてを、主から正式に任命された地上の預言者に授けることによって、それを地上に回復するために来たのである。
 この神権は、人の救いに関するすべての儀式と原則を地上においても天においても結び固め、神の日の栄えの王国においてそれらの効力を発揮させる鍵を保有している。」 (『救いの教義』 2:102-103,109)

 預言者エリヤがもっていた鍵は、永遠の生命に不可欠な、夫婦や親子そして先祖と私たちを結ぶ神権の結び固めの力鍵であり、これによって地上でつながれ、解かれることは、天においてもつながれ、解かれるのです。
 今日この世で主に選ばれた預言者もこの結び固めの力(鍵)をもち、生者と死者のために福音の救いの儀式を執行することができます。


 さて、この儀式の本質は、イエス・キリストの啓示による神権の力にあります。
 これによって、あなたがたが地上でつなぐことは何でも天でつながれ、あなたがたが地上で解くことは何でも天で解かれるということが認められるのです。
 言い換えれば、この翻訳について別の見方をすると、あなたがたが地上で記録することは何でも天で記録され、またあなたがたが地上で記録しないことは天でも記録されないということです。
 それは、あなたがたの死者が、数々の書物に基づき、彼ら自身の行いに応じて裁かれるからです。
 すなわち、彼らが自らその儀式を受けようと、あるいは代理人の仲立ちによって、神が創世の前から彼らの救いのために備えられた儀式に従って、その死者に関して記された記録のとおりにその儀式を受けようと、それに応じて裁かれるのです。
 わたしたちが語っていること、すなわち地上で記録し、すなわちつなぎ、かつ天でもつなぐ力があるということは、ある人々には、非常に大胆な教義であると思われるかもしれません。
 しかしながら、世のあらゆる時代において、主がある人に、あるいはある人々の集団に、実際の啓示によって神権の施しを授けられたときはいつでも、この力が常に授けられてきたのです。
 したがって、何事であろうと、それらの人が権能によって、主の御名によってなし、正しくかつ忠実に行い、それについての適切かつ正確な記録を記したことは、大いなるエホバの定めによって地上でも天でも一つの律法となり、取り消せないものとなったのです。
 これは確かな言葉です。だれがそれを聞くことができるでしょうか。
 
 さらにまた、その先例として、マタイによる福音書第十六章十八、十九節があります。
 「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。地獄の門もそれに打ち勝つことはない。
 わたしは、あなたに天の王国の鍵を授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは何でも天でつながれ、あなたが地上で解くことは何でも天で解かれるであろう。」
 
 さて、この事柄全体の偉大かつ重要な真義と、わたしたちの前にある事項全体の最高善は、聖なる神権の力を得ることにあるのです。
 これらの鍵を授けられる者にとって、人の子らの救い、すなわち死者と生者の両方の救いに関して、数々の事実を知ることは少しも難しいことではありません。
 ここに、すなわち水によるバプテスマの儀式、すなわち死者の有様に応じるために水に沈められることに、栄光と誉れ、および不死不滅と永遠の命があります。
 死者の有様にそって水中に沈められるのは、一つの原則が他の原則に一致するためです。
 水中に沈められ、そして水から出て来ることは、墓から出て来る死者の復活に似ています。
 したがって、この儀式は、死者の有様に似ているので、死者のためのバプテスマの儀式と関連するように制定されたのです。
 その結果、バプテスマフォントは墓に似たものとして設けられ、生者がいつも集まる場所の下にあるようにと命じられました。
 それによって、生者と死者を表すため、またすべてのことに類似するものがあるようにするため、またそれらが互いに一致するため、
 すなわちコリント人への第一の手紙第十五章四十六、四十七、四十八節でパウロが述べているように、地に属するものが天に属するものに一致するためなのです。
 「最初にあったのは、霊のものではなく、肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。
 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る主である。土に属する人々は、土に属する人のようであり、天に属する人々は、天に属する人のようである。」

 そして、天の記録は、正しく作られるあなたがたの死者に関する地上の記録に似ています。
 したがって、これは結び固め、かつ、つなぐ力であり、ある意味では、知識の鍵から成る王国の鍵なのです。

 さて、わたしの親愛なる兄弟姉妹たち、わたしはあなたがたに断言します。
 これらは死者と生者に関する原則であり、わたしたちの救いに関して軽々しく見過ごすことのできないものです。
 彼らの救いはわたしたちの救いにとって必要であり、不可欠だからです。
 それは、パウロが先祖について、わたしたちなしには彼らが完全な者とされることはないと言っているように、わたしたちの死者なしには、わたしたちも完全な者とされることはないのです。

 さて、死者のためのバプテスマに関して、わたしはパウロのもう一つの言葉、すなわちコリント人への第一の手紙第十五章二十九節を引用しましょう。
 「もし死者が決してよみがえらないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、何をするのだろうか。なぜ死者のためにバプテスマを受けるのか。」
 
 さらにまた、この引用文に関連して、一人の預言者の言葉を引用しましょう。
 彼は神権の回復と、終わりの時に示される栄光と、またとくに永遠の福音に属するすべての事項の中で最も栄光あるこの事柄、すなわち死者のためのバプテスマにその目を注いでいました。
 マラキは、その書の最後の章の第五節と六節で言っています。
 「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
 彼は先祖の心を子孫に、子孫の心をその先祖に向けさせる。これは、わたしが来て、のろいをもって地を打つことのないようにするためである。」
 
 わたしはこれをもっと分かりやすく翻訳することもできましたが、このままでも十分に分かりやすく、わたしの目的にかないます。
 この場合、先祖と子孫の間にある事項について固いつながりがなければ、地はのろいをもって打たれるということを知るだけで十分です。
 さて、その事項とは何でしょうか。それは死者のためのバプテスマです。
 彼らなしにはわたしたちが完全な者とされることはなく、またわたしたちなしには彼らが完全な者とされることはないのです。
 また、福音にあって死んだ者なしには、彼らもわたしたちも完全な者とされることはありません。
 今や訪れようとしている時満ちる神権時代の到来に当たって、アダムの時代から現在に至るまでの、神権時代と鍵と力と栄光のすべての、ことごとくの、完全な和合と結合が起こり、示されることが必要だからです。
 またこれだけではなく、世の初めからまだ一度も示されておらず、知恵のある者や賢い者から隠されてきた数々の事柄も、この時満ちる神権時代には、みどりごや乳飲み子に示されることでしょう。 (教義 128:8-18

 預言者エリヤの使命は、時として「エリヤの霊」とよばれるものの導きにより果たされています。
 「エリヤの霊」は、十二使徒のラッセル・M・ネルソン長老が教えているとおり、「家族が神聖な特性をもつことを証する聖霊の現れ」です。(「新たな収穫の時」 『聖徒の道』 1998年7月 p.38参照)
 
 預言者エリヤの霊は、先祖や家族の救いを心から願い、自らその実現のために最善を尽くす人々を導きます。
 
 ジョン・A・ウィッツォー長老が次のように語っています。
 「死者の霊と感化力は、記録を見いだすことに関心を抱いている人々を導くであろう。
 そのために、彼らに関する記録が地上のどこかにあるならば、必ずそれを探し出すことができるのである。」 (“Sermons and Missionary Services” p.230)

 ジョン・A・ウィッツォー長老は、さらに以下のように語っています。
 「この業に全力を尽くす人々は、ただ系図を集めるだけでなく、幕のかなたから助けを受けることができると、私は感じています。
 幕のかなたにいる人々を助けようとする人は誰でも、代わりに人生の諸事全般について助けを得られます。 ……
 幕のかなたへ去っ た人々に助けを与えるとき、幕のかなたから 私たちに助けが与えられます。」 (“Genealogical Activity in Europe” p.104)
 
 「私たちは前世における大会議の日に、全能者とある合意を交わしました。……
 まさにその時、その場で、自らの救い手となるだけでなく、ある程度まで全人類家族の救い手となることに同意した のです。
 この点において、私たちは主の協力者となったのです。
 したがって、この時点から、この計画の遂行は単に御父の業や救い主の業だけでなく、私たちの業ともなったのです。」 (“The Worth of Souls” Utah Genealogical and Historical Magazine 1934年10月 p.189)

 「見える世界と見えない世界は近い関係にあります。一方が他方を助けます。
 神殿儀式の特権と祝福にあずかれない人々は、当教会の……えりすぐりの賜物のいくつかを失っています。」 (“The urgency of Temple Service” Utah Genealogical and Historical Magazine 1937年1月 p.5)

  子孫の心は向かうであろう デビッド・A・ベドナー長老 十二使徒定員会

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 ジョセフ・フィールディング・スミス長老は、次のように教えています。
 「主は、私たちの神殿のバプテスマフォントを基礎すなわち地表の下に置かれた。
 これには象徴的な意味がある。
 死者は墓の中に入っており、バプテスマを受けるわたしたちは死者のために働いているからである。
 さらに、バプテスマは死と復活の象徴であり、事実、罪の生活すなわち霊的な死から霊的な命の生活への復活である。(教義 29:41-45参照)

 したがって、身代わりによってこの儀式が施されたとき、死者は神のもとに戻ったものと考えられる。
 これは、生者に適用されるのと同じ教義である。」 (『教会歴史と近代の啓示』 2:332)


 
 
 


 バプテスマフォントの象徴は、生者にも意味があります。
 パウロは、人は肉につける(罪の多い)自分を葬らなければならないと教えました。
 すなわち、現在の自分を葬って新しい人になるのです。


 では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。
 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
 それとも、あなたがたは知らないのか。
 キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。
 それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。
 それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 

 この罪の「古き人」(ローマ 6:6)は、墓に似たものとして設けられたバプテスマフォントの中に葬られ、新しく生まれた霊的な人間が、肉体の誕生に似せて水に完全に沈められた状態から出てくるのです。

 背きによって堕落が生じ、その堕落が死をもたらす。
 あなたがたは水と血と、わたしが造った霊とによってこの世に生まれ、ちりから生けるものとなったので、まことにあなたがたは、水と御霊によって再び天の王国に生まれ、血によって、すなわちわたしの独り子の血によって清くされなければならない。
 それは、あなたがたがすべての罪から
聖められ、この世において永遠の命の言葉を享受し、来るべき世において永遠の命、すなわち不死不滅の栄光を享受するためである。
 それは、あなたが水によって戒めを守り、御霊によって義とされ、血によって聖められるからである。 (モーセ 6:59-60) 


 十二使徒定員会会長のボイド・K・パッカー長老は、預言者エリヤの訪れと彼の使命について、次のように特別なメッセージをしています。

  救い主により家族は永遠になる

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 ジョセフ・フィールディング・スミスは、こう述べています。
 「約束の聖なる御霊とは、すべての儀式、すなわちバプテスマ、確認、聖任、結婚などに承認の印を押す聖霊である。
 この約束とは、忠実であればかずかずの祝福が得られるというものである。
 人が聖約を破るなら、それがバプテスマであろうと、聖任、結婚あるいはそのほかの儀式であろうと、御霊は承認の印を取り下げ、祝福は得られない。
 すべての儀式は、忠実さを条件に報いが与えられるという約束をもって結び固められる。
 しかし聖約が破られた場合、聖なる御霊は承認の印を取り下げる。」 (『救いの教義』 1:45)

 
 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。
 彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、
 「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。 (黙示 7:2-3
 
 ヨハネの時代には、異教の神々の帰依者たちは、自分たちの神の名前またはシンボルの印を額に受けるのがごく普通の慣習でした。
 ギリシャ神話のゼウスの信者たちは、額に稲妻の印を受けました。
 ギリシャ神話のポセイドーンの信者たちについても同様でした。
 ヨハネの用いた比喩は、当時の読者たちに強烈な印象を与えたことでしょう。
 額に印を付けるとは、その印の者が真の神であろうと、神として礼拝された邪悪な存在であろうと、印の者への献身と奉仕を表しているのです。

 忠実な人々の額のしるしは、彼らが召しと選びを確かなものとし、彼らの頭に祝福をしるす意味です。 


 なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。
 また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。 (黙示 14:1

 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。
 神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。 (黙示 22:3-4

 キリストに敵対する獣の信奉者たちも、額か手に刻印を押されたと書かれてあります。


 また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。
 この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。 (黙示 13:16-17

 ローマ人は、兵士なら手に、奴隷なら額に印を付けていました。
 使徒ヨハネが見た緋色の衣をまとった女は額に名前を記されています。


 それから、七つの鉢を持つ七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦に対するさばきを、見せよう。
 地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に酔いしれている」。
 御使は、わたしを御霊に感じたまま、荒野へ連れて行った。
 わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。
 その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。
 この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、
 その額には、一つの名がしるされていた。
 それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。 (黙示 17:1-5

 額に印のある人は、戦争や疫病や飢餓に際しても、神は自ら守ろうと思う者を守り、そのほかは死ぬままにすることをここでは示しています。
 しかし、地上の神の王国(末日聖徒イエス・キリスト教会)の会員であるからというだけで救われることはありません。
 義にかなった生活をすることが必要であって、 神の名を口にしながら神に従わない人には、厳しい裁きが用意されています。


 彼に言われた、「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」。
 またわたしの聞いている所で他の者に言われた、「彼のあとに従い町をめぐって、撃て。あなたの目は惜しみ見るな。
 またあわれむな。老若男女をことごとく殺せ。
 しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ」。
 そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた。
 この時、主は彼らに言われた、「宮を汚し、死人で庭を満たせ。行け」。
 そこで彼らは出て行って、町の中で撃った。
 さて彼らが人々を打ち殺していた時、わたしひとりだけが残されたので、ひれ伏して、叫んで言った、「ああ主なる神よ、あなたがエルサレムの上に怒りを注がれるとき、イスラエルの残りの者を、ことごとく滅ぼされるのですか」。 (エゼキエル 9:4-8

 エゼキエルが印を付けようとした人々の印は、不信仰の人々が滅ぼされるときに信仰ある人を守るためのものです。
 嘆き悲しむ人々は、神に属していることを示しています。


 オーソン・プラットは、次のように述べました。
 「この大いにして厳しい裁きはどこからはじまるのだろうか。
 主は復讐の大事業をどの民から始められるのだろうか。
 それは、主の名を知っていると公言しながら、主の家の中で主を冒涜する人々からである。
 彼らは末日の最も恐るべき裁きに相当する人々である。」

 なぜエゼキエルのほかに生き残りがいなかったのか、それほどまでに神の裁きは厳しいものなのかについては、アブラハムと神との対話の中に見つけることができます。
 ソドムとゴモラを滅亡させるにあたって、アブラハムは正しい人がいても滅ぼすのかとの問いに対して、御使いは「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」と述べました。
 その言葉通りに、義人であったロトを救い出したのちにソドムとゴモラは滅ぼされています。


 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。
 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。
 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
 たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。
 正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。
 全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
 
 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。
 主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。
 主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。
 主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。
 主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。
 主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。
 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。 (創世 18:20-33

            angry-jesus

 復讐は正しく裁ける公平で正義の主がすることです。


 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。
 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。
 なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。
 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。 (ローマ 12:17-21) 
 
 
 そして彼らが、わたしたちの主であり救い主であるイエス・キリストによって禁じられていた、すべてのものにかけて、自分たちは敵のところに上って行って戦い、同胞の血の報復をすると誓ったとき、見よ、主の声がわたしに聞こえてこう言われた。
 「報復はわたしのすることである。わたしが報復する。この民はわたしによって救い出された後に悔い改めなかったので、見よ、地の面から絶たれる。」 (モルモン 3:14-15) 

 主は悪人が悔い改めようとしないから、悪人に報復しようとおっしゃっています。

 聴きなさい、おお、人々よ。心を開き、遠くから耳を傾けなさい。
 主の民と自称するあなたがたは、聴きなさい。
 主の言葉と、あなたがたに関する主の思いを聞きなさい。
 まことに、わたしは言う。悪人と背く者に向かって怒りを燃やしている者の言葉を聞きなさい。
 まことに自分が取りたいと思う者たちを取り、また自分が命を守りたいと思う者たちの命を守る者、
 自分の意のまま、思いのままに築き上げる者、自分がよいと思うときに滅ぼす者、地獄に投げ落とすことのできる者の言葉を聞きなさい。
 
 見よ、主なるわたしが声を発すると、それには従わなければならない。
 それゆえ、まことに、わたしは言う。悪人は用心し、背く者は恐れおののき、信じない者は口をつぐみなさい。
 激しい怒りの日が旋風のようにこれらの者に及ぶからである。
 そして、すべての肉なるものはわたしが神であることを知るであろう。(教義 63:1-6

 見よ、見よ、報復は神を敬わない者のうえに旋風のように速やかに及ぶ。
 そして、だれがそれを免れるであろうか。
 主の懲らしめは夜も昼も通り行き、その知らせはすべての人を悩ます。
 すなわち、主が来るまで、それはとどめられないであろう。
 主の憤りは、彼らの忌まわしい行いとすべての邪悪な行いに向かって燃えているからである。 (教義 97:22-24

 この記録を明るみに出す者は幸いである。
 神の言葉のとおりに、これは暗闇から明るみに出される。
 まことに、これは地から出され、暗闇から輝き出て、民に知られるようになる。
 それは神の力によって行われる。
 もし誤りがあるとすれば、それは人の誤りである。
 しかし見よ、わたしたちはまったく誤りを見いださない。
 それでも、神はすべてのことを御存じであるので、非難する者は、地獄の火に投げ込まれる恐れのないように用心しなければならない。
 「わたしに見せよ。さもなければお前を打つ」と言う者は、主から禁じられていることを命じないように気をつけなければならない。
 それは見よ、軽率に裁く者は同じように軽率に裁かれ、人の報いは当人の行いに応じるものだからである。
 したがって、打つ者は同じように主から打たれるであろう。
 見よ、「『人は打ってはならないし、裁いてもならない。裁きはわたしのすることである。報復もわたしのすることである。わたしが仕返しをする』と、主が言われる」と、聖文は述べている。
 主の業に対して、またイスラエルの家である主の聖約の民に対して、怒りと争いの言葉を吐き、「主の業を絶やそう。主はイスラエルの家に立てた聖約を思い出しはしない」と言う者は、切り倒されて火の中に投げ込まれる恐れがある。
 主のすべての約束が果たされるまで、主の永遠の目的は続くからである。
 イザヤの預言を調べなさい。
 見よ、わたしはそれを書き記すことはできないが、まことに見よ、あなたがたに言っておく。
 この地を所有していて、わたしよりも前に世を去った聖徒たちは叫ぶ。
 まことに、彼らは地から主に叫ぶ。
 そして、主が生きておられるように確かに、主は彼らと交わした聖約を思い出されるであろう。
 
 主は、同胞のためにささげられた聖徒たちの祈りを御存じである。
 また主は、彼らの信仰も御存じである。
 彼らは、主の名によって山々を移すことができた。彼らは、主の名によって地を揺り動かすこともできた。
 また、主の言葉の力によって牢を地に倒した。
 まことに、主の言葉の力のために、火の燃える炉も彼らを害することができず、猛獣も毒蛇も危害を加えることができなかった。
 また見よ、彼らの祈りは、将来これらのものを世に出すことを主から許される者のためにもささげられた。

 だれも、これらのものは出て来ることはないと言ってはならない。
 主が言われたので、これらのものは必ず出て来るからである。
 これらのものは主の手によって地から出て来る。
 だれもそれを妨げることはできない。
 それは、奇跡がやんでしまったと言われる時代に出て来る。
 あたかも人が死者の中から語るかのようにそれは出て来る。
 聖徒たちの血が秘密結社と闇の業のことで主に叫んで訴える時代に、それは出て来る。
 まことに、神の力が否定され、もろもろの教会が汚れたものとなり、教会の者たちが高慢な心で高ぶる時代に、それは出て来る。
 まことに、教会の指導者たちと教師たちが心を高慢にして、彼らの教会に属する者たちが彼らをねたみの目で見るようになる時代に、それは出て来る。
 
 まことに、ほかの国々の火と暴風雨と立ち込める煙のことを伝え聞く時代に、それは現れ出る。
 またそのとき、様々な地における戦争と戦争のうわさと地震のことも伝え聞くであろう。
 まことに、地の面にひどい汚れがあり、殺人と強盗と偽りと欺きとみだらな行いとあらゆる忌まわしい行いがある時代に、また、「これを行え。あれを行え。それをしてもかまわない。主は終わりの日に弁護してくださる」と言う者が多くいる時代に、それは出て来る。

 しかし、このように言う者は災いである。
 彼らは苦汁の中におり、罪悪の縄目を受けているからである。
 まことに、「わたしのところに来なさい。金銭と引き換えにあなたがたの罪は赦される」と言う教会が設けられている時代に、それは出て来る。
 おお、邪悪でよこしまで強情な民よ、なぜあなたがたは利益を得ようとして自分自身のために教会を設けたのか。
 なぜあなたがたは神の聖なる言葉を変えて、自分に罰の定めを招くようにしたのか。
 心から神の啓示に頼りなさい。
 見よ、これらのことがすべて必ず成就する時が、その時代に来る。
 見よ、これらのことがあなたがたの中に起こるその時代に、間もなく必ず出て来るものについて、主は大いなる驚くべきことをわたしに示してくださった。
 見よ、わたしはあなたがたがここにいるかのように語っているが、あなたがたはまだこの世にいない。
 しかし見よ、イエス・キリストがわたしにあなたがたを見せてくださったので、わたしはあなたがたが行うことを知っている。
 
 わたしは、あなたがたが心を高慢にして歩くことを知っている。
 心を高慢にして高ぶることをしない者はわずかしかいない。
 高慢な者は、非常に華やかな衣服を着て、ねたみや争い、悪意、迫害、またあらゆる罪悪に染まる。
 また、あなたがたの教会、まことにすべての教会は、あなたがたの心が高慢なために汚れたものになってしまった。
 見よ、あなたがたは、貧しい人と乏しい人、病人と苦しんでいる人を愛する以上に、金銭や財産、華やかな衣服を愛し、あなたがたの教会を飾ることを大切にする。
 おお、腐食するもののために自分自身を売る汚れた者たちよ、偽善者たちよ、教師たちよ、なぜあなたがたは神の聖なる教会を汚したのか。
 なぜあなたがたは、キリストの名を受けるのを恥じるのか。
 なぜあなたがたは、無窮の幸福が、決して尽きないあの不幸な状態よりも大きな価値があることを考えないのか。
 それは世の誉れのためである。
 なぜあなたがたは、命のないもので自分自身を飾りながら、飢えている人や乏しい人、着る物のない人、病人、苦しんでいる人を見過ごしにし、彼らに注意を払わないのか。
 まことに、なぜあなたがたは、利益を得るために秘密の忌まわしい行いを企て、やもめを主の前で嘆き悲しませ、みなしごも主の前で嘆き悲しませ、彼らの父と夫の血があなたがたの頭に報復が及ぶよう訴えて、地の中から主に叫ぶようにさせるのか。
 見よ、報復の剣があなたがたに迫っている。
 主はもはや聖徒たちの嘆願をそのままにしておかれないので、主があなたがたに彼らの血のために報復される時がすぐに来るであろう。 (モルモン 8:16-41

 そしてさらに、わたしはあなたに言う。
 救い主についての知識が、あらゆる国民、部族、国語の民、民族の間に広まる時が来る。
 そして見よ、その時が来ると、悔い改めて全能者である主なる神の御名を信じるのでなければ、幼い子供たちを除いて、神の御前に罪がないと認められる者はだれもいないであろう。
 また、今でさえ、すなわちあなたが主なる神から命じられてきたことを民に教える現在でさえ、わたしがあなたに語っている言葉に従わなければ、彼らはもはや神の目から見て罪がないとは認められない。
 
 さて、わたしは主なる神が命じられた御言葉を語り終えた。
 そして、主はこのように言われる。
 「これらの言葉は裁きの日にこの民を責める明らかな証となる。
 これらの言葉によって、この民はそれぞれ皆、自分の行いが善いかそれとも悪いか、その行いに応じて裁かれる。
 そして、もし行いが悪ければ、彼らは自分の罪と忌まわしい行いの恐ろしい思いに引き渡される。
 そして、その恐ろしい思いは彼らを主の前からしりごみさせ、決して戻ることのできない、惨めな無窮の苦痛の状態に彼らを陥れる。これらの者は、自分自身に罰の定めを招いたのである。
 それゆえ、これらの者は神の激しい怒りの杯から飲んだのである。
 正義は彼らに対する怒りの杯を取り消すことはできない。
 それは、アダムが禁断の実を食べたために堕落することになったのを取り消せないのと同様である。
 したがって、憐れみはもはやとこしえに彼らに及ぶことはない。
 そして、彼らの受ける苦痛は、消えることなく炎が上り、とこしえにいつまでも煙を吐く火と硫黄の池のようである。」
 主はこのように言うことをわたしに命じられた。アーメン。』」 (モーサヤ 3:20-27
 
 シオン、すなわち心の清い者には、大いなる驚くべき祝福が約束されています。(教義 97:21参照)

 主はまた、この章の中で主の言葉に注意を払おうとしない悪人には、罰と破滅を下すと言っておられます。
 しかし、シオンといえども、にかなった業を行わなければそれを免れることはできません。
 教会員もシオンの民としてふさわしい生活をしなければ、約束された祝福を求めることはできないのです。

 預言者ジョセフ・スミスは、次のように教えています。
 「すべての事柄について、主の目から見て受け入れられるように、シオンが自らを清めないならば、主は別の民を求められるであろう。
 なぜならば、主の業はイスラエルが集合するまで続き、主の声を聞こうとしない者は主の怒りを買うからである。
 あなたに申し上げる。
 主の怒りが炎のごとく燃えないように、まず自分自身を、次いでシオンに住む人々を清めるようにしなさい。
 悔い改めよ、悔い改めよ。
 これはシオンに対する主の言葉である。
 奇妙に思われるかもしれないが、これは真実である。
 人類は、自分たちの罪悪がすべて暴露され、過去の人格が再び戻り、心の中に大切にしまい込まれていたものが衆目にさらされるまで、自らの正しさを主張するものである。
 私はあなたに申し上げたい。(そして、私はあなたに申し上げることを、すべての人に申し上げる。)
 シオンが倒れないように、また主が激しく怒って、シオンに住む者は主の安息に入れないと誓いを立てられることのないように、神の警告の声に耳を傾けなさい。」 (『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.18-19)

 主の怒りは正義の怒りです。
 その動機は神の子供たちを祝福し、真理を明らかにし、悪を破壊することにあります。
 通常、人々が邪悪な行為を改善や悔い改めていない場合に、神は怒り罰を下します。

 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。
 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。 (ローマ 1:18-19
 
 は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。
 御子を信じる者は永遠の命をもつ。
 御子に従わない者は、にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。 (ヨハネ 3:35-36

 聴きなさい、おお、わたしの教会の人々よ。
 高い所に住み、その目がすべての人のうえにある者の声は言う。
 まことにわたしは言う。遠くの民よ、聴きなさい。
 海の島々にいる者よ、ともに耳を傾けなさい。
 まことに、主の声はすべての人に及び、逃れる者は一人もいない。
 目として見ないものはなく、耳として聴かないものはなく、心として貫かれないものもない。
 また、背く者は深い悲しみに刺し貫かれる。
 彼らの罪悪が屋根の上で語られ、彼らの隠れた行いが暴かれるからである。
 また、警告の声は、この終わりの時にわたしが選んだ弟子たちの口を通して、すべての民に及ぶ。
 彼らは出て行き、彼らをとどめる者はいない。
 主なるわたしが彼らに命じたからである。
 見よ、これはわたしの権威であり、わたしの僕たちの権威であり、わたしの戒めの書へのはしがきである。
 おお、地に住む者よ、これらの戒めは、あなたがたに知らせるためにわたしが僕たちに与えたものである。
 それゆえ、おお、民よ、畏れおののきなさい。
 主なるわたしがこれらの中で告げたことは成就するからである。

 まことに、わたしはあなたがたに言う。
 地に住む者にこれらのおとずれを伝えるために出て行く者には、信じない者や背く者を地上でも天でも結び固める力が与えられる。
 まことに、神の激しい怒りが限りなく悪人のうえに注がれる日のために、彼らを結び固めるのである。

 主が来てすべての人にその行いに応じて報いを与え、またすべての人をその同胞を量ったはかりで量る日のために。
 それゆえ、主の声は、聞こうとするすべての人が聞けるように地の果てにまで及ぶ。
 あなたがたは備えなさい。来るべきことのために備えなさい。
 主は近いからである。
 主の怒りは燃え、主の剣は天において浸されている。
 そして、それは地に住む者のうえに下る。
 主の腕が現される。
 そして、主の声もその僕たちの声も聞こうとせず、預言者たちや使徒たちの言葉も心に留めようとしない者たちが、民の中から絶たれる日が来る。
 彼らはわたしの定めから離れ去り、わたしの永遠の聖約を破った。
 彼らは主のを打ち立てるために主を求めようとせずに、すべての人が自分の道を、自分の神の像を求めて歩む。
 その像は俗世の形であり、その本質は偶像のそれである。
 それは古びて、バビロン、まことに大いなるバビロンにおいて滅び、バビロンは倒れる。 (教義 1:1-16
 
 
 「信じない者や背く者」を結び固めるとはどういうことか
 「この最後の神権時代に主の僕たちに授けられた結び固めの力は、『信じない者』や『背く者』にもおよぶものである。……
 主の僕たちには、かたくなに福音を拒み、教えに背く者に対して、非難を結び固める力がある。
 このようにして結び固められ、その状態にとどまる者は、神の激しい怒りを被るであろう。この結び固めは、『信じない者』、すなわち福音の教えを受け入れるのを拒む者と、『背く者』、すなわち主の僕たちに背を向ける者、とくに教会員としての特権や祝福にあずかったのちにそうする者たちにかかわるものである。」 (スミス、ショダール共著 Commentary 『注解』 p.6)
 
 『教義と聖約』には「備え」という言葉が約110回出てきます。
 この警告こそ『教義と聖約』の主題の1つです。
 主は常に、人々に来るべきことに備える機会を与えておられます。
 この神権時代に与えられる啓示は、聖徒たちが備えをするための助けとなるのです。
 剣は、戦いのときのように、悪人のうえに注がれる破壊と裁きの象徴です。
 この剣は主の御心を行うために、今まさに振り下ろされようとしています。
 
 「『腕』という言葉は、古代ヘブル語の口語体では、人間の力を意味するものとして広く用いられていたに違いない。
 しかし、『聖書』の中では、神の力の表現として用いられている場合がほとんどである。
 中でもイザヤ 30:30は、神の腕の動きを、人間の腕の動きのようにいきいきと表現した出色のものである。……
 また神の腕を、攻撃的な動きを示す『伸ばした』という言葉で表現した箇所も数多くある。(出エジプト 6:6詩篇 136:12エレ 27:5参照)
 
 しかし、その場合でもほとんどは、語句本来の躍動感を失い、抗し難い神の力を表すにしては非常に平凡な表現となっている。
 その顕著な例がエレミヤ 32:17に見られる『大いなる力』と同じ意味の『伸べた腕』という箇所である。」 (Interpreter's Dictionary of the Bible 『聖書解釈辞典』「腕」の項参照)
 
 この比喩的表現は破壊的な力の意味だけで用いられているのではなく、憐れみをもって人を助けるために示される力を表すときもも用いられます。
 すべての民への警告の声の一部として、主は御自分の僕たちの声を聞こうとしない者たちが絶たれる日が来ると予告されました。
 
 ジョージ・Q・キャノン副管長は、預言者に背を向けることの霊的危険性について次のように説明しています。
 「神がその僕たちを選ばれたのである。
 もし彼らを罪に定める必要があるとするなら、罪に定めるのは神の特権であると言っておられる。
 神は、彼らを罪に定める権利を私たち個人には与えられなかった。
 いかに信仰が強かろうと、神権の高い職にいようと、主の油注がれた者の悪口を言ったり、地上で神の権能をもつ者のあら探しをしたりしながら、神の不興を買わずに済む人はいない。
 聖なる御霊はそのような人から離れ去り、その人は暗黒の中を歩むことになろう。
 こういう訳だから、私たちが注意深くあることがどんなに大切かが分かるであろう。
 中央幹部のとる行動がどんなに不可解に見えても、私たちはあまり性急に彼らの行動をいぶかったり、間違っていると決めつけたりすべきではない。」(Gospel Truth 『福音の真理』 1:278)
 
 スペンサー・W・キンボール大管長は、偶像礼拝とは偶像を拝んでいた過去の時代の罪であるという考えが誤りであることを指摘して、次のように述べています。
 「偶像礼拝は罪のうちでも最も重大な部類に属する。
 不幸にも、今日では、何百万という人が金、銀、木、石、土などで造った像にひれ伏している。
 しかし、ここで私たちが採り上げる偶像礼拝とは、意識的にほかの神を礼拝していることである。
 あるものは金属とクロムで造られており、またあるものは木や石や織物で造られている。
 これらの像は神や人間の姿に似せて造られてはいないが、人間に慰めと楽しみを与え、欲求、功名心、情熱、願望を満たしてくれるとして大切にされているのである。
 あるものはまったく物理的に形を成しておらず触れることすらできない。
 多くの人は自分の生活の基盤となるものを『礼拝』しているようである。
 このような人々は飲み食いするために生きているのである。
 このような生き方をしている人々は、神御自らの導きによる国全体の繁栄で多くの自由の恩恵を受けたにもかかわらず、その思いは『エジプトの肉のなべ』以上の域に到達し得なかったイスラエルの子らに似ている。
 彼らは肉体上の欲求を満たす以上のことには目を向けられないようである。
 パウロが言っているように、彼らの『神はその腹』(ピリピ 3:19)であった。
 現代の偶像、偽りの神は衣服、家、仕事、機械、自動車、ヨット、その他種々の物質的なものであって、私たちを神の道からそらそうとしている。
 今挙げたようなものが、いわゆる偶像の形を取っていなくとも、どれほどの違いがあると言えるだろうか。
 ブリガム・ヤングは、『私は自分の財産を礼拝している人を見るくらいなら、真鍮や木で造った小さな神を礼拝している人のほうを見たい気がする』と言っている。
 手で触れることのできないものは容易に神になる。
 学位、証書、称号は偶像になる。
 多くの若人は、まず第一に伝道に出るべきなのに、そうしないで大学へ進学しようとする。
 進学することによって得られる学位、富、保証が何をおいても大切なことのように思え、伝道は二の次になってしまうのである。
 ある人は、大学生活を送っている間、学業に重きを置き、神と交わした霊的な聖約を無視して、教会における奉仕をなおざりにする。
 多くの人はまず家を建て、家具を備え、自動車を購入する。
 その後で什分の一を納める『余裕がない』ことに気づくのである。
 このような人々は誰を礼拝しているのであろうか。
 天地の主ではないようである。
 私たちは愛する者に仕え、愛情と望みの対象をまず念頭に置くからである。
 学位を得るまで子供をもうけないでおこうとする若い夫婦は、そのような態度は偶像礼拝であると指摘されたとしたら、少なからず打撃を受けることであろう。」 (『赦しの奇跡』 p.44-45)

            45235

 イエスを信じる人々は、何千年もの間、平和と喜びのときであるイエス・キリストの再臨を待ち望んできました。
 しかし、救い主が来られる前に、地上の人々は大きな苦難や災いに直面するでしょう。
 天の御父は私たちにこうした困難に備えさせたいと願い、また救い主が栄光をもって再臨されるとき、霊的な準備ができているように期待しておられます。
 そのために、救い主の再臨が近いことを示す出来事を、しるしとして与えてくださるのです。
 

 しかし見よ、わたしはあなたがたに言う。
 この大いなる日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血に変わり、星は天から落ちるであろう。
 また、上には天に、下には地に、さらに大きな数々のしるしがあるであろう。
 また、多くの人が涙を流し、泣きわめくであろう。
 また、激しい雹を伴う嵐が送られて、地の作物を損なうであろう。
 そしてまた、世の悪のゆえに、わたしは悪人に報復しよう。
 彼らが悔い改めようとしないからである。わたしの憤りの杯は満ちているからである。
 
 見よ、彼らがわたしの言うことを聞かなければ、わたしの血は彼らを清めない。
 それゆえ、主なる神であるわたしは、地の面にあぶを送る。
 それらは地に住む者に取り付いてその肉を食い、うじを生じさせるであろう。
 そして、彼らの舌はこわばり、彼らはわたしに反対して語ることができなくなる。
 また、彼らの肉は骨から離れ、目はその穴から落ちるであろう。
 そのとき、森の獣と空の鳥は彼らをむさぼり食うであろう。
 また、全地の淫婦である大きな忌まわしい教会は、これらのことについて語った預言者エゼキエルの口を通して語られたとおりに、焼き尽くす火によって倒されるであろう。
 これらのことはまだ起こっていないが、わたしが生きているように確かに起こる。
 忌まわしい行いが支配することはないからである。 (教義 29:14-21) 
 
 「満ちみちた憤りの杯」という表現は、悔い改めない悪人に報復するのを主がそれ以上引き延ばされないということを示唆しています。
 杯に入る量に限界があるように、悪をなす人々に主が示される忍耐にも限界があります。
 それ以上長く耐えることは、けっしてではありません。
 それどころか、主が救い主として人類のために御自身をささげられたのにかえって彼らを害することになります。

 これまでの時代を通じて、神は預言者たちにそれらのしるしを啓示してこられました。 
 そして、キリストに忠実に従うすべての人々はしるしが何であるかを知り、それを待ち望むであろうと言われました。 


 そして、光がさし始めると、それは彼らにとって、わたしがあなたがたに示すたとえのようになる。
 すなわち、あなたがたはいちじくの木を眺めて見る。
 あなたがたは自分の目でそれを見る。
 そして、いちじくの木が芽吹き始め、その葉がまだ柔らかいと、夏がもう近いと、あなたがたは言う。
 同じように、人々はこれらすべてのことを見るその日に、時が近いことを知るであろう。
 そして、わたしを畏れる者は、主の大いなる日が来るのを、すなわち人の子の来臨のしるしを待ち望むであろう。 (教義 45:36-39
 
 忠実な人々は熱心に聖典研究を行い、イエス・キリストの再臨のしるしについて知るでしょう。

 イエス・キリストの贖罪悔い改めようとしない者を清めません。
 そこで救い主は、心の鈍っている、聖霊の静かな促しを得ようとしない者の目を覚ます手段として、疫病、飢餓、悪疫、破壊などを用いられます。
 これらの恐ろしい裁きは、人の悪事が招く当然の報いです。
 神は人々に、このような悪事をやめ罪の恐るべき結果を身に招かないようにと心から望んでおられます。

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  14万4千人

 また、エライアスは4人の天使とともに、イスラエルの全部族の中から14万4千人に印を押します。


 わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。
 ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリ部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、ゼブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。 (黙示 7:4-8

 問い。イスラエルの全部族から十四万四千人、すなわち各部族から一万二千人ずつ印を押すことによって、わたしたちは何を理解すべきか。
 答え。わたしたちは次のように理解すべきである。
 すなわち、印を押される者たちは、永遠の福音をつかさどるために神の聖なる位に聖任される大祭司である。
 彼らは、長子の教会に来たいと望むすべての者を導くために、地のもろもろの国民を治める力を与えられている天使たちによって、あらゆる国民、部族、国語の民、民族の中から聖任される者である。 (教義 77:11

 あなたがたは、わたしの戒めを守るならば、父の完全を受け、わたしが父によって受けているように、あなたがたはわたしによって栄光を受けるからである。
 それゆえ、わたしはあなたがたに言う。あなたがたは恵みに恵みを加えられるであろう、と。
 さて、まことに、わたしはあなたがたに言う。
 わたしは初めに父とともにいた。わたしは長子である。
 また、わたしによって生まれる者は皆、長子の栄光にあずかる者であり、長子の教会である。 (教義 93:20-22) 

 ジョセフ・フィールディング・スミス長老は、次のように教えています。
 「『地のもろもろの国民を治める力を与えられている天使たち』(教義 77:11)の権能によって、人々をキリストに導くために特別に召された14万4千人の1人となることは、大変な栄誉です。

 3人のニーファイ人の弟子たちも、同様にこの大いなる栄誉を求めて、それを許されました。
 これは人がもつ望みの中で最も高貴なものです。」 (『教会歴史と近代の啓示』 1:302)

 教会が承認した情報源にはない物語やそのほかの情報は真偽が不明で虚偽が含まれる可能性が高いので、教会が承認した情報源にはない話題は教会の教師は話し合うことを避けるように指示されています。

 ジェフリー・R・ホランド長老は、こう述べています。
 「3人のニーファイ人の弟子たちは、ニーファイの土地に行ったときと同じように、今日も身を変えられた状態を続けています。
 ある時点でモルモンは末日の読者たちに彼らの名前を明らかにしようとしていましたが、モルモンはそうすることを主に禁じられていました。
 それにもかかわらず、3人はモルモンとモロナイに仕えました。
 ユダヤ人、異邦人、イスラエルの散らされた部族、すべての国民、部族、国語の民、民族にさえも仕えています。」 (Christ and the New Covenant: The Messianic Message of the Book of Mormon p.307)


 イエスの弟子たちのほかに、まことの神を知っている者はだれもいない。
イエスの弟子たちは民の悪事がひどくなるまではこの地に住んでいたが、悪事が非常にひどくなったので、主は彼らが民とともにいることをお許しにならなかった。
 彼らが今この地の面にいるかどうか、だれも知らない。
 しかし見よ、父とわたしはかつて彼らに会い、彼らはわたしたちを教え導いてくれた。 (モルモン 8:10-11

 見よ、彼らは将来異邦人の中に行くが、異邦人は彼らに気づかないであろう。
 彼らはユダヤ人の中にも行くが、ユダヤ人も彼らに気づかないであろう。
 そして、主が御自分の知恵でふさわしいと見なされるときに、彼らは自分たちの望みが果たされるように、また彼らの内に神の説得力があるために、イスラエルのすべての散らされた部族、およびすべての国民、部族、国語の民、民族を教え導き、彼らの中から多くの人をイエスのもとに導くであろう。 (3ニフ 28:27-29

 私たちには、この14万4千人が誰であるかは分かりません。

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 また、わたしは天からを下そう。
 また、地から真理を出して、わたしの独り子と、死者の中からの独り子の復活と、またすべてに人の復活について証しよう。
 そして、わたしは義と真理が洪水のごとくに地を満たすようにし、わたしが備える場所、すなわち聖なる都に地の四方からわたしの選民を集めよう。
 それは、わたしの民がその腰に帯を締め、わたしの来臨の時を待ち望めるようにするためである。
 わたしの幕屋はそこにあり、そこはシオン、すなわち新エルサレムと呼ばれるであろう。」 (モーセ 7:62
 
 ジョセフ・スミスはこの聖句について、こう述べています。
 「さて、この引用文から、私は……義と真理が洪水のごとくに地を満たすことになると理解しています。
 それでは尋ねますが、義と真理はどのようにして洪水のごとく地を満たすのでしょうか。
 答えましょう。
 人々と天使たちが力を合わせて、この大いなる業を成し遂げることによってです。
 そしてシオン、すなわち新しいエルサレムが、地の四方から集められる選民のために備えられ、聖なる都が建てられます。
 主の幕屋は彼らとともにあるでしょう。……
 『見よ、わたしはこの民をこの地に立てて、わたしがかつてあなたがたの先祖ヤコブと交わした聖約を果たそう。この地は新エルサレムとなるであろう。』〔3ニフ 20:22
 
 さて、モルモン書から、私たちは新エルサレムが設けられるまさにその大陸と場所を知ることができます。
 そしてその都は、パトモス島におけるヨハネの示現にあるとおり、引き上げられるに違いないのです。
 さて、多くの人が次のように言いたくなるでしょう。
 新エルサレムについて述べられているが、これはユダヤ人によって東大陸に建てられたエルサレムのことであると。
 しかし、黙示録第21章2節から、夫のために花嫁のように飾られて、天の神のもとから降ってくる新エルサレムがあったことが分かります。
 また、こののち黙示者は御霊捕らえられて、大きな高い山に連れて行かれ、大きな聖なる都が天の神のもとから降ってくるのを見ました。
 さて、ここでは2つの都のこが述べられています。
 1通の手紙の中ですべてを書き記すことはできないので、簡潔に言いますが、この大陸に設けられる新エルサレムがあり、そしてまた、エルサレムが東大陸に再建されるでしょう。〔エテル 13:1-12参照〕
 『見よ、エテルはキリストの時代を目にし、イスラエルの家と、リーハイが出て来るエルサレムについても述べた。
 エルサレムは破壊された後。主のために聖なる都として再び築かれる。
 したがって、それは昔存在していたので、新しいエルサレムではありえない……。』〔エテル 13:4-5〕」 (History of the Church 2:260-262)


 そして、にじが雲の中に現れる。
 わたしはそれを見て、あなたの先祖エノクに立てた永遠の聖約を思い起こすであろう。
 その聖約は、人々がわたしの戒めをすべて守るとき、シオン、すなわち、わたしがわたし自身のもとに取り上げたエノクの町が、再び地上に降るというものである。
 わたしの永遠の聖約はこれである。
 すなわち、あなたの子孫が真理を受け入れて仰ぎ見るとき、シオンは見下ろし、もろもろのは歓喜に揺れ、地は喜びに震えるであろう。
 そして、長子の教会の総集いが天から降って来て、地を所有し、終わりが来るまでその場所を得るであろう。
 これが、わたしがあなたの先祖エノクと交わした永遠の聖約である。
 にじが雲の中に現れるであろう。
 そしてわたしは、将来地上にあるすべての肉なる生き物のために、わたしとあなたとの間に立てた聖約をあなたに立てるであろう。」
 そして神はノアに言われた。
 「これが将来地上にあるすべての肉なるもののために、わたしがわたしとあなたとの間に立てた聖約のしるしである。」 (ジョセフ・スミス訳 創世 9:16-17)

 エノクとノアへの神の聖約を思い出させるものとして、天に虹が置かれました。 (参照
 終わりの時に人々が戒めをすべて守るとき、長子の教会の総集い(エノクの時代の主のシオン)が地上の義人と1つになります。
 「長子の教会」とは、イエス・キリストの教会のことで、天の御父によって生まれたすべての霊の子供たちの中にあってイエス・キリストは長子です。


 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 (黙示 21:2

 「新しいエルサレム」の名称が何を意味するかを理解するときに、私たちは次の3つの事実を知らなければならなりません。

 1. 古代のエルサレム、主が人々の間でかずかずの務めを果たされた都。
 この都は末日に再建され、福千年のときに2つの偉大な世界の首都の1つとなる。
 そして、ここから主の言葉が出される。

 2. 新エルサレム、新しいシオン、神の町。
 この町はアメリカ大陸に建てられる。

 3. エノクの町、最初のシオン、聖なる町。
 この町は天に取り上げられた。 (参照
 
 その身を変えられた住民たちが現在復活した状態で住んでいる町で、エノクの町の民は天使として働きます。
 
 
 まことに、エノクも、彼とともにいた者たちも、彼より前にいた預言者たちも、またノアも、彼より前にいた者たちも、またモーセも、彼より前にいた者たちも、
 またモーセからエリヤに至り、エリヤからヨハネに至る預言者たちも、すなわちキリストの復活の時にキリストとともにいたこれらの預言者たちも、聖なる使徒たちも、アブラハムやイサク、ヤコブとともに小羊の前にいるであろう。
 そして、聖徒たちの墓が開かれるであろう。
 小羊がシオンの山と、聖なる都である新エルサレムに立つとき、彼らは出て来て、小羊の右に立つであろう。
 そして、彼らは、日夜とこしえにいつまでも小羊の歌を歌うであろう。 (教義 133:54-56

 エノクとエノクの民は、キリストの復活とともに復活しています。
 そして、アメリカ大陸に建てられた同じ名前の町、つまり「シオン」と1つになるために戻ってきます。


       the new jerusalem

 すると、主はエノクに言われた。
 「わたしが生きているように確かに、わたしは終わりの時に、すなわち悪事と報復の時代に来て、わたしがノアの子孫に関してあなたに立てた誓いを果たそう。
 地が安息を得る日が来る。
 しかし、その日の前に、天は暗くなり、暗黒の幕が地を覆うであろう。
 天が震え、地も震えるであろう。
 そして、ひどい艱難が人の子らの中にあるが、わたしは自分の民を守ろう。
 また、わたしは天から義を下そう。
 また、地から真理を出して、わたしの独り子と、死者の中からの独り子の復活と、またすべてに人の復活について証しよう。
 そして、わたしは義と真理が洪水のごとくに地を満たすようにし、わたしが備える場所、すなわち聖なる都に地の四方からわたしの選民を集めよう。
 それは、わたしの民がその腰に帯を締め、わたしの来臨の時を待ち望めるようにするためである。わたしの幕屋はそこにあり、そこはシオン、すなわち新エルサレムと呼ばれるであろう。」
 また、主はエノクに言われた。
 「そのとき、あなたとあなたの町のすべての者はそこで彼らに会い、わたしたちは彼らを懐に迎え入れ、彼らはわたしたちを見るであろう。
 そして、わたしたちは彼らの首を抱き、彼らはわたしたちの首を抱いて、わたしたちは互いに口づけをするであろう。
 わたしの住まいはそこにある。
 それは、わたしが造ったすべての創造物の中から出て来るシオンである。
 そして、千年の間、地は安息を得るであろう。」 (モーセ 7:60-64


 「さて、私は尋ねたい。
 どれほどの正義真理が洪水のように地を押し流すだろうか。
 私は答えよう。
 人々と天使たちが力を合わせて、この大いなる業を推し進めるであろう。
 シオンすなわち新しいエルサレムは備えられる。
 また選民が地の四隅から集められ、聖なる町が建てられる。
 主の幕屋が彼らとともにあるからである。……
 この引用文から、パトモス島のヨハネが末日に関してエノクの見たものと同じものを見たことが分かる。」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.84)


 エズラ・タフト・ベンソン大管長は、こう説明しています。
 「主は義が天から出、また真理が地から出ることを約束され〔ました。〕
 私たちはその預言がこの世代に成就するのを見てきました。
 モルモン書は地から出てきました。
 真理に満ちたモルモン書は、『わたしたちの宗教のかなめ石』(モルモン書 序文参照)としての役割を果たしています。
 神もまた義を天から送られました。
 天の御父御自身が御子とともに預言者ジョセフ・スミスの前に御姿を現されたのです。
 さらに、天使モロナイ、バプテスマのヨハネ、ペテロ、ヤコブ、そのほか多くの御使いが、神の導きにより王国に必要な力を回復しました。
 さらに預言者ジョセフ・スミスは、教会の発展に非常に重要な初期の時代にあって、次から次へと啓示を受けたのでした。
 それらの啓示が収めてあるのが教義と聖約です。」 (『聖徒の道』 1987年1月 p.86)

 「モルモン書は『洪水のごとくに地を満たすようにし、……〔主〕の選民を集め』るために神によって備えられた道具です。(モーセ 7:62
 私たちは人々に神の教えを説き、教え、伝道するための中核として、この神聖な書物をもっと活用しなければなりません。……
 主御自身が数多くの理由をあげておられますが、地を『モルモン書』で洪水のごとくに満たすべき業があまりにも遅れすぎています。……
 教会には『モルモン書』が与えられ、教会員や宣教師もいます。
 さまざまな力や手段も授けられています。
 そして、世の人々は神の教えを必要としているのです。
 今こそ、『モルモン書』で地を満たすべきときです。」 (『聖徒の道』 1989年2月 p.4-5)


 ジョセフ・スミスは「14万4千人」は七十人に関係すると述べました。

 また、七十人が七十人の人々の中から選ばれた七人の会長によって管理されることは、七十人の秩序を示す示現による。
 これらの会長のうちの第七の会長が、六人を管理しなければならない。
 これら七人の会長は、彼らが属する最初の七十人のほかに別の七十人を選び、彼らを管理しなければならない。
 また、ぶどう園における働きで当然必要とされれば、七十の七倍まで、別の七十人を選び、管理する。
 これらの七十人は、まず異邦人のもとへ、そしてユダヤ人のもとへも行く巡回教導者となる。 (教義 107:93-97

  ぶどう園の労働者たち ジェフリー・R・ホランド長老 十二使徒定員会


 七十人は、彼らを管理するために七十人の人々の中から選ばれた7人の会長によって管理されます。
 七番目の会長が6人を管理します。
 「ぶどう園における働きで当然必要とされれば」、七十人の数を増やすことができます。
    
 預言者ジョセフ・スミスは、七十人に与えられた責任を次のように説明しています。

 「2月28日、評議会が開かれ、シオンの陣営として私と行動をともにした人々の中から七十人となる人を選ぶことになった。……
 こうして、私が受けた示現と啓示に基づいて、最初の七十人定員会が組織された。
 七十人は巡回定員会を構成し、十二使徒によって召される所にどこへでも出て行くのである。」 (『教会歴史』 2:201-202)
 
 「もし最初の七十人が選ばれ、さらに多くの働き手が必要ならば、最初の七十人の7人の会長は、ほかの七十人を召して、聖任し、ぶどう園で働くように送り出す。
 必要に応じて70の7倍を選び、その結果14万4千人が任命されて務めにたずさわることになるのである。」 (『教会歴史』 2:221)
 
 「70の7倍」とは、限りをなくという意味です。

 この14万4千人の人々は、「永遠の福音をつかさどるために神の聖なる位に聖任される大祭司」です。
 額の名前が示すように、これら召しと選びは確かなものにされた14万4千人は神々とよべる昇栄し完成にたっしたのです。
 
 主の再臨のときには、額に小羊(イエス・キリスト)の父の名を記された14万4千人の人々が主とともにいます。

 父なる神の名前はアーマンあるいはアー・マンです。

 オーソン・プラットは、こう言いました。
 「この民が広く熟知していない啓示が1つある。
 それはまだ公表されていないと思う。
 しかし、おそらく教会歴史の中に発表されるであろう。
 それは、質疑応答の形で与えられている。
 最初の質問は『清い言語で、神の名前は何であるか』で、その答えは『アーマン』である。
 『神の御子の名前は何であるか』。
 答えは『子なるアーマン。すなわちアーマン自身を除き、神のすべてのものの中で最も偉大なる者』。
 『人間たちの名前は何であるか』。
 答えは『子らなるアーマン』である。
 『清い言語で、天使たちの名前は何であるか』。
 答えは『アングロマン』である。」
 この啓示は引き続き、こう述べています。
 「子らなるアーマンは、子なるアーマンとアーマンを除き、神のすべてのものの中で最も偉大である。
 これは天使が人より少し低い存在であることを示している。」 (Journal of Discourses 『説教集』 12:342)

  参照 天父、御子の名前


 見よ、主なる神は、天のただ中で叫ぶ天使を遣わして、このように言わせる。
 『主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ。主の来臨の時は近いからである。
 そのとき、小羊はシオンの山に立ち、額に小羊の父の名を記された十四万四千人の人々が小羊とともにいるであろう。』 (教義 133:17-18

 「主が来られる前には、……国々の中で偉大な御業が行われる。……
 10部族が現れ出て、この地に来る。
 神の僕たち、言い換えればエフライムの子らからシオンのただ中にあって栄光の冠を受けるためである。
 そして大祭司たちが12000人ずつ、この10部族のおのおのからも、また散らされた部族からも選び出され、その額に印を押されて、聖任されてすべての国民、部族、国語の民および民族の中から長子の教会の総集いに入ろうとする者をことごとく呼び集める権威を授けられるのである。」 (オーソン・プラット 『説教集』 16:325)


 14万4千人の内訳は、以下のイスラエル12部族です。

 ①ユダ族 ②ルベン族 ③ガド族 ④アシェル族 ⑤ナフタリ族 ⑥マナセ族
 ⑦シメオン族 ⑧レビ族 ⑨イサカル族 ⑩ゼブルン族 ⑪ヨセフ族 ⑫ベニヤミン族

 イスラエル12部族の「ダン族」だけが欠落しています。
 また「マナセ族」と「ヨセフ族」が併記されているのも妙です。
 「マナセ族」は、ヨセフ族の片方だから、ヨセフ族とマナセ族とが併記されるはずはないのです。
 しかも、出エジプト以降、神殿職に召されたために別格となって12部族を外れた「レビ族」が名を連ねてます。

 エジプトに売られたヨセフは、ノアの息子ハムの子カナンへ呪いとアブラハムの聖約があったために、ハムの子孫であるカナン人との結婚が禁じられていました。
 そのヨセフが結婚したのは白人のアセナトです。


 ヤコブの妻ラケルの子らはヨセフとベニヤミンとである。
 エジプトの国でヨセフにマナセとエフライムとが生れた。
 これはオンの祭司ポテペラの娘アセナテが彼に産んだ者である。 (創世 46:19-20


 古代エジプトは主に黒人系の人々の築いた文明です。
 当時の古代エジプトは、優秀な人材であれば民族を問わず受け入れていました。
 だからセムの末商でアジア系人種だったヨセフも受け入れられ、宰相の地位まで上り詰めました。
 そのヨセフの妻アセナトが生んだ息子がマナセとエフライムで、彼らはそれぞれの部族を作りました。
 こうしてヨセフ族の名は消え、マナセ族とエフライム族に別れました。
 実は、エジプトに向かったころのイスラエル12部族と、出エジプトのころのイスラエル12部族は違っていたのです。

 入エジプトでは、
 ①ユダ族 ②ルベン族 ③ガド族 ④アシェル族 ⑤ナフタリ族 ⑥ダン族
 ⑦シメオン族 ⑧レビ族 ⑨イサカル族 ⑩ゼブルン族 ⑪ヨセフ族 ⑫ベニヤミン族でした。

 それが、出エジプトでは、
 ①ユダ族 ②ルベン族 ③ガド族 ④アシェル族 ⑤ナフタリ族 ⑥ダン族
 ⑦シメオン族 ⑧イサカル族 ⑨ゼブルン族 ⑩マナセ族 ⑪エフライム族 ⑫ベニヤミン族へと変わったのです。

 ヨセフ族はマナセ族とエフライム族に増えて消滅し、レビ族も神殿従事の特別職で消えた結果、+2と-2で12部族です。
 それを考慮しても、黙示録でダン族が消えることは通常ではありえません。
 1つの可能性は、写本を作った段階で誰かが写し間違えたことが考えられます。
 つまり、エフライム族をヨセフ族、ダン族をレビ族と誤記してしまったのです。
 しかし、それには必然性がなく、説得力に欠けます。
 あるいは、マナセ族とエフライム族が統合されてヨセフ族に戻り、ダン族をマナセ族と写し間違えた可能性もあります。
 もう1つ、ダン族には別の役割が与えられている可能性であります。
 そうでもない限り、ダン族がイスラエル12部族から外れる理由はないのです。

 第6の封印の最後には、この業によって救われた人々の喜びと栄光が描写されています。
 

 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。 (黙示 7:9-10

 ここに「白い衣」を着た大群衆が記されています。
 その数は無数で、民族、種族、国境さえ超えているとあります。
 
 
 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、
 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。
 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。
 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。
 すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。 (黙示 3:5

 白い衣を着た人々と「いのちの書」に名前を書かれた人々は、聖められて、日の栄えの王国を受け継ぐ人々を指しています。


 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、
 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。
 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。
 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。
 すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。 (黙示 7:11-14
 
 「その衣を小羊の血で洗い、それを白くした」とは、キリストの贖罪を受け入れて主の戒めを守る者は、神の力によって世の罪から清められることを象徴しています。


 清くない者は、決して父の王国に入ることができない。
 したがって、信仰を持ち、罪をすべて悔い改め、最後まで忠実であることによって、わたしの血により衣を洗われた者のほかには、父の安息に入る者はいない。 (3ニフ 27:19

 「さて、わたしの同胞よ、主なる神が御自分の子供たちにこれらの戒めを与えられたときのことに、あなたがたの注意を向けたいと思う。
 あなたがたは、主なる神が、御子の位に従う聖なる位に従って祭司たちを聖任し、民にこれらの戒めを教えるようにされたことを覚えておいてほしい。
 その祭司たちは神の御子の位に従って聖任されたが、人々はその聖任の仕方から、どのようにすれば神の御子を待ち望んで贖いを得られるかを知ることができた。
 
 そして、祭司たちが聖任された方法は次のとおりである。
 すなわち、祭司たちは彼らの非常に深い信仰と善い行いのために、神の先見の明によって世の初めから召され、備えられていた。
 彼らは初めに善を選ぶのも悪を選ぶのも任されていた。
 そこで彼らは、善を選んで、非常に深い信仰を働かせたので、現在、聖なる召しを受けている。
 まことに、このような者のために前もって用意された贖いとともに備えられ、また贖いに応じて備えられた、その聖なる召しを受けている。
 このように、祭司たちは彼らの信仰のゆえにこの聖なる召しを受けたのである。
 一方、ほかの者たちは、その心がかたくなで、思いをくらませているために、神の御霊を拒んだ。もしそうでなかったならば、彼らはその同胞と同じ大きな特権を得ることができたであろう。
 要するに、彼らは初めはその同胞と同じ立場にいた。
 このように、この聖なる召しは、心をかたくなにしない人々のために世の初めから備えられており、前もって用意された神の独り子の贖罪によって、また贖罪を通して定められている。
 このように、祭司たちは人の子らに神の戒めを教えて、彼らも神の安息に入ることができるようにするため、この聖なる召しによって召され、神の聖なる位の大神権に聖任されたのである。
 この大神権は神の御子の位に従うものであり、その位は世の初めから存在していた。
 言い換えれば、それは日の初めもなく年の終わりもなく、すべての物事に対する神の先見の明によって、永遠から永遠にわたって備えられているのである。
 
 さて、彼らは次のようにして聖任された。
 すなわち、彼らは聖なる召しによって召され、聖なる儀式によって聖任されて、聖なる位の大神権を受けた。
 この召しと儀式と大神権は、初めもなく終わりもない。
 このようにして、彼らはとこしえに御子の位に従う大祭司となる。
 この御子は御父のもうけられる独り子であり、日の初めもなく年の終わりもない御方であり、恵みと公平と真理に満ちておられる御方である。まことにそのとおりである。アーメン。
 
 さて、この聖なる位、すなわち大神権について述べたように、聖任されて神の大祭司になった人は大勢いた。それは彼らの非常に深い信仰と悔い改めと、神の御前での彼らの義によるものであり、彼らは滅びることよりも、むしろ悔い改めて義を行う方を選んだのである。
 そのために、彼らはこの聖なる位に従って召され、聖められて、彼らの衣は小羊の血によって白く洗い清められた。
 そして彼らは、聖霊によって聖められ、衣を白くされ、神の御前に清く、染みのない状態になったので、罪を見て忌み嫌うのを禁じることができなかった。
 このように清められて、主なる神の安息に入った人々は大勢おり、非常に多くの数に上った。
 (アルマ 13:1-12

        Jesus-Nazareth-Palm-Mormon

 イエスがエルサレムに到着し、そこでろばと子ろばを求め、城門からエルサレムの町に入られたとき、イエスを「ガリラヤのナザレから出た預言者」と理解していた群衆は、しゅろの枝(ナツメヤシ)を切って道に敷き、ホサナを叫び続けました。


 


 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、
 「ダビデの子にホサナ。
 主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
 いと高き所に、ホサナ」。 (マタイ 21:9


 白は汚れのない色であり、純粋な神の神聖さを表現した色で、イエス・キリストにかかわる聖獣は白いです。
 イエス・キリストがこの世の終わりに地上にやって来る際は汚れのない色であり、純粋な神の神聖さを表現した色の白い馬に乗ってくると象徴され、エルサレム城に入るときはロバで、伝統的には白いロバとされています。
 馬が戦争を象徴したのに対して、ロバは平和を表しました。
 ロバに乗って市に入ることは、伝統的にその乗り手が平和をもたらすことを表していました。
 ロバに乗って戦いに勝利を収める征服者を誰が想像できるでしょうか。
 

 イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。
 それは「シオンの娘よ、恐れるな。
 見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。 (ヨハネ 12:14-15

 エルサレムに住むユダヤ人は、次のゼカリヤの預言を知っていました。


 シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。
 見よ、あなたの王はあなたの所に来る。
 彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。
 すなわち、ろばの子である子馬に乗る。 (ゼカリヤ 9:9

 新共同訳聖書では「雌ろばの子であるろばに乗って」です。 
 『クルアーン』の第19章「マルヤム」には、マルヤム(マリヤ)がナツメヤシの木の下でイーサー(イエス)を生んだという記述があります。
 また、アラブ人の伝承では大天使ジブリール(ガブリエル)が楽園でアダムに「あなたと同じ物質より創造されたこの木(ナツメヤシ)の実を食べよ」と教えたとされます。


 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。
 御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。
 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。
 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。
 また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。 (黙示 7:15-17